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2019/04/19

徒然なるピアノ・トリオ(1)

今どきは、TV番組のBGMはもちろん、蕎麦屋でもラーメン屋でも居酒屋でも、店の中でジャズが当たり前のように聞こえてくるので、日常のBGMとしてのジャズという存在は、もはや何の違和感もなくなっている。昔のように耳を澄まして真剣にジャズを聴く人はもう一握りだろう。しかし昔から、真剣に聴くべき本格的なジャズがある一方で、イージーリスニング的に聞ける肩の凝らないジャズはあったし、聴く側にもそういうニーズがあった。一言で「ジャズ」と言っても、その裾野は広く、様々な楽しみ方ができる様々な演奏が存在してきたのである。昔からのジャズファンは、本格的な有名ジャズ・レコードとは別に、そうした個人的な愛聴盤を何枚か、かならず持っていることだろう。つまり、ぼんやりとしたまま、あるいは軽い読書をしながら、あるいは軽く一杯飲みながら、聞くともなしにゆったりと流して聴けるジャズである。一般に、ジャズは抽象的で、しかも(ヴォーカルを除き)歌詞がなく、具体的イメージが浮かびにくい音楽なので、そういう聞き方に適している。思考や会話の邪魔にならず、音楽側に思考が引っ張られず、一方で空間を満たす音には、どこかポップス系とは違う、ある種の情感を刺激する要素があるので、むしろ思考や会話を促すからだ。現在、巷にジャズBGMが溢れているのは、俗に言うおシャレ度もあるだろうが、ジャズの持つこの抽象性も大きな理由だ。(しかし、昔からのコアなジャズファンにとっては、抽象的どころか、奏者の名前、顔やアルバム名、曲名までが頭に浮かんで来てしまうほど具体的記憶と結びついていることが多いので、時に逆効果でもある。)

今もそうだが、そういうジャズはピアノ・トリオが圧倒的に多い。ただしそれは、パウエル、モンク、エヴァンスといった、唯一無二の個性を持ったジャズ史に残るような独創的なピアニストの演奏ではない(エヴァンスは既にそういう聴き方もされているが)。天才や超一流ではないが、優れた演奏技術と独特の味わいを持つ名人級ピアニストの演奏であることが多い。中にはホテルのラウンジで聞くような カクテル・ピアノと侮蔑的に呼ばれたような奏者もいたし、そういう演奏もあったし、その手の線を狙って作られたレコードもあった。ところが、名人級のピアニストの場合、あえて狙ったような企画でも、当たり前だが、腕が良いので結果として素晴らしいジャズ・アルバムになってしまうこともある。もちろん、狙わずとも、演奏した曲の曲調によっては、一聴イージーリスニング的に聞こえるが、しかし優れた内容の作品もある。コンピレーション・アルバムを別にしても、この手のジャズ・レコードは数多くあるし、ピンキリの世界でもあり、また線引きも難しいが、きちんとしたプレイヤーによる良質の「ジャズ・アルバム」であることを第一条件とすれば、基本的には――1曲の演奏時間が短く(5分前後?)、個性があまり強くなく、重くなく、メロディが聴き取りやすく、スローからミディアム・テンポで、聴いていて心が落ち着く、ある種ムーディな雰囲気を持つ演奏である――ことが共通点だろう。ただし聴く側の個人的な好みも、もちろんある。もう一つは、録音が貧弱ではなく、オーディオ的にも聴いていて快感を感じるような、気持ちの良い録音であることも大事な条件だ。

Moodsville
Tommy Flanagan
1960 Prestige
そうして徒然なるままに聴けて、なおかつジャズとして良質、という主旨でピアノ・トリオのアルバムを選んだら、筆頭に来るのはやはりトミー・フラナガンTommy Flanagan (1930-2001) だろう。1960年録音の『Moodsville 9』というアルバム (トミー・ポッター-b, ロイ・ヘインズ-ds) は、タイトルが表すように、Prestigeレーベルの企画作品で、何十枚もあるレコードの9番目という意味で、ソフトでメローな演奏ばかりを奏者ごとに集めた ”Moodsville” というシリーズものの1枚だ(-villeとは、村、街、場所などを意味する接尾語)。しかし単なるイージーリスンングに堕さないところがトミー・フラナガンたる所以である。フラナガンは、本ブログ別項でも何度か紹介しているが、フレーズ(メロディ)の美しさ、都会的洗練、アクのなさ、流麗な演奏という点では断トツのピアニストであり、しかも、どんな企画やセッションでも決して手を抜かず、安直な演奏をしないところが素晴らしい。このアルバムは、スローからミディアムテンポのスタンダード曲の演奏が中心だが、とにかく全編にわたって演奏が穏やかで気品があり、メロディ・ラインが美しく、ヴァン・ゲルダー録音の音も相まって、静かに耳を傾けられ、しかも聞き飽きしない深みのあるピアノ・トリオである。フラナガンには、もちろん本格的なジャズ名盤も数多いが、こうした優れたトリオ作品が他にも何枚もある。現代的なワイドレンジ録音でフラナガンの美音が楽しめる後期のアルバムは、『Jazz Poet』(1989 Timeless)、『 Sea Changes』(1996 Alfa)などだ。

First Time Ever
Barry Harris
1998 Alfa
バリー・ハリス Barry Harris (1929 -)も、トミー・フラナガンと並んで、どのアルバムを聴いても決してハズレのない、バップ時代を知る数少ない存命のピアニストだ。手抜きをせず、駄作というものが一切なく、同時にハリスならではの、聴けば聴くほど味の出る、いぶし銀のようなしぶい味わいが最大の魅力だ。一聴地味に聞こえるその演奏には、押しつけがましさがないので、聞き流すこともできるが、じっと耳を傾けて深く味わうことできるという点で、稀有なピアニストだ。ジャズとは一つの「言語」なので、技術の巧拙以上に、演奏に奏者の人柄、人格というものが語り口としてはっきりと表れる音楽だ。お喋りで、目立ちたがる人はそういう演奏になるし、無口で控えめな人は、演奏もやはりそうなる。フラナガンやハリスは、きっと控えめで誠実な人物なのだと思う。私的愛聴盤は何と言ってもブログ別項で紹介した3枚だが、中でも『In Spain』(1991 Nuba) は、深々とした現代的録音でハリスの演奏の味わいが最高に楽しめる1枚だ。90年代後半に日本でリリースされたLive at Dug』(1997 Enja)と『First Time Ever』(1998 Alfa) も、ハリスの魅力が、いずれも現代的なレンジの広い、クリアな録音で楽しめるアルバムだ。前者は稲葉国光(b)、渡辺文雄(ds)との新宿のクラブ「Dug」でのライヴ録音、後者はジョージ・ムラーツ(b)、リロイ・ウィリアムズ(ds)という旧知のベテランとのスタジオ録音であり、ハリス66歳時のトリオ演奏だ。控えめながら、噛めば噛むほど味わいの深まるハリスの演奏は、何もかもが派手で慌ただしい現代では、たぶん聴く(弾く)ことのできない滋味あふれる貴重なジャズ・ピアノである。

When There Are Grey Skies
Red Garland
1963 Prestige
レッド・ガーランド Red Garland (1923-84) の『When There Are Grey Skies』(1963 Prestige、ウェンデル・マーシャル-b, チャーリー・パーシップ-ds)は、タイトルが象徴するように、スローでブルーな曲を中心に、ガーランドが醸し出す密やかな哀愁が非常に素晴らしいアルバムだ。ガーランドと言えば、代表的ピアノ・トリオ『Groovy』や、有名なマイルスとのセッションをはじめ、ブルースやミディアム・テンポの曲に聴ける、ころころと転がるような気持ちの良いピアノが持ち味で、本作でも何曲かはそれが聞ける。しかし<Sonny Boy>、<St.James Infirmary>、<Nobody Knows the Trouble I See> という3曲のような、哀感のある、微妙で繊細な演奏も実は非常にうまい。50年代録音には、『All Kinds of Weather』(1958 Prestige) という季節や天候を音で描いたレコードもあり、こちらも地味だがとても味わいのあるアルバムだ。もう1枚、ガーランドには『Nearness of You(1962 Jazzland)というアルバムがあって、こちらはスロー・バラードだけを集めた一種の企画ものなのだろうが、全編ガーランドの粘るような、独特の味わいのあるバラード・プレイが楽しめる。

Kiss of Spain
Duke Jordan
1989 3361*Black
デューク・ジョーダン Duke Jordan (1922-2006) も、トミー・フラナガンと同じく、メロディではなく、あえて “美旋律”と呼びたくなるような、日本人好みの美しいフレーズを紡ぎ出す名人である。チャーリー・パーカーとの共演時代から始まり、ヨーロッパ移住後のSteepleChase時代までに、数多くの優れたアルバムをリリースしているが、80年代以降は日本でも何枚か録音を残した。中でも、山中湖のペンション3361*Blackがプロデュースし、そこで録音したレコードは私の愛聴盤だ。『Kiss of Spain』(1989) はその1枚で、富樫雅彦のドラムス、井野信義のベースという異例の組み合わせによるピアノ・トリオである。あの富樫が入っているので、聞き流すという類の演奏ではないが、しかしスタンダード曲中心のジョーダンのピアノ自体は、相変わらずの優しさと叙情に満ちた聴きやすいものなので、富樫雅彦の繰り出す繊細なリズムも同時に楽しみながら、ゆったりと浸ることのできる素晴らしいピアノ・トリオであることに違いはない。馴染みのある<As Time Goes By>、<All the Things You are>、<When You Wish Upon a Star>などのバラード曲もカバーしており、アコースティック感あふれる気持ちの良い録音も、3361シリーズの魅力の一つである。ただし、低音域をきちんと再生できる良いオーディオ装置の方が、より深くこの演奏の味わいを楽しめると思う。

2019/02/17

モンク作 "パノニカ Pannonica" を聴く

今日でブログを始めてちょうど2年経った。内容はともかく、よく続いたものだ。ちなみに、本日217日はセロニアス・モンク(1982年没)の命日である。

ニカとモンク
photo by Moneta Sleet Jr.
(1960s)
ジャズ本の翻訳中は、その本の主人公に関連するレコードを聴きながら作業している。そうすると主人公の人物像、物語や思想のイメージが “降りて来る” 気がして、文章の背景や意味がより正確に理解できるように思えるからだ。『リー・コニッツ』のときは、コニッツ、レニー・トリスターノ、ウォーン・マーシュなどトリスターノ派の音楽を中心に聴き、『セロニアス・モンク』のときは当然モンクのレコードをずっと聴いていた。今回出版した『パノニカ』の翻訳中は、主人公がジャズ・ミュージシャンではなく、しかも前半のロスチャイルド家に関する部分は、イギリスを中心としたヨーロッパの富豪の物語なので、ジャズではなく、どうしてもクラシック音楽が聴きたくなり、珍しくずっとクラシックを聴いていた。だが後半のニューヨーク時代は、主にジャズ・ミュージシャンたちからニカ夫人に捧げられたジャズ曲を選んで聴いていた。本書巻末には彼女に捧げられた20曲のリスト(実際は計24曲と言われている)が掲載されており、モンクの他にも、ソニー・ロリンズ、ホレス・シルヴァー、ソニー・クラーク、ケニー・ドリュー、ダグ・ワトキンス、トミー・フラナガン、バリー・ハリスなど、多くの有名ミュージシャンの名前とニカ夫人にちなんだ曲名が挙げられている。それぞれがニカ夫人のイメージを自分なりに捉え、それを音楽にしているので、比較しながら聴くと非常に興味深いが、同時に彼女がいかに多くのジャズ・ミュージシャンたちから愛されていたのかが想像できる。

Les Liaisons Dangereuses 1960
1959/2017 (Sam Records)
とは言え、訳書『パノニカ』に書かれたニカ夫人の人物としてのイメージを、もっとも生きいきと捉えた曲は、やはり彼女に捧げられた初めての曲であり、モンク自身が作った<パノニカ Pannonica>だろう。モンクの才能と、二人の関係の密度が桁違いなので、これは仕方がない。どことなくアンニュイな響きを持つこの曲のメロディと独特のリズムは、“蝶” のように軽やかに、あでやかにあてどなく飛んで行くニカ夫人のイメージそのものだ。風景や人物のイメージを、音の世界で常に見事に描き出すモンクはやはり天才だ。モンクは傑作アルバム『Brilliant Corners』(1957)で<パノニカ>を初演しているが、ソニー・ロリンズのテナー、アーニー・ヘンリーのアルトを加えたクインテットで、モンクはここではピアノとチェレスタを弾いていて、凝った演奏に仕上げている。その後,Les Liaisons Dangereuses 1960 (仏映画危険な関係』サウンドトラック)』(1959録音/2017リリース),『Alone in San Francisco』(1959),『Criss Cross』(1963),『Monk In Tokyo』(1963),『Monk』(1964) と、都合6枚のアルバムでこの曲を取り上げている。例によってi-Tunesでこれを連続再生すると、モンクがこの曲を毎回どう料理しているのか、その違いが聴けて非常に楽しい。演奏はいずれもチャーリー・ラウズのサックス入りのカルテットだが、『Alone……』は、『危険な関係』サウンドトラック音源が2017年に「発掘」されるまで、モンクによるこの曲の唯一のソロ演奏だった。本ブログ別項 (2017/4/14 & 10/23) で詳細を書いた、サウンドトラックとして使用された演奏(2CD)では、カルテットとソロで<パノニカ>を計4テイク録音しているが (カルテットは、チャーリー・ラウズ-ts、サム・ジョーンズ-b、アート・テイラー-ds)、この発掘音源は録音も奇跡的に良く、またどの演奏も楽しめる。昨年見た4K版映画『危険な関係』では、<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>と共に、メイン・テーマとしてずっと流れるモンクの弾く<パノニカ>は、これ以上ない、というほど映画のストーリーと映像にぴたりとはまっていた。この曲をサウンドトラックとして使ったマルセル・ロマーノと、監督ロジェ・ヴァディムのセンスはさすがと言うべきだろう。

Thelonica
Tommy Flanagan
1983 Enja
モンク以外のミュージシャンはどうかと手持ちのCD、レコードを始め、ネット上でも調べてみたが、<ラウンド・ミッドナイト>ほどではないにしても、モンク作品の中では、非常に多くのジャズ・ミュージシャンが取り上げているスタンダード曲になっていることがわかる。モンク音楽の最高の理解者であり、愛弟子とも言えるスティーヴ・レイシー(Steve Lacy 1934-2004)による60年代以降の複数の演奏は当然としても、その他にも、実に多彩なミュージシャンが録音している。私の手持ちレコードでは、やはりトミー・フラナガンのピアノ・トリオ『Thelonica』(1983) に収録された演奏が素晴らしい (ジョージ・ムラーツ-b、アート・テイラー-ds) 。アルバム中唯一のフラナガン自作曲であり、アルバム・タイトルでもある "Thelonica" が表すように、このレコードは、モンクが亡くなった1982年の秋に、トミー・フラナガンがモンク作品だけを演奏して、モンクとニカ夫人の二人に捧げたものである。訳書『パノニカ』には、ニカ夫人がイギリスに住む著者ハナ・ロスチャイルドにアメリカからこのレコードを送った話が出て来る(ニカ夫人の実兄、ヴィクター・ロスチャイルド男爵に聞かせるため)。ごつごつとしたモンク独特の音楽から美しい部分だけを抽出したかのように、<パノニカ>始めどの曲も、まさに流麗なピアノ・トリオに変容させているが、これはこれで実にフラナガンらしいモンク解釈だ。このアルバムは、バド・パウエルの『Portrait of Thelonious』(1961)と並び、同時代のピアニストが心をこめて送った、ニカ夫人とモンクへのもっとも美しいオマージュである。

Now He Sings, Now He Sobs
Chick Corea
1968/CD 2002 Blue Note
 
意外だったのは、チック・コリア(Chick Corea) が<パノニカ>を2回取り上げていることだ。若きコリア2枚目のリーダー作で、ミロスラフ・ヴィトゥス(b)、ロイ・ヘインズ(ds) とのピアノ・トリオによる、今でも斬新なアルバム『Now He Sings, Now He Sobs』(1968LP/2002CD) CD版に追加曲として収録されていている(オリジナルLPは未収録)。もう1枚は『Expressions』(1994) で、こちらはソロ・ピアノである。コリアとモンクの接点はまったく不明だが、上記トリオ作品と同じメンバーによる『Trio Music』(1982)でも、モンク作品をCD1枚分、計7曲演奏しているので、ピアニストとして、モンクに対する何がしかの思いがコリアにはずっとあったのだろう。これらのアルバムでは、独特のモダンなコリア的モンク解釈の世界を聴くことができる。その他のピアニストでは、山中千尋、ホレス・パーラン、シダー・ウォルトン、エリック・リード、菊地雅章といった人たちが<パノニカ>を演奏しているが、特にエリック・リード(Eric Reed) は、2000年代に入ってからモンクをテーマにしたアルバムを3枚リリースしている。<パノニカ>は、ピアノ・トリオによるそのうちの1枚『Dancing Monk』(2011) に収録されているが、山中千尋の『Monk Studies』(2017)と同じく、速いテンポによるユニークで現代的な演奏だ

Carmen Sings Monk
1988 Novus
ピアノ以外では、スティーヴ・レイシーの他にも内外のホーン奏者による演奏も数多い。珍しいのはギターで、比較的最近になってピーター・バーンスタイン(Peter Bernstein) が『Monk』(2008),Signs Live!(2017) という2枚のアルバムで<パノニカ>を取り上げている。前者はギター・トリオによるモンク作品、後者はブラッド・メルドー(p)も参加したカルテットによるライヴ演奏だ。ヴォーカルで唯一と思われるのは、晩年のカーメン・マクレエ (Carmen McRae) のグラミー賞受賞アルバム『Carmen Sings Monk』(1988)だ。チャーリー・ラウズ(一部)とクリフォード・ジョーダンがサックスで参加し、80年代らしいモダンな伴奏をバックに、全曲(alt.を除き14曲)モンクの名曲を唄ったこのアルバムは、カーメン・マクレエにしか表現できない、圧倒的な歌唱によるモンクの世界だ。収録曲の半数に歌詞を書いたジョン・ヘンドリックスが<パノニカ>にも歌詞を付け、<リトル・バタフライ Little Butterfly>というタイトルで唄っている。美しいが、複雑なモンクのメロディに付けられた歌詞を、明快で知的な表現で、余裕でこなすカーメンはやはり本当にすごい歌手である。録音も非常にクリアで、カーメンの正確な歌唱によってモンク作品のメロディがよく聞き取れるので、モンク・ファンだけでなく、普通のジャズ・ヴォーカルとして誰でも楽しめるアルバムだ。モンクは自分の曲に良い歌詞を付けたいという希望をずっと持っていたようなので、生きているときに、旧友ジョン・ヘンドリックスの歌詞、カーメンの歌によるこの素晴らしいヴォーカル・アルバムを聴いたら、きっと大いに気に入ったのではないだろうか。(このアルバムは1988年1,2月に録音され、同年にリリースされているので、その年の11月30日に急死したニカ夫人が聴いた可能性はあるかもしれない。)

2018/02/22

The Jazz Guitar : ウェス・モンゴメリー

ギターは楽器として手軽なこともあって、今では世界中どこでも誰でも弾くようになった大衆的楽器だ。日本でも演歌から始まり、フォーク、ロック、ジャズどんな音楽でも演奏でき、伴奏もできる。しかし、その手軽で、柔軟で、融通性の良いところが、逆に「奏者としての個性」を出すのが意外に難しい楽器にしている。アコースティック・ギターはまだその個性が出しやすいのだが、モダン・ジャズの場合は何せ音量を上げるために電気を通して音を増幅するという、他のジャズ楽器にはなかったひと手間がかかり、しかも当時は、出て来るサウンドを現代のように様々に加工できなかった。だから少なくとも1950年代後半までのモダン・ジャズ黄金期には、ホーン奏者のように、一音聴いただけで奏者の個性を感じ取れるようなギタリストは、そうはいなかったのである。

The Incredible Jazz Guitar
1960 Riverside
その中で、まさに “The Jazz Guitar"と言えるほどの個性を感じさせるのは、私にはウェス・モンゴメリー Wes Montgomery (1923-68) をおいて他にない。もちろん他のギタリストのレコードも散々聴いてきたが、未だにウェスほど「これぞジャズ」という魅力と香りを感じさせてくれるプレイヤーはいないのである。ただし私的には、ポップ路線に向かう前(つまり大衆的人気の出る前)、1965年頃までのウェスだ。1960年に、トミー・フラナガン(p)、パーシー・ヒース(b)、アルバート・ヒース(ds)というカルテットで吹き込んだリバーサイド2枚目のアルバム『The Incredible Jazz Guitar』(Riverside)のヒット以降、1968年に45歳で急死するまでの、わずか10年足らずの、日の当たった短い活動期間の前半部ということになる。ジャズ・ギターには、ヨーロッパではジャンゴ・ラインハルト、アメリカではチャーリー・クリスチャンというパイオニアがいたし、ビバップ以降のモダン・ジャズ時代になって白人ではタル・ファーロウ、バーニー・ケッセル、ジム・ホールら、黒人は少ないながらケニー・バレルのような優れたギタリストも現れたが、ウェス自身のアイドルだったクリスチャン以降、ソロ楽器の一つとしてのギターの存在を有無を言わせず確立したのは何と言ってもやはりウェス・モンゴメリーである。演奏イディオムそのものに革新的なものはなく伝統的ジャズの延長線にあったが、何よりその創造的演奏技法とジャズ界に与えた影響の大きさにおいて、サックスにおけるチャーリー・パーカー、ピアノのバド・パウエルに比肩する存在であり、ウェス以降のジャズ・ギター奏者はすべて彼の影響下にいると言っても過言ではない。ウェスのギターこそ、ジャズ・ギターの本流であり、それと同時に、60年代後期のA&Mでの諸作を通じて、70年代のフュージョン・ギターへと続く流れを作った源流でもあった。

Echoes of Indiana Avenue
1957-58
2012 Resonance Records
親指によるフィンガー・ピッキングと、オクターヴ奏法、ブロック・コード奏法を組み合わせた圧倒的なドライヴ感を持った独創的プレイによって、ウェス以降ジャズにおけるギターは、アンサンブルの中でフロント・ラインとしてソロも弾ける独立した楽器として初めて認知されたと言える。その影響はジャズ・ギターに留まらず、今日に至るまでのギター音楽に途方もなく深い影響を与え続けている。ウェスは独学で、譜面を読めず耳で覚えたという話は有名だが、もしこれが事実だとすれば、これこそウェスの演奏が持つ独創性とジャズの精神を象徴するものであり、その演奏がいつまでも新鮮さを失わない理由でもあるだろう。つまり、本来ギター同様にコード楽器でもあり、個性を出すのが難しい楽器だったピアノで独創的サウンドを開発したセロニアス・モンクと同じく、ギターというコード楽器を用いながらコードによる呪縛から逃れ、テクニックとイマジネーションを駆使して常に ”メロディ” を軸にした即興演奏に挑戦したところにウェスの音楽の本質と魅力があるからだ。ピアノやオルガンと共演してもサウンド同士が喧嘩することなく常に調和し、ソロも単音のホーン・ソロのようにまったく違和感なく共存できるのも、ウェスの演奏がフィンガーだけでなく、コード奏法を使っていても常にメロディを指向しているからだ。一言で言えば、ギターが単音とコードの双方で常に "唄っている" のである。ウェスのバラード・プレイの素晴らしさも、後のフュージョン・ギターへの流れを作ったのもそれが理由だ。そして何物にも縛られないかのように強力にドライブし、飛翔するウェスの太く温かい音とメロディからは、出て来るサウンドは異なるが、モンクの音楽に通じるジャズ的「自由」を強く感じる。また若い時期1940年代終わりのライオネル・ハンプトン楽団時代を除き、ニューヨークではなくインディアナポリスという閉じられた環境を中心に活動していたことが、この独自のサウンド開発に貢献していたことは間違いないだろう。キャノンボール・アダレイによって発掘され、リバーサイドでデビューする前のこの時代(1957-58年)のウェスを記録したレコード『Echoes of Indiana Avenue(Resonance Records) 2012年にリリースされたが、モンゴメリー兄弟やメル・ラインなど、地元プレイヤーたちと地元クラブで共演する当時のウェスの素顔が捉えられた、貴重な素晴らしい記録である。だがこの制約のために、50年代半ばのハードバップ全盛期にはニューヨークのスター・プレイヤーたちと共演する機会がなく、60年代になってから初めて脚光を浴びた ”遅れてやって来たスター”という経歴もモンクと共通している点だ。したがってこの天才ジャズ・ギタリストの演奏を記録したメジャー・レーベル録音は、1968年に亡くなるまで、上記スタジオ録音によるリバーサイドの諸作以降、ヴァーヴ、A&Mのリーダー・アルバムだけだ。 

Full House
1962 Riverside
今聴いても、とても半世紀以上前の演奏とは思えないような60年代前半のウェスのレコードはどれも名盤と言っても過言ではないが、誰もが名盤と認め、また個人的にも好きなレコードは、上記『The Incredible Jazz Guitar』以外だと、やはりライヴ演奏のダイナミックさを捉えた『Full House』(1962 Riverside)、『Smokin' At the Half Note Vol.1&2』(1965 Verve)いう2作だが、私の場合はもう1作1965年のパリ「シャンゼリゼ劇場」の白熱のコンサート・ライヴがそれに加わる。『Full House』は、ウィントン・ケリー(p)、ポール・チェンバース(b)、ジミー・コブ(ds)という、当時のマイルス・バンドのリズムセクションに加え、ジョニー・グリフィン(ts)が入ったクインテットによる演奏で、サンフランシスコのクラブ(Tsubo club)におけるライヴ録音だ。これはもう、最高のクラブ録音の1枚としか言えないだろう。リズムセクションの素晴らしさ、ジョニー・グリフィンのテナーを従えたウェスの躍動感も文句のつけようがない。

In Paris
1965
2017 Resonance Records
かなりの録音を残したリバーサイドが倒産した後、1964にウェスはヴァーヴに移籍するが、その後19653月のイタリアに始まる生涯でただ一度のヨーロッパ・ツアー時に、パリ「シャンゼリゼ劇場」でのカルテット/クインテットの演奏をフランス放送協会(ORTF)がライヴ録音した。この音源は1970年代になって日本でも『Solitude』(BYG)という2枚組LPでリリースされ、CD時代にいくつかのバージョンもリリースされてきた。ただし、これらはすべて著作権料の支払いのない海賊盤だった
のだという。昨年発売されたResonance RecordsによるIn Paris』(CD/LP) はそこをクリアし、オリジナルテープをリミックスしたもので、モノラル録音だが、それまでのレコードにあったハロルド・メイバーン(p)とリズムセクション(アーサー・ハーパー-b、ジミー・ラブレース-ds)が引っ込んでいた全体のバランスが改善し、メイバーンのあのダイナミックな高速ピアノも大分よく聞こえるようになった。音も全体にクリアで厚みが出て、聴感上のダイナミックレンジが改善されているので、ライヴ当日の、このグループのダイナミックで圧倒的な演奏の素晴らしさがさらに増している。自作の<Four on Six>、コルトレーンの<Impressions>などの得意曲では、まさにめくるめくようなドライブ感で飛翔するウェス最高の演奏が、さらに良い音で楽しめるのは実に嬉しい。昔から思っていることだが、パリに来たアメリカのジャズメンはみな本当に良い演奏を残すのだ。1950年代から、人種差別なくジャズを芸術として受け入れてくれたこの街と聴衆に、彼らはミュージシャンとしておそらく深い部分でインスパイアされるものがきっとあったのだと思う。アメリカではこの頃はフリーやロック指向が強まっていて、ウェス自身も当時はVerveA&Mと続く大衆路線に向かっていた時期だったが、パリの聴衆を前にして、ここでは圧倒的な "ジャズ" を本気で、また実にリラックスして披露している。当時パリ在住だった旧友ジョニー・グリフィン(ts) の<'Round Midnight>などの一部(3曲/10曲)参加も、ジャズ指向とリラックス・ムードの増加に一役買っていただろう。この躍動感溢れるコンサートを捉えた録音は、ジャズ史上屈指のライヴ録音の一つであり、私的にはウェス・モンゴメリーのベスト・アルバムだ。

Smokin' At The Half Note
1965 Verve
続く『Smokin’ At The Half Note』(LP Vol.1&2)は、上記パリ公演から3ヶ月後の1965年の6月から11月にかけての録音で、ウィントン・ケリー(p)、ポール・チェンバース(b)、ジミー・コブ(ds)というピアノ・トリオにウェスが加わった演奏を集めたものだ。当時彼らはレギュラー・カルテットとして演奏を重ねていたようだが、これはその当時にニューヨークのクラブ「Half Note」で録音されたライヴ演奏を中心にしたものだ。現CDはLPのVol 1&2から11曲が1枚に収録されたステレオで、音も非常にクリアな良い録音だ。ウェスと相性の良いウィントン・ケリー・トリオの弾むようなリズムをバックにしたウェスの演奏の素晴らしさはもちろんだが、ラジオ放送用のMCも入って実にリラックスして楽しめるクラブ・ライヴで、上記パリ公演と共にウェスのライヴ録音の傑作だ。

Guitar On The Go
1963 Riverside
もう1枚、個人的に好きなレコードは『Guitar On The Go』(1963 Riverside)である。ジャズファンには誰しも思い入れのあるレコードがあるものだが、これは私にとってはそういうレコードだ。なぜなら、1960年代後半の高校時代に生まれて初めて買ったジャズ・レコードだからだ。田舎のレコード店で、ジャズはたいした枚数も置いていなかったが、当時LPは高価で高校生には大金だったので、最終的にコルトレーンの『Ballads』と、どちらにするか迷った末に買ったのがウェスのこのレコードだった。今思えば、そのときは録音後既に5年ほど経っているわけで、前年1967年はコルトレーン、この年はウェスが亡くなっていたのだ。だからリアルタイムとは言えないが、この演奏を初めて聴いたときの衝撃は今でも忘れられない。1曲目の<The Way You Look Tonight>で、ウェスのギターがスピーカーから流れ出した途端、世の中にこんなにモダンでカッコいい音楽が存在しているのか、というくらい感激し、これで私はジャズ(とギター)に嵌ったわけである。このレコードはウェスにメル・ライン(org)、ジミー・コブ(ds)という旧知の相手と組んだシンプルなギター・トリオだが、今聴いても、軽く流れるようなウェスのモダンなギターと、メル・ラインのハモンド・オルガンが実にリラックスした気持ちの良いジャズを聞かせてくれる。それにこのアルバム・ジャケットもジャズっぽくて良かった。コルトレーンではなくウェスにしたのも実はこのジャケットのせいだ。

この時代のリバーサイドのLPレコードは録音にはバラつきがあるが、ジャケットはモンクに加え、ビル・エヴァンス、キャノンボール・アダレイ、このウェス・モンゴメリーなど、どのレコードをとってもデザインが素晴らしく、ブルーノートと並んでジャズ・レコード史を代表するジャケットだが、リバーサイドは特に知的センスに溢れたデザインに特徴がある。モンク伝記の中では、プロデューサーのオリン・キープニューズはあまり良い人に書かれていなくて、イメージが変わってしまったが、デザイナーとしてポール・ベーコン他を起用するなど、やはり当時のジャズ・プロデューサーとしては優れたアート感覚を持った人だったのだろう。モンクの場合、二人の相性の問題もあったし、キープニューズが上記のような同時代の新進スター・プレイヤーたちのプロデュースに忙しかったために、割りを食ったと言えるのかもしれない。

2017/04/25

誇り高きジャズピアノ職人:トミー・フラナガン

星の数ほどいるジャズ・ピアニストの中でも、デューク・ジョーダンと並んでイントロの見事さとメロディ・ラインの美しさで挙げられる双璧の一人がトミー・フラナガン Tommy Flanagan (1930-2001)だ。ジョーダンには素朴で温かくシンプルな美が、フラナガンの演奏には都会的で洗練された華麗な美が感じられる。二人とも、その辺のピアニストでは逆立ちしても弾けない、美しくて分かりやすいメロディと音を次から次へ紡ぎ出す。

Overseas
1957 Mtronome
特にフラナガンのピアノ・タッチの美しさからは、強い美意識を持つがこれ見よがしにしゃしゃり出ることはなく、しかし決して手を抜かず、いつでも最善を尽くし、最良の仕事をしようとする日本の誇り高い職人気質と相通じるものを強く感じる。端正なその演奏には、ある意味「日本的」気品すら漂っているかのようだ。しかもあれだけ数多くのセッションに参加しながら常に新鮮な聞かせどころがあり、その手のピアニストにままある「どれを聴いても一緒」というマンネリの印象が全くないところがすごい。リズムは勿論、いかに音とフレーズの引き出しが多いか、そしてその使い方にいかに優れたジャズ・センスと高い技術を持っているか、ということだろう。だからフラナガンのリーダー作にハズレはない。どのアルバムも80点以上で、文句のつけようがない。またサイドマンとしてジャズで言う “versatileなプレイヤーという呼称はまさしく彼のためにある。いかなる相手であろうと破綻なく合わせ、サイドで参加したどの演奏でも(アップテンポでもスローでも)、思わず膝を叩きたくなるようなリズムと旋律でピアノを唄わせる部分が必ず出てきて、ジャズの醍醐味を味あわせてくれる。特に惚れぼれするような上品で洗練されたメロディ・ラインはフラナガンの真骨頂だ。

Confirmation
1977 Enja
1950年代にあまたのジャズ名盤に名を連ね、名脇役として知られている一方、自己のリーダー作はウィルバー・ウェア(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)とのピアノ・トリオ「オーバーシーズOverseas」(1957 Metronome)が最初で、それ以降60年代からはジャズ・ビジネス環境の変化もあり、70年代前半にはエラ・フィッツジェラルドの歌伴を中心とした時期を送るなど10年間ほどは寡作だった。しかし77年に再びエルヴィン・ジョーンズ (ds) を迎えてドイツEnjaレーベルに吹き込んだ、「Overseas」の再演とも言える「エクリプソEclypso」で主役としての登場機会が一気に増加し、その後2001年に亡くなるまでコンスタントに上質なリーダー作をリリースし続けた。特に再び脚光を浴びた70年代後半はバップ復興の流れと、フラナガンもまだ40代で経験、気力、体力ともに充実していたためだろう、全盛期とも言える演奏が目白押しで、Enjaレーベルでの諸作の他、「Montreux ’77 ライヴ」(Pablo)での名演など、どのアルバムも非常に質が高い。

Jazz Poet
1989 Timeless
「コンファメーション Confirmation(1977 Enja) はジョージ・ムラーツ (b)、エルヴィン・ジョーンズ (ds) という上記「Eclypso」と同じメンバーによる演奏で、別take 2曲と、同日録音の他2曲、それに翌78年録音の2曲で編集した言わば「裏Eclypso」である。したがってタイトル曲〈Confirmation (take)〉 などエルヴィンの煽る躍動感溢れる演奏も勿論楽しめるが、全体に歯切れのよい動的な「Eclypso」に比べ、フラナガンのバラード・プレイが美しい 〈Maybe September〉、〈It Never Entered My Mind〉 などの印象から、静的なイメージの強いアルバムだ。ジョージ・ムラーツの深々としたよく唄うベースも聴きどころで、フラナガンの70年代を代表する作品の一つとして誰もが楽しめる優れたピアノ・トリオだ。また80年代以降も何枚もの秀作をリリースしているが、中でも「ジャズ・ポエト Jazz Poet」(1989 Timeless)では、ジョージ・ムラーツ(b)、ケニー・ワシントン(ds)と、タイトル通りフラナガンの美的センスが生かされた素晴らしい演奏が聴ける。特に 〈Lament〉  〈Glad to be Unhappy〉のようなバラード演奏はイントロからして溜息が出るほど美しく、さらにルディ・ヴァン・ゲルダーによる録音がフラナガンの美しいピアノの音色を見事にとらえている。

2017/02/26

モンク考 (4) 米国黒人史他について

著者ロビン・D・Gケリー氏はニューヨーク・ハーレム生まれで、現在カリフォルニア大学教授を務める歴史学者である。米国黒人史を専門とし、これまでに同分野の多くの著書も発表していて、2冊の邦訳版もある。(自ら楽器も演奏し、またジャズを中心としたブラック・ミュージックについての造詣も深く、関連誌に多くの論稿も寄稿している。)著者はモンクの物語を貫く縦糸として、米国黒人史を織り込むことを最初から意図して本書を執筆しており、その点があくまで音楽を主体とした従来のジャズマン個人史や評伝との違いだろう。ノースカロライナ州における19世紀奴隷制時代の米国の状況と、そこで生きたモンクの曽祖父から物語を始め、セロニアス・モンクという姓名の由来、少年時代からの逸話、伝聞、発言等を整理し、そこにモンクの演奏記録、また当時の様々なレビュー等を引用した上で、それぞれの情報を徹底的に検証している。そしてその作業から得られた「事実」として確度の高い情報を、いわばジグソーパズルのように時系列に沿って丹念に配置してゆくことによってモンクの実像に迫ろうとしている。

したがって、物語の途上では米国黒人史で起きた悲惨な事件や政治的事例が数多く挿入されている。モンク自身は、共感するところはあったにしても政治活動には直接関与しなかった純粋な音楽家だったことが本書からわかるが、日本人が知らない、あるいはよく理解していない、そうした歴史的背景とジャズという音楽は不可分なのだという思想はもちろん理解できる。実際モンクを始め、多くのジャズ・ミュージシャンが警察の暴力の被害に会っており、そして近年のアメリカにおける、一世紀前と変わらぬ警察による黒人への暴力事件の報道を見聞きすると、残念ながら本書に書かれているエピソードが一層リアリティを増して感じられることも確かだ。数多いそれらの事例と、長期にわたって収集された膨大な資料に拠る克明な記述とが相まって、結果的に原著は長大な本となった。

しかし著者は、敢えてそうした手法を取り入れることで、これまでのジャズ評論やジャズ個人史の問題でもあった主観とイメージ(想像、時に妄想)、間接情報中心の記述をできるだけ排し、より客観的な視点で事実を積み上げることによってリアルなモンク像を描くことに挑戦している。「リー・コニッツ」の著者アンディ・.ハミルトンの場合は、存命の人物への直接インタビューによって、コニッツの演奏思想、哲学とジャズ即興演奏の本質を明らかにしようというアプローチだったが、両著者ともに曖昧な間接情報と脚色を排し、事実に重きを置くという点でまったく同じ姿勢だと言える(二人とも大学教授という共通の職業柄もある)。その点が、ジャズ・ミュージシャンの伝記として本書がアメリカで数々の賞を受賞し高く評価された理由の一つだろう。結果として非常に長い本となったが、細部の事実を含めてこれまで日本では知られていない情報も多く、何よりもジャズ好きであれば、1930年代以降のアメリカとモダン・ジャズ史を新たな視点で俯瞰するノンフィクション読み物としても非常に面白く読める。 

記録映画
<Straight No Chaser>
1988
おそらくモンク・ファンの多くは既に見ておられると思うが、本書中に出て来るドイツのブラックウッド兄弟が1967年に撮影したドキュメンタリー・フィルムを中心にして、1988年に再編集された傑作記録映画がある。それが「ストレート・ノー・チェイサー」(クリント・イーストウッド総指揮、シャーロット・ズワーリン監督――この人も女性である)で、あの 動くモンク“――ピアノを弾き(あるいはピアノにアタックし)、踊り、くるくるつま先立ちで回り、煙草を吸い(時にピアノや床を灰皿代わりにしながら)、話し、道を歩くモンクの姿が捉えられている。ネリー夫人も、ニカ男爵夫人も、息子トゥートも、マネージャーのハリー・コロンビーも、チャーリー・ラウズも、テオ・マセロも、その他本書に登場する多くの人たちの映像と肉声の記録もそこに残されている。そして1960年代後半のニューヨーク、アムステルダム・アベニューも、ヨーロッパ・ツアー中のモンク一行も、モンクが晩年のほとんどを過ごしたウィーホーケンのニカ邸内部のモンクの部屋とピアノ、そこから見えるハドソン川とマンハッタンの遠景、おまけに ”キャットハウス” ニカ邸の住人だった多数の猫たちも登場する。モンクが晩年を過ごし、最後を迎えたニカ邸で当時暮らしていたバリー・ハリスが、トミー・フラナガンとピアノ・デュオでモンクの曲を弾くシーンもある。そして最後に、正装で棺に納められたモンクの葬儀の模様も挿入されている。ジャズ・ファンにとっては幸福なことに、今やインターネット動画でさらに多くの動くモンクの映像記録も見ることができる。この本を読み、モンクのレコードや音源をあらためて聴き、さらにこれらの映像を見ることで、モダン・ジャズの歴史と、セロニアス・モンクという唯一無二の天才ジャズ音楽家を再発見する楽しみを、多くの人にぜひ味わっていただきたいと思う。