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2017/04/02

英語を「読む」(2)

ところで、英語を読んで「理解」するのと、それを日本語に変換する「翻訳」という作業では脳の使い方がまるで違う。読んで理解するのに、いちいち頭の中で翻訳していたのでは効率が悪い。英文のまま、英語の論理のまま、頭の中で意味を理解するのが一番良い。一方、翻訳という作業は、英語と日本語の言語構造の違いを絶えず強く意識しながら進めなければならない。それと同時に日本語の複雑さ、難しさをあらためて知る作業でもある。しかし英語で読んだものは、その場では理解したように思っても、後で細部が記憶に残っていないことが多い。日本語に翻訳して、日本語で読んで理解したものは、簡単には忘れないのである。歳のせいかと思っていたが、そればかりでなく、これも民族伝来の脳の情報処理機能とメモリーの特性にあるのだろう。ただし、これも脳の訓練次第かとも思う。

英語はドイツ語やラテン語など、多言語を起源にしている「含意」が非常に広く多彩な言語だ。辞書を見れば、同じ単語や語句が実に様々な意味を持っていることがわかる。中にはこんな意味もあったのか、とびっくりするような単語や言い回しもある。したがって、英語のある単語や語句を日本語に変換する際には、まずそうした様々な意味の中から、文全体の主旨から見ていちばん適切だと判断される意味を選択し、次にそれをその「文脈」にいちばん適した日本語に変換しなければならない。ところが、他民族国家ではなく、同種の人間が集まってできた日本という国の起源から、日本語は名詞の持つ「含意」が相対的に小さい言語で(誰が見ても同じものは、一つの単語で通じ合ってきたので)、ある物を表現する語彙数はさほど多くない。また動詞も、主語や目的語に応じて同じ動詞を自在に使い分けるため、目的によって多彩な動詞を使う英語に対応した語句選択が難しい(どれも同じような、単調な日本語訳になってしまう傾向がある)。したがって、そこを補うために修飾する形容詞や副詞がどうしても増えがちだ。他方、たぶん狭い共同体の仲間内の摩擦や争いを避け、円滑なコミュニケーションを優先するために、直接的表現をできるだけ使わないようにしてきた歴史があるからだと思うが、日本語は漢字と仮名という独特の表記に加えて、文の構造と言い回しも複雑になった。洗練されたという言い方もあれば、曖昧で回りくどいとも言える。また敬語や、1、2人称(I=私、俺、僕、YOU=あなた、お前、あんた)など立場や相手によって呼び方を変えるのもそうだ。結果的に、英語の文章を同じ意味の日本語に普通に翻訳すると、経験上、英語の分量よりも1.5倍から2倍くらいの長さの文章になる。これを原意を損ねずに、できる限り簡潔な表現にして、かつ日本語としてきちんと意味が通るようにするための言語上の工夫が必要になる。だから英日翻訳の技術の大半は、結局のところ日本語の表現能力にあるのだ

それに対し、英語は論理的な構造を持つ言語なので、一般的に言って、文全体は比較的シンプルな構造でできていて、とんでもない意味に受け取られるような複雑な構文はあまりない(文芸作品は別である)。つまり,日本語と比べて曖昧さがなく、直接的で明快な表現がしやすい。英日変換による翻訳と逆で、たとえば同じ内容のことを、文書やメールで日本語で書くのと、英語で書くのとでは、英語の方がずっと少ない語数で表現できる。(もちろん、そもそも使える語彙が少ないこともあるし、その人の英語力にもよるのだが、英語は比較的簡単な単語の組み合わせでも、十分意味や意図が通じるのだ)。また英語でプレゼンテーション資料を作るのと、日本語で作るのとでは、経験的に英語の方がずっと労力が少なくてすむ。いずれの場合も、余計な言葉の修飾や言い回しをあまり気にせずに(敬語や気遣いも含めて)、少ない語数で論理的に積み上げてシンプルに表現することができるからで、特に相互の意志疎通が第一に優先されるビジネスの場では、英語の持つ明快さと論理性が非常に有効だ。

外来文化を貪欲に取り入れて来た日本は、他国に比べ歴史的に海外文献や情報の翻訳というものの価値が高く評価されてきた国らしい。一方で、日本語の特殊性が目に見えない壁となって、ある意味で日本文化や日本経済を外部の圧力から守ってきたのも事実である。確かにそういう歴史を考えると、翻訳は一つの文化であったとも言えるし、その言語上の技術は価値あるものだったと言えるだろう。今やインターネットによって、百科事典以上の情報や外国語辞書は簡単に見ることができるし、昔は困難だった難しい語句や、珍しい固有名詞の意味も今はあっという間に確認できる。だがスピードが求められる現代にあっては、特にビジネスの場では会話でも文書でも悠長に翻訳しているヒマなどない。また英語がデフォルト(国際標準)言語になってしまった以上、昔ならいざ知らず、相手の方が日本語を勉強したらどうだ、とももはや言えない(言いたいが)。しかし、まだまだひどい翻訳も多いが、現在のAIの進歩から予測すると、既に行なわれている定型文の自動翻訳をはじめとして、近い将来ほとんどの文章の英日翻訳は、コンピュータで処理できるようになるのではないだろうか・・・と思っていた矢先、昨年末に発表された新しいGoogle翻訳を(遅ればせながら)最近試してみたところ、これはコンピュータによる機械翻訳の次元を一気に変えた革命的な」システムだと思った。従来のぶつ切り単語変換ではなく、上に書いたようにコンテクスト(文脈)を把握した上で、適切な訳に変換するという人間の作業に近いプロセスをAIが行なう仕組らしいが、まさかここまで一気に進化するとは思わなかった。

驚いたのは、英日ばかりか日英翻訳の質も飛躍的に向上していることだ。他の言語はどうか知らないが、日本語を対象にここまでの変換ができるのはすごいことだと思う。それを普通のコンピュータ画面上で、テキストもファイル全体も瞬時に変換してしまうところも驚異的だ(まだ未体験の人は、一度試してみることをお勧めします。多言語対応で、音声による変換もできるし、行ったり来たりの変換を繰り返したりとか結構遊べます。カメラで写した文字の変換ができるアプリまで登場した)。我々が日本語訳を見て不自然に思うところもまだまだあり、日英変換も英語ネイティブが読めばそうなのだろうが、これだけの英語を日本人が書くことがどれだけ大変かを考えると、まさしくドラえもんの「ほんやくこんにゃく」の世界である。特に英語による世界への発信の少なさが大きなハンディになっている日本(国、団体、個人)にとって、この日英翻訳技術の進化は大変な効果をもたらすだろう。この世に完璧な翻訳というものは存在しないし、実世界では「ほどほどの」翻訳ですむケースが大部分なので、文芸や、正確な翻訳を必要とする分野を除く大半の文章(簡単な通信文や、論理的に書かれたビジネス文書、論文等)の翻訳は、学習を続けるコンピュータがいずれほとんど代替するようになるだろう。さらに音声認識システムが並行して進化すれば、文書のみならず会話でも同じことが実現できる。複数言語による文書の「同時」作成も可能になるし、もっと先には、AIが「複数言語で同時に<小説>を執筆する」という世界ももはや夢物語ではない。

ただし、誰もが簡単に、異言語(外国語)のおおよその意味が理解できるようになるということは、逆に、高度な言語能力を有した人の価値(需要?)だけがさらに高まるという可能性も示唆している。その点では、インターネットの普及による情報と知識レベルの平準化によって、実業や芸術など、既に他の分野で起きていることと同じだ。しかしながら、AIによるこの言語を扱う革命的技術が世界をどう変えるのかは想像を超えている。「モノ」造り、「IT」、「IoT]と来たこれまでの技術革新とは「質が違う」からだ。単純に、便利で楽になったと喜んでばかりいられない気もする。語学の習得を含めて、人間が手や足のみならず「自分の頭」を使う機会までますます減っていくのも、良いことなのかどうかはっきりしない(もちろん人間は、そうした新技術を利用しながら生き続けてゆくのだろうが)。インターネットが既に世界中の情報交信の壁を取り払い、さらに難しいと思われていた民族や国家間の言語の壁まで取り払われることになると、これから先いったいどういう世界が到来するのだろうか?……などと妄想しつつ、今日も「人力」英日翻訳に悪戦苦闘している私であった。

2017/04/01

英語を「読む」(1)

ジャズの本でもなければ、今更こんな分厚い本を読むこともなかっただろうが、「Lee Konitz」や「Thelonious Monk」の英語の分厚い原書を読んだり翻訳したりしているうちに、合弁企業の社員時代に米国の親会社とのコミュニケーションで苦労していたことを色々思い出した。海外との合弁企業というのは、グローバルな視点、文化の違い、多面的な考え方を学習するには非常に有益な部分もあるが、一方で異文化間の摩擦と絶えず向き合い、それを解消するためのアイデアと努力が必要で、それには異言語による複雑なコミュニケーション技術が日常的に要求される。そういう場では英語だけいくら上手でも限界があるし、また日本人同士が、日本語だけで議論したり交渉できる世界とは別の知識や技術がどうしても必要で、そうした過程で感じたり考えたことも数多い。いっそのこと、どちらか一方の資本100%にしてくれた方が、どんなに気楽かと何度思ったかわからないし、それだけで一冊本が書けるほどの経験をしたと思う。世の中には数多くの英語や翻訳の達人がおられると思うし、私の英語レベルなど所詮たいしたことはないので、えらそうに語るのも気がひけるのだが、そうした会社員時代の体験と現在の翻訳作業を通じて、「言語」というものに関して思ったことがいくつかある。

アメリカ人はとにかく「活字」好きだと思う。26文字のアルファベットだけで、あらゆる「言葉」を組み立てるというある意味非常にシンプルな言語構造と、言語によるコミュニケーションの道具としての活字の利便性、それに対するある種の偏愛(?)が、タイプライターから始まって、ワープロ、コンピュータ・ソフト、Eメール、ツイッターに至るまでの文書作成とその利用技術の発達を促してきたことに間違いないだろう。学生もそうらしいが、とにかく文書を読み、書く量は一般の会社でも半端ないほどである。昔よくプールサイドで日光浴しながら横になって、「分厚い」本を読んでいるアメリカ人の姿を映画やTVドラマなどで目にしたものだが、まさにあのイメージである。日本人はあんな分厚い本を、しかも屋外で読むことはないだろう(普通は文庫だ。というか、今の日本人はますます本を読まなくなっているが)。アメリカでも今はきっと軽く小さな端末で読む人が多いのだろうが、コンピュータの発達も、インターネットの情報洪水も、その大元は、アルファベットと数字だけで何もかも表現できるシンプルな文字文化があったからこそだろう。

26文字のアルファベット(表音文字)だけを組み合わせて、ある「意味」を表現する言語と、日本語のような象形文字由来の輸入漢字(表意文字)と、ローカル言語である音(おん)読みのひらがなや、カタカナを組み合わせて表現する複雑な言語とでは、そもそもその言語を使う民族の脳の機能(情報処理プロセス)に与える影響が違うのは当然だろう。たとえば対象全体を漠然としたイメージでまず捉えて(「山」とか「川」とかの象形)、徐々に細部の認識に降りてゆく文化と、単独では意味のない文字(a,b,c…)をブロックのように並べることだけで、ある事物の意味を表す文化では、脳が「意味」を認識するプロセスが違うと思う。日米の郵便の住所表記順の違いが、そうした認識の順序をよく表している。大きな地域から、徐々に狭い地域に順に表記して、最後にいちばん小さな番地を書く日本の住所に対して、いちばん小さな番地から始まって徐々に大きな地域を表記してゆくアメリカの住所表記の違いが、発想の違いを示す典型的な例だろう。年月日の表記順もそうだ。つまり細かな事実(情報)を一つ一つ積み上げることによって、全体像を把握するという論理思考が彼らの根底にはある。

コンピュータで「0と1」という2つの数字だけを組み合わせて複雑な意味を伝えるデジタル信号の世界も同じだ。英語という言語が構造的に持つ論理性もそこから来ているのだろう。まずは大雑把に全体を捉えることで直観的にほぼ結論が見えていることを、一つ一つ論理で積み上げてたどり着くこの認識方法は、時として大方の日本人には面倒で非常に頭が疲れるものなのだ。アメリカ人は大雑把なところもあるが、こうしたプロセスは非常に細かいし妥協しない。白か黒か(Oか1か)をはっきりさせないと気が済まない(論理的)文化と、どちらとも言えない曖昧なグレーゾーンにもある種の意味を認める(情緒的)文化との違いも、突き詰めるとそこに行き着くのではないだろうか。言語はその民族の「思考」方法に大きな影響を及ぼすと思う(あるいはその種の思考方法を持つ民族だから、それに適合した言語を作り上げた、と言えるのかもしれないが)。これはあくまで個人的体験に基づく私見だが、おそらくこの民族の思考方法と言語の関係を学問的に研究している人たちもいるのだろう。

文法も言語構造によって規定される。英米語と中国語の語順の類似性(SVO)、一方日本語と朝鮮語の類似性(SOV)は明らかで、東洋人の中でも日本人、韓国人の英会話が、中国系の人たちに比べて一般的に流暢さに欠けるように思えるのも、発音の問題(音数が少ない)だけではなく、この文法の違いのせいもあるのだろう。脳が「遠回りして」(ワンクッション置いて)認識し、処理しなければならないからだ。幼少時からバイリンガルで育たない限り、この英米語に対する言語的ハンディキャップは余程の努力をしない限り埋めようがない。どうでもいいような話をしているときにはあまり感じないのだが、特に会議や議論の場などで、同じ土俵でハイレベルの議論を「口頭で」英米人とするときに、この差を強く感じる。「瞬間」の思考と論理の組み立て方が違う。というか「見ている」世界が違う、と感じることもある。日本で育った日本人が、英語を主言語とする国際舞台の議論や交渉で不利なのは当然で、言語表現能力のハンディに加え、頭の中で自然に行なう論理の組み立て方がそもそも違うからである。

若い時から英語圏に身を置いて学習する(脳の訓練をする)のがいちばん良いのは間違いないが、日本の中にいてもある程度はこのハンディを埋めることはできるように思う。それには文書であれ、メールであれ、交渉事や議論にあたって自分の考えを英語の文章で書いて相手に伝えることである。瞬間に反応するジャズの即興演奏はできなくても、譜面に書いたものならなんとか演奏ができる、というようなものだろう。文章によるコミュニケーションでは、何より書く時間があり、言語能力の差を埋める技術がある程度有効なので、対等とまでは言えないまでもハンディはかなり縮まるのではないかと思う。ただしそれには、上に述べたような英語の持つ論理プロセスに基づいた文章を書く、つまり相手の論理に合わせてものを考えることを習慣化することが必要だ。英語の論理と、各語句の持つ広い意味を考慮せずに、日本語的解釈と論理だけで英文を書くと、大抵はやたらと長くて修飾の多い英語になってしまうもので、それは話す場合も同じである。正確で論理的な英語文書を書く技術は、英語でのハイレベル・コミュニケーションにおける日本人のハンディを補う非常に有効な手段だと思う。

その英文ライティングの基盤となるのが「目で読むこと」、つまりリーディングであり、正しい(論理的な)英語を「大量に、速く読む」視覚訓練によって、脳が自然に英語の基本文体と論理、同時に言語としてのリズムも記憶する。さらに声を出して読むことによって聴覚も訓練されるので、その効果も倍増する。異言語の習得とは結局「真似」をすることなので、こうした訓練によって結果的に正しい英語を書ける確率も高まり、同時に耳から入った音声の意味を聞き取るヒアリング能力も高まる。論理的スピーキングの能力も当然その学習量に比例する。昔からよく宣伝されている「英語のシャワーを浴びる」というヒアリング方法も、耳から入った複雑な情報まで脳が瞬時に理解できるように訓練されていなければ、簡単な会話以外効果はないだろう。これは古くから英語の達人たちの多くが提唱してきたことなのだが、最近の中学英語の教科書を見ると、これまでの反動からリーディングを軽視し、どうやら「聞く」、「話す」に非常に偏っているように見えるのは問題だと思う(そうではない教育方針でやっている学校もあると思うが)。「寿司と天ぷら、どちらが好きですか?」というような、実用英会話レベルは確かに上がるかも知れないが、高度なコミュニケーション能力(これが最終的な達成目標だと思うので)を培うためには、英語を大量に「読む」こと、リーディングこそが学習の最大の要なのである。そして、その訓練の開始時期も若ければ若いほど効果が高まることは言うまでもない……ただ私の場合、残念ながらその時期がやや遅すぎたようだ。