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2018/06/21

ジャズ的陰翳の美を楽しむ(1)

蝋燭の時代からガス燈へ、さらに白熱電球から蛍光灯へ、そして今LEDへと、その昔、谷崎潤一郎が礼賛したような微妙な明と暗、光と影が織り成す「陰翳」は、少なくとも日本の夜からはほぼ消滅したかのように見える。ところが谷崎が日本の美意識と対照的だとした欧米では、古めのホテルなどに泊まると、うす暗い部分間接照明が多くて、本などまともに読めないくらい部屋の中が暗いことがある。そうしたホテルの部屋は、最初は気が滅入るが、慣れるとその仄暗さが逆に落ち着いた気分にしてくれて、徐々に快適に感じられるようになる。反対に、普段は気にもしていない日本の普通の家屋が(自分の家も含めて)、部屋の隅から隅まで不必要に明るく照らし出していることに気づく。大都市の街中に乱立する電柱と、空を遮る見苦しい電線と同じで、日本人には見慣れて当たり前になって気づいていないのだが、この明るさへの感覚も、戦後の高度成長期のあの白々しい蛍光灯の家庭への急速な普及によるところが大きいのだろう。家の中が “こうこうと" 明るいと、当時はなんだか豊かで幸せになったような気がしたからだ。経済的な豊かさを (物理的に) "明るい" 我が家が象徴しているように思えたし、当時は日本中の家庭が同じように感じていたのではないかと思う。そのかわり、何もかもがのっぺりして見え、光と影が作り出す陰翳の生まれる余地もなく、谷崎の好んだような世界とは程遠い、見事に “明るい” 環境が日本の夜に生まれた。こうした光の世界が、日本人の感覚や感性に長期的に、微妙な影響を与えていることは間違いないのだろう。今は対極にあるような派手なイルミネーションやプロジェクション・マッピングなどが全盛の時代だが、とはいえ、陰翳に対するそうした独特の感受性を日本人がまったく失ったというわけでもなく、ジャズのような西洋の音楽の中に陰翳の美を見出す、という聴き方も伝統的に存在してきた。

ジャズはその出自からしても基本的に夜の音楽だ。ジョージ・ウィーンが企画した1954年のニューポート・ジャズ祭以降、昼間の興行としても行なわれるようになり、ノーマン・グランツによって狭く暗いジャズクラブから明るく大きなコンサートホールへと演奏場所が拡大しても、狭く仄暗いジャズクラブで、ステージ上でミュージシャンが仄かな照明で照らされながら演奏されるジャズが、やはりいちばんジャズらしい。スウィング時代のダンスホールでの伴奏音楽から、演奏そのものを聞かせるモダン・ジャズ時代になってその傾向はさらに強まった。ただそうは言っても、ジャズはブルースを基調にしながらも躍動的な “ビート” が基本の音楽なので、ライブでもレコードでも一般的にはダイナミックな演奏が大半であり、スローな演奏は、たいていの場合一息入れる途中の休憩みたいに扱われてきた。そうした中にあって、決して大名盤とかいうレコードではないが、ほぼ全編がゆったりとしたブルージーな演奏で占められながら、ポップな、あるいは甘ったるいバラード演奏ではなく、シブく、クールで、大人の香りのする、文字通り微妙な “陰翳の美” を感じさせるジャズアルバムも残されている。そしてライブ演奏ではなく、レコードを中心に繰り返し聴いて細部にこだわるという日本のジャズ文化が、ソニー・クラークのような微妙な "陰" を持つピアニストのように、欧米ではなかなか理解されなかったジャズ・プレイヤーの魅力を "発見" してきたことも事実だ。ジャズの世界においても発揮されてきた、この独特の日本的感性はやはり世界に誇れるものだ。そうしたジャズ的陰翳の美を感じさせるアルバムをいくつか紹介したい。

Art
Art Farmer

1961 Argo
トランペットという楽器は、一般的にジャズ・コンボにあっては花形で目立つ存在であるべきで、クリフォード・ブラウン、リー・モーガン、フレディ・ハバードなどよく謳う奏者がその典型だ。一方、ケニー・ドーハム、マイルス・デイヴィスや、このアート・ファーマー(Art Farmer 1928-99)のように高らかに謳い上げず、音を選び、どちらかと言えば穏やかでリリカルな演奏を得意とする奏者もいて、トランペットに限らず日本人は特にこの手の奏者を好んできた。陰翳の美を高く評価し、楽器は鳴らせばいいというものではないと言い、最小の音数とデリケートな奏法で、トランペットのもう一つの世界を提示する名人芸を我々は愛でてきたのである。アート・ファーマーは、ソニー・クラークの『Cool Struttin’』やジェリー・マリガンの『Night Lights』など、吹きまくる作品ではなくブルージーで陰のある作品でこそ、その目立たないが、シブく味わいのある個性が最高に発揮される奏者だ。ファーマーの相棒としてぴったりの資質を持つ、トミー・フラナガンという最高のピアニストによるトリオのサポートを得たこのワンホーン・カルテットによる『アート Art』1961 Argo)は、そのシンプルさと静謐さゆえにベテランのジャズファンも時々帰ってみたくなる世界であり、ジャズの初心者が聴いても、ミディアム・テンポ中心の穏やかで、ソフトな音色とモダン・ジャズのエッセンスを楽しめるアルバムだ。

Modern Art
Art Pepper
1956/57 Intro
アート・ペッパー (Art Pepper 1925-82) も数多くの名盤を残し、特に1950年代の西海岸時代の演奏は多くの人が絶賛するように、どのアルバムを取っても天才的なメロディとアドリブラインに満ち溢れていて素晴らしい。しかしペッパーのもう一つの魅力は、その憂いと湿り気を帯びたような独特のアルトサックスの音色にある。ペッパーのアルトには西海岸の明るい光と影が同居しているのである。ワンホーン・カルテットによる『モダン・アート Modern Art』1956/57)は、そのジャケットとタイトルが象徴しているように、ペッパーの諸作中でもとりわけブルージーで抑えたエモーションと麗しいアルトの音色など、全ての演奏で陰翳と知的な美しさが際立っている。全体に、そこはかとなく漂うノスタルジーもいい。サポートするメンバーもペッパーの名演を引き立て、特にラス・フリーマンの西海岸的ピアノが素晴らしい。本盤のCDは何種類か出ているが、アルトとベースのデュオによる<Blues In> から始まり、<Blues Out> で終わるという構成が示しているように、オリジナルLP収録順に何も追加編集していない盤を勧める。本作のように古典になっているジャズ名盤は、その時代のジャズ作品としてよく考えられたアルバム・コンセプトを持っていて、1枚のアルバム全体の与える印象も込みで作品として完結しているので、そういう聴き方をした方が楽しめるからだ。ただしアート・ペッパーの演奏そのものをもっと聴きたいという人は、<Summertime>などの追加曲が入ったCDを選んだらいいだろう。

French Story
Barney Wilen
1989 Alfa
バルネ・ウィラン (Barney Wilen 1937-96) は別項でも書いたが、1950年代からフランスで活動した名テナーサックス奏者で、映画『危険な関係』ではセロニアス・モンクやアート・ブレイキーなどとも共演している。70年代に一度引退した後、80年代後期に活動を再開し、1990年代になってからは日本のレーベル向けを含めて何枚かCDを吹き込んでいる。バルネのサックスには、ハードボイルド的な硬質さと共に、アメリカの黒人や白人プレイヤーにはない、フランス人の男性だけが持つ独特の抒情と色気のようなものがある。そしてその演奏からは、アメリカにはないヨーロッパ的陰翳の深さが聞こえてくる。フランス映画とジャズの相性の良さについては別項でも書いたが、バルネ・ウィランの演奏と音は、フランス映画独特の光と影のコントラストが常に感じられる映像にまさにぴったりなのだ。『ふらんす物語 French Story』はバルネ復帰直後の1989年に録音され、日本のアルファ・レコードからリリースされたアルバムで、<男と女>、<死刑台のエレベーター>、<シェルブールの雨傘>、<枯葉>など全曲が傑作フランス映画のサウンドトラックや名曲で構成されている。ピアノのマル・ウォルドロンが加わったワンホーン・カルテットによる演奏で、バルネの音といい、ウォルドロンの空間を生かしたモンク的プレイといい、カラーではなく陰翳の濃いモノクロ画面を見ているようなコントラストの強さが感じられる演奏と、それを捉えたサウンドも素晴らしい。現在は別ジャケットによるCDとアナログ盤 (『French Movie Story』) が再発されている。

2018/04/06

仏映画『危険な関係』4Kデジタル・リマスター版を見に行く

日本映画の新作『坂道のアポロン』に続き、恵比寿ガーデン・シネマで特別上映されている仏映画の旧作『危険な関係 (Les Liaisons Dangereuses 1960)』4Kデジタル・リマスター版を見に行った。この映画のサウンドトラックになっているジャズ演奏の謎と背景については、当ブログで何度か詳しく書いてきた。ただこれまでネットやテレビ画面でしか見ていなかったので、リマスターされたモノクロ大画面で、セロニアス・モンクやアート・ブレイキーの演奏を大音量で聞いてみたいと思っていたので出かけてみた。

18世紀の発禁官能小説を原作にしたロジェ・ヴァディムのこの映画は、その後何度もリメイクされるほど有名な作品だが、その理由は、単に色恋好きのフランス人得意の退廃映画という以上に、男女間の愛の不可思議さと謎を描いた哲学的なテーマが感じ取れるからだろう。もちろん出演するジェラール・フィリップ、ジャンヌ・モロー他の俳優陣が良いこともあるし、ジャズをサウンドトラックにしたモノクロ映像と音楽の斬新なコンビネーションの効果もある。映画の筋はわかっているので、今回は主にジャズがサウンドトラックとしてどう使われているのかということに注意しながら見ていた。この映画の音楽担当の中心だったモンクの<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>で始まるチェス盤面のタイトルバックは、再確認したが、アート・ブレイキーのグループ、デューク・ジョーダンたちの名前は出てくるが、画面にアップになってトランペットを演奏するシーンがあるケニー・ドーハムの名前だけ、やはりなぜか見当たらなかった。映画の画面に登場するジャズ・プレイヤーで目立つのは、ドーハムの他、当然ながら当時売り出し中の若いフランス人バルネ・ウィラン(ts)、パリに移住して当時は10年以上経っていたはずのケニー・クラーク(ds)に加え、デューク・ジョーダン(p)の後ろ姿などで、特にもはや地元民のケニー・クラークのドラムス演奏シーンがよく目立つように使われている。

サウンドトラックの楽曲としては、やはりアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズによる<危険な関係のブルース(No Problem)>が、派手な演奏ということもあって、冒頭から最後までいちばん目立った使い方をされていて、特にジャンヌ・モローの顔のアップが印象的なエンディングに強烈に使われているので、彼らのレコードが映画の公開後ヒットしたというのも頷ける。ただし以前書いたように、この曲はデューク・ジョーダン作曲であり、しかもブレイキー、リー・モーガン(tp)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(ds)というメッセンジャーズ側は、バルネ・ウィランを除き映画には出ないで音だけで、代わってジョーダンを含む上記のメンバーが出演している(もちろんセリフはないが)という非常にややこしい関係になっている。モンクの演奏は、この映画のサウンドトラックに使われた1959年のバルネ・ウィランを入れたクインテット(チャーリー・ラウズ-ts、サム・ジョーンズ-b、アート・テイラー-ds)によるスタジオ録音テープが、音楽監督マルセル・ロマーノの死後2014年に55年ぶりに発見されて、昨年CDやアナログレコードでも発表されたので、映画中の演奏曲名もよくわかるようになった。しかしじっと見ていると、いかにもモンクの曲らしい<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>と<パノニカ>の独特のムードが、男女間の退廃的なテーマを扱ったこの典型的なフランス映画の内容にいちばんふさわしいことが改めてよくわかる。そしてモンクの他の楽曲もそうだが、当時はやった派手な映画のテーマ曲に比べて、モンクの音楽がどれもまったく古臭くなっていないところにも驚く。監督ロジェ・ヴァディムは、やはりジャズがよくわかっている人だったのだろう。

Les Liaisons Dangereuses 1960
(1959 Rec/2017
Sam Records/Saga Jazz)
『危険な関係』は1959年制作(公開は1960年)の映画だが、この時代1960年前後は、1940年代後半からのビバップ、クール、ハードバップ、モードというスタイルの変遷を経て、音楽としてのモダン・ジャズがまさに頂点を迎えていたときである。ブレイキー他によるハードバップの洗練と黒人色を強めたファンキーの流れに加え、マイルス・デイヴィスによるモードの金字塔『カインド・オブ・ブルー』の録音も1959年、飛翔直前のジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』も同じく1959年、我が道を行くモンクもCBSに移籍直前のもっとも充実していた時期、さらにギターではウェス・モンゴメリーが表舞台に登場し、ピアノではビル・エヴァンスの躍進もこの時代であり、音楽としてのパワーも、プレイヤーや演奏の多彩さも含めて、ジャズ史上のまさに絶頂期だった。ジャズはもはや大衆音楽ではなく、ハイアートとしても認知されるようになり、当時の思想を反映する音楽としてヨーロッパの知識人からの支持も得て、中でもヌーベルバーグのフランス映画と特に相性が良かったために、この『危険な関係』、マイルスの『死刑台のエレベーター』、MJQの『大運河』などを含めて多くの映画に使われた。実は私は『危険な関係』(日本公開は1962年)をリアルタイムで映画館で見ていないのだが、こうしてあらためて60年近く前の映画を見ても、映像と音楽のマッチングの良さは、なるほどと納得できるものだった。1960年代の日本では、のっぺりと明るいだけのアメリカ映画と違って、陰翳の濃いイタリア映画やフランス映画が今では考えられないほど人気があって、何度も映画館に通ったことも懐かしく思い出した。アメリカ生まれではあるが、アフリカやフランスの血も混じったいわばコスモポリタンの音楽であるジャズと、常に自由を掲げた開かれた国フランスの映画は実にしっくりと馴染むのだ。

しかしこの時代を境に、べトナム戦争や公民権運動など、60年代の政治の時代に入るとモダン・ジャズからはわかりやすいメロディ“が徐々に失われてゆき、ロックと融合してリズムを強調したり、ハーモニーの抽象化や構造の解体を指向するフリージャズ化へと向かうことになる。だから、いわゆる「古き良き」モダン・ジャズの時代はここでほぼ終わっているのである。スウィング時代の終焉を示唆する1945年終戦前後のビバップの勃興がジャズ史の最初の大転換とすれば、二度目の転換期となった1960年前後は、いわゆるモダン・ジャズの終焉を意味したとも言える。その後1960年代を通じて複雑化、多様化し、拡散してわかりにくくなったジャズの反動として、政治の時代が終わった1970年代に登場した明るくわかりやすいフュージョンが、メロディ回帰とも言える三度目の転換期だったとも言えるだろう。さらに、アメリカの景気が落ち込んだ1980年代の新伝承派と言われた古典回帰のジャズは、そのまた反動だ。1990年代になってIT革命でアメリカ経済が息を吹き返すと、またヒップホップを取り入れた明るく元気なものに変わる。こうしてジャズは、音楽としてわかりやすく安定したものになると、自らそれをぶち壊して、もっと差異化、複雑化することを指向し、それに疲れると、今度はまたわかりやすいものに回帰する、という自律的変化の歴史を繰り返してきた。別の言い方をすれば大衆化と芸術化の反復である。マクロで見れば、その背後に社会や政治状況の変化があることは言うまでもない。なぜなら、総体としての商業音楽ジャズは、時代とそこで生きる個人の音楽であり、その時代の空気を吸っている個々の人間が創り出すリアルタイムの音楽だからである。聴き手もまた同じだ。だから時代が変わればジャズもまた変化する。ジャズはそうした転換を迎えるたびに「死んだ」と言われてきたのだが、実はジャズは決して死なないゾンビのような音楽なのだ。逆にそういう見方をすると、セロニアス・モンクというジャズ音楽家が、いかに時代を超越した独創的な存在だったかということも、なぜ死ぬまで現世の利益と縁遠い人間だったかということもよくわかる。映画の画面から流れる<パノニカ>の、蝶が自由気ままにあてどなく飛んでいるようなメロディを聴いていると、その感をいっそう強くする。

ところでこの映画は、昨年7月に亡くなった名女優ジャンヌ・モローを追悼して新たにリマスターされたものらしく、公開は同館で324日から始まっていて、413日まで上映される予定とのことだ。しかし私が座ったのは真ん中あたりの席だったが、この映画館の構造上どうしても見上げる感じになるので首が疲れるし、下の字幕と大きな画面の上辺を目が行ったり来たりするので目も疲れる。年寄りは高くなった後方席で、画面を俯瞰するような位置で見るのが画も音もやはりいちばん楽しめると思った。この映画館の音量は、『坂道のアポロン』と『ラ・ラ・ランド』の中間くらいの大きさで、まあ私的には許容範囲だった。観客層の平均年齢は平日の昼間だったので、予想通りかなり高年齢のカップルが多かった。昼間働いている普通の人には申し訳ないようだが、まあ今はどこへ行っても平日の昼間はこんな感じである。また面白そうなジャズがらみの映画が上映されたら行ってみようと思う。

2017/10/23

モンクを聴く #10:Les Liaisons Dangereuses (1958-59)

TILT
Barney Wilen
(1957 Swing/Vouge)
ジャズとパリとの関係は、50年代後半のフランス映画が象徴的で、ケニー・クラークやパド・パウエルをはじめとする多くのジャズメンも、パリに移住するなど、ジャズとミュージシャンたちを温かく迎え入れたこの街を愛した。ところがモンクは、1954年の初訪問だったパリ・ジャズ祭での評判が散々だったこともあって、その後1961年に初のヨーロッパ・ツアーで再訪するまで一度もパリを訪れていない。しかしモンクをパリに連れて行ったアンリ・ルノーのように、フランスには1940年代のブルーノート録音時代からモンクに注目していた現地のミュージシャンもいたのだ。フランス人テナー奏者バルネ・ウィラン (1937-96) も19歳のデビュー・アルバム 『ティルト TILT』19571月録音)で、早くもモンクの曲を6曲も取り上げ(LPで<Hackensack>、<Blue Monk>、<Misterioso>、<Think of One>の4曲、さらにCDで<We See>、<Let's Call This>の2曲追加)、モダンで滑らかなモンク作品のフランス流解釈を披露している。驚くのは、この録音がスティーヴ・レイシーの全7曲のモンク作品による『REFLECTIONS』(195810月録音)の19ヶ月も前だということだ。調べたことはないが、モンク本人との共演を除き、モンクの作品をこれだけ取り上げたホーン奏者はバルネ・ウィランが世界初だったのではなかろうか? ウィランはつまり、それ以前からモンク作品の研究をしていたということだろう。

Les Liaisons Dangereuses 1960
(1959 Rec/2017
Sam Records/Saga Jazz)
第19章 p371-
バルネ・ウィランとモンクとの関係については、本ブログの4/144/18の「危険な関係サウンドトラックの謎」、「バルネ・ウィラン」両記事で詳述している。ところが、ロビン・ケリーの本に詳しく書かれているフランス映画『危険な関係』サウンドトラックの逸話と、その後自分で調べた真相(?)に関するこの記事を書いた時点では知らなかったのだが、1959年にモンクとウィランが共演し、サウンドトラックとしては使われたが、レコード化されなかった未発表音源が今年2017年になって初めてリリースされていたのである。それが2枚組CD『Thelonious Monk - Les Liaisons Dangereuses 1960』 (Sam Records/Saga Jazz)で、ロビン・ケリーも含めた数人の解説者による60ページ近いブックレットを読むと、さらに細かいが面白い話が色々と書かれている。このブックレットには、録音内容を記録したメモや、ノラ・スタジオでの録音風景を撮影した写真もたくさん掲載されており、麦藁帽子(本書に逸話が書かれているように、これは中国製ではなく、アフリカの打楽器奏者ガイ・ウォーレンが送ってきた北部ガーナの農民の帽子だ)をかぶったモンクとレギュラー・メンバーの他、客演した当時22歳のバルネ・ウィラン、さらにネリー夫人、ニカ夫人の姿も写っている。これだけでも非常に貴重な史料だ。

この音源は、ロジェ・ヴァディムの『危険な関係』の音楽監督だったマルセル・ロマーノ(1928-2007)の死後、ジャズマニアの友人が保管していたロマーノのアーカイブの中から、2014年に55年ぶりに「発見」されたものだという。ロマーノはフランスのジャズ界では著名な人物で、1950年代にはバルネ・ウィランのマネージャーもしていて、ロビン・ケリー書の記述では1957年にNY「ファイブ・スポット」でモンクと会ったという話だが、実は1954年のモンクの初来訪時に既にパリで会っていたという(ウィランの上記アルバムでのモンク研究の痕跡を見れば、マネージャーだったロマーノがモンクと会っていてもおかしくない)。そのロマーノの残したテープの中に、ウィランの未発表音源がないかどうかFrancois Le Xuan Saga Jazzの創設者)と友人のFred ThomasSam Recordsの創設者)が探しているときに偶然そのテープを見つけたのだという。1958年夏に、ロジェ・ヴァディムとロマーノはモンクにサウンドトラック作曲の申し入れを行なったのだが、モンクはなかなか受け入れようとしなかった。1959年の夏、映画完成の直前になってようやく承諾したものの、サウンドトラック向け新曲は結局1曲も書けずに、既存の自作曲を録音することになったが、これはその時の演奏を録音したテープだったのだ。

実は、モンクは1958年10月デラウェア州でニカ夫人、チャーリー・ラウズと一緒に、麻薬所持を理由に警察による逮捕、暴行被害に合い、その後精神的に不安定になってしばらく入院していたが、その時またもや(3度目である)警察にキャバレーカードを無効にされ、ニューヨークのクラブで仕事ができなくなった。さらに翌1959年2月には、モンクが期待し、精魂込めて取り組んだ「タウンホール」のビッグバンドのコンサート後、批判的な論評に怖気づいたリバーサイドが、予定していた8都市のコンサート・ツアーをキャンセルしたために、モンクには唯一の収入の見込みがなくなってしまったのだ。精神的に落ち込んだモンクは、4月にはボストンのクラブ「ストリーヴィル」出演後行方不明になって、グラフトン州立精神病院に収容され、その後抗精神病薬の治療を受けるようになった。それやこれやで、この映画音楽の依頼を受けた当時、モンクはとても新しい曲を書けるような精神状態になかった、というのが本ブックレットでロビン・ケリーが述べている見方で、このいきさつは本書にも書かれている。

仏映画「危険な関係」
第19章 p371-
1959727日にNYノラ・スタジオで録音されたステレオ音源は、モンク、チャーリー・ラウズ(ts)、サム・ジョーンズ(b)、アート・テイラー(ds)という当時のレギュラーカルテットに、直前のニューポート・ジャズ祭でアメリカデビューを果たしたバルネ・ウィラン(ts) が客演した2テナーのクインテットによるものだ。お馴染みの曲が中心だが、リバーサイド時代のモンクには、このレギュラー・カルテットを中心にしたスタジオ録音は1作(『5 by Monk by 5』)しかないので、その意味でも貴重な録音だ。
2枚のCDの収録内容は以下の通り。
<CD1> Rhythm-a-Ning/ Crepuscule with Nellie/ Six in One (solo)/ Well, You Needn’t/ Pannonica (solo)/ Pannonica (solo)/ Pannonica (quartet)/ BaLue Boliver Ba-lues-Are/ Light Blue/ By and By (We'll Understand It Better) 
 <CD2> Rhythm-a-Ning(alt.)/ Crepuscule with Nellie (take 1)/ Pannonica (45 master)/ Light Blue (45 master)/ Well, You Needn’t (unedited)/ Light Blue (making of)

このテープは、翌728日、29日のアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズによる演奏(こちらは<No Problem> などのデューク・ジョーダン作品)を収録した録音テープと一緒に、ロマーノが映画の完成に間に合わせるために急いでパリに持ち帰ったものだ。映画冒頭のタイトルバック<クレパスキュール…>や<パノニカ>をはじめ、これらの演奏は映画中で何度も使われている。特筆すべきは、おそらくロマーノ所有のマスターテープの保存状態が良かったために、多分あまり加工していないこのステレオCDの音は非常にクリアで、音場も良く、モンクのピアノも、各メンバーの楽器もボディ感のある鮮明な音で再生できることだ(同時発売のアナログ盤はきっとさらに良いのだろう)。リバーサイド時代のモンク作品の録音は、どれもいまいちのように思うが、その中で比べても一番良い音だと思う。このセッションは、モンクにとってリバーサイド最後のスタジオ録音となった『5 by Monk by 5』 録音(19596月)の直後で、モンクの体調も回復し、チャーリー・ラウズがようやくモンクの音楽に馴染んだ頃でもあり、ラウズのプレイも非常にスムースだ。モンクとの最初にして最後の共演となった若きバルネ・ウィランは時々トチっている部分もあるが、4曲に参加して堂々とプレイしている。おそらくアンニュイな映画のイメージを意識したのだろう、ほとんどの曲がテーマ中心に比較的短く、かつゆったりとしたテンポで演奏されている。印象的な<Six in One>は、この時名付けられたモンクのソロによる即興のブルースで、同じ年10月のSFでのソロアルバムで、多少変形されて<Round Lights>として演奏された曲だ。CD2の<Light Blue>メーキングでは、アート・テイラーのドラムスのリズムを巡って、延々と続く(?)スタジオ内のモンクたちの会話も捉えられている。

1960年に公開された映画『危険な関係』がヨーロッパで大ヒットしたこともあり、翌1961年に7年ぶりにパリを再訪し「オリンピア」劇場で公演したモンクは54年の時とは打って変わって熱狂的な聴衆に迎えられた。当時アメリカでもようやく名声を高めていたモンクは、文字通り凱旋を果たしたのである。パリは、1954年のニカ男爵夫人との出会いがあり、愛弟子バド・パウエルが暮らしていた場所でもあり、その後のモンクの人生に大きな影響を与えた街だった。

2017/04/18

フレンチの香り:バルネ・ウィラン

ジャズはアメリカの音楽と思われているが、実はその生い立ちにはフランスの血が混じっている。ジャズ発祥の地と言われるニューオリンズは、元はフランス植民地であり、移入されたヨーロッパの音楽と、そこで生まれたクリオールと呼ばれるフランス系移民と黒人との混血の人たちによってニューオリンズ・ジャズが生まれたとされている。アジアの植民地でもそうだったが、異人種の隔離にこだわるアングロサクソン系と異なり、植民地支配にあたって現地人と融合することを厭わないフランスは、結果としてジャズの生みの親の一人になったのである。ジャンゴ・ラインハルト(ベルギー人ギタリスト)に代表されるように20世紀前半からフランスでもジャズが盛んだったが、1950年代に入って,そのジャズが ”モダン” になって言わばフランスに里帰りした。

ジョン・ルイスやマイルス・デイヴィスなどのアメリカのジャズプレイヤーがフランスを訪れ、「死刑台のエレベーター」や、モンクとアート・ブレイキーの「危険な関係」など、映画音楽の世界を通じて折からのヌーベルバーグの文化、芸術活動とも大きく関わった。マイルスなどはシャンソン歌手ジュリエット・グレコとのロマンスまで残しているほどだ。1950年代以降ケニー・クラーク、バド・パウエル、デクスター・ゴードン等々、数多くのジャズ・ミュージシャンが、黒人差別が根強く、生きにくいアメリカを離れてパリに移住した。上に書いたようなジャズとの歴史的関係もあり、フランスは日本と同じく、ジャズとそのプレイヤーを差別なく受け入れ、芸術と認めた国と民族であり、だから彼らはこの二つの国が好きだったのである。サックス奏者バルネ・ウィラン Barney Wilen (1937-1996)も、実はアメリカ人(父)とフランス人(母)を両親に持つハーフということだ。20歳の時に「死刑台のエレベーター」(録音1957)の音楽でマイルス・デイヴィスと、22歳の時に「危険な関係」(1959)でセロニアス・モンク、アート・ブレイキーらと共演している。マーシャル・ソラール(p)やピエール・ミシュロ(b)のようなプレイヤーと並んで、ホーン奏者としてフランスでは当時もっともよく知られたジャズ・ミュージシャンだった。当時のウィランの映像を見ても、アメリカの一流ミュージシャンたちにまったく引けを取らず、堂々と渡り合ってプレイしている。

ウィランは1956年にジョン・ルイス(p)やMJQとの共演盤でメジャー・デビューしていたが、初リーダー・アルバムとなったのは翌1957年、19歳の時に出したLP「ティルト Tilt」(Swing/Vogue)である。このアルバムは別メンバーによる2回のセッションからなり、興味深いのは、ハードバップ・スタンダードの4曲(A面)に加え、セロニアス・モンク作の4曲(B面)を取り上げていることだ。その4曲とは〈ハッケンサック〉、〈ブルー・モンク〉、〈ミステリオーソ〉、〈シンク・オブ・ワン〉で、後にリリースされたCDには、さらに〈ウィ・シー〉、〈レッツ・コール・ディス〉という2曲のモンク作品が追加されている。さらに驚くのは、録音日時が1957年1月であり、ということはモンクが同年コルトレーンと「ファイブ・スポット」に登場する7月より前、また傑作「ブリリアント・コーナーズ」(Riverside)のリリース前、すなわちモンクがアメリカでもまだあまり注目を浴びていなかった時だったことだ。モンクは1954年にパリ・ジャズ祭に出演してヨーロッパ・デビューしていたものの、その時はフランスでも散々な評判で、唯一ソロ・ピアノを評価したVogueに非公式に録音した(ラジオ放送用。Prestigeと契約中だったため)ソロ・アルバムを残しただけだ(これは名盤)。ウィランがここでモンク作品を取り上げたということは、彼がその時点で既にモンクのことをよく知り、その作品を評価していた証であり、フランスでもモンクを評価する動きが既にあったことを意味している。これが、1959年の「危険な関係」サウンドトラックでのモンクとウィランの共演につながっていったと解釈するのが妥当だろう。同時に、フランスが当時いかにジャズに対する興味と慧眼を持つ国だったか、ということも意味している。確かにパリはジャズの似合う街なのだ。

1959年に「危険な関係」撮影のためにパリを訪問していたケニー・ドーハム(tp)、デューク・ジョーダン(p)他とのクインテットで、パリのジャズクラブ「クラブ・サンジェルマン」にウィランが出演したときのライヴ録音盤が「バルネ Barney」(RCA)というレコードだ。フレンチ・ハードバップの香りのする若きウィラン、躍動感に満ちたドーハムやジョーダンのプレイ、またウィランとジョーダンの歌心あふれるバラード〈Everything Happens to Me〉など、聴きどころ満載の素晴らしいレコードだ。モノラルではあるが、当時のパリのジャズクラブの空気まで感じられるようなクリアな録音が演奏を一層引き立てていて、まさに「危険な関係」の時代にタイムスリップしたかのようなライヴ感が味わえる。その後このライヴ録音からは、モンクの〈ラウウンド・ミドナイト〉を含む未発表曲を加えた「モア・フロム・バルネ」もリリースされている。

ウィランは60年代にはフリー・ジャズに接近したり、一時演奏活動を休止した時期もあったようだが、その後復活し、90年代には日本のレーベルにも多くの録音を残していて、それらはいずれも評価が高い作品だ。「フレンチ・バラッズ French Ballads」(1987 IDA)は、復活後のバルネ・ウィラン50歳の時のフランス録音で、フランス人ミュージシャンとフランスの歌曲を演奏したレコードだが、ここではテナーとソプラノを吹いている。ウィランの演奏には太くハード・ボイルド的にブローする部分と、包み込むような柔らかい音色による陰翳の深い表現が混在している。若い時から彼のバラード演奏にはフランス風のある種独特の香気・味わいが備わっていた。その演奏にはやはりアメリカのジャズ・ミュージシャンとはどこか違うテイスト、フランス風の抒情と男性的色気のようなものが漂っていて、バラード演奏にそれが顕著だ。このアルバムでも〈詩人の魂〉,〈パリの空の下で〉,〈枯葉〉 などの有名なシャンソン、あるいはミッシェル・ルグランの作品を演奏しているが、いずれも本場ならではの解釈と、フランス風の香気に満ちた演奏である。

2017/04/14

仏映画「危険な関係」サウンドトラックの謎

ルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」(1957)にはマイルス・デイヴィス、ロジェ・ヴァディム監督の「大運河」(1957)にはMJQ、エドゥアール・モリナロ監督の「殺られる」(1959)にはアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズというように、当時ヌーベルバーグと呼ばれた新潮流の象徴だったフランス映画には盛んにジャズが使われていた。映画「危険な関係」は、ロジェ・ヴァディム監督による1959年制作の作品である。フランスの貴族を描いた18世紀の官能小説が原作で、舞台を20世紀のパリに置き換え、退廃的な上流階級の恋愛模様をジェラール・フィリップとジャンヌ・モローが演じている映画だ(後年何度かリメイク映画化されている)。小説と同じく映画も反社会的だと物議をかもし、フランスやイギリスでは当初上映禁止になったらしい。ロビン・ケリーの「Thelonious Monk」に、この「危険な関係」のサウンドトラックとモンクにまつわる面白い裏話が出て来る。私は映画そのものを見ておらず、映画にモンクが関係していることも知らず、この映画に関係する所有ジャズ・レコードは、デューク・ジョーダン(p)がリーダーの「危険な関係のブルース」(1962) だけだったこともあり、この話は意外だった。そこで、この映画と音楽の背景について調べたのだが、映画、音楽ともにネット上でも様々な説明があって、どこにもはっきりしたことが書いていないので、自分でさらに詳細な情報に当たり整理してみた。すると驚くような事実(おそらくだが)が浮かび上がったのである。

「死刑台のエレベーター」にマイルス・デイヴィスを起用した音楽監督、マルセル・ロマーノからモンクに打診があったのは1958年である。モンクは不評だったヨーロッパ・デビュー(1954年のパリ・ジャズ祭に出演した)後はヨーロッパを訪問していなかったが、1957年夏に「ファイブ・スポット」にジョン・コルトレーンと共に登場し、ようやく注目を浴び始めていた当時のモンクをニューヨークで直接見たロマーノが、モンクの音楽をサウンドトラックとして使いたいと申し入れてきたのだ。しかし当時ボストンのクラブ「ストーリーヴィル」出演時に奇妙な行動をし、その後一時行方不明になったりしていたモンクは情緒不安定な状態にあり、なかなかその申し入れを受諾しなかった。ロジェ・ヴァディムもニューヨークまでやって来て、何とかモンクの了承を取り付けようとしたが、モンクはなお首を縦に振らなかった。1959年の夏、映画が完成した後にモンクはやっと承諾したものの、映画のサウンドトラックための新曲は結局書けず、その代わりに当時アメリカ・デビューをしたばかりのフランス人テナー奏者バルネ・ウィランを自分のカルテットに加えて、〈オフ・マイナー〉、〈クレパスキュール・ウィズ・ネリー〉、〈パノニカ〉など、当時リバーサイドに吹き込んでいた既存曲をあらためて映画用に録音した。ところがロマーノは、万が一モンクがダメだった場合に備えて、デューク・ジョーダン(p)にも作曲を依頼しておいたのである。そこでモンクのグループ(チャーリー・ラウズ-ts、サム・ジョーンズ-b、アート・テイラー-ds)と同じ時に同じスタジオで、バルネ・ウィランを加えたアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズによるジョーダン作の曲も録音したのだ。

この映画の音楽担当は確かにセロニアス・モンクとクレジットされているのだが、上映後大ヒットしたのは、当時人気絶頂だったアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのサウンドトラック・レコード「危険な関係」(1960 Fontana)であり、しかも作曲者名としてクレジットされているのは、デューク・ジョーダンではなく全曲ジャック・マーレイ(Jaques Marray)という人物だった。一説によれば、映画中に出て来るナイトクラブでの演奏シーンには、デューク・ジョーダン(p)、ケニー・ドーハム(tp)、バルネ・ウィラン(ts)、ポール・ロベール(b)、ケニー・クラーク(ds)が登場するが、実はそのシーンの音楽は、アート・ブレイキー(ds)、リー・モーガン(tp)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(b)にバルネ・ウィラン(ts)が加わった演奏で置き換えられているというのだ。それはニューヨークで、モンクのカルテットと同じ時に録音された演奏ということである。つまりドーハム、ジョーダンやクラークは映画に顔だけは出したが彼らの演奏は使われず、一方ブレイキーのグループは映画には登場しなかったが演奏は使われ、かつそのサウンドトラック・レコードは大ヒットしたというわけである。そしてフランスの当時の新人スタープレイヤー、バルネ・ウィランは3つのセッションいずれにも参加しているのである。

ジャック・マーレイという人物はデューク・ジョーダンの仮名だという説もあるが、ジョーダンは1962年になって「危険な関係のブルース」という映画で使用された曲 ("No Problem")を演奏したレコードを出している(私が持っているもの)。そしてそれはチャーリー・パーカー夫人だったドリス・パーカー所有のパーカー・レコードがリリースしたもので、夫人自身が書いたそのライナー・ノーツには、ブレイキーのオリジナル・サウンドトラックにはジョーダンの作曲にもかかわらず別人の名前が誤って使われており、このレコードこそ本当の作曲者による演奏だとはっきり書いてある。このレコードのメンバーは、ソニー・コーン(tp)、チャーリー・ラウズ(ts)、エディ・カーン(b)、アート・テイラー(ds)である。ジャック・マーレイは確かに実在の作曲家らしく、この映画の音楽も一部担当していたようだが、なぜジョーダンではなく彼の曲としてクレジットされていたのかは調べたがわからなかった。パーカーが可愛がっていたジョーダンを、夫人が当時の経済的苦境から救うためにリリースしたものだと言われているので、この話が真実だった可能性は高い。

ところでモンクの音楽は実際にどう使われたのだろうか? オリジナル映画を確認したところ、映画冒頭のチェスの盤面を使ったタイトルバックの音楽はモンクの〈クレパスキュール・ウィズ・ネリー〉である。音楽担当としてのモンク、ジャック・マーレイ、バルネ・ウィラン、モンクのグループ、ブレイキーのグループ、デューク・ジョーダン、ケニー・クラークの名前は全員が出て来る。だがケニー・ドーハム他の名前はない。バルネ・ウィランを加えたモンク・グループの演奏が〈パノニカ〉他計7曲と、モンクによるゴスペル聖歌のピアノ・ソロ1曲で、これらが映画のほぼ全編に使われている。特に〈クレパスキュール…〉と〈パノニカ〉がメインテーマ曲で、この2曲は何度も聞こえてくる。ブレイキーのグループの演奏が主としてパーティやクラブなど華やかな場面で使用されているのに対して、モンクの音楽は大部分が男女間の微妙な情景の背景音楽として挿入されている。アブストラクトでどことなく不安なムードを醸し出すモンクのサウンドが、このフランス映画のアンニュイで危なげなムードにぴたりとはまって、ロジェ・ヴァディムがなぜモンクの音楽を使いたかったのかがよくわかる。一方ケニー・ドーハム、バルネ・ウィラン、ケニー・クラーク、デューク・ジョーダン(背中だけ?)は確かに画面に登場している。その演奏は明らかにボビー・ティモンズのピアノやリー・モーガンのトランペットなどメッセンジャーズ側のものだが、そこでの音楽「全部」がアート・ブレイキー側の音源なのかどうかはわからなかった(ケニー・ドーハムの顔とトランペット・プレイは何度かアップになっているので、一部はその音をそのまま使っている可能性もある。それが全部リー・モーガンの音だとしたらひどい話なので…)。またモンクが演奏したサウンドトラックは映画中だけで使われ、レコード化されなかった(おそらく映画用新曲が書けなかったために、当時リバーサイドに吹き込んだばかりの曲だけを使ったからだろう)。

本来なら、新曲によるサウンドトラックはもちろん、ナイトクラブでの演奏シーンにはモンクが登場したはずで、また撮影に合わせてパリでのコンサート、クラブ・ライヴも別途企画されていたのだが、モンクの不調でこうした企画はすべてお流れとなってしまったのだ。どうなるかはっきりしなかった当時のモンクを不安視したヴァディムとロマーノが、とにかくバルネ・ウィランをフィーチャーして企画を練り直し、結果として安全策として準備していたジョーダンの曲と、ブレイキーのグループの演奏が脚光を浴びたということなのだろう。この映画の日本公開は1962年で、モンクの初来日は翌1963年だった。映画と完全に一体化したマイルス・デイヴィスの「死刑台のエレベーター」とは対照的に、「危険な関係」の音楽として普通に思い浮かべるのは華々しいブレイキーかジョーダンであり、この映画をモンクの音楽と共に記憶しているジャズファンもほとんどいないのではないだろうか(少なくとも私の世代では)。しかしこのエピソードも、いかにもモンクらしいと言うべきか。

(追記 2017 7/5)
知らなかったのだが、気が付いたら、何とこのとき以降お蔵入りになっていたと思われる、モンクのカルテットにバルネ・ウィランが加わった上記演奏(1959) が、今年になってCD/LP「Les Liaisons Dangereuses 1960」(SAM RECORDS/SAGA) として発売されていた。映画中で聞こえるモンクの演奏はこれが音源である。