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2023/08/13

「憂歌団」 Forever!

Rolling 70s (1994)
インストのジャズは通年、つまり1年中聴いているが、加えて私には「シーズンもの」というべき音楽ジャンルがある。すべてヴォーカルで、年末になると決まって聴きたくなるのが船村徹、藤圭子、ちあきなおみ…など日本情緒あふれる演歌。春から初夏にかけてはボサノヴァ、真夏はサザン、大瀧詠一、山下達郎などのJ-POP、秋から冬はジャズ・ヴォーカルに加え、井上陽水や長谷川きよしのしみじみ系……と年がら年中ヴォーカルも聴いているわけだが、夏の定番がもう一つあって、それが「ブルース」を唄うバンド「憂歌団」だ。と言っても、女のブルースとか、港町ブルースとかの日本の歌謡曲ではない、本物のブルースをやるバンドだ。こちらは夏向きのクール系音楽ではなく、むしろ逆にアクが強くて暑苦しい系の音楽なのだが、6月から7月くらいになると、私は無性に憂歌団が聴きたくなる。

真冬に聴く演歌もそうだが、ポピュラー音楽にはどれも、その出自から来る「いちばん似合う場 (situation)」というものがある。明るい南国行きの船の上ではなく、雪の舞う北国へ向かう暗い冬の船や列車の中だからこそ、演歌は一層しみじみと心に響く。同様に、ジャズをさわやかな高原で、真っ昼間に聴きたいとはあまり思わない。ジャズは基本的には「都会の」「夜の」音楽だからだ。ブルース(Blues:英語の発音では「ブルーズ」と濁る)も、秋とか冬の澄み切った青空の下で聴きたいとは思わない。アメリカ深南部 (Deep South) の、ミシシッピ・デルタあたりのジトーッと重い湿った空気の中で生まれたブルースも、底に流れる黒人音楽特有の哀しみや嘆きに加え、その出自の一部である「風土」が、サウンドの中に色濃く反映されている。日本の気候とはまったく違うだろうが、強いてあげれば、日本では6月から7月のじめじめした蒸し暑い季節が、いちばんブルースには似合うように思う。

熱心なファンを除けば、今やどれくらいの人が「憂歌団」のことを知っているのか分からないが、ジャズ、ロックに加えフォーク、ニューミュージック、演歌、歌謡曲…と、何でもありで、ほとんど「ビッグバン」状態だった日本の1970年代の音楽界で、ひときわ異彩を放っていたのが「憂歌団」(Blues Band=ブルース・バンド=憂歌・楽団=憂歌団)だ。あの時代ブルースをやっていたバンドは、憂歌団も影響を受け、曲提供も受けた名古屋の「尾関ブラザース」や、京都の「ウエスト・ロード・ブルース・バンド」など、結構あったようだが、もっともインパクトがあり、メジャーな存在になったのは、やはり当時の「アコースティック・ブルース・バンド」憂歌団だっただろう。内田勘太郎のギター、木村充揮(きむら・あつき)のヴォーカルを核にして、花岡献治(b)、島田和夫(ds-故人)を加えた4人の音楽は、「憂歌団」という素晴らしいネーミングと共に、私的にはとにかく衝撃的だった。

17/18 oz (1991)
ブルースの歴史に特に詳しいわけではないが、いくつかの系譜があるブルースの起源の一つは、言うまでもなくジャズのルーツでもあるアメリカ南部の黒人音楽を核にした「カントリー・ブルース」だと言われている。つまり本来が土くさい、汗くさい音楽で、NYやシカゴなど都市部に広まってジャズやR&Bのルーツにもなった、モダンな「シティ・ブルース」とはサウンドの肌合いが違う。だから一部のブラック・ミュージック好きな人たちを除けば、そもそも、あっさり好みが多い日本人の嗜好に合うような音楽ではなかっただろうと思う。憂歌団の音楽は、このアメリカ生まれの黒っぽく土くさいブルースに、きちんと「日本語で日本的オリジナリティ」を加えて、日本にブルースという音楽を「土着化」させた初めての音楽だった。ジャズで言えば、山下洋輔グループが同じく1970年代に生み出した「日本独自のフリージャズ」と、その性格と立ち位置がよく似ている。

ブルースの日本土着化を可能にした「要因」はいくつかあるだろうが、その一つは、間違いなく憂歌団の本拠地である「大阪」という土地柄、風土だ。東京でも京都でもなく、日本で大阪ほどブルースの似合う街はない。昔(50年前)に比べると、今は大阪もすっかりモダンに様変わりしたようにも見えるが、その根底に、気取らず、飾らず、泥臭く、人間味があって、「本音」で生きることにいちばんの価値を置く、という長い「文化」がある大阪こそ、日本にブルースが根付く土壌をもっとも豊かに備えている街だ。憂歌団のオリジナル・メンバーの出身地であり、彼らの音楽が持つサウンドと歌詞のメッセージに共感し、それを支持する「聴衆」が多いこともその条件の一つだろう。そして「日本語のブルース」を可能にしたのが、上記文化を象徴する言語である「大阪弁」の持つ独特の語感とリズムだ。そしてもちろん、その大阪弁をあやつる木村充揮の、「天使のだみ声」と呼ばれる超個性的なヴォイスと歌唱が決定的な要因だ。内田勘太郎のブルージーだが、同時に非常にモダンなブルース・ギターと木村の味のあるヴォーカルは、もうこれ以上の組み合わせはないというほど素晴らしかった。とりわけ木村充揮は、ブルースを唄うために生まれてきたのか…と思えるほどで、ブルースとは何かとか考える必要もなく、木村が唄えばそれがブルースであり、どんな楽曲も「ブルースになる」と言ってもいいほどだ。

私が持っている憂歌団のレコードは『17/18 oz』(1991)と、2枚組『憂歌団 Rolling 70s』(1994)というベスト盤CDだけだったが、彼らの名曲をほとんどカバーしているこの40曲ほどを、何度も繰り返し聴いてきた。今はこれらをまとめた新しいベスト盤も、DVDも何枚か出ているし、木村充揮のソロ・アルバムも何枚かリリースされている。それにYouTubeでも過去のライヴ演奏など、かなり昔の記録までアップされていて、映像では内田勘太郎の見事なギタープレイもたっぷりと楽しめる。憂歌団のレパートリーは、ブルース原曲や、アメリカのスタンダード曲に加え、オリジナル曲の「おそうじオバチャン」、「当たれ!宝くじ」、「パチンコ」、「嫌んなった」など、70年代憂歌団の超パワフルで、いかにも大阪的なパンチのきいた楽曲が最高だ。しかしシャウトする曲だけではなく、木村がブルージーかつ、しみじみと唄う「胸が痛い」「夜明けのララバイ」「けだるい二人」のようなバラード曲や、「夢」「サンセット理髪店」など、ほのぼの系の歌も絶品だ。ただし、バンドとしての憂歌団の素晴らしさをいちばん味わえるのは、何といってもライヴ演奏だろう。それも大阪でやったライヴが特に楽しめる(聴衆のノリが違う)。ライヴで唄う定番曲「恋のバカンス」や「君といつまでも」他の、日本のポップスの木村流カバーも非常に楽しめる(時々、森進一みたいに聞こえるときもあるが)。

「憂歌団」というバンド自体は1998年に活動休止したが、その後も内田勘太郎と木村充揮はソロ活動を続け、2014年には「憂歌兄弟」を結成したり、二人は今もソロや種々のコラボ企画で活動を続けている。現在YouTube上では、多彩なミュージシャンと木村充揮の共演記録が貴重な映像で見られる。もう70歳に近く、さすがに昔のようなワイルドさは減ったが、今や「枯淡の域」に達した感のある木村のソロ・ライヴ記録はどれも本当に面白い。最近ではコロナ前2018年に地元の大阪、昭和町(阿倍野区)のイベントでやった屋外ソロ・ライヴ(「どっぷり昭和町」)が傑作だ。お笑いと同じく、演者と観客が一体化して盛り上がる大阪ならではのライヴは、とにかく見ていて楽しい。木村を「アホー」呼ばわりし「はよ唄え」と、突っ込みながら歌をせがむ観客と、舞台上で悠然と酒を飲み、タバコをふかして、その観客に向かって「じゃかっしー、アホンダラ!」と丁々発止で渡り合い、適当に客をイジり、イジられながら、ギター1本で延々と語り、唄う木村充揮の芸は、まさにブルースなればこそ、大阪なればこそ、という最高のパフォーマンスだ。もうこうなると、もはや完全に名人芸「ブルース漫談」の芸域だ。

The Live (2019)
また憂歌団時代はつい内田勘太郎ばかりに目が行っていたギターだが、映像で見ると、ソロで唄うようになった木村のブルース・ギターが、半端なく上手いことがよくわかる。今はアンプをつないだエレキが多いが、カッティング、ヴォイシングともに、限られた音数のギター1本だけで、その独特のヴォーカルを伴奏しながら、深くブルージーなグルーヴを生み出すテクニックはすごいものだ(しかも酒を飲み、客と冗談を言い合いながら)。世界には「吟遊詩人」の時代から、ギター一本の伴奏と歌だけで「その音楽固有の世界」を瞬時に生み出してしまう名人アーティストがいるもので、「ボサノヴァ」ならジョアン・ジルベルト、「演歌」なら船村徹が思い浮かぶが、木村充揮は間違いなく世界に一人しかいない稀代の「日本語ブルース歌手」である。その木村は、コロナが収束に向かっていることもあり、今年は7月以降のライヴスケジュールもびっしりとつまっているし、9月初めには、何とあの東京のど真ん中「丸の内 Cotton Club」でライヴをやるらしい。いや、楽しみだが、大丈夫か(何が)?

団塊の若者が主導し、1960年代的「混沌」を半分引きずりながら、同時に高度経済成長に支えられた未来への「希望」が入り混じった1970年代のカオス的でパワフルなカルチャーには、商業的成功だけではない、サブカル的音楽の存在と価値を認め、それを楽しむ度量というものがあった。それに当時は老いも若きも、まだ国民の半分くらいは「自分は貧乏だ」という意識があって、それを別に恥じることもなく、かつ「権力には媚びない」という60年代的美意識がまだ残っていた。この70時代から80年代にかけてのポピュラー音楽からは、音楽的な洗練度とは別に、「生身の人間」が作っているというパワーと手作り感が強烈に感じられるのだ。ところが80年代に入って日本がバブルへと向かい、みんながそこそこ裕福になり、世の中も人間もオシャレになってくると、音楽も徐々に洗練されるのと同時に、80年代末頃からは、デジタル技術が音楽の作り方そのものを変え始める(生身の人間による音楽の「総本家」たる即興音楽ジャズさえも、80年代以降は明らかに変質してゆく)。聴き手側でも、「おそうじオバチャン」的世界を共感を持って面白がり、支持する層も徐々に減って行っただろう。憂歌団にはブルースという普遍的な音楽バックボーンがあり、決して流行り歌を唄うだけのバンドではなかったが、こうして社会と人間の音楽への嗜好が変わって行くと、バンドの立ち位置も微妙に変化せざるを得なかっただろう。

20世紀後半は日本に限らず、世界中でありとあらゆる種類のポピュラー音楽が爆発的に発展した時代だ。その時代に生まれた様々な、しかも個性豊かな音楽に囲まれて青春時代を送り、生きた我々の世代は本当に幸運だったと思う。その世代には、この世に音楽がなかったら、人生がどんなにつまらないものになるか、と本気で思っている人が大勢いることだろう。しかし、この20世紀後半のような幸福な時代――次々に新たな大衆音楽が生まれ、それを創造する才能が続々と登場し、それらを聴き楽しむ人が爆発的に増え、音楽と人が真剣に向き合い、感応し合い、楽しく共存した時代――は、もう二度とやって来ないだろう。あの半世紀は「特別な時代」だったのだ。この夏も、こうして70年代「憂歌団」の超個性的な演奏を聴きながら思うのは、そのことだ。

2020/09/04

あの頃のジャズを「読む」 #7:日本産フリー・ジャズ(山下洋輔)

ジャズ・ミュージシャン側が1970年代にどう考えていたのか、ということにも興味が湧くが、今と違って、当時はジャズを演奏する側が自分で書いたものを発表すること自体がほとんどなかった。つべこべ言わずに演奏家は音楽で勝負する、というのが暗黙のルールだったからなのだろう。その例外が山下洋輔と高柳昌行というフリー・ジャズの演奏家だ。しかし、アメリカではコルトレーンに続くアイラーの死(1970)でフリー・ジャズの時代がほぼ終わり、日米ともに商業音楽フュージョンがジャズ・マーケットの主流になり、ヒノテルやナベサダを除けばレコードを中心に1950/60年代のジャズがまだ人気だった当時の日本のジャズシーンで、「同時代のジャズ」と文字通り本気で格闘しながら、何か発信したいと思っていたのは、当時はジャズメディアからもほとんど無視されていた日本のフリー・ジャズ演奏家たちだけだったのかもしれない。

風雲ジャズ帖
山下洋輔
1975/1982 徳間文庫版
日本におけるフリー・ジャズの代表的演奏家の一人で、かつエッセイストが山下洋輔 (1942 -) だが、1960年代前半から、高柳昌行の「銀巴里」での実験的セッションに富樫雅彦たちと参加していた頃は、まだ主にバップ系の普通のジャズを演奏していた。60年代半ばにはフリー・ジャズ的演奏も始めるが、その後一時的に病気療養した後の1969年に、第1次山下トリオ(森山威男-ds、中村誠一-ts)を結成してフリー・ジャズ一本に転向し、演奏活動を続けながら、70年代半ば以降になって『風雲ジャズ帖』(1975 音楽之友社)、『ピアニストを笑え!』(1976 晶文社)他の本を矢継ぎ早に出版した。私はほぼ全部を読んでいたが、内容の面白さ、質の高さもさることながら、何よりその文才にびっくりした。本を書き、出版したジャズ・ミュージシャンは山下洋輔が初めてだと思うが、それまでのジャズ評論家と呼ばれる人たちが書いたものとはまったく違う、スピード感とジャズ的ビートに満ちた文章は読んでいて本当に面白かった。ジャズ・ミュージシャンとはエモーション一発で動く人たちばかりだと当時は思い込んでいたので(失礼)、ユーモアに満ちたエッセイと共に、知的で明晰な文章を書く山下洋輔を知って、まったくイメージが逆転したのを覚えている。海外のフリー・ジャズ・ミュージシャンたちを見てもそうだが、本物の知性と音楽的技量がないと、あの時代に本気でフリー・ジャズなどやれないのである。

初エッセイ集である『風雲ジャズ帖』は、1970年代はじめから山下が雑誌等に寄稿したエッセイや対談を編纂した本で、山下のエッセイの他に、グループのメンバーや、筒井康隆(作家)、菊地雅章(ジャズ・ピアニスト 1939-2015)などとの対談も収載されている。中でも文化人類学者の青木保 (1938-) との<表現>と題された長い対話(初出 1971年 社会思想社)では、あの時代のジャズが演奏者と聴き手にとってどういうものだったのかを語り、またジャズと祭事の文化的類似性について探るなど、非常に奥の深い議論を交わしている。昔から思っていることだが、ジャズ本でいちばん興味深く、読んで面白いのは、本音で自らの考えを語る知的なジャズ・ミュージシャンのインタビューである。またこの本には、当時進路に悩み、しかもピアノが弾けない病気療養中に山下が書いたという『ブルー・ノート研究』(初出 1969年 音楽芸術)という、ジャズにおける「ブルー・ノート」の真の意味を探る、彼の唯一の音楽研究論文も収載されている。これは、近代西洋音楽の音階と和声論だけで、ブルー・ノートを含むジャズという音楽を強引に析することには無理があり、ヨーロッパ的和声とアフリカ的音階・旋律の融和し得ないせめぎあい(アンビヴァレンス)にこそジャズの本質があるという、当時主流だったバークリーを筆頭とするコード(記号化)進行によるジャズの西洋的単純化(システム化)思想に一石を投じた本格的論文だ。そして退院後の1969年に、それまでのジャズ・ミュージシャンとしての悩みのあれこれを払拭すべく、山下は意を決して、ビバップから「ドシャメシャ」のフリー・ジャズの世界へと本気で向かうのである。

DANCING古事記
1969 at 早稲田大学
私は語れるほどフリー・ジャズを聴いたわけではないが(高度成長期の日本の普通のサラリーマンで、規則や秩序を無視、破壊するフリー・ジャズを好んで聴いていた人は少ないのではないかと思う)、個人的分類法だと、当時のフリー・ジャズには体験型の「体育会系」(タモさんは「スポーツ・ジャズ」と呼んでいた)と、観念型の「芸術系」と二通りあったように思う。ジャズは何といってもレコードよりもライヴが面白いのは事実だが、特に体育会系フリー・ジャズはそうだった。山下Gに代表される前者は音を「聴く」というよりも「体験する」、あれこれアタマで考えずに、音に身体を投げ出してその中で全身に音を浴びる、と形容した方が適切な音楽だった。まさに「祭り」に参加するのと同じなのだ。だからそのライヴはわけもなく盛り上がって楽しいときもあって、たまに聴くとスカッとして実に気分が良かった(ただし聴く気力、体力ともに必要だったが)。山下が発掘した若き日のタモリや坂田明が登場したライヴ・コンサートなどは、ハチャメチャでいながらジャズの神髄を感じさせ、本当に面白かった。山下Gの当時のフリー・ジャズの特徴は、フュージョンとは違った意味で、70年代的な「健全性」があり、音楽が明るいことだ。ある意味ロックに通じる高揚感と爽快感があったが、リズムとハーモニーの多彩さ、複雑さ、そして何が起こるか分からないという、パターン化とは無縁の演奏の自由さがジャズならではの魅力だった

ジャズとは「集団による行為」であり、プレイヤー同士が瞬間に反応し、応酬し合う運動競技と同じで、プレイの結果が美や芸術として昇華するならともかく、最初から「芸術」や「作品」を作ろうなどとするジャズはだめだと山下は繰り返し発言し、芸術指向のジャズを否定している。だから「現代音楽的」なジャズになることだけは避ける、というのが全員が音大出のフリー・ジャズ・トリオの約束事だったという。電気の力ではなくアコースティック楽器にこだわり、奏者が生身の行為を通じて楽器を鳴らし、出した音に対して相手も瞬時に即興の音で応じるという「フリー・ジャズ」を思想としてではなく、ジャズが原初的に持っていた肉体を用いた演奏技法(Proto-Jazz)として追求する、というのが山下トリオの基本コンセプトだった。TV番組(田原総一朗・演出)で早稲田全共闘の拠点で学生たちを前にして演奏したり(『Dancing古事記』1969)、防火服を着たまま燃え上がるピアノを演奏したり(『ピアノ炎上』粟津潔 1973) するなど、激しい時代の激しい(?)演奏体験を通して、3人が結果的に到達した表現が、それまでのジャズにはなかった「日本的祝祭空間」だった。そしてこれは、#6で述べたように、70年代のフュージョンの台頭で失われつつあったジャズ本来の始原的パワーの復権という意味もあった。

キアズマ Live in Germany
1975 MPS
第二次山下トリオ(中村→坂田明-as)が1970年代半ばからヨーロッパのジャズ祭に出演し、特にドイツで評価された理由は、(クラシック音楽の伝統という重い足かせから逃れようとしていた現代音楽に、限りなく近づきつつああった)頭でっかちで芸術指向のヨーロッパのフリー・ジャズとは異なる、自由と解放感に満ちた日本的祝祭」という表現上のシンプルさとパワーが、それまでになかった高揚感をドイツの聴衆に喚起し、同時に「日本人のジャズ」という音楽上のオリジナリティ、アイデンティティが、その演奏の中に紛れもなく存在していたからだろう。山下洋輔トリオによる「日本オリジン」のフリー・ジャズは、70年代を通じて、メンバーを変えながら異種格闘技やアメリカ乱入などの欧米訪問を含めて1983年まで14年間も続き、初めて「日本人のジャズ」を世界に認知させた。これは山下Gだけが成し得た功績である。山下トリオの音楽は、その演奏コンセプトからしても、基本的に現場で聴くライヴだからこそ価値があるものと言えるが、ドイツでの『キアズマ』など、当時のその「音」を捉えた記録としてのレコードも、2次的な体験になるがやはり一聴に値する。

ジャズの証言
山下洋輔 相倉久人
2017 新潮新書
その山下洋輔が「師匠」と呼ぶ相倉久人と何度か行なった未発表の対談記録を、2015年に相倉が亡くなった後、書き起こして発表したのが『ジャズの証言』(2017 新潮新書)だ。山下の音楽とその思想の背景を幼少期から辿りつつ、日本のジャズ黎明期から70年代の独自のフリー・フォーム形成に至った経緯を中心に、相倉の質問に山下が答える形式で構成した対談である。60年代の初期の活動に始まり、70年代から80年代初めにかけてのフリー、トリオ解散後のソロ活動、80年代末から現在まで続くニューヨーク・トリオ、その間のクラシック音楽との接近、さらには2007年の日本におけるセシル・テイラーとの共演に至る、山下洋輔のジャズ思想形成と実践の経緯が、様々な角度から述べられている。本書で山下は、1960年代初めからの相倉の言辞が、ジャズ・ミュージシャンとして進むべき道を決めるための刺激となり、指針にもなったと繰り返し語っている。この対談を読んで感じたのは、二人が知性、生き方、美意識、表現手法という点で、そもそも共通の資質、価値観というものを持っていたように思えることだ。だから二人の出会いは、双方の人生にとって幸運なものだったのだろう。

また当時、日本的な空間美を意識した「芸術系」フリー・ジャズの最重要ミュージシャンだったのが天才ドラマーの富樫雅彦(1940 -2007)だ。「銀巴里」セッションをはじめ、相倉久人と一緒に行動していた1960年代の富樫雅彦と山下洋輔の関係はあまり知らなかったのだが、本書には同じようにフリー・ジャズの世界を指向しながら、二人が結果的に別々の道を歩むことになった経緯も書かれている。富樫は佐藤允彦(p) と共演するなど絶頂期だった1970年に不幸な事故に会い、下半身不随という後遺症と向き合いながら、その後パーカッショニストとして復活して数多くの名演を残した。また70年代半ばからは間章 (あいだ・あきら)の仲介を経て、スティーヴ・レイシーなど多くの海外ミュージシャンとも共演してその音楽世界を拡大し、2007年に亡くなるまで演奏活動を続けた。いずれにしろ、相倉の目指した、アメリカのモノマネを越えて、(世界に通用する)日本独自のジャズを創造するというヴィジョンは、表現手法は異なっても、山下洋輔と富樫雅彦という二人の日本人ミュージシャンによって実現したと言えるだろう。近年「和ジャズ」がブームになっているが、日本ならではのオリジナリティを持ち、しかもメジャーな存在として世界に認知された「正真正銘の和ジャズ」と呼べる音楽を創造したのは、間違いなく50年前の山下洋輔と富樫雅彦であり、また当時二人と共演した日本人ミュージシャンたちだったと思う。

2020/07/31

あの頃のジャズを「読む」 #5:ジャズ批評家(相倉久人)

ジャズの歴史物語
2018 角川ソフィア文庫
1970年代になると、安価な国産アナログLPレコードが大量に流通するようになり、オーディオもレコードも買えるようになったジャズファン層向け市場が大きく成長していた。ジャズ雑誌には「ジャズ評論家」と呼ばれた人たちが書いた、毎月各社から大量に発売される新譜レコード(復刻盤含)、名盤の解説やレコード評が掲載されていた。当時は他に情報源がなかったので、普通のジャズファンは、まずそれらのレビューを参考にして、気に入りそうなレコードを選んで購入していたわけである。当然だが、市場拡大につれ、レコードを売りたいレコード会社と、その広告を主たる収入源としていたジャズメディアとの間に、商業主義が忍び込む構造が益々強まった。1960/70年代の有名なジャズ評論家としては、野口久光、植草甚一、いソノてルヲ、大橋巨泉、油井正一、相倉久人、久保田二郎、粟村正昭、岩波洋三、大和明、佐藤秀樹、岡崎正通のような人たちがいた。これら評論家の中には、単なるレコード評、ミュージシャン評にとどまらず、ジャズという音楽全体を俯瞰する視点で書いた本格的な論稿、書籍を発表する人たちもいた。当時の「本流」と言うべき代表的批評家が、モンクやパーカーと同世代であり、同時代の音楽としてジャズと向き合ってきた油井正一(1918 - 98)である。ジャズの基本知識を分かりやすく軽妙に解説している油井の代表作で、今や古典と言うべきジャズ入門書『ジャズの歴史物語』(1972 スイングジャーナル社)は、3代目となる角川文庫版が2018年に出版され、半世紀近く読み続けられている名著だ。

一方、大正生まれの油井より一世代ほど後、昭和一桁生まれの相倉久人(あいくら・ひさと 1931 - 2015)は、1960年代の「前衛」を代表する批評家であり、単なる批評家に留まらず、日本独自のジャズ創出に注力した「ジャズ思想家」と呼ぶべき人物でもあった。当時のジャズ評論家が、レコード・コレクター、元ミュージシャン、デザイナー、作家、ジャズ誌編集者などの前歴や本業を持っていたのに対し、戦争末期(1945)の中学時代に難関だった陸軍幼年学校を受験し、合格、入学するも、わずか4ヶ月後に終戦を迎え、その後東大文学部美学科に入学したが、ジャズに夢中になってジャズ喫茶に入り浸って大学を中退、その後雑誌編集の手伝いをしたのがジャズ人生の始まり……という変わり種だった。楽器を演奏せず、レコードもレコードプレーヤーも持たず、当時有楽町にあった「コンボ」というジャズ喫茶だけが主な情報源で、大橋巨泉やいソノてルヲ、銀座のクラブへ出演する途中に同店へ立ち寄っていた秋吉敏子や渡辺貞夫をはじめとするジャズ・ミュージシャンたちとも交流していた。やがて60年代になると、高柳昌行たちの実験的ジャズ演奏現場に直接関わるようになり、そうした体験を通じて自らの目と耳を鍛えることで、独自のジャズ観と思想を作り上げていった。

相倉久人ジャズ著作大全
上巻/2013 DU BOOKS
前に触れたように、私が1970年頃に初めて買った相倉久人のジャズ本『現代ジャズの視点』(1967)は、ジャズ初心者には難しすぎて面白くも何ともなかったが、今は多少は分かるようになった同書と、初の単行本『モダン・ジャズ鑑賞』(1963) に加え、1954年の初の記名論稿を<上巻>に、『ジャズからの挨拶』(1968) と『ジャズからの出発』(1973) という後期2作を<下巻>に収め、1954年から70年代初めにかけて発表した単行本4部作を完全収載し、相倉の最晩年になって出版したのが『相倉久人ジャズ著作大全』(上/下巻、2013 DU BOOKS)である。ジャズをより深く理解したいという人向けの本であり、歯ごたえのない「薄い、軽い、速い」という本ばやりの昨今だが、相倉が20年近くにわたって様々な媒体に寄稿した文章を編纂した、この「分厚く、濃い」<上/下2巻>をじっくりと読めば、ジャズとは何か、日本のジャズ史がどのようなものだったのか、そのほぼすべてが表層ではなく「より深いレベルで」理解できる。ジャズという音楽の歴史、ジャズをどう聴くか、なども通り一遍の解説ではないし、相倉がほぼリアルタイムで聴いていた60年代のコルトレーン、マイルス、ロリンズ、ミンガス、ドルフィー他に関する分析と批評も実に深く鋭い。さらに当時は誤った、あるいは曖昧な理解が多かったレニー・トリスターノ、セロニアス・モンク、セシル・テイラー等に関する論稿などは、あの時代の日本に、ここまで深く、的確に彼らの音楽の本質を理解していた批評家がいたのか、と驚くほど洞察力に富むものだ。

私がジャズに熱中した70年代には、相倉久人という名前をメディア上で聞くことはほとんどなくなっていた。理由は1971年に相倉が完全にジャズ界を去り、しかも60年代半ばに思想対立のために絶縁した「スイングジャーナル」誌が完全に相倉の存在を無視していたからだろう。しかし、1960年代という「政治とジャズの時代」に、もっとも熱くジャズと向き合い、独自の批評を展開していたのは相倉久人だった。ただし、その主対象は海外ミュージシャンのレコードや、50年代から既に表舞台にいた有名日本人ジャズマンというよりも、当時、日本独自のジャズを創造すべく地道に挑戦していた一群の若いジャズ・ミュージシャンと彼らの演奏活動にあった。自分でもジャズを演奏したかったが、楽器ができないので、やむなく「言葉」でジャズに関わった、と繰り返し述べているように、相倉にとってのジャズは娯楽ではなく、本ブログ#4までに書いたようなジャズレコードを集め、それを再生して楽しむ普通のジャズの聴き手の世界とは無縁だ。ジャズとは、レコードの音溝に記録された死んだ音楽ではなく、常に生きて動いている「行為」そのもののことであり、聴き手も鑑賞ではなく同時に参加する音楽だと捉えていた。60年代の著作を読めば分かるが、当時の相倉久人ほどストイックな深い視点で「ジャズとは何か?」という問いに対峙した「批評家」は、後にも先にも日本にはいないと思う。

相倉久人ジャズ著作大全
下巻/2013 DU BOOKS
1950年代から続く、アメリカのコピーが主流だった日本の商業的ジャズに飽き足らず、60年代初めにシャンソン喫茶「銀巴里」を拠点に、日本独自のジャズを生み出そうと模索し始めていた高柳昌行(g) や金井英人(b) 等の実験的ミュージシャンたちに加わった相倉が、やがて銀座「ジャズギャラリー8」や新宿「ピットイン」などのクラブで司会を務めつつ、山下洋輔、富樫雅彦といった当時新進のジャズ・ミュージシャンたちと交流し、彼らを理論的に導き、精神的に支えながら現場に関わり続けた経緯も本書に詳しい。「司会とは<言葉>によるジャズ演奏行為だ」というのが持論で、セロニアス・モンク(1963年)やジョン・コルトレーン(1966年)、さらにオーネット・コールマン(1967年)の初来日公演という、日本ジャズ史に残る記念すべき大イベントの司会進行も、30代の若さでいながら当意即妙の話術(インプロ)でこなした(全東京公演の司会をしたモンクを銀座に案内したが、予想通りほとんど会話はなく、その代りに一緒に来日していたネリー夫人、ニカ夫人と楽屋で会話したらしい)。加えて<下巻>には、相倉がジャズから離れていった70年代初めの、ロックやフォーク、演歌や歌謡曲というジャンルへの関心の高まりを示す初期の批評文も収められている。特に日本の歌謡曲の歌詞とメロディ、それを唄う青江三奈、北島三郎、藤圭子といった名歌手の「うた」とは何かに触れた文章は非常に興味深く、「日本のうた」の世界を、ジャズの理解と同じく原点から見直し、独自の視点で観察、分析する音楽評論はそれまでの日本にはなかっただろう。そこに洋の東西を問わない相倉の音楽思想の根幹が見えるようだ。そしてこれらが、70年代以降ジャズを離れた相倉のポピュラー音楽批評活動の出発点となった。

自らを「宇宙人」(!?) と称し、鋼鉄のようにクールで強靭な思想と理論で武装し、既成概念にとらわれず、権威に媚びず、徒党を組まず、60年代を通じてブレることなく独自のジャズ批評の世界を追求したのが相倉久人だった。血気盛んだった60年代半ばには、権威を振りかざす当時の「スイングジャーナル」編集部と喧嘩別れし、その後も武田和命や日本のフリー・ジャズに批判的な同誌の姿勢と対決するなど、権威や商業主義とは常に一線を画して批評活動を続けた。ジャズとは、あくまで「奏者と聴衆による共同行為」であると捉え、その「場」から生じる音楽エネルギーが相互にどう伝達され、そこに何が生じるのかという「力学」をチャート化し、物理学者のようにクールに分析する60年代の相倉久人のジャズ論は観念的かつ抽象的で難解だ。レコードや紙上の情報だけではなく、実際の演奏現場で鍛えた「プロの聴き手」相倉の思想を、ポピュラー音楽として、あるいはレコードで聴くジャズが一般的だった当時のメディアや普通のジャズファンがどこまで理解し、共感できたかは確かに疑問だ。当時ジャズ演奏の楽理やメソッドを真に理解していたのは、限られた数のプロ・ミュージシャンたちだけだった時代である。娯楽として「レコードを聴くだけ」の素人に至っては、素晴らしいジャズの即興演奏が、まるでマジックとしか思えないように聞こえた時代なのだ(私もその一人だった)。「音楽を語る」と言えば、ほとんどテクニカルな分析ばかりになった現代から見たら、信じ難いほどディープな議論を当時の相倉は提示していたわけである。

しかし「言葉による批評」をジャズ演奏行為と同一視する相倉の文章を今になって読むと、当時の時代背景や文脈なしには理解できないような言説を唱える人間が多かった中で、相倉の言葉には、それらを捨象しても何の問題もなく理解できる、時代を超えた普遍性があるのだ。現代の感覚からすると、政治の時代だった60年代的左翼フレーバーが濃厚に感じられることは否定できないし、一部論稿には「革命云々」といった過激な60年代的タームも多用されているが、当時の相倉に自ら政治活動に関与する意図はなく、ジャズという音楽がその出自のゆえに本質的に内包する属性(反体制的精神)が、ブラック・パワーやスチューデント・パワーが噴出していたあの時代の精神と激しく反応し共鳴している、ということを指摘しているだけだ。(そして、時代を先導し、時代の気分を象徴する音楽と言われていたジャズを、時代がついに追い越してしまったと相倉が感じたのが1970年前後だった。)ジャズという音楽の表層ではなく、歴史的視野を踏まえてその本質を捉えるという点で、相倉久人に並ぶ論客はいなかった。常に音楽社会学、音楽文化論的視点でジャズを見渡し、独自の美学と理論で貫かれた知的で骨のある文章を読み通すのは簡単ではないが、こうした論理的で硬質な文章を書くジャズ批評家は当時の日本には他に存在しなかったし、今もいない。相倉久人の60年代ジャズ思想を網羅した「ジャズ著作大全」は、油井正一の名著と並んで、日本のジャズ書アーカイブの筆頭に置かれるべき本だろう。

至高の日本ジャズ全史
2012 集英社新書
ジャズを離れた相倉久人は、晩年の2000年代になってから、何冊か回顧録的なジャズ本を出版している。ほとんどは上記「大全」からのダイジェスト的内容で、その一冊『至高の日本ジャズ全史』(2012 集英社新書)は、特に戦後から1960年代にかけての日本独自のジャズ形成史に焦点を当てて、批評家としての相倉の視点からあらためて振り返ったものだ。オビの文言は大仰だが、日本ならではの「国産ジャズ創出」への当時の熱気が伝わってくるような裏話がたくさん書かれている。有楽町「コンボ」と横浜「モカンボ」を結ぶ、ビバップ時代の守安祥太郎、秋吉敏子、ハンプトン・ホーズ他、もう名前も知らない人が大部分だと思われる実に多彩なジャズ・ミュージシャンたちの逸話と、その後60年代に日本産のジャズ創出を目指した前衛的ミュージシャンたちの活動など、その渦中にいた相倉ならではの観察と分析が興味深い。巻末には、山下洋輔を挟んで相倉の孫弟子のような存在でもある菊地成孔との、お喋りな自称・死神同士(?)による70年代以降のジャズを俯瞰する面白い対談も掲載されている。

ところで、元々はアメリカ生まれのジャズだが、「アメリカのモノマネではないジャズを」、「純国産かつ本物のジャズを」という、相倉久人や高柳昌行といった前衛指向の人たちが1960年代になって描いたという「ジャズの土着化」ヴィジョンが、当時のソニーやホンダのような日本企業が掲げていた目標と「同質」であるところが個人的には非常に興味深い。これもまた、60年代の進歩的、左翼的政治思想と共に、当時の日本全体を覆っていた「時代の空気」の一部だったのだろう。この本の中で、共同で演劇とジャズの融合を試みていた紅テントの唐十郎が、相倉久人のことを、先頭に立って組織を引っ張るタイプではなく、組織形成を促す「触媒のような人物」だと評した、という話が出て来る。相倉久人の本質は、自由を好み、あらゆる権威や支配/被支配を嫌うアナーキストであり、人を巻き込むオルガナイザーというよりも、新たな「こと」や「人」を生み出す環境を醸成し、そこに創造の喜びを見出すインキュベーターだったのだと思う。つまり人物そのものが「ジャズ的」だった。相倉を師匠と呼んだ山下洋輔が、その後の日本ジャズ界でどのような役割を演じてきたのかを見れば、アーティストを見極める相倉のインキュベーターとしての先見性がよく分かる。

60年代を通じてジャズ批評家として行動していた相倉だったが、もっとも期待をかけていた山下洋輔が1969年にフリー・ジャズのトリオを発足させ、目指していた日本オリジンのジャズを実現し、活動が軌道に乗りかけたと判断すると、「言葉」によって日本のジャズを孵化(incubate) させ、テイクオフさせるという自分の役目はもう終わった、と語って1971年にジャズ界からさっさと足を洗う(理由はもちろんそれだけではない)。その後は前衛映画制作に関わったり、ロック、ポップス、歌謡曲という異ジャンル音楽の批評家へと転身し、レコード大賞審査員やヤマハのコンテストの審査委員長を務める……など、あくまで「単独で」音楽ジャンルをクロスオーヴァーしてゆくこの軽快な足取りは、どう見てもアナーキストである。しかし相倉の盟友でもあった平岡正明のような政治的匂いがせず、しかし単なる批評家でもなく、常に「創作現場」の情況を見渡し、興味を持つと、そこに「行動する批評家」として自ら関わってゆくところが相倉久人なのである。

油井正一と相倉久人という私が好きな二人のジャズ批評家は、60年代から70年代初めにかけて「保守本流」と「前衛」という、いわば対照的な批評活動をしていたが、両者ともに魅力的な人物だった。単なるモノ書きではなく、油井はラジオ放送で、相倉は様々なイベント司会(MC)で、「言葉」を操って場を仕切ってゆくパフォーマーとしての優れた能力があった。しかも二人とも、本やラジオでの対談で分かるように、深い知識と教養がありながら偉ぶらず、飄々としていて会話が実に面白いのだ(これらも非常に大事なジャズ的要素だ)。ジャズに関する幅広く深い知識を有し、有力メディアを通じて分かりやすい語り口で大衆を啓蒙したモダニストが油井正一だとすれば、独自のジャズ美学を構築し、日本人のジャズ創作現場と常に密着しながら、彼らを鼓舞、扇動した一匹狼のアナーキストが相倉久人だった――とも言えようか。しかし、この二人の代表的批評家が「1970年頃までのジャズ」を語った本が、今も十分読むに値するという事実こそ、その後の半世紀、追記すべきほどの大きな歴史的進化がジャズにはなかった、ということの証左なのだろう。

2018/12/27

男のバラード

今年も間もなく暮れようとしていて、また一つ年を取る。人間、一般的に年を取ると、たまにはいいとしても、激しい演奏、速い演奏の音楽からは徐々に遠ざかるのが普通だ。そういう音楽は、聴くだけでも体力が必要とされるからだ(そうでない人、死ぬまで元気な?人も、中にはいるのだろうが)。そこで最近は、ジャズでもゆったりしたテンポのレコードを聴く機会がどうしても増える。血湧き肉は躍らないが、来し方や短い行く末に思いを馳せながら、じっくり感慨に浸ることもできるし、心静かに美しいサウンドそのものに感動することもできる。そうなるとバラード系になるが、一言でジャズのバラード演奏と言っても、メロウなものから非常にハードなものまで様々なものがある。これに楽器の種類が加わるので、演奏もレコードも数多く多彩だ。一般的にはジャズ・バラードというと、ソフトで叙情的な音楽を想像するが、中には「男のバラード」(昭和歌謡のタイトルみたいだが)とでも呼びたくなるような、全体に骨のある、ハードな雰囲気を持つバラード演奏やアルバムもある。単にやさしく、ソフトで、美しいだけではない、男性的な音楽表現が感じられる演奏である。こういうレコードを、たまに聴くと非常に気持ちが良い。背筋がピンとするような気がする。ピアノでもそういう奏者はいるし(たとえばモンク)、ギターでもいるが(たとえばパット・マルティーノ)、いずれも楽器の性格上そうはっきりとした表現は難しい。トランペットやアルトサックスは、繊細な、抒情的な、あるいはエネルギッシュな演奏はあっても、基本的にトーンが高いので、どうしても渋く、男性的な哀愁を感じさせるサウンドとは言い難い。そうなると、やはりテナーサックス系の奏者とアルバムになる。その代表格として私的に思い浮かぶのは、古くはコールマン・ホーキンズやベン・ウェブスター、ビバップ以降ではソニー・ロリンズやバルネ・ウィラン、バリトンサックスだがジェリー・マリガンなどだ。ただ、それ以外にもそうした奏者はいるし、ここに挙げたようなレコードもある。いずれのアルバムも、ジャケット写真からして男っぽさが溢れるようである。

The Message
J.R.Monterose
1959 Jaro
最初の1枚は、J.R.モンテローズ(J.R.Monterose 1927-93)の『The Message』(1959 Jaroだ。モンテローズはそう有名な奏者ではなく、生涯のリーダー作の数も限られているが、スタッカートを多用したその豪快さ、男性的な音色と表現で昔からコアなファンが多い。このアルバムは文字通りモンテローズの代表作で、トミー・フラナガン(p)、ジミー・ギャリソン(b)、ピート・ラ・ロッカ(ds) というワン・ホーン・カルテットによるモンテローズのオリジナル作のダイナミックな演奏と共に、<Violets for Your Furs (コートにすみれを)>と<I Remember Clifford>という2曲のジャズ・バラードの名曲が収録されている。コルトレーンの有名なVioletes…>はソフトな演奏だが、モンテローズのこのアルバムでの演奏は、もっと男性的な哀愁がたっぷりと感じられるもう一つの世界だ。そして<I Remember....>は、クリフォード・ブラウンの死を悼んだ名曲で、幾多の名演があるが、私は中でも、晩年のバド・パウエルの「Golden Circle」(1962 Steeple Chase) における超スローなピアノ演奏と並んで、モンテローズのこの演奏がいちばん好きだ。このタメとサックスのカスレ具合と、男っぽい情感のこもった演奏は、他の奏者では決して聞けないモンテローズならではのバラードで、まさしくジャズ・バラード史上に残る名演だろう。ただし、濃い演奏なので、たまに聴くのがよい。

Ballads
Dexter Gordon
Blue Note (comp)
デクスター・ゴードン (Dexter Gordon 1923-90) が、1960年代前半にBlue Noteに録音した8枚の有名アルバムから(ただし70年代の下記8.を除く)1曲ずつスタンダードのバラード演奏をピックアップしたコンピレーション・アルバム『Ballads』もそうした1枚だ。デクスターの男らしく悠然としたテナーによるスローナンバーが、まとめて聴ける。私が買ったのは1990年代だったように思うが、未だにカタログから消えず、継続販売されている。コンピレーションCDでこれだけ息の長いものは、ジャズでは珍しいことからも、このアルバムの人気ぶりが想像できる。演奏曲目(オリジナル・アルバム、リリース年)は以下。
1. Darn That Dream (One Flight Up 1964) / 2. Dont Explain (A Swingin' Affair 1962) / 3. Im a Fool to Want You (Clubhouse 1965) / 4. Ernies Tune (Dexter Calling 1961) / 5. Youve Changed (Doin’ Allright 1961) / 6. Willow Weep for Me (Our Man in Paris 1963) / 7. Guess I'll Hang My Tears Out to Dry (Go 1962) / 8. Body and Soul (Nights at the Keystone Corner Vol.3 1978)

ドナルド・バードが(1)、フレディ・ハバードが (3),(5)で参加している他はデクスターのワンホーンである。また当然だが参加ピアニストも多彩で、ケニー・ドリュー(1, 4)、ソニー・クラーク(2, 7)、バリー・ハリス (3)、ホーレス・パーラン(5)、バド・パウエル(6)、ジョージ・ケイブルス(8)と、それぞれの奏者の伴奏の違いも楽しめる。(6) は映画『Round Midnight』(1988)でデクスターが演じたバド・パウエル本人との共演だ。

Beautiful!
Charles McPherson
1976 Xanadu
チャールズ・マクファーソン(Charles McPherson 1939-)は、チャーリー・パーカーを範として、60年代から活動してきたアルトサックス奏者で、モダン・ジャズの主役世代からは一世代以上遅れて登場した。『Beautiful!』(1976 Xanadu) は、そのマクファーソンがデューク・ジョーダン(p)、サム・ジョーンズ(b)、リロイ・ウィリアムズ(ds) とのカルテットで録音したワンホーン・アルバムだ。楽器はテナーではなくアルトなのだが、マクファーソンには60年代の Prestige時代から、アルト吹きとしてはどこか悠揚迫らざる男らしい風情があって、特に渋く味わいのあるワンホーン・アルバムとして私は昔からこのレコードが好きだ。理由の一部は、デューク・ジョーダンの滋味溢れるピアノも聞けるからだ。名演<But Beautiful> と <Body & Soul> というバラードに聞ける、ジョーダンのピアノの語り口と美しいメロディラインが、サム・ジョーンズのがっちりした太いベースに支えられたマクファーソンのワンホーン・アルトにぴったりなのである。バリー・ハリスなどもそうだが、70年代の4ビート・ジャズは今改めて聴くと、どの作品もジャズの豊かなエッセンスが感じられて実にいい。黄金の50年代、発展と変遷の60年代を経て、生き残って円熟した(半ば枯れた)ジャズメンが、肩肘の力を抜いて、フリーでもフュージョンでもない、自分の本当にやりたい音楽を素直に演奏したからだろう、皆とてもいい味を出している

Spirit Sensitive
Chico Freeman
1979 India Navigation
Spirit Sensitive』(1979 India Navigation) は、チコ・フリーマン(Chico Freeman 1949-)は前衛ジャズの人という、当時の大方の印象をくつがえした、70年代を代表する名バラード・アルバムで、シンプルかつ骨太の男らしいバラードが聞ける。このレコードは、最初日本ではPaddle Wheel(キング)のLPで出て、その後、米Analogue Productionから高音質CDとLPで再発された。Autumn in New York>から始まる全6曲がバラードで、ジョン・ヒックスのピアノが美しい<It Never Entered My Mind>が好きで一番聴いているが、実はアナログ・プロ盤のこのトラックは最初の日本盤とはテイクが違う。もともと録音のいいアルバムだが、音質もややソリッドなキング盤に比べると、アナログ・プロ盤はずっと音に厚みがある。特に全編大活躍するセシル・マクビーの骨太ベース、華麗なジョン・ヒックスのピアノの響き、ビリー・ハートのドラムスなども音の重量感が違う。当然フリーマンのテナーも太く豪快で、独特の男っぽいバラードの世界が一層楽しめる。(しかし評判が良かったこともあって、マクファーソンもこのフリーマンも、それぞれ続編と言うべきバラード・アルバムをその後出しているが、残念ながら2匹目のドジョウとはならなかったと思う。やはり、こういう作品を制作するには ”男としての旬” というものがあるのだろう。)

Gentle November
武田和命
1979 Frasco
 
最後に日本人プレイヤーをげると、やはり本ブログ別項でも紹介したテナーサックス奏者、武田和命(かずのり、1939-89)の最初にして最後のリーダー作『ジェントル・ノヴェンバー Gentle November』(1979 Frasco) だろう。山下洋輔(p)、国仲勝男(b)、森山威男(ds) とのワンホーン・カルテットで、<Soul Trane>他のコルトレーンにちなむ4曲と、武田の自作曲4曲からなるバラード集だ。これは上記アメリカ人ジャズマンの演奏とは何かが違う、まさに "草食系男子" のジャズ・バラードの世界である。つまり日本人の男にしか吹けない哀切さと抒情が、1枚のレコードいっぱいに満ち溢れている。哀しみや、やるせなさという感情は、当然ながらどの国の民族にもあるが、その表現の仕方はそれぞれの文化によって異なる。大げさな表現を好む民族もいれば、抑えた控えめな表現を好む民族もいて、日本人は後者の代表だ。その日本的悲哀の情を、ジャズというユニヴァーサルな音楽フォーマットの中で、これほど深く、繊細に表現した演奏は聴いたことがない。武田を支える山下トリオの、いつになく控えめで友情に満ちたバッキングもそうだ。60年代の、山下洋輔たちとのフリージャズ時代以降、早逝するまでの武田和命のジャズマン人生と、語り継がれる人柄を思いながら聴くと、一層このレコードの味わいが深まる。このレコードは日本男児のバラードを見事に表現した、文字通り日本ジャズ史に残る名盤である。

2017/09/07

東京ジャズでリー・コニッツを「見る」

93日(日)の「第16回東京ジャズ」昼の部に出かけた。東京ジャズは2014年以来で、その年はオーネット・コールマンが出演するというので、最後の姿だろうと思って丸の内の東京国際フォーラムまで行ったのだが、何と大ホールに入場してから突然アナウンスがあり、病気のためにコールマンが来日できなくなったという。急遽プログラムを変更して、コールマンの出番は小曽根真がMCで仕切った参加ミュージシャンたちによる即席の大ジャムセッションとなった。これはこれでハプニングが付き物のジャズらしくて非常に楽しく、その時のステージを堪能したことを覚えているが、残念ながらそのコールマンは翌年6月に亡くなってしまった。今はネット映像で何でも見られる時代だが、マイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンス、キース・ジャレットのような人たちをライヴで見た経験から言うと、ジャズファンにとって、生きている(本物の)ジャズの巨人を実際に目にする機会はやはり貴重で、一生記憶に残るものだ。ライヴで聞いた音の記憶はすぐに薄れるが、目で見たことはいつまでも覚えているものなのだ。

東京ジャズは今回から場所を渋谷に移し、Hall/ Street/ Clubという3会場がNHKホール代々木公園ケヤキ並木/ WWW(X)の3箇所になった。ところが当日の代々木公園では「渋谷区総合防災訓練」というイベントが同時に行なわれていて、NHKホール横のケヤキ並木と広場周辺では、緊急時の防災グッズを並べた白いテントが林立し、自衛隊による炊き出し(カレー)に長い行列ができ、お祭りの露店なども出ていて、あたりは人で一杯だった。ジャズ祭というのは、いわば「楽しい非日常」の世界だと思うが、防災訓練はあまり楽しくない非日常を想定した催しだ。どちらも非日常だが、これが同時に同じ場所で開催されるとミスマッチの極みで、まさに会場はchaosだった。私の印象ではストリート会場の雰囲気は、いろんな人が入り乱れていて、どう見てもジャズ祭には見えなかった。ステージの奏者もやりにくかったのではないかと思う。避難民の横で呑気にジャズなんか演奏したり聞いている場合か…というような思いがどうしても浮かんで来るのだ。したがって、きれいな丸の内のおしゃれな大人のジャズ祭というイメージだったのが、すっかり庶民的(?)な貧乏くさいムードになってしまい、しかもどう見ても主催者の言う若者の町で…という雰囲気でもない。非常に残念なことで、この日程はどうにかならなかったのだろうか。 

とはいえ、一歩NHKホールの中に入れば、もちろんそうしたchaosとは無縁のジャズの世界ではある。昼の部の最初のセットは ”Celebration” と題して、ジャズ100年(これはジャズが初めて「録音」されてから、という意味らしい)を振り返る企画で、狭間美帆指揮のデンマークラジオ・ビッグバンドと、フィーチャーされたアーティストが時代を代表するジャズを演奏するという趣向だ。ニューオリンズから始まり、スウィング、ビバップ、クール、(ハードバップやモードは多分時間の都合で飛ばして、いきなり)フリー、フュージョン、そして現代という区分けで、ビバップは日野皓正(tp)、クールはリー・コニッツ(as)、フリーは山下洋輔(p)、フュージョンはリー・リトナー(g)、現代はコーリー・ヘンリー(key)という人たちがフィーチャーされた。ニューオリンズのトレメ・ブラスバンドの賑やかなオープニングでコンサートが始まり、アモーレ&ルルが華麗なスウィング・ダンスを披露し、話題の(?)日野皓正は、うっぷんを吹き飛ばすかのように<チュニジアの夜>を圧倒的なエネルギーで豪快に吹き切り、リー・コニッツが登場し(後述)、ピアノに火を付けて燃やしながら演奏した、あの70年安保の時代の映像を写したスクリーンをバックに、山下洋輔が相変わらずパワフルなピアノを聞かせ、リトナーも懐かしいあのギター・テクニックを見せてくれ、ヘンリーは実に今風のサウンドをキーボードで美しく響かせた。これらのセッションはいずれも聞きごたえのある演奏で楽しめたが、特にビッグバンドを自在に操りながら、フィーチャーされた各ミュージシャンを引き立てる狭間美帆の「堂々たる」指揮(バンマス)ぶりには感心した。山下洋輔の教え子で作曲家兼アレンジャーらしいが、まだ若いのにアメリカでも高い評価を受けているようだし、優れた才能を感じさせる人だ。山中千尋もそうだが、今の日本の女性は音楽でも世界に飛び出して活躍していて本当に頼もしい。狭間美帆の音楽は、7月に大西順子とコラボしたモンクの音楽を取り上げたライヴを聞き逃したが、次に機会があればぜひまた聴いてみたい。斬新なアレンジによる現代のビッグバンド・ジャズは、サウンドがパワフルかつ新鮮で、聞いていて非常に楽しくて気持ちがいい。優れた作曲家やアレンジャーが手掛ければ、まだまだジャズを魅力的に掘り下げ、発展させる可能性を大いに秘めているフォーマットだと思った。
2番目のセットはシャイ・マエストロ・トリオ Shai Maestro Trioというイスラエルのピアノ・トリオで、私はこれまで聞いたことがなかった。全体に静謐、クールかつメロディアスなサウンドは、キース・ジャレットのようでもあり、昔聞いたノルウェーのヘルゲ・リエン・トリオを何となく思い出しながら聞いていたが、トリオが生み出す独特のメロディ、リズム、音階にはやはりユダヤ的サウンド特有の世界を感じた。カミラ・メザ Camila Mezaというチリ出身の女性ヴォーカリスト兼ギタリストが途中で加わったが、この人の歌とギターは素朴で、エキゾチックでいながら現代的でもあり、非常に素晴らしかった。このトリオとヴォーカルの生み出すサウンドとグルーヴには独特の響きと美しさがあり、初めて聴いたにもかかわらず、思わず引き込まれてしまうような魅力があった。イスラエル、南米という地理的な広がりだけでなく、ジャズという音楽が持つ懐の深さと裾野の広さ、同時にモダンなビッグバンドと同じく、ジャズの未来の可能性を感じさせる音楽だと思った。続く最後のセットは、チック・コリアとゴンサロ・ルバルカバのピアノ・デュオで、名人2人のインプロヴィゼーションは美しく見事だったが、私はそもそもピアノ・デュオというフォーマットそのものが昔から苦手なので、この演奏は普通に楽しんだだけだ。ピアノは他の楽器に比べるとそれ自体でほぼ完成されていて、1台だけであらゆるサウンドが出せる万能感のある楽器だ。だからソロなら奏者独自の聞かせどころと全体的な完結感があって聞いていてまだ面白いのだが、2台でやると音数が多過ぎて、2者の対話というより饒舌なお喋りを延々と聞かされているような気がして、ひと言で言うと「うるさい」のである。それが好きな人も勿論いると思うので、まあ、これは個人的な音楽の好みの問題です。ちなみに今回のコンサートの模様は、10月下旬にNHK BSでTV放送されるということだ。 

実は私が今回の東京ジャズに出かけた一番の目的は、最後の来日になるかもしれないリー・コニッツを「見る」ことだった。2013年の東京ジャズ出演を見逃したので、コールマンの例もあることだし、今回はぜひ見たかったからだ。来月90歳(!)になるコニッツが、上記 ”Celebration” の「クール・ジャズ」のパートになって、おぼつかない足取りで、エスコートの係員に手を引かれて舞台の袖から出て来た瞬間の姿を見ただけで、私の胸は一杯になった。昨年訳書「リー・コニッツ」の原著者アンディ・ハミルトンから、最近は物忘れが激しくなったようだ、という話をメールで聞いていたので、まさか90歳を迎える今年来日するとは夢にも思っていなかったのだ。そこで知人を通じて、東京ジャズの合間にどこかで個人的に会えないかアレンジを依頼していたのだが(自分の訳書にサインでもしてもらって宝物にしたかった)、ご本人が高齢であり、音楽に集中したいので、という理由で残念ながら直接会うことは叶わなかった。だが、とにかく最後になると思われる舞台上のコニッツの姿を見ることができただけで満足だ。コニッツはピアノとのデュオで<Darn That Dream>を吹き、しかも途中で突然スキャット(だったように思う)で歌い出したのだ! コニッツは歌うのが好きで、そのインプロヴィゼーションが歌うことから生まれるという話は訳書にも書いてある。聴衆は突然のことにきょとんとしたような反応だったが、彼をよく知るヨーロッパの聴衆ならおそらく拍手喝采の場面なのだろう。前日に、ある人から教えてもらった2011年のダン・テプファー(p)とのデュオによるヨーロッパ・ツアーの模様を捉えたドキュメンタリー動画(All The Things You Are, MEZZO)をインターネットで見たばかりだったので(コニッツの素顔を捉えたこの映像は貴重で素晴らしい)、今回のコニッツの外見や所作に6年の歳月をつくづく感じた。しかし、揺らめくように「歌う」独特のフレーズと、何とも言えない微妙なテクスチュアを持ったあの音色は健在だった。90年間ジャズに生きた巨匠が紡ぎ出すアルトサックスの響きには、いかなる批評も感想も超越した美しさと深味があった。続いて狭間美帆指揮のビッグバンドともう1曲演奏したコニッツは、最後もよろよろしながら舞台の袖に消えて行った。オペラグラスのレンズを通して見たその姿を、私は決して忘れることはないだろう。

2017/05/18

菊地成孔、高内春彦の本を読む

菊地成孔と高内春彦は2人ともジャズ・ミュージシャンだが、片や山下洋輔のグループで実質的なプロ活動を始め、以来日本での活動が中心のサックス奏者兼文筆家、片やアメリカ生活の長いギタリスト兼作曲家というキャリアの違いがある。今回読んだ菊地氏の本は2015年の末に出版されているので既に大分時間が経っているが、最近(4月)、高内氏の書いたジャズ本が出たこともあって、2人のジャズ・ミュージシャンが書いた2冊の本を続けて読んでみた。これはまったくの個人的興味である。共通点はジャズ・ミュージシャンが書いた本ということだけだ。本のテーマもまるで違うし、文筆も主要な仕事の一つとしてマルチに活動している人と、ジャズ・ミュージシャン一筋の人という違いもあるので、本の出来云々を比較するつもりはなく、以下に書いたのはあくまで読後の個人的感想だということをお断りしておきたい。

高内氏はジャズ・ギター教則本は何冊か書いているようだが、これまで本格的な著作はなく、この本「VOICE OF BLUE -Real History of Jazz-舞台上で繰り広げられた真実のジャズ史をたどる旅」(長いタイトルだ…)が初めてのようだ。80年代初めの渡米以降アメリカ生活が長く、それに本人よりも女優の奥さんの方が有名人なので、いろいろ苦労もあったことだろう。しかし、なんというか、自然体というのか、のんびりしているというのか、構えない人柄や生き方(おそらく)が、この本全体から滲み出ているように感じた。私が知っていることもあれば、初めて知ったこともあり、特に1970年代以降のアメリカのジャズ現場の話は、これまであまり読んだことがなかったので参考になる部分も多かった。ただ英語表現(カタカナ)がどうしても多くなるのと、カジュアルな言い回しを折り混ぜた文体は、肩肘張らずに読める一方で、どこか散漫な印象も受ける。歴史、楽器、民族など博学な知識が本のあちこちで披露されていることもあって何となく集中できないとも言える。モードの解析や、ギタリストらしい曲やコード分析など収載楽譜類も多いが、これらはやはりジャズを学習している人や音楽知識のある人たちでないと理解するのが難しいだろう。一方、デューク・エリントンを本流とするアメリカのジャズ史分析や、ジャズの捉え方、NYのジャズシーンの実状、新旧ミュージシャン仲間との交流に関する逸話などは、著者ならではの体験と情報で、私のようなド素人にも面白く読めた。伝記類を別にすれば、こうしたアメリカでの個人的実体験と視点を基にしてジャズを語った日本人ミュージシャンの本というのはこれまでなかったように思う。ただし全体として構造的なもの、体系的な流れのようなものが希薄なので、あちこちで書いたエッセイを集めた本のような趣がある。また常に全体を冷静に見渡している、というジャズ・ギタリスト兼作曲家という職業特有の視点が濃厚で、技術や音楽に関する知識と分析は幅広く豊富だが、逆に言えば広く浅く、あっさりし過ぎていて、ジャズという音楽の持つ独特の深み、面白味があまり伝わって来ない。たぶん一般ジャズファン対象というよりも、ジャズ教則本には書ききれない音楽としてのジャズの歴史や背景をジャズ学習者にもっと知ってもらおう、という啓蒙書的性格の本として書かれたものなのだろう。ただしジャズへの愛情、構えずに自分の音楽を目指すことの大事さ、という著者の思想と姿勢は伝わってきた。

一方の「レクイエムの名手 菊地成孔追悼文集」は文筆家としての菊地成孔が書いたもので、ジャズそのものを語った本ではない。クールな高内氏と対照的に、こちらは独特のテンションを持った語り口の本だ。これまでに私が読んだ菊地氏の本は、10年ほど前の大谷能生氏との共著であるジャズ関連の一連の著作だけだが、これらは楽理だけではなく、ジャズ史と、人と、音楽芸術としてのジャズを包括的に捉え、それを従来のような聴き手や批評家ではなく、ミュージシャンの視点で描いた点で画期的な本だと思うし、読み物としてもユニークで面白かった。これらの本格的ジャズ本と、ネット上で菊地氏が書いたものをほんの一部読んできただけなので、この本「レクイエムの名手」は私にとっては予想外に新鮮だった(彼のファンからすれば何を今更だろうが)。個人的接点の有無は問わず、親族から友人、有名人まで、「この世から失われた人(やモノ)」を10年以上にわたって個別に追悼してきたそれぞれの文章は、各種メディアに掲載したりラジオで語ってきたものだ。それらをまとめた本のタイトルを、原案の(自称)「死神」あらため「追悼文集」にしたという不謹慎だが思わず笑ってしまうイントロで始まり、エンディングを、死なないはずだったのに本の完成間近に亡くなったもう一人の「死神」、尊敬する相倉久人氏との「死神」対談で締めくくっている。私のまったく知らない人物の話(テーマ)も出て来るのだが、読んでいるとそういう知識はあまり関係なく、彼の語り口(インプロヴィゼーション)を楽しめばいいのだと徐々に思えてくる。音楽を聞くのと一緒で、その虚実入り混じったような、饒舌で、だが哲学的でもあり、かつ情動的な語り口に感応し楽しむ人も、そうでない人もいるだろう。中には独特の修辞や文体に抵抗を感じる人もいるかもしれないが、現代的で、鋭敏な知性と感性を持った独創的な書き手だと私は思う。

年齢を重ねると、周囲の人間が徐々にこの世を去り、時には毎月のように訃報を聞くこともあるので、死に対する感受性も若い時とは違ってくる。自分に残された時間さえも少なくなってくると、亡くなった人に対する「追悼」も切実さが徐々に薄まり、自分のことも含めて客観的にその人の人生を振り返るというある種乾いた意識が強くなる。これは人間として当然のことだと思う(だが若くして逝ってしまった人への感情はそれとは別だ)。そういう年齢の人間がこの本から受ける読後感を一言で言えば、「泣き笑い」の世界だろうか。泣けるのにおかしい、泣けるけど明るいという、「生き死に」に常についてまわる、ある種相反する不可思議な人情の機微を著者独特の文体で語っている。文章全体がジャズマン的諧謔と美意識に満ちていて、しみじみした項もあれば笑える箇所もあるが、そこには常に「やさぐれもの」に特有の悲哀への感性と、対象への深い人間愛を感じる。独特の句読点の使い方は、文中に挿入すると流れを損なう「xxx」の代替のようでもあり、彼の演奏時のリズム(休止やフィル)、つまりは自身の身体のリズムに文章をシンクロさせたもののようにも思える。カッコの多用も、解説や、過剰とも言える表現意欲の表れという側面の他に、演奏中に主メロディの裏で挿入するカウンターメロディのようにも読める(文脈上も、リズム上も、表現者としてそこに挿入せずにはいられない類のもの)。文章の底を流れ続けるリズムのために、文全体が前へ前へと駆り立てるようなドライブ感を持っているので、先を読まずにいられなくなる。「追悼」をメインテーマに、菊地成孔がインプロヴァイズする様々なセッションを聴いている、というのがいちばん率直な印象だ。そしてどのセッションも楽しめた。

特に印象に残ったのは、氏の愛してやまないクレージー・キャッツの面々やザ・ピーナッツの伊藤エミ、浅川マキ、忌野清志郎、加藤和彦など、やはり自分と同時代を生きたよく知っているミュージシャンの項だ。私は早逝したサックス奏者・武田和命 (1939-1989) が、一時引退後に山下洋輔トリオ(国仲勝男-b、森山威男-ds)に加わって復帰し、カルテット吹き込んだバラード集「ジェントル・ノヴェンバー」(1979 新星堂)を、日本のジャズが生んだ最高のアルバムの1枚だと思っている。このアルバムから聞こえてくる譬えようのない「哀感」は、絶対に日本人プレイヤーにしか表現できない世界だ。どれも素晴らしい演奏だが、冒頭のタッド・ダメロンの名曲<ソウルトレーン SoulTrane>を、「Mating Call」(1956 Prestige) における50年代コルトレーンの名演と聞き比べると、それがよくわかる。哀しみや嘆きの感情はどの国の人間であろうと変わらないはずだが、その表わし方はやはり民族や文化によって異なる。山下洋輔の弾く優しく友情に満ちたピアノ(これも日本的美に溢れている)をバックに、日本人にしか表せない哀感を、ジャズというフォーマットの中で武田和命が見事に描いている。菊地氏のこの本から聞こえてくるのも、同じ種類の「哀感」のように私には思える。それを日本的「ブルース」と呼んでもいいのだろう。彼のジャズ界への実質的デビューが、1989年に亡くなった武田和命を追悼する山下洋輔とのデュオ・セッションだった、という話をこの本で初めて知って深く感じるものがあった。会ったことも生で聴いたこともないのだが、山下氏や明田川氏などが語る武田氏にまつわるエピソードを読んだりすると、武田和命こそまさに愛すべき「ジャズな人」だったのだろうと私は想像している。時代とタイプは違うが、本書を読む限り、おそらく菊地成孔もまた真正の日本的「ジャズな人」の一人なのだろう。その現代の「ジャズな人」が、昔日の「ジャズな人」を追悼する本書の一節は、それゆえ実に味わい深かった。 

2人のジャズ・ミュージシャンが書いた本は両書とも楽しく読めた。また2人とも心からジャズを愛し生きて来たことがよくわかる。だが高内氏の本はジャズを語った本なのだが、私にはそこからジャズがあまり聞こえてこない。一方菊地氏の本はジャズそのものを語った本ではないが、私にはどこからともなくずっとジャズが聞こえてくる。もちろん私個人のジャズ観や波長と関係していることだとは思うが、この違いはそもそも本のテーマが違うからなのか、文章や文体から来るものなのか、著者の生き方や音楽思想から来るものなのか、あるいは日本とアメリカという、ジャズを捉える環境や文化の違いが影響しているのか、判然としない。年齢は1954年生まれの高内氏が菊地氏より10歳近く年長だ。1970年代半ばの若き日に、フュージョン(氏の説明ではコンテンポラリー)全盛時代の本場アメリカで洗礼を受け、以来ほぼその国を中心に活動してきたギタリストと、バブル時代、実質的にジャズが瀕死の状態にあった80年代の日本で同じく20歳代を生きたサックス奏者…という、演奏する楽器や、プロ奏者としてのジャズ原体験の違いが影響しているのか、それとも単に個人の資質の問題なのか、そこのところは私にもよくわからない。