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2020/07/16

あの頃のジャズを「読む」 #4:ジャズの変容

油井正一
「アスペクト・イン・ジャズ」
2014 CDジャーナル・ムック
1960年代後半の日本は、戦後生まれの団塊世代が20歳前後となり、ロック、フォーク、ポップスなど軽音楽(死語?)への関心と需要が爆発的に増え、若者を中心に音楽全体の大衆化が一気に進んだ時代だ。それが、マイナーで難しい音楽だったジャズへの関心も増大させた。同時に、アメリカを中心にした海外のジャズやジャズ・ミュージシャンに加えて、日本国内で日本独自のジャズを追求するミュージシャンたちも、ようやく日の目を見るようになった。65年にバークリー留学から帰ってきた渡辺貞夫がボサノヴァ・ブームを巻き起こし、日野皓正のモダンなジャズ・ロックが映画やファッションでも人気となってフュージョン人気の先鞭をつけ、1970年前後からは富樫雅彦や山下洋輔が日本オリジンのフリー・ジャズで日本国内のみならず、世界のジャズ界をも驚かせるようになった。こうして日本におけるジャズはより多彩な音楽となって、限られた聴衆だけが好んでいた60年代の前衛的芸術音楽から、終戦後の50年代的ポピュラー音楽への道を再び歩き出す。ラジオ放送でも、FM東京の油井正一「アスペクト・イン・ジャズ」(1973 - 79)や、渡辺貞夫「マイ・ディア・ライフ」(1972 - 89) などが人気になって、全国にジャズとその情報が流れるようになった。

さらに、1977年からは田園コロシアム(後に読売ランド)の「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」、80年代に入ると、82年から斑尾の「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」、86年から山中湖の「マウントフジ・ジャズ・フェスティバル」などがそれぞれ始まり、その模様はTV番組でも放映された。景気が良くなると資金が潤沢になって芸術の芸能化が強まる(エンタメ化する)、というのが資本主義社会の常だ(逆もまた真で、景気が落ち込むと芸能の芸術化が起きがちだ。80年代米国ジャズ界におけるフュージョンからW・マルサリスへの流れはその象徴だ)。70年代から続く好景気に支えられて、マイナーだった日本のジャズ界にもやっと金が回るようになり、ロックやポップスでは普通だった、大資本スポンサー後援による大規模な野外ジャズ・フェス等が開催されるようになった(海外、日本人ミュージシャンともに、これらのコンサート出演者の豪華さは、今振り返るとすごいものだ)。こうしたイベントを可能にするほど聴衆が拡大した背景には、バブル景気と共に、80年代に主流となったフュージョンで、ジャズの大衆化(底辺拡大)がさらに進んだこともあっただろう。もちろん、それでもロック、ポップス、歌謡曲などに比べたら比較にならないほど小さなマーケットと聴衆だったとは思うが、バブル期の80年代末にかけては、(表層的には)おそらく史上もっとも日本のジャズ界が多彩で活気に満ちていた時代だっただろう。

辛口JAZZノート
寺島靖国 / 1987 日本文芸社 
だが1980年代は、日本中のあらゆる分野で、日本人全体が浮かれまくっていたので、後で振り返ると実質的に何も残っていない……という、文字通り泡と消え、祭の後のような空虚さが感じられる時代だったとも言える。ジャズの世界も同じ印象で、実際、個人的に記憶に残るほど印象的なレコードも演奏もほとんどないのだ。ある野外ジャズ・フェスで、最前列で酒を飲んで「踊りまくる」聴衆を見ながら、後方でジャズ仲間と座って聴いていた寺島靖国氏(当時、客が減って経営が苦しくなっていたジャズ喫茶「Meg」の店主で、1938年生まれの戦中派)が、ため息まじりの感想を述べている記事をよく覚えているが、これが80年代日本のジャズの風景を象徴している。寺島氏は、こうしたジャズの変容と、相変わらず黒人や大物ばかり取り上げる権威主義、教条主義のジャズメディアに逆らい、無視されてきたマイナーな50年代白人ジャズを敢えて紹介するなど、あくまで個人の趣味を重視する「分かりやすい」ジャズの聴き方を『辛口JAZZノート』(1987) という処女本で打ち出し、これが(たぶん)当時の風潮に不満を持っていた多くのジャズファンの共感を呼び、大ヒットした(私も吉祥寺駅ビル2Fの本屋で初版を買った)。ジャズ喫茶店主や、他の著者によるいわゆる「ジャズ本」は、この本がきっかけとなって、その頃から90年代にかけて数多く出版されるようになった。私も、その後「テラシマ本」はほとんど読んだと思うし、「Stereo」誌や「オーディオアクセサリー」誌などで、快楽の泥沼オーディオ(?)に踏み込んでからの記事も愛読していたが、クリーン電源確保を目的にしたオーディオ専用ケーブルや屋内トランス設置はともかく、自宅の庭に「マイ電柱」を立てたあたりでさすがに引いた…(面白かったが、我が家には庭がないし…)。しかし、その後も2000年代に入ってプライベート・レーベルの「寺島レコード」を興すなど、常に超個人的趣味優先で、多少の迷走や暴走(?)があったにしても、寺島氏が先頭に立って、ジャズとは多彩な音楽であり、その聴き方も自由だという思想を打ち出して、世紀末におけるジャズとオーディオの世界の楽しみ方を広げてくれたことは確かだ。

吉祥寺 「Sometime」
話は少し戻るが、1970年代になると銀座や青山、六本木のような都心に、ライヴ演奏が楽しめるジャズクラブが何軒も登場し、80年代後半のバブル時代まで、店の数も増加し続けた。ただし増えたのは65年開業の老舗、新宿「ピットイン」のようにコアなジャズをひたすら聴かせる店よりも、ジャズのライヴ演奏と一緒に酒や食事も楽しめる「大人のジャズクラブ」である(バブル期の88年に開業した「Blue Note東京」は、その頂点だ)。さらに都心だけでなく、JR中央線沿線など郊外にも何軒かカジュアルなジャズクラブが出現し、ライヴ演奏がやっと身近で楽しめるようになってきたのも70年代後半だ(吉祥寺の老舗「Sometime」は1975年開店である)。60年代にジャズに熱中した青春時代を送り、その後中堅社会人になって、おまけにバブルで金回りのよくなった(?)団塊世代が、80年代に(カラオケに加えて)これらのジャズクラブの中心的客層になったのは間違いないだろう。

日本におけるジャズは、こうして70年代から80年代にかけて、暗いジャズ喫茶で(煮詰まった)コーヒーをすすりながら、深刻な顔をしてレコードを聴く「小難しい音楽」から、明るい屋外でリラックスして(たまには踊って)「陽気に聴くライヴ音楽」へ、さらに夜はジャズクラブで酒を飲みながら、ゆったりとライヴ演奏を聴く「おしゃれな音楽」へと徐々に変貌していった。そしてバブル到来と共に、80年代終わりに最盛期を迎え(最後のアダ花を咲かせ?)、90年代初めのバブル終焉と共に、1950年代からのいわゆる「モダン・ジャズの時代」も終わりを迎えたと言えるだろう。こうして振り返ると、戦後日本のジャズの盛衰は、良くも悪くも、団塊世代の人生の歩みとシンクロしていることがよく分かる。そしてそれから30年、モラスキー氏の『ジャズ喫茶論』(2010)からも既に10年が過ぎた今は、演奏者の顔が見えない「匿名ジャズ」が、TVの中でも街中でも便利なBGMとなり、また日本中のクラブやバー、コンサート会場、ジャズ・フェスなどで、プロアマ問わず日本人ジャズ・ミュージシャンによるライヴ演奏が毎日のように聴ける時代になった。1960年代には前衛であり先端音楽だった日本におけるジャズは、今や誰もが自由に聴いて楽しみ、演奏できる普通の音楽の一つになったと言えるだろう。

吉祥寺「A&F」
ところで、インターネットで自由に音源を選べる昨今では、レコード音源を聞かせる昔ながらのジャズ喫茶は、一関「ベイシー」など地方の一部の老舗名店を除くと、今や発見困難なほど稀少かつ貴重な存在となった(客が来ないので当然だ)。たまにあっても、音量を絞ってBGM的に静かにジャズを流す店がほとんどだ。思えば、1970年代は吉祥寺を中心に都内の大方のジャズ喫茶に顔を出したが、当時まだ多かった60年代的な密閉感の強い、暗く、狭いジャズ喫茶が苦手だった私は(それが好きな人はもちろんいた)、吉祥寺の中でも比較的明るくゆったりとした「A&F」によく通った。ネットで調べても「A&F」はファンが多かったようで、新譜がよくかかったこと、音がこもらずにクリーンで気持ちが良かったこと、ママさん(大西店主の奥さん)もいて店の雰囲気が明るかったこと、などが理由にあげられているが、同感だ。他店に比べて敷居が低く、構えずに誰でも気楽に入りやすかったのである。当時は吉祥寺いちばんの老舗だった野口店主の「Funky」も、寺島店主の「Meg」も、まだ60年代の雰囲気が濃厚で、なんとなく空気が重く、店に入るのに勇気がいる感じだった(寺島店主などは、後年のオーディオ狂い時代と違って、暗く神経質な文学青年みたいだったし…。しかし後年アルコールを導入するなど方針転換してジャズクラブ的になったその「Meg]も、2018年についに閉店し、現在は同名の後継店になっている)。一方の「A&F」には普通に会話のできる談話室も階段をはさんで反対側にあり、聴取室側には JBL と ALTEC の2組の大型SPシステムが並んで置かれていた。「A&F」で知った名盤や当時の新譜も数多く、2つのSPシステムから交互に再生される、カラッとした開放的なジャズサウンドを聴きに行ったあの日々は、正直言って本当に楽しかったし、懐かしい(同店は2002年まで営業を続けたようだ)。

現代のジャズ喫茶
神戸・元町「JamJam」
現在、こうした古典的ジャズ喫茶の香りを残しつつ、高度なジャズサウンドを大きなスペースでゆったりと、かつ大音量で楽しめるのは、大都市圏では、私の知る限り神戸・元町の「JamJam」だけだ。昔のジャズ喫茶では普通だったレコード・リクエストは受けない、など店主の哲学も明快だし、店内は多少暗いが、昔のジャズ喫茶と違って広く、天井が高く、空間容量が大きいので、オーディオ的にも理想的な環境だ。また「A&F」と同じく、聴取専用席に加えて会話のできる席もある。2017年3月のブログ記事「神戸でジャズを聴く」で紹介しているが、初めて同店を訪れたときは、まさに70年代にタイムスリップしたのではないかと思えるほど感激したのを覚えている。私的理想とも言えるジャズ喫茶「JamJam」で鳴るジャズは、ライヴ演奏とは別種の、(音響に優れた昔のジャズ喫茶やオーディオショップ等で時々聴けた)ヴァーチャル・リアリティ的次元のジャズサウンドであり、同店は現代の大都市にあって唯一それが楽しめる貴重な「異空間」だ。未体験の人(もちろんジャズやオーディオに興味のある人)は、ぜひ一度訪問してみることをお勧めする。ちまちましたヘッドフォンによる脳内音楽でもなく、単に音がばかでかいだけの「爆音」でもない、スピーカーが実際に大空間の空気を震わせて、過去の名演を立体的に再現するリアルなジャズ・オーディオの世界と、半世紀前からの日本的ジャズの楽しみ方がどういうものだったのか、それらが実際に体感できると思う。同店には関西に出かけるたびに立ち寄ってきたが、今年はコロナ禍で行けないのが残念だ。今は阪神大震災以来の2度目の苦境に直面しているのかもしれないが、「JamJam」には、なんとか頑張って生き残って欲しい。

2017/03/15

吉祥寺でジャズを聴いた頃

Monk in Tokyo
1963 CBS
ロビン・ケリーの「セロニアス・モンク」の中に、1963年のモンク・カルテット初来日時のことが書かれている。日本のミュージシャンとの交流の他に、京都のジャズ喫茶(さすがに店名までは書かれてはいないが「しあんくれーる」)の店主だった星野玲子さんが、ツアー中のモンクやネリー夫人一行に付き添って、色々案内した話が出て来る(モンクと星野さんが、店の前で一緒に並んで撮った写真も掲載されている)。その後星野さんはモンク来日のたびに同行し、夫妻にとって日本でいちばん親しい知人となったということだ。この63年の初来日時、コロムビア時代はいわばジャズ・ミュージシャンとしてのモンクの全盛期でもあり、この東京公演でのモンク・カルテットを録音したCBS盤は、お馴染みの曲を非常に安定して演奏していて、初めて動くモンクを見た日本の聴衆の反応も含めて、モンクのコンサート・ライヴ録音の中でも最良の1枚だと思う。またこの時の全東京公演の司会を務めたのが相倉久人氏だったことも、氏の著作全集を読んで知った。

京都「しあんくれーる」広告
1975 Swing Journal誌
「しあんくれーる」がその後どうなったのか興味があったので、調べてみようと、手元に残しておいた今はなきスイング・ジャーナル誌の「モダン・ジャズ読本’76」(197511月発行)を久しぶりに開いてみた。当時売り出し中のキース・ジャレットの顔の画が表紙の号だ。SJ誌は毎月買って読んでいたが、年1回発行の主な特集号を残して、あとはみな処分してしまった。70年代、つまりバブル前までのSJ誌は、ジャズへの愛情とリスペクトが感じられる、きちんとした楽しいジャズ誌だったと思う。その号の中を読むと、ジャズとオーディオの熱気が溢れている。全体の3割くらいはオーディオ関連の記事と広告である。まだ前歯のあるチェット・ベイカーや、犬と一緒になごむリー・コニッツの写真他で飾られ、巻頭にはビル・エヴァンス、ロン・カーター、ポール・ブレイによるエレクトリック・ジャズを巡る三者対談があり、「SJ選定ゴールド・ディスク100枚」の紹介があり、75年発売のレコード・ガイド、それに4人のジャズ喫茶店主の座談会も掲載されている。4人とは野口伊織(吉祥寺ファンキー他)、大西米寛(吉祥寺A&F)、高野勝亘(門前仲町タカノ)、菅原昭二(一関ベイシー)各氏である。全員がたぶん30代から40代だったと思われるので、見た目も若い。驚くのは、当時のオーディオ・ブームを反映して、この号には全国(札幌から西宮まで)の主要ジャズ喫茶で使用されている再生装置(アナログ・プレイヤー、カートリッジ、アンプ、スピーカー)を記載した一覧表が掲載されていることだ。しかも使用スピーカーは、ウーハーやツィーターなどユニット別に記載されている。40年以上前のこうした記事を読むと、日本ではジャズとオーディオが切っても切れない関係だったこと、また現在の一関「ベイシー」の音が一朝一夕にできたわけではないことがよくわかる。その一覧表の中に京都「しあんくれーる」の名前もあった。そして広告も掲載されていた。当時はまだ健在だったのだ。

ジャズ喫茶広告
1975 Swing Journal誌
その表を見ても、吉祥寺には特にジャズ喫茶が集中していることがわかる。私は長年JR中央線沿線に住んでいたので、当時よく行ったジャズ喫茶はやはり吉祥寺界隈だった。「Funky」,「Outback」,「A&F」,「Meg」などに通ったが、荻窪の「グッドマン」、中野の「ビアズレー」あたりにもたまに行った。だがいちばん通ったのは吉祥寺の「A&F」で、JBLとALTECという2組の大型システムが交互に聴けて、会話室と視聴室が分かれていて、音も店も全体として明るく開放的なところが気に入っていたからだ。こうした店の雰囲気は店主の性格が反映しているのだろう(大西氏はよく喋るという評判だった)。今の吉祥寺パルコのところにあった「Funky」には、JBLのパラゴンが置いてあり、コアなジャズファンが通う店といったどこかヘビーな印象がある(実業家肌の野口氏は若くして亡くなった)。「Meg」は寺島靖国氏の店で今も健在だが、当時の寺島店主は神経質でどこか近寄りづらい雰囲気があった。だがその後80年代終わり頃から相次いで出版した氏のジャズとオーディオ本は、個性的でどれも楽しく読んだ。文壇デビュー前の村上春樹氏が、JR国分寺駅近くに「ピーター・キャット」というジャズ・バーを開いていたのもこの時期だったようだ(197477年)。

70年代中頃というのはヨーロッパではフリーが、アメリカではフュージョンが主役の時代になりつつあり、日本ではフュージョンも台頭していたが、まだまだ伝統的モダン・ジャズが盛り上がりを見せていて、SJ誌の紙面でもわかるがLPレコードの発売も非常に盛んだった。一方でバップ・リバイバルという流れもあって、アメリカでフュージョンやエレクトリック・ジャズに押されて食い詰めた大物ミュージシャンも続々来日したし、高度成長で豊かになった日本のジャズファンがコンサートに出かけたり、まだ高価だったLPレコードやオーディオ装置に金をつぎ込めるようになったという経済的背景も大きいだろう。しかしマイルス・デイヴィスが1975年の来日公演の翌年、体調不良のために約6年間の一時的引退生活に入り(1981年復帰)、1973年以降同じく体調不良で半ば引退同然だったセロニアス・モンクも、19766月のカーネギーホール公演の後は、ウィーホーケンのニカ夫人邸に引きこもってそのまま隠遁生活に入ってしまった。ナット・ヘントフが、モダン・ジャズ黄金時代へのオマージュのような名著「ジャズ・イズ…」を書いたのも1976年である。ビル・エヴァンスはその後1980年に、そしてモンクも1982年に亡くなっている。アメリカにおけるモダン・ジャズの歴史が、当時一つの終わりを迎えつつあったことに間違いはあるまい。それから40年、当時あれだけあった日本全国のジャズ喫茶も、一部の店を除き今はほとんどなくなってしまった。