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2018/12/27

男のバラード

今年も間もなく暮れようとしていて、また一つ年を取る。人間、一般的に年を取ると、たまにはいいとしても、激しい演奏、速い演奏の音楽からは徐々に遠ざかるのが普通だ。そういう音楽は、聴くだけでも体力が必要とされるからだ(そうでない人、死ぬまで元気な?人も、中にはいるのだろうが)。そこで最近は、ジャズでもゆったりしたテンポのレコードを聴く機会がどうしても増える。血湧き肉は躍らないが、来し方や短い行く末に思いを馳せながら、じっくり感慨に浸ることもできるし、心静かに美しいサウンドそのものに感動することもできる。そうなるとバラード系になるが、一言でジャズのバラード演奏と言っても、メロウなものから非常にハードなものまで様々なものがある。これに楽器の種類が加わるので、演奏もレコードも数多く多彩だ。一般的にはジャズ・バラードというと、ソフトで叙情的な音楽を想像するが、中には「男のバラード」(昭和歌謡のタイトルみたいだが)とでも呼びたくなるような、全体に骨のある、ハードな雰囲気を持つバラード演奏やアルバムもある。単にやさしく、ソフトで、美しいだけではない、男性的な音楽表現が感じられる演奏である。こういうレコードを、たまに聴くと非常に気持ちが良い。背筋がピンとするような気がする。ピアノでもそういう奏者はいるし(たとえばモンク)、ギターでもいるが(たとえばパット・マルティーノ)、いずれも楽器の性格上そうはっきりとした表現は難しい。トランペットやアルトサックスは、繊細な、抒情的な、あるいはエネルギッシュな演奏はあっても、基本的にトーンが高いので、どうしても渋く、男性的な哀愁を感じさせるサウンドとは言い難い。そうなると、やはりテナーサックス系の奏者とアルバムになる。その代表格として私的に思い浮かぶのは、古くはコールマン・ホーキンズやベン・ウェブスター、ビバップ以降ではソニー・ロリンズやバルネ・ウィラン、バリトンサックスだがジェリー・マリガンなどだ。ただ、それ以外にもそうした奏者はいるし、ここに挙げたようなレコードもある。いずれのアルバムも、ジャケット写真からして男っぽさが溢れるようである。

The Message
J.R.Monterose
1959 Jaro
最初の1枚は、J.R.モンテローズ(J.R.Monterose 1927-93)の『The Message』(1959 Jaroだ。モンテローズはそう有名な奏者ではなく、生涯のリーダー作の数も限られているが、スタッカートを多用したその豪快さ、男性的な音色と表現で昔からコアなファンが多い。このアルバムは文字通りモンテローズの代表作で、トミー・フラナガン(p)、ジミー・ギャリソン(b)、ピート・ラ・ロッカ(ds) というワン・ホーン・カルテットによるモンテローズのオリジナル作のダイナミックな演奏と共に、<Violets for Your Furs (コートにすみれを)>と<I Remember Clifford>という2曲のジャズ・バラードの名曲が収録されている。コルトレーンの有名なVioletes…>はソフトな演奏だが、モンテローズのこのアルバムでの演奏は、もっと男性的な哀愁がたっぷりと感じられるもう一つの世界だ。そして<I Remember....>は、クリフォード・ブラウンの死を悼んだ名曲で、幾多の名演があるが、私は中でも、晩年のバド・パウエルの「Golden Circle」(1962 Steeple Chase) における超スローなピアノ演奏と並んで、モンテローズのこの演奏がいちばん好きだ。このタメとサックスのカスレ具合と、男っぽい情感のこもった演奏は、他の奏者では決して聞けないモンテローズならではのバラードで、まさしくジャズ・バラード史上に残る名演だろう。ただし、濃い演奏なので、たまに聴くのがよい。

Ballads
Dexter Gordon
Blue Note (comp)
デクスター・ゴードン (Dexter Gordon 1923-90) が、1960年代前半にBlue Noteに録音した8枚の有名アルバムから(ただし70年代の下記8.を除く)1曲ずつスタンダードのバラード演奏をピックアップしたコンピレーション・アルバム『Ballads』もそうした1枚だ。デクスターの男らしく悠然としたテナーによるスローナンバーが、まとめて聴ける。私が買ったのは1990年代だったように思うが、未だにカタログから消えず、継続販売されている。コンピレーションCDでこれだけ息の長いものは、ジャズでは珍しいことからも、このアルバムの人気ぶりが想像できる。演奏曲目(オリジナル・アルバム、リリース年)は以下。
1. Darn That Dream (One Flight Up 1964) / 2. Dont Explain (A Swingin' Affair 1962) / 3. Im a Fool to Want You (Clubhouse 1965) / 4. Ernies Tune (Dexter Calling 1961) / 5. Youve Changed (Doin’ Allright 1961) / 6. Willow Weep for Me (Our Man in Paris 1963) / 7. Guess I'll Hang My Tears Out to Dry (Go 1962) / 8. Body and Soul (Nights at the Keystone Corner Vol.3 1978)

ドナルド・バードが(1)、フレディ・ハバードが (3),(5)で参加している他はデクスターのワンホーンである。また当然だが参加ピアニストも多彩で、ケニー・ドリュー(1, 4)、ソニー・クラーク(2, 7)、バリー・ハリス (3)、ホーレス・パーラン(5)、バド・パウエル(6)、ジョージ・ケイブルス(8)と、それぞれの奏者の伴奏の違いも楽しめる。(6) は映画『Round Midnight』(1988)でデクスターが演じたバド・パウエル本人との共演だ。

Beautiful!
Charles McPherson
1976 Xanadu
チャールズ・マクファーソン(Charles McPherson 1939-)は、チャーリー・パーカーを範として、60年代から活動してきたアルトサックス奏者で、モダン・ジャズの主役世代からは一世代以上遅れて登場した。『Beautiful!』(1976 Xanadu) は、そのマクファーソンがデューク・ジョーダン(p)、サム・ジョーンズ(b)、リロイ・ウィリアムズ(ds) とのカルテットで録音したワンホーン・アルバムだ。楽器はテナーではなくアルトなのだが、マクファーソンには60年代の Prestige時代から、アルト吹きとしてはどこか悠揚迫らざる男らしい風情があって、特に渋く味わいのあるワンホーン・アルバムとして私は昔からこのレコードが好きだ。理由の一部は、デューク・ジョーダンの滋味溢れるピアノも聞けるからだ。名演<But Beautiful> と <Body & Soul> というバラードに聞ける、ジョーダンのピアノの語り口と美しいメロディラインが、サム・ジョーンズのがっちりした太いベースに支えられたマクファーソンのワンホーン・アルトにぴったりなのである。バリー・ハリスなどもそうだが、70年代の4ビート・ジャズは今改めて聴くと、どの作品もジャズの豊かなエッセンスが感じられて実にいい。黄金の50年代、発展と変遷の60年代を経て、生き残って円熟した(半ば枯れた)ジャズメンが、肩肘の力を抜いて、フリーでもフュージョンでもない、自分の本当にやりたい音楽を素直に演奏したからだろう、皆とてもいい味を出している

Spirit Sensitive
Chico Freeman
1979 India Navigation
Spirit Sensitive』(1979 India Navigation) は、チコ・フリーマン(Chico Freeman 1949-)は前衛ジャズの人という、当時の大方の印象をくつがえした、70年代を代表する名バラード・アルバムで、シンプルかつ骨太の男らしいバラードが聞ける。このレコードは、最初日本ではPaddle Wheel(キング)のLPで出て、その後、米Analogue Productionから高音質CDとLPで再発された。Autumn in New York>から始まる全6曲がバラードで、ジョン・ヒックスのピアノが美しい<It Never Entered My Mind>が好きで一番聴いているが、実はアナログ・プロ盤のこのトラックは最初の日本盤とはテイクが違う。もともと録音のいいアルバムだが、音質もややソリッドなキング盤に比べると、アナログ・プロ盤はずっと音に厚みがある。特に全編大活躍するセシル・マクビーの骨太ベース、華麗なジョン・ヒックスのピアノの響き、ビリー・ハートのドラムスなども音の重量感が違う。当然フリーマンのテナーも太く豪快で、独特の男っぽいバラードの世界が一層楽しめる。(しかし評判が良かったこともあって、マクファーソンもこのフリーマンも、それぞれ続編と言うべきバラード・アルバムをその後出しているが、残念ながら2匹目のドジョウとはならなかったと思う。やはり、こういう作品を制作するには ”男としての旬” というものがあるのだろう。)

Gentle November
武田和命
1979 Frasco
 
最後に日本人プレイヤーをげると、やはり本ブログ別項でも紹介したテナーサックス奏者、武田和命(かずのり、1939-89)の最初にして最後のリーダー作『ジェントル・ノヴェンバー Gentle November』(1979 Frasco) だろう。山下洋輔(p)、国仲勝男(b)、森山威男(ds) とのワンホーン・カルテットで、<Soul Trane>他のコルトレーンにちなむ4曲と、武田の自作曲4曲からなるバラード集だ。これは上記アメリカ人ジャズマンの演奏とは何かが違う、まさに "草食系男子" のジャズ・バラードの世界である。つまり日本人の男にしか吹けない哀切さと抒情が、1枚のレコードいっぱいに満ち溢れている。哀しみや、やるせなさという感情は、当然ながらどの国の民族にもあるが、その表現の仕方はそれぞれの文化によって異なる。大げさな表現を好む民族もいれば、抑えた控えめな表現を好む民族もいて、日本人は後者の代表だ。その日本的悲哀の情を、ジャズというユニヴァーサルな音楽フォーマットの中で、これほど深く、繊細に表現した演奏は聴いたことがない。武田を支える山下トリオの、いつになく控えめで友情に満ちたバッキングもそうだ。60年代の、山下洋輔たちとのフリージャズ時代以降、早逝するまでの武田和命のジャズマン人生と、語り継がれる人柄を思いながら聴くと、一層このレコードの味わいが深まる。このレコードは日本男児のバラードを見事に表現した、文字通り日本ジャズ史に残る名盤である。

2018/12/09

ジャズ・ギターを楽しむ(4)ジャンゴの後継者たち

Djangology
Django Reinhardt
ヨーロッパのジャズは、クラシック音楽の長く、厚い伝統の上に、1960年代からブリティッシュ・ロック、フリー・ジャズ、フリー・インプロヴィゼーションという新たなジャンルの生成と発展を経験したことから、アメリカとは異なる独自のジャズの歴史を築いてきた。中でもギターは、その歴史がもっとも濃厚に表れている分野だ。昨年、映画『永遠のジャンゴ』が公開されて、最近また注目を浴びているジャンゴ・ラインハルト Django Reinhardt (1910-53) だが、チャーリー・クリスチャン Charlie Christian (1916-42) がアメリカで注目される以前から、フランスを中心にしたヨーロッパで、ジプシー(ロマ)音楽と、アメリカで当時隆盛だったスウィング・ジャズを融合したジャズ(現在は “マヌーシュ -Manouche- ジャズ” と呼ばれる)で活動していた世界初のジャズ・ギタリストと言われている(もちろん見方によって、誰が世界初かには諸説ある)。ベルギー人ジャンゴは、1930年代からフランス人ヴァイオリニスト、ステファン・グラッペリと共同で、ホーン楽器やピアノのない弦楽器だけのアンサンブル「フランス・ホットクラブ五重奏団」を率いて、独特のサウンドと、超絶のギターテクニックで人気を博していた。ヨーロッパでは、ホーン奏者やピアニストは、大方がアメリカのジャズの影響の下に成長していたが、ベルギーのルネ・トーマ、イギリスのデレク・ベイリー、ハンガリーのアッティラ・ゾラー、ガボール・サボのようなユニークな人たちがいる一方で、当然ながら1930年代から既に活動していたジャンゴの強い影響を直接、間接的に受けたギタリストが数多く、ヨーロッパのジャズ・ギターは、マヌーシュ・ジャズと、いわゆるモダン・ジャズとが自然に融合してきた長い歴史がある。

Gitane
Charlie Haden &
Christian Escoude

1978 All Life/Dreyfus  
したがって、マヌーシュ・ジャズそのものではないが、ジャンゴ・ラインハルトの影響を強く受けたコンテンポラリー・ジャズ・ギタリストも多い。彼らは自らのアイデンティティとして、ジャンゴへのトリビュートと言うべきマヌーシュ・ジャズ的アルバムを作る一方で、モダン・ジャズは当然として、ロックやフュージョンからの影響も受けた同時代的なジャズも演奏し、それぞれ独自の世界を築いてきた。生年順だとフィリップ・カテリーン Philip Catherine (英, 1942-)、クリスチャン・エスクード Christian Escoude (仏, 1947-)、マーティン・テイラー Martin Tailor (英, 1956-)、ビレリ・ラグレーン Bireli Lagrene (仏, 1966-) などが、ジプシー音楽の伝統を受け継ぐ代表的ジャズ・ギタリストだろう。しかしジャズ的に見ると、ジャンゴの世界は、ある意味でセロニアス・モンクと同じで、オリジナリティが強すぎて、サウンドをコピーしたらそこで終わってしまい、それ以上発展させるのが難しいという性格の音楽だ。マヌーシュ・ジャズの外側で、そのサウンドのエッセンス、あるいはフレーバーを消化してモダン・ジャズとして再構築するのは、非常に難しい挑戦だろうと思う。演奏をイージーリスニング的に振るケースが多いのも、それが理由だろう。ただし、そういう演奏も、マヌーシュの香りをモダンな演奏で楽しめるジャズの一つと考えれば、非常にリラックスして聴ける、独特の音楽としての存在価値は十分にあると思う。私はジャンゴ系の音楽を時々聴きたくなるが、それはジプシー的哀愁とスウィング・ジャズの楽しさが一体となった、独特のフランス的香りを楽しむためであって、ジャズとしてじっくり聴き込もうということではない。現代のギタリストが、それをどう料理してモダンな音楽として楽しませてくれるか、という聞き方だ。したがって、ここに挙げているのも、たまに聴きたくなる、それほど多くはない手持ちのマヌーシュ的ジャズ・アルバムの中から選んだものだ。

Holidays
Christian Escoude
1993 Gitane
フランス人ギタリスト、クリスチャン・エスクードは、若い時期にチャーリー・ヘイデン(b)とのデュオ、『Gitane』(1978 All Life/Dreyfus) というジャンゴへのトリビュート作を作っている。全7曲のうち、ジョン・ルイス作<Django>とヘイデン作<Gitane>を除き、ジャンゴ・ラインハルトの曲だ。ギターとベースが空間で対峙し、ヘイデンの重量感のあるベースとエスクードの鋭角的でエキゾチックなギター、という両者のサウンドをリアルに捉えた録音の良さもあって、デュオとしては珍しく聴き手を飽きさせない、聴きごたえのあるアルバムだ。30歳というエスクードの若さと、相手がヘイデンということもあって、どこか緊張感に富むこのアルバムは、数ある「ジャンゴもの」の中で、いちばんジャズを感じさせる作品だと思う。エスクードはその後、そのものずばりの『Plays Django Reinhardt(1991 Emarcy)という、大編成のストリングス入りのアルバムを発表している。これはかなり編成と編曲に凝った多彩な演奏が続き、いささかまとまりのないアルバムのように感じるが、もう1作『Holidays』(1993 Gitanes) は “Gipsy Trio” と称しているように、ギター3台に、アコーディオン、パーカッションを加えたマヌーシュ的編成で、映画『Deer Hunter』のテーマなどを含めて選曲も良く、全体に静謐で、モダンなサウンドが非常に美しいアルバムだ。

Spirit of Django
Martin Tailor
1994 Linn
ステファン・グラッペリのバンドに長年在籍していたマーティン・テイラーも、90年代からソロ演奏活動と併行して、“Spirit of Django”というグループ活動をしながら同名の『Spirit of Django』(1994 Linn) というアルバムを残している。テイラーもジプシー系だがUK出身なので、フランスのジャンゴ派ギタリストたちに比べるとサウンドがずっとクールでモダンである。1994年に亡くなったジョー・パスと入れ替わるように登場したテイラーは、ヨーロッパのジョー・パスとも言うべき人で、『Artistry』(1992 Linn)をはじめ、何作か作っているソロ・アルバムがいちばんテイラーらしい。ソロにおけるテイラーの卓越した技術と表現力は、ギターファンなら誰しもが認めるところだ。そのギターテクニックと破綻のないオーソドックスな演奏は、何を聞いても安心して聴けるが、単に技術的に高度なだけではなく(今はそういうギター弾きはいくらでもいる)、ジャズのスピリットとグルーブがどの演奏にも感じられるところがパス後継者にふさわしい。安定したベースランニングに支えられた歯切れのいいリズム、流れるようなメロディ・ライン、優れたヴォイシングによるよく響く美しい音色がテイラーの特徴だ。パスとの違いは、UK出身ジャズメン一般に言えることだが、紳士の国らしくその演奏が「折り目正しい」ことだ。バタ臭くブルージーな味わいは余りなく、音楽の語り口が淡泊で上品である。このアルバムでは多彩なバンド編成(ギター2台、サックス、アコーディオン、ベース、ドラムス)を駆使して、ジャンゴ作の3曲の他、自作曲、スタンダードなど全11曲を演奏しており、滑らかなフレージングと美しいサウンドで、ジャンゴの音楽の精神を伝えている。

Gipsy Project & Friends
Bireli Lagrene
2002 Dreyfus
フランスのビレリ・ラグレーンは、ジャンゴの再来と言われていた天才少年時代から超絶テクニックで有名で、コンテンポラリー・ジャズの世界で活動する一方、ジプシー・プロジェクトと称して何枚かのマヌーシュ的アルバムを出している(ただラグレーンの技術はすごいと思うが、ジャズ側の作品は私には何となくピンと来ないものが多い。)『Gipsy Project & Friends』(2002 Dreyfus)は、ここに挙げたジャズ・ギタリストのレコードの中では、もっとも本家のジャンゴの世界に近い演奏が聞ける。このアルバムでは、編成(5台のギター、ヴァイオリン、ベース)、多彩な選曲(知らないフランスの曲も多い)、素晴らしいスウィング感など、ジャンゴの世界を生きいきと現代に再現していると思う。1曲だけだがフランス語ヴォーカル(Henri Salvador)もあって、聴いていてとても楽しめる仕上がりのアルバムになっている。

The Collection
Rosenberg Trio
1996 Verve
最後の1枚は、オランダのジプシー音楽グループ、ローゼンバーグ・トリオ Rosenberg Trioだ。ジャンゴの血を引くと言われるストーケロ・ローゼンバーグ Stochelo Rosenberg (1968-) が親族と結成したギター・トリオで、1989年にデビューし、メンバーは変わっているが今でも活動しているようだ。私が持っているのは『The Collection』(1996 Verve) という、当時の彼らの4作品から選んだ演奏のコンピレーションCD 1枚だけだ。このグループはいわゆるジャズ・バンドではなく、リード・ギターとリズム・ギターという2台のアコースティック・ギターとベースのみを使って、ジャンゴの世界を現代風アレンジのギター・アンサンブルで聞かせるというコンセプトであり、マヌーシュ・ジャズの本流と言っていいのだろう。選曲もボサノヴァやタンゴの名曲までカバーし、メリハリのきいたリズムを刻み、鋭く正確なピッキングで高速フレーズを難なく弾きこなすその演奏技術は素晴らしいものだ。

マヌーシュはマイナーな音楽と思われてきたが、最近では奏者や、演奏を楽しむ人も増え、日本でも徐々に支持する人が増えているようだ。天才ジャンゴ・ラインハルトが、ヨーロッパの伝統的ジプシー音楽と、アメリカの明るく、当時としては新しいスウィング・ジャズを融合させて創造したマヌーシュ・ジャズは、哀愁を帯びたメロディでありながら、重くならずに軽快にスウィングし、古くて、しかしどこか新しい、という不思議なサウンドがノスタルジーを感じさせ、理屈抜きに人の心の深部に訴える何かを持っている。つまり「辛く哀しいこともあるが、どこかに希望もある」という人生の機微と真実を、ある意味で哲学的に伝える音楽とも言える。これは、フランスのシャンソンにも、初期のアメリカのジャズにも、ブラジル音楽のサウダージにも通じるフィーリングであり、国や民族に関わらず、人間誰しもが持つ情感を呼び起こす普遍的とも言える音楽の力だ。それが、ジャンゴが生んだマヌーシュ・ジャズ最大の魅力であり、現在も国境を越えて多くの人に聴かれている理由だろう。

2018/11/25

ジャズ・ギターを楽しむ(3)ジム・ホールの "対話"

Berlin Festival
Guitar Workshop
1968 MPS
1967年に、ヨアヒム・E・ベーレントとジョージ・ウィーンの共同企画で、ベルリンで開催された ”Berlin Festival Guitar Workshop” というコンサートをライヴ録音したレコードがある。私は昔、主に全盛期のバーデン・パウエルの超絶ギターを聴くために、このレコード(LP、後にCDも)を購入した。ジャズ・ギターの歴史を振り返るという趣向で企画されたこのコンサートでは、エルマー・スノーデンの素朴だが味わいのあるバンジョーによる2曲、バディ・ガイのアーシーなブルース・ギターとヴォーカル2曲、バーニー・ケッセルの流れるようなモダンなジャズ・ギター2曲、そしてジム・ホールの<Careful>とバーニー・ケッセルとのデュオ<You Stepped out of a Dream>と続き、最後にバーデン・パウエル・トリオが登場して、<イパネマの娘>、<悲しみのサンバ>、<ビリンバウ>の3曲を圧倒的なスピードと迫力で弾き切って、会場の熱狂的な歓声で終えるという構成のレコードだ。CDではベーレントによるMCもカットされていて、パウエルへの会場の熱狂ぶりがLPほどは伝わって来ない。だが、このレコードを何度も聴くうちに、ケッセルとのデュオも含めて、パウエルとはまったく対照的な、ここでのジム・ホールのクールで抑制のきいた独特のギター・サウンドの味わいに、むしろ徐々に魅力を感じるようになった。ジョー・パスのような解放感や華やかさはないが、時間と共に、そのモダンで、かつ渋い演奏の素晴らしさがじわじわと伝わって来る名人芸を聞かせる――ジム・ホールとはそういうギタリストである。そのホール独特の個性と魅力が、もっとも発揮できるフォーマットがデュオではないかと思う。ジャズのデュオというのはコンボと違って、一聴すると単調に感じられることも多く、また息詰まるようなムードが苦手な人もいるだろうが、奏者にとっては曖昧なプレイが許されない、常に緊張を強いられるフォーマットでもあり、それだけにミュージシャンの技量とセンスによっては、素晴らしく高度な音楽が生まれることがある。

Undercurrent
Bill Evans & Jim Hall
1963 United Artist
ジム・ホール(Jim Hall 1930-2013)の演奏で、もっともよく聞かれているレコードは、おそらくビル・エヴァンスとの共作デュオ、『アンダーカレント Undercurrent』(1963 United Artistだろう。これはジャズファンなら知らない人はいないくらい有名なレコードであり、ジャズ史上、全編ピアノとギターのデュオだけで、これ以上美しい演奏を収めたアルバムはない。単に美しいだけではなく、最初から最後まで緊張感が途切れず、互いに反応し合う両者のインタープレイ(対話)がジャズ的に素晴らしいのだ。ホールはこれ以前に、ジョン・ルイスの『John Lewis Piano』(1957 Atlantic) でも、Two Lyric Pieces (Pierrot/Colombine)>という10分を超える曲で、ルイスと静謐で美しく見事なデュオを演奏している(b、dsもバックでサポート)。その後エヴァンスとはもう1作『Intermodulation』(1966 Verve)も録音している。

First Edition
George Shearing /Jim Hall
1981 Concord
ホールはその後、盲目のピアニスト、ジョージ・シアリングとも同様のデュオ・アルバム『First Edition』(1981 Concord) を吹き込んでいて、これは演奏曲目、シアリングとホールの対話共に、抒情的で非常に美しいアルバムだ(手持ちのLPしかなく、今はCDが入手できないのが残念だが)。1986年にはモントルーでミシェル・ペトルチアーニと共演し(『Power of Three』、ウェイン・ショーターも参加)、2004年には、エンリコ・ピエラヌンツィと『Duologues』(Cam Jazz) を録音している。ジム・ホールは、もちろんデュオ以外でも様々なコンボ演奏に参加してきたモダン・ギターの筆頭と言うべきヴァーサタイルなギタリストだが、ピアノ・トリオにおけるインタープレイを確立したのが、ビル・エヴァンスだとすれば、ギターとピアノによる対話という演奏フォーマットを開拓、確立したのはやはりジム・ホールだろう。このコンセプトの現代版が、パット・メセニーとブラッド・メルドーによる『Metheny Mehldau』(2006 Nonesuch)で、このアルバムの中でも、二人の美しいギターとピアノのデュオを何曲か聞くことができる。

Dialogues
1995 Telarc
ジム・ホールのデュオの相手はピアノだけに留まらず、1972年にはベースのロン・カーターと『Alone Together』(Milestone)を録音し、1978年には同じくレッド・ミッチェルとクラブ「Sweet Basil」で共演している(未CD化)。さらに1990年のモントルー・ジャズ祭では、チャーリー・ヘイデンのベースともデュオで共演した(Impulse! によるCDリリースは、二人の没後2014年)。その後、ついにギター(ビル・フリゼール、マイク・スターン)、テナーサックス(ジョー・ロヴァーノ)、フリューゲルホーン(トム・ファレル)、アコーディオン(ギル・ゴールドスタイン)という、5人の異種楽器奏者を共演相手に2曲づつ演奏したアルバム『Dialogues』(1995 Telarc) を発表する。ベース (Scott Colley)、ドラムス (Andy Watson) も参加しているが、サポートに徹していて目立たないので、実質的にはホールのデュオ作品と言っていい。リー・コニッツ (as) が、1960年代に同様のコンセプトで、『Lee Konitz Duets』(1967 Milestone) というかなりアブストラクトな完全デュオ・アルバムを録音している。コニッツとジム・ホールの共通点は、広いスペース(演奏空間)を好み、共演者のプレイにじっと耳を傾け、密接に "対話" し、そのやり取りを通じてインスパイアされることで、自身のインプロヴィゼーションの可能性を拡大したいという願望を常に抱いている、内省的で、同時に野心的なジャズ・ミュージシャンであることだ。デュオはその究極とも言えるフォーマットだが、ジャズにおける "対話" とは、単に互いを尊重し協調するだけではなく、時には音楽上の "対決" すらあり得るスリリングな場でもあり、そこからどのような音楽的成果が生まれるのか、ということに醍醐味がある。異種楽器を共演相手に選んだ『Dialogues』は、そうしたデュオのスリルと新鮮さを追求しようとする実験的精神が強く、そのため曲目も全10曲のうち<Skylark1曲を除いて、ジム・ホールの自作曲だけで構成されている。カンディンスキーの抽象画 (Impression Ⅲ- Konzert) によるジャケットが象徴しているように、コニッツの盤ほどではないが、アブストラクトな要素が増しているので、その世界を楽しめる聴き手と、入り込めないように感じる聴き手がいるのは仕方がないだろう。そこで評価が分かれるが、私はこのアルバムの持つ空気が好きで、各曲も演奏もユニークかつ刺激的で楽しめるし、また空間を生かしたTelarc 録音もあって、どのデュオも非常に美しいと思う。70年代に売れた『Concierto (アランフェス協奏曲)』(1975 CTI) のような分かりやすい路線の例があっても、ジム・ホールは、ジャズ・ギタリストとしては珍しく、本質的にコマーシャルな音楽を指向するミュージシャンではないのである。本盤に参加しているビル・フリゼールとの共通点もそこにあり、師弟とも言える両者のギター・デュオは、その意味でも非常に刺激に満ちている。私的には、マイク・スターンとジョー・ロヴァーノとのデュオも非常に楽しめた。

Jim Hall & Pat Metheny
1999 Telarc
”対話” を探求し続けたジム・ホールが、究極の地点に達したかと思われるデュオ作品が、パット・メセニーとのギター・デュオ『Jim Hall & Pat Metheny』(1999 Telarc) だ。全17曲のうち、6曲がピッツバーグでのライヴ録音、その他がスタジオ録音で、スタンダード曲、メセニー、ホールの自作曲の他、<Improvisation>と題した5曲の純粋な即興デュオが収録されている非常に多彩な内容を持つレコードだ。メセニーはここで、エレクトリック・ギターの他、各種アコースティック・ギターも使い分けてジム・ホールと対峙している(ホールが左、メセニーが右チャンネル)。メセニーにとっては尊敬する大先輩との共演であり、一方ホールにとっては、息子のような年齢の当代一の人気ギタリストとのデュオという、これ以上ない興味深い相手で、張りきって臨んだことは間違いないだろう。メセニーは純ジャズという範疇のギタリストではなく、全方位のミュージシャンではあるが、多彩な演奏技術ばかりでなく、紡ぎ出すメロディ・ラインには普通のジャズ・ギタリストにはない特筆すべき美しさがある。一方のジム・ホールは、まさに純ジャズの世界を突き詰めてきたギタリストであり、音数の少ないシンプルなメロディ、独特のトーン、ハーモニーを駆使して、大きなスペースの中で共演相手と対話する名手である。同じ楽器を使いながら、一見音楽的に混じり合いそうにない両者が、デュオという世界でどういう化学反応を起こすかが聴きどころのアルバムだ。そしてその期待を裏切らない、全体に静謐だが変化に富み、調和しながらもスリリングで、しかも美しい、見事なギターによる対話となった。演奏は多少アブストラクトな曲も含めて、どれも聴きごたえがあって楽しめるが、中でもメセニー作の<Ballad Z>、<Farmer’s Trust>、<Into the Dream>、<Don’t Forget>、ホール作の<All Across the City>などの美しいバラード曲は、広々とした空間で溶け合う二人のギター・サウンドを捉えたTelarcならではの録音もあって、まるで夢幻の境地へ導かれるかのような素晴らしさだ(ジャズ的には珍しい、空間における間接音の響きを重視するTelarc 録音の真価を味わうには、ステレオ装置の音量を、ある程度上げて聴く必要がある)。これらの曲はまさに、ジム・ホールの "対話" の原点とも言うべきビル・エヴァンスとの『Undercurrent』の美しい世界を、2台のギターによって再現したかのようである。

2018/11/11

ジャズ・ギターを楽しむ(2)ジョー・パスの "スウィング"

Virtuoso
1971 Pablo
チャーリー・クリスチャンとジャンゴ・ラインハルトという開祖を別にすれば、「ジャズ・ギターとは、ウェス・モンゴメリーのことだ」という考えは今でも変わらないが、それでもモダン・ジャズ時代のギタリストはずいぶんと聞き漁った。ケニー・バレルなど数少ない黒人奏者の他、タル・ファーロウ、ジョニー・スミス、バーニー・ケッセル、ハーブ・エリス、ジミー・レイニー、ジム・ホールなど白人のジャズ・ギター奏者も数多く、彼らはいずれも個性的な奏者だったが、中でもウェスと同時代に活動を始めたジョー・パス (Joe Pass 1929-94) は、私にとっては、肩の凝らない、スウィンギングでハッピーなジャズ・ギターを代表するギタリストだ。ビバップをベースにしたパスの演奏は、オーソドックスで、特別な個性は感じられないが、何と言ってもあらゆる演奏が ”スウィング” していて、メロディ、ハーモニー、リズム共に、とにかくジャズ・センスが最高なのだ。ジャズ・ギターの本流ウェス・モンゴメリー系とは別に、アーシーさやブルージーさは希薄でも、白人らしい洗練されたサウンドと奏法に加え、パスの温かい人柄が、その演奏に表れているように思う(会ったことはないので実際の人柄は知らないが、ジャズはサウンドを聞けば、奏者の人格がおおよそわかるものだ)。聴き手に緊張感を与えず、リラックスして、いつの間にか、そのギターテクニックと気持ちの良いサウンドにひたすら聞き入ってしまう、という不思議な引力がジョー・パスのギターにはある。パスの音楽が持つ開放的で、明るい印象は、やはりイタリア系の出自が関係しているのだろう。

Sound of Synanon
1962 Pacific Jazz
 
ジョー・パスと言えば、1970年代のソロ演奏 ”Virtuoso” シリーズがまず思い浮かぶが、コンボ演奏やヴォーカル共演でも数多く名盤を残している。アルバム数も非常に多く、人それぞれの好みもあるだろうが、私的にまず挙げたいのはデビュー作『サウンド・オブ・シナノ Sound of Synanon』Pacific Jazz 1962)だ。デビューと言っても、十代でジャズの世界に入ったものの、この時は既に30歳を過ぎていて、ドラッグに苦しみ入所した、薬物中毒者の更生施設であるLAのシナノン療養所で、他のジャズマン入所者と一緒に演奏したものをPacific Jazzのリチャード・ボックが録音した貴重な(?)レコードだ。ここでは、ソリッド・ボディのエレキギターを使用しているそうだが、パスのギターの他、トランペット(Dave Allen)、バリトン・ホーン(Greg Dykes)、ピアノ(Arnold Ross)、ベース、ドラムス、ボンゴという西海岸のプレイヤーによるセプテット編成で、解放感のある非常にダイナミックな演奏が続く。このレコードの魅力は何よりも、パスを筆頭に、プレイヤー全員が、日頃の鬱憤を晴らすかのように張り切って、かつ楽しそうに演奏している様子がサウンドから伝わって来るところだ(当然だが、所内で節制していたはずなので、当時のジャズでは珍しく、みんな体調も精神状態もきっと健康だったからだろう)。

Catch Me!
1963 Pacific Jazz
1963年、クレア・フィッシャー Clare Fischerのピアノ(オルガンも)をフィーチャーしたカルテットによる、『キャッチ・ミーCtach Me!』(Pacific)を吹き込む。躍動感に溢れ、シングルトーンの高速プレイにおけるテクニック、後年のソロ・バラード演奏の片鱗も窺える<But Beautiful>などが収められたこのアルバムが、パスの真のデビュー作と言っていいだろう。続いて、パスのコンボ演奏ではもっとも有名なレコード『フォー・ジャンゴ For Django』(1964 Pacific)を吹き込むが、これは盟友ジョン・ピサノのリズム・ギターを加えたカルテット編成で、パス初のピアノ、ホーン抜きのギター・コンボによる、ジャンゴ・ラインハルトに捧げたアルバムだ。名盤と言われ、確かに素晴らしく洗練された演奏が続く完成度の高いアルバムだが、どこか抑制されたような印象がつきまとい、行儀が良すぎて、パスらしい明るさや伸びやかさが何となく足らないように私には思える。むしろ60年代前半のこの時代は、パスが伸び伸びと、楽しそうに、流れるようなギターを弾いている雰囲気が感じられる『Catch Me!』の方が個人的には好みだ。こちらはピアノ入り編成ということもあって選曲も多彩で、録音も、ベースの音を含めて、よりジャズっぽいハードな音で捉えられているので、演奏がダイナミックで、何よりずっとパスらしくスウィングしているように感じられる。

Intercontinental
1970 MPS
 
そして70年代、Pabloレーベルでの ”Virtuoso” シリーズが始まる前年、1970年にドイツのMPSレーベルからリリースされたのが『インターコンチネンタル Intercontinental』だ。パスとMPSというのは意外な組み合わせのようにも思うが、このアルバムは、ギター、ベース(Eberhard Weber)、ドラムス (Kenny Clare) によるギター・トリオで、ウェス・モンゴメリーの『Guitar On the Go』を彷彿とさせる、滑らかで、流れるようなパスのギター・プレイが楽しめる。奇を衒ったところが皆無のこのアルバムは、リラックスしたパスのトリオ演奏を代表するだけでなく、多くのギター・トリオを代表する名盤だ。10曲のほとんどがスタンダード曲であり、演奏も非常にモダンで、かつ聴きやすい。さらに、私が持っているのはLPではなくCDだが、それでも録音が非常に素晴らしく、典型的ギター・トリオの気持ちの良いサウンドが終始響きわたって、聴いていて実に快適だ。ジョー・パスと、スウィングするジャズ・ギターの魅力を、誰もがシンプルに実感できる素晴らしいアルバムだと思う。

Summer Nights
1990 Pablo
 
パスはその後、ベースのニールス・ペデルセンとのデュオ、エラ・フィッツジェラルドの歌伴、オスカー・ピーターソンやミルト・ジャクソンとの共演盤など、80年代にも数多くのアルバムを毎年のように録音していて、中には何枚か優れたレコードもある。だが、この時代の私の愛聴盤は、89年に録音された ”ジャンゴに捧ぐ'90” という邦題がついた『Summer Nights』(1990 Pablo)だ。実は、ジョー・パスの数多い作品の中でも、個人的に一番好きなのがこのレコードだ。何よりアルバム全体が、開放的かつ爽快に "スウィング" しているからだ。ジョン・ピサノを加えた、1964年のダブル・ギターのカルテット『For Django』と同じメンバー (Jim Hughart-b, Colin Bailey-ds) が再会し、ジャム・セッション的に演奏したものだそうだが、ギターのアコースティックな響きに満ちたこのアルバムの方に、むしろジャンゴ・ラインハルトの精神をより強く感じる。1989年録音なので亡くなる5年前だが、きっとまだパスの体調も良かったのだろう、とても良いコンディションで、パス本人が最高に気持ち良さそうにギターを弾いている様子が伝わってくるようだ。実際には、ジャンゴ・ラインハルトの曲は<Anouman>、<Tears>など 12曲中4曲だけで、冒頭のスタンダード <Summer Night> の実に気持ちのいいミディアム・テンポでスタートし、ハイスピードの<I Got Rhythm>、さらにスロー・バラード <In My Solitude>や<In a Sentimental Mood>の密やかな抒情等々、緩急をつけながら曲、演奏ともに変化に富み、しかもバランスが良く、全曲まったく飽きさせずに最後まで聴き通せてしまう名人芸である。指弾きも入ったフルアコ・オンマイクで、ギターのボディから発するアコースティックな響きを捉えたジャンゴ風録音も最高で、ジャズ・ギターの楽しさ満載の傑作である。(しかし、パス晩年のこの素晴らしいCDがなぜか再発されず、入手しにくいようなのが残念だし、勿体ないことだ。)

2018/10/27

ジャズ・ギターを楽しむ(1)ガットギターの美

ジャズ・ギターの場合、使われるのは昔も今もエレクトリック・ギターがほとんどだ。生ギターの音は小さいので、アンプで音を増幅しないと、ピアノやホーンといった他の楽器と音量的に対等なセッションができないことが理由で、チャーリー・クリスチャン以来、ジャズ・バンドで演奏されるのはすべてエレクトリック・ギターである。ジャズのセッションで使われるピアノやギターは、基本的にコード楽器としての役割が強いこともあって、たとえば前項のジャッキー・マクリーンのようなメロディを担当するホーン奏者のように、一音聞いただけで、誰が吹いているのかわかる、というようなミュージシャンの個性を感じ取るのが難しい。もちろんメロディ・ラインだけでなく、コードワーク、リズム、フレージングを組み合わせたサウンドで個性を表現するので、より複雑だという理由もある。しかし1960年代までのジャズには、エレクトリック・ギターといえども、こうした個性のある奏者がいた。古くはタル・ファーロウ、そしてもちろんウェス・モンゴメリー、白人でもジム・ホールやパット・マルティーノのような人たちは、ホーン奏者と同じくらいサウンドの個性が際立っていたので、ワン・フレーズで誰の演奏かわかったほどだ。70年代以降ロックからの影響やフュージョンが台頭して、ジャズ・ギター奏者の数が激増し、生音増幅だけではなくアンプによるイフェクトも多彩になると、ジョン・スコフィールドやビル・フリゼールのような人たちを除いて、音色やフレージングだけで誰の演奏か聞き分けるのが簡単ではなくなる。音だけでは誰の演奏かわからない、という没個性分野になっていったのである。とはいえ、これはギターに限ったことではなく、1970年前後のマイルス・デイヴィスによるサウンドの電化と、集団即興演奏というコンセプトが支配的になってから、自由な個人による強烈な個性がジャズとジャズ・ミュージシャンたちから徐々に薄れて行く、というジャズ史的、あるいは社会史的時代背景もあるだろう。

I Remember Charlie Parker
Joe Pass (1979)
ところで、ジャズでも完全なアコースティック・ギターを使うことがあるが、ラルフ・タウナーのように主としてスチール絃を張った系統のギターと、ナイロン弦(大昔はガットー羊の腸)を使った普通はピックを使用しない、いわゆるガットギターがある。響きと余韻はスチール絃やエレクトリック・ギターに比べてずっと控え目だが、アコースティック・ギター本来の、木の柔らかく繊細な音が聞こえて、曲や演奏によっては「ならでは」のジャズの世界が楽しめる。ガットギターは、アール・クルーなどフュージョン以降はジャズでも時々使用されるようになったが、音量が小さいだけでなく、音が持続しない、という欠点を補うためにアンプ増幅されているのが普通だ。バーデン・パウエルやルイス・ボンファのようなサンバ、ボサノヴァ系、チャーリー・バードやローリンド・アルメイダなどのジャズ・ボッサ系は基本的には生のガットギターだが、フュージョン以外のいわゆる伝統的なモダン・ジャズでガットギターを使った例は非常に少ない。私はガットギターの柔らかく温かい(時にクールだが)音色が好きで、ジャズ・ギター好きでもあるので、昔からガットギターを使ったジャズ・レコードを探してきたが、一部の曲で使うという例はあっても、アルバム全部がガットギターという盤は数が非常に少ない。アンプ増幅を使わない生のガットギター・ジャズは、音量的にセッションは無理で、クラシック・ギター的に普通は一人で、それもスタジオで作り込むソロ演奏しかないだろう。ピックを使わない指弾きでジャズを演奏するとなると、ガットギターの構造上、複雑なコードの押さえ、運指、右手(指)の使い方に高い技術が必要で、ごまかしがきかないので、ジャズ・ギター奏者なら誰でも弾けるわけではない。しかし、ナイロン弦が柔らかく響くそのジャズ・サウンドは、内省的で、繊細で、非常に美しいものが多く、クラシック・ギター音楽や、エレクトリック・ギター、スチール弦のアコースティック・ギターによるジャズにはない、独特の美の世界を持っている。

Songs for Ellen
Joe Pass (1994)
そういうわけで、数少ない「ガットギターの美が聞けるジャズ」という条件を満たした、私の好きなレコードをこのページに何枚か挙げてみた。ジャズでソロ・ギターと言えば、まずはジョー・パスだが、ジャズ・スタンダードをガットギターによるソロで弾いたジャズ・ギタリストも、私が調べた範囲では、ジョー・パスが最初のようだ。パスは1979年に、最初の全編ガットギターによるソロ・アルバム『I Remember Charlie Parker』(Pablo)を吹き込んでいる。これは70年代のパス畢竟のソロ名演 “Virtuoso” シリーズを何枚か出した後、チャーリー・パーカーの『With Strings』に収録された名曲を、ジョー・パス流解釈とテクニックで、見事にガットギターで弾き切ったアルバムだ。

Unforgettable
Joe Pass (1998)
その後ずいぶん経って、病気で亡くなる2年前の1992年にソロ・アルバム『Songs for Ellen』(Pablo 1994)を録音している。同日録音した他の演奏も『Unforgettable』(Pablo)というアルバムに収録され、パスの没後1998年にリリースされた。若き日のスウィンギングなジョー・パスのジャズ・ギターはどれも素晴らしいが、晩年になったこの時期の、ナイロン弦ギターによる枯れたソロ演奏は実に味わい深い。もともとギターのナチュラルでアコースティックな響きを好んだジョー・パスは、後期になると益々アンプ増幅を抑えて、ギターのボディの響きをより聴かせる演奏が増えたように思う。そしてこの『Songs…』と『Unforgettable』では、ついにいずれもガットギターによる静謐なソロ演奏だけでアルバムを構成した。この最晩年の、ジャズ・バラードを中心とした2枚のCDは、どの曲も慈しむかのように柔らかく、優しく、病んだ当時のパスの心象を表すかのように、ガットギターの繊細な響きがしみじみと伝わってくる素晴らしいソロ・アルバムである。

So Quiet
廣木光一、渋谷毅 (1998)
ガットギター・ソロでは、パット・メセニーのバリトンギターのソロ『One Quiet Night』2003)や、日本人では渡辺香津美のソロ『Guitar Renaissance』(2003)もよく聴く。いずれも達人の技が堪能できるアルバムだが、私にとって20年来の愛聴盤は、なんと言っても廣木光一の『Playin’ Plain』(1996)だ。残念ながらもう入手できないようだが、ガットギター・ソロでジャズ・スタンダードに挑戦するという、ジョー・パス以来の素晴らしくユニークな演奏が収められている(もちろん伝統的なパスの演奏とはまったく違う、ずっとアブストラクトなサウンドだが)。初めて聴いた時には、ガットギター・ソロで、しかも「本気で」弾いているジャズにびっくりし、また感動もしたが、廣木光一の師があの高柳昌行と知ってなるほどと思った。

Bossa Improvisada
廣木光一(2007)
もう1枚は、ソロではなく廣木光一と、ジャズ・ピアノのベテラン渋谷毅によるガットギターとピアノのデュオ『So Quiet』(1998 BIYUYA)である。こちらのアルバムは、上記ソロ盤のようなジャズ的厳しさよりも、美しく、またリラックスした音の世界であり、気持ちの良いアコースティックな響きにひたすら浸ることができる。曲は<Over the Rainbow>などのスタンダード6曲、廣木、渋谷のオリジナル4曲の計10曲。『So Quiet』というタイトルが表しているように、昼とは打って変わった、深い静寂に包まれた都会の夜を彷彿とさせる音楽である。2人はコンビで最近も新作『五月の雨』(2018)を発表し、ライヴ活動も行なっている。もう1枚の廣木光一のソロ『Bossa Improvisada』(2007 BIYUYA) は、ジャズ側からのボサノヴァ・ソロ・ギターへのアプローチで、佐藤正美の弾くボサノヴァ・ギターとは異なるジャジーな味と美しさがあって、私的にはこれも非常に楽しんでいる。(しかし廣木さんのCDは、私家録音なのか、気づくとカタログから消えているのが残念だ)。

Pao
Eugene Pao (2001)
ソロではなく、ジャズ・コンボでガットギターを弾く場合は、普通はアンプを通すが、それでもナイロン弦の湿度感のある柔らかな響きは楽しめる。ジョン・マクラフリンが、ビル・エヴァンスの曲をガットギターとベースだけのアンサンブルで演奏した耽美的レコード『Time Remembered』(1993 Verve)もあるが、これはクラシカルで美しすぎて、私的にはジャズを感じない。ここに挙げたアルバム『Pao』(2001 Stunt) は、ユージン・パオ(Eugene Pao 1959-) という、日本では多分ほとんど知られていない香港生まれ北米(アメリカ、カナダ)育ちのコンテンポラリー・ジャズ・ギタリスト(と呼ぶのだろう)のカルテットによるリーダー作だ。デンマークのマッズ・ヴィンディング(b)のトリオ(アレックス・リール-ds、オリビエ・アントゥヌス-p)との共演盤である。全9曲のうち6曲がナイロン弦のガットギターによる演奏で、マッズの勧めによってアコギの選択になったそうである(ただしピックを使用している)。聴けばわかるが比較的クールな奏者なので、ナイロン弦アコギによる演奏が資質にピタリとはまって(マッズはそれを見抜いたのだろう)、特にウェイン・ショーター作の<Infant Eyes> や、<Blame It on My Youth>、<My Foolish Heart> などの古いバラード曲の演奏は、ナイロン弦の響きが曲調と合っていて、私的には非常に気に入っている。ヨーロッパ録音なので音も非常にクリアで、共演のオリビエ・アントゥヌスのピアノも、パオのガットギターの響きも余韻も非常に美しい。(ただし、今はこのCDも入手が難しいようだが)

2018/10/06

忘れ得ぬ声 : ジャッキー・マクリーン

なぜか時々無性に聴きたくなるジャズ・ミュージシャンがいる。サックス奏者ジャッキー・マクリーン(Jackie McLean 1931-2006) もその一人だ。私はマクリーン・フリークというほどではないが、一時期マクリーンに凝って、いろいろアルバムを聴き漁ったことがあり、当時集めたLPCDもかなりの数になっている。時々、PCに入れたマクリーンのアルバム音源を連続して再生していると、懐かしさもあって、つい時の経つのを忘れるほど楽しい。親しかった昔の友人と久々に会って、話を聞いているような気がするからだ。もう亡くなってしまった昔の知人や懐かしい友人たちは、顔も思い出すが、むしろ記憶している "声" の方が、いつまでも生々しく聞こえてくるように思う。マクリーンの場合、特にそう感じるのは、ややピッチが高めで、哀感を感じさせる、かすれたアルトサックスの音色、粘るリズムとフレーズ、演奏の中から聞こえてくるブルース……それらが一体となってマクリーンにしかない個性的サウンドを形作っているのだが、それが単なるサックスの音というより、“人間の声” のように感じさせるせいだと思う。同じチャーリー・パーカーのコピーから始めても、ソニー・スティットのような名手をはじめとした他のパーカー・エピゴーネンとは違う、マクリーンにしかないその "声” が、技術の巧拙を超えて、どのアルバムを聴いても聞こえてくる。アルトサックスではリー・コニッツもそうだが、これはジャズではすごいことで、それこそがジャズ音楽家の究極の目標の一つと言ってもいいくらいなのである。マクリーンのアルトで有名なアルバムと言えば、日本ではまずはソニー・クラークの名盤『Cool Struttin’』(Blue Note 1958)、それにマル・ウォルドロンの『Left Alone』Bethlehem 1960)が昔から定番だ。どちらも出だしの一音でマクリーンとわかる、これぞジャズというそのサウンドには忘れがたいものがある。

マクリーンの公式な初録音は、20歳のとき1951年のマイルス・デイヴィス『Dig』(Prestige)参加で、その後毎年のようにマイルスのBlue NotePrestige等のレコーディング・セッションに参加していた。初リーダー作となったのは、ハードバップの時代に入り、ドナルド・バードのトランペットも入った2管の『The Jackie McLean Quintet-The New Tradition Vol.1』1955 Ad-Lib/Jubilee)だ。私はこのアルバムが大好きで、McLean(as)Donald Byrd(tp)Mal Waldron(p)Doug Watkins(b)Ronald Tucker(ds) というメンバーによる演奏は、マクリーンもバードも含めて、ほぼ全員が20歳代の新進プレイヤーたちの気合を象徴するように、粗削りだがアルバム全体が溌溂かつ伸びのびとしていて、どの演奏もエネルギーに満ちているので、聴いていて実に気持ちが良い。ここでのマクリーンは、既にして個性全開ともいうべき鋭いフレーズと独特のサウンドを展開しており、ドナルド・バードの流れるようなトランペット・ソロ、初期のマル・ウォルドロンのアブストラクト感のあるピアノ、ダグ・ワトキンスの重量感のあるベースなど、どのプレイも楽しめる。特にマクリーンとバードの2管の相性は良いと思う。アルバム冒頭の<It’s You or No One>が聞こえてきた途端に、全盛期のモダン・ジャズの空気が流れ、マクリーンのあの “声” に何とも言えない懐かしさがこみあげて来る。私的に大好きな演奏The Way You Look Tonight>、マクリーンが書いたジャズ・スタンダード<Little Melonae>の初演、最後にはマクリーンのアイドル、チャーリー・パーカーへのオマージュとして、バラード<Lover Man>も入っている。初代レーベル(Ad-lib)は猫のジャケットだが、この2代目(Jubilee)の面白いデザイン(フクロウ?)も、本アルバムの若さと爽快感がそこから聞こえて来るようで気に入っている。

マクリーンはこの後PrestigeNew Jazzに何枚かのレコードを吹き込み、さらにドナルド・バードと共にBlue Noteに移籍し、1959年の初リーダー作『New Soil』以降、1960年代はBlue Note盤、その後ヨーロッパのSteeple Chase盤などをはじめ、一時引退するまで数多くの録音と名盤を残しており、その間独特のアルトの音色も微妙に変化してゆく。復帰後、晩年の'90年代には、大西順子(p)と『Hat Trick』Somethin’else 1996)を吹き込んでいる。人それぞれに好みがあると思うが、私が個人的に好きなマクリーンは、どれも一般的なジャズ名盤とまでは言えなくとも、やはり瑞々しい若き日の演奏が聴ける1950年代だ。まずはPrestigeの『4, 5 and 6』(1956) で、McLean(as)Mal Waldron(p)Doug Watkins(b)、Art Taylor(ds)というワン・ホーン・カルテット(4)による 3曲(Sentimental JourneyWhy was I BornWhen I Fallin' Love)、そこにDonald Byrd(tp) が加わったクインテット(5)で2曲(ContourAbstraction)、さらにHank Mobley(ts) が加わったセクステット(6)で1曲(Confirmation)ということで、タイトルの『4, 5 and6』になる。考えてみれば、Prestigeらしい適当なアルバム・タイトルだが、ヴァン・ゲルダー録音による音が生々しく、どの曲を聴いてもハードバップのあの時代が蘇って来るような、肩の凝らない演奏が続いて楽しめる。ここでもドナルド・バードのトランペットが良い味だ。

上の盤と並んで好きなこの時期のレコードは、Prestigeの傍系レーベルNew Jazzに吹き込んだ『McLean’s Scene』(1956)だ。Prestigeと違って、New Jazzのアルバムはタイトルもそうだが、このマクリーンのレコードの赤い印象的なジャケット・デザインに見られるように、どれも “一丁上がり” という軽さがなく、一応考えているように見える(Blue NoteRiversideのような丁寧さや知性は感じられないが)。こちらもMcLean(as)Bill Hardman(tp)Red Garland(p)Paul Chambers(b)Art Taylor(ds)という2管クインテットによる3曲(Gone with the WindMean to MeMcLean's Scene)と、McLean(as)Mal Waldron(p)Arthur Phipps(b)Art Taylor(ds)というワン・ホーン・カルテット3曲(Our Love is Here to StayOld FolksOutburst)を、組み合わせたスタンダード曲中心の作品だ。こうした曲の組み合わせも、Prestigeが一発録りで一気に録音した音源を、あちこちのアルバムに適当に(?)組み合わせて収録しているので、アルバム・コンセプト云々はほとんど関係ない(もう1枚、同じメンバーで同日録音した音源を収録した『Makin’ The Changes』というマクリーンのリーダー作がある。当然だが、こちらも良い)。この時代のこうしたレコードは、細かなことをごちゃごちゃ言わずに、ひたすら素直にマクリーンの音を楽しむためにあるようなものだ。ただし、マクリーンの "声" を生々しく捉えたヴァン・ゲルダー録音でなかったら、ここまでの魅力はなかっただろう。Prestigeもこれでだいぶ救われた。

もう1枚も、同じくNew Jazzの『A Long Drink of the Blues』1957)である。全4曲ともにゆったりとしたブルースとバラードで、タイトル曲で冒頭の長い(23分)のブルース<A Long Drink of the Blues>のみがMcLean(ts,as)Webster Young(tp)Curtis Fuller(tb)Gil Cogins(p)Paul Chambers(b)Louis Hayes(ds)という3管セクステット、残る3曲のバラード(Embraceable YouI Cover the WaterfrontThese Foolish Things)が、McLean(as)Mal Waldron(p)Arthur Phipps(b)Art Taylor(ds)というワン・ホーン・カルテットによる演奏だ。スタジオ内の長い演奏前のやり取りの声から始まる1曲目のブルースでは、マクリーンがアルトとテナーサックスを吹いているが、そのテナーはフレーズはまだしも、ピッチのやや上がったかすれた音色までアルトと同じようで、まるで風邪をひいたときのマクリーンみたいなところが面白い。後半のバラードは、ビリー・ホリデイの歌唱でも有名なスタンダードで、マクリーンの哀愁味のあるアルトの音色がたっぷり楽しめる。当時ホリデイの伴奏をし、独特の間を生かした自己のスタイルを確立しつつあったマル・ウォルドロンのピアノも、メロディに寄り添うように美しいバッキングをしている。この作品もそうだが、Blue Note盤のような格調、また演奏と技術の巧拙やアルバム完成度は別にして、ブルースやバラードなどを若きマクリーンがリラックスして吹いており、こちらも肩の力を抜いて、あの “声” をひたすら楽しんで聴けるところが、’50年代のこうしたアルバムに共通の魅力だ。新Macオーディオ・システムは時間とともに音が一段と良くなり、間接音の響きが増して実に気持ちが良いので、ついヴォリュームを上げてしまうが、ヴァン・ゲルダー録音のマクリーン一気通貫聴きの楽しみを倍加している。

2018/09/18

秋吉敏子、ルー・タバキンのコンサートを見に行く

9月初めの東京ジャズ2018はスキップした。今年も昨年同様、同日に渋谷区の防災訓練が行なわれたらしいが、場所は昨年と違ってNHKそばの代々木公園ではなく別の場所だったようだ(よかった)。最近本を読んだこともあって、代わりに出かけたのが915日に東京文化会館小ホールで行われた、秋吉敏子とルー・タバキンのデュオ・コンサート、"The Eternal Duo" だ。(ただしいつも通り、私の場合コンサートは聴くというより見に行くという要素が強いが)。せっかく上野公園まで行ったので、ついでに動物園で実物を見たことのないパンダでも見て来ようと思ったが、敬老の日の週で、高齢者がタダで入場できるらしくて年寄りでごったがえしそうなので、行列嫌いもあってやめておいた。これまで見なかったのは、パンダには何の罪もないが、レンタル・パンダだと思うと、つい某国の政治的意図が頭に浮かんで素直に楽しめないこともある。ちなみにディズニーランドも行ったことがないが、こちらはもう一つの某国の、わざとらしいカルチャー満載のところにどうも抵抗があるためだ。

今年2018年は、二人がトシコ・アキヨシ=ルー・タバキンというコンビを結成して50周年ということもあり、秋吉敏子単独ではなく、夫君も一緒にということになったそうだ。二人はコンビ結成の翌年1969年に結婚しているので、来年は結婚50周年(金婚式)ということになる。88歳(秋吉)と78歳(タバキン)というから、おそらくジャズ史上最高齢夫妻による有料ジャズ・コンサートになるのではないだろうか(ギネス入り?)。普通なら、老人ホームで逆に誰かが演奏してくれる音楽をゆっくり聞く側にいてもおかしくない年齢である。昨年のリー・コニッツの東京ジャズ出演時が89歳なので、秋吉氏は一歩及ばない(?)が、それにしても二人ともまだまだ元気だ。特に、さすがに若い(?)タバキン氏は、テナーサックス、フルート共に、大きな体全体を武道家のように使った豊かな音で、エネルギッシュに吹き切って、まったく年齢を感じさせないのがすごい。秋吉氏は相変わらず、黒柳徹子氏以外に今はめったに聞けない正しい日本語で、クールな喋りを聞かせたが(私は彼女の話し方が好きだ)、さすがに全身を駆使しなければならないピアノという楽器相手では、時々体力的にきつそうに見えたが(時々鼻をかんでいたので風邪でもひいていたのかもしれない)、それでも全体としてとても88歳とは思えない演奏だった。独特の形状をした小ホールはサイズ、全体に響き渡るアコースティック楽器の音響は良いと思ったが、東京文化会館自体が古い建物(1961年建造)で、座席も昔の日本人体型基準なので、最近のホールに比べるといかんせん座席の前後左右が狭くて、どうもゆったりした気分で聞けない。1990年代に改装しているそうだが、もっと工夫して欲しかった。聴衆層は当然中高年が9割だったが、それでもほとんどがたぶん出演者よりは若い(?)、という何だか不思議なジャズ空間だった。

NHKで放映予定
ジャズ・コンサートでは珍しく、パンフレットにはクラシックのように当日の演奏曲名(全6曲の自作曲名とソロ2曲)と曲の概要が書いてあった(普通のジャズ公演パンフではほとんど曲の紹介はない)。パンフレットの最後に児山紀芳氏の名前と紹介記事が書いてあったが、舞台に登場はしなかったので、児山氏がプロデュースをしたという意味なのだろうか(あるいはパンフ解説?)。デュオ、ソロ、デュオの順で、<Long Yellow Road>から始まり、<花魁譚>、<秋の海>という日本的旋律が聞こえる曲と、ソロ2曲をはさんで<Eulogy>、<Lady Liberty>といういわゆるジャズ曲をミックスした構成で、『ヒロシマ』からの<Hope(希望)>を最後に、コンサートはノンストップ1時間ほどでプログラムが終了した。もう終わりかと唖然としていたら、その後アンコールで3曲追加されたが、それでも終わったのは開始1時間半後の7時半近くだった。短いが、お二人の年齢を考えれば仕方がないだろう。最後は、タバキン氏に支えられるように秋吉氏が舞台後方の独特の音響版の後ろに消えて行った。昨年の東京ジャズでのリー・コニッツもそうだったが、本物のジャズ・ミュージシャンの晩年の後ろ姿には、何ともいえない、どこか胸にじわりと来るものをいつも感じる。

秋吉敏子には1950年代から通算80枚ほどのレコードがあるようで、初期のピアノトリオ、チャーリー・マリアーノとのカルテット時代、1970年代以降のタバキンとのビッグバンド時代などでそれぞれ名盤があるが、私が最近よく聴いているトシコ=タバキンのレコード(CD)は、2006年にカルテットで来日したときの録音『渡米50周年日本公演』(20063月、朝日ホールでの非公開ライブ、TTOCレコード)だ。二人にGeorge Mraz (b)、 Lewis Nash (ds) が加わったカルテットで、今から12年前、秋吉敏子76歳時の録音である。曲目は<Long Yellow Road>、<孤軍>、<Farewell To Mingus>、<The Village Lady Liberty>、<Trinkle Tinkle>、<すみ絵、<Chasing After Love>という7曲で、モンクの<Trinkle Tinkle>以外は自作曲である。秋吉氏がモンクの曲を取り上げるのは珍しいと思うが、これはタバキン氏の希望だったのだろうか? 夫妻共々、本作ではコンサートでもやった<Lady…>のような急速テンポでもまったく年齢を感じさせないほど躍動的で、また<…ミンガス>のようなスローな曲では美しく成熟したバラードを聞かせている。このレコードは盛岡の有名なジャズ喫茶店主、照井顕氏のプロデュースで、当時の新進レーベルTTOCの金野氏が録音したものだそうだが、秋吉氏の名曲をカバーしており、またカルテットでもあることから、秋吉のピアノ、タバキンのサックス、フルート共にクリアに聞こえ、かつムラーツのベース、ナッシュのドラムスのリズムセクションの音も良く捉えられている。加工感のない、ストレートな非常に気持ちの良いジャズ音なので、つい何度も聴きたくなる。できればこういう録音は大口径スピーカーで思い切りボリュームを上げて聴いてみたい。トシコ=タバキンの、スモールコンボでの円熟した、しかし力強い演奏を楽しめる良いCDである。

26歳で単身アメリカに渡り、ルー・タバキンという自分を理解してくれるアメリカ人ジャズマンと出会い結婚し、アメリカでジャズを演奏し続け、ついに彼女にしかない独自の語法とサウンドを獲得した秋吉敏子は、まさにジャズそのものという人生を生き抜いて来た本物のジャズ・レジェンドである。これからもご夫妻で仲良く、まだまだ頑張ってジャズを続けていただきたいと思う。