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2017/11/02

モンクを聴く #15 : Tribute to Monk

MONK'stra Vol.1
John Beasley
(2017 Mack Avenue)
モンク作品を演奏した ”Play Monk” あるいは ”Tribute to Monk” 的レコードは昔からたくさんある。一つは単に楽曲(素材)として取り上げ、比較的有名なモンク作品を、いわゆるジャズ・スタンダードとして演奏した性格のものであり、もう一つはモンクの音楽、あるいは音楽家モンクに対する尊敬や思い入れを込めて、ミュージシャンが自身のモンク作品演奏を通して文字通りトリビュートしたレコードだ。後者としてはスティーヴ・レイシーの作品(1958) が有名だが、日本でもピアニスト八木正生(1932-91) が全曲モンク作品のアルバム『Masao Yagi Plays Thelonious Monk』を作っているし(1959)モンク全盛期にはジョニー・グリフィンとエディ・ロックジョー・デイヴィスが『Lookin’ at Monk!』(1961) を録音し、その後もランディ・ウェストン、チャーリー・ラウズといったモンクと親しかったミュージシャンがアルバムを作っている。だがこうしたモダン・ジャズ時代以降も、様々なジャズ・ミュージシャンがモンクの音楽の再解釈に挑んできた。今年はモンク生誕100年ということもあり、ジョン・ビーズリー John Beasley (1960 -) の「モンケストラ MONK'estra」がビッグバンドで斬新な試みに挑戦しており(残念ながら今週の「ブルーノート」でのライヴは聞き逃した)、日本でも山中千尋が全曲モンク作品ではないが『Monk Studies』(Universal) というトリオ・アルバムを発表している。しかも1950年代、60年代の多くの芸術家たちを魅了したように、汲めども尽きない謎と魅力があるモンクの音楽と、モンクという存在そのものがジャズ以外の音楽、さらには音楽以外の芸術分野のアーティストでさえ未だに触発し続けている。

Reflections
Steve Lacy Plays
Thelonious Monk
(1958 New Jazz)
第21章 p434
モンクを本格的に研究した最初のジャズ・ミュージシャンが、モダン・ジャズ時代におけるソプラノサックスのパイオニア、スティーヴ・レイシー Steve Lacy (1934-2004) で、その2作目のリーダー・アルバムが、全曲モンク作品に挑戦した『リフレクションズ Reflections: Steve Lacy Plays Thelonious Monk』(New Jazz, 195810月録音)だった。(ただし別項に記したように、フランスのテナー奏者バルネ・ウィランは1957年1月に、全曲ではないがモンク作品を6曲取り上げたアルバム『Tilt
を既に録音している。)ビバップではなく、シドニー・ベシェら、ディキシーランドやシカゴスタイルの古い音楽の影響をルーツとするレイシーが、次に向かったのがモンクに触発されていたセシル・テイラーであり、1957年夏にモンクが登場する半年以上前に、「ファイブ・スポット」にテイラー・ユニットのメンバーとして出演している。テイラーというフィルターを通してモンクを知るようにったレイシーが、他の奏者のような比較的分かりやすいモンク作品ばかり取り上げなかったのは当然だろう。同じくモンクの影響を受けていたマル・ウォルドロン(p)、セシル・テイラーと共演していたビュエル・ネイドリンガー(b)、当時新進のドラマーだったエルヴィン・ジョーンズ(ds)というカルテットがこのアルバムで取りあげたのは、タイトル曲<Reflections>の他、<Four in One>,<Hornin’ In>,<Bye-Ya>,<Let’s Call This>,<Ask Me Now>,<Skippy>という計7曲のモンク作品である。1957年のズート・シムズ(ts) による<Bye-Ya>以外は(当時は未発表だったバルネ・ウィランの<Let's Call This>もある)、それまでモンク以外誰も演奏したことがない曲ばかりだった。レイシーはモンク作品のメロディ、ハーモニー、リズムという構造を徹底的に研究することから始め、モンクが実際にはせいぜい20曲程度の常時レパートリーしかなかったのに対して、50曲以上のモンク作品をレパートリーにできるまで自身の中に吸収したと言われている。

レイシーのソプラノサックスは、モンクと同じく一度嵌ると病みつきになるほど個性的だが、そのメロディとサウンドもモンク同様に常に温かく美しい。モンクだけを演奏したレイシー初期のこのアルバムでは、まるで二人のサウンドが合体したかのように聞こえる。モンク・バラードの傑作で、レイシーがシンプルに淡々と吹くタイトル曲<Reflections>の懐かしさ漂うメロディは、シンプルゆえにいつまでも耳に残るほど印象的だ。モンクに傾倒していたレイシーが書き留めたと言われる有名な「モンク語録」も、これまでにも多くが知られ、また本書にもいくつか出て来るが、どれも実に興味深く、ジャズの神髄を捉えた言葉ばかりだ。レイシーがあるインタビューで述べた、「画家ユトリロがパリのモンマルトルを描いたように、モンクはニューヨークという街そのものを音楽で描いていたのだ」、という表現もまたモンクの音楽の本質の一部を捉えた名言だろう。そのレイシーが初めてモンク・クインテットのメンバーとして共演した、19606月からの16週におよぶ「ジャズ・ギャラリー」での貴重な長期ギグを、リバーサイドがまたしても録音しなかったのは返すがえすも悔やまれる。レイシーは60年代を通じて、ピアノレスというフォーマットでモンク作品の探求を続け、1963年にはラズウェル・ラッド(tb)、ヘンリー・グライムス(b)、 デニス・チャールズ(ds)というカルテットで、2作目となる全曲モンク作品のLP『School Days』(Emanem) をライヴ録音で残している(ただし発表されたのは12年後)。その後ヨーロッパ中心の活動を続けた後、1970年代にはパリに移住し、70年代半ばにはプロデューサー間章を仲立ちにして、富樫雅彦(ds)、吉沢元治(b)ら日本のミュージシャンとも共演している。その生涯を通じて、レイシーの音楽の根底にあったのは常にセロニアス・モンクだった。

A Portrait of Thelonious
(Orig.Rec.1961/
1965 Columbia)
第26章 p563
モンク作品を取り上げた中で別格とも言えるレコードが、バド・パウエル (1924-66) 196112月17日にパリで録音したピアノ・トリオ、『A Portrait of Thelonious』である。これはキャノンボール・アダレイがパリでプロデュースした音源で、実際には1965年になってコロムビアからリリースされている。パウエルがモンク作品を演奏したのは1944年のクーティ・ウィリアムズ楽団時代の<Round Midnight>の初録音、トリオでは1947Roostの<Off Minor>(モンクによるブルーノート録音より前である)、1954Verveの<Round Midnight>くらいしか思いつかない。二人は音楽的には師弟関係にあり、兄弟のように親しい間柄でもあり、モンクはパウエルに捧げた代表曲<In Walked Bud>も作曲している(1947年)。モンクの曲を演奏するのに、パウエル以上にふさわしいピアニストはいなかったと思うが、パウエルは意外にもモンクの曲をあまり録音していない(たぶん売れないという制作者側の商業的理由や、モンクの曲を演奏できるミュージシャンがいなかったからだろう)。このアルバムでモンクの曲を取り上げたいきさつはよくわからないが、同じ年1961年4月18日にモンクが7年ぶりにパリ公演を行なって大成功を収め、その時にパウエルとも再会しているので、おそらくそうしたことからモンク作品の案が出て来たのだろう。

アルバム全8曲のうちモンク作品は<Off Minor>,<Ruby, My Dear>,<Thelonious>,<Monk’s Mood>という4曲で、当時の現地レギュラーメンバー、ピエール・ミシュロ(b) とケニー・クラーク(ds) がサポートしており、録音も非常にクリアだ。他のレコードを含めてパリ時代に録音されたパウエルの演奏には、もちろん往年のような凄みや切れ味はないが、モンクがそうだったように、技術の巧拙を超えた晩年の天才にしか表現できない情感があり、当時のパウエルのモンクに対する温かな心情が伝わって来るようなこのレコードが私は昔から大好きだ。特にしみじみとした<Ruby, My Dear>は、この曲のあらゆる演奏の中で最も美しい解釈だと思うし、私はパウエルのこの演奏がいちばん気に入っている。アルバム・ジャケットを飾る抽象画とデザインは、ニカ男爵夫人によるもので、本書に描かれたこの3人の当時の関係を彷彿させる点でも、このレコードからは、単にモンクの曲をパウエルが演奏したということ以上の特別な何かを感じる。本書にも書かれているように、パウエルが亡くなる1年前の1965年、レナード・フェザーとのインタビューで、このレコードの<Ruby, My Dear>の感想を訊かれたモンクが「ノーコメントだ」と答えているのも、モンクの心の中に、言葉にできない当時のパウエルへの様々な思いが去来していたからだろうと思う。

Monk on Monk
T.S.Monk
(1997 N2K Encoded Music)
終章 p66
0
『モンクを聴く』シリーズ最後のアルバムは、人間セロニアス・モンクを最もよく知る男、息子でドラマーのトゥートことT.S.モンク(1949 -)が、父親の生誕80周年に自らプロデュースした『モンク・オン・モンク Monk on Monk』(N2K、1997年2月録音) である。1990年代当時の新旧の大物ミュージシャンが集結し、全曲モンク作品を取り上げた10-12人編成のアコースティック・ビッグバンドよるこのアルバムのモチーフになっているのは、言うまでもなく父親モンクの2回のビッグバンドのコンサートだ(彼は2回とも会場にいたという)。

曲目は以下の8曲で、ほとんどモンクの家族、親族、友人にちなんだ有名曲ばかりを選んでいる。
Little Rootie Tootie/ Crepuscule with Nellie/ Boo Boo’s Birthday/ Dear Ruby (=Ruby, My Dear)/ Two Timer (="Five Will Get You Ten" by Sonny Clark)/ Bright Mississippi/ Suddenly (=In Walked Bud)/ Ugly Beauty/ Jackie-ing

総勢20人を越える参加メンバーも豪華で、編曲したT.S.モンク(ds)、ドン・シックラー(tp)に加え、ホーンはウェイン・ショーター(sax)、グローバー・ワシントJr (ts)、ロイ・ハーグローヴ(fgh)、ウォレス・ルーニー(tp)、アルトゥール・サンドバル(tp) や、父親の旧友デヴィッド・アムラム(fh)、エディ・バート(tb)、クラーク・テリー(tp) などが参加し、各曲でそれぞれが素晴らしいソロを聞かせる。ベースはロン・カーター、デイヴ・ホランド、クリスチャン・マクブライドが、またピアノはハービー・ハンコック、デヴィッド・マシューズに加え、ジェリ・アレン、ダニーロ・ペレスというポスト・モンク世代を代表するピアニストが交代で担当している。そして2曲入ったヴォーカルは、『Underground』(1967) でジョン・ヘンドリックスが歌詞を付けて歌った<In Waked Budを、ダイアン・リーヴスとニーナ・フリーロンが見事なデュエットで聞かせ、モンクが詞を付けたいとずっと思っていた<Ruby, My Dear>をケヴィン・マホガニーが初めて歌詞 (by Sally Swisher) 付きの甘いバラードとして歌っている。モダン・ジャズの香りがまだ比較的残っていた90年代の感覚で、モンクの音楽をアコースティック・ビッグバンドとヴォーカルというフォーマットで多彩に解釈したこのアルバムは、オールスター・バンドにありがちな月並みな演奏ではなく、父親の音楽を内側から捉えていた息子による新鮮なアレンジメントと参加メンバーの素晴らしさで、どの曲も演奏も非常に楽しめる。父モンクの時代とは異なり、楽器の質感が伝わり、見通しも良いクリアな90年代的録音 (by ルディ・ヴァン・ゲルダー) も気持ちが良い。

House of Music
T.S.Monk Band
(1980 Atlantic)
第29章 p654, 終章 p660
T.S.モンクは1977年に立ち上げたR&BのT.S.モンク・バンドを率い、以来ミュージシャンとして活動する傍ら、1984年に早逝した妹バーバラ(ボーボー)・モンクの、亡き父親に改めて光を当てるという遺志を引き継ぎ、セロニアス・モンク財団および同ジャズ学院 (Thelonious Monk Institute of Jazz) を1986年に創設、運営し、次世代のジャズ・ミュージシャンを教育、支援する組織を初めて作るという、米国ジャズ史上画期的な仕事を成し遂げた人だ。『Monk on Monk』がリリースされた1998年にT.S.モンクが受けたインタビューの記事を読んだが、非常に興味深い。モンクに関する本は、当時存命だったネリー夫人が書かない以上、母親が亡くなるまでは手を付けないし、それまでは誰でも書くのは自由だが、モンク家として公認はしないと述べている。その後2002年にネリー夫人が亡くなったことで、ロビン・ケリー教授の本書(2009年出版)を初めてモンク財団として公認し、執筆にあたって資料提供なども協力したということのようだ。(オリン・キープニューズの息子がモンク伝記を書くという噂がずっとあったが、本書で書かれたモンクとキープニューズの関係を知ると、それは難しそうだったということはわかる。ただし真の理由は不明だが)。彼が最も影響を受けたドラマーは、常に身近にいてその下で修行もしたマックス・ローチ(1924-2007) よりも、むしろアート・ブレイキー(1919-90) だという。自らバンドを率いてきたこともあって、ブレイキーは単なるドラマーでなく、ジャズ・メッセンジャーズというバンドのリーダーとしてずっとチームを率いてきたからだ、というのがその理由だ。昔のジャズ・スターはみなそうした「バンド」から生まれて来たものだが(リー・モーガン、ウェイン・ショーター、80年代のウィントン・マルサリスもメッセンジャーズ出身だ)、現代のジャズ界からは若いミュージシャンを昔のように育て、支えて行くための基盤が失われている。モンク・ジャズ学院は彼らを育て、支援し、さらにセロニアス・モンク・国際コンペティションのような音楽イベントを通じて、才能ある無名の若手を世の中に送り出すマーケティング的機能と役目も果たしているのだという。自分は父親のような音楽上のパイオニアではなく、バンドや組織を統率するリーダーとしてジャズに関わっている、というのがこの当時の彼の認識だ。つまり、父モンクのジャズ界への重要な貢献の一つでもあった、サンファンヒルの小さなアパートメントに若いミュージシャンたちを集めて指導していた、あのジャズ私塾の精神を引き継いでいるのだ。彼は現在もこの方向に沿って、全米に拡大した広範な活動を続けている。T.S.モンクは、やはり両親の強い血筋と薫陶を感じさせる、強固なヴィジョンと意志を持った人物である。