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2017/04/01

英語を「読む」(1)

ジャズの本でもなければ、今更こんな分厚い本を読むこともなかっただろうが、「Lee Konitz」や「Thelonious Monk」の英語の分厚い原書を読んだり翻訳したりしているうちに、合弁企業の社員時代に米国の親会社とのコミュニケーションで苦労していたことを色々思い出した。海外との合弁企業というのは、グローバルな視点、文化の違い、多面的な考え方を学習するには非常に有益な部分もあるが、一方で異文化間の摩擦と絶えず向き合い、それを解消するためのアイデアと努力が必要で、それには異言語による複雑なコミュニケーション技術が日常的に要求される。そういう場では英語だけいくら上手でも限界があるし、また日本人同士が、日本語だけで議論したり交渉できる世界とは別の知識や技術がどうしても必要で、そうした過程で感じたり考えたことも数多い。いっそのこと、どちらか一方の資本100%にしてくれた方が、どんなに気楽かと何度思ったかわからないし、それだけで一冊本が書けるほどの経験をしたと思う。世の中には数多くの英語や翻訳の達人がおられると思うし、私の英語レベルなど所詮たいしたことはないので、えらそうに語るのも気がひけるのだが、そうした会社員時代の体験と現在の翻訳作業を通じて、「言語」というものに関して思ったことがいくつかある。

アメリカ人はとにかく「活字」好きだと思う。26文字のアルファベットだけで、あらゆる「言葉」を組み立てるというある意味非常にシンプルな言語構造と、言語によるコミュニケーションの道具としての活字の利便性、それに対するある種の偏愛(?)が、タイプライターから始まって、ワープロ、コンピュータ・ソフト、Eメール、ツイッターに至るまでの文書作成とその利用技術の発達を促してきたことに間違いないだろう。学生もそうらしいが、とにかく文書を読み、書く量は一般の会社でも半端ないほどである。昔よくプールサイドで日光浴しながら横になって、「分厚い」本を読んでいるアメリカ人の姿を映画やTVドラマなどで目にしたものだが、まさにあのイメージである。日本人はあんな分厚い本を、しかも屋外で読むことはないだろう(普通は文庫だ。というか、今の日本人はますます本を読まなくなっているが)。アメリカでも今はきっと軽く小さな端末で読む人が多いのだろうが、コンピュータの発達も、インターネットの情報洪水も、その大元は、アルファベットと数字だけで何もかも表現できるシンプルな文字文化があったからこそだろう。

26文字のアルファベット(表音文字)だけを組み合わせて、ある「意味」を表現する言語と、日本語のような象形文字由来の輸入漢字(表意文字)と、ローカル言語である音(おん)読みのひらがなや、カタカナを組み合わせて表現する複雑な言語とでは、そもそもその言語を使う民族の脳の機能(情報処理プロセス)に与える影響が違うのは当然だろう。たとえば対象全体を漠然としたイメージでまず捉えて(「山」とか「川」とかの象形)、徐々に細部の認識に降りてゆく文化と、単独では意味のない文字(a,b,c…)をブロックのように並べることだけで、ある事物の意味を表す文化では、脳が「意味」を認識するプロセスが違うと思う。日米の郵便の住所表記順の違いが、そうした認識の順序をよく表している。大きな地域から、徐々に狭い地域に順に表記して、最後にいちばん小さな番地を書く日本の住所に対して、いちばん小さな番地から始まって徐々に大きな地域を表記してゆくアメリカの住所表記の違いが、発想の違いを示す典型的な例だろう。年月日の表記順もそうだ。つまり細かな事実(情報)を一つ一つ積み上げることによって、全体像を把握するという論理思考が彼らの根底にはある。

コンピュータで「0と1」という2つの数字だけを組み合わせて複雑な意味を伝えるデジタル信号の世界も同じだ。英語という言語が構造的に持つ論理性もそこから来ているのだろう。まずは大雑把に全体を捉えることで直観的にほぼ結論が見えていることを、一つ一つ論理で積み上げてたどり着くこの認識方法は、時として大方の日本人には面倒で非常に頭が疲れるものなのだ。アメリカ人は大雑把なところもあるが、こうしたプロセスは非常に細かいし妥協しない。白か黒か(Oか1か)をはっきりさせないと気が済まない(論理的)文化と、どちらとも言えない曖昧なグレーゾーンにもある種の意味を認める(情緒的)文化との違いも、突き詰めるとそこに行き着くのではないだろうか。言語はその民族の「思考」方法に大きな影響を及ぼすと思う(あるいはその種の思考方法を持つ民族だから、それに適合した言語を作り上げた、と言えるのかもしれないが)。これはあくまで個人的体験に基づく私見だが、おそらくこの民族の思考方法と言語の関係を学問的に研究している人たちもいるのだろう。

文法も言語構造によって規定される。英米語と中国語の語順の類似性(SVO)、一方日本語と朝鮮語の類似性(SOV)は明らかで、東洋人の中でも日本人、韓国人の英会話が、中国系の人たちに比べて一般的に流暢さに欠けるように思えるのも、発音の問題(音数が少ない)だけではなく、この文法の違いのせいもあるのだろう。脳が「遠回りして」(ワンクッション置いて)認識し、処理しなければならないからだ。幼少時からバイリンガルで育たない限り、この英米語に対する言語的ハンディキャップは余程の努力をしない限り埋めようがない。どうでもいいような話をしているときにはあまり感じないのだが、特に会議や議論の場などで、同じ土俵でハイレベルの議論を「口頭で」英米人とするときに、この差を強く感じる。「瞬間」の思考と論理の組み立て方が違う。というか「見ている」世界が違う、と感じることもある。日本で育った日本人が、英語を主言語とする国際舞台の議論や交渉で不利なのは当然で、言語表現能力のハンディに加え、頭の中で自然に行なう論理の組み立て方がそもそも違うからである。

若い時から英語圏に身を置いて学習する(脳の訓練をする)のがいちばん良いのは間違いないが、日本の中にいてもある程度はこのハンディを埋めることはできるように思う。それには文書であれ、メールであれ、交渉事や議論にあたって自分の考えを英語の文章で書いて相手に伝えることである。瞬間に反応するジャズの即興演奏はできなくても、譜面に書いたものならなんとか演奏ができる、というようなものだろう。文章によるコミュニケーションでは、何より書く時間があり、言語能力の差を埋める技術がある程度有効なので、対等とまでは言えないまでもハンディはかなり縮まるのではないかと思う。ただしそれには、上に述べたような英語の持つ論理プロセスに基づいた文章を書く、つまり相手の論理に合わせてものを考えることを習慣化することが必要だ。英語の論理と、各語句の持つ広い意味を考慮せずに、日本語的解釈と論理だけで英文を書くと、大抵はやたらと長くて修飾の多い英語になってしまうもので、それは話す場合も同じである。正確で論理的な英語文書を書く技術は、英語でのハイレベル・コミュニケーションにおける日本人のハンディを補う非常に有効な手段だと思う。

その英文ライティングの基盤となるのが「目で読むこと」、つまりリーディングであり、正しい(論理的な)英語を「大量に、速く読む」視覚訓練によって、脳が自然に英語の基本文体と論理、同時に言語としてのリズムも記憶する。さらに声を出して読むことによって聴覚も訓練されるので、その効果も倍増する。異言語の習得とは結局「真似」をすることなので、こうした訓練によって結果的に正しい英語を書ける確率も高まり、同時に耳から入った音声の意味を聞き取るヒアリング能力も高まる。論理的スピーキングの能力も当然その学習量に比例する。昔からよく宣伝されている「英語のシャワーを浴びる」というヒアリング方法も、耳から入った複雑な情報まで脳が瞬時に理解できるように訓練されていなければ、簡単な会話以外効果はないだろう。これは古くから英語の達人たちの多くが提唱してきたことなのだが、最近の中学英語の教科書を見ると、これまでの反動からリーディングを軽視し、どうやら「聞く」、「話す」に非常に偏っているように見えるのは問題だと思う(そうではない教育方針でやっている学校もあると思うが)。「寿司と天ぷら、どちらが好きですか?」というような、実用英会話レベルは確かに上がるかも知れないが、高度なコミュニケーション能力(これが最終的な達成目標だと思うので)を培うためには、英語を大量に「読む」こと、リーディングこそが学習の最大の要なのである。そして、その訓練の開始時期も若ければ若いほど効果が高まることは言うまでもない……ただ私の場合、残念ながらその時期がやや遅すぎたようだ。

2017/03/25

映画「ラ・ラ・ランド」にモンクが・・・

Straight No Chaser
1966/67 CBS
映画は最近ほとんど見ていないし、そもそもミュージカルもあまり興味はないのだが、観に行った妻の「モンクが出てたわよ・・・」という一言で、久々に重い腰を上げて評判の映画「ラ・ラ・ランド La La Land」を観に映画館まで出かけた。正確にはモンクが出ていたわけではなく、映画の冒頭でジャズ・ピアニストを目指す主人公(ライアン・ゴズリング)が、レコード(LP)に合わせてピアノを練習しているシーンが出て来るのだが、その曲というのがセロニアス・モンクが弾く〈荒城の月〉だったのだ。1966年のモンク2度目の日本ツアーで、日本人の誰かが教えた滝廉太郎のこの曲(*)の持つマイナーな曲想をモンクが気に入り、日本公演で披露したところ大受けし、帰国後のニューポート・ジャズ・フェスティバルで初演し、そこでも喝采を浴びたので、その後モンク・カルテットのレパートリーに加えたという話がロビン・ケリーの「Thelonious Monk」に出て来る。(当時のモンクは曲作りに苦労するようになっていて、新曲がなかなか書けなかったことも背景にある。)

(*追記4/7: 先日Webを見ていたら、ANAの広報ページ<Sky Web 2007年>のインタビューで、1966年のモンク来日時に写真を撮っていた「新宿DUG」のオーナー中平穂積氏が、お礼としてモンクにあげたオルゴールの曲が「荒城の月」だったと語っている。この演奏アイデアの源は中平氏のオルゴールだったようだ。ニューポートで初演したときに中平氏は現地にいて感激して泣いた、という話もしている。)

その後、この曲はモンクのアルバム「ストレート・ノー・チェイサーStraight, No Chaser」(CBS 1966/67)に〈Japanese Folk Song〉という(大雑把な)曲名で収録されているので、主人公が聞いていたのはたぶんこのレコードだろう。妻がなぜモンクの演奏だと気づいたかというと、家で私がずっとかけていたモンクの音源の中にこの〈荒城の月〉があり、妻もそれを何度も耳にしていて覚えてしまったからだ。このアルバムは、モンクの有名なブルースであるアルバム・タイトル曲や、冒頭のいかにもモンク的な〈ロコモーティヴ〉、デューク・エリントンのバラードをチャーリー・ラウズ(ts)が美しく演奏した〈I Didn’t Know About You〉、モンクのピアノ・ソロによる賛美歌など、全体として非常にリラックスした演奏が楽しめるレコードだ。監督のデミアン・チャゼルが、なぜその場面で「モンクの荒城の月」をあえて選んだのか、その意味や意図は不明だ(日本の観客に受けると思ったのだろうか?)。

A Celebration of
Hoagy Carmichael
1982 Concord
 
同じく映画の最初のところで、主人公のアパートを訪ねた姉が椅子に座っていると、帰宅した主人公が「その椅子は(ホーギー)カーマイケルが座った貴重な椅子なんだから・・・」と言って、姉から椅子を取り上げるシーンがある。たぶんカーマイケルが何者なのか知らない人がほとんどだと思うが、Hoagy Carmichael1899年生まれの白人のジャズ・ピアニスト、歌手で(デューク・エリントンと同じ生年)、ビックス・バイダーベック(白人でクール・ジャズの始祖と言われている)、ルイ・アームストロングなどと共演したが、何より作曲家として有名な人だ。〈Stardust〉,〈Georgia On My Mind〉,Slylark〉など、どことなく哀愁のある数々の名曲を作曲しており、これらはジャズ・スタンダードとして、白人、黒人を問わず多くのミュージシャンに取り上げられている。私は彼のレコードそのものは持っていないのだが、その名曲をデイヴ・マッケンナDave Mckennaという白人ピアニスト(ソロピアノの名人)が、ピアノソロでライヴ録音したレコードは持っている。それがConcordレーベルの「Celebration of Hoagy Chamichael」(1982)というレコードである。

このレコードは私の愛聴盤でもあり、マッケンナがとにかくゆったりと、次々に奏でるカーマイケルの名曲は、目の前で演奏されているような臨場感のある録音の生々しさもあって、1人でじっくり聴いていると本当にリラックスして聴き入ってしまう素晴らしいレコードだ。その中でも特に好きな曲は、1938年作曲の〈ザ・ニアネス・オブ・ユーThe Nearness Of You〉で、ネド・ワシントンによる歌詞を含めて原曲はいかにもアメリカを感じさせる甘いバラードだが、枯れた風情のマッケンナのピアノが実にしみじみとして味わい深いのだ。マイケル・ブレッカーの文字通りの「ニアネス・オブ・ユー」(2001 Verve)というアルバムで、ジェイムズ・テイラーがこれも味のある歌を聞かせるヴォーカル・バージョンもあり、他にもノラ・ジョーンズやダイアナ・クラールもカバーしている。映画「ラ・ラ・ランド」中のオリジナル曲は、冒頭の〈Another Day of Sun〉 や、主演女優エマ・ストーンがシャンソン風に歌う〈Audition(夢追い人)〉など、全体として優れた楽曲が多いとは思うが、主役の2人を結ぶロマンスの鍵となる肝心のソロ・ピアノ〈Mia & Sebastian’s Themeという曲らしい〉が、ジャズでもなければクラシックでもないような中途半端な曲で、これだけは「何だかなあ・・・」と思った。私なら、ここにマッケンナがソロで演奏する〈ザ・ニアネス・オブ・ユー〉をかぶせるのになあ、とつくづく思った。こちらは正真正銘のジャズ・ピアノであり、しかもアメリカ的ロマンチシズムに溢れる美曲だからだ。(映画を見た人は、騙されたと思って、ぜひこのレコードのこの曲を一度聴いて比較してみてください。)

映画<La La Land>
Soundtrack
ハリウッドで作り、しかもロサンジェルスを舞台にしたミュージカル映画なので、「ジャズ」がモチーフになってはいても、その扱いが浅く、全体として「白人が作りました感」は否めない。しかし私には、(そんなもんだと思っているので)そこは別に気にならない。「ラウンド・ミドナイト」も「バード」も見たが、何せ映画でジャズをテーマにして描くのは難しいのだ。ジャズの演奏をうまく使った古いフランス映画(「死刑台のエレベーター」とか「危険な関係」)もあるが、最高の「ジャズ映画」と言えばやはり「真夏の夜のジャズ」(1958)と、セロニアス・モンクの「ストレート・ノー・チェイサー」(1988)という2つのドキュメンタリー映画だろう。とはいえ、私はミュージカルについてはたいした知識もなく、過去の作品へのオマージュやパロディと思われる部分の面白さ等が理解できたわけではないが、主役は男女ともに良かったし、踊りも楽曲も良く(上記ソロピアノを除き)、映画としては十分に楽しめた。

この映画の主題を簡単に言うと、「常に進化しなければ」という脅迫観念に捉われているアメリカ人が、絶え間ない進化の陰で捨ててきた「古き良きもの」(映画では、ジャズはその象徴として描かれているにすぎない)に対してどことなく感じているある種の罪悪感と、「頑張れば夢はいつか叶うものだ」という、楽天的な古来のアメリカン・ドリームの2つを組み合わせたごく月並みなものだと思う。アメリカ人が無意識のうちに共有しているこの2つの要素を、これもアメリカ伝統のロマンスを軸にしたミュージカル映画というパッケージにくるんだ見事な3点セットになっているからこそ、多くの「アメリカ人」の心の琴線に触れ、支持されたのだろう。グローバリゼーション(アメリカ化)によって、今やその2つとも世界共通の普遍的なモチーフなので世界中で受け入れられているのだろうが、この映画を称賛する他の国の人たちが、アメリカ人ほど「切実に」そこに共感しているのかどうか、それはわからない。

2017/03/21

アメリカ人はジャズを聴かない

Bill Evans
Waltz for Debby
1961 Riverside
・・・と言うと身も蓋もないように聞こえるが、勤めていた合弁企業の親会社がアメリカ北部の田舎町にある企業だったので、これは私の非常に狭い体験から出てきた結論である。1980年代までは、親会社には黒人や南米系の従業員やマネジャーもいたのだが、90代以降になってからは、数百人はいた本社事務所はほぼ米国系、ヨーロッパ系(駐在)の白人ばかりになった。その間付き合ったアメリカ人でジャズを聴いていた人は知る限り1人だけで、あとはヨーロッパ系の人間が2人だけいた。一般にヨーロッパ系の人間の方が、ジャズ好きが多いように思う。そのうちの1人(ベルギー人)の家に行って、彼のステレオでジャズのCDを一緒に聴いたりした。田舎町で隣家を気にする必要がまったくないので、イギリス製ステレオ装置のボリュームをいくら上げても構わないというのが実に爽快だったことを覚えている。それと、ビル・エヴァンスのライヴ盤「Waltz for Debby」も聴いたのだが、自分の家で聴くのとまったく違う音楽に聞こえるという不思議な体験をした。「ヴィレッジ・ヴァンガード」で、グラス同士がカチカチとぶつかり合うあの音も妙にリアルだった。たぶん再生装置だけでなく、周囲の静寂(SN比)と、家の広いスペースがそう感じさせたのだろう。

彼らは何を聴いているのか、というと大抵はポピュラー音楽か、カントリー音楽だった。若い人たちは当然ロックを聴いていたのだろう。田舎町ということもあって、ジャズクラブなど無論ないし、ジャズのコンサートなどもほとんどなかったようだ(知る限り)。小さなライヴ・ハウスのようなものもあったが、そこでは主にカントリーが演奏されていたようだ。その町にカラオケが登場したのもずいぶん後になってからで、日本で一緒に出掛けた経験からすると、音感も含めて大抵の人の歌は下手くそだった。日本人の足元にも及ばない。だがこれをもって、アメリカ人は歌が下手だ・・・とは一概に言えないだろう。子供の頃からしょっちゅう歌っている日本人と違って、そういう場と訓練がないのだから仕方がない。ひょっとして生バンドが伴奏したら、アメリカ人の方が乗りもよく、上手いということだってあるだろう(ないか?)。日本のジャズファンが千人に1人だとすると、アメリカ(あくまでこの地方)では、5千人から1万人に1人くらいの感覚だろうか(まったく根拠はないが)。ニューヨークやシカゴのような都会に行けば、人種構成も多彩になるし音楽環境もあるので、もっと数は多いのだろうが、それでも人口比はあまり変わらないのかもしれない。若い人がジャズを聴かないのは日本と同じだろう。毎日、世界で起きていることが瞬時にわかるような、世の中全体が蛍光灯で隅々まで明るく照らし出されたような時代にあっては(これはアメリカナイズと同義だ)、「陰翳」(もはや死語か)というものを感じ取る感性がまず退化するだろうし、クラシックであれジャズであれ、それを魅力の一つにしてきた音楽への関心も薄れるのは当然か。

Lennie Tristano
Tristano
1955 Atlantic
アメリカにおけるモダン・ジャズの物語を読んだり、見たりしても、主役の黒人ミュージシャンたちを除くと、登場するのはほぼユダヤ系かイタリア系の白人だけだ。レニー・トリスターノのような天才やジョージ・ウォーリントンのようなイタリア系の有名ピアニストも何人かいるが、イタリア系はたとえばジャズクラブ「ファイブ・スポット」のオーナーだったテルミニ兄弟とか、やはりビジネス業界側が中心のようだ(「ゴッドファーザー」の世界)。一方ユダヤ系の白人はリー・コニッツやスタン・ゲッツのような有名ミュージシャン、ブルーノートのアルフレッド・ライオンのようなプロデューサー、レナード・フェザーのような批評家、その他ショー・ビジネスの関係者など各分野にいる。とりわけ映画も含めて、アメリカの芸術、音楽、ショー・ビジネス全般におけるユダヤ系の人たちの影響力は、我々の想像をはるかに超える範囲に及んでいる。一方のアメリカの中枢、いわゆるWASP系は、そういう世界では影が薄いようだ。ちなみに親会社があった北部の町は、調べた限り、現在その地域の住民の95%は白人であり、そのおよそ半分はドイツ系、イギリス系の祖先を持つ。しかしモンクのパトロンだったニカ男爵夫人が、イギリス生まれのユダヤ系(ロスチャイルド家)の人物であり、マネージャーだったハリー・コロンビーがドイツ系のユダヤ人移民だったことを考えると、こうした統計の意味も単純ではない。今更だが、「日本人は・・・」と言うように、一言で「アメリカ人は・・・」とは言えない複雑な背景がアメリカという国にはある。ジャズはそういう国で生まれ育った音楽なのである。にしても、大統領がトランプとは・・・。

2017/03/17

「ジャズはかつてジャズであった」

1970年代のことを調べているうちに、本棚から出てきた懐かしい本と再会した。今から40年前に出版された、中野宏昭という人が書いた「ジャズはかつてジャズであった」という本だ(1977年 音楽之友社)。中野氏は1968年に大学を卒業後スイング・ジャーナル社編集部に入社した人で、数年後に体調を崩して同社を辞めた後も評論活動を続けていたが、1976年に病気のためにわずか31歳で夭折している(まったくの偶然だが、今日317日は彼の命日である)。この本は1970年からの短い6年間に、中野氏が雑誌などに寄稿した評論と、当時のLPレコードのライナーノーツとして書いた文章を、野口久光、鍵谷幸信、悠雅彦氏らが故人を偲んでまとめた遺稿集である。この本のタイトルは、「ユリイカ」の19761月号で発表された記事の表題からとったものだ。チャーリー・パーカー以来のジャズの伝統を受け継いできたキャノンボール・アダレイの死(1975年)が象徴するものと、マイルス・デイヴィスが当時模索していた新たな方向が示唆するものを対比しつつ、かつてプレイヤーが自らの身を削って生み出した、その場限りの瞬間の肉体的行為であったジャズが、エレクトリックの導入や、レコーディングという「作品」を指向する創作の場が主体となったことによって、かつて持っていた始原的創造行為という特性をもはや失った、という70年代の混沌としたジャズの情況を表現したものだ。とはいえ、ここで彼はジャズが終わったと言っているわけではなく、ジャズの持つ強靭さを信じ、新たな道筋を歩み出すジャズの未来をマイルスの当時の活動の中に見出そうとしている。

読んでいると、こうして駄文を書き連ねているのが恥ずかしくなるような、ジャズに対する深い愛情と真摯な態度に満ちた珠玉の言葉の連続だ。時代状況を反映して、企図された集団表現に舵を切ったマイルス・デイヴィスのエレクトリック・ジャズと、ジョン・コルトレーンの死後もなお伝統的な個人のインプロヴィゼーションを追求する継承者たちの対比に関する論稿なども書かれているが、今読んでも、透徹した視点と深い洞察で貫かれた素晴らしい文章である。おそらく死と向き合っていたこと、また自ら詩もたしなんでいたこともあるのだろう、言葉の隅々にまで繊細さと抒情が浸みわたる研ぎ澄まされた文章と固有の美学は、これまでの日本のジャズ批評がついに到達し得なかった最高度の領域に達していると思う。しかも過去のジャズに拘ることに価値を認めず、70年代の新進のミュージシャンについても、幅広い音楽的視点から未来への期待を込めて取り上げている。日本のジャズ史上稀な、このような優れたジャズ批評家が生きていたら、以降の日本のジャズシーンもひょっとしたら違ったものになっていたかもしれないと思わせるほどだ。しかしながら、その後に続く80年代のアメリカの経済的停滞と、日本のバブル騒ぎという商業主義の時代に巻き込まれたジャズの変遷を振り返ってみると、こうした知性と豊かな感性を備えた批評家がジャズの世界で生きてゆくのは結局難しかったのかもしれないとも思う。 

ビル・エヴァンスの「エクスプロレーションズ Explorations」(1961 Riverside)は、70年代にLPを入手して以来、CDを含めておそらく私がもっとも数多く聴いたジャズ・レコードだ。エヴァンスの他のRiverside作品に比べると一聴地味なスタジオ録音だが、当時のエヴァンス・トリオ(スコット・ラファロ-b、ポール・モチアン-ds)の究極のインタープレイがアルバム全体を通して収められた、芸術の域にまで達した稀有なジャズ・レコードの1枚だと個人的には思っている。<イスラエル>から始まり、<魅せられし心>、<エルザ>、<ナーディス>…等流れるように名演が続き、何より他のアルバムにはない深い陰翳とアルバム全体から醸し出される芸術的香気が素晴らしい。そして、そのLPのライナーノーツを書いていたのが中野宏昭氏だった。 

60年代までは、当時貴重だったレコードに関する史料的情報と、有名ライターのジャズ審美眼ゆえに読む価値があったライナーノーツは、LPが大量に発売され比較的簡単に入手できるようになった70年代に入ってからは、それほど重要でも、価値のあるものでもなくなっていた。しかし、このエヴァンス盤のライナーノーツだけは違っていた。中野宏昭という名前を初めて知ったのもこのライナーノーツを通じてであり、ビル・エヴァンスの真髄を捉えた知と情のバランスが見事なその解説は、エヴァンスの傑作ピアノ・トリオにまさにふさわしいもので、以来このLPと共にずっと私の記憶から離れずにきた。ジャズとは奏者にとっても聴き手にとっても、基本的に「個」の音楽であり…レコードにも誰もが認める名盤というものはなく、あるのは一人ひとりに固有の名盤だけだ…という本書中の中野氏の言葉に深く同意する。エヴァンスのこのレコードは、私にとって真の名盤なのである。

2017/03/15

吉祥寺でジャズを聴いた頃

Monk in Tokyo
1963 CBS
ロビン・ケリーの「セロニアス・モンク」の中に、1963年のモンク・カルテット初来日時のことが書かれている。日本のミュージシャンとの交流の他に、京都のジャズ喫茶(さすがに店名までは書かれてはいないが「しあんくれーる」)の店主だった星野玲子さんが、ツアー中のモンクやネリー夫人一行に付き添って、色々案内した話が出て来る(モンクと星野さんが、店の前で一緒に並んで撮った写真も掲載されている)。その後星野さんはモンク来日のたびに同行し、夫妻にとって日本でいちばん親しい知人となったということだ。この63年の初来日時、コロムビア時代はいわばジャズ・ミュージシャンとしてのモンクの全盛期でもあり、この東京公演でのモンク・カルテットを録音したCBS盤は、お馴染みの曲を非常に安定して演奏していて、初めて動くモンクを見た日本の聴衆の反応も含めて、モンクのコンサート・ライヴ録音の中でも最良の1枚だと思う。またこの時の全東京公演の司会を務めたのが相倉久人氏だったことも、氏の著作全集を読んで知った。

京都「しあんくれーる」広告
1975 Swing Journal誌
「しあんくれーる」がその後どうなったのか興味があったので、調べてみようと、手元に残しておいた今はなきスイング・ジャーナル誌の「モダン・ジャズ読本’76」(197511月発行)を久しぶりに開いてみた。当時売り出し中のキース・ジャレットの顔の画が表紙の号だ。SJ誌は毎月買って読んでいたが、年1回発行の主な特集号を残して、あとはみな処分してしまった。70年代、つまりバブル前までのSJ誌は、ジャズへの愛情とリスペクトが感じられる、きちんとした楽しいジャズ誌だったと思う。その号の中を読むと、ジャズとオーディオの熱気が溢れている。全体の3割くらいはオーディオ関連の記事と広告である。まだ前歯のあるチェット・ベイカーや、犬と一緒になごむリー・コニッツの写真他で飾られ、巻頭にはビル・エヴァンス、ロン・カーター、ポール・ブレイによるエレクトリック・ジャズを巡る三者対談があり、「SJ選定ゴールド・ディスク100枚」の紹介があり、75年発売のレコード・ガイド、それに4人のジャズ喫茶店主の座談会も掲載されている。4人とは野口伊織(吉祥寺ファンキー他)、大西米寛(吉祥寺A&F)、高野勝亘(門前仲町タカノ)、菅原昭二(一関ベイシー)各氏である。全員がたぶん30代から40代だったと思われるので、見た目も若い。驚くのは、当時のオーディオ・ブームを反映して、この号には全国(札幌から西宮まで)の主要ジャズ喫茶で使用されている再生装置(アナログ・プレイヤー、カートリッジ、アンプ、スピーカー)を記載した一覧表が掲載されていることだ。しかも使用スピーカーは、ウーハーやツィーターなどユニット別に記載されている。40年以上前のこうした記事を読むと、日本ではジャズとオーディオが切っても切れない関係だったこと、また現在の一関「ベイシー」の音が一朝一夕にできたわけではないことがよくわかる。その一覧表の中に京都「しあんくれーる」の名前もあった。そして広告も掲載されていた。当時はまだ健在だったのだ。

ジャズ喫茶広告
1975 Swing Journal誌
その表を見ても、吉祥寺には特にジャズ喫茶が集中していることがわかる。私は長年JR中央線沿線に住んでいたので、当時よく行ったジャズ喫茶はやはり吉祥寺界隈だった。「Funky」,「Outback」,「A&F」,「Meg」などに通ったが、荻窪の「グッドマン」、中野の「ビアズレー」あたりにもたまに行った。だがいちばん通ったのは吉祥寺の「A&F」で、JBLとALTECという2組の大型システムが交互に聴けて、会話室と視聴室が分かれていて、音も店も全体として明るく開放的なところが気に入っていたからだ。こうした店の雰囲気は店主の性格が反映しているのだろう(大西氏はよく喋るという評判だった)。今の吉祥寺パルコのところにあった「Funky」には、JBLのパラゴンが置いてあり、コアなジャズファンが通う店といったどこかヘビーな印象がある(実業家肌の野口氏は若くして亡くなった)。「Meg」は寺島靖国氏の店で今も健在だが、当時の寺島店主は神経質でどこか近寄りづらい雰囲気があった。だがその後80年代終わり頃から相次いで出版した氏のジャズとオーディオ本は、個性的でどれも楽しく読んだ。文壇デビュー前の村上春樹氏が、JR国分寺駅近くに「ピーター・キャット」というジャズ・バーを開いていたのもこの時期だったようだ(197477年)。

70年代中頃というのはヨーロッパではフリーが、アメリカではフュージョンが主役の時代になりつつあり、日本ではフュージョンも台頭していたが、まだまだ伝統的モダン・ジャズが盛り上がりを見せていて、SJ誌の紙面でもわかるがLPレコードの発売も非常に盛んだった。一方でバップ・リバイバルという流れもあって、アメリカでフュージョンやエレクトリック・ジャズに押されて食い詰めた大物ミュージシャンも続々来日したし、高度成長で豊かになった日本のジャズファンがコンサートに出かけたり、まだ高価だったLPレコードやオーディオ装置に金をつぎ込めるようになったという経済的背景も大きいだろう。しかしマイルス・デイヴィスが1975年の来日公演の翌年、体調不良のために約6年間の一時的引退生活に入り(1981年復帰)、1973年以降同じく体調不良で半ば引退同然だったセロニアス・モンクも、19766月のカーネギーホール公演の後は、ウィーホーケンのニカ夫人邸に引きこもってそのまま隠遁生活に入ってしまった。ナット・ヘントフが、モダン・ジャズ黄金時代へのオマージュのような名著「ジャズ・イズ…」を書いたのも1976年である。ビル・エヴァンスはその後1980年に、そしてモンクも1982年に亡くなっている。アメリカにおけるモダン・ジャズの歴史が、当時一つの終わりを迎えつつあったことに間違いはあるまい。それから40年、当時あれだけあった日本全国のジャズ喫茶も、一部の店を除き今はほとんどなくなってしまった。

2017/03/13

ジャズを見る

コンサートやクラブでのジャズ・ライヴ演奏の機会は、昔に比べると今はずっと増えて身近になった。各地で行われているストリート・ジャズ祭なども盛んだ。私が昔行ったジャズの大物コンサート公演は、1970年代半ばのビル・エヴァンス(よく覚えていないが、新宿厚生年金でやった76年の来日だった気がする)、それに一時引退から復帰直後のマイルス・デイヴィスが、寒風吹きすさぶ新宿西口の空地(都庁予定地)でやった81年の野外ライヴだけだ(他にも行った気がするが、もう忘れてしまった)。60年代や、70年代前半の来日ラッシュ時代を過ごした一世代上の人たちは、もっと多くの大物ジャズ・ミュージシャンの来日公演を見たことだろうと思う。私がジャズに夢中になった70年代中頃には、ジャズの現場ではもうフュージョン時代へ入っていたのだ。

Bill Evans
The Tokyo Concert
1973 Fantasy
初来日時の録音
こうしたコンサート公演は、今もそうだが「聴く」より「見る」場と言った方が適切だろう。ロックやポップスの人気アーティストのコンサートに出かける若い人たちと、気分もテンションも基本的には変わらない。特に当時はめったにない機会だったこともあり、実物を「とにかく、ひと目見たい」というミーハー気分で出かけたので、演奏そのものはあまりよく覚えていない。記憶に残っているのは、ビル・エヴァンスが首を真下に向けたままピアノを弾く姿だったり(そもそもこれもイメージで、本当にそうだったかどうか自信はない)、寒い中ずいぶん待たされたあげく、病み上がりで想像以上に小さくか細いマイルス・デイヴィスがようやくステージに現れて、こちらも同じく下に向けて「ほんの短い時間」だけトランペットを吹いていた姿(これは確か)などだ。バブル時代や90年代に入ると、ライヴの機会も増えたので感激は昔より減ったものの、よく出かけていたが、それでもキース・ジャレットが呻き声を出しながら弾く体の動きや、「ブルーノート」でのロイ・ハーグローヴのしなやかな体や、やんちゃな目つきなど、記憶に残っているのはやはり視覚情報だ。

夏の野外ライヴ・コンサートは、PA音が拡散して集中できないのと、遠くてミュージシャンがよく見えないこと、何より暑いのが苦手で行かなかった。バブル当時盛り上がった「マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル」は毎年夜のTV番組で見ていた。TVで見ると音がよく聞こえるし、奏者の顔やちょっとした表情などもよくわかる。ジョシュア・レッドマンが初登場したときの演奏は心底すごいと思った。隣にいた日野皓正が、驚いたような表情でじっと彼を見つめていた画面をよく覚えている。ブルーノートのアルフレッド・ライオンがステージに登場して、満員の聴衆に拍手で迎えられたときの感激した表情も印象に残っている。東京に住んでいちばん良かったと思うのは、新宿や六本木などにジャズクラブが数多くあり、外人、日本人を問わず、一流ミュージシャンの演奏が間近で楽しめることだった。だがミュージシャンの「格」とは関係なしに、どんなプレイヤーであれ、そこではよく聞こえるPAなしの生音だけでなく、各奏者の表情も、体の動きも、反応も、息遣いもよくわかって、やっぱりジャズを「聴く」のにいちばんいいのは、大会場でやるコンサートよりは小さなクラブ・ライヴだと毎回思っていた。

昨年の末、その大会場(新宿文化センター)で2日間にわたり「新宿ピットイン」の50周年記念コンサートがあり、私は初日に出かけた。相倉久人氏が同年夏に亡くなったため、菊地成孔氏が代役としてMCを務めるということだった。当日はドリーム・セッションということで混成グループによるフュージョン系から、メインストリーム系、さらに大友良英、近藤等則、鈴木勲や山下洋輔リユニオン・グループのフリー・ジャズまで、延々6時間以上に及ぶ多彩なプログラムを堪能した(が疲れた)。しかし現場で覚えているのは会場を埋めた大半の中高年の客とその熱気、ステージ上の特に年配(?)ミュージシャンたちの、ぶっ飛んだ衣装とかこちらを圧倒するようなエネルギーだ。相対的に若い菊地氏のグループがいちばんクールに普通の(?)ジャズをやっていたので、佐藤允彦のピアノソロと共に音もよく記憶しているが、他の年寄りたち(中でも鈴木勲は当時82歳だ)は見た目と全体のインパクトが強烈で、余りの迫力に音楽そのものをよく覚えていない。

先日TV録画を整理していたら、東京MXが放映したそのコンサート録画が出てきたので改めて見てみた。2日間にわたる12時間のコンサートを約2時間に編集しているので、各演奏もダイジェストに近いが、2日目は渡辺貞夫や日野皓正などが出演し、オーソドックスなジャズが中心だったようだ。じっくり見直すと、確かに音はよく聞こえるが、一方初日のあのすごい熱気はさすがに伝わって来ない。まあ、これはお祭りということなので、レギュラー・メンバーではないグループが多く、現場でひたすら見て聞いて盛り上がればいいのだろう。というか、フリー系のジャズは聞くと面白いとは思うが、演奏を聴いてその「音」を記憶している人はいるのだろうか? 「聴く」というより、「体験する」もので、全身で受け止めた音の塊のエネルギーの記憶というのが正しい表現のような気がする。しかしジャズの聴衆というのは、コンサートでもクラブでも、掛け声はあってもロックやポップスのように観客総立ちで一緒に踊るようなことは普通はない。基本ジャズのスウィングは横揺れで、縦ノリではないからだという理由もあるが、歳のせいもあるだろう。それ以上に、ジャズはやはり一人で聴く音楽であり、大勢でわいわいと聞くものではないからだろう。行儀よく「見るともなしに聴く」、というのが正しい大人のジャズの聴き方か。

2017/03/10

神戸でジャズを聴く

関西に出かける機会があると必ず立ち寄るのが、神戸のJR元町駅から大丸方向に数分歩いたところにあるジャズ喫茶 「jamjam」 だ。今回は約1年ぶりの訪問である。

いかにもジャズ酒場の入り口といった感じの、地下に向かう薄暗い階段を降りてゆくと、比較的広いスペースの右手に店の白いドアが見える。ドアを開けて中に入ると、左手側には長いカウンターとその前にいくつかテーブル席があり(ここは会話可)、右手側は正面に置かれた大型スピーカー(確かUREI)と正対するように、真ん中に椅子とテーブルが並んでいて、そこは往年のジャズ喫茶伝統の会話禁止の「聴く」専門のスペースである。左手には壁に沿って、こちらは横向きにクラシックな椅子とテーブルが置かれている。ほとんどが一人客で、じっと音に聴き入るか、本を読んでいる(昔のジャズ喫茶の風景そのままだ)。

初めて jamjam の音を聞いたときに本当に驚いたのはその "爆音" だ。オーディオに興味のない人が聞いたら腰を抜かすほどの音量でジャズが鳴っている。田舎の一軒家ならともかく、住宅事情で大きな音で聴けない欲求不満のジャズファンの多くが、ある種のカタルシスを得るために昔ジャズ喫茶に通ったのもこうした音量の魅力があったからだ。だが昔のこの手のジャズ喫茶といちばん違うのは、店の空間のボリュ-ムである。昔の店は、たいていは音量だけ大きくても店の空間が小さいので、音がこもったり、再生帯域のピークが出たりして伸び伸びとした音で鳴らすのは至難の業だったのだ。だがjamjamではちょっとしたスタジオ並みの広い床面積と、何より高い天井高もあって(5mはある?)、空間いっぱいに "爆音" が響きわたって、ひとことで言えば豪快かつ爽快なのである。そしてスピーカーに対峙して置かれた椅子もゆったりとして大きく、昔のようなちまちました椅子ではないところも素晴らしい。ここで一人ゆったりと座って、コーヒーを飲みながら、全身に浴びるようにひたすらジャズを聴く時間は、往年のジャズファンにとってはまさに天国だ。

アナログLPを音源にしてスピーカーから再生される音なので、ヴァーチャル・リアリティの音空間には違いないのだが、各楽器の質感、演奏の場の空気感、奏者の息使いのようなものが実にリアルに再生されている。特にベースやドラムスの音は、これ以上望めないほどの音量と歯切れ良さで腹に響き、しかもヘッドフォン並みの音の輪郭で、シンバルの微妙な打音や音色まで再現している。この全身で感じるオーディオ的快感は、ヘッドフォンや小型スピーカーでは絶対に味わえないだろう。

学生時代を神戸で過ごしたが、1970年前後には、(京都にはあったが)神戸には学生が行けるような、こうした本格的ジャズ喫茶は私が知る限りなかったように思う。よく行ったのは「さりげなく」という小さな店だったが、そこは場所を変えて今でも営業しているらしい。しかし地方ではなく、神戸のような都会の真ん中に、これだけのスペースと音響を提供するジャズ喫茶が今でも存在するというのはほとんど奇跡に近い。有名人の常連も多いと聞くが、それも当然だろう。ただしリクエストは受け付けない。様々なジャズを選り好みしないで聞いて欲しいというマスターの哲学があるからだ。5月以降は禁煙になる予定とのこと。オーディオ、コーヒー、紫煙はジャズ喫茶の3点セットだったが、時代の流れには逆らえないということだろう。jamjamは、いつまでも存続してもらいたいと心から願う店だ。

夜はJR三ノ宮駅から山側へ歩いて10分ほどの中山手通りを越えたところ、北野にある老舗ジャズクラブ「ソネ」に行った。震災から20年以上が経って、三ノ宮駅から山側にかけてのこのあたりもすっかり様変わりして、昔はほの暗い通りだったところが今は明るいネオンの店がひしめいている。「ソネ」は1969年に開店したらしいので(私が入学した年だが、当時の学生には高級過ぎただろう)、もう半世紀近い歴史がある。近くにあったもう一軒の老舗ジャズクラブ「サテンドール」(1974年開店)は残念ながら昨年閉店したらしい。jamjamのハードなジャズとは打って変わって、ピアノ・トリオと女性ヴォーカルという小粋なライヴ演奏をアルコールと料理付きで楽しんだ。客層はだいぶ違うが、この店も広々として、せせこましくなく、味、雰囲気、サービスともに良く、しかもリーズナブルな料金という素晴らしい大人のジャズクラブだ。この店もいつまでも残って欲しいものだと思う。

神戸では町をあげてのジャズ・イベントも毎年開催されているようで、今やジャズの町だ。震災で深い傷を負ってしまったが、今は、半世紀前のどこまでもカラッと明るかった神戸の街が戻って来たようで嬉しい。おしゃれで都会的なのに、北側にすぐそびえる六甲山が四季を感じさせ、高台からはいつも海が見え、街はコンパクトで、中心地から歩いて行けるところにこうしたジャズを楽しめる店をはじめ、何でもある。よそ者を受け入れる開放的な文化がある一方で、関西らしい人情もまだ残されている。神戸は本当に良い街だと思う。神戸に住む人たちは幸せだ。