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2017/04/01

英語を「読む」(1)

ジャズの本でもなければ、今更こんな分厚い本を読むこともなかっただろうが、「Lee Konitz」や「Thelonious Monk」の英語の分厚い原書を読んだり翻訳したりしているうちに、合弁企業の社員時代に米国の親会社とのコミュニケーションで苦労していたことを色々思い出した。海外との合弁企業というのは、グローバルな視点、文化の違い、多面的な考え方を学習するには非常に有益な部分もあるが、一方で異文化間の摩擦と絶えず向き合い、それを解消するためのアイデアと努力が必要で、それには異言語による複雑なコミュニケーション技術が日常的に要求される。そういう場では英語だけいくら上手でも限界があるし、また日本人同士が、日本語だけで議論したり交渉できる世界とは別の知識や技術がどうしても必要で、そうした過程で感じたり考えたことも数多い。いっそのこと、どちらか一方の資本100%にしてくれた方が、どんなに気楽かと何度思ったかわからないし、それだけで一冊本が書けるほどの経験をしたと思う。世の中には数多くの英語や翻訳の達人がおられると思うし、私の英語レベルなど所詮たいしたことはないので、えらそうに語るのも気がひけるのだが、そうした会社員時代の体験と現在の翻訳作業を通じて、「言語」というものに関して思ったことがいくつかある。

アメリカ人はとにかく「活字」好きだと思う。26文字のアルファベットだけで、あらゆる「言葉」を組み立てるというある意味非常にシンプルな言語構造と、言語によるコミュニケーションの道具としての活字の利便性、それに対するある種の偏愛(?)が、タイプライターから始まって、ワープロ、コンピュータ・ソフト、Eメール、ツイッターに至るまでの文書作成とその利用技術の発達を促してきたことに間違いないだろう。学生もそうらしいが、とにかく文書を読み、書く量は一般の会社でも半端ないほどである。昔よくプールサイドで日光浴しながら横になって、「分厚い」本を読んでいるアメリカ人の姿を映画やTVドラマなどで目にしたものだが、まさにあのイメージである。日本人はあんな分厚い本を、しかも屋外で読むことはないだろう(普通は文庫だ。というか、今の日本人はますます本を読まなくなっているが)。アメリカでも今はきっと軽く小さな端末で読む人が多いのだろうが、コンピュータの発達も、インターネットの情報洪水も、その大元は、アルファベットと数字だけで何もかも表現できるシンプルな文字文化があったからこそだろう。

26文字のアルファベット(表音文字)だけを組み合わせて、ある「意味」を表現する言語と、日本語のような象形文字由来の輸入漢字(表意文字)と、ローカル言語である音(おん)読みのひらがなや、カタカナを組み合わせて表現する複雑な言語とでは、そもそもその言語を使う民族の脳の機能(情報処理プロセス)に与える影響が違うのは当然だろう。たとえば対象全体を漠然としたイメージでまず捉えて(「山」とか「川」とかの象形)、徐々に細部の認識に降りてゆく文化と、単独では意味のない文字(a,b,c…)をブロックのように並べることだけで、ある事物の意味を表す文化では、脳が「意味」を認識するプロセスが違うと思う。日米の郵便の住所表記順の違いが、そうした認識の順序をよく表している。大きな地域から、徐々に狭い地域に順に表記して、最後にいちばん小さな番地を書く日本の住所に対して、いちばん小さな番地から始まって徐々に大きな地域を表記してゆくアメリカの住所表記の違いが、発想の違いを示す典型的な例だろう。年月日の表記順もそうだ。つまり細かな事実(情報)を一つ一つ積み上げることによって、全体像を把握するという論理思考が彼らの根底にはある。

コンピュータで「0と1」という2つの数字だけを組み合わせて複雑な意味を伝えるデジタル信号の世界も同じだ。英語という言語が構造的に持つ論理性もそこから来ているのだろう。まずは大雑把に全体を捉えることで直観的にほぼ結論が見えていることを、一つ一つ論理で積み上げてたどり着くこの認識方法は、時として大方の日本人には面倒で非常に頭が疲れるものなのだ。アメリカ人は大雑把なところもあるが、こうしたプロセスは非常に細かいし妥協しない。白か黒か(Oか1か)をはっきりさせないと気が済まない(論理的)文化と、どちらとも言えない曖昧なグレーゾーンにもある種の意味を認める(情緒的)文化との違いも、突き詰めるとそこに行き着くのではないだろうか。言語はその民族の「思考」方法に大きな影響を及ぼすと思う(あるいはその種の思考方法を持つ民族だから、それに適合した言語を作り上げた、と言えるのかもしれないが)。これはあくまで個人的体験に基づく私見だが、おそらくこの民族の思考方法と言語の関係を学問的に研究している人たちもいるのだろう。

文法も言語構造によって規定される。英米語と中国語の語順の類似性(SVO)、一方日本語と朝鮮語の類似性(SOV)は明らかで、東洋人の中でも日本人、韓国人の英会話が、中国系の人たちに比べて一般的に流暢さに欠けるように思えるのも、発音の問題(音数が少ない)だけではなく、この文法の違いのせいもあるのだろう。脳が「遠回りして」(ワンクッション置いて)認識し、処理しなければならないからだ。幼少時からバイリンガルで育たない限り、この英米語に対する言語的ハンディキャップは余程の努力をしない限り埋めようがない。どうでもいいような話をしているときにはあまり感じないのだが、特に会議や議論の場などで、同じ土俵でハイレベルの議論を「口頭で」英米人とするときに、この差を強く感じる。「瞬間」の思考と論理の組み立て方が違う。というか「見ている」世界が違う、と感じることもある。日本で育った日本人が、英語を主言語とする国際舞台の議論や交渉で不利なのは当然で、言語表現能力のハンディに加え、頭の中で自然に行なう論理の組み立て方がそもそも違うからである。

若い時から英語圏に身を置いて学習する(脳の訓練をする)のがいちばん良いのは間違いないが、日本の中にいてもある程度はこのハンディを埋めることはできるように思う。それには文書であれ、メールであれ、交渉事や議論にあたって自分の考えを英語の文章で書いて相手に伝えることである。瞬間に反応するジャズの即興演奏はできなくても、譜面に書いたものならなんとか演奏ができる、というようなものだろう。文章によるコミュニケーションでは、何より書く時間があり、言語能力の差を埋める技術がある程度有効なので、対等とまでは言えないまでもハンディはかなり縮まるのではないかと思う。ただしそれには、上に述べたような英語の持つ論理プロセスに基づいた文章を書く、つまり相手の論理に合わせてものを考えることを習慣化することが必要だ。英語の論理と、各語句の持つ広い意味を考慮せずに、日本語的解釈と論理だけで英文を書くと、大抵はやたらと長くて修飾の多い英語になってしまうもので、それは話す場合も同じである。正確で論理的な英語文書を書く技術は、英語でのハイレベル・コミュニケーションにおける日本人のハンディを補う非常に有効な手段だと思う。

その英文ライティングの基盤となるのが「目で読むこと」、つまりリーディングであり、正しい(論理的な)英語を「大量に、速く読む」視覚訓練によって、脳が自然に英語の基本文体と論理、同時に言語としてのリズムも記憶する。さらに声を出して読むことによって聴覚も訓練されるので、その効果も倍増する。異言語の習得とは結局「真似」をすることなので、こうした訓練によって結果的に正しい英語を書ける確率も高まり、同時に耳から入った音声の意味を聞き取るヒアリング能力も高まる。論理的スピーキングの能力も当然その学習量に比例する。昔からよく宣伝されている「英語のシャワーを浴びる」というヒアリング方法も、耳から入った複雑な情報まで脳が瞬時に理解できるように訓練されていなければ、簡単な会話以外効果はないだろう。これは古くから英語の達人たちの多くが提唱してきたことなのだが、最近の中学英語の教科書を見ると、これまでの反動からリーディングを軽視し、どうやら「聞く」、「話す」に非常に偏っているように見えるのは問題だと思う(そうではない教育方針でやっている学校もあると思うが)。「寿司と天ぷら、どちらが好きですか?」というような、実用英会話レベルは確かに上がるかも知れないが、高度なコミュニケーション能力(これが最終的な達成目標だと思うので)を培うためには、英語を大量に「読む」こと、リーディングこそが学習の最大の要なのである。そして、その訓練の開始時期も若ければ若いほど効果が高まることは言うまでもない……ただ私の場合、残念ながらその時期がやや遅すぎたようだ。