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2024/02/09

鎌倉の海

能登半島地震で被災された皆さまには、心よりお見舞い申し上げます。

被災者の皆さんの苦労に比ぶべくもないが、昨年11月下旬に腰を痛めてしまい、10日間ほど寝たきり状態になって、生まれて初めて車椅子のお世話にもなった。2ヶ月以上経ったが、まだリハビリ中で、現在やっと近所を少し歩けるようになったところだ。

その少し前の11月のある日の朝、珍しく早起きしたのと、あまりの快晴に、突然海が見たくなって、ン十年ぶりかで鎌倉へ行った。11月とは思えない強い日差しの下、藤沢から江ノ電で鎌倉へ向かう途中、穏やかで、きれいな海辺の風景を写してみた(下手な写真だが…)。能登の美しい海とは違うだろうが、津波の来ない、やさしいときの海は一日中見ていても飽きない。


お馴染み江ノ電、鎌倉高校前駅ホームから江の島方面を臨む。


逆方向。鎌倉方面、






今や『スラムダンク』の聖地、江ノ電の踏切。平日だったが、中国、台湾、韓国からの旅行客でいっぱい(日本人ゼロ?)。交通整理のおばさんに英語で注意された。日本アニメの底力を感じた。



やはり信号機が見えないと雰囲気が出ない…。





近所の住宅の「隙間」から見える、何でもない、穏やかな湘南の海。









七里ガ浜(確か)。
浜辺で、赤いスカートで一人踊る謎の女性が…何者?






由比ガ浜。たまたま飛んできたトンビを写したら、砂浜にその「影」が映っていた。傑作?






由比ガ浜。傾く秋の日を浴びて、浜辺を歩く外人らしきカップル。







由比ガ浜から逗子方面

2023/07/18

どこでも浦島

©中川いさみ
「クマのプー太郎」より
じいさんロボ
モノや人の名前など記憶力の低下が最近顕著で、あきれるほどだが、やはり脳機能の低下が老化のいちばん大きな原因なのだろう。しかしミクロに見れば、「老化」とは自分の身体を構成する「細胞」の一つ一つが「経年で徐々に劣化 (aging)し」、自分の身体内部や、外部の情報を把握すべく機能してきた個々の細胞の感度(センサー)が、徐々に鈍って行く過程ではないかということを、ここ数年つくづくと「実感」する。空間認識が衰え、ぶつかるはずのないものにぶつかったり、皮膚感覚が衰え、熱いものを持ったり、何かにぶつかってもその瞬間は気づかず、後になって傷やアザになっていて初めて分かったり、片足だとバランスを崩してズボンが履けなくなったり、立ち上がろうとしてなぜかよろめいたり、顔を洗っているのに鼻の穴に指を突っ込んでみたり(笑)……と、笑えるほど動物的皮膚感覚が衰えていくのは、皮膚のセンサー機能自体が衰えているということで、つまるところ個々の細胞の感度(反応)の劣化に起因する。こうして視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感のすべてが徐々に衰えて行くのだろう。

「よいしょ!」とか、年寄りがアクションのつど、いちいち掛け声を発するのは、若い時は何も意識せずにできたことが、一つアクションを起こすのに、(脳を通じて)そのつど個々の細胞に「やるぞ!」という指令を行き渡らせてやらないと、身体が全体として反応してくれないからだろう。「歳をとる」とは、意識して、日夜、細胞全体にこうした「指令」を出す必要性と頻度が高まるということなのだ…と最近つくづく思うようになった。コロナのおかげで、この3年間外出を控えてきた高齢者は多く、これで使わなくなった細胞の感度劣化がさらに進み、身体の動きが目に見えて衰えた人がきっと多いはずだ(自分のことだが)。

まだ現役で外で働いたり、外出好きな人はともかく、私のように元々インドア派で、以前に輪を掛けて家で過ごす時間が増えた人間にとっては、この「3年間の空白」は、予想以上に心身に目に見えないダメージを与えている気がする。また外部世界とほぼ遮断された3年間の空白は、知らない間に今まで自分の目に馴染んで、当たり前だった「風景」の多くも変えてしまった。特に大都市内の主要区域の変貌ぶりは信じがたいほどだ。新聞、テレビ、ネット情報等で頭では理解し、知っているつもりのことでも、実空間とそこにある実物を目にすると、頭が見事に混乱する。外出した先々で愕然とするのは、こうして自分がまさしく「浦島太郎状態」になっていることだ。コロナが収束しつつある今、日本中の高齢者の多くが、この3年間に起きた実空間の変貌に、まさに「どこでも浦島」状態になっているのではないだろうか。

横浜エアキャビン
先月、渡辺香津美と沖仁のコンサートを見に久々に出かけた横浜でも、その感を強くした。横浜の桜木町あたりに行ったのは、たぶん十年ぶりくらいだと思うが(神戸に行った回数の方が多い)、駅前から「横浜エアキャビン」という、昔スキー場でよく乗ったような小さなゴンドラで、街と運河をひとまたぎして赤レンガ倉庫のある「みなとみらい」埠頭まで行けるという、まるでSFのような乗り物とその景観に驚いた(2021年にできたらしい)。横浜は神戸と同じく、街の佇まいそのものが基本的におしゃれだが、同じ港湾都市でも六甲山がすぐ背後にそびえる神戸に比べると、街の景色に全体として立体感が乏しいので、高層ビル以外に、こうした工夫で上空から街や海を楽しめるようにするのは良い案だと思う(火野正平氏と同じく高所恐怖症の私は、もちろん乗らなかったが)。最近では、東京駅八重洲口再開発による大変貌ぶりに驚いたばかりだが、東京駅周辺は長年通勤してよく知っているつもりだったが、会社があった丸の内側はともかく、八重洲や日本橋方面があんなに変わっているとは思わなかった。今は渋谷も新宿も同じように、とんでもなく変貌しているようなので、もうこうなると、どこへ行っても浦島太郎状態だ。そういう場所では、記憶に残る懐かしい昔の風景は消えて、どこにも見当たらなくなっている。人間は、こうして脳に刻まれた過去の景色の記憶も徐々に喪失しながら、歳を取ってゆくものなのだな…と感慨深い。

大阪駅
5月末に4年ぶりに行った関西旅行でも、万博を控えた大阪駅の大変貌ぶりに驚愕した。これまでは宿泊も京都と神戸が中心で、大阪には滅多に立ち寄らなかったので、おそらく、なおさら昔のイメージとのギャップを感じたのだろう。夕方、京都駅で元上司と久々に会食して、そこから新快速で大阪駅に向かったが、これまで通り、大阪駅ではいちばん後方で電車を降りてホームの階段を下りれば、以前なら阪急梅田方面に自然に足が向いて、そのまま歩道橋を渡ったらすぐに阪急三番街に着いたはずだった。ところが荷物を引きずっていたので、ホームの真ん中あたりにあった登りエスカレーターについ乗ってしまったために、駅を南北に横断する新しい歩道橋に出てしまい、そのまま北口改札を出たら、あるはずのヨドバシ梅田の姿がなく、目の前に見たこともないビルがいくつもできている。ヨドバシは?と探すと、遥か右手の方向に見えるではないか。つまり電車が、以前よりずっと前方(西)に停車していたわけだ。当然阪急梅田との距離は遠くなる。そのままよくわからない新しいビルの中に入ってしまって、そこからエスカレーターを降りたり登ったりして、うろうろしながら人混みの中をスーツケースをがらがらと引きずって歩いたために、何やかやで阪急梅田側にたどり着くのに10分以上かかってしまった。しかも阪急側も三番街に新しい区域ができたりして、昔と勝手が違い、そこでもスーツケースを引きずってうろうろしてしまい、ようやくホテルにたどり着いたときには、もうくたくたに疲れ切っていた(ほとんど徘徊老人状態である)。その疲れもあったのか、翌日晩の会社の同窓会は久々で楽しかったせいもあって、よせばいいのに冷酒を飲みすぎて足腰が立たなくなってしまい、80歳過ぎの先輩二人に両脇を抱えられてホテルまで送ってもらうという体たらくだった。というわけで、この時点で完全にもうろくじいさん状態だった。

久々の神戸「JamJam」
その翌日の神戸は、六甲山があるおかげで南北がわかりやすく、平坦で似たようなビルばかりの大阪のように迷うことはなかった。それもあるのだが、若かった学生時代に4年間過ごしているので、それこそ皮膚感覚を含めた五感が街の方角と空気を忘れず、きちんと機能している感じがした。大阪から向かう電車の窓から右手に六甲山が見えてくると、今でもなんだかほっとする。神戸はまた、震災後の復興過程で街の風景全体が一度大きく変貌しているので、それに目が慣れているせいもあるだろう。しかし、4年ぶりに訪問するのを楽しみにしていた元町のジャズ喫茶「JamJam」では、前日の大酒もあって、いつもの地下への急階段ではなく、安全策として使ったエレベーターを降りた先にある暗い廊下で、まったく気づかなかった小さな段差につまずいて前方に転び、おでこをしたたかに固い木の床にぶつけて大きなこぶを作った。痛くて、入店してからもずっと濡れタオルで額を冷やしていて、ジャズをゆっくり聴くどころの話ではなかった。しかし、少し落ち着いてから見渡した店内がほぼ満席だったのにはまた驚いた。以前何回か訪問したときは、いつも客の姿がまばらで、いつまで店が持つのかと不安に思った記憶があるからだ。ここでもまた浦島太郎状態かと、何があったのか観察したが、特に店内の様子に変化はなく、いつもの空間で大音量のジャズが鳴っている。違うのは、以前はいつも平日に行っていたのが今回は日曜日だったのと、たぶん当日が「神戸まつり」の開催日で、人出が多かったせいだろうと推察して安心した。あるいは昨今のジャズブームもあって、客数が実際に増えているのかもしれない。そういうわけで、おでこが痛くて今回はじっくりと音を楽しめなかったのが残念だ(帰宅後しばらくは、右目の周りがパンダ状態だった)。

神戸まつり
 サンバパレード
ところで「神戸まつり」というのは、私の学生時代にはなかったと思うが、後で調べたら1971年に始まって今年が第50回目だという。つまり大学3年のときに第1回が始まったようだ。当時は学園紛争で2年間ロックアウトされていた大学で、ようやく授業が開始されたばかりで、市が主催する公共行事などにはあまり関心が向かなかったのだろう。「JamJam」のあと、その「神戸まつり」でサンバカーニバルのパレードというのを見た。東京では浅草が有名だが(行ったことはないが)、「阿波踊り」や「よさこいソーラン」などはまだ日本オリジナルのダンスなので、なかなかだと思うが、サンバは日本とどういう関係があるのかよくわからない(私はサンバ、ボサノヴァ好きなのでOKだが)。だが神戸でやると、異国の文化が街にすんなり馴染むように思えるのが不思議だ。賑やかなパレードが行進した三宮と元町を結ぶ大通り沿いを歩きながら、確か学生時代の夏に、屋上ビアガーデンでウェイターのアルバイトをした、昔の「神戸オリエンタルホテル」がそのへんにあった記憶が突然蘇った。このあたりだったと思える場所を見渡してみたが、特定はできなかった(震災で街全体がかなり変わってしまったせいもあるのか)。ホテルの屋上ビアガーデンでは、当時の関西らしくストリップショーをやっていて、若くてきれいな(そう見えた)踊り子さんが一枚一枚上から脱いでゆく衣装を舞台から客席へ投げ捨てると、学生アルバイトのウェイターたちがそれを競って拾い歩く、という実に楽しいショータイムが毎晩行なわれていた。

今のコロナ禍と同じく、当時は大学紛争でまともに授業がなく、ヒマだったこともあって、家庭教師や塾の講師の他、こうした面白いアルバイトをたくさんやった。六甲山中で撮影した映画のエキストラ(加山雄三主演「蝦夷館の決闘」の、その他大勢のアイヌ人兵士役。寒かったので、休憩時間に黒沢年男と倍賞美津子と一緒に焚火にあたった記憶がある)、住之江競艇場のガードマン(制服を着て、一日中客席で立ってじっとレースを見ていただけ。一回のターンでほぼ勝負が決まる単純な競技だと分かったが、博打好きにはそこがいいのだろう。「ケンカや暴動が起きたらすぐ逃げるように」と指示されていた。ガードマンがそれでいいのか?と思ったが、当然だろう。神戸港の積荷泥棒を一晩中寝ずに見張るウォッチマンというアルバイトも同じで、危ないと思ったらすぐ逃げることになっていた)、それに除草剤散布というのもやった(雇い主は個人経営者で良い人だった。あちこちクルマで移動して、工場敷地とか、草の生える場所に除草剤を撒く仕事。今考えると化学的に危険な作業だったが、当時は何も考えていなかった。甲子園球場の中に入って外野の芝生に散布したこともある。つまり私は甲子園の土を踏んだことがある)――等々、次から次へと、キリもなくあの時代のことを思い出す。最近のことは何でもすぐに忘れるのに、半世紀も昔のことは、楽しいことも、若気の至りで今となっては恥ずかしいことも、まるで昨日のことのようにはっきりと覚えているのが実に不思議だ。

六甲山の中腹や山上から初めて見た神戸の夜景の美しさも、忘れられない(当時は百万ドルだったが、今はインフレで一千万ドルに値上がりしている)。三宮で酔っ払って、夜中に歩道にひっくり返って寝ていても、若いお巡りさんがやさしく注意して起こしてくれて、(昔の)東遊園地の芝生広場に移動して、そのまま朝まで芝生の上で寝たこともあった。バイト経験も含めて、何だかあの時代の人や街は、今よりずっとやさしかったような気がする。震災もあって、こうした記憶に残る風景もずいぶん消えてしまった。しかし今思えば、「神戸オリエンタルホテル」の屋上ビアガーデンこそ、浦島的には、まさしく「乙姫様のいる竜宮城」だった…。

2020/05/15

タイムトラベル


TBS『JIN-仁-』の再放送特番をやっていたので久々に全編通して観たが、やはり名作だ。現代から幕末の江戸時代にタイムスリップした主人公の脳外科医、南方仁(みなかた・じん)が、手術や医薬の開発によって、コレラや他の感染症、災害、事故から当時の人々を救うという、荒唐無稽だが、救命医療とヒューマニズムを軸にした壮大な歴史ファンタジーだ。原作漫画(村上もとか)とは設定や結末が多少違うようだが、テレビドラマとして脚本(森下佳子)、演出、俳優陣、映像、音楽どれをとってもやはり非常によくできている。内野聖陽が演じる坂本龍馬を筆頭に、登場する歴史上の人物の造形も新鮮で、大沢たかお、綾瀬はるか、中谷美紀他の主役のみなさん全員が、真情あふれる魅力的な演技をしている。ノスタルジーをそそる音楽と共に、タイトルバックで交錯する懐かしい東京と江戸の写真もいい(ただし、外科ものだから仕方ないが、毎回あるリアルな手術シーンだけは苦手だ)。

ところで、南方仁は階段や崖から転げ落ちてタイムスリップするが、「階段や高いところから落ちるとタイムスリップする」、というモチーフのルーツはどこ(小説や映画)なのかと、(ヒマなので)いろいろ調べてみたが、はっきりとは分からなかった(『JIN-仁-』が最初なのか?)。「階段落ち」で有名なのは、先月亡くなった大林宣彦監督の『転校生』(1982) だが、これはタイムスリップではなく男女の入れ替わりだ。実をいうと、粗忽ものだった私は小学校低学年の頃に、学校の薄暗く、かなり急で長い階段から、横向きとかではなく、文字通り「前方に転げ落ちた」ことがあるのだ。当時は木造校舎だったのと、子供で身体が柔らかかったせいもあってか、奇跡的に大けがもせずに済んだが(とはいえ、着地場所は給食室前の、木製渡り廊下が敷いてあるコンクリートの廊下だった)、ゴロンゴロンと前方に何回転かしている間の、ぐるぐると世界が回転し、目の回るようなあの感覚は今でもはっきりと覚えている。たぶん時空を超える瞬間とは、ああいう感覚なのかもと、(私と同じように転げ落ちた経験のある) 誰かが最初にこのモチーフを思いついたのかもしれない。

ある日どこかで
1980
まったくの偶然だが、『JIN-仁-』再放送の1週間ほど前に、いくつか録画しておいた映画でも見ようと、その中から『ある日どこかで (Somewhere in Time)』という1980年に公開されたアメリカ映画を選んだ(ちなみに、タイトルの邦訳は「ある日」ではなく、「いつかどこかで」の方が語句と内容に近いだろう)。リゾートホテルで時空を超えて恋人と再会する、という古典的タイムトラベル・ファンタジーで、たまたま久々に観ようかと思い立って選んだ映画だ。懐かしさもあって、この映画は時々観たくなるのである。なぜかというと、今から約40年前、合弁企業勤務時代の1981年に、私はこの映画の舞台である「グランドホテル (Grand Hotel)」へ行ったことがあるからだ。つまりアメリカでこの映画が公開された翌年ということになる。初の米国出張時で、ミシガン州にあったアメリカの親会社の人たちが、休日ドライブに連れて行ってくれたのが五大湖の一つヒューロン湖のマキノー島 (Mackinac Island)で、 その島にこのホテルがあったのだ(泊まったわけではない)。テレビで初めてこの映画を観たのは、たぶん1990年代になってからだったと思う。グランドホテルのことはまったく知らずにたまたまこの映画を見ていたら、(文字通り)ある日どこかで見たことのあるような建物と風景が出て来たので、そのまましばらく画面を見ていたら、それがマキノー島のグランドホテルだと分かってびっくりしたのである。

カナダとの国境に近いミシガン州の北端(正確にはLower半島の北端)、ミシガン湖(西)とヒューロン湖(東)の海峡にある港町マキノーシティ (Mackinaw City;デトロイトからの距離は約420km) から、ヒューロン湖側をフェリーで30分くらい(?)行ったマキノー島の丘の上に、1887年に開業したグランドホテルは今もある。緯度が高く冬場は湖が全面凍結するため、ホテルなどの施設はすべて閉鎖されるので、夏場中心のリゾート地だ。あの当時この島を訪れた日本人は、きっとまだ珍しかったのではないかと思うが、何せ湖の巨大さと、ヴィクトリア調の白く大きなホテルの豪華さと美しさに、心底びっくりしたのをよく覚えている。島内では、クルマもバイクも、エンジンを搭載した車輛は一切禁止されていて、移動手段は馬車か自転車か徒歩だけという、本当に19世紀にタイムスリップしたかと思うような場所だった(これは現在もそうだ。映画では、シカゴに住む主人公が仕事のストレスからドライブ旅行に出かけ、ふらりと立ち寄る設定になっているので、ホテル前に普通にクルマで到着するシーンが出てくるが、これは撮影用として特別に許可された車だそうだ)。

グランドホテル
Mackinac Island, MI
この映画の原作は、1975年の幻想小説『Bid Time Return』(時よ戻れ;シェイクスピア 『Richard II』からの引用) であり、書いたのはリチャード・マシスン Richard  Matheson (1926-2013) というモダンホラーの作家・脚本家だ。あのスピルバーグのデビュー作かつ傑作であるTV映画『激突 (Duel)』の原作、脚本もマシスンで、映画『ヘルハウス』や、『トワイライトゾーン』のようなTVドラマも書いている人らしい。小説の映画版である『ある日どこかで』も、マシスン本人による脚本である。原作のホテルはカリフォルニア州の設定だが、映画ではそれを(ミシガン州の)グランドホテルに変えたわけだ。映画『ある日どこかで』は予算も絞られ、1980年の公開時は日米ともにパッとしない興行成績だったらしいが、その後ケーブルTVやビデオを通じてじわじわとファンが増え、今やカルト的人気のあるタイムトラベル映画になっていて、毎年10月には、今もグランドホテルでファンの集いが開催されているほどだそうだ。

その方面に詳しくはないが、タイムスリップやタイムトラベルといえば自由な発想ができるSF小説が中心で、内容も未来社会とか、思い切り過去に飛ぶ活劇系作品が多いように思う。映像化もその方が分かりやすいし、古くは『ターミネーター』とか『バック・トゥー・ザ・フューチャー』といった傑作映画がいちばん有名だろうが、公開は1984年、1985年だ。『ある日どこかで』はそれより5年も前の作品で、しかも内容が恋愛ものであるところが違う。だから、今や小説、コミック、ドラマ、映画などで数多く描かれている時空を超えるラヴ・ファンタジー作品の元祖というべき映画であり、大林宣彦監督も『時をかける少女』(1983 /筒井康隆の原作小説は1967年出版)の制作にあたって、この映画を参考にしたそうだ。大林監督は他にも『さびしんぼう』(1985) や『異人たちとの夏』(1988) など、実在しないが、心の中にある、はかなく懐かしい存在をイメージ化する映画を制作しているが、『ある日どこかで』もSFというより、どちらかと言えば昔のアメリカのTV番組『ミステリーゾーン』や『トワイライトゾーン』的な「不思議な物語」という味付けの映画だ。『JIN-仁-』にも、この映画の影響、もしくはオマージュと思われるモチーフが多い。南方仁と咲、野風、未来(みき)を巡る、会いたくても会えない、時空を超えた切ない恋愛感情がそうだし、主人公が手にする「コイン(硬貨)」が、過去と現在が交差する入口を象徴している設定もたぶんそうだろう。

女優エリーズ・マッケナ
(ジェーン・シーモア)
『ある日どこかで』で主人公の若い脚本家を演じるのは、あの「スーパーマン」役のクリストファー・リーヴ Christopher Reeve (1952-2004) である。ジュリアード音楽院出身で、いかにもアメリカンなこの人は、落馬事故が原因で早逝してしまったらしい。主人公が一目で魅了される、ホテルの資料室の肖像写真に写っているのが、タイムトラベルで邂逅する女優エリーズ・マッケナで、007のボンドガールの一人だったジェーン・シーモア Jane Seymour (1951-) が演じている(彼女のモナ・リザ的で、どこかノスタルジーを刺激する謎めいた写真は実に美しく、確かに一度見たら忘れられない)。大昔ではなく、1980年から1912年という近過去(68年前)に主人公がタイムスリップするのがこの映画の特徴で、またタイムスリップはタイムマシンのような機械や、階段落ちとかの事故や偶然ではなく、戻りたい過去の事物だけに囲まれた場所を選び、その時代の衣服等を身に付け、その上で自己催眠をかけて実行するという、主人公の学生時代の恩師から伝授された方法だ。『JIN-仁-』がそうであるように、この種のファンタジー映画は音楽も大事で、007で有名なジョン・バリーが自作曲とラフマニノフのピアノ曲を組み合わせて、映画のストーリーによくマッチした音楽を制作している。『ある日どこかで』は、近年のタイムトラベル作品に比べてストーリーがシンプルで、時代を反映して、エンディングもどこかやさしい余韻を残して終わるところがいい。私にとって懐かしい風景が出てくる画面をじっと見ていると、何だか自分も40年前にタイムスリップしたような気がしてくる不思議な映画である。

ところで私は、日本中が浮かれていたバブル時代に、会社のパーティ向けに組んだ即席バンド(サイドギター担当)で、サディスティック・ミカ・バンドの<タイムマシンにおねがい>(1974) を演奏したことがある。ミカ・バンドはその後、89年に桐島かれん、2006年に木村カエラを擁して同曲を再・再々カバーしていたが(名曲なので)、実は私も2010年代の同パーティで、いい歳をして再結成バンドでもう一度この曲を演奏している。「階段落ち」実体験といい、『ある日どこかで』の偶然といい、<タイムマシンにおねがい>との縁といい、こうして並べてみると、どうも自分にはタイムトラベルをする素質(?)があるような気がしてくる(朝が弱い私は、むしろ「タイムトラブル」の方が多かったが……)。しかしよく考えてみると、昔ながらのジャズファンというのは、ある意味でタイムトラベルを日常的に楽しんでいるようなものかもしれない。私の場合、ふだん聴いているジャズ音源の7割くらいは1950年代から60年代前半のものだし、しかもライヴ録音のアルバムを聴くことも多い。優れたライヴ録音のアルバムを、良いオーディオ装置で再生すると、時として実際にジャズクラブの中にいるのでは、と錯覚するほどの臨場感が得られることがある。だから、60-70年くらい前の全盛期のジャズの演奏現場にタイムスリップしたような感覚が味わえるジャズレコードは、いわば「即席タイムマシン」のような機能を果たしているのかもしれない。ジャズレコードには、どこか他の音楽ジャンルの音源とは違う不思議な魅力があると思っていたが、どうやらこれも理由の一つのようだ。

「Five Spot」前の
モンクとニカとベントレー
とはいえ、本物のタイムトラベルもできれば死ぬ前に一度経験してみたいものだが、もしそれが可能なら……行きたいところは決まっている。時は1957年、場所はニューヨーク、ヴィレッジの「Five Spot Cafe」だ。もちろん、ヤク中のためにマイルス・バンドをクビになったジョン・コルトレーンを雇ったセロニアス・モンクが、自身初のレギュラー・カルテットを率いて登場し、コルトレーンが次なる飛躍に向かって徐々に成長してゆく過程を捉えた演奏を聴くためだ(4ヶ月にわたるこの伝説のライヴ演奏は、録音記録が残されていない)。タバコとアルコールの匂いが立ち込める1950年代ニューヨークのジャズクラブで、客席の著名な芸術家やミュージシャンたちに混じって、できればニカ夫人のテーブル近くに座って、モンクたちの演奏を朝まで聴いていたい……

2019/12/09

京都晩秋行

赤山禅院
例年通り、11月末に京都へ出かけた。去年は11月中旬に行って、まだ紅葉には早すぎたので、今年は半月ほど遅らせてみた(遅らせすぎた、と言えるだろう)。最近はずっと春と秋の年2回、3泊4日と決めている。ほぼ3日間は目いっぱい使えるからだ。京都のホテルは最近予約しにくく値上がりが激しいが、リーズナブルな料金で、JRや地下鉄の駅に近く、便利で、かつできるだけ新しいホテルを選んでいる。歩き疲れて帰って寝るだけなので、高級ホテルは必要ないが、ホテルはやはり水回り、遮音など、できるだけ新しい方が一般的には快適に過ごせる。ただし時間も節約したいので、朝食付きが望ましいし、静かさという点からは、今だとアジア系観光客のできるだけ少ないホテルというのも要件だ。今回は初めて、京都駅八条口側の開業してまだ半年のホテルに宿泊したが、上記条件をほぼ満たした良いホテルだった。京都駅の南側はだいぶ開発されて昔のうらぶれた感じがなくなり、今はホテルラッシュですっかり様変わりしていた。変化から取り残されていた駅東側の崇仁地区も、京都市芸大が2023年に移転して来るということで、大掛かりな区画整備が進行中で、移行をスムースにするために、”崇仁新町” という期間限定の簡易屋台街が、行列で有名なラーメン店の向かい側に出現している。

石山寺
初日は関西在住の会社時代の先輩たちと会って、大津の石山寺に出かけ紅葉を楽しみ、瀬田川沿いを散策し、夜は近江牛料理で会食した。皆さん10歳も年長だが、まだまだお元気だ。石山寺は初めて行ったが、西国三十三所第13番札所という奈良時代創建の観音霊場で、紅葉のきれいなお寺だ。瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の自然河川で、この辺りは大学のボート部などの漕艇場になっていて、広くゆったりとした穏やかな流れと周囲の景観が非常に美しい。この瀬田川がやがて宇治まで流れ下って、宇治川になるということを初めて知った(その後鴨川と合流して淀川)。関西人ではないので、地理的に琵琶湖と京都の南にある宇治という2地点が、これまでまったく結びつかなかったのだ。紫式部が『源氏物語』を起筆したのが石山寺だと言われているので、なるほど最後に宇治(十帖)ともつながっているのだ、と感心した。しかし、昨年の鞍馬寺、神護寺でも感じたが、平地は何でもないのだが、階段の多いこうした寺院は特に下りの足下が最近あやういと感じる。高所恐怖症のせいもあるが、高低差の大きな寺院巡りは、これからは遠慮することになりそうだ(先輩方のほうが、ずっとしっかりしているようで、我ながら情けない)。

実相院
2日目は洛北を目指した。まず出町柳から叡山電車で岩倉駅まで行って、そこから実相院(門跡)まで20分ほど歩いた。小さな川沿いのゆるい登りで、のんびりした良い道だ。ここは岩倉具視も一時居住していたことや、庭の紅葉が床に映る「床もみじ」で有名で、確かに美しいが、今は残念ながら内部からの写真撮影は禁止されている。それでも、やや遅い感もある紅葉と庭のたたずまいは美しい。それから修学院駅まで戻って、赤山禅院、修学院離宮(前のみ)、曼殊院という、お気に入りのコースを歩いて巡った。曼殊院(門跡)は昨秋も今春も行ったが、内部ももちろんだが、特にその外壁周りは、もみじが緑でも黄でも赤のときでも、苔の緑と調和していて、いつ訪れてもたたずまいが本当に美しい。ここは比叡山へと続く京都の東北の方角(鬼門)にあたり、高台なので風通しがよく、また京都市街の眺望や周囲の景色も良い。まだ自然も残されていて、何より春も秋も人が少なくひっそりとしているところがいい。観光客で一年中ごったがえしている嵯峨野あたりとは違い、家は増えたのだろうが、まだ昔の京都郊外のひなびた感じが味わえる場所だ。

曼殊院・外壁
周囲は他に圓光寺、詩仙堂など紅葉の見どころも多いが、今回は歩き疲れたのでスキップした。昼食は乗寺にある “ラーメン街道” と呼ばれる通り(なぜそうなったのかは不明)の某有名ラーメン店に行ってみた。生来、行列というものが大嫌いで、昔は並んで順番を待って食べるなどもってのほかだったのだが、最近は年のせいで多少気も長くなったのか、あまり苦にならなくなった(ヒマなこともある)。30分くらい並んでやっと食べたのが、ラーメンとカレー風味の鳥のから揚げという、人気のある微妙なセットメニューだったが、食べてみると、これが意外にうまくてあっさり完食してしまった。しかし、京料理の高級イメージに反して、京都には行列のできるラーメン店が昔からあちこちにあるようだが、いったいどういう歴史や背景があるのか不思議だ。「餃子の王将」も京都が発祥だし、よく言われるように、商人が多くて忙しいのでファストフードのニーズが昔からあったからなのか、貧乏学生が多いせいなのか。加えて最近は、行列に外国人観光客の姿もかなり見かけるので、安くて “ハズレのない” 食事として彼らの間で流行っていることも理由の一部なのかもしれない。

恵文社・一乗寺店
昼食後、一度行ってみたかった書店、恵文社・一乗寺店に寄ってみた。目利きのスタッフが厳選した本を並べ、小物類も販売しているというユニークな哲学で有名な書店だが、確かに外も内も個性的なたたずまいと味わいのある書店で、本好きにはたまらない雰囲気を持っている。ネットや今どきの巨大書店では絶対に味わえない、昔、街の書店に入るときに感じた、あの妙に胸がわくわくするような独特の気分を懐かしく思い出した。おまけに、そう多くはない音楽書コーナーに、私の訳書『セロニアス・モンク』と『パノニカ』の2冊が置いてあった(正直言って、これは単純に嬉しかった)。夜は、祇園の某有名居酒屋に偶然に入店できたのでそこで食事した。確かに料理も酒も旨い店だが、外国人が多いこともあって、常にわさわさして落ち着けないところと、客あしらいに多少の問題ありか(これは、まったくの個人的好みだが)。

京都市立植物園にて
翌日は、地下鉄で北山にある京都市立植物園へと向かった。ここも以前から一度行こうと思っていた場所で、紅葉もイチョウも、やや時期が遅いがきれいだった。ここは珍しい植物もたくさんあるし、何より広々していて開放的で、あまり京都らしくないところが逆にいい。流行っているのか、両手にストックを持った中高年がやたらと園内を歩いていた。健康増進のためらしいが、平地なのに妙な光景だった。

賀茂川の京都育ち(?) のサギ
北山通の進々堂で昼食をとり、植物園裏手の賀茂川沿いを歩いて南に下った。しかし大津の瀬田川もそうだったが、京都の高野川、賀茂川や鴨川は、どこも土手や河床がきれいに整備されて芝や桜や樹木が植えられ、広々とした公園のようでのんびりと散策できる。私の自宅近くを流れている川とは大違いだ。シラサギ、アオサギ、カワウ、セキレイなどは普段自宅くの川でよく見かけるので珍しくはないが、京都の池や川の水辺にいるサギたちは、サギにも京都ブランド(?)があるかのように、どういうわけか、そのたたずまいや動きまで、どこか上品で優雅に見えるから不思議だ(もちろん思い込み、なのだろうが)。それから、楽しみにしていた今宮神社名物の “あぶり餅” を久々に賞味しようと行ってみたのだが、なんと昔から向かい合わせで営業している店が2軒とも休日でがっかりした。他にもがっかりして帰る人たちを何人も見かけた。同じ日に休まず、別々の曜日を休日にしたらお互い商売的にもいいと思うのだが、なぜ同じ曜日なんだろうか? 仕方がないので、久々に隣の大徳寺の中をぶらつくことにしたが、その途中で、石田三成の墓所がある三玄院という塔頭を知った。帰りに千本通りの某有名居酒屋に寄りたかったが、予約なしでは入れそうもないので今回はあきらめた。

三十三間堂 長い…
翌日は東山方面に向かい、ずっと見損なっていた三十三間堂の内部を高校時代以来半世紀ぶりに見学した。昔のことは覚えていないが、あらためて観察すると、確かに一体一体表情の異なる千手観音像がずらりと並んだ内部の様子は壮観かつ荘厳で、本家の風神、雷神の彫像も含めて何かものすごいエネルギーというものを感じる。内部見学してみたかった隣の京都国立博物館はその週から公開は休止中で、入館できず。やむなく秀吉の大仏殿跡、方広寺の鐘、豊国神社(骨董市を開催)を見学し、甘春堂でぜんざいを食べ、六波羅蜜寺を通過、有名な幽霊飴屋で飴を買い(500円。これはナチュラルでうまい)、建仁寺の中を通って、花見小路、四条通を越え、最後に祇園の有名うどん店で柔らかめの ”京うどん” なるものを食べてから帰ろうと思ったら、なんとそこも休日で、仕方なく別の店へ入った(ツイていないが、店の休日が何曜日かは、よく確認しておくべきだったと反省)。

実質3日間の行程で、朝から晩まで1日平均2万歩近く歩いたのでかなりの距離だろう(歩き過ぎか)。今回は、できるだけこれまで行けなかった場所を訪ねる、というコンセプトだったはずだが、結局行ったのはいつもの場所が多く、まだまだ行っていない場所がかなりある。とはいえ、これまでに大方の場所には行ったはずなので、もうこれでいいかと毎回思うのだが、翌年の春や秋がやってくると、また行きたくなるのが京都の不思議だ(そういえば今回、来年流行りそうな明智光秀がらみの場所にいくのも忘れていたし…)。

2019/09/07

京都を「読む」(2)

8月の『京都人の密かな愉しみーBlue修業中』の新作(#3.祇園さんの来はる夏)は、「1,200年早いわ!」と有名陶芸家の父にいつも怒鳴られ、その父親をオッサン呼ばわりする結構強烈なキャラだった見習い中の娘役が交代していた(結婚・出産のためらしい)。それに、大原で京野菜を作っていた江波杏子が昨年秋に急逝したために、劇中の設定でも亡くなっていた。たぶん微妙な物語がこれから展開するはずだった、同居する死んだ孫の友人との関係も、説明的になってしまった。両方とも突然のことなので、脚本を元から練り直したり大変だったと思うが、個性的な役者が急にいなくなると、ドラマ全体として、バランスや展開上どうしても違和感があるのは仕方がないだろう。新しい陣容と設定で2作目となる回に期待したい。

ところで第1シリーズは常盤貴子と団時朗主演の主軸ドラマと併行して、毎回短いオムニバス・ドラマが挿入されていた。8月の再放送では、その中から「私の大黒さん」、「桐たんすの恋文」、「逢瀬の桜」など京都らしいしっとりした作品が放映されていた。これらの中で、個人的に特によくできていると思ったドラマは、夏向きの異色編「眞名井の女」だ。豊かで良質な京都の「水」と、「井戸」にまつわる伝説(能、謡曲になっている)をモチーフにしたファンタジック・ホラーで、貴船神社への7日間の丑の刻参りで浮気夫を呪い殺そうとして果たせず、満願前日に井戸(鉄輪-かなわーの井)の前で死んだ女の幽霊が憑りついた井戸掘り業の青年を、名水・天之眞名井(あめのまない、市比賣神社)の女神が救う、という筋立ても各出演者の演技もとても良かった。この伝説の両井戸は、五条通りをはさんで南北に今も実在している。

1,200年の歴史を持つ古都に、因縁やいわれのある場所が多いのは当然だ。そもそも京都は ”怨霊” の都市なのである。なにしろ平安京そのものが、弟・早良親王の怨霊の祟りを恐れた桓武天皇が長岡京から再遷都した都市であり、よく知られているように、厄災から都を守るべく風水思想を導入して秦氏に設計させたものだ。菅原道真を祀った北野天満宮、崇徳天皇の白峯神社、あちこちにある御霊(ごりょう)神社も、元はと言えば、ほとんどが非業の死を遂げた人物を祀ったものであり、その祟りを鎮めるために、怨霊を御霊と読み替えて創建されたようなものだ。厄災をもたらす祟りという<負>のパワーを封じ込め、手厚い信仰によって祀り上げ、ご利益をもたらす<正>のパワーに転化させてきたわけである(祇園祭など、多くのの由緒もそうだ)。そうした歴史から生まれ、支配者から重用されてきたのが陰陽師であり、24節気のような京都独自の年中行事と約束事の起源もそういうことだろう。したがって、1,000年以上にわたって時代ごとに堆積してきた伝説や因縁話が街じゅう散在する京都は、魔界、心霊、パワースポットと呼ばれる不思議な場所には事欠かないし、それぞれの伝承が持つ歴史的背景のリアリティと重さという点で、他所の怪しげな因縁話とはわけが違うのだ。だから、そういう世界が好きな人にとっては、まさしくワンダーランドである。それらを解説した本は、それこそピンからキリまであるが、中では今やこのジャンルの古典とも言うべき『京都魔界案内』(2002 小松和彦 知恵の森文庫)が、写真や詳細な解説もあって、怖いこわい京都』(2007 入江敦彦 新潮文庫)と並んで、読んで面白くまた信頼感がある本だ。その後もたくさん出ているこの種の本は、だいたいは似たような内容なので、この2冊を読めば、有名どころと有名話のあらすじはほぼわかる。

こうしたスポットを訪ねることも含めて、昼の京都の街歩きには、やはり喫茶店(カフェ)での休憩が欠かせない楽しみだ。安価だが、狭くて、こ忙しくて、落ち着かないコーヒーチェーン店ばかりになった東京ではほとんど絶滅したかに思える 「昔ながらの喫茶店」 も、京都をはじめとする関西圏ではまだまだ生き残っているように思う。関西人はまず人と喋ることが好きだし、多少価格が高くても時間を気にせずに会話を楽しめ、飲み、食す場所として、「喫茶店」 という空間への社会的・文化的ニーズが今も高いのだと思う。'70年代に私が学生時代を過ごした神戸にも、”にしむら” や ”茜屋” といった珈琲名店が当時からあったが、クラシック音楽をカーテン越しのステレオで聞かせる “ランブル” というゆったりとした、こぎれいな音楽喫茶がトア・ロードにあって、そこへよく行った。三宮の ”そごう” で買った ”ドンク” のフランスパンを、昼食がわりに友人とその店に持ち込んで、コーヒーだけ注文してテーブルをパンかすだらけにして、長時間名曲を聴きながら食べていたが、店の経営者だったお姉さんは、常連だった我々には文句も言わず、いつもにこにこと笑って迎えてくれた(あの時代の日本は、街も人も、何だかもっとずっとやさしかったような気がする)。今の京都でも、”イノダ” の本店や三条店、”前田珈琲” など有名な喫茶店には何度も行ったし、京大前の ”進々堂” や、京大構内のレストランにも、山中伸弥教授に会えるかと思って(?)行ってみたが、どこも良い雰囲気だ。『京都カフェ散歩―喫茶都市をめぐる』(2009 川口葉子 祥伝社黄金文庫)で紹介されているように、レトロな雰囲気を持った名店、ユニークな哲学のある喫茶店、斬新な発想のカフェが京都にはまだまだたくさんある。この本は著者による写真に加え、地図もあるので、これからも探して訪ねてみたいと思う。ただし、喫茶店や飲み屋の寿命は一般的には短いので、中にはもう閉店してしまった店もあるかもしれない。京都にも昔('70年代まで)は本格的ジャズ喫茶がたくさんあって、マイルス・デイヴィスやセロニアス・モンクまで顔を出したらしい、名物マダムのいた ”しあんくれーる”(荒神口)のような有名店もあったが、今はほぼ普通のカフェになった “YAMATOYA” など数軒だけになってしまったようだ。神戸元町の “jamjam” のような、伝統的かつ本格的ジャズ喫茶はもうなさそうなのが残念だ。この街は、学生が多いこともあって新しいもの好きなので、”流行りもの” の盛衰には敏感なのである。

夜の京都もゆっくり楽しみたい。京都通いの最初のころは、名店と言われる何軒かの料亭にうれしそうに行ってみたが、すぐに、その世界はもう十分だという気がした(何せ高いし)。もっとリーズナブルな値段で、うまい料理や酒を味わいたいと思うのが人情だろう。今は情報としてのグルメ本は山ほどあるが、『ひとり飲む、京都』(2011 太田和彦 新潮文庫)は、そうした世界を文章でじっくり語っているので、読んで楽しい本だ。それも年に2回、各1週間だけ、京都に一人で住み、暮らすように毎晩気に入った店を何軒かはしごして酒を飲む、というコンセプトである。実は私も数年前に、真面目に移住を検討していて、下調べもかねて1ヶ月ほど京都に滞在する計画を立てたことがある(この本を読む前だ)。京都で暮らすようにして、観光客の少ない真冬の京都をじっくり歩いて楽しもうという魂胆だった。ウィークリーマンションとかも検討したが、根が面倒くさがりなので、結局は駅近くの手ごろなビジネスホテルに、一人でとりあえず2週間滞在することにした。だが真冬の京都の寒さは想像以上で、あっという間に風邪をひいて高熱を出してしまい、情けないことに1週間ももたずにあえなく撤退した。そのとき思ったのは、昼はともかく夜の食事の大変さ(と寂しさ)だ。ろくに下調べもしなかったこと、また真冬ということもあって、わざわざ外に出かけて一人で飲んだり食べたりする気にならないのだ。一人暮らしをしていたり、一人飲みに慣れていたり、あるいはそれが好きな人はいいが、自分には不向きだということがよくわかった。考えてみたら、相手もなく外で一人酒を飲む、という習慣がそもそもない。というわけで移住計画も頓挫し、その代わりJRの宣伝通り、「そうだ…」と、思ったときに行くことにした(やっぱり、それが正解だった)。

太田和彦の盟友・角野卓造(近藤春奈ではない)も、『予約一名、角野卓造でございます。【京都編】』(2017 京阪神エルマガジン社)という本を出していて、そこでも同様の店を紹介している。この人も相当な京都好きらしく、しかも夜だけでなく、洋食、中華も含めた朝、昼食も楽しむグルメでもある。二人の対談も収録されていて、これも楽しい。ただ、この人たちは名前も顔も知られている有名人であることに加え、いわば一人飲みの達人でもあり、それに京都でこうした楽しみ方をするには、事前に相当の下ごしらえ(時間をかけ、金をかけ、人間関係を作る)をしておかなければ無理である。したがってこの種の本の一般人(たぶん男だけだろうが)の楽しみ方は、「読んで、ただ妄想する」ことである。写真も使わずに文字だけで、目に浮かぶように(すぐにでも行きたくなるように)酒や料理のうまさ、店のムードを描写する太田和彦の文才はさすがだ。角野卓造の大きめの本には地図に加えカラー写真が載っているので、こうした世界の雰囲気を実際に垣間見ることができる。また人物としての味わいもある人のようなので、こちらもやはり楽しそうだし、かつ食事はどれもうまそうだ

ここに挙げてきたような京都本をより楽しむためにも、都市としての京都の歴史を解説した信頼できる本を読んで、正確な基礎知識を身に付けておいた方がいいと思って何冊か読んでみた。京都〈千年の都〉の歴史』(2014 高橋昌明 岩波新書) はその中の1冊だ。この本は京都研究の学術書ではないが、遜色のない厳選情報を格調のある文体で綴った都市の歴史書であり、新書という限られたヴォリュームの中でコンパクトに京都の歴史をまとめている。ただし平安京から幕末まで約1,000年にわたる都市設計、支配者、社会制度、文化、宗教、民衆などの歴史的変遷を網羅しているので、どうしても浅く広く、かつ急ぎ足になるのと、次々に登場する固有名詞の数が多いので、歴史の苦手な人には読むのが大変かもしれない。私は元々歴史好きなので、高校時代以来忘れていた日本史を復習するいい機会になった(ただし読むそばからまた忘れているが)。特に平安京以来の洛中都市域が、支配者(藤原氏、平家、源氏、足利氏、秀吉など)によって本拠地、町割り、町名などが変遷する様が面白かった。また現在我々が目にしている京都の街並みや寺社の姿が、ほとんど豊臣秀吉、江戸幕府以降の改造、投資、整備、保護によって形成されたものであることもあらためて理解した。それ以外にも、たとえば京野菜の名高さと、その味の秘密が、大都市としての京都の糞尿処理の歴史と深く関わりがあること、パリやロンドン市中の道路が、18世紀ですらまだ糞尿にまみれていたのに対し、京都ではその何百年も前から肥料を通した循環処理プロセスがほぼ機能していたことなど、日本社会や文化の源泉を見るような目からうろこのトリビアもある。著者も硬い話におり混ぜて、時々息抜きのような個人的コメントを入れたりして、読みやすく工夫しているところも良い。大都市として1,000年以上の歴史を持ち、かつ首都として幕末まで天皇が居住し、20世紀には、米軍の原爆投下の第一候補地だったにもかかわらず、それを免れた強運を持つ京都は、やはり奇跡の都市と言うしかない。

2019/08/01

京都を「読む」(1)

京都では祇園祭も終わり、次の夏の大イベントは、お盆の ”五山の送り火” だ( ”大文字焼き” ではない)。元々京都好きだったこともあり、時間のある最近は毎年京都に行くようになって、もうかなりの回数になる。名所旧跡を含めた京都市街地の地図はおおむね頭に入ったし、JR、地下鉄、京阪、阪急、嵐電、叡電などを乗りこなせば、もう大体どこへでも行ける(バスはまだよくわからない)。「よく飽きないね」とか言われることもあるが、これはディズニーランドや USJ 好きの人が何度も通うのと同じことだ。京都は、「日本」を主題にしたテーマパークだと指摘した人がいるが、その通りである。何度行っても、見ても、1,200年の重層的な日本の歴史を背景にした尽きない面白さと魅力が京都にはあるからだ。こんな都市は、日本には(世界にも)他にない。京都は日本の宝である。名所旧跡や寺社巡り、食事処で、たとえボッタくられようと、時にはダマされようと、観光目的でたまにやって来る非京都人(よそさん)にとっては、”時空を超えた京都” というイメージ の中で、いっとき楽しい時間を過ごせたらそれでいいのである(地元で普通に暮らす京都人にとっては迷惑だろうが)

最近では、高台寺に登場した般若心経を読経するアンドロイド観音(写真:京都新聞)もその象徴だが、結構高い料金を払いながら、あちこちのアトラクションを巡って楽しむというシステムも、テーマパークと一緒なのだ。TV番組に登場する血色の良い胡散臭そうな坊さんの説教や解説もそうしたイメージを助長しているが、寺社に限らず、各スポットのもっともらしい「物語」が、そもそも歴史的にどこまでが事実で、どこから先が後付けの作り話の類(伝説、神話、宣伝等)なのか、実のところはっきりしないケースが非常に多い。だから眉に唾をつけながらウソとホントの境目を見極めるのも、”よそさん” 流京都の楽しみ方の一つである。とは言うものの、よく観察すれば、人工のテーマパークには望むべくもない本物の歴史と、そこで生きてきた人間の存在もリアルに感じられることも確かだ。このフィクション(ウソ、ホラ)とノンフィクション(ホント)が、至るところで違和感なく不思議に溶け合っているのが京都という街であり、その魅力なのだと思う。(だが、そのキモである日本の歴史や文化という共同幻想と、それに対するある種のリスペクトを持たない外国人観光客の急増で、この絶妙なバランスを保ってきた都市イメージは急激に崩れつつあり、今や単なる観光テーマパーク都市への道を邁進しているようにも見える。)

当然ながら、京都に関する本もいろいろ読んできた。京都はとにかくネタが豊富なので、ネット時代の今でも、学術書以外に数え切れないほどのいわゆる「京都本」が出版されている。大きく分けると、普通の観光ガイド的な総花本、特定の地域や裏ネタに関する中級者向けガイド本、食を中心にしたグルメ本、歴史や文化遺産を中心にした正統的な都市ガイド本、日々の伝統行事や祭事を網羅した本(『京都手帖』など)、京都人気質や文化を語った ”京都論” 的な本、独特の差別の歴史を描いたタブー本、地理・地学本、怪しげな魔界・心霊本……といった具合でキリもなくある。しかし読む人のニーズによってもちろん違うだろうが、「京都本」はやはり京都ネイティヴの人が書いた本がいちばん参考になるし、読んで面白いと思う。単なる知識、情報の伝達だけでなく、ホメてもケナしても、たぶん行間に地元京都への愛情が感じられるからだろう。穴場や、地元の人が楽しむグルメ・スポットの案内など、かつて中心だった ”事実” に関する情報は、ネットとスマホ時代になって、しかも変化が激しいので、あまり有難味はなくなった。むしろネット情報だけでは見えて来ない、歴史、人間や文化面での面白み、深み、謎、といった知的情報を如何にして読者に提供するかが、紙媒体としての「京都本」の今後の存在価値だろう。当然だが、この種の本は出版時期や情報自体が新しければ良いというものでもない。京都伝統(?)の ”イケズ” の様相と分析などは、日本文化論として永遠に続くだろうし、江戸・東京という中央政権に対する怨嗟や対抗意識と歴史認識、大阪・神戸という関西近隣都市への競争意識や優越感もそうだろう。今はそれがさらに細分化されて、京都市と京都府、さらには京都の洛中と洛外の格差、ヒガみとか、目くそ鼻くそ的自虐ネタまで出て来て、まさしくケンミンショー並みの面白さだ。ただし、総じてこの種の「京都本」の語り口は、特に男性著者だと、いわゆる ”京男” らしさ(細かい、まわりくどい、しつこい、喋りすぎ……)が目立つ場合が多いような気がする。京都人が書いた本の中で、実際に京都巡りや、京都のことを知り、考える上で、個人的に参考になったり、読んで面白いと思った本をこのページで挙げてみた。いずれも今から10年以上前、2000年代に入って間もなくの本で、「京都検定」の開始など当時は京都ブームだったようだ。だが、今読んでも内容の価値と面白さは変わらない、つまり私的名著である。

街歩きガイドの類もずいぶん買ったが、結局これまでいちばん役に立っているのは、『京都でのんびり―私の好きな散歩みち』(2007)、『京都をてくてく』(2011  祥伝社黄金文庫, 小林由枝という同じ著者の文庫本2冊だ。ひと通り名所には行った人が、街歩きのときに持ち歩くのにとても適していて、コンパクトだが2冊でほぼ京都市内をカバーし、普通は観光客が歩かないルートや場所、地元の店なども紹介されている。何よりイラストレーターでもある著者(下鴨出身の優しく、きめ細かな心づかいが伝わって来るような地図イラストと、京都愛を感じるほんわかした手書きの文章がとても良い。両方とも出版されて大分経つが、情報的には今でもまったく問題ない(何せ相手は1,200年の歴史がある街なので)。

これも同じく女性の著者だが、こちらは壬生出身(亀岡在)の漫画家で、旅歩きコミックの元祖グレゴリ青山が、地元民ならではの視点と経験から、京都人や京都のおかしさを描いた何冊かのコミックだ。というか、そもそも私が京都本をあれこれ読むようになったキッカケが、確か “グさん” のコミック『ナマの京都』(2004 メディアファクトリー)の笑いがツボにはまったせいだったのだ。その後『しぶちん京都』、『ねうちもん京都』、『もっさい中学生』、最近の『深ぼり京都散歩』など、京都がらみの本は全部読んだが、どれも笑える。面白さの理由は、京都や京都人を観察する距離感、視点が、他の京都本と比べて段違いに普通で、対象に接近しているからだろう(近すぎて、デフォルメされているとも言える)。ただ漫画は人それぞれ好みがあるので、かならずしも笑いの保証はできないが、著者独特の画風とギャグ、ユーモアの世界に波長が合う人なら、間違いなく大笑いしながら、地元民の語る京都の裏話のあれこれを楽しめるだろう。特に初期の何作かは、”京都本・史” に残る傑作ではないかと思う(もう絶版かもしれないが…)。京都は、かしこまっったり、辛気臭い顔で語ったり、持ち上げるだけでなく、「笑い飛ばすもの」でもある、という見方が当時は非常に新鮮だった。

普通の読み物として、これまで個人的に面白いと思った本は、今や定番に近い本なのだろうが、やはり『秘密の京都』(2004)、『イケズの構造』(2005)、『怖いこわい京都』(2007 新潮文庫)など、多くの京都本を書いている入江敦彦の本だ。著者は西陣出身で、ファッション関係の仕事をしつつロンドン在住というエッセイスト・小説家だが、この代表作とも言える3冊は、それぞれ京都の散策ガイド、言語文化考察、京都にまつわる恐怖譚集で、いずれも楽しく読めた。特に『イケズの構造』では、京都ならではの言語文化、京都人ならではの視点を、京男ならではの語り口で開陳している。これを京男っぽい面倒くさくてイヤみな本と取るか、ユニークで興味深い本と取るかは読者次第だろう。”京都語” をそもそも外国語として捉えることや、『源氏物語』やシェイクスピアまで ”京都語” で翻訳してその真意を知ることなどで、単なる意地悪ではない、言語文化としての「イケズ の神髄」を伝えようとする視点や解説は、私的にはとても新鮮で面白かった。ロンドンで暮らし、イギリス人の文化や言語との共通点に気づいたり、京都を地球の向こう側から俯瞰するという経験は大きいと思う。その後現在まで、くだらない本も含めて似たような京都本が数多く出ているが、15年も前に、京都人独特のものの見方や考え方の世界を、学術的な読み物でも売れ線狙いの内容でもなく京都人自身が初めて真面目に語ったという意味で、その後の京都本の原点のような本である。併載されている、同じく京都人のイラストレーター・ひさうちみちおのイラストも、おかしい。

もう1冊は、同時期に出版され、今は文庫化されている『京都の平熱―哲学者の都市案内』(2007 鷲田清一 講談社)だ。こちらは下京区で生まれ育った、現象論・身体論というファッション世界を研究する哲学者である著者の視点から、市中を一巡する市バス206系統の周辺地区を巡りつつ、京都という都市と文化を読み解く試みである。らーめん、うどん、居酒屋など、普通の街の食事処から、通り、建物、寺社、学校、人物に至るまで、観光地とは別の素の京都を、普段の京都市民の目線で考え、語るエッセイだ。併せて写真家・鈴木理策(この人は京都人ではない)によるモノクロ写真が、普段の京都視覚イメージとして提供している。山ほどある京都本の中でも、京都という懐の深い都市を内側から捉えた知的な一冊である。たまたまだが、私的好みでここに挙げた4人の京都出身の著者のうち、女性2人がイラストレーターと漫画家であり、男性2人が共にファッションの世界に関連した仕事をしている――というように、伝統美術工芸に限らず、ヴィジュアル表現の世界と京都文化には常にどこか深いつながりを感じる。「京の着倒れ」とは、舞妓さん(装飾の極限)と修行僧(質素の極限)を両極とする、他所にはない振れ幅の大きいファッションの自由を許容する伝統が生んだものだ、という著者の説を読んで、その理由が分かった気がした

古典を含めて、京都を舞台にした「小説」は読まないが、そもそも今や存在の半分はフィクションである京都に、さらにフィクションを上塗りするような物語にはあまり興味を引かれないからだ。しかしNHKの『京都人の密かな愉しみ』は、フィクション(常盤貴子主演のドラマが軸)とノンフィクション(京都で今も続く伝統行事や文化の紹介)が同時に進行してゆくというユニークな構成で「京都人」という不思議な存在を描くテレビ番組で、こちらは2015年の初回放送以来、毎回楽しみに見てきた。ドラマと一体化した、阿部海太郎の美しいサウンドトラックのCD『音楽手帖』も買って楽しんでいるし、番組を書籍化し、背景や裏情報などをまとめた同名の本 (2018 宝島社)も読んだ。ドラマ編の主人公、「老舗和菓子屋の一人娘、跡継ぎで、いつも美しい着物姿の常盤貴子」という ”イメージ” が象徴するように、またドラマと併行して、今も生きている京都の様々な伝統行事等が紹介されるように、このフィクションとノンフィクションの絶妙な融合こそが「京都の実体」だと思ってきたので、この番組は実によく考えて作られているなと、放映中ずっと感心しながら見ていた。監督・源孝志のアイデア、脚本、演出は素晴らしいし、他の出演者たちも全員がとても良い味を出している。今はシリーズ2「Blue修業中」という別のドラマの途中で(常盤さんはもう出演していない)、今月はNHK BSで久々に新作の放送があり、また過去の放送分も集中的に再放送する予定らしいので、京都好きだが、これまで見逃していた人は、そのユニークな物語、美しい映像と音楽をぜひ楽しんでみては如何だろうか。

2018/05/25

初夏の金沢から京都を巡る

金沢「もっきりや」
2年ぶりに金沢へ行った。会社時代のOB会を定期的にやっているのだが、昔は金沢で定例会議をやっていて、そのとき一緒に酒と仕事で楽しんだメンバーが集まってやる宴会だ。金沢には1980年前後からたぶん何十回となく行っていると思うが、兼六園など12度しか行ったことがなく、よく知っているのは片町周辺の飲み屋街だけだ。そこなら目をつぶっても歩けるくらいだ。しかし、何十年も昔から通った飲み屋やバーも今はほとんど店を閉めてしまい、1軒だけ残っていたバーも今回はついに店をたたんでいた。経営者もみんな年をとるので仕方がない。水商売の宿命だ。しかし地元の馴染みの店や人がいなくなるということは、長年楽しい時間を共有していた場と記憶も一緒に消え去るということで、その土地とも縁が切れるということなのだろう。寂しいがこれも仕方がない。かつてにぎわっていた夜の片町も随分と人出が減ったように感じた。どこでもそうだが、昔みたいに毎晩のように飲みに出かけるサラリーマンの数が減ったからだろう。企業の地方支店が減ったこともある。それに銀座を見てもわかるが、かつての日本企業の交際費の威力がどれほどだったのかも思い知らされる。金沢でもその代わり町を歩く外国人の姿がだいぶ増えたようだ(ただし地元の人の話では、余り金は落とさないという)。新幹線も来て、金沢城も美しく修復・整備され、町も相変わらずきれいで清潔なので、やはり益々夜の酒より観光で生きる街になるのだろう。だが便利になった一方で、昔のようにはるばるやって来たという旅情はどうしても薄れる。雪も昔ほどには降らなくなって、酒と魚を楽しむ冬の風情もやや薄れた(地元の人には歓迎すべきことなのだろうが)。昼間、久々に兼六園に行く途中、市役所裏手にある「もっきりや」に初めて行ってみた。金沢最古のジャズ喫茶兼ライブハウスということだが、ピアノが置いてある以外、昼間はごく普通の喫茶店だった。ライブ・スケジュールを見ると、ジャズに限らずなかなかコアな人選で、今も元気に営業しているようだ。当日はノルウェーのヘルゲ・リエン(p)他のトリオが出演予定だったが、宴会と重なってしまったので、残念ながら行けなかった。

嵐山 外人和装コスプレ?
二日酔い気味のまま北陸本線で京都に移動した。せっかくなので回り道したのだ。京都は何度も行っているし、行くたびにもういいかと思うのだが、しばらくするとまた行きたくなるのが不思議である。こちらは今の銀座と同じで、それこそどこへ行っても外国人だらけだ。ごったがえす錦市場など歩いている人の9割が外国人で、残る1割の日本人のそのまた9割が修学旅行生だ。それがあちこち立ち止まって見物しているので、満員電車並みの混雑でほとんどまともに歩けない。ただし銀座と違うのはアジア系が少なく、西欧系の人が多いことだ。昔、アジアの人たちを連れて京都を案内したことがあるが、彼らがいちばん興味を示したのが安売り家電店とかそういう買い物の場所だった。聞くと、特に中国、台湾系の人たちは京都の神社仏閣を見ても別におもしろくも何ともないという。東アジアの古代文化は共通しているものが多いし、たぶん自分たちの方が先祖だと内心思っているからで、そこは韓国系の人も同じだろう。しかし今の台湾の若い人たちなどは、親近感と日本のファッションやカルチャーに関心が高いので、昔とは違うようだ。だが共通しているのは、派手な赤い鳥居の平安神宮や伏見稲荷が好きなことだろう。彼らは西洋人と違って日本的 “わびさび” に興味はなく、とにかく縁起の良さそうな場所や派手な建物が好きなのだ。それと嵐山のような風光明媚な場所が好まれるのは洋の東西を問わない。妙な和服を着たコスプレ観光客もたくさん見かけた。まあ、せっかくはるばるやって来た観光地なので、大いに楽しんでもらったらいいと思う。海外の観光地と違って、“おもてなし” 日本、特に京都では、こうした気軽なエンタテインメント性が過去は確かに不足していた。

京都「YAMATOYA」
前日の大雨があがって天気が良かったので、今回も嵐山、嵯峨野、南禅寺周辺などいつものコースを歩いたが、どこも外国人観光客で一杯だ。ところが普段ろくに歩かないのと、炎天下に水も飲まずに歩いたせいか熱中症気味になって頭が痛くなった。高齢者に熱中症になる人が多いのは、子供時代に「水を飲むとバテる」と昔の運動部などで刷り込まれた原体験が影響しているような気がする。今は知識として水分補給が大事だと頭ではわかっているのだが、水を飲むことにどこか罪悪感のようなものがあって、無意識のうちについ避けているからだ。そこで冷たいコーヒーを求めて、超有名になり、もはやジャズ喫茶とは呼べない気もするが、京都に残された数少ないジャズを流す喫茶店「YAMATOYA」に2年ぶりに行った。平安神宮裏手の路地にあって、いつも穏やかな老夫妻がやっている店だ。店内は昔のジャズ喫茶とは大違いで、木目のアップライトピアノをはじめ、京都らしくゴージャス感さえ漂う洗練された内装と調度類、大量のレコードに加え、ヴァイタボックスのスピーカーやアナログ・プレイヤーなど、これまた美しいオーディオ機器が鎮座している。音も昔のような大音量ではなく、小さな音で静かな店内に流れているだけで、何度行ってもどこかほっとして落ち着ける店だ。ジャズが流れ、ゆっくりできる、こうした雰囲気を持つ喫茶店はもう京都ではここだけだろう。ご夫妻にはいつまでも元気で続けてもらいたいものだと思う。そこに置いてあった「Rag」というライブハウスのスケジュール表で、長谷川きよしの名前を見かけた。まだ京都で暮らしているようだ。613日には誕生日ライブがあるそうだ。金沢「もっきりや」に出ていたヘルゲ・リエンの名前も、その週のライブ予定にあった。

鞍馬といえば
翌日は叡山電鉄のワンマン電車でのんびりと鞍馬寺に向かった。一度も乗ったことがなかったが、確かに京都北方の山々は奥行きが深い。徐々に山奥へと向かって行く途中、大学がいくつもあるのに驚いた。とはいえ、出町柳から鞍馬口駅まではたった30分だ。考えたら新宿駅から高尾山口に行くよりずっと近い。本殿金堂(標高410m)までの急坂を歩いて登る気はしなかったので、当然往復とも途中までだがケーブルカーを使った(寺が運営している)。それでも最後の急階段の上り下りには手こずった。もっと年を取ったら間違いなく来られないだろう。ここも参拝者の半分以上は欧米系外国人で、本殿金堂前の六芒星のところで、彼らも律儀に例のパワースポットのおまじないをやっていた。この辺りはやはり秋に来たらさぞかし景色が素晴らしいだろうと思った(大混雑は必至だろうが)。貴船神社にも行って、貴船川の川床で涼みたかったのだが、とにかくその日は暑くて行く気力が出ずやめた。

暑さで「もういや」と駄々をこねる馬
山から下りて、次に北山通の賀茂川近辺で「葵祭」の午後の部を見学した。葵祭は初めてだったが、混雑するという下鴨神社あたりは避けて、並木道で木陰のある沿道を事前に調べておいたのだ。仮装行列みたいなものだが、古(いにしえ)からの凝った装束や、道具や、飾り立てた牛車など、京都ならではののんびりとした優雅な一団の行進は確かに見ごたえがある。ところが5月なのに当日は30度を超え、余りの暑さに、重たそうな重ね着装束を着た人たちも、人を乗せた馬も、牛車を引く牛も、全員「もう堪忍してや」という顔をして歩いていた。7月の祇園祭は一度行って、文字通り蒸し風呂のような余りの暑さに二度と行かなくなったが、本来爽やかな季節のはずの5月半ばの葵祭がこんな気候では、もうやる方も見る方も、あまり楽しめなくなっているのではないか。今の5月はもう新緑も終わっているし、亜熱帯化している近年の日本の5月は、はっきり言って、もう初夏どころではなく真夏に近い日が多い。最近は春も秋も本当に短くて、あっという間に夏や冬になる。京都のいちばん良い季節も益々短くなってきているということだ。実際もうベストシーズンは4月と11月だけになっていて、そこに世界中から観光客が一気に押し寄せるのでごったがえして、とてもゆっくり観光などできない。冬がすいていていちばん楽しめると思って、一度2週間ほどゆっくり滞在しようと2月初めに企てたことがあるが、確かにすいてはいたが、余りの寒さにあっという間に風邪をひいてしまい、早々に退散した。いったい、いつ行けばいいんだ?

2017/04/30

春の高知で坂本龍馬と会う

小夏
念願の高知に初めて行った。旬のカツオを楽しみにしていたが、カツオのタタキ、ウツボのタタキ、グレのタタキ、カツオの塩タタキ…と、これでもかとタタかれ三昧だった。高知ではカツオの刺身が高知名物のショウガではなく、ワサビ付きで出るのも意外だった(ショウガは東京だけなのか)。ホタテの子供のような長太郎貝が美味だったが、地元でチャンバラ貝と呼ぶ貝は独特の味がした。どろめと呼ぶ生シラスも味わったが、のれそれ(あなご系の幼魚?)は見た目が今一つ食欲がわかないので、やめておいた。龍馬の好物だったというシャモ鍋は残念ながら機会がなかった。野菜、特にトマトは確かにうまい。芋けんぴもうまい。文旦や小夏はもちろん最高にうまい。自然に恵まれ魚も野菜も果物も新鮮なので、とにかく何を食べてもうまいが、上品さより野性味のあるうまさなのだ(ただし「小夏」は見た目も本当に清楚で、しかも味も爽やかで上品で、まさに柑橘類のプリンセスやーっ!…と彦摩呂風)。

五台山からの眺望
高知に実家のある妻の友人が、次から次へとあちこち車で案内して(引きずり回して)くれるので、どこへ行ったのかよく覚えていないほどだ。覚えているのは……到着後立ち寄った韓国料理店の庭で、目の前をイタチと思われる小動物が歩いて行った。さすが高知だ(生まれて初めて見た)。「はりまや橋」は日本3大…の噂通りだった。最初の日は大雨だったが高知城に行き天守閣まで登り、隣に新しくできた山内家所蔵品や龍馬の手紙などを展示した歴史博物館を見学し、ついでに兜や羽織のコスプレを楽しんだ。翌日からはおおむね晴れたので、桂浜や五台山からの景観を楽しんだ。上から見た高知市は山と川と海に囲まれたきれいな町だ。さらに西に向かって「いの町紙の博物館」で和紙の歴史や製法を勉強し、桜の美しい仁淀川沿いを走り、日高村で名物のトマトを使ったオムライスを食べ、佐川町へ行って「司牡丹」の酒蔵周辺を見て酒を何本か買った後、山また山を越えて南下し、須崎の先の中土佐町の海岸沿いまで行って、老夫婦がやっている地元のしゃれた喫茶店でコーヒーを飲んで、わらび餅を食べ、その後お茶まで出てきたのでびっくりした(高知ではコーヒー後のお茶は喫茶店どこでも普通らしい)。

「おっこう屋」店先
翌日今度は東に向かい、海岸沿いに走って安芸市まで行った。室戸岬まではさらに車で何時間もかかるという。高知市から足摺岬などとんでもなく遠いらしい。帰りに「絵金蔵」屏風絵で有名な(知らなかったが)、香南市赤岡町にある「おっこう(奥光)屋」というおもしろい骨董店に寄った。エルザという名前の謎(?)の女店主と友人でやっている不思議な骨董店だ。様々な陶器やガラス製品、その他諸々が所狭しと並べられている。なかなかの美人猫のいる裏庭でまったりし、コーヒーとパン、加えてタケノコの若竹煮をごちそうになった。どれもうまかった。妻が九谷の小皿を何枚か買った。

安芸近くの海
高知県の海と海岸線はとにかく広く長い。しかしどこに行っても山が海岸のすぐ近くまで迫っているので、残されたわずかな平地にしがみつくように町があり、そこに人が住んでいる。したがって南海トラフ地震を想定した津波対策の看板や避難所があちこちにある。この広さのせいかどうか知らないが、高知人はみな声がデカい。どこの飲み屋でも、ほとんどケンカしているのかと思うほど、若者も年寄りも、男も女も、そこらじゅうで大声で話している。したがってこちらも大声を出さないとよく聞こえない。高知で「静かに」飲むのは至難の業だ。小声でぼそぼそ喋る高知人は、ギャグの苦手な大阪人くらい高知では生きにくかろう。要はみな酒と、話すことが何より好きなのだ。喫茶店がやたらと多いのもそれが理由らしい。しかし、客人に対する「もてなし」の文化があるのだと思うが、受付や、飲食店やどこでも従業員の応対がとても優しい。高知人はたぶん(大部分は)温かくていい人たちだと感じた。

龍馬顔カプチーノ
後ろに迫る山と、前に広がる大海原に挟まれていると、外の世界への期待と想像は膨らみ、やはりいつか外へ出て行って一旗上げたいという気になるのだろう。だから高知の英雄はみな天下国家を語り、動かす人間だ。坂本龍馬、後藤象二郎、岩崎彌太郎、ジョン万次郎…等々。そのかわり出て行きっぱなしで、偉くなって地元に利益を還元しよう、とかいう小さいことには興味がない。思想と行動のスケールが違うのだ。また、どこへ行ってもそこらじゅうに銅像(それも立像)が立っているのも不思議だった。やはり英雄を崇める文化があるのだろうか。その代わり普通の高知の男は、酒好き、博打好き、お喋り好きで、いきなり見知らぬ人間に話しかけたりするし、朝から飲み屋で飲んでいるおっさんも多いらしい(妻の友人の話)。高知女も酒とお喋りは好きだが、働き者だという(確かにそのようだ)。

桂浜・龍馬像横顔
高知一の英雄と言えばやはり坂本龍馬だろう。龍馬が暗殺された京都近江屋跡地とか、東山にある龍馬と中岡慎太郎の墓は以前訪れたことがあるが、桂浜の坂本龍馬像ともついに対面した。像は思ったより大きく、眼前の雄大な太平洋を望んで立っている。今年は龍馬没後150年ということで銅像の隣に櫓が組まれ、龍馬の顔のあたりの位置まで登れるので、せっかくなのでもちろん上ってみた(有料100円)。ただし建築現場の足場のようで足元がグラグラしていて、しかも下が見えるので、高所恐怖症の身には怖い。だがすぐ近くで見る龍馬の横顔はなかなかよかった。(しかし、今回カメラの設定を間違って、撮った写真がみなピンボケ気味だったのが残念。)

そういうわけでイタチと坂本龍馬に出会った旅だった。今回は高知市内にある老舗のジャズ喫茶「ALTEC」にぜひ行ってみたかったが、昨年10月に閉店してしまったという。また一つジャズ喫茶の灯が消えた。代わってネットで探した「木馬」や「クレオール」というジャズ喫茶に顔を出したかったのだが、あちこち行って時間がなくて結局行けずじまいだった。高知を再訪する機会があれば行ってみたい。