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2019/06/15

Bill Evans with Horns(2)

Live at the Half Note
Lee Konitz
1959/1994 Verve
エヴァンスはクールで先進的なトリスターノ派の音楽とも相性が良さそうに思えるのだが、リー・コニッツが自伝でも述べているように、コニッツとエヴァンスの共演はあまりうまくいった例はないようだ。1959年にはVerveのコニッツのレコーディングに何度か参加し、さらにウォーン・マーシュ(ts) も参加したクインテット(ジミー・ギャリソンーb、ポール・モチアン-ds)による『Live at the Half Note(1959録音/1994リリースにも参加している。これはトリスターノとコニッツの久々の再会セッションで、クラブ「Half Note」での長期ライヴ期間中の共演だった。コニッツとマーシュは当時は好調だったし、ユニゾン・プレイを含めたここでの二人の演奏の出来は相変わらず素晴らしいと思うが、その晩トリスターノが出演できないという理由でコニッツに急遽呼ばれたエヴァンスは、代役でいきなり参加したという事情もあったのか、時おりの短いソロを除いて控えめなバッキング(ほとんど無音のときもある)に終始し、ここではまったく存在感がない。この録音のエヴァンスが適切な状況判断で音を選んでいた、という好意的なP・ペッティンガーの見方にはあまり賛同できない出来だと思う。このライヴ・セッションは、同年春の『Kind of Blue』録音と同時期で、エヴァンス的には決して調子の悪い時期だったとも思えず、むしろラファロ、モチアンとの新トリオ結成に向けて昇り調子だったはずだ。当時、トリスターノとコニッツの間の確執が背景にあった中で急遽受けた代役だったこと、あるいはエヴァンスのドラッグの問題なども関係して、当日はメンタル的にも演奏に乗れなかったのかもしれない(このレコードには、トリスターノがらみの面白い裏話がまだまだあるので、理由はいろいろ想像できる)。いずれにしろ当時売り出し中だったエヴァンスの不調を理由に、Verveはこの録音を結局お蔵入りしにし、1994年まで発表しなかった。コニッツはその後1960年代半ばに、ヨーロッパのコンサート・ライヴ(『Together Again』1965)でも共演しているが(エヴァンスは一部のみ参加、このときもエヴァンスの体調が悪く(たぶんドラッグ)パッとしない演奏に終わっている

Crosscurrents
1978 Fantasy
『Half Note』から20年近く経って、コニッツ、マーシュ、エヴァンス最後の共演となった『Crosscurrents』(1978)でも、あまり相性の良さを感じないが、コニッツはレイドバック気味の自分の演奏に対して、オンタイム (just) で弾くエヴァンスのピアノがリズム的にしっくり来なかったという表現をしている。要は、どこか追い立てられるような気配のあるエヴァンス相手だとリラックスできない、ということのようだが、78年という時期を考えると、コニッツが受けた印象は正直なものだったのかもしれない。エヴァンスの伝記を書いたP・ペッティンガーは、コニッツのピッチが徐々にシャープさを増して来たことを理由に挙げており、『Crosscurrents』では共演したウォーン・マーシュもピッチが不安定だったと、このアルバムが低評価だった理由は二人のホーン奏者のピッチだという見方をしている。確かにそう聞こえるし、コニッツも自分のシャープ気味なピッチのことは認めているが、それよりやはり基本的相性の問題、つまりハーモニーへの嗜好や、リズムへの乗り方が違うことの方が影響が大きいようにも思える。コニッツとエヴァンスは、結局のところ音楽的に相性が悪いのだと思う。Half Note』でもそうだが、柔らかなサウンドも、変幻自在の独特リズム感からも、むしろウォーン・マーシュの方が、サウンド、リズム両面でエヴァンスのピアノとはマッチしているように聞こえる。マーシュのバラード・プレイには非常に魅力があると思っているが、『Crosscurrents』でも、特に<Every Time We Say Goodbye>で、マーシュとエヴァンスによる何とも言えず不思議に美しいバラードの世界が聞ける。これも、揺れるピッチのせいだと言えないことはないかもしれないが、ふわふわと浮遊するがごとくの、この不思議なバラード演奏が私は昔から好きだ。

Stan Getz & Bill Evans
1964/1973 Verve
エヴァンスのワン・ホーン・カルテットでは、いろんな意味でいちばん楽しめ、聴きごたえがあるのは、やはりスタン・ゲッツ(ts)との共演盤だろう。ゲッツは他のテナー奏者とは才能の次元が違うミュージシャンなので、相性云々を超えて、ジャズ・レジェンド同士の演奏はやはり風格が違う。ただこの二人は、遊び人と大学教授(昔の)くらい人格の雰囲気の違いがあるので、真面目なエヴァンス的には決して真にリラックスして共演できる相手ではなかっただろうと思う。『Stan Getz & Bill Evans』(1964) は、当時ボサノヴァのヒットで絶好調だったゲッツとエヴァンスという大物同士の組み合わせだったが、両者ともに満足できない演奏があったことが理由でお蔵入りになっていたものを、1973年にVerveが(勝手に)リリースした作品だ。エルヴィン・ジョーンズ(ds)、ロン・カーター(b)、リチャード・デイヴィス(b)  が参加したこのアルバムは、エルヴィンの個性的ドラミングもあって、いかにも60年代半ばというジャズ・サウンドを感じさせ、全体として初共演としては決して悪くない出来だと思う。ただメンバー構成が異質なこともあって、互いの出方を伺うような雰囲気があり、そこがどことなく硬さを感じさせる理由だろう。(ところで、このレコード・ジャケットの日の丸らしきものには、何か意味があるのだろうか?)

But Beautiful
1974/1996  Fantasy
それから10年後に新たに録音されたのがオランダ、ベルギーでのライヴ演奏(カルテット、トリオ)を収めたCD『But Beautiful』(1974, エディ・ゴメス-b, マーティ・モレル-ds) だ。73年にリリースされた上記レコードの反響を受けて企画されたコンサート・ライヴということだが、こちらもリリースされたのは20年以上経った1996年である(もちろん二人とも亡くなった後)。ここでは相変わらず流麗でセンシティヴなゲッツのテナーと、当時はたぶんまだ元気だったエヴァンスのピアノが美しく絡んで、名人同士の絶妙のコラボレーションを聞くことができる。64年当時からは二人とも年齢と経験を重ねており、何よりエヴァンスの当時のレギュラー・トリオにゲッツが客演したライヴという条件もあって、どの曲もリラックスした心地良い演奏だ。<But Beautiful>や、<The Peacocks>などのバラードにおけるゲッツのテナーと、それを支えるエヴァンスのピアノはさすがに美しい。ゲッツとエヴァンスという大物二人の個人的相性が実際はどうだったのかはよく分からないが、ヘレン・キーンのライナーノーツによれば、トリオ演奏のために待ち時間が伸びていたゲッツが、(たぶんイライラして)登場後、予定外だった曲<Stan's Blues>をいきなり吹いて、気分を害したエヴァンスが途中で演奏を止めたという話や、次の会場ではそのお詫びの印なのか、ゲッツがエヴァンスの誕生日であることを紹介して<Happy Birthday>のメロディを吹くなど(実際にCDに入っている)、いったいどっちなのかよく分からないエピソードもある。二人仲良くにこやかに微笑むジャケット写真がその象徴なのだろうか? しかしこれも、どう見ても合成写真なのがどうも気になる……

Quintessence
1976 Fantasy
1970年代のコンボ代表作は、ハロルド・ランド(ts)、ケニー・バレル(g)、レイ・ブラウン(b)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds) というクインテットによる『Quintessence』(1976) だろう。50年代ハードバップはエヴァンスとは水と油だったと思うが、これは60年代の『Interplay』の再現のようなアルバムで、当時はすっかり枯れて渋さを増したドラムスのフィリー・ジョーのみそのままで、ジム・ホールに代ってバレルのギター、ハバードのトランペットに代ってランドのテナー、パーシー・ヒースに代って相変わらず重量感のあるブラウンのベース、というメンバーだ。どう見ても、エヴァンスではなくてオスカー・ピーターソンの方が似合いそうな組み合わせだが、フュージョン全盛の70年代半ばのこの頃は、こうした大物を集めたバップ・リバイバル的企画のレコードが数多くリリースされていた。ジャズ的緊張感こそないが、さすがに全員ベテランならではの余裕と味わいを深めた、実に安定したバンドによるリラックスできるアルバムだ。ケニー・バレルはエヴァンスとは初共演ということらしいが、やはりバレルのブルージーなギターはいつ聞いても素晴らしい。ここでのエヴァンスからは、あの神経質な昔からは考えられないほど、非常にリラックスしたムードが感じられ、おそらくベテラン・メンバーの醸し出す余裕と安定感にどっぷりと浸って演奏していたのだろう。

Affinity
1978 Warner Bros
70年代からもう1作挙げるとしたら、マーク・ジョンソン(b), エリオット・ジグモント(ds)というレギュラー・トリオに、トース・シールマンズ Toots Thielemans (harm)、ラリー・シュナイダー(as,ts,fl) が加わった異色アルバムAffinity(1978)だろう。シールマンズのハーモニカをフィーチャーした、あの時代を象徴するような肩の凝らないイージーリスニング的な聞き方もできるレコードだが、デュオ、トリオ、カルテットと編成を変えたり、エヴァンスがエレピを弾いたり、あれこれ工夫を凝らして、楽しめるアルバムに仕上がっている。体力、精神ともに安定感を欠いて行った晩年のエヴァンスのトリオ演奏に聞ける、追い立てられるような、何とも言えない切迫感や緊張感はここにはなく、シールマンズの哀愁と懐かしさ溢れる、美しいハーモニカのサウンドと共演するのを楽しむかのように、リラックスしたエヴァンスの最後の姿が浮かんで来るようだ。その意味でも、夕暮れ時に聴くのにぴったりのアルバムである。

2017/06/02

リー・コニッツを聴く #1:1950年代初期

私は前記レニー・トリスターノのLP「鬼才トリスターノ」B面のリラックスしたライヴ録音を通じて、初めてリー・コニッツ Lee Konitz (1927-) を知り、その後コニッツのレコードを聴くようになった。だが最初に買ったコニッツのレコード「サブコンシャス・リー Subconscious-Lee(Prestige) は、トリスターノのA面と同じく、当時(1970年代)の私には、リズムも、音の連なりも、それまで聴いていたジャズとまったく違う不思議な印象で、最初はまるでピンと来なかった。それもそのはずで、「鬼才トリスターノ」B面のコニッツの演奏は1955年当時のもので、師の元を離れて3年後、既に自らのスタイルを確立しつつある時期の演奏であり、一方「サブコンシャス・リー」はその5年も前の1949/50年の録音で、まだトリスターノの下で「修行中」のコニッツの演奏が収録されたものだったからだ。

Subconscious-Lee
1949/50 Prestige
1940年代後半は、全盛だったビバップの気ぜわしい細切れコードチェンジとアドリブ、派手な喧騒に限界を感じたり、誰も彼もがパーカーやバド・パウエルの物真似のようになった状況に飽き足らなかったミュージシャンが、それぞれ次なるジャズを模索していた時代だった。マイルス・デイヴィス、ジェリー・マリガンやレニー・トリスターノもその中心にいたが、3人ともビバップの反動から、より構造を持ち、エモーションを抑えた、知的な音楽を指向していた。当時リー・コニッツもマイルス、マリガンと「クールの誕生」セッションに参加するなど、彼ら3人と密接に関わりつつ、レスター・ヤングとチャーリー・パーカーという巨人2人から継承したものを消化して、自らの音楽を創り出そうと修練している時期だった。Prestigeのボブ・ワインストックがリー・コニッツのリーダー・アルバムを作る提案をしたが、当初予定していたトニー・フラッセラ(tp) との共演話が流れ、結果としてコニッツがトリスターノやシェリー・マン(ds)に声をかけ、師匠とビリー・バウアー(g)、ウォーン・マーシュ(ts)等トリスターノ・スクールのメンバーも参加して、1949/1950年にSPで何度かに分散して吹き込まれた録音を集めたのがアルバム「Subconscious-Lee」である。またこれはPrestigeレーベルの最初のレコードとなった。そういうわけで当初はトリスターノのリーダー名で発表されたようだが、後年コニッツ名義に書き換えられたという話だ。

1950年前後に録音された他のジャズ・レコードを聴くと、このアルバムの演奏が、ビバップに慣れた当時の聴衆の耳に如何に新しく(奇異に)響いたかが想像できる。ここでのトリスターノ、コニッツとそのグループのサウンドと演奏は、今の耳で聴いてもまさに流麗で、スリリングで、かつ斬新だ。アルバム・タイトル曲で、コニッツが作曲した複雑なラインを持つ<Subconscious-Lee>は、今ではコニッツのテーマ曲であり、かつジャズ・スタンダードの1曲にもなっている。また得意としたユニゾンとシャープな高速インプロヴィゼーションのみならず、<Judy>や<Retrospection>のようなバラード演奏における陰翳に満ちたトリスターノのピアノも美しい。トリスターノ派の演奏は、その時代なかなか理解されず、難解だ、非商業的だ、ジャズではない等々ずっと言われ続けていたが、まさにアブストラクトなこれらの演奏を聴くとそれも当然かと思う。1950年という時代には、彼らの感覚が時代の先を行き過ぎているのだ。当時20代初めだったイマジネーション溢れるコニッツは、ここでは疑いなく天才である。彼の若さ、SPレコードを前提にした1曲わずか3分間という時間的制約、そしてトリスターノ派の即興に対する思想と音楽的鍛錬が、このような集中力と閃きを奇跡的に生んだのだろう。個人的感想を言えば、トリスターノとコニッツは、このアルバムで彼らの理想とするジャズを極めてしまったのではないか、という気さえする。

Conception
1949/50 Prestige
同時期1949年から51年にかけての録音を集めたPrestigeのコニッツ2枚目のアルバムが「コンセプション Conception」だ。オムニバスだが単なる寄せ集めというわけではなく、当時一般に ”クール・ジャズ” と呼ばれ、ビバップの次なるジャズを標榜して登場し、その後のハードバップにつながる、ある種の音楽的思想を持ったジャズを目指したプレイヤーの演奏を集めたものだ。リー・コニッツが6曲、マイルス・デイヴィスが2曲、スタン・ゲッツが2曲、ジェリー・マリガンが2曲、とそれぞれがリーダーのグループで演奏している。当時コニッツのサウンドを評価していたマイルスは「クールの誕生」でも共作・共演しており、コニッツ名義のこのレコーディングにマイルスも参加したもので、コニッツとマイルス唯一のコンボでの共演作だ。ジョージ・ラッセルが斬新な2曲を提供していて、名曲<Ezz-Thetic>はこれが初演である。コニッツはまだトリスターノの強い影響下にある時代で、師匠はいないがスクールのメンバーだったサル・モスカ (p)、ビリー・バウアー (g)、アーノルド・フィシュキン (ds) もここに参加している。サル・モスカなどトリスターノそのもののようだし、初期の独特の硬質感と透明感を持つ、シャープかつ流れるようななコニッツのアルト・サウンドも素晴らしい。マイルスの参加で、トリスターノ色が若干薄まってはいるが、それでもコニッツ・グループの6曲の演奏を聞いた後では、マイルス、ゲッツ、マリガンの他のグループの演奏が今となっては実に「普通のジャズ」に聞こえる(主流という意味)。こうして並べて聞くと、コニッツたちが「クール」という一緒くたの呼び名を嫌った理由もわかるが、しかし当時(昭和25年である)はここに収められたどのグループの演奏も非常に「モダン」であったはずで、コニッツがいささか(当時のジャズを)突き抜けた存在だったということだろう。どの演奏もとても良いので、そういう歴史的な視点も入れて聞くとより楽しめるアルバムだ。

Konitz Meets Mulligan
1953 Pacific Jaz
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リー・コニッツとジェリー・マリガンGerry Mulligan (1927-96) は、ギル・エヴァンスと同じくコニッツが1947年にクロード・ソーヒル楽団に入ったとき以来の付き合いだ。マイルス・デイヴィスの「クールの誕生」バンドでの共同作業を経て、コニッツがスタン・ケントン楽団に入団してからも、マリガンは楽団へのアレンジメント楽曲の提供と共演を通じてコニッツと親しく交流していた。1953年、ケントン楽団在籍中のコニッツに、既にLA在住だったマリガンが、当時チェット・ベイカーChet Bakerと一緒に出演していたクラブ「Haig」へ出演しないかと声を掛け、3人を中心にしたピアノレス・コンボの活動を始めた。「コニッツ・ミーツ・マリガンKonitz Meets Mulligan」(1953 Pacific Jazz)は、この時の「Haig」でのライヴ演奏をPacific Jazzのリチャード・ボックとマリガンが録音したものに、他のスタジオ録音を加えてリリースされたものだ。3人の他にマリガンのレギュラー・リズム・セクションだったカーソン・スミス(b)、ラリー・バンカー(ds) が加わったクインテットによる演奏である。

コニッツはその前年にトリスターノの元を離れ、それまでとまったく肌合いの異なるコマーシャル・ビッグバンド、それも重量級のケントン楽団のサックス・セクションに所属していた。そこで強烈なブラス・セクションの音量と拮抗するという経験を経て、それまでの透明でシャープだが線の細い、コニッツ固有のアルトサックスの音色に力強さと豊かさを加えつつあった。トリスターノ伝来のインプロヴィゼーション技術に、ビル・ラッソらによるケントン楽団のモダンで大衆的なアレンジメントの演奏経験が加わり、さらにそこに力強さが加味されたわけで、そのサウンドの浸透力は一層高まっていた。このアルバムに聴ける、マリガンもベイカーの存在もかすむような、まさに自信に満ち溢れた切れ味鋭い、縦横無尽とも言うべきコニッツのソロは素晴らしいの一言だ。中でも <Too Marvelous for Words> と<Lover Man>における流麗でクールなソロは、コニッツのインプロヴィゼーション畢生の名演と言われている。またコニッツ生涯の愛奏曲となる <All the Things You Are>も、ここではおそらく最高度とも言える素晴らしい演奏だ。「Subconscious-Lee」の独創と瑞々しさに、その後につながる飛翔寸前の力強さが加わったのが、このアルバムでのコニッツと言えるだろう。この後50年代半ばまでコニッツは絶頂期とも言える時期を迎え、ジャズ誌のアルトサックス部門のポール・ウィナーをチャーリー・パーカーと争うまでに人気も高まり、初の自身のバンドを率い(Storyville時代)、さらにAtlanticというメジャー・レーベル時代に入ることになる。

2017/05/15

Bossa Nova(番外編): ボサノヴァ・コニッツ

ボサノヴァ特集(?)の最後を飾るのは、やや好事家向けになるがジャズ・アルトサックス奏者リー・コニッツのボサノヴァだ。コニッツはブラジル音楽、とりわけアントニオ・カルロス・ジョビンのファンだったが、同業者のスタン・ゲッツが1960年代初めにテナーでボサノヴァを取り上げて大ヒットさせたこともあって、以来自分では手をつけてこなかったそうである(自伝での本人談。悔しかったのか?)。しかし1980年代から第2期黄金期を迎えていた(と私は思う)コニッツは、60歳を過ぎた1989年にブラジル人ミュージシャンと作った「リー・コニッツ・イン・リオ」(M.A.Music)を皮切りに、そのスタン・ゲッツの葬儀(1991年)で出会ったラテン音楽好きの女性ピアニスト、ペギー・スターン Peggy Stern (1948-) と活動を開始したこともあって、90年代に入ってからブラジル音楽を取り上げた作品を積極的にリリースした。ただし、それらはいずれもジャズ・ミュージシャン、リー・コニッツ流解釈によるブラジル音楽であり、”普通の” ボサノヴァを期待すると面食らうこともある。

ペギー・スターン(p, synt)とのデュオ「ジョビン・コレクションThe Jobim Collection」(1993 Philology)は、アントニオ・カルロス・ジョビンの作品のみを演奏したアルバムだ。非常に評判が良かったらしいが、Philologyというイタリアのマイナー・レーベルでの録音だったこともあって発売枚数が少なく、今は入手しにくいようだ(私も中古を手に入れた)。ゲッツから遅れること30年、ようやく手掛けたボサノヴァとジョビンの名曲の一つひとつを楽しむかのように、コニッツにしてはアブストラクトさを控え、珍しく感傷と抒情を衒いなく表した演奏が多い (本人もそう認めている)。コニッツならではの語り口による陰翳に富んだボサノヴァは、これはこれで非常に魅力的である。またデュオということもあって、各曲ともほとんど3分から5分程度で、ブラジル音楽を取り上げた他のバンドによるアルバムに比べ、メロディを大事にしながらどの曲もストレートに歌わせているところも良い。ペギー・スターンはピアノとシンセサイザーを弾いているが、どの曲でも非常に美しくモダンで、かつ息の合ったサポートでコニッツと対話している。馴染み深いジョビンの有名曲が並びどれも良い演奏だが、ここではメロディのきれいな<Zingaro>、<Dindi>、コニッツ本人も好きだと言う<Luiza>での両者のデュオが特に美しい。

その後コニッツは、日本のヴィーナス・レーベルからボサノヴァのアルバム「ブラジリアン・ラプソディ」(1995)と「ブラジリアン・セレナーデ」(1996)という2枚のレコードをリリースしている。「ラプソディ」にはペギー・スターンがピアノで参加し、「セレナーデ」はトランペットのトム・ハレル、ブラジル人ギタリストのホメロ・ルバンボ、ピアノのデヴィッド・キコスキー他を加えた2管セクステットによるジャズ・ボッサで、こちらも8曲中5曲がアントニオ・カルロス・ジョビンの有名作品だ。ジョビンの曲は、基本的にジャズ・スタンダードのコード進行を元にしているので、ジャズ・ミュージシャンにとっては非常に馴染みやすいのだという。だが、そのメロディはやはりどの曲もブラジルらしい美しさに満ちている。他の3曲は、<リカード・ボサ・ノヴァ>、トム・ハレルとコニッツのタイトル曲がそれぞれ1曲で、このレコードではいずれもオーソドックスなジャズ・ボッサを演奏している。

もう1枚はマイナー盤だが、コニッツが ”イタリア人” のボサノヴァ歌手兼ギタリストのバーバラ・カシーニ Barbara Casini (1954-)と、ボサノヴァの名曲をカバーしたトリオによるアルバム「Outra Vez」(2001 Philology)だ。ギターに同じくイタリア人のサンドロ・ジベリーニ Sandro Gibelini がガットとエレクトリック・ギター両方で参加している。バーバラ・カシーニは初めて聴いたが、コニッツがそのタイム・フィーリングの素晴らしさを称賛しているだけあって非常に良い歌手だ。声はジョイス Joyce (1948-)に似ているが、かすかにかすれていて、しかし良く通るきれいな歌声だ。小編成のボサノヴァ演奏ではガット・ギターが普通で、エレクトリック・ギターは珍しいと思うが、ジベリーニはまったく違和感なくこなしていて、ジム・ホールを彷彿とさせる柔らかく広がる音色が全体を支え、カシーニの歌声、コニッツのアルトサックスの音色ともよく調和している。このCDではコニッツがアルトに加えて、なんと2曲スキャットで(!)参加している。このコニッツのヴォーカルをクサしているネット記事を見かけたことがあるが(このCDを聴いていた人がいるのにも驚いたが)、私は「悪くない」と思う。うまいかどうかは別にして、録音当時73歳にしてリズム、ラインとも実に味のある ジャズ” ヴォーカルを聞かせていると思う。まず「歌う」ことがコニッツのインプロヴィゼーションの源なので(自伝によれば)、歌のラインは彼のサックスのラインと同じなのだ。半世紀前のカミソリのように鋭いアルトサウンドを思い浮かべて、カシーニをサポートするたゆたうような優しいサックスとヴォーカルを聴いていると、過ぎ去った月日を思い、まさにサウダージを感じる。

2017/05/09

Bossa Nova #3:ジャズ・ボッサ

ジャズ・ボッサ系のインストものと言えば、やはりギターを中心にしたアルバムを聴くことが多いが、唯一の例外が、毎年夏になると聴いている、ストリングスの入ったアントニオ・カルロス・ジョビン Antonio Carlos Jobim (1927-94) の「波 Wave」(1967 A&M) だ。ジャズファンでなくとも誰でも知っている超有名なアルバムだがジョビンの書いたボサノヴァの名曲が、ストリングスの美しい響きとジョビンのピアノ、リラックスしたリズムで包まれたイージーリスニング盤である(制作はクリード・テイラー)。全編爽やかな風が吹き抜けるような演奏は、非常に気持ちが良くて何も考えたくなくなる。いつでも聴けるし、おまけに何度聴いても飽きない。(そう言えば夏だけでなく1年中聴いているような気もする。)ジョビンのこのアルバムに限らず、よくできたボサノヴァにはやはり人を穏やかな気分にさせるヒーリング効果があると思う。

ジェリー・マリガン Gerry Mulligan (1927-96) が女性ヴォーカルのジャンニ・デュボッキJane Duboc (1950-)と組んだ「パライソ Paraiso(楽園)」(1993 Telarc) は、スタン・ゲッツとブラジル人ミュージシャンがコラボした1960年代の作品に匹敵する素晴らしいアルバムだと思う。1曲目<Paraiso> のワクワクするようなサンバのリズムで始まる導入部から最後の曲<North Atlantic Run> まで、タイトル通り全編とにかく明るく開放的なリズムと歌声、美しいサウンドで埋め尽くされている。唯一の管楽器であるジェリー・マリガンのバリトンサックスに加え、他のブラジル人ミュージシャンたちによるギター、ピアノ、ドラムス、パーカッション各演奏それぞれが強力にスウィングしていて、音楽的な聴かせどころも満載である。またジャズにしてはいつも「音が遠い」Telarcレーベルの他のアルバムと違い、空間が豊かでいながら、声と楽器のボディと音色をクリアーに捉えた録音も素晴らしく、とにかく聴いていて実に気持ちのいいアルバムだ。ブラジル人作曲家ジョビン、モラエス、トッキーニョの3作品以外の8曲は、マリガンがこのアルバムのために書き下ろした自作曲にデュボッキがポルトガル語の歌詞をつけたものだという。マリガンのバリトンサックスの軽快で乾いた音色と、デュボッキの透き通るような歌声が、聴けばいつでも 「楽園」 に導いてくれる "ハッピージャズ・ボッサの傑作である。

「ジャズ・サンバ・アンコール Jazz Samba Encore」(1963 Verve) は、スタン・ゲッツ(ts) がチャーリー・バード(g)と共演してヒットさせた「Jazz Samba」(1962 Verve) の続編という位置づけのアルバムだ。アメリカ人リズム・セクションも参加しているが、ピアノにアントニオ・カルロス・ジョビン、ギターにルイス・ボンファ Luiz Bonfá (1922-2001) 、ヴォーカルにマリア・トレード Maria Toledo (当時のボンファの奥さん)というブラジル人メンバーが中心となって、ジャズ色の強い”アメリカ製”ブラジル音楽といった趣の強かった「Jazz Samba」に比べ、よりブラジル色を打ち出している。当時のスタン・ゲッツはゲイリー・マクファーランド(vib)、チャーリー・バードらと立て続けに共演してブラジル音楽を録音しており、ボンファたちとこのレコードを録音した翌月に吹き込んだのが、ジョアン&アストラッド・ジルベルトと共演した「Getz/Gilberto」だった。ルイス・ボンファは「カーニバルの朝」の作曲者としても知られるブラジルの名ギタリストで、このアルバムでもボンファのギターには味わいがある。ジルベルト夫妻盤にも負けない、この時代のベスト・ジャズ・ボッサの1枚。

イリアーヌ・イーリアス Eliane Elias (1960-)はクラシック・ピアノも演奏するブラジル出身のジャズ・ピアニストだ。80年代にランディ・ブレッカーと結婚して以降、その美貌もあってボサノヴァのピアノやヴォーカル・アルバムをアメリカで何枚も出している。ヴォーカルは私的にはあまりピンと来ないが(このアルバムでも1曲歌っている)、ピアノはクラシック的な明晰なタッチと、ブラジル風ジャズがハイブリッドしたなかなか良い味があると思う。中でもアントニオ・カルロス・ジョビンの曲を取り上げ、エディ・ゴメス(b)とジャック・デジョネット(ds)、ナナ・ヴァスコンセロス(perc)がバックを務めた初期の「Plays Jobim」(1990 Blue Note) は愛聴盤の1枚だ。彼女をサポートする強力な3人の技もあって、ジョビンの静謐なムードを持つ美しい曲も、快適にスウィングする曲も、どちらも非常に楽しめるピアノ・ボッサ・アルバムだ。

もう1枚は超マイナー盤だが、のんびりと涼しい海辺で聴きたくなるような、ギターとピアノのデュオによるイタリア製ボッサ・アルバムSossego」(2001 Philology)だ。ポルトガル語のタイトルの意味を調べたら平和、静か、リラックスなどが出てくる。多分「安息」が最適な訳語か。そのタイトルに似合うスローなボサノヴァと、<Blue in Green>などのジャズ・スタンダードの全13曲をほぼデュオで演奏したもの。ギターはイリオ・ジ・パウラ Irio De Paula(1939-)というブラジル人で、70年代からイタリアで活動しているギタリスト。ピアノのレナート・セラーニ Lenato Sellani (1926-)はイタリアでは大ベテランのジャズ・ピアニストだ。調べたら二人ともイタリアで結構な数のアルバムをリリースしている。録音時は二人とも60歳過ぎのベテラン同士なので、当然肩肘張らないリラックスした演奏が続く。人生を知り尽くした大人が静かに対話しているような音楽である。聴いていると、海辺の木陰で半分居眠りしながら夢でも見ているような気がしてくる。この力の抜け具合と、涼しさを感じさせるサウンドが私的には素晴らしい。

2017/05/06

Bossa Nova #2:ジョアン・ジルベルト

アントニオ・カルロス・ジョビンと並んで、ジョアン・ジルベルト João Gilberto (1931-) はボサノヴァそのものだ。というか歌のボサノヴァとはジョアン・ジルベルトのことだ、と言ってもいいくらいだ。「ジョアン・ジルベルトの伝説」(1990 World Pacific) というレコードは、ジョアンの初期1959年から60年代初めの頃の3枚の作品を編集した全36曲からなるアルバムだったが、ジョアンの承諾なしに発売したため訴訟問題となって現在は再発できない状況らしい。しかしカルロス・ジョビンの代表曲<想いあふれて Chega de Saudade>から始まるこのレコードは、まさにボサノヴァの名曲のオンパレードで、全曲を通して若きジョアン・ジルベルトの瑞々しい歌声と、ボサノヴァ・ギターの原点というべきあの独特のシンコペーションによるギター・プレイが聴ける。「ボサノヴァとは何か」と聞かれたら、このレコードを聴けと言えるほど素晴らしい内容である。今は中古で探すか、バラ売りされている初期レコードのCDを探すしかないようだ。(同じタイトルで現在ユニヴァーサルから出ている別ジャケットCDは、ジョアン公認と書かれているが、収録内容は異なるようだ)


「ゲッツ/ジルベルト Getz/Gilberto」(1963 Verve)は、当時ヨーロッパから帰国し、ギターのチャーリー・バード Charlie Byrd (1922-99)と共演した「ジャズ・サンバ Jazz Samba(Verve 1962) 他でブラジル音楽に挑戦していたテナーサックス奏者、スタン・ゲッツとジョアン・ジルベルトがアメリカで共作した歴史的名盤だ。録音時ジョアンはこのコラボには満足していなかったようだが(ジャズとボサノヴァの感覚の違いだろう)、結果としてこのレコードはアメリカで大ヒットしてグラミー賞を受賞する。アントニオ・カルロス・ジョビンもピアノで参加し、クールなゲッツのサックスも気持ちの良い響きだし、ジョアンも、当時の妻アストラッド・ジルベルトともに若く瑞々しい歌声がやはりいい。特にアストラッドが英語で歌った<イパネマの娘>が大ヒットし、この後Verveに何枚かゲッツとの共作が吹き込まれている。演奏されたどの曲も超有名で、今やジャズ・ボッサの古典だが、ジャズという音楽とプレイヤーを媒介にしたこのアルバムの大ヒットが起点となって、その後ボサノヴァがワールド・ミュージックの一つとしてブレイクしたのは紛れもない事実である。半世紀経った今聴いても新鮮な響きを失わないという一点で、このアルバムが時代を超えた真にすぐれた音楽作品であることが証明されている

ジョアン・ジルベルトはその後も多くの素晴らしいレコードを残しているが、私はどちらかと言えばスタジオ録音よりライヴ・アルバムが好みだ。ジャズもそうだが、ライヴにはスタジオでの緊張感や「作られ感」がなく、中にはミスしたり完成されていない演奏もあるのだが、一般に伸び伸びとした解放感が感じられ、聴衆の反応と呼吸を合わせてインスパイアされるプレイヤーの「喜び」のようなものが聞こえてくるからだ。演奏や録音の出来不出来より、そうした現場感がなによりリアルで楽しいのである(もちろん実際のライヴ会場にいるのが最高なのだが)。特にジョアンのような音楽は、聴き手あっての場がやはりふさわしいと思う。ジョアンのライヴ録音と言えば、1985年のモントルー・ジャズ祭での「ジョアン・ジルベルト・ライヴ・イン・モントルー João Gilberto Live in Montreux」が素晴らしいライヴ・アルバムだ。若い時代のような瑞々しさはないが、ここでは実に円熟した歌唱が聞ける。会場の盛り上がる反応もよく捉えられていて、それでジョアンが乗ってくる様子もよくわかる。何よりギター1本と歌だけで、これだけのステージをやれるというのがとにかくすごい。


もう1枚のライヴ・アルバム「Eu Sei Que Vou Te Amarはそれから9年後の1994、ジョアン64歳の時のブラジル・サンパウロでのライヴ録音である。TV放送とか、たぶん収録曲数を増やすために編集されているので、終わり方や曲間が不自然な部分もあるが、そこはブラジル製(?)と思えば気にはならない。また声もギターの音もクリアで、ナチュラルに録れており、響きも良い。客人の立場だったモントルーと違い、地元の聴衆を前にしているせいか、どことなく気楽さが感じられるし、歳は取ったが声もギターの調子もこの日は良いようだ(たぶん?)。あまり気にしたことはないが、やはりポルトガル語の歌詞による微妙な表現のおもしろさとか歌唱技術は、現地の人にしかわからないニュアンスというものがあるのだろう。とにかく非常にリラックスしたジョアンの歌とギターによる名曲の数々が、ライヴ会場にいるかのように楽しめる1枚だ。

2017/04/21

優しき伴走者:デューク・ジョーダン

バド・パウエルやケニー・ドリューと並んで、アメリカからヨーロッパに移住したピアニストの一人がデューク・ジョーダン Duke Jordan(1922-2006)だ(ジョーダンは1978年にコペンハーゲンに移住)。1940年代後半にチャーリー・パーカーのグループで活動し、パーカーのダイアル盤では短いが実に美しいイントロを弾く初期のジョーダンの演奏が聞ける(その当時に知り合った白人歌手、シーラ・ジョーダンと1952年に結婚している。1962年離婚)。ボクサーになろうかというくらい腕っぷしが強かったようだが、反対に性格は優しく人柄の良い人だったようだ。彼の音楽を聴けばそれは誰でもわかる。映画「危険な関係」の作曲者の件でダマされた(?)のも、そういう人物だったからなのかもしれない。50年代前半にはテナー奏者スタン・ゲッツ (1927-1991)の伴奏者として多くのアルバムに参加しているが、絶頂期だったゲッツの当時の名盤の1枚「スタン・ゲッツ・プレイズ Stan Getz Plays」(1952 Verve/ Jimmy Raney-g, Bill Crow-b, Mousie Alexander-ds)で、美しく流麗なゲッツのソロの背後で、目立たずに優しく抒情的な雰囲気を作り出しているのは、間違いなくジョーダンのピアノである。

数多いジャズ・ピアニストの中でも、デューク・ジョーダンはトミー・フラナガンと並ぶイントロの名人である。2人とも長い活動期間を通じて数多くの作品に参加しているが、しゃしゃり出ずいつも控えめでいながら、そのイントロやメロディ・ラインの美しさで必ず聴く者をはっとさせ、そしてどの演奏も常にジャズのフィーリングに満ちているところも同じだ。そこに日本の優れた職人気質と共通の美意識を感じることから、私はトミー・フラナガンを「誇り高きジャズピアノ職人」と称しているが、同じ理由でデューク・ジョーダンもその職人仲間である。けれどフラナガンの近寄りがたいほどの「誇り」と都会的洗練に対し、美しいがもっと親しみやすく、素朴でどこか人肌の温かさを感じるのがジョーダンなのだ(日本の職人さんにもいますね、両方のタイプが)。早いパッセージでもスローな曲でもそれは変わらず、いつでも人間味の感じられる演奏がジョーダンの魅力だ。フラナガンもジョーダンも、ピアニストとしてジャズ史に残るような芸術家ではないが、2人のどの演奏からも、誰もがジャズの魅力を感じとることのできる素晴らしいジャズ演奏家だ。

デューク・ジョーダンがリーダーのアルバムも数々聴いてきた。Blue NoteSignal1978年のデンマーク移住後の多くのSteeple Chase盤、後年の日本での何作かの録音など(「Kiss of Spain」他)、ジョーダンは70年代以降非常に多くのトリオ・アルバムを吹き込んでいるが、ピアノ・トリオとしてのアルバム完成度は、初のヨーロッパ録音で、印象的なアルバム・ジャケットで知られる「フライト・トゥ・デンマーク Flight To Denmark」(1973 Steeple Chase/ Mads Vinding-b、Ed Thigpen-ds)がやはり一番だろう。アルバム全体から聞こえてくる哀愁とでも呼びたい抒情と優しいメロディは、いかにも日本人が好むもので、他のピアニストには決して出せない類の情感だ。このアルバムはどの演奏も耳に心地よいが、特に「バルネ」でのウィランとの共演や、その後もジョーダンが何度も弾いている愛奏曲〈Everything Happens to Me〉は、実にしみじみとして美しく、このアルバムでのエレガントな演奏が最高だと思う。マット・デニス (vo) の曲で、本人を含めて様々なミュージシャンがインストでカバーしているが、私はデューク・ジョーダンの演奏がいちばん好きだ。ジョーダンはこのレコードの評価によって、タクシー運転手をするなど苦しかった60年代の生活からやっと抜け出してジャズ・シーンに復帰し、その後はデンマークに移住してSteeple Chaseに多くのアルバムを残すのである。

とはいえ、どうしても最後に私が戻ってくるのは、フランスのSwing/Vogueレーベルからリリースされた初リーダー作「デューク・ジョーダン・トリオ」(1954/ Gene Ramey-b, Lee Abrams-ds)である。この素朴なピアノ・トリオには、上に述べたジョーダンの資質が見事に凝縮されていて、シンプルで美しく、どことなく哀愁の漂う、そしてよく歌うメロディ…とジョーダンの原点のような演奏ばかりだ。チャーリー・パーカーも絶賛したイントロで有名な〈Embraceable You〉、そして美しいバラード〈Darn That Dream〉 など、何度聴いてもしみじみするいい演奏なので、ジョーダンを聴いていると結局最後はいつもこの地味なアルバムに戻ってくるのだ。”しみじみしたい”人は、ぜひデューク・ジョーダンを聴いてみてください。

2017/03/21

アメリカ人はジャズを聴かない

Bill Evans
Waltz for Debby
1961 Riverside
・・・と言うと身も蓋もないように聞こえるが、勤めていた合弁企業の親会社がアメリカ北部の田舎町にある企業だったので、これは私の非常に狭い体験から出てきた結論である。1980年代までは、親会社には黒人や南米系の従業員やマネジャーもいたのだが、90代以降になってからは、数百人はいた本社事務所はほぼ米国系、ヨーロッパ系(駐在)の白人ばかりになった。その間付き合ったアメリカ人でジャズを聴いていた人は知る限り1人だけで、あとはヨーロッパ系の人間が2人だけいた。一般にヨーロッパ系の人間の方が、ジャズ好きが多いように思う。そのうちの1人(ベルギー人)の家に行って、彼のステレオでジャズのCDを一緒に聴いたりした。田舎町で隣家を気にする必要がまったくないので、イギリス製ステレオ装置のボリュームをいくら上げても構わないというのが実に爽快だったことを覚えている。それと、ビル・エヴァンスのライヴ盤「Waltz for Debby」も聴いたのだが、自分の家で聴くのとまったく違う音楽に聞こえるという不思議な体験をした。「ヴィレッジ・ヴァンガード」で、グラス同士がカチカチとぶつかり合うあの音も妙にリアルだった。たぶん再生装置だけでなく、周囲の静寂(SN比)と、家の広いスペースがそう感じさせたのだろう。

彼らは何を聴いているのか、というと大抵はポピュラー音楽か、カントリー音楽だった。若い人たちは当然ロックを聴いていたのだろう。田舎町ということもあって、ジャズクラブなど無論ないし、ジャズのコンサートなどもほとんどなかったようだ(知る限り)。小さなライヴ・ハウスのようなものもあったが、そこでは主にカントリーが演奏されていたようだ。その町にカラオケが登場したのもずいぶん後になってからで、日本で一緒に出掛けた経験からすると、音感も含めて大抵の人の歌は下手くそだった。日本人の足元にも及ばない。だがこれをもって、アメリカ人は歌が下手だ・・・とは一概に言えないだろう。子供の頃からしょっちゅう歌っている日本人と違って、そういう場と訓練がないのだから仕方がない。ひょっとして生バンドが伴奏したら、アメリカ人の方が乗りもよく、上手いということだってあるだろう(ないか?)。日本のジャズファンが千人に1人だとすると、アメリカ(あくまでこの地方)では、5千人から1万人に1人くらいの感覚だろうか(まったく根拠はないが)。ニューヨークやシカゴのような都会に行けば、人種構成も多彩になるし音楽環境もあるので、もっと数は多いのだろうが、それでも人口比はあまり変わらないのかもしれない。若い人がジャズを聴かないのは日本と同じだろう。毎日、世界で起きていることが瞬時にわかるような、世の中全体が蛍光灯で隅々まで明るく照らし出されたような時代にあっては(これはアメリカナイズと同義だ)、「陰翳」(もはや死語か)というものを感じ取る感性がまず退化するだろうし、クラシックであれジャズであれ、それを魅力の一つにしてきた音楽への関心も薄れるのは当然か。

Lennie Tristano
Tristano
1955 Atlantic
アメリカにおけるモダン・ジャズの物語を読んだり、見たりしても、主役の黒人ミュージシャンたちを除くと、登場するのはほぼユダヤ系かイタリア系の白人だけだ。レニー・トリスターノのような天才やジョージ・ウォーリントンのようなイタリア系の有名ピアニストも何人かいるが、イタリア系はたとえばジャズクラブ「ファイブ・スポット」のオーナーだったテルミニ兄弟とか、やはりビジネス業界側が中心のようだ(「ゴッドファーザー」の世界)。一方ユダヤ系の白人はリー・コニッツやスタン・ゲッツのような有名ミュージシャン、ブルーノートのアルフレッド・ライオンのようなプロデューサー、レナード・フェザーのような批評家、その他ショー・ビジネスの関係者など各分野にいる。とりわけ映画も含めて、アメリカの芸術、音楽、ショー・ビジネス全般におけるユダヤ系の人たちの影響力は、我々の想像をはるかに超える範囲に及んでいる。一方のアメリカの中枢、いわゆるWASP系は、そういう世界では影が薄いようだ。ちなみに親会社があった北部の町は、調べた限り、現在その地域の住民の95%は白人であり、そのおよそ半分はドイツ系、イギリス系の祖先を持つ。しかしモンクのパトロンだったニカ男爵夫人が、イギリス生まれのユダヤ系(ロスチャイルド家)の人物であり、マネージャーだったハリー・コロンビーがドイツ系のユダヤ人移民だったことを考えると、こうした統計の意味も単純ではない。今更だが、「日本人は・・・」と言うように、一言で「アメリカ人は・・・」とは言えない複雑な背景がアメリカという国にはある。ジャズはそういう国で生まれ育った音楽なのである。にしても、大統領がトランプとは・・・。