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2017/10/25

モンクを聴く #11 : Play with Monk (1957-58)

モンクが共演したり、サイドマンとして客演したレコードはそう多くない。マイルス・デイヴィスのプレスティッジ盤(1954) の一部、ソニー・ロリンズのブルーノート盤(1957) の一部、アート・ブレイキーのアトランティック盤(1957) などがそうだが、ロリンズ、ブレイキーの場合は、いわばモンクの弟子のような存在でもあったので、マイルス盤を除くと平等の立場での共演とは言い難い。そのマイルス盤も、モンクの曲以外ではマイルスのソロのバックではモンクが弾いていないので曲数は限られる。だがリバーサイド時代に、モンクはそうした共演盤を2作残している。

Mulligan Meets Monk
(1957 Riverside)
第18章 p353
その1枚がジェリー・マリガン Gerry Mulligan (1927-96) と共作した『マリガン・ミーツ・モンク Mulligan Meets Monk』1957812,13日録音)である。本書によれば、初訪問となった1954年のパリ・ジャズ祭で、現地リズムセクションとの即席トリオで出演後、批評家や聴衆の評判が悪くて落ち込み気味のモンクをただ一人慰めたのが、当時は既にクール・ジャズのスターであり、その日の主役ミュージシャンとして出演していたジェリー・マリガンだったという。マリガンは非常にバーサタイルなバリトンサックス奏者で、どんな相手にも合わせられる懐の深いミュージシャンだが、それだけではなく、ピアニスト、作曲家、アレンジャーでもあり、1940年代末のクロード・ソーンヒル楽団、マイルスとギル・エヴァンスの「クールの誕生」バンド、さらに50年代初めのスタン・ケントン楽団時代を通じて多くの楽曲をバンドに提供している。だからマリガンはモンクの音楽の独創性を、おそらく当時から既に深く理解していたのだろう。パリでのコンサート後、短いジャムセッションでの共演を通じて、モンクもまたマリガンの才能をすぐに見抜いたに違いないと思う。その時以降、親しく交流していた二人の関係を知ったリバーサイドのオリン・キープニューズが、マリガンの要望を受けてモンクとの共作としてNYでプロデュースしたのがこのアルバムである。

これは同年7月から、モンクがコルトレーンと「ファイブ・スポット」に出演していた時期に組まれたセッションであり、モンクが絶好調だった時でもある。またピアノレスのフォーマットで取り組んできたが、当時は多くの奏者との他流試合に挑戦していたマリガンは、モンクと正式には初顔合わせでもあった。だからこのレコードは、いわゆるイースト対ウエスト、あるいは単に親しいミュージシャン同士を組み合わせてみたというだけのものではなく、互いにリスペクトする個性的な音楽家同士の初の真剣勝負の場だったと捉えるべきだろう。スタンダード<Sweet and Lovely>、マリガン作<Decidedly>を除く4曲がモンクの自作曲なので(<Round Midnight>,<Rhythm-a-Ning>,<Straight, No Chaser>,<I Mean You>)すべてがうまく行ったわけではないだろうが、まぎれもない名演<Round Midnight>におけるマリガンの真剣さと集中力はその象徴であり、モンクも手さぐりをしながら、興味深いこの音楽家との音のやり取りに神経を行き渡らせ、かつそれを楽しんでいるのが聞こえて来るようだ。当初B面はマリガン編曲のビッグバンドで演奏する予定だったものを、両者の希望ですべてカルテット(ウィルバー・ウェア-b、シャドウ・ウィルソン-ds )で録音することに変更したのも、2人がこのスモール・アンサンブルによるセッションに集中し、音楽上の対話を互いに楽しんでいたからだろう。リリース後の一般的評価はあまり高くなかったようだが、他のモンクのアルバムには見られない、一対一の緊張感のある対話に満ちたスリリングなこのレコードが私は昔から好きだ(ただしLPに比べ、CDは音が薄く実在感が希薄だ)。リバーサイドは、モンク全盛期の「ファイブ・スポット」時代の録音がほとんどできなかったが、2人にとって一期一会となったこの貴重なレコードを残して多少埋め合わせたと言えるかもしれない。マリガンは1990年代に、モンクの友人だったビリー・テイラー(p)と共演したアルバム 『Dr.T』1993 GRP)でも、<Round Midnight>を実に美しく、心を込めて演奏している。モンクとマリガンには、肌の色や音楽的嗜好を超えて、音楽家として互いに相通じるものがきっとあったのだと私は思う。

In Orbit / Clark Terry
(1958 Riverside)
リバーサイド時代に、モンクが完全に「サイドマン」として参加した珍しいレコードがある。それがトランぺッター、クラーク・テリー Clark Terry (1920-2015) のリーダー作『イン・オービット In Orbit』(1958年5月7日、12日録音)で、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds) とサム・ジョーンズ(b) が参加したカルテットによる演奏だ。「In Orbit」というタイトルは、LP再発の直前にスプートニク号が打ち上げられたことにちなんで、リバーサイドが冒頭のアップテンポのテリーの曲の名前と共に変更したものだという。テリーは『ブリリアント・コーナーズ』(1956) で、アーニー・ヘンリーの代役として<Bemsha Swing>のみ参加したのがモンクとの初共演だったが、モンクはテリーを以前から気に入っていて、この録音の話も喜んで引き受けたという。全10曲中モンクの自作曲は<Let's Cool One>だけで、あとはクラーク・テリーの自作曲とスタンダードだが、モンクはサイドマンということもあって、スローな曲でも、アップテンポの曲でも、他に例のないほど非常にリラックスして楽しそうにピアノを弾いていて(モンクとは思えないような、スウィングする普通のモダン・ピアノ風の時もあるほどだ)、柔らかでなめらかなテリーのフリューゲル・ホーンに上手にマッチングさせている。それを支えているのが躍動的なリズムセクションで、特にフィリー・ジョーの参加が他のモンクのアルバムとは一味違う雰囲気を与えている。フィリー・ジョーに関する面白い逸話は本書にも出て来るが、モンクとの共演盤は少なくともモンクのリーダー作ではないと思う。このアルバムではフィリー・ジョーとサム・ジョーンズのコンビが適度にテリーとモンクの2人を煽って、各演奏の躍動感を高めている。アップテンポの曲で、フィリー・ジョーの華やかなドラムスと、サム・ジョーンズの重量感のあるウォーキング・ベースがからむパートなどは、ステレオのボリュームを上げて聞くと最高に気持ちがいい。しかもそれがクラーク・テリーの名人芸と、モンクのピアノのバッキングなのである。このアルバムは聴けば聴くほど楽しめる隠れ名盤だ。

実はこのレコードに関する翻訳部分は、ページ数の制約のためにやむなく本書から割愛したのだが、以下にその一部を記す。
<……クラーク・テリーはこう回想している。「モンクが私とのギグを了承してくれたときは驚いたよ。おそらくノーと言うだろうと思っていたからだが、彼は喜んでやってくれたし、しかも仕事もやりやすかった。もちろんモンク流のときもあったけど、人間が素晴らしいし、私はモンクのことがとても好きだったんだ」……モンクの曲<レッツ・クール・ワン>を録音したことに加えて、モンクの好きだった賛美歌<ウィール・アンダースタンド・イット・ベター・バイ・アンド・バイ>のコードチェンジを引用し、それをテリー作の<ワン・フット・イン・ザ・ガッター>に変えているが、それによってモンクは自身の教会のルーツをあらためて取り上げている。その年の後半に書いたこのアルバムのレビューの中で、ジョン・S・ウィルソンはこういう見方をしていた。「これまで見せたことのない天真爛漫で素直な姿勢で、モンクはテリー氏を密接かつ好意的にサポートしながら、自らも熱狂的なソロで疾走している」。モンクの与えた影響があまりに強かったために、実際このアルバムはモンクの作品として知られるようになったほどで、その成り行きは当然ながらテリーを悩ませた。「モンクが亡くなったとき、みんなこれをモンクのレコードとして取り上げて、私はサイドマン扱いだったんだよ!」>

2017/10/15

モンクを聴く #6:with John Coltrane (1957 - 58)

1956年当時、モンクはマイルス・バンドにいたジョン・コルトレーン(1926-67) に目をかけていたが、モンクのキャバレーカード問題、コルトレーンのヘロイン問題という両者の障害のために、共演の機会はなかなか訪れなかった。その後マイルス・バンドをクビになったコルトレーンを、モンクはメンターとして個人的に指導するようになり、コルトレーンはニカ邸に加え、モンクの自宅にまで毎日のように通って指導を受けている。そして、ようやく初共演の録音セッションとなった1曲が、19574月のモンクのソロ・アルバム『Thelonious Himself』(Riverside) でのウィルバー・ウェアとのトリオによる<モンクス・ムード>である。

Monk's Music
(1957 Riverside)
第17章 p329-
続いて4管セプテットの一人としてだが、本格的共演作『Monk’s Music』(Riverside) がその直後6月に録音されており、モンクはコルトレーンを自分のバンドで雇うという約束をようやく果たした。レイ・コープランド(tp)、ジジ・グライス(as)、コールマン・ホーキンズ(ts)、ウィルバー・ウェア(b)、アート・ブレイキー(ds)というメンバーによるこのアルバムは、「ブリリアント・コーナーズ」と並んでリバーサイド時代のモンクを代表する録音で、<オフ・マイナー>、<エピストロフィー>、<ウェル・ユー・ニードント>など久々に取り上げた曲など、モンクの自作曲のみ6曲を演奏しているアルバム冒頭の、ホーンセクションだけの短いが荘厳な<アバイド・ウィズ・ミー Abide with Me>は、幼少時代から愛した賛美歌(日暮れて四方は暗く)をモンクが編曲したもので、心に染み入るその演奏はモンクの葬儀の際に流れた。この録音は、モンクがコールマン・ホーキンズという恩人と10年ぶりに共演するという機会でもあり、ホーキンズは<ルビー・マイ・ディア>で芳醇で温かなソロを聞かせている。しかし、コルトレーンはホーキンズに気後れしたのか、セプテットという編成もあったのか、まだ新入りだったせいなのか、ここではまだ全体にあまり目立たない演奏が多い。苦労した録音時のいくつかの逸話は本書に詳しいが、特にアート・ブレイキーの語る、恩人ホーキンズ、当時弟子のようだったコルトレーンに対するモンクの説教の裏話は、作曲家モンクの面目躍如といった趣があり非常に面白い(どことなくおかしい)。作曲に何ヶ月もかかり、当時病床にあったネリー夫人に捧げた名曲<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>は、インプロヴィゼーションのない通作歌曲形式の作品で、これが初演である。<ウェル・ユー・ニードント>演奏中に「コルトレーン!」と叫ぶモンクの声も、2011年のリマスターされたOJCステレオ版のCDではよく聞こえる(このCDは非常に音がクリアだ)。疲れ切ったモンク、重鎮ホーキンズの存在、新米メンバーだったコルトレーン初の本格的共演、難曲録音時の裏話、<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>の作曲と初演、ジャケット写真制作時の面白い逸話など、このアルバムは個々の演奏の完成度は別としても、何よりモンクらしい話題が豊富なので、それらを想像しながら聴くだけで十分楽しめる。

Thelonious Monk with
John Coltrane
(1957Rec. 1961 Jazzland)
第18章 p352
本書に詳しいように、ハリー・コロンビーやニカ夫人の尽力、テルミニ兄弟の支援によってキャバレーカードをようやく手に入れたモンクは、この翌月195774日からクラブ「ファイブ・スポット」にレギュラー出演し、コルトレーンも716日にモンク・カルテットのテナー奏者として同クラブに初登場する。ウィルバー・ウェア(b)(後にアーマッド・アブドゥルマリク)、シャドウ・ウィルソン(ds) を加えたコルトレーンのワンホーン・カルテットは、その後約半年間「ファイブ・スポット」に連続出演することになる。当時はまだ精神面に不安があったものの、長年の苦闘を終え、6年ぶりにやっとキャバレーカードを手にしてニューヨーク市内で仕事ができることに加えて、これはモンクにとって初の自分のレギュラー・バンドによるレギュラー・ギグであり、しかもそこでコルトレーンを擁して自作曲を演奏できるモンクが、どれだけ高揚した気分でいたかがわかろうというものだ。本書に詳しいように、当時「ファイブ・スポット」に日参した芸術家たちを中心とした聴衆側の熱気も伝説的なものだ。ところが返すがえすも残念なことに、この時期の伝説的カルテットの白熱のライヴ演奏を録音したレコードは存在しないのだ。それはコルトレーンが当時プレスティッジとの契約下にあったためで、唯一記録として残されているのが、リバーサイドが7月にスタジオ録音したと言われている3曲で、これも交換条件を出したプレスティッジのボブ・ワインストックの案(コルトレーンのレコードに、モンクがサイドマンとして参加する)をモンクが拒否したために、その後リバーサイド系のJazzlandレーベルによって 1961年にリリースされるまでお蔵入りになっていた。その3曲とはモンク作の<ルビー・マイ・ディア>、<トリンクル・ティンクル>、<ナッティ>で、当時のレギュラーだったウィルバー・ウェア(b)とシャドウ・ウィルソン(ds ) が参加している。その3曲に、モンクの19574月の『ヒムセルフ』からソロ演奏の<ファンクショナル>、6月の『モンクス・ミュージック』から<エピストロフィー>(ホーキンズ抜き)と<オフ・マイナー>のそれぞれ別テイク計3曲を加えて、1961年になってからリリースされたのが『Thelonious Monk with John Coltrane』(Jazzland) である。<ルビー・マイ・ディア>に聞けるように、メロディからあまり遊離することなく、シンプルに美しく歌わせるコルトレーンのその後のバラード演奏は、明らかにこの時期のモンクの「指導」によって磨かれたものだろう。<トリンクル・ティンクル>と<ナッティ>は、コルトレーンがモンクと共演してから初めて思う存分吹いているようで、モーダルな初期のシーツ・オブ・サウンドがたびたび現れる。7月中旬の「ファイブ・スポット」出演当初はボロボロだったと言われるコルトレーンの演奏は、以降モンクとのリハーサル(?)を経て飛躍的に進化して行ったが、あの「神の啓示」を得たという有名な発言も、モンクと共演していたこの時期のことである。ついにヘロイン断ちをしたのも同じ時期であり、その後さらに強まるコルトレーンの求道的な姿勢も、この当時に形作られたものだろう。最後に1曲だけ入ったモンクのソロ、<ファンクショナル>の別テイクもやはり素晴らしい。

Thelonious Monk Quartet
with John Coltrane
Live at Carnegie Hall
(1957 Rec. 2005 Blue Note)
第18章 p356
上記スタジオ録音は19577月だと言われているので、コルトレーンがバンドに入ってまだ間もない頃だ。その後18週間の「ファイブ・スポット」でのギグを経て、カルテットにとって初の大舞台となったのが1129日の「カーネギーホール」での慈善コンサートで、このときはベースがウィルバー・ウェアからアーマッド・アブドゥルマリクに代わっている。短波ラジオ局ヴォイス・オブ・アメリカ(VOA)によるこのコンサートの録音テープが米国議会図書館で奇跡的に「発見」されたのは、それから48年後の2005年であり、まるでタイムカプセルを開けたようなこの発見は当時大変な騒ぎとなった。ブルーノートのマイケル・カスクーナとモンクの息子T.S.モンクが、そのモノラル録音テープをデジタル・リマスターして発表したのが『Thelonious Monk Quartet with John Coltrane at Carnegie Hall』Blue Note)である。幻の「ファイブ・スポット」でのライヴではないが、4ヶ月以上にわたって共演してきたモンクとコルトレーンのカルテットによる演奏が素晴らしいのは当然で、しかも<スウィート・アンド・ラヴリー>を除く7曲がすべてモンクの自作曲である。冒頭の<モンクス・ムード>の美しい対話だけで、いかに二人が緊密な関係を築き上げていたかがよくわかる。モノラルだが録音も素晴らしくクリアで、モンクとコルトレーンだけでなく、アブドゥルマリクのベース、ウィルソンのドラムスも明瞭に聞き取れ、演奏の素晴らしさを倍増させている。当時の好調さを表すように、モンクも非常に生きいきとした文句のないプレイを聞かせているが、コルトレーンは完全にtake-offしており、その後の世界に半分突き進んでいる。このカルテットの演奏は、おそらくモンク作品を史上最も高い密度と次元で解釈、演奏したコンボの記録と言えるだけでなく、絶頂期のモンクと前期コルトレーンの2人を捉えたモダン・ジャズ史上最高の録音の一つと呼べるだろう。

Thelonious Monk Quartet
with John Coltrane
Live at Five Spot
(1958 Rec. 1993 Blue Note)
第19章 p376
モンクとコルトレーンのもう一つの共演記録としては、1957年末にバンドを去ったコルトレーンが、翌1958911日にジョニー・グリフィンの代役として「ファイブ・スポット」に出演したときの録音が残されている。アーマッド・アブドゥルマリク(b)とロイ・ヘインズ(ds) によるカルテットで、これは当時コルトレーンの妻だったナイーマが、プライベート録音していた音源を1993年にブルーノートがCD化したものだ。家庭用のレコーダーだったために音質は良くないが、その時期のモンクとコルトレーンの「ファイブ・スポット」における共演を捉えた唯一の貴重な録音である。それまでモンクとたっぷりリハーサルを積み上げ、また自身もミュージシャンとして急上昇中のコルトレーンは、クラブライヴということもあって、ここでは余裕しゃくしゃくで吹きまくっているようだ。

これら残された録音を聴くと、ソニー・ロリンズと並んで、真面目なコルトレーンも当時モンクの良き生徒であり、2人の人間的、音楽的相性も良かったように思える。本書からわかるのは、モンクは基本的に「ジャズの先生」であり、ロリンズ、コルトレーン、チャーリー・ラウズも含めて、モンクが好んだのは、実力はもちろんだが、師匠の言うことに謙虚に耳を傾け、成長しようとする誠実なミュージシャンだったということだ。ロリンズと同じく、自らの道を選んで飛び立ったコルトレーンとモンクが、その後レコード上で共演することは二度となかった。それから9年後の196612月、コルトレーンが亡くなる7ヶ月前、真冬のデトロイトでのコンサートが二人の最後の共演の場となった。

2017/06/08

リー・コニッツを聴く #4:Verve

Very Cool
1957 Verve
Tranquility
1957 Verve
50年代中期、Storyville時代の3作品は知性とエモーションのジャズ的バランスが見事で、私的にはコニッツの白眉だと思うが、Atlanticを経てさらにトリスターノの世界から解き放たれ、ジャズ的に寛容さが出て柔軟になっていった時代の演奏も、非常に心地良いジャズで私はこれも好きだ。Verveに移籍後初のアルバム「Very Cool」(1957)は、ドン・フェラーラ (tp) を加えた2管クインテット(サル・モスカ-p、ピーター・インド-b、シャドウ・ウィルソン-ds) による演奏で、ハードバップ的サウンドが強まるが、その中に依然コニッツ的クールさと斬新さが光る演奏だと思うし、それはまたコニッツの成熟と演奏家としての多様性の拡大とも言える。確かにテンションは往時に比べれば弱いが、その代りジャズ的リラクゼーションが増して上質な音楽として今聴いても古びず楽しめるアルバムだ。「Tranquility」(1957) はアルバム・タイトル(平穏)と脱力ジャケット写真が表している通り、ビリー・バウアーのギタートリオ(ヘンリー・グライムス-b, デイヴ・ベイリー-ds) をバックに、さらにリラックス度が増したコニッツが聞ける(このあたりで、おいおい大丈夫か…?と言いたくなるが)。

Meets Jimmy Guiffree
1959 Verve
You and Lee
1959 Verve
最初あまりピンと来なかったが、じっくり聴いてみるとなかなか楽しめる演奏だと思うようになったのが「Lee Konitz Meets Jimmy Guiffree」と「You and Lee」という1959年の2枚のアルバムだ。当時新進の若手奏者だったビル・エヴァンス(p)が前者の全曲、後者も4曲(残り4曲はジム・ホールのギター)参加している。ジミー・ジュフリーは映画「真夏の夜のジャズ」ではボブ・ブルックマイヤー、ジム・ホール と共にテナー・サックスで登場するが、当時は編曲者としてもモダンなジャズを手掛けていて、この後60年代初めには、ポール・ブレイ(p)、スティーヴ・スワロウ(b) と共にヨーロッパのフリー・インプロヴィゼーションに先駆ける内省的なフリー・ジャズの世界も追求していた。この2作品も当時としては非常にモダンなアレンジメントで、滑らかで、上品だが時にダンサブルとも言えるような演奏もあり、多彩な音楽を作りあげている。聴きなじむと、どの曲も高度だが実に気持ちのいい演奏で、ある種のノスタルジーも感じさせ、今の時代にイージー・リスニング的に聴くと非常にいい。コニッツはクロード・ソーンヒル楽団時代や、「クールの誕生」バンドなど、この種のアンサンブルは得意としてきた分野で、この頃は円熟の域に入りつつあって、どの演奏も余裕たっぷりで貫録さえ感じさせるほどだ。ビル・エヴァンスもまさに上昇期だったが、ここではソロをあまり取ることもなく、時々閃きを感じさせるフレッシュなバッキングでサポート役に徹している。全体的にハイレベルの演奏で、まさにあの時代の「スムース・ジャズ」とでも呼べるようなモダンで洗練されたアンサンブルである。

Motion
1961 Verve
1960年前後、オーネット・コールマンのような新世代フリー・ジャズ・ミュージシャンが台頭し、マイルスは「カインド・オブ・ブルー」でモードを手がけ、コルトレーンも「ジャイアント・ステップス」を経て徐々にフリーに向かっていく中、上記アルバムジャケットの変遷に見るように、益々リラックスした "ゆるい"(?)作品が増えていたVerve後半のコニッツは、おそらく「このままではいかん…」と危機感を募らせたのではないかと想像する(あくまで想像です)。そこで生まれたVerve時代最後の作品が、アルトサックス、ドラムス、ベースのピアノレス・トリオによる「モーション Motion(1961)である。このアルバムは間違いなく「Subconscious-Lee」と並ぶリー・コニッツの最高傑作だが、後者が師トリスターノの強い影響下にあった若い時期のものであるのに対し、「Motion」はコニッツがその後約10年間をかけて到達した自身の音楽の集大成とも言えるものだ。インプロヴィゼーションのための自由空間を制約するコード楽器との共演をコニッツは徐々に好まなくなり、60年代以降トリオやデュオでの演奏が増えて行くが、その方向を決定づけたのはこの「Motion」で得られた自信だろう。それくらいここでのコニッツは自信に満ち、豊かで伸びやかな演奏を展開している。「リー・コニッツ」で本人が述べているように、”知的でクール” と見られていたコニッツと、当時コルトレーンのグループにいた ”ホットでワイルド” なエルヴィン・ジョーンズ(ds)との初の組み合わせは、当時誰が見ても異質で意外なものだった。コルトレーンとの共演ぶりから相性面で不安を感じていたコニッツだったが、前日の夜「ヴィレッジ・ゲート」でコルトレーンとの激しいライヴ演奏をこなし、翌朝早くに録音現場に現れたエルヴィンの人柄と、予想外の驚くべき繊細さと絶妙なタイム感でリズムを繰り出すその演奏にすっかり感激したという。10年にわたり晩年のトリスターノの専属ベーシストだったソニー・ダラス(b)、エルヴィンともコニッツとも旧知で、そのベースワークは二人の間を取り持ちながら緊張感溢れる演奏を支えている。当日のこの3人の演奏技術と人間的コンビネーションが相まって、この傑作が生まれたのだろう。

収録全5曲ともスタンダードだが、コニッツの演奏から聞こえてくる原曲のメロディは、得意曲 <Foolin’ Myself> を除くとどれも希薄で、エルヴィンの繰り出すリズムに反応しながら冒頭からほぼ全編が緊迫した即興ラインの連続である。そこに聴ける創造力と音楽的テンションは、アルトサックスによるジャズ・インプロヴィゼーションの極致と言えるものだろう。ピアノのようなコード楽器のないことが、自由なインプロヴィゼーション空間を生み出すというコニッツの持論に頷かざるを得ないように、3つの楽器がそれぞれ独立したリズムとラインを刻みながら空間で見事に溶け合う、という最高度のジャズ的グルーヴを味あわせてくれる傑作だ。しかしながら、この久々の傑作を作ったにもかかわらず、この後60年代からのコニッツは、ジャズを取り巻く世界の変貌もあって、ジャズ・ミュージシャンとして最も厳しい時代を生きることになる。