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2017/10/17

モンクを聴く #7:with Johnny Griffin (1958)

コルトレーンの後任、モンク・カルテット二人目のレギュラー・テナー奏者になったジョニー・グリフィン(1928-2008) はシカゴ生まれで、ライオネル・ハンプトン楽団でプロのキャリアをスタートさせ、1957年にニューヨークに進出した。本書にあるように、195512月にシカゴで共演したモンクはグリフィンを気に入り、オリン・キープニューズにリバーサイドがグリフィンと契約するよう働きかけたらしいが、ブルーノートが先に契約してしまったという。

Art Blakey's Jazz Messengers
with Thelonious Monk
(1957 Atlantic)

第17章 p327
アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのメンバーとしてブルーノートに何作か録音したグリフィンの、モンクとの初の共演セッションは、19575月のアトランティック・レーベルの『Art Blakey's Jazz Messengers with Thelonious Monk』である。相性の良いブレイキーが率いるクインテット(グリフィン-ts、ビル・ハードマン-tp、スパンキー・デブレスト-b)に、<エヴィデンス>、<イン・ウォークド・バド>、<リズマニング>、<ブルー・モンク>、<アイ・ミーン・ユー>という自作の5曲を提供した代わりとして、モンクが(ユニオン最低賃金で)サイドマンとして客演したセッションだ<リズマニング>はこのレコードが初録音である。サイドマンとは言え、当然このセッションを仕切っているのはモンクで全体としてメッセンジャーズ側がまだモンクの音楽を消化していない様子が伺えるが、グリフィンは自作ブルース<パープル・シェイズ>を提供していて、他の曲でもやはりモンクとの相性の良さが既に感じられる。ちなみにモンクが参加したアトランティックのレコードはこれ1枚だけである。グリフィンはその後1958年にリバーサイドに移籍し、小さな身長(165cmくらい)なのに、高速で豪快なサックスを吹きまくることから付けられたニックネーム通りの「リトル・ジャイアント The Little Giant(1959)というアルバムを含めて、リバーサイドから何作かリリースしている。

Thelonious in Actin
(1958 Riverside)
第19章 p364
195712月にコルトレーンとの初の長期ギグを終えたモンクは、テルミニ兄弟の要請で、翌19586月から二度目となる「ファイブ・スポット」での8週間のレギュラー・ギグを開始する。カルテットのテナー奏者として、モンクはコルトレーンの後任に依然としてソニー・ロリンズを雇いたいと思っていたが、ロリンズは既に完全にリーダーとして活動していたので、その案の実現は難しく、代わってジョニー・グリフィンを雇うことにした。上記アトランティック盤のセッションから約1年後である。グリフィンがリバーサイドに移籍したことから、コルトレーンの時と違って「ファイブ・スポット」でのレーベルによる初のライブ録音が可能となった。「ファイブ・スポット」でのモンク・カルテットの公式ライヴ録音は、グリフィンと共演したこの2枚のアルバムだけである。アーマッド・アブドゥルマリク(b)とロイ・ヘインズ(ds)というカルテットによる195879日、87日の2日間のセッションをリバーサイドが録音したが、7月9日の録音は演奏が不満だったモンクの許可が出ず(モンクの死後、キープニューズが発表して追加した)、8月7日の録音だけが『セロニアス・イン・アクションThelonious In Action』と『ミステリオーソMisterioso』という2枚のLPでリリースされた。全曲がモンクの自作曲で、同一メンバーによる同日演奏を振り分けただけなので、演奏内容に大きな違いはないが、ジョニー・グリフィンのテナーは、ロリンズともコルトレーンとも異なる快活さと、枠内に留まらない自由と豪放磊落さを持っているので、ライヴ録音ということもあって両アルバムとも非常に楽しめる。

Misterioso
(1958 Riverside)
第19章 p364
本書にあるように、クラブの出演ステージ上でリハーサルをやっていたモンク流の指導方法に加え、グリフィン的にはモンクのピアノだと、どこか拘束されているような気がするという感覚もよくわかる。モンク独特のリズムに乗ったアクセントでコンプしながら、飛び回るようなやんちゃなグリフィンをコントロールするように、モンクが冷静な音を出して手綱を引き締めているような瞬間がたびたびあるからだ。これは真面目できちんとした(?)ロリンズやコルトレーン相手のモンクとは明らかに違う。しかしこのグリフィンの豪快さと対照的にクールなモンクとの対比が、このアルバムの面白いところで、聞きどころでもある。モンクも、グリフィンの枠にはまらない自由さと豪快さを違う個性として評価していたのだろう、ロリンズやコルトレーンに対するのとは別のアプローチを楽しんでいるようにも聞こえる。また著者ロビン・ケリーが好きなロイ・ヘインズの躍動的なドラミングも非常に素晴らしい。いずれにしろ、クラブ・ライヴがジャズではいちばんエキサイティングで楽しい、ということを証明しているようなアルバムである。ピアノ・トリオ入門がプレスティッジ盤であるように、モンクのコンボ演奏入門には、ジョニー・グリフィンとのこの「ファイブ・スポット」ライヴが最適だろう。

しかしモンクの絶頂期とも言える、この時期の「ファイブ・スポット」のライヴ演奏を記録したのがこの2枚のアルバムだけというのは、リバーサイドの大失態ではないかと思う。さらに後年19606月にテルミニ兄弟が新たにオープンした「ジャズ・ギャラリー」で、キャバレーカードを三たび取り戻して久々に登場したモンクのバンド(チャーリー・ラウズ-ts、ジョン・オア-b)に、ロイ・ヘインズ(ds)、さらに初めてスティーヴ・レイシー(ss) が加わったクインテットの長期間(16週間)の貴重なライヴ演奏も録音されなかった。芸術指向が強く、完全主義のオリン・キープニューズ的には、何が起こるかわからないライヴ録音は気が進まなかったのだろうか? あるいは本書にあるように、キープニューズとモンクの関係は、この時期には既に相当悪化していたようなので、そうした影響もあったのかもしれない。この当時のリバーサイドの録音記録を見ると、ビル・エアヴァンス、キャノンボール・アダレイ等を頻繁に録音しているので、モンクへの過小な印税支払い疑惑と自分の録音の少なさなどを、当時モンクが不満に思っていたことも確かだろう。実際その年の末には、モンクはリバーサイドを去るという決断を下すのである。一般的な印象とは違って、本書における著者のリバーサイドとオリン・キープニューズの描き方は一貫して批判的だ。 

グリフィンは約2ヶ月という短期間でモンクのバンドを辞めるが(「ファイブ・スポット」では金にならない、という理由で)、その後1960年からエディ・ロックジョー・デイヴィス(ts)と双頭クインテットを率い、1963年にはヨーロッパに移住し、1978年までオランダで活動した。その間、1967年のモンクのヨーロッパ・ツアー時には、オクテット、ノネットのメンバーとして参加している。グリフィンは辞める際、後任にソニー・ロリンズを指名し、19589月にそのロリンズは「ファイブスポット」での12日間のギグとコンサートでモンクと短期間共演するが、翌10月のモントレージャズ祭出演を機に、チャーリー・ラウズの名前を自分の後任候補の一人として挙げてバンドを去るのである。

2017/05/27

レニー・トリスターノの世界 #1

「ジャズにも色々あるのだ」ということを初めて知ったのが、1970年代に盲目のピアニスト、レニー・トリスターノ  (1919-1978) の「 Lennie Tristano(邦題:鬼才トリスターノ) (1955 Atlantic) というレコードを聴いたときだった。それまで聴いていた "普通の" ジャズ・レコードとはまったく肌合いの違う音楽で、クールで、無機的で、構築的な美しさがあり、ある種クラシックの現代音楽のような雰囲気があったからで、ジャズ初心者には衝撃的なものだった。しかし、それ以来この独特の世界を持ったアルバムは私の愛聴盤となった。

Tristano
1955 Atlantic
1954/55年に録音されたLP時代のA面4曲の内の2曲<Line Up>と<East 32nd Street>は、ピーター・インド(b)、ジェフ・モートン(ds)というトリスターノ派リズム・セクションの録音テープを半分の速度にして再生しながら、その上にトリスターノがピアノのラインをかぶせて録音し、最後にそれを倍速にして仕上げたものだとされている(ただし諸説ある)。<Line Up>は、<All of Me>のコード進行を元にして、4/4と7/4という2つの拍子を用いたインプロヴィゼーションで、初めて聴いたときには思わずのけぞりそうになったほどだが、この緊張感に満ちた演奏は今聴いても実に刺激的だ。他のA面2曲<Turkish Mambo>とRequiem>は、トリスターノのピアノ・ソロによる多重録音である。<Turkish Mambo>4/45/812/87/8という4層の拍子が同時進行する複雑なポリリズム構造を持つ演奏だという(音楽学者Yunmi Shimによる分析)。もう1曲の<Requiem>は、音楽家として互いに深く尊敬し合っていたチャーリー・パーカー(1955年没)を追悼した自作ブルースで、トリスターノのブルース演奏は極めて珍しいものだが、これも素晴らしい1曲だ。武満徹の「弦楽のためのレクィエム」は、トリスターノのこの曲に触発されたものだと言われている。また後年トリスターノの弟子となる女性ピアニスト、コニー・クローザーズもこの曲を聴いてクラシックからジャズに転向したという。2人ともトリスターノの音楽の中に、ジャズとクラシック現代音楽を繋ぐ何かを見出したということだろう。このA面で聴ける構造美とテンション、深い陰翳に満ちた演奏は、トリスターノの天才を示す最高度の質と斬新さを持つ、ジャンルを超えた素晴らしい「音楽」だと思う。

LP時代のB5曲はうって変わって、リー・コニッツ(as)が加わったカルテットが、スタンダード曲をごく普通のミディアム・テンポで演奏しており、1955年6月にニューヨークの中華レストラン内の一室でライヴ録音されたものだ。(コニッツはこの数日後に、「Lee Konitz with Warne Marsh」をAtlanticに吹き込んでいる。)スタン・ケントン楽団を離れたコニッツが自己のカルテットを率いていた絶頂期だったが、ここではリズム・セクションにアート・テイラー(ds)、ジーン・ラメイ(b)というトリスターノ派ではないバップ奏者を起用していることからも、A面のトリスターノの「本音」とも言える音楽世界との差が歴然としている。しかし、この最高にリラックスした演奏もまた、ピアニストとしてのトリスターノの一面である。実は本来は、このカルテットのライヴ演奏のみでアルバムを制作する予定だったが、満足できない演奏があったコニッツの意見で、5曲だけが選ばれ、代わってトリスターノのスタジオ内に眠っていた上記4曲を「発見」したAtlanticが、それらをA面として収録してリリースした、ということだ(その後このライヴ演奏のみを全曲収録したCDも発表された)。アルバムの最終コンセプトはたぶんトリスターノが考えたのだろうが、A面はトリスターノの「本音」、B面は「こわもて」だけじゃないんですよ、という自身のコインの両面を伝えたかった彼のメッセージのようにも聞こえる(勝手な想像です)。ただしそれはあくまでLPアルバム時代の話であり、CDやバラ聴きネット音源ではこうした作品意図や意味はもはや存在しない。残念なことである。

Crosscurrent
1949 Capital
トリスターノは、チャーリー・パーカーと同年1919年にシカゴで生まれた。9歳の時には全盲となり、シカゴのアメリカ音楽院入学後はジャズだけでなくクラシック音楽の基礎も身に付け、20代初めから既に教師として教えるようになっていた。1946年にビバップが盛況となっていたニューヨークに進出し、シカゴ時代からの弟子だったリー・コニッツも間もなく師の後を追った。リー・コニッツ(as)、ウォーン・マーシュ(ts)、ビリー・バウアー(g)、ピーター・インド(b)、アル・レヴィット(ds)というトリスターノのグループは、既に1948年頃からフリー・ジャズの実験を初めており、1949年のアルバム「Crosscurrents」(Capitol)で、<Intuition>、<Digression>というジャズ史上初の集団即興による2曲のフリー・ジャズ曲を録音している。当時彼らはクラブ・ギグやコンサートでも実際に演奏している。ただしそれらは対位法を意識していたために、曲想としてはクラシック音楽に近いものだった。当然ながらクラブなどでは受けないので、その後グループとしてのフリー演奏は止めたが、1951年にマンハッタンに開設した自身のスタジオで、トリスターノはフリー・ジャズ、多重録音の実験を続けていたのだ。(多重録音は今では普通に行なわれているが、70年近く前にこんな演奏を自分で録音して、テープ編集していた人間がいたとは信じられない。テオ・マセロがマイルスの録音編集作業をする15年以上も前である。)

メエルストルムの渦
1975 East Wind
亡くなる2年前、1976年に日本のEast WindからLPでリリースされたレニー・トリスターノ最後のアルバムが「メエルストルムの渦 Descent into the Maelstrom」だ1975年に、当時スイング・ジャーナル誌編集長だった児山紀芳氏とEast Windが、隠遁生活に入っていたトリスターノと直接交渉して、過去の録音記録からトリスターノ自身が選んだ音源をまとめたものだそうだ。ただし音源は1952年から1966年にかけての5つのセッションを取り上げていて、中に1950年代前半(上記「鬼才トリスターノ」音源より前である)に録音したこうした多重録音の演奏が3曲収録されている。アルバム・タイトル曲<メエルストルムの渦>はエドガ・アラン・ポーの同名小説から取ったもので、録音されたのは1953年であり、当時としては驚異的なトリスターノのフリー演奏が聞ける。一人多重録音による無調のフリー・ジャズ・ピアノで、重層化したリズムとメロディがうねるように進行してゆく、まさにタイトル通りの謎と驚きに満ちた演奏だ。セシル・テイラー、ボラー・バーグマンなどのアヴァンギャルド・ジャズ・ピアニスト登場の何年も前に、トリスターノは既にこうした演奏に挑戦していたのである。1952年(195110月という記録もある)のピーター・インド(b)、ロイ・ヘインズ(ds)との2曲のトリオ演奏(Pastime、Ju-Ju)もピアノ部分が多重録音である。他の演奏は “普通の” トリスターノ・ジャズであり、1965年のパリでの録音を含めてピアノソロが5曲、1966年当時のレギュラー・メンバーだったソニー・ダラス(b)、ニック・スタビュラス(ds)とのトリオが同じく2曲収録されている。本人がセレクトした音源だけで構成されていることもあり、Atlantic2作品と共に、このアルバムはトリスターノの音楽的メッセージが最も強く込められた作品と言えるだろう。

The New Tristano
1962 Atlantic
1950年前後、トリスターノはインプロヴィゼーション追求の過程で、微妙に変化する複雑な「リズム」と、ホリゾンタルな長く強靭な「ライン」を組み合わせることによって、ビバップの延長線上に新しいジャズを創造しようとしていた。特に強い関心を持っていたのはポリリズムを用いた重層的なリズム構造だ。そのためリズム・セクションに対する要求水準は非常に高く、当時彼の要求に応えられるドラマーやベーシストはほとんどおらず、ケニー・クラークなどわずかなミュージシャンだけだったと言われている。よく指摘されるメトロノームのように変化のないリズムセクションも、その帰結だったという説もある。要するに、上記多重録音のレコードは、「それなら自分一人で作ってしまおう」と考えたのではなかったかと想像する。だからある意味で、これらの多重録音による演奏はトリスターノの理想のジャズを具体化したものだったとも言える。だが多重録音と速度調整という「操作」をしたことで、ジャズ即興演奏の即時性に反するという理由だと思うが、当時彼のAtlantic盤は批評家などから酷評された。その後しばらく経った1962年に、これらの演奏の延長線として、録音操作無しの完全ソロ・ピアノによるアルバム「ザ・ニュー・トリスターノThe New Tristano」(Atlantic)を発表して、自らの芸術的理想をついに実現したのである。

前作の演奏加工への批判に対する挑戦もあり、1曲を除き、完全なソロ・ピアノである。疾走する左手のベースラインと右手の分厚いブロック・コードを駆使して、複雑なリズム、メロディ、ハーモニーを一体化させてスウィングすべく、一人ピアノに向かって「自ら信じるジャズ」を演奏する姿には鬼気迫るものがあっただろうと想像する。盲目だったが彼の上半身は強靭で(ゴリラのようだったと言われている)、その強力なタッチと高速で左右両手を縦横に使う奏法を可能にしていた。収録された7曲のうち<You Don’t Know What Love Is>以外は「自作曲」だが、このアルバムに限らずトリスターノは、既成曲のコード進行に乗せてインプロヴァイズした別のLine(メロディ)に別タイトルをつけるので、原曲はほとんどスタンダード曲である。この姿勢が彼のジャズに対する思想(「即興」こそがジャズ)を表している。たとえば <Becoming>は<What Is This Thing Called Love>,<Love Lines>は<Foolin’ Myself>,<G Minor Complex>は<You’d Be So Nice To Come Home To> などだ。原曲がわかりやすいものもあれば、最初からインプロヴァイズしていて曲名を知らなければわからないものもある。同じく<Scene And Variations>の原曲は <My Melancholy Baby> で、<Carol>、<Tania>、<Bud>という3つのサブタイトルは彼の3人の子供の名前だ。Budは当然ながら、崇拝していたバド・パウエルにちなんで名づけたものだ。クールでこわもて風トリスターノの人間味を感じる部分である。

不特定の客が集まる酒を扱うクラブでの演奏を嫌がり、売上至上主義の商売に批判的で、その手助けをしたくない、というトリスターノの姿勢は若い頃シカゴ時代から基本的に変わらなかった。未開の領域で、自身の信じるビバップの次なるジャズを創造するという姿勢がより強固になっていった40年代後半以降、この傾向はさらに強まる。ジャズという音楽、アメリカという国の成り立ちを考えると、これが如何に当時の音楽ビジネスの常識からかけ離れていたかは明らかだろう。ニューポート・ジャズ祭への出演要請も事前の手続き上のトラブルから断ったりしているが、60年代のヨーロッパでのライヴなど、コンサート形式ならたとえpayが低くても基本的に参加する意志はあったようだ。しかし、クラブでも、コンサート・ホールでもその数少ないライヴ演奏記録は常に新鮮でスリリングな最高のジャズである。ただし、その音楽が本質的に内包する高い緊張感と非エモーショナルな性格から、ジャズにリラクゼーションを求める層に受けないのは昔も今も同じだろう