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2018/01/08

女性ジャズ・ヴォーカル (2)ライヴ録音

楽曲の構成、ミスのない演奏、音質など、全体的な完成度から言えば、まだ音源をいじりまわさなかったモダン・ジャズ全盛期でも、一般にスタジオ録音のアルバムの方が優れているものだ。しかし、あまり「作られ感」が強いレコードは、ジャズのいちばんの魅力である即興性をそいで、演奏から音楽全体が持つダイナミズムを奪ってしまうことがままある。その点、ライヴ音源は演奏そのものだけでなく、「場と時間の音楽」というジャズの本質を自然に捉えた録音が多く、一度限りのその場の空気と、場を共有したプレイヤーと観客両者の息づかいまでも一緒にレコードの中に封じ込めたアルバムもたくさんある。もちろんジャズは実際ライヴで聴くのが最高なのだが、特にヴォーカル・アルバムにはそうしたライヴの魅力を、いながらにして楽しめる名盤が数多い。録音が臨場感に溢れ、リラックスしてまるで客の一人になった気分になれるかどうかが、私にとってはクラブ・ライヴ盤の良否であり醍醐味だ。歌詞を忘れたり、楽器をぶつけたり、マイクコードに足を引っ掛けたりというライヴならではのハプニングが時々起こり、アドリブでそれを笑って切り抜けたりする楽しさを、こちらもその場にいるかのように味わえるのもライブ録音ならではだ。

At Mister Kelley's
Sarah Vaughan
(1957 Mercury)
サラ・ヴォーンSarah Vaughan (1924-90) の『At Mister Kelley’s』(1957 Mercury)は、デビュー8年後、33歳という文字通り彼女の絶頂期に、シカゴのナイトクラブ「Mister Kelley’s」で録音されたライヴ・アルバムだ。彼女はクリフォード・ブラウン(tp)との共演盤(1954)をはじめ、既に何枚かの名盤を録音していたが、このライヴ盤では、ジミー・ジョーンズ(p)、リチャード・デイヴィス(b)、ロイ・ヘインズ(ds)という名人によるピアノ・トリオをバックにして、こじんまりした伴奏で親密に歌っているところが特徴で、サラの歌が本来持つ明るく伸び伸びした躍動感に加え、お得意のスキャットも聴けるし、高い技巧を駆使して非常に微妙なニュアンスまで表現しているところがいい。サラ・ヴォーンの魅力は、巧いのだが、そのテクニックをあまり前面に出さないで、やわらかな情感と適度なジャズっぽさを絶妙にブレンドした歌唱にある。また、<Willow Weep for Me>の途中で何かに躓いたか、何かが倒れたような大きな音をマイクが拾って、サラがすぐに歌に取り入れたりとか、ライヴ・レコーディングらしい楽しいお約束も楽しめるし、観客の笑いや拍手の反応など、あの時代のナイトクラブの雰囲気がよく伝わってくる。オリジナルLP9曲だったが、現CDは追加ボーナストラックで全20曲に「増量」されている。(CD追加トラックでは、ギターや一部ホーンも加わっているので、たぶん同じクラブの別セッションの演奏を録音したものを加えているのだろう。)いずれにしろ、サラ・ヴォーンとジャズ・ヴォーカルの魅力がたっぷりと詰まった名ライヴ・アルバムだ。

At the Village Gate
Chris Connor
(1963 FM)
白人女性ヴォーカルでは、クリス・コナーChris Connor (1927-2009)が、ニューヨークのイースト・ヴィレッジにあったジャズクラブ「Village Gate」で録音した『At the Village Gate(1963 FM) が素晴らしい。こちらはロニー・ボール(p)、マンデル・ロー(g)、リチャード・デイヴィス(b)、エド・ショーネッシー(ds)というカルテットが伴奏している。ロニー・ボールは元々トリスターノ派のピアニストだが、しばらくクリス・コナーの歌伴をしていた人だ。トリスターノ直系のクールで硬質なボールのピアノが、クリスのハスキーな声と、どちらかと言えばドライで滑らかな唱法に非常に合っていて、マンデル・ローのスウィンギングなギターも同じくクリスと相性がいい。クリス・コナーはクロード・ソーンヒル、スタン・ケントンなどモダンな白人ビッグバンドを経てデビューした後、スタジオ録音でも数多くの名盤を残している人だが、当時は30代半ばの女ざかりでもあり、その容姿と共に、このライヴ・アルバムは彼女の語りも多く入っていて、何より全体としてジャズクラブらしいリラックスしたムードが最高だ。付き物のハプニングとして、このアルバムでもクリスが歌詞を忘れる場面が<Black Coffee> で出てくる。前後半でEarly ShowLate Show2部構成になっており、ミディアムからアップテンポの前半、スロー・バラード中心の後半に分かれているが、前半は軽快に、後半はしっとりと、クリスはいずれも余裕たっぷりにこなしている。リラックスしてこの時代のジャズクラブの雰囲気を楽しめるいいアルバムです。

As Time Goes By
Carmen McRae
(1973 JVC)
3枚目は、1973年に来日中だったカーメン・マクレー Carmen McRae (1922-94)が、当時の「新宿DUG」で行なったピアノの弾き語りライヴ録音『As Time Goes By』JVC)だ。ジャズ・ヴォーカルの名盤として有名なレコードだが、今でも日本以外では簡単に入手できないようだ。元々ピアニストでもあったカーメンのピアノ技術の素晴らしさは知られていたが、当時常に同伴していた伴奏ピアニスト(トム・ガービン)の演奏に満足していなかったJVC側が、しぶるカーメンを口説き落として何とか弾き語りの録音にこぎ着けたという逸話がライナーノーツに書かれている。アメリカですら一度もやったことのない弾き語りを、しかもいきなりでアルバム1枚分も弾ける曲がないと最初固辞していたカーメンだったが、1曲だけでも…という熱意にほだされて思い出しているうちについに10曲以上のレパートリーが出てきた、ということだ。バラード中心の選曲で、カーメンの歌もピアノも実に素晴らしい。若い頃からエラ、サラのような派手さではなく、ビリー・ホリデイを手本に歌の表現力で生きてきたように、一行一行の歌詞を大事にして語るように唄うが、そのきれいな発音の英語は当時の他の黒人女性歌手にはなかなか聞けないものだ。したがって名盤『Great American Song Book』(1971 Atlantic)を典型的な例に、クラブ・ライヴで小編成のバックで唄うのが彼女には一番合っている。またニーナ・シモンと同じくピアノの実力もあったことから、一度弾き語りを聴いてみたい、という当時の日本側の興味と企画は実に的を得たものだ。独特の高音による金属的な声は好みが分かれるようだが、当時53歳で円熟期でもあり、その歌のうまさで声質はまったく気にならない。タイトル曲<As Time Goes By>もいいが、マーサ三宅さんも感動した<The Last Time for Love>の味わいがやはり素晴らしい。またオーディオファンの間では、ピアノの鍵盤に当たる彼女の爪の音まで収録されていると、評判になったほど優れた録音のアルバムでもある(多分それには良いオーディオ・システムが必要だろうが)。1970年代は、それまでレコードでしか聴けなかったアメリカのジャズのビッグネームが続々日本にやって来た時代で(本国で食えなくなってきたこともあって)、今思うと日本のジャズファンにとってある意味夢のような時代だった。それにしても、カーメンの録音に限らず、アメリカでは低評価だったプレイヤーや未発表音源の発掘など、バブル前70年代の日本のジャズ関係者は本当にいい仕事をしていたと思う。

2017/06/21

ウォーン・マーシュ #2

Warne Marsh
1957/58 Atlantic
ウォーン・マーシュ的には生涯で最もハイブロウな作品が、Atlanticレーベルに吹き込まれたワン・ホーンの「Warne Marsh」(1957/58)だろう。LA滞在からニューヨークに戻ったマーシュが、レニー・トリスターノの監修の元に制作したアルバムである(LPのアルバム・クレジットにもSupervision監修としてトリスターノの名前が入っている)。Atlanticには既にリー・コニッツと共演した「Lee Konitz with Warne Marsh(1955)を吹き込んでいたが、メジャー・レーベル初のワン・ホーンのリーダー作ということもあって、師匠ともども力の入ったレコーディングだったのだろう。LAでの諸作は、どれもいかにも西海岸という空気に溢れていて、非常に軽やかで清々しい雰囲気があるが、一方このアルバムは、ピアノはロニー・ボールで同じだが、LAとはまったく雰囲気の違う作品に仕上がっている。特にポール・チェンバース(b)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds) という、当時のマイルス・バンドのパワフルなリズム・セクションとマーシュの共演はどう見ても異色だ。アルバム内容を見ると、ロニー・ボール、チェンバース、フィリー・ジョー とのカルテット演奏が2曲、同じくチェンバース、ポール・モチアン(ds) によるピアノレス・トリオ演奏が4曲、計6曲という変則的組み合わせになっている。なぜだろうと、ディスコグラフィーで確認すると、実は前者のカルテットは19571212日に5曲収録され、後者のトリオは翌1958116日に5曲収録されていることがわかった。したがって、アルバム制作時に前者5曲の内3曲が、後者の1曲が "ボツ" になったということになる。しかも採用された、たった2曲しかないカルテット演奏の内、アルバム冒頭の1曲、<Too Close for Comfort>はなぜか演奏途中で(4分弱で)フェイド・アウトしているのである

この件について書かれたものを読んだことがないので、まったくの想像(妄想?)に過ぎないが、これらの選曲とテープ編集にはレニー・トリスターノの意向(と嗜好)が大きく反映されているような気がする。口を出し過ぎたので結果として「監修」とクレジットすることになったのか、最初から「監修」者なので責任上あれこれ口出ししたのか? とにかく、トリスターノがからむ話はおもしろい。しかし、そういうトリスターノの「メガネにかなった」演奏のみが選択され収録されていると考えれば、このアルバムにおける演奏のレベルと音楽的価値についての説明は不要だろう。さらにLAでの作品と印象が違う理由もわかる。リー・コニッツは、マーシュの特にチェンバース、モチアンとの4曲のピアノレス・トリオ演奏について何度も最高度の賛辞を送っている。これらの演奏からのインスピレーションが、その後コニッツのピアノレス・トリオの名作「Motion」(1961 Verve)の録音に結びついた可能性は十分にあるだろう(これも想像ですが)。蛇足ながら、特にこうしたピアノレス・トリオものを楽しむには、ある程度ステレオの音量を上げて、ベースとドラムスの動きも良く聞こえるようにしないと、レコードとプレイヤーの真価を見誤ります。

Live at the Half Note
1959 Verve
この後1959年には、コニッツ、マーシュに当時新進のピアニストだったビル・エヴァンスが加わったクラブ「ハーフノート」でのライヴ録音が残されている(ジミー・ギャリソン-b、ポール・モチアン-ds)。ビル・エヴァンスは、当日教師の仕事のために出演できなかったトリスターノに代わって急遽参加したものだという。だがコニッツ名義のこのレコード「ライヴ・アット・ザ・ハーフノート」がVerveレーベルからリリースされたのは1994年で、何とピーター・インドによる録音から35年後だが、この背景には録音テープを巡るトリスターノとコニッツの師弟間の様々な確執があったと言われている。(コニッツの演奏部分だけトリスターノがテープ編集で削除し、マーシュの部分のみ残して別のレコードとして一度リリースされたという逸話も残っている)。そうしたややこしい背景も理由の一つだったのか、「リー・コニッツ」の中でコニッツが語っているように、ビル・エヴァンスがコニッツの背後ではほとんど弾かず、まるでピアノレス・トリオのように聞こえる場面が多い。またコニッツ本人も認めているように、リズムの点を含めてこの二人は音楽的に相性があまり良くなかったようだ。だが一方のマーシュは、そうした状況だったにもかかわらず、このレコードでも相変わらず素晴らしい演奏をしていると思う。

Release Record:
Send Tape
1959/60 Wave
 
ウォーン・マーシュのこの時期の他のワン・ホーン・カルテットとしては、これもピーター・インド(b) の私家録音だが、トリスターノ派のメンバーと共演した「Release RecordSend Tape」(1959/60 Wave)がある。緊張感に満ちた高度なインプロヴィゼーションの続くAtlantic盤と違い、こちらは仲間内で非常にリラックスした当時のマーシュの演奏が楽しめる。本アルバムはマーシュ、インドの他、ロニー・ボール(p)、ディック・スコット(ds)というトリスターノ派によるカルテットの演奏が収められていて、時期からすると「ハーフ・ノート」でのライヴのすぐ後に当たる。録音された11曲はスタンダードとマーシュのオリジナルが約半々だ。「ハーフノート」でのマーシュの演奏も冴えわたっていたが、ここでは気心の知れたメンバーということもあってか、伸び伸びと独特のインプロヴィゼーションを楽しむマーシュの様子が伝わって来る好演の連続で、同じくロニー・ボールのリラックスした小気味の良いピアノも楽しめる好アルバムだ。

Crosscurrents
1978 Fantasy
マーシュはコニッツ同様に、60年代、70年代とそれほど注目を浴びたわけではないが、72年から、チャーリー・パーカーのアドリブラインを5人のサックス奏者がプレイする "スーパーサックス" の一員として参加している。その後リリースされた「クロスカレンツ Crosscurrents」(1978 Fantasy) は、リー・コニッツ、ウォーン・マーシュとビル・エヴァンス、という3人の共演(エディ・ゴメス-b、エリオット・ジグモンド-ds)で、一体どういう音楽になるのか期待一杯だったこともあって(まだVerveの「ハーフノート」ライヴ盤はリリースされておらず、初のエヴァンス・トリオとの共演に興味があった)、最初にアルバムを聴いた時は正直言って少々がっかりした記憶がある。当時はもうみんな年だったせいか、緊張感、躍動感というものがあまり感じられなかったからだが、こちらも年のせいか近年はそれなりの味わいがあるなと感じるようになった。「ハーフノート」盤同様に、ここでもエヴァンスはコニッツのバックではあまり弾いていない。しかしこのアルバム中で唯一、マーシュの短いバラード<Everytime We Say Goodbye> だけは、なぜか最初に聴いて以来ずっと耳から離れず、私にとって永遠のバラードとなった。コニッツのクールで理知的な表現とは異なり、マーシュのバラ―ドには不思議な味わいと温かみがあり、そのふわふわとした、つかみどころのない独特のテナーサックスの音色、メロディライン、演奏リズムには、マーシュにしかない音世界がある。ピッチが揺れるような、ゆらめくようなここでのマーシュのバラードは、聴いていると全身から力が脱けていくような気がするのだが、単なる抒情というものを超えて、遠くから、まるでこの世とあの世の境目から流れて来るかのような、実に摩訶不思議な音の詩になっている。ビル・エヴァンスのピアノも、コニッツのシャープな世界よりも、やはりリズムを含めてマーシュのソフトで柔軟な音世界の方がずっと相性が良いように思う。マーシュは、後年の「ア・バラード・ブック A Ballad Book」(1983 Criss Cross)でも、カルテットでこうしたバラード・プレイを中心に聞かせているので(ピアノはルー・レビー)、この独特の世界に興味がある人はぜひそちらも聞いてみていただきたい。

2017/06/19

ウォーン・マーシュ #1

テナーサックス奏者ウォーン・マーシュWarne Marsh (1927-1987) は、リー・コニッツと共にトリスターノのもう一人の高弟だった。「リー・コニッツ」のインタビューで、インプロヴァイザーとしての同僚マーシュをコニッツは何度も絶賛している。ロサンジェルスの高名な映画カメラマンとヴァイオリニストの母親という芸術家の両親の下で、裕福だが孤独な家庭に育ったマーシュは、1948年から50年代半ばまでニューヨークでトリスターノに師事していた期間を除き、1987年にLAのクラブDonte's 出演中に倒れて亡くなるまで、生涯LAを中心に活動した。サフォード・チェンバレン著の「An Unsung Cat」(謳われざるジャズマン)という伝記でも描かれ、またコニッツの発言からもわかるように、あまり自分を表に出して売り込むような人物ではなかったようだ。そのため脚光を浴びる華やかな場とは生涯縁のないミュージシャンだった。しかしジャズマンらしからぬその内省的で深く沈潜する人格からか、通常のジャズ・ミュージシャンにはない陰翳を感じさせる独特の表現力を持っていた。特にリズムは、生涯にわたってトリスターノのポリリズム的理想を忠実に追求し、類例のないリズム感覚を築き上げた。後年一層磨きをかけた変幻自在のリズムに支えられた、「水底でゆらめくような」としか形容できない不思議なラインと音色の魅力は、マーシュにしか生み出しえなかった独創的な音世界である

Jazz of Two Cities
1956 Imperial
 
トリスターノ・グループのレコードやコニッツの「サブコンシャス・リー」等で、常にサイドマンとして参加していたマーシュが、トリスターノの下を一時離れていた1956年に、故郷のLAに帰って録音した初リーダー作が「ジャズ・オブ・ツー・シティーズJazz of Two Cities」(Imperial)だ。マーシュと同じくトリスターノの弟子だったテッド・ブラウンTed Brown (1927-) と2テナーに、ロニー・ボール(p)、ベン・タッカ―(b)、ジェフ・モートン(ds)というリズム陣 が加わったクインテットによる演奏である。コニッツと同じく、マーシュも50年代半ばのこの頃の演奏が何と言っても最高で、特にこのアルバムでは、おそらく師匠の呪縛から逃れて、明るい故郷LAに戻って演奏したこともあるのか、解き放たれて伸び伸びと飛翔しているかのような実に気持ちのいいプレイの連続である。重たいジャズはどうも…という人にぜひ聴いてもらいたいアルバムだ。トリスターノ派のクールネスとジャズ的エモーションが、高いレベルで程良くバランスした最高度のジャズ的快感を味あわせてくれる演奏の典型であり、今聴いても全く色褪せていない。ロニー・ボールのピアノもその象徴で、トリスターノ的硬質感を保ちながら、実に小気味よくクールにスイングしている。

Free Wheeling
1956 Vanguard
LAにおける同時期のもう1枚は「フリー・ホイーリング Free Wheeling」(Vanguard 1956) で、こちらは同僚テッド・ブラウンのアメリカで唯一のリーダー名義アルバムであり、昔はコレクターズ・アイテムとして有名だった。マーシュに加え、1956年当時(刑務所から)復帰して間もないアルトサックス奏者アート・ペッパー Art Pepper (1925-82) がゲストで参加していたことが、本作の価値と世評を高めたことは疑いない(リズムセクションは上記マーシュ盤と同じ)。トリスターノ派のクールさとは肌合いが違う情緒纏綿たる演奏が魅力のペッパーだが、絶好調だった56年当時の彼を加えたこのメンバーの演奏の出来が悪かろうはずがなく、その邂逅が西海岸ジャズにおける最高レベルの記録として残された。聞いているとマーシュ、ブラウンの2テナーはどっちがどっちかわかりにくいが、ナット・ヘントフによるオリジナル・ライナーノーツには、ペッパーを含めた3人のソロ演奏順が記してある。

Art Pepper with
Warne Marsh
1956 Contemporary
マーシュはまた同時期に録音されたアート・ペッパーのリーダー・アルバム、「アート・ペッパー・ウィズ・ウォーン・マーシュ Art Pepper with Warne Marsh(Contemporary 日本発売) にも参加している(ロニー・ボール-p、ベン・タッカー-b、ゲイリー・フロマー-ds)。復帰後のペッパーは、1956年からチェット・ベイカーをはじめとした共演者と西海岸で矢継ぎ早に録音していたが、LAに戻っていたマーシュとの邂逅もその一つである。当時絶好調だったペッパーはもちろんのこと、そのペッパーを感動させたと言われているこのアルバムでのマーシュも、コニッツとは異なるアルトの名手を相手に素晴らしい演奏を繰り広げている。(これらの録音の一部は、ペッパーの「ザ・ウェイ・イト・ワズ The Way It Was」にも収録されている。)

Warne Marsh Quartet
1957 Mod
e
カルテット編成でマーシュの同時期のワン・ホーン演奏が聴けるのが翌1957年に録音された、ウィリアム・ボックスによるマンガチックな線画ジャケットで有名な「Warne Marsh Quartet」(Mode)だ。ピアノのロニー・ボールに加え、ここではレッド・ミッチェル(b)、スタン・リービー(ds) という西海岸のリズム陣をバックにしてスタンダード曲を中心に演奏しているが、このアルバムでも、Modeレーベルにふさわしい知と情のバランスが絶妙な全盛期のマーシュのテナーが堪能できる。


2017/06/06

リー・コニッツを聴く #3:Atlantic

1950年代半ば以降の約10年間というのは文字通りモダン・ジャズ黄金期であり、特にその頂点と言えるのは50年代後期で、ハードバップ、ファンキー、モードなど、それぞれのスタイルや演奏コンセプトを持ったミュージシャンたちでまさに百花繚乱の時代だった。その間マイルス・デイヴィスはハードバップからモードへと舵を切り、セロニアス・モンクはようやく独自の音楽の認証を得て脚光を浴び始め、ジョン・コルトレーンはシーツ・オブ・サウンドの開発を始め、オーネット・コールマンは新たなフリー・ジャズを提案し、アート・ブレイキーはジャズ・メッセンジャーズでさらに大衆にアピールし…という具合に、誰もが新たなジャズの創造と、果実を手に入れることを目指して活発に活動していた時代だった。またモンクを除けば、当時のリーダーたちはみな30歳前後で、創造力も活力も溢れていた。そのジャズ全盛期にリー・コニッツはどうしていたのだろうか?

Lee Konitz with Warne Marsh
1955 Atlantic
自身の哲学に忠実で常にブレないコニッツは、その間も独自の道をひたすら歩んでいた。短かったStoryville時代を経て、コニッツはついにメジャー・レーベルであるAtlanticと契約する。その最初のアルバムが「リー・コニッツ・ウィズ・ウォーン・マーシュ Lee Konitz with Warne Marsh」(1955)だ。このアルバムは、コニッツにとって最も有名な録音の1枚だが、メンバーがウォーン・マーシュ(ts)、サル・モスカ(p)、ロニー・ボール(p)、ビリー・バウアー(g)、というトリスターノ派に加え、オスカー・ペティフォード(b)、ケニー・クラーク(ds) というバップ系の黒人リズム・セクションが参加したセクステットであるところが、それまでのコニッツのリーダー・アルバムとは異なる。コニッツのアルト、マーシュのテナーによる対位法を基調とした高度なユニゾンは、トリスターノのグループ発足後約7年を経ており、テナーの高域を多用するマーシュと、アルトをテナーのように吹くコニッツとの双子のような音楽的コンビネーションは既に完成の域に達していたはずで、ここでも全体に破綻のない見事な演奏を聴くことができる。しかしペティフォード、クラークという強力なリズム・セクションの参加が、トリスターノ派とは異なる肌合いを与えているせいなのか、当時の他のコニッツのワン・ホーン・アルバムに比べると、バランスはいいのだがどこか独特のシャープネスや閃きのようなものが欠けていて「重い」、という印象を以前から個人的に抱いていた。アンディ・ハミルトンの「Lee Konitz」を読むと、当時常用していたマリファナの影響で、リーダー録音であったにもかかわらず、実は録音当日の体調が思わしくなく、本人もこの録音における自分の演奏には満足しておらず、特にマーシュとの一体感に問題があったとコメントしている。自己評価が非常に厳しい人なので割り引いて考える必要もあるが、確かに名盤だが、何となく50年代の他のアルバムと違う印象を持った理由がわかった気がした。とは言え、飛翔しつつあったコニッツ、マーシュという、この時代のトリスターノ派の最盛期の共演を代表するアルバムであることは確かだ。

Lee Konitz Inside Hi-Fi
1956 Atlantic
その後コニッツは1956年に「Lee Konitz Inside Hi-Fi」、「Worthwhile Konitz」、さらに「Real Lee Konitz」という3枚のLPAtlanticに吹き込む。(正確に言えば、「Worhwhile Konitz」はAtlantic本社に残された未発表音源を日本のワーナー・パイオニアが1972年に編集したLPが原盤である。)「Inside Hi-Fi」はサル・モスカ(p)、ビリー・バウアー(g)、ピーター・インド/アーノルド・フィシュキン(b)、ディック・スコット(ds)とのカルテットによる1956年の別々のセッションを収めたもので、コニッツはそこでテナーも吹いている。その時サル・モスカが参加した録音の残りのセッションと、同年のジミー・ロウルズ(p)、リロイ・ヴィネガー(b)、シェリー・マン(ds)という、珍しい西海岸のプレイヤーと有名曲を演奏したLA録音を組み合わせたのが日本編集の「Worthwhile」である。

Real Lee Konitz
1957 Atlantic
Real Lee Konitz」は1957年2月のピッツバーグでのクラブ・ライヴを、ベース奏者で録音技師でもあったピーター・インドが録音し、それをコニッツが後でテープ編集して仕上げたといういわくつきのレコードだが、完成した演奏は素晴らしい(ビリー・バウアー-g、ディック・スコット-ds、一部ドン・フェラーラ-tp)。テープ編集は今どきは当たり前に行なわれている録音方法だが、当時なぜコニッツがこの手法を取り入れたのかは調べたが不明だ。それ以前からテープ編集が得意だった師匠レニー・トリスターノの影響だったのかもしれない。”Real" の意味を考えたくなるが、これがAtlantic 最後の作品となった。


Worthwhile Konitz
1956 Warner Pioneer(LP)
他の2枚のLPは今でもCDで入手可能だが、日本編集盤のLP「Worthwhile Konitz」は単体ではCDリリースされておらず、唯一これら3枚のAtlanticLP音源をまとめた2枚組コンピレーションCDで、私が保有しているThe Complete 1956 Quartets」(American Jazz Classics)でのみ聴けるが、このCDは今は入手困難のようだ(ただしMozaicのコンプリート版には収録されているだろう)。Atlantic時代は、言うまでもなくStoryvilleに続くコニッツの絶頂期であり、これらのアルバムにおける演奏はどれも高い水準を保ち、当時のコニッツの音世界が楽しめる。選曲もポピュラー曲が増え、アブストラクトさもさらに薄まり、一言で言えば聴きやすくわかりやすい演奏に変貌していることが明らかだ。

2017/06/04

リー・コニッツを聴く #2:Storyville

Jazz at Storyville
1954 Storyville
私的にはリー・コニッツ絶頂期と思えるのが、1950年代中期の Storyville レーベルの3部作で、いずれもワン・ホーン・カルテットである。1枚は、当時ボストンのコープリー・スクエア・ホテル内にあったジョージ・ウィーンが所有していたジャズクラブ「Storyville」でのライヴ録音「Jazz At Storyville」(1954)、もう1枚は同年のスタジオ録音「Konitz」、最後の1枚は「In Harvard Square」で1954/55年に録音されている。「Jazz At Storyville」は、絶頂期を迎えつつあったコニッツの演奏をライヴ録音したことに価値がある。ラジオ放送したものなので、冒頭、中程、最後とJohn McLellandMC3度入っているが、録音もクリアで、当時のジャズクラブの雰囲気が臨場感たっぷりに楽しめる(週末や翌週ライブの案内など)。ロニー・ボール (p)、パーシー・ヒース(b)、アル・レビット (ds)というカルテットで、自信に満ち、イマジネーション豊かな、まさに流れるようなアドリブで当時の持ち歌を演奏するコニッツのアルトは素晴らしい。

Konitz
1954 Storyville
スタジオ録音「Konitz」は、ロニー・ボールに加え、ピーター・インド (b)、ジェフ・モートン (ds)というトリスターノ派のメンバーで固めた演奏である。この時期のコニッツの音楽が素晴らしいのは、言わばクール・ジャズと当時主流だったハードバップのほぼ中間地点にいて、知的クールネスとジャズ的エモーションの音楽的バランスが見事なのだ。それはハードバップ系の他のどのジャズ、どのミュージシャンとも違う、コニッツだけが到達しえた独創的な世界だった。この後のAtlanticVerve時代は、よりハードバップに接近した演奏が増え、ウォーム・コニッツなどとも呼ばれることになるが、そこに奏者としてより円熟味も加わっているので、どちらがいいかは聴く人の好みによるだろう。いずれにしても、私が好きなStoryville時代は、若さ、技量、イマジネーションが3拍子揃った「旬の」 コニッツが聴ける。

In Harvard Square
1954/55 Storyville
グリーンの美しいLPジャケットもあるが、私は特に「In Harvard Square」が当時のコニッツの音楽的バランスが絶妙で好きだ(サポート・メンバーは「Konitz」と同じ)。どの演奏も難解でもないし、気疲れもしない、非常に心地良いジャズだが、音色、紡ぎ出すライン、時折のテンションにはクール・ジャズの魅力が溢れていて今聴いても新鮮だ。これら3枚のアルバムすべてに参加している、トリスターノ派の盟友であったロニー・ボールの軽快でよくスウィングするピアノも、コニッツの滑らかで高度なアドリブを見事にサポートしている。ロニー・ボールもトリスターノとバップ・ピアニストの中間にいて、冷たくもなく、熱すぎもせず、イギリス人らしい小気味の良いピアノを弾く人だ。これら3枚どのアルバムからも、即興演奏に命を懸けたようなストイックで切れ味鋭い1950年前後のコニッツの演奏から、クールネスを基本にしながらも、メロディを意識したより歌心に溢れた演奏に変貌していることがよくわかる。トリスターノの呪縛からようやく解き放たれて、リー・コニッツ自身のスタイルをほぼ築き上げつつあった時代だと言えるだろう。

コニッツのインタビュー本「Lee Konitz」でのこの時期についてのコメントは、プロモーターだったジョージ・ウィーンによる「コニッツLA置いてけぼり事件(LAギグの帰りの切符をウィーンが手配していなかった)」しか出て来ない。著者アンディ・ハミルトンに何故なのか質問してみたが、2人の間ではSroryville時代に限らず、50年代のレコードに関する話はほとんど出て来なかったということだ。著者自身が好きなこの時代のレコードがAtlanticの「ウィズ・ウォーン・マーシュ」で、その話が中心だったこと、それに何せ当時80歳近かったコニッツも、この時代の細かなことはもうほとんど忘れかけていたということらしい。

2017/05/31

レニー・トリスターノの世界 #3

レニー・トリスターノの音楽コンセプトが、その後アメリカにおけるジャズの深層に様々な影響を与えていたことは事実だが、それを直接継承した音楽家はリー・コニッツやウォーン・マーシュのような弟子の他、一世代後のピアニストで同じく弟子だったコニー・クローザーズなどの限られた人たちだけだったようだ。しかし1970年代に入って、日本でそのコンセプトを継承し、自らのジャズとして追及し続けたミュージシャンが存在した。それがギタリストの高柳昌行 (1932-91) である。 

Cool Jo-Jo
高柳昌行
TBM 1978
「クール・ジョジョ Cool Jo-Jo」(1978 Three Blind Mice) は、弘勢憲二(p&ep)、井野信義(b)、山崎泰弘(ds)からなる高柳昌行のカルテット “セカンド・コンセプト”  がトリスターノ派ジャズに挑戦したアルバムである。選曲はレニー・トリスターノの<317 East 32nd>など2曲、リー・コニッツの<Subconscious-Lee>など3曲、ロニー・ボール作1曲、高柳自作曲が2曲という構成で、CDには4曲の別テイクが追加されている。高柳は当時、阿部薫(as)とのデュオ「解体的交感」(1970) や、“ニュー・ディレクション”という別グループによるフリー・ジャズ追求を経て、一方で伝統的4ビートによるトリスターノ派のクール・コンセプションをこのグループで追求していた。作品タイトル「クール・ジョジョ」(ジョジョは高柳の愛称)はそれを表している。このアルバムに聴ける演奏は、言うまでもなく日本におけるクール・コンセプションの最高峰の記録だろう。高柳のギターは、トリスターノのグループにおけるリー・コニッツの役割になるが、そのラインをコニッツのアルトサックスのラインと比較しながら聴くと実に興味深い。このグループではもう1枚、ライヴ録音として本作の1週間前に吹き込まれたアルバム「セカンド・コンセプト」(ライヴ・アット・タロー)が残されている(ベースは森泰人)。

Second Concept
Live at Taro
1978
高柳昌行の即興思想とアルバム・コンセプトについて、本作録音後の1980年のあるインタビューで、高柳自身がこう述べている。

『クールという言葉でたまたま呼ばれているが、あの音楽の内面は凄まじく熱いものだよ。外面的には冷たく見えても、精神的な部分は手がつけられないほど熱く燃えているんだ。日本でエネルギッシュだとかホットだとかいう言葉で表されるものは身体が燃え上がるような状態を言うようだが、本当は内面的に燃え上がっていなければ、熱いとは言えないと思うな。そして、その燃える部分はやはりアドリブだと思う。ジャズの命は何と言ってもアドリブなんだ。ミュージシャンが自身を最大限に表出できるクリエイティブな部分、アドリブが強烈な勢いを持っていなければだめだ、と今さらのように思うよ。
 トリスターノ楽派の音楽にはそれがあるんだ。平たく言えばジャズってのは、ニグロの腰ふりダンスだ。しかし、音楽として存在し続けるためには高度な内容を持たなければならない。そういう意味で、最も純粋なものを持っているのが、トリスターノだと思うわけ。音の羅列(られつ)の仕方だとか、ハ-モニ-など追求していくと、その高度な音楽性には脱帽するしかないよ。現時点で考えてみてもその音楽性は1歩以上進んでいるよ。建築の世界に移して考えてみればよくわかるが、パーカーは装飾過多のゴシック建築、トリスタ-ノの音楽は、シンプルで優美な直線と曲線を見事に組み合わせた近代建築なんだ。現代にも通じる美の極致だよ。シンプルなホリゾンタル・ライン、それでいて、信じられない程良く考え抜かれた曲線性、そして複雑この上ない音の羅列。<サブコンシャス・リ->なんて<恋とは何でしょう>のあんな簡単なコード進行からあれだけのリフ・メロディを生み出すなんて、ちょっと信じられないものがあるよ。こうして僕がしつこいまでにトリスターノを追う理由の一つがそれなんだ。僕はジャズの音楽家だし、そういうジャズの内面的な質の高さを伝えていきたいんだ。
 猿マネして黒人の雰囲気を伝えるのがジャズじゃないよ。自分の中で、自分なりに消化されたものをアドリブとして表出する。それこそが今僕がやり続けていきたいことなんだ。それを失っちゃったら全部白紙。これは最後の歯ドメでもあるわけ。でも、そういういいものはなかなか理解されないよね。これは明白な事実だから、あえて言う必要もないが、音楽的な純粋さとコマーシャル性は両立しないものなんだ。となれば、首のすげかえを心配してこうした音楽をとり上げようとするプロデューサーがいなくなるのも当然だよね。そこへいくとTBMの藤井(武社長)さんは大将なわけでね。ジャズの本当に熱い部分に真剣に取り組んでくれて、うれしいよね』
高柳昌行に師事していたギタリストには大友良英、廣木光一のような人たちがいるが、本コメントは、同じく一時期師事していたギタリスト、友寄隆哉氏のブログ内論稿から転載したものです。)

リー・コニッツ本人を除き、トリスターノ派の音楽の本質をこれほど正確に表現している言葉はこれまで聞いたことがない。”クール” については、「リー・コニッツ」のインタビューで後年コニッツが述べているのと同じ趣旨のことを語っているし、他のインタビューでのフリー・インプロヴィゼーションに対する思想も、「テーマも何もない白紙から始めるべきだ」というコニッツとほぼ同じことを言っている。2人はジャズ音楽家として共通する哲学を持っていたのだろう。高柳昌行という人は強烈な個性を持ったカリスマ的人物だったようだが、トリスターノ派の音楽を求道者とも言えるほどの情熱を持って理解し、尊敬し、しかも「日本人のジャズ」としてそれに挑戦しようとしていたジャズ・ミュージシャンが、当時の日本(フュージョン時代)にいたことに驚く。悠雅彦氏のライナーノーツによれば、この録音テープを児山紀芳氏が米国に持ち込み、リー・コニッツとテオ・マセロに聞かせたところ、その素晴らしさに二人ともびっくりし、コニッツは予定していた来日時に高柳と共演したいという提案までしたらしい。残念ながら来日がキャンセルになったために、共演はかなわなかったようだ。コニッツの演奏スタイルは、当時はかなり変貌してはいたものの、もし二人の共演が実現していたら、どんなに刺激的で興味深い演奏になっただろうかと想像せずにいられない。