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2019/03/15

ニカ男爵夫人を巡る4冊の本

The Baroness
Hannah Rothschild
2012
1955年、スタンホープ・ホテル自室でのチャーリー・パーカー変死事件の後、タブロイド紙やゴシップ記者に常に追い回されるようになったニカ夫人は、インタビューを含めて公の場から姿を隠すようになった。以降ニカ夫人への直接インタビューを公表した記録は、1960年の「エスクワイア」誌でナット・ヘントフが書いた記事 "The Jazz Baroness" だけで、それ以外で公に残されているのはモンクのドキュメンタリー映画『Straight, No Chaser』(1988年)の中で話す本人の姿と音声だけである。ロビン・ケリーの『Thelonious Monk』にも、ニカ夫人はあちこちに登場するが、この本はあくまでモンクの人生を中心に、アメリカ黒人史とジャズ史、ネリー夫人や親族、マネージャーなど、モンクを支えた周辺の人々を描いた物語なので、当然ながらパトロンとしてその一人だったニカ夫人の人物としての造形にそれほど記述を費やしているわけではない。一方、今回出版したイギリスのハナ・ロスチャイルドの『The Baroness; The search for Nica, the rebellious Rothschild』(2012年)は、原書タイトルからもわかるように、ニカ夫人の実家であるイギリス・ロスチャイルド家、彼女の出自、経歴などを初めて詳細に語った本で、前半部で主としてロスチャイルド家に関わる物語、後半部でニューヨーク移住後のジャズとモンクとの関係を描いている。著者がロスチャイルド家の一員であることから、厳格な秘密主義を貫く同家情報へのアクセス上の有利さを生かして、ケリーのモンク伝記にはあまり書かれていなかったニューヨーク移住に至るまでのニカ夫人の半生と、その背景がよくわかる構成と内容になっている。またロスチャイルド・アーカイブから引用した幼少期のニカ夫人や家族を撮影した多くの初出写真は非常に貴重だ(残念ながら、邦訳版にはすべてを収載できなかったが)。海外の読者の反応を見ると、やはり前半のロスチャイルド家に関する部分により興味を感じている様子がうかがえる。これは物語としての新鮮さと面白さもあるが、謎多き同家に対する西欧世界の関心の高さを示すものと言ってもいいのだろう。しかし一方で、後半のニューヨーク移住後のニカ夫人とジャズやモンクとの関わりについて言えば、情報の絶対量が少なく、ケリーのモンク伝記など既存文献と重複した部分や引用が多いことと、著者のジャズに関する知識に限界があるという背景もあって、コアなジャズファンの見方からすると、やや物足りなさを感じる可能性はあるだろう。合わせ鏡のように両書を読めば、モンクとニカ夫人の実像が更に見えて来ることに間違いはないが、実はアメリカでは、この2冊の他にもニカ夫人を取り上げた書籍がほぼ同時期に出版されている。

Nica's Dream
David Kastin
2011
その1冊は、デヴィッド・カスティン (David Kastin) が書いた『Nica’s Dream; The Life and Legend of the Jazz Baroness』(2011年) である。カスティンはニューヨークの名門スタイベサント高校(モンクが中退した学校)で、英語教師をしながらジャズやアメリカ音楽に関する記事を書いてきた人で、2006年に「Journal of Popular MusicSociety」誌にニカ夫人に関する記事(Nica's Story) を寄稿し、それが好評だったこともあって、その後もインタビューや調査を続けながら、5年後の2011年にこの本を出版している。この本は未邦訳だが、その一部が村上春樹の翻訳アンソロジー『セロニアス・モンクのいた風景』(2014年 新潮社) の中に収載されている。ニューヨーク在住の米国人音楽ライターであるカスティンの本は、イントロをパーカー変死事件で始め、ニューヨークのジャズシーンにおけるニカ夫人の存在に比重を置いており、ハナ・ロスチャイルドの本に比べると、当然ながらジャズ関連情報の量、洞察の質の両面で、よりジャズ寄りだが、一方でニューヨークに来る前のロスチャイルド家側を中心にした彼女の来歴情報は、同家の強固な秘密主義によって入手するのが難しかったと著者自身が語っている。カスティンのアプローチは、ジャズとニカ夫人の関係を、ケリーと同じくノンフィクション作品として正攻法で正確に描こうとしている。一方、ハナ・ロスチャイルドの本はカスティンの淡々とした筆致とは対照的でニカ夫人本人や彼女の兄姉をはじめ、ロスチャイルド家の親族たちと実際に面識があり、彼らに対する情愛と一族の異端児の物語としてのロマンを常に感じさせるが、ノンフィクション作品としては細部が多少甘い部分がある。残されている記録の大元は同じなので、両書で取り上げているエピソードに大きな違いはないが、事実関係についての細部の語り口が違う。ハナは次作では小説 (『The Improbability of Love』2015) を発表しているように、映像作家でもある彼女は、細かな事実を積み上げてゆくことよりも、むしろストーリー・テラーとしての資質が強い人なので、ハナの本は物語性が強く、ノンフィクションというよりも小説を読んでいるような気がしてくるのが特徴だ。したがって、このへんは読者側の好みもあるだろうと思う。あるいは、ロスチャイルド家を中心としたニカ夫人の前半生とその人物像はハナの本で、ジャズやモンクの音楽との関係を中心とした後半生はカスティンの本で、という読み方もできるだろう(掲載写真も前者は主としてロスチャイルド家関連、後者はニューヨーク時代が中心である)。私がハナの本を邦訳した理由は、やはりロスチャイルド家側を核にしたニカ夫人の人物と経歴描写の具体性と物語性が新鮮で、そこにより強い興味を抱いたからだ。

Three Wishes
Nadine de Koenigswarter
2006 (仏) / 2008 (米)
もう一冊『Three Wishes; An Intimate Look at Jazz Greats』(2008年) は、文章ではなく、写真と短いインタビュー回答文によるユニークな構成の作品で、ニューヨーク時代のニカ夫人とジャズ・ミュージシャンたちの交流が、いかに広範かつ親密で、想像以上にものすごいものだったかという事実を衝撃的に示す、いわばジャズ・ドキュメンタリー書籍だ。上記の本では想像するしかなかった彼らの実際の交流の模様と関係が、ニカ夫人自らがポラロイド・カメラで撮影した数多くのジャズ・ミュージシャンの写真の中にリアルに残されているからである。そして、"If you were given three wishes, to be instantly granted, what would they be?"  (今すぐかなえてもらえる3つの願い事があるとしたら、それは何かしら?) というニカ夫人の質問に対して、セロニアス・モンクに始まる約300人のジャズ・ミュージシャンの回答(1961年から66年)をニカ夫人が書き留め、それが上記写真群と併せて掲載されている。中にはバド・パウエルのパトロンだったフランシス・ポードラの写真や回答(フランス語風の英語発音をニカ夫人がそのまま綴っている)や、秋吉敏子の名前もある。超有名人から無名のミュージシャンまで、おふざけから真摯なものまで、バラエティに富むそれらの回答は実に示唆に富んでいて、当時のジャズが置かれた状況から、個々のミュージシャンの性格、人生観、理想、悩み、苦しみまでが短い答の中から見事に浮かび上がっている。モンクやコールマン・ホーキンズ、ソニー・ロリンズ、アート・ブレイキー、ソニー・クラーク、ホレス・シルヴァーといったニカ夫人と特に親しかったミュージシャンをはじめ、マイルス、コルトレーン、フィリー・ジョー、ミンガスなど、綺羅星のようなモダン・ジャズのレジェンドたちの言葉と、大部分がウィーホーケンのニカ邸(Cathouse あるいは Catville)で撮影された、素顔をさらけ出してリラックスしている多くのミュージシャンたちのスナップショットが渾然一体となって、この本自体がまさにモダン・ジャズの世界そのもののようだ。ジャズファンにとっては、今にもそこから音が聞こえてきそうな文字通り夢のような本である。生前出版しようとして果たせなかったニカ夫人の遺志を継いで、ナダイン・ド・コーニグズウォーター(英語読み)という、ハナ・ロスチャイルドと同じくニカ夫人を大叔母とする、フランスのコーニグズウォーター家(ニカ夫人の元夫側)のヴィジュアル・アーティストが、ニカ夫人の子供たちの協力を得て編纂し、2006年にフランスで出版して好評を博し、その後英語版としてゲイリー・ギディンズの序文を加えて2008年に米国で出版されている。私が読んだのはこの英語版だが、仏語版も含めて編集した邦訳版も出版されている(2009年、P-Vine Books)。ただミュージシャンたちの英語の回答はほとんどが短いもので、イメージを膨らませながら彼らの生の言葉を原文で味わうのも楽しいので、興味のある人はぜひ英語版を読まれてはどうかと思う。掲載されているカラーとモノクロ写真の多くは構図も質もプロの撮った写真とは違うし、保存状態も様々だが、何よりミュージシャンたちの飾り気のない姿がどれも生きいきとしていて美しく、彼らを見つめるニカ夫人の眼差しがどのようなものだったか、ということが実に鮮明に伝わってくる。ちなみに、この英語版の表紙に使われている写真は、セロニアス・モンクと、モンクを長年支えたテナー奏者チャーリー・ラウズである。

Thelonious Monk
Robin D.G. Kelley
2009
ハナ・ロスチャイルドが制作したドキュメンタリー映画『The Jazz Baroness』(2008年)も含めて、これらはいずれもニカ夫人の没後20年(2008年)という節目前後に発表されており、おそらく関係者の多くが既に物故したことなどもあって、ロスチャイルド家からの資料提供や使用許諾などが以前より得やすい段階に入り、公表できる環境が整ってきたことが背景にあるのだろう。デヴィッド・カスティンは、ロビン・ケリーとは執筆中から交流していて、互いに情報や意見をやり取りしていたという。またカスティンの本には、ハナ・ロスチャイルドとのインタビューから聞き取った事例も引用されているが、ハナの本でも同じ話が本人の語り口を通して書かれている。またハナ自身もロビン・ケリーにインタビューしている。今回私が邦訳したハナの本『The Baroness』は、長い取材期間を経て、ロビン・ケリーのモンク伝記の3年後、カスティンの本の1年後、2012年に出版されているので、この当時3人のライターが、それまで神話と伝説に包まれていたセロニアス・モンクとニカ夫人の真の姿を描き出そうと、それぞれの視点からほぼ同時期にチャレンジしていた様子が伝わってくる。二人が生きた20世紀半ばという時代、あまりに個性的な彼らの破天荒な生き方、そして両者にまつわる謎を、ジャズという音楽を介して掘り起こし、捉えなおす作業は、3人のライターにとってはさぞかし刺激的かつ魅力的なものだっただろうと想像する。3冊の本には当然ながら重複する部分も多いが、実際どの本もジャズファンなら楽しんで読める内容であり、ニカ夫人に対するそれぞれの著者の視点、力点も違う。たとえば、ケリーは「モンクとニカ」、カスティンは「ジャズとニカ」、ハナは「私とニカ」というそれぞれ固有の視点で描いており、ノンフィクション作品として対象としているニカ夫人との距離感が異なる。しかし事実に関する情報という点からは、相互に補完し合う関係にもなっているために、これら3冊の本によってニカ夫人の実像がより立体的に浮かび上がって来る。そして第三者の文章では決して描ききれない世界を、ニカ夫人自身が捉えたミュージシャンの肉声とヴィジュアル情報でストレートに伝えている『Three Wishes』は、3冊の本が描く物語を補完し、そこに一層のリアルさを付加している本だが、それと同時に単独書として、ジャズ書史上でも唯一無二とも言うべき圧倒的な存在感と魅力を放っている。

これら4冊の本が2008年以降5年ほどの期間に相次いで発表されたことによって、モンクとニカ夫人にまつわる神話や謎が完全に解明されたとまでは言えないまでも、二人の実像らしきものがようやく見えてきたことは確かだろう。しかし、ハナも自著で触れているように、公に報道されたものを除き、故人の生前記録はすべて抹消するというロスチャイルド家の家訓と、伝記を含めて彼女に関するいかなる企画にも協力しない、とニカ夫人の子孫たちが合意していることもあって(『Three Wishes』の写真とインタビューは唯一の例外である)、今後彼女に関する新たな情報が出て来るかどうかは疑問だ。モンクとニカ夫人と特に親しく、いちばん身近で二人を見ていた存命のジャズ・ミュージシャンは、おそらくウィーホーケンのニカ邸で一緒に暮らしていたバリー・ハリスと、二人といちばん親しかったソニー・ロリンズだと思われるが、調べた限りハリスがこれまで二人について詳しく語ったことはないようだ。ロリンズも知人について語ることを基本的に拒否してきた人物のようなので、この可能性も低いだろう。またニカ夫人が、モンクを中心に幾多のジャズレジェンドたちの演奏をジャズクラブ、コンサートホール、ホテル自室、ウィーホーケン自邸で収録していた数百時間に及ぶとされる未公開の私家録音テープも存在するが、それらも依然としてロスチャイルド家の管理下にあって、門外不出と言われている。仮にこれらの録音がいずれ陽の目を見ることになれば、まさにロスチャイルド家が間接的に支援したツタンカーメン王墓発見並みの、ジャズ史上最大の未発表音源発掘となることだろう。それと同時に、音によるドキュメンタリーとして、上記4冊の本の世界にさらなるリアリティと深みを付加することは間違いない。これは20世紀のジャズを愛するジャズファンに残された、最大にして最後の夢というべきものだろう。

1982年にモンクが亡くなった後、予想外の死亡原因となった1988年の心臓手術の前日に、ニカ夫人は病室のベッドで、その少し前に亡くなった姉のリバティとモンクの二人がすぐそこにいるような気がする、と子供たちに語ったという。またモンクを長年献身的に支えたテナー奏者で、ニカ夫人とも親しく交流してきたチャーリー・ラウズが、ニカ夫人と同年同日の11月30日に肺癌のためにシアトルで亡くなっている。同じ年1988年に制作されたモンクのドキュメンタリー映画『Straight, No Chaser』には、ニカ夫人、ラウズの二人も登場しており、「そろそろ、このへんで…」と、まるでモンクが二人一緒に迎えに来たかのようである。知れば知るほどニカ夫人にはまだまだ謎と伝説が多く、その人物と人生に興味は尽きない。

2017/10/23

モンクを聴く #10:Les Liaisons Dangereuses (1958-59)

TILT
Barney Wilen
(1957 Swing/Vouge)
ジャズとパリとの関係は、50年代後半のフランス映画が象徴的で、ケニー・クラークやパド・パウエルをはじめとする多くのジャズメンも、パリに移住するなど、ジャズとミュージシャンたちを温かく迎え入れたこの街を愛した。ところがモンクは、1954年の初訪問だったパリ・ジャズ祭での評判が散々だったこともあって、その後1961年に初のヨーロッパ・ツアーで再訪するまで一度もパリを訪れていない。しかしモンクをパリに連れて行ったアンリ・ルノーのように、フランスには1940年代のブルーノート録音時代からモンクに注目していた現地のミュージシャンもいたのだ。フランス人テナー奏者バルネ・ウィラン (1937-96) も19歳のデビュー・アルバム 『ティルト TILT』19571月録音)で、早くもモンクの曲を6曲も取り上げ(LPで<Hackensack>、<Blue Monk>、<Misterioso>、<Think of One>の4曲、さらにCDで<We See>、<Let's Call This>の2曲追加)、モダンで滑らかなモンク作品のフランス流解釈を披露している。驚くのは、この録音がスティーヴ・レイシーの全7曲のモンク作品による『REFLECTIONS』(195810月録音)の19ヶ月も前だということだ。調べたことはないが、モンク本人との共演を除き、モンクの作品をこれだけ取り上げたホーン奏者はバルネ・ウィランが世界初だったのではなかろうか? ウィランはつまり、それ以前からモンク作品の研究をしていたということだろう。

Les Liaisons Dangereuses 1960
(1959 Rec/2017
Sam Records/Saga Jazz)
第19章 p371-
バルネ・ウィランとモンクとの関係については、本ブログの4/144/18の「危険な関係サウンドトラックの謎」、「バルネ・ウィラン」両記事で詳述している。ところが、ロビン・ケリーの本に詳しく書かれているフランス映画『危険な関係』サウンドトラックの逸話と、その後自分で調べた真相(?)に関するこの記事を書いた時点では知らなかったのだが、1959年にモンクとウィランが共演し、サウンドトラックとしては使われたが、レコード化されなかった未発表音源が今年2017年になって初めてリリースされていたのである。それが2枚組CD『Thelonious Monk - Les Liaisons Dangereuses 1960』 (Sam Records/Saga Jazz)で、ロビン・ケリーも含めた数人の解説者による60ページ近いブックレットを読むと、さらに細かいが面白い話が色々と書かれている。このブックレットには、録音内容を記録したメモや、ノラ・スタジオでの録音風景を撮影した写真もたくさん掲載されており、麦藁帽子(本書に逸話が書かれているように、これは中国製ではなく、アフリカの打楽器奏者ガイ・ウォーレンが送ってきた北部ガーナの農民の帽子だ)をかぶったモンクとレギュラー・メンバーの他、客演した当時22歳のバルネ・ウィラン、さらにネリー夫人、ニカ夫人の姿も写っている。これだけでも非常に貴重な史料だ。

この音源は、ロジェ・ヴァディムの『危険な関係』の音楽監督だったマルセル・ロマーノ(1928-2007)の死後、ジャズマニアの友人が保管していたロマーノのアーカイブの中から、2014年に55年ぶりに「発見」されたものだという。ロマーノはフランスのジャズ界では著名な人物で、1950年代にはバルネ・ウィランのマネージャーもしていて、ロビン・ケリー書の記述では1957年にNY「ファイブ・スポット」でモンクと会ったという話だが、実は1954年のモンクの初来訪時に既にパリで会っていたという(ウィランの上記アルバムでのモンク研究の痕跡を見れば、マネージャーだったロマーノがモンクと会っていてもおかしくない)。そのロマーノの残したテープの中に、ウィランの未発表音源がないかどうかFrancois Le Xuan Saga Jazzの創設者)と友人のFred ThomasSam Recordsの創設者)が探しているときに偶然そのテープを見つけたのだという。1958年夏に、ロジェ・ヴァディムとロマーノはモンクにサウンドトラック作曲の申し入れを行なったのだが、モンクはなかなか受け入れようとしなかった。1959年の夏、映画完成の直前になってようやく承諾したものの、サウンドトラック向け新曲は結局1曲も書けずに、既存の自作曲を録音することになったが、これはその時の演奏を録音したテープだったのだ。

実は、モンクは1958年10月デラウェア州でニカ夫人、チャーリー・ラウズと一緒に、麻薬所持を理由に警察による逮捕、暴行被害に合い、その後精神的に不安定になってしばらく入院していたが、その時またもや(3度目である)警察にキャバレーカードを無効にされ、ニューヨークのクラブで仕事ができなくなった。さらに翌1959年2月には、モンクが期待し、精魂込めて取り組んだ「タウンホール」のビッグバンドのコンサート後、批判的な論評に怖気づいたリバーサイドが、予定していた8都市のコンサート・ツアーをキャンセルしたために、モンクには唯一の収入の見込みがなくなってしまったのだ。精神的に落ち込んだモンクは、4月にはボストンのクラブ「ストリーヴィル」出演後行方不明になって、グラフトン州立精神病院に収容され、その後抗精神病薬の治療を受けるようになった。それやこれやで、この映画音楽の依頼を受けた当時、モンクはとても新しい曲を書けるような精神状態になかった、というのが本ブックレットでロビン・ケリーが述べている見方で、このいきさつは本書にも書かれている。

仏映画「危険な関係」
第19章 p371-
1959727日にNYノラ・スタジオで録音されたステレオ音源は、モンク、チャーリー・ラウズ(ts)、サム・ジョーンズ(b)、アート・テイラー(ds)という当時のレギュラーカルテットに、直前のニューポート・ジャズ祭でアメリカデビューを果たしたバルネ・ウィラン(ts) が客演した2テナーのクインテットによるものだ。お馴染みの曲が中心だが、リバーサイド時代のモンクには、このレギュラー・カルテットを中心にしたスタジオ録音は1作(『5 by Monk by 5』)しかないので、その意味でも貴重な録音だ。
2枚のCDの収録内容は以下の通り。
<CD1> Rhythm-a-Ning/ Crepuscule with Nellie/ Six in One (solo)/ Well, You Needn’t/ Pannonica (solo)/ Pannonica (solo)/ Pannonica (quartet)/ BaLue Boliver Ba-lues-Are/ Light Blue/ By and By (We'll Understand It Better) 
 <CD2> Rhythm-a-Ning(alt.)/ Crepuscule with Nellie (take 1)/ Pannonica (45 master)/ Light Blue (45 master)/ Well, You Needn’t (unedited)/ Light Blue (making of)

このテープは、翌728日、29日のアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズによる演奏(こちらは<No Problem> などのデューク・ジョーダン作品)を収録した録音テープと一緒に、ロマーノが映画の完成に間に合わせるために急いでパリに持ち帰ったものだ。映画冒頭のタイトルバック<クレパスキュール…>や<パノニカ>をはじめ、これらの演奏は映画中で何度も使われている。特筆すべきは、おそらくロマーノ所有のマスターテープの保存状態が良かったために、多分あまり加工していないこのステレオCDの音は非常にクリアで、音場も良く、モンクのピアノも、各メンバーの楽器もボディ感のある鮮明な音で再生できることだ(同時発売のアナログ盤はきっとさらに良いのだろう)。リバーサイド時代のモンク作品の録音は、どれもいまいちのように思うが、その中で比べても一番良い音だと思う。このセッションは、モンクにとってリバーサイド最後のスタジオ録音となった『5 by Monk by 5』 録音(19596月)の直後で、モンクの体調も回復し、チャーリー・ラウズがようやくモンクの音楽に馴染んだ頃でもあり、ラウズのプレイも非常にスムースだ。モンクとの最初にして最後の共演となった若きバルネ・ウィランは時々トチっている部分もあるが、4曲に参加して堂々とプレイしている。おそらくアンニュイな映画のイメージを意識したのだろう、ほとんどの曲がテーマ中心に比較的短く、かつゆったりとしたテンポで演奏されている。印象的な<Six in One>は、この時名付けられたモンクのソロによる即興のブルースで、同じ年10月のSFでのソロアルバムで、多少変形されて<Round Lights>として演奏された曲だ。CD2の<Light Blue>メーキングでは、アート・テイラーのドラムスのリズムを巡って、延々と続く(?)スタジオ内のモンクたちの会話も捉えられている。

1960年に公開された映画『危険な関係』がヨーロッパで大ヒットしたこともあり、翌1961年に7年ぶりにパリを再訪し「オリンピア」劇場で公演したモンクは54年の時とは打って変わって熱狂的な聴衆に迎えられた。当時アメリカでもようやく名声を高めていたモンクは、文字通り凱旋を果たしたのである。パリは、1954年のニカ男爵夫人との出会いがあり、愛弟子バド・パウエルが暮らしていた場所でもあり、その後のモンクの人生に大きな影響を与えた街だった。

2017/09/24

「作曲家」セロニアス・モンク(2)

Thelonious Himself
(1957 Riverside)
モンクは、自分が作った曲の解釈と演奏方法、とりわけ表現すべき「サウンド」に、作曲者として絶対的な確信を持っていたのだと思う昔から言われているように、一人で曲の全体像を表現できるピアノ・ソロがモンクの音楽にとって最善のフォーマットであり、一方バンドでモンクの曲を演奏するサイドマンたちへの要求が人一倍厳しかったのもそれが理由だろう。モンクの曲そのものが持つ難解さとは別に、異なる音楽思想を持ったマイルス・デイヴィスとの意見の衝突や、他のプレイヤーがモンクの曲を演奏するのがいかに難しかったかという多くの逸話も、自分の曲をきちんと演奏できる奏者がいないことをモンクがしばしば嘆いていたのも、そう考えるとよく理解できる。また本書に何度も出て来るように、モンクは自分が作った曲の楽譜を詳細に書き込んでいた。にもかかわらずエリントンやミンガスと同じく、ミュージシャンたちにその楽譜を見せずに、常に音だけ聞かせてメロディを習得させるという徒弟制度のような指導、共演方法を取っていた。その理由も、自分の曲は譜面を見てコード進行を覚えるように頭で理解するのではなく、まず曲のメロディをフィーリングで身体に浸み込ませて欲しい、でないとモンクが期待し、こうだとイメージしている「サウンド」が表現できないのだ、という強烈な自信と信念によるものだったのだろう。

ジャズの場合、既存の曲をモチーフにして曲を作ることも多いが、いずれにしろ「作曲」とはほとんどゼロから音楽を生み出すという創造行為である。ポピュラー曲のように、コード進行によって曲の基本的枠組みが決まっている既存の素材を、プレイヤーが独自に「料理」する伝統的なジャズ即興演奏とは違う想像力と創造力がそこでは必要とされる。メロディ、ハーモニー、リズムを周到に組み合わせて配置する作業(composition)から生まれた、曲のメロディとリズムへの強いこだわり、カウンターメロディの多用、音を間引いたオープン・ヴォイシング、半音階のコード進行、全音音階のランによる「不協和」な音の響き、ポリリズム的な多層リズムによるアクセントの「ずらし」感覚、長い休符(間)による「無音の効果」の強調、ぎざぎざした極端な音程の跳躍によって生み出すアブストラクト感と意外性、一貫性のある構築的な印象を与える演奏、等々……本書にも書かれているモンクの「演奏」に特有のものだと思われている数々の特長も、「作曲家が、自分の理想のサウンドを探求する過程から生まれた演奏上のアイデアであり技術だ」と解釈すれば、すべて納得がゆく。そして演奏技術においては、天性の音感とリズム感に加え、ストライド・ピアノの先達たちの持っていた左手の使い方と、コード進行ではなく「メロディを基にした無限の変奏」という即興コンセプトを継承したことによって、独自のパーカシブな奏法とヴァリエーションの展開という個性を開発し、ピアノの持てる機能を最大限に使って自らの「サウンド」を表現しようとしていた。モンクは、こうして作曲と演奏の両面で独創的世界を築き上げたのだ。しかも、その音楽が意図的に奇を衒って作られたようなものではなく、聴き手の感性をも開放する、あのモンクの持つ「自由」を指向する精神から自然に生まれているところが素晴らしいのである。批評家ポール・ベーコンが言ったように、まさに「それは、モンクが全体として普段からどういう物の考え方をしているのかという結果であって、小節がここで、ブリッジがそこで、とかいう問題ではないのだ」。

The Transformer
 (2002 Thelonious Records)
ビバップ、クール、ハードバップ、モード等々、流行したどんな「スタイル」のジャズにもモンクが同調せず、どんな共演相手であろうと、どんなスタンダード曲の演奏であろうと、常に自分の音楽を演奏し続けたのも、モンクが何より「作曲」という、音楽上もっとも知的で創造的な行為の真の遂行者だったからに他ならない。リバーサイドの『セロニアス・ヒムセルフ』における<ラウンド・ミッドナイト>のソロ演奏を仕上げる過程や、スタンダード曲をモンク流に解釈し再構成した演奏も、そのアプローチは直観による即興というより常に作曲的であり、本書に出て来る<I’m Getting Sentimental Over You>のモンク的解釈とアレンジの過程もその具体例である。その時(1957年春)ネリー夫人が自宅で録音した80分以上に及ぶソロによる試行のテープと、その後モンクがコンボによるコンサートの場で行なった演奏までの「変容」の記録を、ロビン・ケリーとThelonious RecordsCD化した2枚組アルバム『The Transformer』(2002年、ルディ・ヴァン・ゲルダーによるリマスター) を聞けば、その過程が一層はっきりとわかる。またネリー夫人に捧げた<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>を、数ヶ月かけて作曲する過程の逸話も同じだ。つまり初期のハーモニー解析へのアプローチがそうだったように、曲作りも、アレンジも、モンクは常に長い時間をかけ、何度も実験を重ね、練りに練った音を譜面上に一つ一つ置きながら、独自の音楽を作品として「凍結」していたのである。ホイットニー・バリエットの言葉を借りれば、モンクのインプロヴィゼーションとは、まさにその「解凍」作業だったのだ。しかも、その解凍の手法は毎回異なっていた。だから残されたレコードでの演奏は、数多いモンクの解凍作業の一つを「缶詰」にしたものに過ぎないとも言える。モンクの本当の仕事場だったクラブでのライヴ演奏は、当然ながらずっと鮮度も高く、味わいも深かったことだろう。コルトレーン、ロリンズ、グリフィンたちとの「ファイブ・スポット」における毎夜の「解凍作業」がどれだけエキサイティングなものだったかは想像もつかない(おまけにそこでは、モンクのアクション・パフォーマンスまで見られたのだ!)。一方、モンクの「作品凍結」作業の現場は、おそらくロスチャイルド家が保有している未公開のニカ夫人の録音テープの中に、まだ数多く残されていることだろう。

この「独創を常に指向する作曲家」という資質をキーワードと考えれば、リー・コニッツがインタビューの中で述べている「チャーリー・パーカーは即興の名人というよりも、実はメロディ(フレーズ)を創り出す天才的作曲家だった」という趣旨の見解とも通じるものがある。そしてこれが、作曲家デューク・エリントン直系の系譜にモンクがいること、同じく作曲家だったチャールズ・ミンガスがモンクを崇拝していたこと、またセシル・テイラーやオーネット・コールマンのようなアヴァンギャルドの音楽家(彼らも作曲家=composerである)の始祖がモンクだとされる理由でもある。ということはつまり(今更だが)、モンクは時代ごとの演奏を記録したディスコグラフィーとその個々の評価以上に、生涯で70曲以上に及ぶ作品(曲)リストの方が、重要で意味がある音楽家だということである。そしてエリントン以降、モダン・ジャズの歴史上これほど多くの優れた、かつ独創的な作品、それもジャズ・スタンダード曲を作ってきた音楽家はいないのだ。モンクのレコード(「演奏」の記録である)に、マイルスやコルトレーンやエヴァンスのような「奏者」としての決定的とも言える名盤がないこと、その代わりどのレコードで、どんなフォーマットで、何を演奏しても、常にそれはモンクの音楽であり、かつモンク的水準を超えていて駄作や駄演がないことも、そう考えれば合点が行く。だから1960年代以降、新たな曲作りが徐々にできなくなったために、限りのある既存の自作曲の解釈がついにはマンネリ化し、批判されるようになったという理由もわかる。マイルス・デイヴィスのように、時代に合わせて演奏のスタイルを変化させながら音楽自体を大胆に変貌させてゆくことができなかったのも、頑固さや能力の問題ではなく、モンクが単なるアレンジャーでもインプロヴァイザーでもない、20世紀半ばを生きた自分自身の音楽を創造する作曲家だったからだ。

ジャズとは瞬間に生まれる「場と時間」の音楽であり、それゆえ素材である曲よりも、その場における奏者の解釈と即興演奏にこそ価値があるという暗黙の前提があるので、モンクに関するこれまでの一般的分析や評価も、残されたレコードによる演奏記録に偏ってきたという側面もある。しかしスティーヴ・レイシーに始まる一部のジャズ・ミュージシャンたちは、モンクをジャズのすべての要素を包含した大音楽家として捉え、モンク的世界をどう解釈し、いかにして自身の音楽として消化するか、という探求をこれまでも、そして現在でも行なっている。モンクとはそういう存在であり、またその音楽にはいかなる解釈をも許容する懐の深さと自由がある。モンクは単なるジャズ・ピアニストを遥かに超えたスケールを持つ音楽家だったのであり、米国におけるモンクの死後の評価も、当然ながらエリントンと並ぶ「ジャズ作曲家」としてのモンクである。

Monk's Music
(1957 Riverside)
1950年代に入っても<リトル・ルーティ・トゥーティ>、<ブルー・モンク>、<リフレクションズ>、<ブリリアント・コーナーズ>、<パノニカ>、<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>、<リズマニング>、<ジャッキーイング>などの名曲をモンクは数多く書いている。しかし本書で描かれているように、1960年代になると、年齢のみならず、ドラッグと精神や肉体の病のために創作エネルギーが徐々に衰え、数曲を除き、40年代から50年代にかけてのような独創的な作品をモンクは生み出すことができなかった。したがって60年代に入ってから急に高まった世の中の認証とは別に、作曲家モンクの絶頂期と言えるのは、1941年のケニー・クラークとの共作<エピストロフィー>に始まる約20年間だったと言えるだろう。また「作曲と即興」というモンク独自の音楽が最高度の次元に達していたのが言うまでもなく1950年代後半だった。そして創作のインスピレーションと意欲がさらに衰え、曲作りがほとんどできなくなった1960年代後半からの時期は、「やむなく」奏者としての活動を続け、そこでは依然モンク的水準の演奏を維持してはいたものの、「作曲」という音楽家としてのモンクを支えてきた真の基盤をほぼ失っていたとも言える。その後1970年代初めにウィーホーケンのニカ邸に引きこもり、76年に完全に引退して82年に亡くなるまで、モンクが自分の分身のごとく愛したピアノに一切触れようともしなくなったのは、時代や、精神や肉体の病のために奏者としての演奏意欲がなくなったということ以上に、もはや曲を創作できなくなった「作曲家」としての自分自身に絶望していたことが最大の理由ではなかったのか、というのが本書を読んだ私の想像である。なぜなら、音楽家モンクの創造力のすべてを注ぎ込む容器だったピアノに注ぐべきものが、永遠に失われてしまったからだ。

2017/09/15

「作曲家」 セロニアス・モンク(1)

Brilliant Corners
(1956 Riverside)
『セロニアス・モンク 独創のジャズ物語』のロビン・ケリーの原書には、モンクのアルバム、映像作品の簡単なリストが参考資料として巻末についているだけで、詳細なレコード情報などはない。ただし、初録音情報などを記した自作曲のリストがある。既述のように、この本はモンクの音楽やレコードの分析を主題にしたものではなく、またその種の本は既にいくつも書かれているので、著者も敢えて付け加えるつもりはなかったのだろう。ただし本文中には、年代ごとにレコーディング・セッションと演奏曲に関するかなり詳細な記述がある。しかし、それらは文章の流れの中で触れており、またジャケット写真を含めてリリースされたレコードに関する情報がほとんどないので、読んでいてどのレコードなのか具体的に知りたいと思う読者もいることだろう。今はインターネットで調べればほとんどの情報は個別に辿ることができるが、それでは読者に不親切なので、コニッツの本と同じくジャケット写真付きの簡単なディスコグラフィーを作成して、巻末に参考用として添付しようかと思っていたが、既述の通り大部の本となってしまい、ページ数の制約もあるので、自作曲のリスト共々今回は難しいということになった。そういうわけで、モンクの代表的レコードについて、本書を参照しながら時系列で確認できるようなレコード・ガイドをこのブログ上で書こうかと考えていた。ところが、考えているうちに、それは何か違うのかなと思い始めた。モンクには『ブリリアント・コーナーズ』のような傑作とされる名盤も確かにあるのだが、それは、例えばマイルスの『カインド・オブ・ブルー』やコルトレーンの『至上の愛』、ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』のような、誰もが思いつくジャズの決定的名盤とは、一般的人気度という見方は別にしても、どこか「性格」が違うでのではなかろうかという疑問である。

リー・コニッツの時と同じく、モンクの本を翻訳中ずっとモンクのレコードを聴きながら作業していたのだが、何度も繰り返して聴いているうちに改めてその感を深めたことがある。それは、モンクの演奏は1940年代のまだ若い時も、中年になった1960年代も、音楽の骨格そのものにはほとんど変化がないということだ。普通のジャズ・ミュージシャンは、年齢と経験を重ねてゆくうちに、時代と共にその演奏スタイルやサウンドも徐々に進化あるいは変化してゆくものだ。ディスコグラフィーに沿った年代別の聴き方をしていると、素人耳にもそれははっきりとわかるもので、聴き手としてはそこがまたジャズの面白い部分でもある。ところがモンクは、初のリーダー作である1947年のブルーノート録音の時から既にモンクそのもので、最後のスタジオ録音となった1971年のブラック・ライオンの『ロンドン・コレクション』に至るまで、音楽上の造形にはほとんど基本的に変わりがないように聞こえる。もちろん年代や、録音時のコンディションや、共演相手によって演奏には当然ある程度の変化はあるのだが、基本的には30歳代も50歳代の音楽も一緒なのだ。要するに、モンクは最初からずっと「素晴らしくモンク」なのである。本人も、またネリー夫人も語っていたように、何十年も前と何も変わったことはやっていないのに、1950年代の終わり頃になってから音楽家として急に脚光を浴び、世間の認証が得られたのは、「世の中のモンクの聴き方」の方が変化したからだ、ということなのだろう。ジャズ・ミュージシャンとしてこれは特異で驚くべきことに違いないし、ジャズ史にこのような人物は他にはいない。

プロのジャズ・ミュージシャンや批評家、真にコアなモンクファンを別にすれば、おそらく普通のジャズファンは、レコードを聴きながらジャズ・ピアニストとしてのモンクの演奏を楽しみ、聴いているのではないかと思うし、私もこの本を読むまでは長年そういう聴き方をしていた。もちろん作曲家であることも、<ラウンド・ミッドナイト>や<ルビー・マイ・ディア>のような名曲の作曲者であることも知識としては当然知ってはいたが、レコードを聴くときは普通のジャズ・ピアニストを聴くときのように聴いていたし、同じ曲を何度も取り上げていても、代表的レコードから聞こえてくるその個性的な演奏の魅力を単に楽しんでいた。モンクの音楽を分析的に聞いたところで(しかもド素人が)少しも面白くないし、モンクにしかないあの開放感と不思議なサウンド、リズム、メロディを素直に楽しむのがいちばんいいからだ。しかし上述の自分の観察から、またこの本を読んで改めて理解したのは、モンクという音楽家はピアニスト以前に、本質的にまず「作曲家=composer」なのだということだった。

モンクは、即興演奏だけの単なるジャズ・ピアニストではなく、コンポーザー(作曲家)、アレンジャー(編曲者)、インプロヴァイザー(即興演奏家)という3つの資質を併せ持った稀有なジャズ・ミュージシャンだと言われている。タッド・ダメロンのようなビバップの作曲家もいるが、演奏家としてはモンクのような存在感はなく、またジャズの巨人と呼ばれてきた人たち、例えばマイルス・デイヴィスは作曲より、むしろ常に曲と演奏の全体的構造を考えるアレンジャーとしての資質が強く、ジョン・コルトレーンやソニー・ロリンズはほぼ真正のインプロヴァイザーだったと言えるだろう。そしてビル・エヴァンスやキース・ジャレットのようなピアニストを含めて、大方のジャズ・ミュージシャンはこのインプロヴァイザー型である。しかしクラシック音楽の世界では、モーツァルトやベートーヴェンの時代までは、音楽家は一人でこの3つの技術を持っているのが当たり前だったが、その後の歴史でこれらは徐々に分化し、曲を作る人、演奏する人、さらには全体の指揮をする人というように、専業化が進んで今のようになったと言われている(ただしショパンのように、ピアニストの一部には自作曲を演奏した音楽家もいた)。ジャズも初期の段階では、これらの技術は未分化だったが、クラシック同様に徐々に作曲(ポピュラー曲)、編曲、演奏という分化した専門技術から成る音楽となって行ったようだ。ジャズの始祖とも言われるバディ・ボールデンの後、それらの技術を一人で「統合」し、多くの有名曲を作り、編曲し、ピアノを通じてビッグバンドという自らの「楽器」を指揮することで、黒人音楽の伝統の上に高度な水準の音楽を創造した史上初の「ジャズ音楽家」が、スウィング時代に現れたデューク・エリントンである。ジャズ史におけるエリントンの偉大さはそこにあり、そして曲を単なる素材にした即興演奏の価値が一層重視されるようになったビバップ以降のモダン・ジャズ時代に、この3つの要素を統合し、一人3役の能力を持った音楽家として登場したのがセロニアス・モンクなのである。エリントンがモンクの音楽を直ちに理解したこと、モンクとエリントンの互いへの敬意を示す本書中のいくつかの逸話は、したがって非常に説得力のあるものだ。

Genius of Modern Music
(1947- 52 Blue Note)
モンクは1930年代から既に作曲を始めていたようだが、驚くことに、モンクの作った有名曲の多くが、まだ若かった1940年代(20歳代)に既に作曲されている。本書で描かれているようにモンク初のリーダーセッションとなったのが、1947年モンク30歳の時に、これらの自作曲を引っ提げて臨んだブルーノートへのスタジオ録音である。ブルーノートのアルフレッド・ライオンたちは、194710月から11月にかけて、セクステット、トリオ、クインテットで計3回、19487月にミルト・ジャクソンを入れたカルテットで1回、その後しばらくして19517月に同じくクインテットで1回、最後の録音となった19525月のセクステットで1回、と都合6回の録音セッション(78回転SP盤)を行なっている。1947年の録音では、<ルビー・マイ・ディア>、<ウェル・ユー・ニードント>、<オフ・マイナー>、<イン・ウォークト・バド>、<ラウンド・ミッドナイト>などが、1948年録音では<エヴィデンス>、<ミステリオーソ>、<アイ・ミーン・ユー>、<エピストロフィー>などが、1951年録音には<フォア・イン・ワン>、<ストレート・ノー・チェイサー>、<クリス・クロス>、<アスク・ミー・ナウ>、1952年録音には<スキッピー>、<ホーニン・イン>、<レッツ・クール・ワン>などが収録されている。こうして録音リストを見ると、実は上記ブルーノートにおける録音の時点で、モンクは既に自身の「名曲」の大半を作曲していたことがわかる。したがってこれらブルーノートの初期セッションをLP時代にまとめたレコード『Genius of Modern Music Vol.1,2,3』(Vol.3はミルト・ジャクソン名義)こそ、まさに音楽家セロニアス・モンクの原点だと言える。聴いていると、これらの演奏が1940年代の大部分の聴衆の耳には、あまりに先進的かつ個性的に聞こえ、理解できなかったという話もよくわかる。そして、上記セッションで気づくもう一点は、モンクが、ソロ以外のすべての演奏フォーマット(トリオ、カルテット、クインテット、セクステット)で録音していることだ。ブルーノートはメンバーの構成、人選を当初モンクに一任していたので、ビバップとは異なるコンセプトで自作してきた曲が、それぞれのフォーマットでどのような「サウンド」になるのか、モンクはひょっとして初期の録音の場で周到に実験していたのではないだろうか(あくまで想像です)。

At Town Hall (Live)
(1959 Riverside)
こうした1940年代のキャリアから見ても、モンクをモンクたらしめているのは何よりも作曲家 (composer) の資質だと言えるだろう(ただし本書に書かれているように、ピアノ奏者としてなかなか認められなかった当時の状況が、結果的にモンクの創造エネルギーをより作曲に向かわせたという一面はあるかもしれない)。そしてエリントンが自らのオーケストラで追求したように、モンクはソロの他に、トリオ、コンボ、さらには後年の「タウンホール」のビッグバンドなど、様々なアンサンブル・フォーマットで、これらの自作曲を「再解釈」しながら、新たな「サウンド」を探求し続けていたのだろう。つまり何よりも「作曲」こそが、モンクという音楽家の真のアイデンティティであり、音楽上の基盤だった。本書に書かれている1959年の「タウンホール」コンサートの準備段階で、モンクと編曲者ホール・オヴァートンの会話を録音したテープは貴重な記録だ。そこでモンクの曲を習得していたオヴァートンに対して、「聴くのは曲じゃない、サウンドだ」と語ったように、自身が作った「曲の構造とメロディ」から生み出し得る様々な「サウンドの可能性」を探求するために、モンクは生涯にわたって自作曲を数限りないヴァリエーションで解釈(アレンジ)し、演奏(インプロヴァイズ)し続けていたのだということが、ド素人の私にも「ようやく」分かったのである。

モンクの音楽は様々に語られてきたが、その全体像を短い言葉で的確に説明するのは不可能だろう。しかし唯一、1982年のモンクの死の直後、ジャズ批評家ホイットニー・バリエットが述べた、「モンクのインプロヴィゼーションは彼の作品が融解したものであり、モンクの作品は彼のインプロヴィゼーションを凍結したものだ」という比喩はまさに至言だと思う。「作曲と即興」が可逆的に一体化したものこそがモンクの音楽の本質だという見方である。普通の耳には摩訶不思議に響くのも、誰にもまねができないのも、思考するジャズ・ミュージシャンをいつまでも触発し続けるのも、そのような音楽は他に類例のない存在だからだ。そしてそこが、与えられた曲を単なる素材にして、自身のアレンジや即興演奏で様々に解釈する「普通の」ジャズ・ミュージシャンとモンクが根本的に違う部分なのだ。
(#2に続く)

2017/08/30

訳書『セロニアス・モンク 独創のジャズ物語』出版

ロビン・ケリー (Robin D.G.Kelley) 著 "Thelonious Monk: The Life and Times of an American Original" (2009Free Press) の翻訳に取り組んで来ましたが、セロニアス・モンク生誕100年目の誕生日にあたる10月10日を前にして、9月27日に(株)シンコーミュージック・エンタテイメントから『セロニアス・モンク 独創のジャズ物語』(小田中裕次 訳)という邦訳書として発売されることになりました。本書は謎と伝説に包まれた独創のジャズ音楽家、セロニアス・モンクの生涯とその実像を描いた初のノンフィクションの物語です。

マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンのように誰もが知っているジャズの巨人については、邦訳書を含めてこれまでも数多くの本が日本国内でも出版されています。しかし知名度や商業的観点からはマイナーな存在であっても、創造的な素晴らしいミュージシャンはジャズの世界にはまだたくさんいます。アルトサックスの巨匠リー・コニッツ (1927-) の自伝的インタビューから成る私の前訳書「リー・コニッツ ジャズ・インプロヴァイザーの軌跡」(DU BOOKS 2015年)もそうですが、日本ではあまり知られていないジャズの世界、あるいはジャズ・ミュージシャンの人生や音楽を取り上げた海外の優れた書籍を日本語で紹介し、日本のジャズファンに読んで楽しんでもらうことには21世紀の今でも意味があると思っています。「即興演奏」が命のジャズには、「出て来た音がすべてだ」という考え方もありますが、一方で「自由な個人」の音楽でもあるジャズは、ミュージシャン個人の音楽思想や人生を知ることで、その人固有の音楽世界をより深く理解しめることもまた事実です。今年90歳を迎えるリー・コニッツは、来る9月初めの「東京ジャズ」(NHKホール)にも出演が決定しているそうです。2013年の出演に続くものですが、おそらく最後になるかもしれない今回の来日実現にも、この本による日本でのコニッツ再評価がいくばくか寄与しているかもしれないと思っています。

ジャズ・ピアニストにして作曲家でもあるセロニアス・モンク(1917-82)は、コニッツに比べると世界的知名度も高く、また日本でも従来からジャズの巨人として認知されています。モンクとその独創的音楽の魅力を描いた伝記やエッセイは、海外ではモンクの没後くつか書かれていますが、一方音楽家、人間としてのモンクは誰よりも多くの神話と伝説に満ちた人物でもあり、信頼性の高い情報が限られていたこともあって、これまでその真の姿はアメリカ国内でも正確に理解されているとは言えませんでした。ロビン・ケリーの原書は、その人間モンクの実像と魅力に迫ることに初めて挑戦した伝記で、モンクの生涯を追った著者の14年間に及ぶ研究過程で発掘した多くの新情報や事実を駆使して、知られざるモンクの姿を浮き彫りにしたことによって、2009年の初版以降米国では高い評価を得て来た書籍です。この興味深い本を日本のジャズファンにもぜひ読んでもらいたいと思い、著者の許諾を得て、約1年かけて600ページの原書を翻訳し、昨年夏にはほぼ完訳していました。しかし、この出版不況下では、長大な書ゆえ大部となった日本語完訳版の出版に挑戦してくれる出版社がなかなか見つからず、やむなく昨秋著者に状況を説明し、一部を割愛した短縮版とすることを承諾していただきました。しかし、それでもその長さゆえに難しいとする出版社が多く、邦訳書の出版は半ばあきらめかけていました。幸いなことに、最終的にシンコーミュージック様がその短縮版を取り上げてくれることになり、ようやく出版の運びとなったものです。この間、出版の世界のことも多少学びましたが、リー・コニッツの本も、今回のモンクの本も、こうした分野や視点に関心を持ち、出版の意義を理解していただける編集者がいなかったら、いずれも邦訳書として世に出ていません。音楽書にとっては厳しいビジネス環境ですが、訳者として、そういう方々がまだ出版界におられることに感謝しています。

原書の概要は本ブログ2月度のモンク関連記事(モンク考)他に書いてありますので、興味のある方はそちらをご覧ください(邦訳版巻末の「解説」は、このブログ記事を基にしています)。著者ロビン・ケリー氏(UCLA教授)は米国史を専門とするアフリカ系アメリカ人の歴史学者ですが、学者とはいえ、自ら楽器も演奏し、またジャズを含めたブラック・ミュージックへの造詣も深く、これまでも様々なメディアに寄稿するなど、深い音楽上の知識を持った人物です。したがって著者は、ジャズ音楽家モンクの個人史に、自身の専門分野でもあり、かつジャズと不可分の米国黒人史を織り込むという基本構想の下にこの本を執筆しています。原書では、かなりの部分をそうした歴史的事例の記述にさいているために、ジャーナリストや作家が書いたジャズ・ミュージシャンの一般的伝記類とは趣が少し異なりますが、あくまで事実を重視した学者らしい豊富な史料と正確な記述で、モンクの実像を描くことに挑戦しています。邦訳版は、読者が日本人であることと、上記出版上の制約もあり、著者のご理解と了承をいただいた上で、原書の意図を損なわない範囲で、主として黒人史に関わる詳細な記述の一部を割愛し、ジャズと、モンクの人生、音楽を中心にした音楽書という性格がより強い本となっています。しかし、それでも全29章、704ページに及ぶ長編ノンフィクションとなりました。

本書はまたモンク個人の人生と音楽だけでなく、1940年代初めのニューヨークのジャズクラブ「ミントンズ・プレイハウス」に始まるモダン・ジャズの歴史を俯瞰する視点でも書かれており、特にモンクがその歴史上果たした役割と音楽的貢献にも光を当てています。これはチャーリー・パーカーを中心とした従来のモダン・ジャズ創生史では見過ごされて来た側面であり、音楽家として苦闘し続けたモンクの真の独創性をおそらく初めて具体的に描いたものです。また、その過程で生まれたモンクと多くのジャズ・ミュージシャンたち(エリントン、ホーキンズ、ガレスピー、パウエル、ロリンズ、ブレイキー、マイルス、コルトレーン他)との様々な人間的、音楽的交流も描いており、これらの中には従来日本ではあまり知られていない興味深い事実や情報も数多く含まれています。そして何よりも、モンクの魅力と同時に、本書は一人の天才音楽家を支えていた家族、親族をはじめとする周囲の人たちも描いた温かい人間の物語でもあり、歴史的、客観的視点を貫きながらも、本書の行間からは、人間セロニアス・モンクに対する著者の深い尊敬と愛情が滲み出ています。長い読み物ですが、モンクファンのみならず、ジャズに興味のある人たち誰もが楽しめる物語ですので、ぜひ読んでいただけると嬉しく思います。

  • 以下は邦訳書「セロニアス・モンク 独創のジャズ物語」全29章の目次です。
ノースカロライナ州における19世紀奴隷制時代のモンクの曽祖父の話から始まり、誕生から死に至るまで、モンクの生きた年月に沿ってその波乱に満ちた生涯を辿った物語です。

ノースカロライナ / ニューヨーク / サンファンヒル / 伝道師との旅 / ルビー・マイ・ディア / ミントンズ・プレイハウス / ハーレムから52丁目へ / ラウンド・ミッドナイトビバップ / ブルーノート / キャバレーカード / 何もない年月 / 自由フランス / プレスティッジ / リバーサイド / コロンビーとニカ / クレパスキュール・ウィズ・ネリー / ファイブ・スポット / 真夏の夜のジャズ / タウンホール / アヴァンギャルド / 再びヨーロッパへ / スターへの道 / コロムビア / タイム誌と名声 / パウエルと友情 / アンダーグラウンド / ジャイアンツ・オブ・ジャズ / ウィーホーケン

2017/02/26

モンク考 (4) 米国黒人史他について

著者ロビン・D・Gケリー氏はニューヨーク・ハーレム生まれで、現在カリフォルニア大学教授を務める歴史学者である。米国黒人史を専門とし、これまでに同分野の多くの著書も発表していて、2冊の邦訳版もある。(自ら楽器も演奏し、またジャズを中心としたブラック・ミュージックについての造詣も深く、関連誌に多くの論稿も寄稿している。)著者はモンクの物語を貫く縦糸として、米国黒人史を織り込むことを最初から意図して本書を執筆しており、その点があくまで音楽を主体とした従来のジャズマン個人史や評伝との違いだろう。ノースカロライナ州における19世紀奴隷制時代の米国の状況と、そこで生きたモンクの曽祖父から物語を始め、セロニアス・モンクという姓名の由来、少年時代からの逸話、伝聞、発言等を整理し、そこにモンクの演奏記録、また当時の様々なレビュー等を引用した上で、それぞれの情報を徹底的に検証している。そしてその作業から得られた「事実」として確度の高い情報を、いわばジグソーパズルのように時系列に沿って丹念に配置してゆくことによってモンクの実像に迫ろうとしている。

したがって、物語の途上では米国黒人史で起きた悲惨な事件や政治的事例が数多く挿入されている。モンク自身は、共感するところはあったにしても政治活動には直接関与しなかった純粋な音楽家だったことが本書からわかるが、日本人が知らない、あるいはよく理解していない、そうした歴史的背景とジャズという音楽は不可分なのだという思想はもちろん理解できる。実際モンクを始め、多くのジャズ・ミュージシャンが警察の暴力の被害に会っており、そして近年のアメリカにおける、一世紀前と変わらぬ警察による黒人への暴力事件の報道を見聞きすると、残念ながら本書に書かれているエピソードが一層リアリティを増して感じられることも確かだ。数多いそれらの事例と、長期にわたって収集された膨大な資料に拠る克明な記述とが相まって、結果的に原著は長大な本となった。

しかし著者は、敢えてそうした手法を取り入れることで、これまでのジャズ評論やジャズ個人史の問題でもあった主観とイメージ(想像、時に妄想)、間接情報中心の記述をできるだけ排し、より客観的な視点で事実を積み上げることによってリアルなモンク像を描くことに挑戦している。「リー・コニッツ」の著者アンディ・.ハミルトンの場合は、存命の人物への直接インタビューによって、コニッツの演奏思想、哲学とジャズ即興演奏の本質を明らかにしようというアプローチだったが、両著者ともに曖昧な間接情報と脚色を排し、事実に重きを置くという点でまったく同じ姿勢だと言える(二人とも大学教授という共通の職業柄もある)。その点が、ジャズ・ミュージシャンの伝記として本書がアメリカで数々の賞を受賞し高く評価された理由の一つだろう。結果として非常に長い本となったが、細部の事実を含めてこれまで日本では知られていない情報も多く、何よりもジャズ好きであれば、1930年代以降のアメリカとモダン・ジャズ史を新たな視点で俯瞰するノンフィクション読み物としても非常に面白く読める。 

記録映画
<Straight No Chaser>
1988
おそらくモンク・ファンの多くは既に見ておられると思うが、本書中に出て来るドイツのブラックウッド兄弟が1967年に撮影したドキュメンタリー・フィルムを中心にして、1988年に再編集された傑作記録映画がある。それが「ストレート・ノー・チェイサー」(クリント・イーストウッド総指揮、シャーロット・ズワーリン監督――この人も女性である)で、あの 動くモンク“――ピアノを弾き(あるいはピアノにアタックし)、踊り、くるくるつま先立ちで回り、煙草を吸い(時にピアノや床を灰皿代わりにしながら)、話し、道を歩くモンクの姿が捉えられている。ネリー夫人も、ニカ男爵夫人も、息子トゥートも、マネージャーのハリー・コロンビーも、チャーリー・ラウズも、テオ・マセロも、その他本書に登場する多くの人たちの映像と肉声の記録もそこに残されている。そして1960年代後半のニューヨーク、アムステルダム・アベニューも、ヨーロッパ・ツアー中のモンク一行も、モンクが晩年のほとんどを過ごしたウィーホーケンのニカ邸内部のモンクの部屋とピアノ、そこから見えるハドソン川とマンハッタンの遠景、おまけに ”キャットハウス” ニカ邸の住人だった多数の猫たちも登場する。モンクが晩年を過ごし、最後を迎えたニカ邸で当時暮らしていたバリー・ハリスが、トミー・フラナガンとピアノ・デュオでモンクの曲を弾くシーンもある。そして最後に、正装で棺に納められたモンクの葬儀の模様も挿入されている。ジャズ・ファンにとっては幸福なことに、今やインターネット動画でさらに多くの動くモンクの映像記録も見ることができる。この本を読み、モンクのレコードや音源をあらためて聴き、さらにこれらの映像を見ることで、モダン・ジャズの歴史と、セロニアス・モンクという唯一無二の天才ジャズ音楽家を再発見する楽しみを、多くの人にぜひ味わっていただきたいと思う。

2017/02/19

セロニアス・モンク生誕100年

リー・コニッツ(Lee Konitz 1926 -)と並んで、私の好きなもう一人のジャズ・ミュージシャンがセロニアス・モンク(Thelonious Monk 1917-1982)である。

今年2017年はモンク生誕100年にあたる。ということは、モンクが生きていれば100歳ということになり、日本流に言えば大正6年生まれで、日本の団塊世代の父親の世代の人だ。日本でもそうだが、この時代の父親(あるいは祖父)の世代には実業家でも芸術家でも、今では考えられないような破天荒な人生を送った人が多い。モンクも天才の例に漏れず奇人、変人というレッテルを貼られ、モダン・ジャズの源となったビバップに多大な音楽的貢献をしたにもかかわらず、チャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーだけが脚光を浴び、その真価が長い間認められず苦労の多い人生を送った。モンクの音楽と人生はあまりに個性的、独創的であるがために、多くの謎と伝説に満ちており、これまでその「実像」はアメリカ国内でさえ正確に理解されていたとは言い難かった。そのセロニアス・モンクの実像を描くことに初めて挑戦したのが、ロビン・ケリー氏(Robin.D.G.Kelley UCLA教授 米国史)が2009年に発表した「Thelonious Monk: The Life and Times of an American Original」で、独創的ジャズ音楽家セロニアス・モンクの誕生から死に至る生涯と音楽を、著者が14年間にわたる緻密な調査と分析に基づいて描いたノンフィクションの物語である。2009年の初版以降、ジャズと米国黒人史の関係を密接に描き、モンクにまつわる数々の謎や伝説の背景を初めて明らかにした書籍としてアメリカでは大きな反響を呼び、また高い評価を得てきた。

https://www.amazon.co.jp/Thelonious-Monk-Times-American-Original/dp/1439190461
著者は19世紀奴隷制時代のモンクの曽祖父まで遡って物語を始め、人種差別問題を軸にした米国の社会・政治史をモンクの個人史と併行して描くことによって、人間モンクとその音楽世界だけでなく、背景にあった米国固有の社会との関連も探ろうとしている。そして、そこからモンクの音楽的独創性の根幹を明らかにしようと試み、またモンクがモダン・ジャズ形成史において果たした役割と貢献、さらに独創的な人物や天才だけが抱える人間的苦悩も同時にあぶり出そうとしている。1982年のモンク没後、レコードや音楽分析を主体にした評伝や、音楽家モンクの断面を切り取ったすぐれた評論やエッセイもいくつか書かれているが、本書は伝説や逸話の単なる寄せ集めではない、多面的、社会学的手法で「人間モンクの実像」を描くことに挑戦した初めての本格的伝記であり、同時にアフリカ系アメリカ人の著者による初のモンク伝記でもある。

本書中で描かれているモンクを巡るエピソードや批評は、これまでも大筋として語られてきた有名な逸話や言説も多いが、モンク家から録音テープなど新資料の提供をはじめとする特別な協力を得るとともに、著者自身が新たに多くのインタビューを実施し、そこから事実として確度の高い情報を選択して取り上げている。特に息子のセロニアス・ジュニア(T.S・モンク)、姪や甥といったモンク家親族からの直接情報は、これまで活字では語られていないものがほとんどだ。それによって個人としてのモンクの人格や魅力、精神の病、様々な行動の裏側にあった人間味など、奇人や偶像化された謎の音楽家としてではなく、ひとりの人間としてのモンクを従来にない緻密さで生々しく描いている。さらにモンクの友人、マネージャーのハリー・コロンビー、大パトロンだったニカ男爵夫人、プロデューサー、クラブオーナーたちとの交流など、モンクを愛し、モンクを支え続けた人たちのことも詳細に語られている。

本書の舞台は、主として今から半世紀以上前、20世紀半ばのアメリカのジャズ界だ。チャーリー・パーカーやマイルス・デイヴィスを中心とした従来のモダン・ジャズ正史とは別の角度から光を当てることで、モンクという人物を通してこれまで見えなかったジャズ史の影のような部分が初めて明らかにされ、ジャズの世界の奥行きと陰翳が改めて浮き彫りにされている。読んでいると当時のアメリカとニューヨークの原風景、ジャズ・ミュージシャンたちの生活をはじめ、そうした時代の情景と香りが漂ってくるようだ。特にモンクとコールマン・ホーキンズ、バド・パウエル、エルモ・ホープ、ディジー・ガレスピー、マイルス、ロリンズ、コルトレーン他の主要ミュージシャンたちとの音楽的、人間的交流が、「ファイブ・スポット」他のニューヨークのジャズクラブを中心にした演奏活動と共にリアルに描かれていて、録音されたレコードを中心に築かれてきた日本におけるジャズの風景とまったく違うことに今更ながら気づかされる。

英語で600ページに及ぶ大作となった本書は、個人的には「マイルス・デイヴィス自叙伝」に匹敵する面白さがあると思うが、著者が歴史学者ということもあって、マイルス本にあるハッタリやテンション(邦訳にもよるだろうが)、「リー・コニッツ」のようなジャズ演奏思想的な深みはないものの、基本的には真面目で誠実な人柄だったモンクの人間味と、同じく真面目な著者のモンクへの深い愛情が、行間から滲み出て来るような良書である。