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2023/03/31

映画『BLUE GIANT』を見に行く

2月に封切りになったアニメ映画『BLUE GIANT』(石塚真一作、立川譲監督)を見て来た。原作漫画については、以前このブログで極私的感想文を書いている(2017年8月「ジャズ漫画を読む(2)ブルージャイアント考」)。主人公であるジャズに挑戦する若きサックス奏者の人物造形やストーリーはさすがによく描けているが、「ドドド…」とか「ブオー!」とか「ダダダ…」とか、ひたすら楽器の擬音と、動きを表す背景の線(「集中線」というらしい)が続く演奏場面ばかりで、登場人物がときどき口にする内面の独り言を除けば、セリフのまったくないコマだけが延々と何ページも続き、にもかかわらず、そこから「ジャズの音が聞こえてくる」(これは人によってまったく音のイメージが違うはずだが)という空前の「脳内ジャズ漫画」だ。アニメではその漫画の人物たちが動き出し、脳内ではなく、画面から実際にジャズのサウンドが聞こえて来る。

2013年に「ビッグコミック」で連載開始したこの漫画は、単行本シリーズ第1部全10巻(無印)、続編であるヨーロッパ編「Supreme」全11巻に続き、現在は第3部のアメリカ編「Explorer」連載中という、10年間も続いて累計1,000万部近くを売った大ベストセラー漫画である。漫画に加えてCDやLP他の関連グッズを含めれば、いかなる分野であれ昔から「カネにならない」と言われてきたジャズがらみで、こんなに売れた「コンテンツ」はないのではなかろうか。それほど面白く魅力ある作品だということだろうし、昔ながらのジャズという音楽の「イメージ」を変え、それを受け入れ、楽しむ「新しい層」を開拓した、まさに画期的な漫画である。いわば「古くて、新しい音楽」というイメージを、あらためてジャズに与えた作品と言えるだろう。

坂道のアポロン
とはいえ、「ジャズ漫画」と、そのアニメ化を含むマルチメディア化は『ブルージャイアント』が初めてではない。同作の連載が始まる前年の2012年に、『坂道のアポロン』(児玉ユキ原作)が既にTV版アニメ(フジテレビ /ノイタミナ)で、ジャズを取り入れた優れた映像作品として制作されている。クラシック音楽の世界では『のだめカンタービレ』や『ピアノの森』など、メジャーな漫画もアニメもドラマもいくつか制作されているし、クラシックは年齢、性別を問わず、音楽としての認知度が高く、市場に受け入れられやすいので、今後ともその手の作品は現れることだろう。しかしジャズはそうではない。近年大衆化が進んだとは言え、ロックやポップスのように分かりやすくはなく、日本に限らず、いまだに基本的には知る人ぞ知る(コア層しか聴かない)音楽なので、若者を含めた一般人にとっては敷居が高く、コマーシャル的な観点からの市場規模も小さい。「物語」としてのジャズ漫画(2008年)も、そのTVアニメ化(2012年)も、実写映画化(2018年)も、日本生まれの『坂道のアポロン』が世界初だろう。この作品は、’70年安保闘争に揺れる長崎県の軍港・佐世保を舞台にした1970年前後の高校生の青春を、ジャズを主題にして詩情とノスタルジーに満ちた表現で描いた少女漫画が原作だ。時代背景への共感もあって、少女漫画的なストーリーではあっても、ジャズが青春の音楽だった団塊世代や、ジャズ好き中高年層にも違和感なく受け入れられ、好評を博した。とりわけアニメ版で、原作では聞こえなかったジャズの「サウンド」が、テレビの映像と共に聞こえてきたときには、大袈裟だが本当に感動したものだ。しかも映像と音楽が物語の流れに沿って自然に気持ちよく組み合わされ、たとえば文化祭の体育館での「My Favorite Things」演奏シーンのように、有名なジャズ曲や演奏が作品中でBGMも含めて使われているので、ジャズファン的にも大いに楽しめる作品だった。

一方の本作『BLUE GIANT』は、私のような年寄りのジャズ観からすると、想像すらしたことのない「熱血ジャズ漫画」という、ある意味で形容矛盾とさえ思える、あり得ないような設定の作品だ(ロックバンドの話じゃあるまいし…という)。ジャズへの情熱に駆られたド素人の高校生が、逆境をものともせず、しかも狭い日本の中に留まらず、「世界一のジャズ・プレイヤーになる」という夢に向かって世界を股にかけてチャレンジし、人生を切り開いてゆく――という、『坂道のアポロン』の穏やかで詩的、文学的世界とは正反対の、ダイナミックで、まさにスポ根的な成長物語だ。だが、たとえばセリフもそうだし、英語の各章タイトルも、『坂道のアポロン』では有名ジャズ・スタンダードの英語曲名だけだったが、本作では、その章の内容に沿った英語もタイトル名に選ばれている――など、作者の石塚真一氏の米国本土や海外での実体験と、そこで培った言語力を基にして描いているので、第2部以降のヨーロッパ編でもアメリカ編でも、相変わらず大胆で強引な主人公の行動とストーリー展開にもかかわらず、背景や人物描写にリアリティがあって、漫画的な荒唐無稽さがあまり感じられない。ヨーロッパ各国の人や価値観の多様性、ロックとジャズの対比、アメリカの文化的個性と各都市の人々の気風なども、「ユニバーサルな音楽」というジャズ最大の特性を通してよく表現されている。「前へ前へ」と常にドライヴをかけるようなストーリー展開が特徴で、また作者の人間観だと思われるが、主人公の人柄と熱意ゆえに、国や地域を問わず、かならず彼を理解し支える協力者が現れるなど、人物と人間関係の描写に常に温かみが感じられるので、どの章でもそれが心に響き、読んでいて気持ちが良い。

今回のアニメ映画版は、主人公・宮本大のジャズへの情熱、日本での成長と友情を中心に描く第1部を土台にしている。ジャズ・ピアニスト上原ひろみが演奏と作曲の他、音楽表現全体を監修していて、プロのジャズ・ミュージシャンたちが登場人物になりきって実際に演奏した「ナマ音」を録音し、そのサウンドに合わせて物語を展開させた、という本格的ジャズ・アニメ映画である。こちらも、当然ながら漫画では、いわば「空耳」でしか聞こえなかった「サウンド」が実際に映像に加わり、それが映画館のドルビー音響で、しかも大音量で聞けるのだから、ジャズファンなら楽しめないはずがない。それどころか、これまでジャズを聴いたことがない(or 原作すら読んでいない)、という若い観客層までが映画館に足を運び、ネット上で「ジャズ、カッケー!」とか言って感激している。私が行った映画館の客層も、若者もいれば、高齢者もいて、男女比も含めて幅広い層で構成されていたし、観客動員数も予想以上の大ヒット映画になっているらしい。原作もそうだが、音楽も入って、よりドラマチックな展開のアニメ版では、「泣ける」という声もさらに強まっているようだ。

これは原作者、制作者の期待(狙い)通りの反応と言えるだろう。原作者がインタビューで、この漫画を書き始めた動機について語っているように(私も上記ブログ記事で作品の背景を分析している)、ジャズ自体は今や普通にどこでも聞こえてくる音楽になっているが、その一方で、ジャズと真剣に向き合う演奏家は、この半世紀の間ジャズの「勉強と分析」に注力しすぎて、ある意味で複雑で頭でっかちな音楽にしてしまい、普通の聴き手の「エモーション(情感)」に理屈抜きで直接訴えかける、ジャズが本来持っていたはずの原初的「パワー」を失ってしまったかのように思える――という傾向に対するアンチテーゼとして、「ジャズを知らない若者にも、ジャズが持っている音楽としてのパワーと素晴らしさを、シンプルかつストレートに伝えたい」というのが、そもそもの作者の意図だった。その作者がイメージしているジャズの原点は、1950年から60年代にかけてのブルーノート・レーベルのサウンドのようだ。RVG録音に代表される当時のブルーノートのレコードと演奏は、(好きか嫌いかという次元を超えて)永遠に語り継がれる20世紀ジャズ・クラシックであり、まさにオールタイム・ジャズサウンドだからだ。作者がイメージしていたこうしたサウンドを、アニメでは上原ひろみの現代的アレンジで再現し、それを映像に加えることで若者の心を掴むことにも成功したようだ。

私はアニメーションの技術についてはまったくの門外漢なので、映像面に関して云々する立場にはないが、なめらかな線と動き、落ち着いた色彩で描かれた本作の映像は非常にきれいで楽しめた。しかしサウンド面に関しては、ジャズファン的見方からすると、映画で流れるジャズのサウンドを、漫画のイメージから予想していた通りだったという人もいれば、意外なサウンドに聞こえたという人もいるだろうと思う(私は後者だった)。アニメ『坂道のアポロン』では、いわゆる「スタンダード曲」という、ジャズファンなら誰でも知っている音楽と演奏が聞こえて来るし、時代的、ストーリー的にも当然そういう選曲になる。ビル・エヴァンスの弾く「いつか王子様が」とかジャズ・メッセンジャーズの「モーニン」とかがそうで、それらがアニメ中でも違和感なく自然に耳に入って来る。しかし『BLUE GIANT』では、まず時代設定が「現代」であり、20歳前後の、ロクにジャズ理論や演奏のキャリアも積んでいない現代の若者が作曲したオリジナル曲や、彼らが演奏するジャズが、いったいどんな「サウンド」なのかは誰にも想像がつかないはずなのだ。実は、そこをアニメではどう表現するのか――制作者が、そこをどう解釈して実際のサウンドを作ったのかが、個人的にいちばん興味があったのだが、聞こえてきたのは、比較的「普通のサウンド」だったので私的には幾分拍子ヌケした(もっとフリーっぽい、ハチャメチャなサウンドを予想していたからだ)。しかし、原作者が好む上述のジャズ・サウンドの傾向と、このアニメ作品の企画意図からすると、おそらくいろいろ意見があったにしても、まずまず妥当なサウンドに直地したということなのだろう。ロックやポップスしか知らない日本の若者にアピールするためには、ある程度分かりやすい音楽でなければならないだろうし、いきなりハードでアヴァンギャルドなジャズというわけにもいかないからだ。上原ひろみが、そのバランスを考慮しながらサウンドをまとめていったのだろうと推察する。だが登場人物たちの「熱く燃え上がるような意欲」は、アニメによる動く映像の効果も併せて、サウンド的にもリアルに表現されていたと思う。

漫画『BLUE GIANT』はまだ連載中の作品でもあり、アニメ化をどこまでやるのかは分からないが、仮に今後も計画しているようなら、「旅立ち編」とも言える、日本を舞台にした今回の第1部から、いかにもヨーロッパ的な多国籍メンバーによる第2部「Supreme」、ジャズの「本場」アメリカ大陸を、冒険するかのように横断してゆく現在連載中の第3部「Explorer」――と、聞こえてくる宮本大のサックスとバンドのサウンドが、彼の人間的、音楽的成長と共に、どのように変化してゆくのかも「聞きどころ」になるだろう。ストーリー展開もさることながら、ジャズファンにとってはそれもまた、アニメ化した『BLUE GIANT』の大きな楽しみになった。

2022/01/24

「MONK」映画2作を見に行く

しつこいコロナ/オミクロン株のおかげで、楽しみにしていたモンク没後40年企画映画『MONK』と『MONK in Europe』をどうしようか迷っていたが、昨年『Jazz Loft』を見損ねてしまい、やはり行けばよかったと後悔したので、今回はコロナがまた勢いを増す中だが、思い切って「アップリンク吉祥寺」まで寒い中、久々に外出した。一昨年、同じ場所で見たビル・エヴァンス以来のジャズ映画鑑賞だ。ヨーロッパでシネマ・ヴェルテ(アーティストなどを対象にしたドキュメンタリー映画)が盛んだった1967年に、ドイツの放送局の社員だったブラックウッド兄弟によって撮影されたモンクの映像を、ドキュメンタリー映画にした2作品を連続して約2時間で見た。平日だったので入りは6割くらい、観客年齢層はだいたい想像通りだった(平均60歳くらいか?)。コロナがなければ、中高年ジャズファンはもっと足を運んでいるはずだろうと思う。様々なコンサートも居酒屋もそうだが、人の集まりを阻害する疫病は、戦争と並んで厄災の極みだ。

Uplink 吉祥寺にて
私の訳書(ロビン・ケリー著)が村上春樹のモンク本と並んで、ロビーのショップに置かれていた。どうも、あまり売れていなさそうだった…?(高い本だし)。しかし、これを読めば、モンクのすべて、さらにこの映画のモンクと、当時の背景がほぼ正確に分かるのだが…。それはともかく、これだけの「画面サイズ」と「大音量」で、モンクが実際に動く映像と50年以上前の演奏を2時間楽しめたら、モンクファンとしては大満足だ。仏映画『危険な関係』のときもそうだったが、家では望むべくもない音量で気持ち良くモンクの演奏が聴けるので、普段の欲求不満が解消できて、それだけでオーディオ的には満足だし、しかも動くモンクの映像付きなのだ。特に音質は、聴き慣れたレコード音源ばかりだったビル・エヴァンスの映画と違って、「ヴィレッジ・ヴァンガード」や、舞台、スタジオなどで、当然撮影しながら同時録音しているので、モンクのピアノ、ラリー・ゲイルズのベース、チャーリー・ラウズ他のホーン楽器はリアルで、きちんと「芯のある音」で録れていて文句なかった。ベン・ライリーのドラムスの音だけがやや引っ込み気味で若干物足りないが、モノラル録音なので止むをえまい。しかし考えてみれば、1960年代後期のアナログ録音の音源なのだから悪かろうはずがない、と言えばそうなのだろう。ただ、モンクのモゴモゴした喋りは、相変わらず私の耳ではほとんど聴き取れない(きっとナマで聞いてもよく分からなかっただろう…)。

Straight, No Chaser
(DVD 1988)
帰宅後、手持ちのDVD『Straight, No Chaser』と早速見比べてみた。こちらは、その20年後の1988年に、今回のドキュメンタリー作品の大元になったオリジナル・フィルム(米国、ヨーロッパの半年間の撮影で、計14時間と言われている)を土台にしてクリント・イーストウッド(製作総指揮)とシャーロット・ズワーリン(監督)が作った作品だ(89分)。オリジナル・フィルムから選んだシーンと、それ以外のモノクロ記録映像、さらに80年代と思われるカラー映像などを追加編集して、モンクの生涯をコンパクトにまとめた一種の伝記映画である。モンクのマネージャーだったハリー・コロンビーや、息子のTSモンク、サックス奏者のチャーリー・ラウズなどへのインタビュー映像や、当時まだ存命だったニカ夫人の映像、音声等が加えられ、それらを編集して音楽家、人間としてのモンクを描き出そうとしたこの映画は、何度見てもやはり最高の「ジャズ映画」だ。ニカ夫人や、モンクが住んでいたウィーホーケンのニカ邸(と猫の)映像、バリー・ハリスとトミー・フラナガンがモンクの曲を実際にピアノで演奏するシーン、そしてモンクの葬儀(1982年)の模様まで、多くの映像が追加されている。演奏場面に加えられたこれらの映像と音声が、人間としてのモンク像に、ある種の奥行と陰影を与えていて、謎多き天才ジャズ・ミュージシャンの肖像を描いた作品として、実に見ごたえのある内容になっているとあらためて思った。

DVD版と今回のドキュメンタリー映画版は、ほぼ同じ映像が使われている部分もあるが、オリジナル・フィルムの使用部分が微妙に異なっていて、片方にあるシーンが片方にはない、など細部が異なっている。たとえばDVDでのニカ夫人の場面や、録音スタジオで、テオ・マセロになぜ録音してくれなかったとモンクが怒っている場面とか、ヨーロッパのホテルの客室内で一人でモンクが苛立っていて、それを不安そうに見つめているネリー夫人――といった場面などは、今回の『MONK』と『MONK in Europe』では短縮されたり省かれている。つまりシャーロット・ズワーリンも、ブラックウッドも、長いオリジナル・フィルムから別々のシーンを抜き出して、それぞれ編集して製作したということだ。今回のブラックウッド版は演奏部分の方によりウェイトが置かれていて、DVDでは未収録だったモンクのプレイが長めに収録されているので、モンクのことをある程度知っていて、演奏をもっと聴きたい(見たい)という人に向いている。一方、DVDはモンクのことをあまり知らない人が見るのに適している。またDVD版には演奏曲のタイトルが常に表示されるが、今回の映画版にはそれがないので、知らない人には曲名がよく分からない。モンクはジャズ演奏家であるが、それ以前に「作曲家」であり、演奏も一部を除き自作曲がほとんどだ。DVD版では、それがよく分かっている人ならではのリスペクトが感じられる。いずれにしろ、20世紀の天才ジャズ・ミュージシャンの姿とその演奏を、ほとんど何の演出も脚色もなしで、これほど密着して撮影した映像記録はどこにもないだろう。これらの映像は、それだけでも文化遺産級の価値がある貴重な記録である。

ヨーロッパ・ツアー公演(ニューポート・ジャズ祭)は、モンク・カルテットに加え、フィル・ウッズ(as)、ジョニー・グリフィン(ts)、クラーク・テリー(tp)、レイ・コープランド(tp)、ジミー・クリーヴランド(tb)などを加えた8人(オクテット)ないし9人(ノネット)の大編成バンドが中心だった。ロビン・ケリーの本によれば、このときモンクはなぜか行きたがらず、プロモーターのジョージ・ウィーン(昨年9月に95歳で亡くなった)たちが何とかして家から連れ出したものの、飛行機に搭乗する最後の最後まで抵抗するので、無理やり飛行機に乗せたという。しかもモンクは紙に書いた「譜面」を信用せず、「音」で覚えろという主義の持ち主だったので、いつも通り直前まで公演で演奏する曲の楽譜(大編成向けに編曲したもの)をメンバーに見せようとしなかった。そこで同行した姪のジャッキーたちがモンクを説得して譜面をもらい、ロンドンへ向かう飛行機の中でみんなで大急ぎで寝ずに写譜したと言われている。リハーサルで、モンクの複雑なリズムを持つ曲(Evidence)に、ホーン奏者たちが四苦八苦して合わせようとしている様子が写っているが、その一因がこの事件だった。モンクは到着後もずっと不機嫌な様子だし、元々メンバーとして賛成していなかった、(ジョージ・ウィーン推薦の)クラーク・テリーの流れるような滑らかな演奏がどうも気に入らない、といった感じでいるモンクの態度がどことなくおかしい。ジャズバンドのヨーロッパ内の移動時や、夜のパーティの様子なども、たぶん普通は決して見ることのできないシーンであり、今となってはモンクのみならず他のメンバーの姿など、いずれも非常に貴重な映像だ。このときはマイルス・デイヴィス、アーチー・シェップ、サラ・ボーンも一緒のコンサートで、サラ・ボーンは唄う姿がテレビ画面に写り、夜のパーティの途中でも画面を横切っている。

Underground
(1967 Columbia)
これらの映像が撮影された1967年に、モンクは50歳になっていた。前年には、兄弟のように付き合ってきたバド・パウエルが、同年春にはエルモ・ホープが相次いで亡くなり、さらに7月にはジョン・コルトレーンも亡くなって、モンクは精神的、肉体的に大きなショックを受けていた年でもある。さらに、その10年前の1957年に、モンクが40歳にして初めて持ったレギュラー・カルテットでコルトレーンと共に初登場した「ファイブ・スポット」もこの年で閉店し、NYCのキャバレーカードも廃止され、ロックやフォークが大衆音楽の主流となるなど、モダン・ジャズそのものとモンク自身が共に全盛期を過ぎて、大きな転換点を迎えていた。ジャズの世界でもフリー・ジャズが勢いを増し、このヨーロッパ・ツアー後の1967年12月に録音した『Underground』も、モンク・カルテットとしてコロムビア向け最後のレコードとなった。つまりモンクも、ジャズも、共に下降局面に入って行った時代だったことを、画面の中のモンクの姿、演奏、様々な映像等の背後に感じ取る必要がある。その後まもなくしてチャーリー・ラウズもベン・ライリーもバンドを去り、このフィルムの映像から5年後の1972年に、心身ともに不調になったモンクは実質的に引退して、その後ウィーホーケンのニカ邸に引き込もるのである。

とはいえ映画の中で動く1967年のモンクの姿は、その存在感が半端なく、とにかく魅力的だ。奇行も含めて、常にどこかユーモラスで愛嬌があり、優しそうでもある。しかし演奏シーンでピアノを「弾く」というより、「アタック(攻撃)する」姿からは(ピアノに肘打ちしたり、灰皿替わりにしているくらいだ)、ヒエラルキーとして自分を制約する西欧的規範や枠組み(楽器や音階やリズム)に抗い、その枠を突き破り、その外側へはみ出して行こうとする強烈な意志と力が常に感じられる(このところ、西欧クラシック音楽を象徴するような、ショパン・コンクールの整然とした美しい演奏と映像ばかり見ているので、なおさらそれを感じる)。モンクは20世紀のアメリカで生きた黒人音楽家なのだということを、アップになった顔や、身体や、手や足の動きというモンクの全身、その肉体を間近に捉えた映像を見つめていて、いまさらながらつくづくと感じた。ロビン・ケリーの本などを通じて、もちろん頭では分かってはいるし、レコードからも感じていたが、モンクの演奏する姿とそのサウンドを直に捉えた今回のドキュメンタリー映像が、モンクの汗と一緒に全身から滲み出て来る「自由」への希求を、パワフルに、あからさまに伝えてくるのだ。

The Jazz Baroness
(DVD 2008)
ところで、ニカ夫人側からモンクを描いた本があって、その1冊が私が訳した『パノニカ』(原題The Baroness) だが、実はこの本は、著者のハナ・ロスチャイルドがBBC勤務時代に、ニカ夫人を主人公にして製作したドキュメンタリー映画『The Jazz Baroness』(2008) が元になっている。ロスチャイルド家が配給を制限していた経緯もあって、4年前に翻訳していた時点では、参考にしょうと思っていたこのDVDが入手できず、インターネット上でもまだ見られなかったので、実は映画を見ずに文字情報と一部の写真だけで翻訳したのだ。しかし最近やっとその映像をネット上で見る機会があったので見たところ、(当たり前だが)まったく本に書かれている通りのストーリーと出演者なので、拍子抜けした (ただし字幕はない)。苦労して、何とかイメージしていたニカや登場人物たち、情景などがそのまま映像になっているのである(というか順序としては逆で、それを文章にしたわけだが)。この映画はインタビューを中心にした、いわば、これまでのモンクとニカに関する映像の集大成版でもあり、上記オリジナルフィルムの映像に、2000年代になってからハナが行なったミュージシャンや批評家、作家たちへのインタビュー映像(TSモンク、ハリー・コロンビー、ソニー・ロリンズ、クインシー・ジョーンズ、クリント・イーストウッド、クインシー・トループ、ロイ・ヘインズ、アーチー・シェップ、カーティス・フラー、ロビン・ケリー、アイラ・ギトラー、ゲイリー・ギディンズ、ニカの姉のミリアム・ロスチャイルド等々)他の映像が加えられ、そこにハナのナレーションとニカ夫人の長いインタビューが流れ、ウィーホーケンのニカ邸や、当然ながらイングランドのロスチャイルド家当主や邸宅の様子なども映し出されている。TSモンクもハリー・コロンビーの外見も、80年代から20年ほど年を取っている(ロビン・ケリーまで映っていたのには驚いた)。

とにかくモンクとニカの物語自体が破格なこともあり、こうした映像作品を見ていると、本を読んでイメージするのとはまた別の、ヴィジュアル情報ならではの生々しさと拍力は圧倒的なものがあるな、とつくづく思う。こうなったら、次は傑作『Straight, No Chaser』と『The Jazz Baroness』を2本立てのモンク特集として、劇場の大画面でぜひとも上映してもらいたいものだ。

2021/12/28

年末美女映画三昧

最近、YouTubeやインスタグラムなどを通じてヴィジュアル情報の発信がいとも簡単になって、素人が普通に「グローバルに」顔を晒すようになったが、それに伴ってますます外見の美醜が特に若者の関心ごとになっている。「外見至上主義(lookism)」は内外を問わずトレンド入りするほどのタームで、昔から整形が当たり前で、とにかく今や、誰が誰やら分からなくなるほど同じような顔の俳優やタレントばかりになった韓国がその代表だ。日本でも、少しの間見かけないと思ったら、顎を削ったりして、すっかり顔形が変った女優やタレントが普通にテレビに登場するようになっているが、昔のように「整形した!」と騒いだり、はやし立てるような雰囲気はもうない。化粧と同じになったわけである。美醜で差別するなという主張は、昔からあったミス何とかという美人コンテストを中止に追い込んだように、当然ながら世界的にあるが、世の中は美人、イケメンの方がやっぱり得だ、というのは誰もが生きていて実感している事実なので、いくら道徳的観点で批判したところで表面的なレベルではともかく、個人の内部の価値観は簡単には変わらないだろう。

男女を問わず美しい異性(とは最近は限らないが)には惹かれるものだ。特に男性にとって「美女を見る」というのは、正直言ってやはり単純に楽しいことなのだ(理由などない)。芸術や芸能でも、同じ歌や演奏を聴いても、美人のアーティストの方につい目が行ってしまうのは如何ともしがたい。昔は朝の通勤電車で美女を見かけただけで、なんだか得したような気分になったものだ。これは良いとか悪いとかいうモラルの問題を超えた、哲学的(生物学的?)問題なのだろう。ただ長年生きて来て、「天は二物を与えず」ということもまた真実であるように思うので(最近は、二物も三物も与えられている人も中にはいるが)、美人、イケメンでない人は、外見に無駄なエネルギーをあまり費やすのはやめて、早く自分の強みと価値を知り、それを生かして明るく生きる道を進む方がいいだろう(私の場合、もう遅いが)。

毎年、年末年始になると、昔の映画を見たり、日本の演歌を聞くのが恒例になっている(理由はよく分からないが、人生も残り少なくなって、そうした映像や歌が過ぎ行く年月を思い起こさせ、どこか郷愁を感じるからなのだろう)。昨年末はコロナのせいで、さすがにあまりそういう気分にはならなかったが、今年は録画を整理中に、夏のオリンピックの時期にNHK BSで放映した藤純子(現・富司純子)の『緋牡丹博徒』(1968年・第1作)をたまたま発見したので、初めて「女性の仁侠映画」を見たのだが、若き藤純子の美しさに驚嘆した。そこで、ついでに(?)今や説明不要の定番、オードリー・ヘプバーンの『ローマの休日』も見て(何度目か)、加えてストーリーやギャグの面白さが好きだった、台湾の女優ジョイ・ウォンの香港映画『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』もDVDで見た(これも2度目か3度目)。年末らしく豪華に(?)、日本、イギリス、台湾産の3ヶ国美女3本立てである(国の選択に特別な意図はない)。それぞれの国の美女の風情や喋り、演技、動作などを比較して見ることで、国ごとの美意識や、文化的背景などもいろいろと感じるものがあって面白い。ただしこの3本ともに、女ヤクザ、王女様、幽霊という役回りで、リアルな世界とは異なるファンタジー中の美女であるところがミソだ。

スチャラカ社員
大坂朝日放送
藤純子は、大昔(1960年代中頃)の日曜日の昼にTBS(大阪・朝日放送制作)で放送されていた、サラリーマンの事務所を舞台にした藤田まことの舞台喜劇『スチャラカ社員』に登場する美人事務員 ”フジくぅーん” で知った。Wikiによれば、「スチャラカ」とはぶっ飛んだ笑いを、ということで大阪弁のスカタンとアチャラカの合成語を演出家・澤田隆治が考えたらしい。同じ頃東京では、クレージーキャッツの植木等の歌「スーダラ節」も流行っていたが、こちらは青島幸男の作詞のようで、両方とも60年代高度成長期に入って急増していたサラリーマンが主役であるところが共通している。「スーダラ」と「スチャラカ」という言葉の間に何か関係があったのかどうかは知らない(どうでもいいと言えば、いい話だが。ちなみに、その後80年代に「スチャダラパー」という、スチャラカでスーダラなヒップホップ・バンドもできたらしい)。同時期には、同じ藤田まこと主演の舞台コメディ『てなもんや三度笠』も人気で、私はそちらも楽しんでいた(CM「あたりマエダのクラッカー」が懐かしい)。『スチャラカ社員』も6年以上続き、ミヤコ蝶々や南都雄二、白木みのる、中田ダイマル・ラケット、長門いさむなども出演していた(たぶん、みんなもう誰も知らない人の方が多いだろうが…)。この番組で2代目の女子事務員役を演じたのが藤純子で、それが芸能界への実質的デビューだったという。

鶴田浩二や高倉健の仁侠映画は、当時高校生くらいだった私は興味がなかったので(全共闘の大学生には人気だったらしい)、その後、藤を一躍有名にした『緋牡丹博徒』シリーズ(東映、全8作1968年ー72年製作)も見たことがなかった。今回初めてその第1作(1968年公開カラー映画)をテレビで見たわけだが、なるほど、ある意味でよくできた映画だと思った。ヤクザ映画といっても、後の『仁義なき戦い』や『極道の妻たち』のようにハードボイルドな実録ものではなく、テイスト的にはほぼ伝統的な「仇討ち時代劇」に近い仁侠ものだ。高倉健も友情出演している豪華キャストで、仁義を尊ぶストーリーは古風だが、昔の映画らしく作りが丁寧で映像が美しく、何より「緋牡丹のお竜」役の若き藤純子の物腰や表情などが日本的で、本当に奇麗なのだ(熊本弁というのもいい)。女性を主人公にした映画は、文芸ものなどで、それ以前にもあったのだろうが、こうしたキャラの立った女性主人公は、日本映画ではたぶん初めての例だったろうし、全共闘を筆頭に、既成のモノを何でもぶち壊す時代にあっては、大ヒットしたのも頷ける。藤純子は、その後東映の大スターになり、テレビ番組の司会の他、映画やテレビドラマにも数多く出演した。最近では2016年のNHKドラマ『ちかえもん』で見せた、近松門左衛門のとぼけた母親役が、何となく『スチャラカ社員』時代をほうふつとさせて私は好きだった。

『緋牡丹博徒』の15年も前のアメリカ映画、『ローマの休日』(1953年製作ウィリアム・ワイラー監督作品)は言うまでもなく、何度見てもほのぼのとして、どうしても泣ける永遠の名画だが、とにかくオードリー・ヘプバーン (1929-93) の一挙手、一投足の可憐さ、気品、凛々しさが半端なく、このシンプルなおとぎ話に、これ以上似合う女優はいないだろう。当初はエリザベス・テイラー主演で検討されていたらしいが、グレゴリー・ペックが相手役に決まったことで、当時ほとんど無名だったイギリス人女優ヘプバーンが初主演することになったという。ローマの名所めぐりのようなこの映画で、本国アメリカだけでなく、世界中にローマという都市の素晴らしさを映像で知らしめたのも大きな功績だったろう(私も初めてローマへ行ったとき、2千年も前の石造建築物が、普通に現代の街中のあちこちに残されているのを見て、話には聞いてはいたものの、本当にびっくりした)。その名所の一つ「真実の口」にペックが手を突っ込むあの有名なシーンは、ペックのアドリブ演技にヘプバーンが本気でびっくりした「素の反応」だったという。予算の制約でモノクロ映像になって、カラーで撮れなかったことをワイルダー監督はずっと悔やんでいたらしい。確かにあの美しいオードリー・ヘプバーンがローマ中を動き回る数多くの名シーンをカラー映像で撮っていたら……とは思うが、むしろモノクロの画面が、逆に作品にある種の懐かしさと温かみを与えていると言えるのかもしれない。それほどこの映画には、あの時代のアメリカ映画なのに、どのシーンにも、どこかイタリア映画的な懐かしさと温かみが感じられて、心が癒される。

ちなみに今はすっかり有名になっている話で、普通の辞書にも書いてあるが、原題『Roman Holiday』とは、「ローマ人の」休日であり――奴隷たちを戦わせて見世物にし、それを見物していた古代ローマ人の娯楽、という意味だという(文字通りの「ローマの休日」なら、たとえば「A Holiday in Roma」)。このタイトルは、真の原作者で、当時マッカーシーの赤狩りの標的にされて投獄された共産主義者の作家ダルトン・トランボ(1905-76)という人の脚本に込められた、アメリカという享楽的な資本主義国家に対する皮肉だったと言われている。しかし、恋をあきらめて国家への忠誠を選んだ王女ヘップバーン、恋を餌にスクープを取ろうとしたものの、王女の純真さと可憐さに、その野心を捨てた男らしい新聞記者ペック、というある意味、実にアメリカ的な純愛エンディングが、この作品を永遠の名画にしたのだろう。この映画でアカデミー主演女優賞を獲得したヘプバーンは、その後『麗しのサブリナ』(1954)、『ティファニーで朝食を』(1961)などのヒット作を連発して、その美しさに一層磨きをかけた。

『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』は上記2作とはまったく時代が違い、1987年に公開された香港映画で(原題:倩女幽魂、英題:A Chinese Ghost Story)、主役のレスリー・チャンと共演したジョイ・ウォン (王祖賢  Joey Wong) は台湾出身の女優だ。中国怪異文学の最高峰と言われる、清朝時代の小説集『聊斎志異』(りょうさいしい)中の一編『聶小倩』が原作で、1960年に香港で映画化されたが、それをリメイクしたものだという。集金の仕事で旅をする書生が、一夜の旅の宿にした古寺に出没する女幽霊と恋に落ちて――という話で、その後続編や、再リメイク作品が数多く作られるなど、大ヒットした映画だった。香港映画はどれも経費はあまりかけていないが、スピード感があって軽やかで、ユーモアがあり、金より知恵を絞ったエンタメ映画を作るのが得意だった。この映画も香港映画ならではのアクション場面や、全編に散りばめられた小ギャグが笑えて私は好きだ。古寺のゾンビのギャグや、前年のエイリアン2へのオマージュ(パクリ?)のような妖怪SFXも楽しめて、かつ大いに笑える。女幽霊役の当時20歳くらいだったジョイ・ウォンは、美人なだけでなく、妖艶でありながら、日本的な “はかなげな” 風情が普通の中国系女優にはない魅力だ。ジョイ・ウォンも、藤純子やオードリー・ヘプバーンと同じく、この映画の大ヒットでアジアでも有数の女優になった。彼女自身は引退して今はカナダへ移住しているらしいが、香港そのものが変わってしまった今、自由で独創的なアイデアで、こういう面白い映画をたくさん作って一時代を築いた香港映画人たちはどうしているのだろうか?

2021/12/06

追悼・中村吉右衛門

中村吉右衛門が11月28日に、77歳でついに亡くなってしまった。春先に倒れて救急搬送されて以来、なんとか回復して欲しいと、毎日テレビで『鬼平犯科帳』を見ながら祈っていた。その後ほとんど報道されて来なかったので心配していたが、先日も、その後容態はどうなのだろうかと案じていたばかりだった。

BSフジで毎週放映している二代目中村吉右衛門による『鬼平犯科帳』は、1989年に放送開始されて以降、2001年の第9シリーズまで放送され(以降はスペシャル版)、現在もたぶん何回目かの再放送中で、11月には第4シリーズ(1992- 93年)を放映中だった。これまで各シリーズ、スペシャル版含めてほとんど見てきたし、録画した放送を毎日見るのを楽しみにしてきた。私はとりたてて、いわゆる時代劇のファンでもないし、真面目に見てきた時代劇の番組は、NHKの大河ドラマや人情時代劇を除けば『鬼平犯科帳』だけだ。懐かしい松竹時代劇の、光と影のコントラスト、色彩の濃い独特の映像は、冒頭から一気に江戸時代の鬼平の世界へと引き込まれ、瞬く間に現世を忘れさせてくれる強烈な引力があり、毎週(毎日)見てもまったく飽きることがなかった。おそらく日本中に、私のように時代劇はあまり見ないが『鬼平』だけは別、というファンが数えきれないほどいることだろう。それほど、長谷川平蔵―鬼平は、中村吉右衛門と一体化していた。脇を固める他のキャストがまた素晴らしく、密偵役の江戸屋猫八、梶芽衣子の他、奥方の多岐川裕美、火付盗賊改方の与力、同心のメンバーなど、安心して見ていられる俳優ばかりで、毎回異なる、個性豊かな男女のゲスト出演者の演技も楽しめた。何より、鬼の平蔵の持つ江戸の粋と洒落っ気を、吉右衛門が見事に表現していた。春夏秋冬の江戸情緒あふれる景色(実際の映像は京都だが)を背景にして流れる、ジプシーキングスのギターによるエンディング曲「インスピレイション」が終わるまで、その回が「終わった」という気がしないので、ついつい最後の、雪の夜の立ち食い蕎麦屋のシーンまで見てしまうのだ。中村吉右衛門演ずる『鬼平犯科帳』は、そのヴィジュアル・インパクトが強烈で、はっきり言って池波正太郎の原作小説をはるかに超える面白さがあった。

「歌舞伎」の中村吉右衛門こそが本来の役者としての姿なのだろうが、残念ながら私はその世界をついに生で見ることはできなかった。だが、昔(1960年代末)から映画で知っていて、その当時は、実兄の6代目市川染五郎(現2代目白鷗)が、テレビのバラエティ番組出演、ブロードウェイ公演、大河ドラマなど、派手な活動で目立っていて、吉右衛門はどちらかと言えば地味で目立たない側だった。しかし映画で見た、長身痩躯で、男らしく、いかついのに優しい風情を全身から醸し出す吉右衛門が当時から私は大好きだった。大学入学後に見たATG映画、篠田正浩監督の『心中天網島』(1969)、新藤兼人監督の『藪の中の黒猫』(1968)という二本の映画で、初めて吉右衛門という役者を知った。岩下志麻と太地喜和子という名女優を相手に、片や大坂天満の情けない若旦那・紙屋治兵衛を、片や東国の夷敵征伐を終えて意気揚々と都へ帰還した源頼光配下の若侍・藪の銀時という対照的な役柄を演じた、まだ本当に若い20歳代前半の中村吉右衛門の姿が今も鮮明に瞼に焼き付いている。両映画ともに、後にDVDを購入して何度も見て来たので、リアルタイムで前後者どちらを先に見たのかはっきりとは覚えていないが、1970年あたりだったことは間違いない。両映画ともにモノクロームの時代劇だが、『心中天網島』は近松門左衛門の有名な人形浄瑠璃が原作の前衛的映画で、あの時代の傑作映画の一つだ(『心中天網島』については、本ブログ2020/2/7付けの記事「近松心中物傑作電視楽」で詳細を回想しているので、興味のある人はそちらをご参照ください)。

もう一作、新藤兼人監督の『藪の中の黒猫』は、1966年に2代目吉右衛門襲名後の初主演映画だった。カンヌ映画祭出品を意識して日本色を強く打ち出した怪異譚で、平安時代の源頼光配下の四天王の一人、渡辺綱(わたなべのつな)の「一条戻り橋」の鬼退治伝説を核に、「雨月物語」、「羅生門」の怪奇と悲哀、さらに野武士に殺され、その復讐ゆえに化け猫になった母娘という、ストーリー的には日本的情緒、妖怪、怪異伝説のてんこ盛りミックスの怪作(?)だ。見どころは、やはりモノクロの凝ったカメラワークと美しい映像、太地喜和子の妖艶な美しさ、まだ初々しささえ残る若き中村吉右衛門の演技だろう。特に化け猫になって、羅生門を通る武士を誘い込んで殺す太地喜和子が、漆黒の闇を背景にして、門の二階部分(実際の撮影地は、京都・東福寺の山門)に白く光る妖怪として右手から滑るように登場するシーンは、初めて見たときには本当にぞくっとするほど怖く美しかった。妖怪になった実母と妻の退治を命ぜられ、その運命を知って苦しむ当時20歳代前半の中村吉右衛門は、50年以上前のこの映画のときから、その後の鬼平役に通じる、男らしく朴訥でいながら色気のある風情をすでに醸し出している。その1年後の『心中天網島』では、正反対ともいえる、遊女(岩下志麻)に溺れる情けない大坂商人という、いわば非常にふり幅の広い両極の役柄だったが、あの若さでいずれの役も見事に演じていた。

『徹子の部屋』の追悼特番で、1970年代、30歳代から最近の70歳代までの吉右衛門出演の出演回を放映していた。黒柳徹子との対話を通して見る実際の吉右衛門は、言葉も喋りも滑らかで、とても軽やかに生きて来た人物のように見える。歌舞伎役者でありながら、幸か不幸か4人の娘に囲まれたが、やっと後継になれる男子の孫に恵まれて嬉しそうな表情の吉右衛門は、晩年は穏やかな人生を過ごしていたようだ。しかしそれにしても……本当に残念だ。中村吉右衛門さんのご冥福を心からお祈りしたい。

2021/11/14

「モンク没後40年」を前に

今年は向田邦子の没後40年で、あちこちの書店やテレビで記念企画を見かけるが、セロニアス・モンクが亡くなったのが1982年2月17日なので、来年2022年はモンク没後40年にあたる。そのせいか最近ネットやSNSを眺めていると、モンクがらみの企画や、モンクに関する記事やコメントが妙に目につく。現在公開中の写真家W・ユージン・スミスWilliam Eugene Smith (1918-78) を描いた映画『ジャズ・ロフトJazz Loft』に出て来るモンクに加え、来年はクリント・イーストウッド制作の傑作映画『ストレート・ノー・チェイサー Straight, No Chaser』(1989)の大元になった2本のドキュメンタリー映画の公開、さらにモンクを描いた伝記映画まで制作される予定だという。世界中がモンクでこんなに盛り上がっている(?)のはモンクの死後初めてではないか。2017年に、私がロビン・ケリーの著書(2009年)の邦訳版『セロニアス・モンク : 独創のジャズ物語』を出版したのは、モンク生誕100年、ジャズ録音史100年にあたる年だったが、多少のイベントはあったにしても、それほど盛り上がった記憶もないし、あのときは、なにせモンクの伝記翻訳書を日本で出版するのさえ非常に苦労したのだ(売れない、長い、という理由で)。ちなみに、昨2020年はビル・エヴァンス没後40年、今年2021年はマイルス・デイヴィス没後30年でもあるのだが(もうそんなに経ったのか…という感慨もある)、それほどエヴァンスやマイルスで盛り上がっている気配もない。だから、モンクの没後40年の盛り上がりは、私的には非常に意外なのだ(とはいえ、エヴァンスとマイルスはある意味で、ずっと盛り上がっている数少ないジャズ界のスターなので、世界の違うモンクとの比較はそもそも無理があるのだろう)。

モンクはとにかく喋らないことで有名だったので(相手にも依ったらしいが)、音楽も、人間としてもとっつきにくくて謎が多く、普通のジャズ・ノンフィクションの骨格となるべき本人のインタビュー記録もほとんど残されていない。またバド・パウエルと同じく、特に晩年になると精神的に不安定なことが多くなったので、どこまでが事実なのか、本気なのか分からないといった情報の真偽に関わる問題もあって、分析したり、文章にするのが難しいという側面もあっただろう。そこが、豊富なレコードやライヴ演奏、映像記録に加え、自叙伝まで出版し、よく喋り、第三者による文献も含めて虚実入り乱れた情報がたっぷりと残されている大スター、マイルス・デイヴィスや、現代ジャズ・ピアノの原型ともいえるサウンドで、たぶんジャズ界の永遠のアイドル的存在、ビル・エヴァンスと違うところで、これまでモンク情報の絶対量が世界的に少なかったこともあって、今回没後40年を期に、その希少性からくる価値を売り込もうという商業的背景もあるのだろう(誰が仕掛けているかは知らないが)。いずれにしろ最近、YouTubeをはじめ、ヴィジュアル情報が比較的容易に公開、視聴できる時代になって、20世紀のジャズ・ミュージシャンたちの動く映像が数多く見られるようになったのは、ジャズファンとしては非常に嬉しいことだ。

虚々実々だったモンクの人生に初めてメスを入れ、息子のT.S.モンクが主催するモンク財団とモンク家、さらにパトロンだったニカ夫人の実家ロスチャイルド家を通じて、事実と思われる信頼すべきモンク情報を可能な限り収集、選別し、さらにモンクを知る親族、友人、ミュージシャン仲間から直接得た新規情報をそこに加え、14年にわたってモンクの人生の足跡を辿った上で発表したのが、UCLA教授だったロビン・ケリーが書いた長大な原書『Thelonious Monk: The Life and Times of an American Original』(2009年)だ。米国黒人史を背景にしつつ、ジャズ・ミュージシャンとしてのモンクの人生を詳細に辿った本で、モンクを描いた伝記類で(あるいは全ジャズ・ミュージシャンの伝記類を含めても)、これ以上正確で信頼すべき情報を基にした書籍はなく、モンクを語る際に、まずリファレンスとすべき本がロビン・ケリーの書いたこの伝記なのだ(ただし日本語版は原書の長さのために、全体の約85%の訳文量にせざるを得なかった)。そしてその正確さと情報量ゆえに、モンク個人のみならず、20世紀半ばを生きたジャズ・ミュージシャンたちの生きざまを描いたモダンジャズ物語として、新たな視点を加えた書籍でもある。

私はケリー書の翻訳だけでは飽き足らず、続いて、実際にモンクの身近にいて、モンクをもっともよく知る二人を描いた書籍も邦訳した。一つは、半生を捧げてモンクを支援し続けたニカ夫人の伝記『パノニカ:ジャズ男爵夫人の謎を追う』、そしてモンクから大きな音楽的影響を受け、モンクに私淑していたソプラノサックス奏者、スティーヴ・レイシーのインタビュー集『スティーヴ・レイシーとの対話』だ。私の中では、これら3冊を本人、パトロン、弟子という3者の視点から描いた「モンク3部作」と称している。そして翻訳書を含めて日本語ではこれまで限られた文献や書籍、第三者によるレビュー等しか読めず、依然として謎と伝説に満ちていたモンクというミュージシャンの真実が、これら3冊の訳書でかなり正確にイメージできるようになったと自負している。しかし、中でも2009年に発表されたロビン・ケリーの著書は、その正確で圧倒的な情報量からしても大きな歴史的価値があり、今話題になっている没後40年の各企画の元ネタになったのも、間違いなくケリーの本だろうと思う。

現在日本で公開されている映画『Jazz Loft』は、『MINAMATA』で有名な写真家W・ユージン・スミス他のアーティストたちが、ニューヨークの廃ビルをロフトとして使い、多くのジャズ・ミュージシャンが毎晩そこに集まってジャムセッションを繰り広げていた模様を、スミスが撮影した写真と、ジャズファンであり、オーディオマニアだったスミス自身が録音したテープで描いたドキュメンタリーで、2015年にイギリスで制作された映画だ。この映画の主役の一人がポスター写真にも使われているモンクであり、そのロフト住人の一人で、モンクの大ファンだったジュリアード音楽院の教授ホール・オヴァートンを、モンクが自作曲の編曲者に指名して、モンク作品初となるビッグバンドによる公演を1959年に「タウンホール」で行なうまでのいきさつを、ロフトでの二人の会話を収めた音声テープと写真で初めて描いたものだ。ケリーの著書に詳しく書かれているこの逸話は、私も同書で初めてその事実を知ったが、このやり取りは、二人の関係と、モンクの音楽思想と音楽作りに関わる巷間伝説のベールをはがす、実に貴重な記録なのだ。映画製作の6年前に発表されたロビン・ケリーの本では、デューク大学Jazz Loft Project 所蔵のオリジナル録音テープをケリーが書き起こし、映画のハイライトというべきモンクとオヴァートンの会話の内容を詳しく収載している。

来年2022年初めに「没後40年 セロニアス・モンクの世界」と称して公開予定の2本のドキュメンタリー映画、『モンク』と『モンク・イン・ヨーロッパ』は、クリント・イーストウッド製作、シャーロット・ズワーリン監督が編集した傑作ドキュメンタリー映画『ストレート・ノー・チェイサー』(1989)で使われている、2本のオリジナル・ドキュメンタリー・フィルムを映画化したものだ。ドイツのテレビ局の社員だったマイケル・ブラックウッドとクリスチャン・ブラックウッド兄弟が、モンクの許可を得て、1967年にニューヨークまで出かけてモンクの日常を撮影し(前者)、ジョニー・グリフィンやフィル・ウッズも加わったヨーロッパ公演の模様を追いかけた(後者)経緯についても、ロビン・ケリーの本に詳しく書かれている。映画『ストレート・ノー・チェイサー』は、その2本のオリジナル・フィルムと、他のモンクやニカ夫人等の記録映像を編集して制作したものだ。オリジナル・フィルムが撮影された1967年はモンクの晩年期にあたり、モンクの状態は精神面、音楽面ともに微妙だったとはいえ、画面から伝わってくるモンクの存在感は圧倒的で、素晴らしいジャズ・ドキュメンタリーにもなっているので、映画では未収録だった当時の「動くモンク」や、ネリー夫人、ニカ夫人をとらえた映像が他にどれだけあるのか(ないのか)、非常に楽しみではある。

もう一つの企画は、モンクの伝記映画『Thelonious』の制作発表だ。ヤシーン・ベイ Yasiin Bey (Mos Def)というラッパー兼俳優が主演し、2022年夏から撮影を開始するという予定らしい (amass 2021年7月情報)。しかし、息子のT.S.モンクが、モンク財団としてこの映画の制作には一切関与していないし、許可もしていない、脚本も嫌いだ…とか明言しているらしいので、どうなることか分からない? いずれにしても、モンクを巡るこうした動きはモンクファンとしては歓迎すべきことだが、21世紀の今頃になって突然脚光を浴びて、草葉の陰でモンクも苦笑いしているかもしれない。あるいはこれは、天才モンクの音楽が、やはり世の中より40年先を進んでいた――という証拠なのか?

2020/05/15

タイムトラベル


TBS『JIN-仁-』の再放送特番をやっていたので久々に全編通して観たが、やはり名作だ。現代から幕末の江戸時代にタイムスリップした主人公の脳外科医、南方仁(みなかた・じん)が、手術や医薬の開発によって、コレラや他の感染症、災害、事故から当時の人々を救うという、荒唐無稽だが、救命医療とヒューマニズムを軸にした壮大な歴史ファンタジーだ。原作漫画(村上もとか)とは設定や結末が多少違うようだが、テレビドラマとして脚本(森下佳子)、演出、俳優陣、映像、音楽どれをとってもやはり非常によくできている。内野聖陽が演じる坂本龍馬を筆頭に、登場する歴史上の人物の造形も新鮮で、大沢たかお、綾瀬はるか、中谷美紀他の主役のみなさん全員が、真情あふれる魅力的な演技をしている。ノスタルジーをそそる音楽と共に、タイトルバックで交錯する懐かしい東京と江戸の写真もいい(ただし、外科ものだから仕方ないが、毎回あるリアルな手術シーンだけは苦手だ)。

ところで、南方仁は階段や崖から転げ落ちてタイムスリップするが、「階段や高いところから落ちるとタイムスリップする」、というモチーフのルーツはどこ(小説や映画)なのかと、(ヒマなので)いろいろ調べてみたが、はっきりとは分からなかった(『JIN-仁-』が最初なのか?)。「階段落ち」で有名なのは、先月亡くなった大林宣彦監督の『転校生』(1982) だが、これはタイムスリップではなく男女の入れ替わりだ。実をいうと、粗忽ものだった私は小学校低学年の頃に、学校の薄暗く、かなり急で長い階段から、横向きとかではなく、文字通り「前方に転げ落ちた」ことがあるのだ。当時は木造校舎だったのと、子供で身体が柔らかかったせいもあってか、奇跡的に大けがもせずに済んだが(とはいえ、着地場所は給食室前の、木製渡り廊下が敷いてあるコンクリートの廊下だった)、ゴロンゴロンと前方に何回転かしている間の、ぐるぐると世界が回転し、目の回るようなあの感覚は今でもはっきりと覚えている。たぶん時空を超える瞬間とは、ああいう感覚なのかもと、(私と同じように転げ落ちた経験のある) 誰かが最初にこのモチーフを思いついたのかもしれない。

ある日どこかで
1980
まったくの偶然だが、『JIN-仁-』再放送の1週間ほど前に、いくつか録画しておいた映画でも見ようと、その中から『ある日どこかで (Somewhere in Time)』という1980年に公開されたアメリカ映画を選んだ(ちなみに、タイトルの邦訳は「ある日」ではなく、「いつかどこかで」の方が語句と内容に近いだろう)。リゾートホテルで時空を超えて恋人と再会する、という古典的タイムトラベル・ファンタジーで、たまたま久々に観ようかと思い立って選んだ映画だ。懐かしさもあって、この映画は時々観たくなるのである。なぜかというと、今から約40年前、合弁企業勤務時代の1981年に、私はこの映画の舞台である「グランドホテル (Grand Hotel)」へ行ったことがあるからだ。つまりアメリカでこの映画が公開された翌年ということになる。初の米国出張時で、ミシガン州にあったアメリカの親会社の人たちが、休日ドライブに連れて行ってくれたのが五大湖の一つヒューロン湖のマキノー島 (Mackinac Island)で、 その島にこのホテルがあったのだ(泊まったわけではない)。テレビで初めてこの映画を観たのは、たぶん1990年代になってからだったと思う。グランドホテルのことはまったく知らずにたまたまこの映画を見ていたら、(文字通り)ある日どこかで見たことのあるような建物と風景が出て来たので、そのまましばらく画面を見ていたら、それがマキノー島のグランドホテルだと分かってびっくりしたのである。

カナダとの国境に近いミシガン州の北端(正確にはLower半島の北端)、ミシガン湖(西)とヒューロン湖(東)の海峡にある港町マキノーシティ (Mackinaw City;デトロイトからの距離は約420km) から、ヒューロン湖側をフェリーで30分くらい(?)行ったマキノー島の丘の上に、1887年に開業したグランドホテルは今もある。緯度が高く冬場は湖が全面凍結するため、ホテルなどの施設はすべて閉鎖されるので、夏場中心のリゾート地だ。あの当時この島を訪れた日本人は、きっとまだ珍しかったのではないかと思うが、何せ湖の巨大さと、ヴィクトリア調の白く大きなホテルの豪華さと美しさに、心底びっくりしたのをよく覚えている。島内では、クルマもバイクも、エンジンを搭載した車輛は一切禁止されていて、移動手段は馬車か自転車か徒歩だけという、本当に19世紀にタイムスリップしたかと思うような場所だった(これは現在もそうだ。映画では、シカゴに住む主人公が仕事のストレスからドライブ旅行に出かけ、ふらりと立ち寄る設定になっているので、ホテル前に普通にクルマで到着するシーンが出てくるが、これは撮影用として特別に許可された車だそうだ)。

グランドホテル
Mackinac Island, MI
この映画の原作は、1975年の幻想小説『Bid Time Return』(時よ戻れ;シェイクスピア 『Richard II』からの引用) であり、書いたのはリチャード・マシスン Richard  Matheson (1926-2013) というモダンホラーの作家・脚本家だ。あのスピルバーグのデビュー作かつ傑作であるTV映画『激突 (Duel)』の原作、脚本もマシスンで、映画『ヘルハウス』や、『トワイライトゾーン』のようなTVドラマも書いている人らしい。小説の映画版である『ある日どこかで』も、マシスン本人による脚本である。原作のホテルはカリフォルニア州の設定だが、映画ではそれを(ミシガン州の)グランドホテルに変えたわけだ。映画『ある日どこかで』は予算も絞られ、1980年の公開時は日米ともにパッとしない興行成績だったらしいが、その後ケーブルTVやビデオを通じてじわじわとファンが増え、今やカルト的人気のあるタイムトラベル映画になっていて、毎年10月には、今もグランドホテルでファンの集いが開催されているほどだそうだ。

その方面に詳しくはないが、タイムスリップやタイムトラベルといえば自由な発想ができるSF小説が中心で、内容も未来社会とか、思い切り過去に飛ぶ活劇系作品が多いように思う。映像化もその方が分かりやすいし、古くは『ターミネーター』とか『バック・トゥー・ザ・フューチャー』といった傑作映画がいちばん有名だろうが、公開は1984年、1985年だ。『ある日どこかで』はそれより5年も前の作品で、しかも内容が恋愛ものであるところが違う。だから、今や小説、コミック、ドラマ、映画などで数多く描かれている時空を超えるラヴ・ファンタジー作品の元祖というべき映画であり、大林宣彦監督も『時をかける少女』(1983 /筒井康隆の原作小説は1967年出版)の制作にあたって、この映画を参考にしたそうだ。大林監督は他にも『さびしんぼう』(1985) や『異人たちとの夏』(1988) など、実在しないが、心の中にある、はかなく懐かしい存在をイメージ化する映画を制作しているが、『ある日どこかで』もSFというより、どちらかと言えば昔のアメリカのTV番組『ミステリーゾーン』や『トワイライトゾーン』的な「不思議な物語」という味付けの映画だ。『JIN-仁-』にも、この映画の影響、もしくはオマージュと思われるモチーフが多い。南方仁と咲、野風、未来(みき)を巡る、会いたくても会えない、時空を超えた切ない恋愛感情がそうだし、主人公が手にする「コイン(硬貨)」が、過去と現在が交差する入口を象徴している設定もたぶんそうだろう。

女優エリーズ・マッケナ
(ジェーン・シーモア)
『ある日どこかで』で主人公の若い脚本家を演じるのは、あの「スーパーマン」役のクリストファー・リーヴ Christopher Reeve (1952-2004) である。ジュリアード音楽院出身で、いかにもアメリカンなこの人は、落馬事故が原因で早逝してしまったらしい。主人公が一目で魅了される、ホテルの資料室の肖像写真に写っているのが、タイムトラベルで邂逅する女優エリーズ・マッケナで、007のボンドガールの一人だったジェーン・シーモア Jane Seymour (1951-) が演じている(彼女のモナ・リザ的で、どこかノスタルジーを刺激する謎めいた写真は実に美しく、確かに一度見たら忘れられない)。大昔ではなく、1980年から1912年という近過去(68年前)に主人公がタイムスリップするのがこの映画の特徴で、またタイムスリップはタイムマシンのような機械や、階段落ちとかの事故や偶然ではなく、戻りたい過去の事物だけに囲まれた場所を選び、その時代の衣服等を身に付け、その上で自己催眠をかけて実行するという、主人公の学生時代の恩師から伝授された方法だ。『JIN-仁-』がそうであるように、この種のファンタジー映画は音楽も大事で、007で有名なジョン・バリーが自作曲とラフマニノフのピアノ曲を組み合わせて、映画のストーリーによくマッチした音楽を制作している。『ある日どこかで』は、近年のタイムトラベル作品に比べてストーリーがシンプルで、時代を反映して、エンディングもどこかやさしい余韻を残して終わるところがいい。私にとって懐かしい風景が出てくる画面をじっと見ていると、何だか自分も40年前にタイムスリップしたような気がしてくる不思議な映画である。

ところで私は、日本中が浮かれていたバブル時代に、会社のパーティ向けに組んだ即席バンド(サイドギター担当)で、サディスティック・ミカ・バンドの<タイムマシンにおねがい>(1974) を演奏したことがある。ミカ・バンドはその後、89年に桐島かれん、2006年に木村カエラを擁して同曲を再・再々カバーしていたが(名曲なので)、実は私も2010年代の同パーティで、いい歳をして再結成バンドでもう一度この曲を演奏している。「階段落ち」実体験といい、『ある日どこかで』の偶然といい、<タイムマシンにおねがい>との縁といい、こうして並べてみると、どうも自分にはタイムトラベルをする素質(?)があるような気がしてくる(朝が弱い私は、むしろ「タイムトラブル」の方が多かったが……)。しかしよく考えてみると、昔ながらのジャズファンというのは、ある意味でタイムトラベルを日常的に楽しんでいるようなものかもしれない。私の場合、ふだん聴いているジャズ音源の7割くらいは1950年代から60年代前半のものだし、しかもライヴ録音のアルバムを聴くことも多い。優れたライヴ録音のアルバムを、良いオーディオ装置で再生すると、時として実際にジャズクラブの中にいるのでは、と錯覚するほどの臨場感が得られることがある。だから、60-70年くらい前の全盛期のジャズの演奏現場にタイムスリップしたような感覚が味わえるジャズレコードは、いわば「即席タイムマシン」のような機能を果たしているのかもしれない。ジャズレコードには、どこか他の音楽ジャンルの音源とは違う不思議な魅力があると思っていたが、どうやらこれも理由の一つのようだ。

「Five Spot」前の
モンクとニカとベントレー
とはいえ、本物のタイムトラベルもできれば死ぬ前に一度経験してみたいものだが、もしそれが可能なら……行きたいところは決まっている。時は1957年、場所はニューヨーク、ヴィレッジの「Five Spot Cafe」だ。もちろん、ヤク中のためにマイルス・バンドをクビになったジョン・コルトレーンを雇ったセロニアス・モンクが、自身初のレギュラー・カルテットを率いて登場し、コルトレーンが次なる飛躍に向かって徐々に成長してゆく過程を捉えた演奏を聴くためだ(4ヶ月にわたるこの伝説のライヴ演奏は、録音記録が残されていない)。タバコとアルコールの匂いが立ち込める1950年代ニューヨークのジャズクラブで、客席の著名な芸術家やミュージシャンたちに混じって、できればニカ夫人のテーブル近くに座って、モンクたちの演奏を朝まで聴いていたい……

2020/02/07

近松心中物傑作電視楽

年末年始は、どうしても「何か日本的なもの」をゆっくりと見たり聞いたりしたくなるのだが、今年は近松門左衛門 (1653 - 1725) に関する作品(DVD、録画)をテレビで見ていた。近松といえばやはり「心中物」が有名だが、近頃は「心中」というと、高齢者夫婦とか、老々親子の無理心中とかいった救いのない悲惨な事件ばかりで、近松が描いたような「現世で無理なら来世で添い遂げよう」という相思相愛の男女の心中事件(情死。本来の心中)などほとんど聞いたことがない。300年前とは時代が違いすぎることもあるが、心中はもはや男女の愛のテーマにはなり得ないのかとも思う。しかし近松は、町民を主人公として書いた「世話物」人形浄瑠璃24編の中で、当時の実話に基づく「心中物」と呼ばれる作品を11作も書いている。いかに当時心中事件が多かったかということだろうが(遊女がらみの話が多い)、近松作品に刺激されて心中事件が増えたために、江戸幕府は「心中」という言葉を禁止し、実行者を罪人扱いし、『心中天網島』(しんじゅうてんのあみじま)発表の2年後には、ついに「心中物」浄瑠璃の上演も禁止したという。

心中天網島
2005 東宝DVD
『心中天網島』は、今からちょうど300年前 (1720) に実際に起きた、大坂・天満の紙屋治兵衛と曽根崎新地の遊女・小春の心中事件を元に、晩年の近松が書き下ろした「心中物」の最高傑作と言われている作品だ。事件からわずか2ヶ月後には上演されたというから、ものすごいスピードである。今から半世紀前の1969年に、その『心中天網島』を人形浄瑠璃以外の手法で描くことに挑戦したのが、篠田正浩監督の同名の傑作映画(表現社/ATG)である。この映画は学生時代にATG系封切り館で何度か見て、その後もテレビ放送やDVDで繰り返し見てきた。最近の映画は1回見れば十分なものばかりだが、何度見ても飽きず、毎回何かを感じる作品こそを名画と呼ぶのだろう。金と時間をたっぷりかけたというような即物的な理由ではなく、原作の質に加えて、才能ある制作者のアイデアと、作品を作り込むために注いだ情熱、エネルギーが、画面を通して観客に自然と伝わってくる作品のことだ。今回この映画を久々に見直してみたが、当然ながら往時の前衛的衝撃度は薄れてはいても、映画全体から伝わってくるエネルギーは今も変わらないことを再確認した。

篠田監督の映画化コンセプトは、近松の描いた男女の古典的悲劇に忠実に、人形による浄瑠璃劇を実際の人間が演じる映画で表現する、というものだ。制作資金の制約もあって、結果的に舞台演劇のようなミニマルかつ抽象的なセットと演出手法を用い、また役者の運命を操るかのような「黒子(黒衣)」を実際に画面に登場させるなど、当時としてはきわめて前衛的な手法を大胆に用いている。しかし篠田正浩(監督)、富岡多恵子(台詞)、武満徹(音楽)、粟津潔(美術)、篠田桃紅(書画)、成島東一郎(撮影)という錚々たる制作スタッフが目指したのは、あの時代に流行った目新しさを狙っただけの実験的な作品ではなく、また近松の傑作古典の単なる映画版でもなく、日本の伝統美を表現するまったく新しい映像作品を創造することだった。才気溢れる上記スタッフにとっては、制約がむしろ創造への挑戦意欲を一層掻き立てたことだろう。舞台のようにシンプルな画面構成、ハイコントラスト・モノクロによる光と影が圧倒的に美しい映像美に加え、斬新な美術、音楽、演出、さらに各役者の演技と細かい所作、台詞(せりふ) 回し等々、この映画を構成するあらゆる要素が実に綿密に考えられていることが分かる

映画のストーリーとシナリオは、「河庄」、「時雨の炬燵」、「大和屋」、「道行」の各段に沿って、近松の原作をほぼ忠実になぞっている。近松の浄瑠璃原本による 「太夫の語り」の美しい語感とリズムを、作家・富岡多恵子が “口語変換” した台詞も違和感がなく、それを喋る役者陣の登場人物 (人形?) へのなりきり振りも驚くほどだ。特に紙屋治兵衛役・中村吉右衛門が演じる情けない男ぶりも、女の持つ二面性と女同士の義理の真情を、遊女・小春と女房・おさんという二役で演じ分ける若き岩下志麻の美しさと演技も素晴らしい。三味線の使用をあえて控えめにし、代って琵琶、ガムラン、トルコ笛を用いて汎アジア的音空間を生み出した武満の音楽、浮世絵や書をデフォルメした背景やセットを用いた粟津の美術、モノトーンの究極美を追求した成島のカメラワーク、そして終始物語を先導する「黒子」の存在など、すべてに人形浄瑠璃とは異なる映像表現としての独創性と前衛性が顕著に見られる。人形浄瑠璃(文楽)は、じっと見ていると操る黒子が徐々に気にならなくなり、人形がまるで人間のように見えてくる。この映画では逆で、最初控え目だった黒子が物語の進行につれて徐々にその出番と存在感を増していき、それにつれて役者が段々と操られる人形のように見えてくる。あたかも情感と意志を持つかのように、二人を死へと導くこの黒子は、篠田によれば、原作者である近松自身だという。確かに近松の原作通り、世間の義理に背く者たちへの当然の報いだとする冷めた視点と、恋に溺れる心中者への憐憫が交錯する作者の心情が、各場面における黒子の「所作」から同時に表現されている。

映画の終盤、女房・おさんを義父に連れ去られた治兵衛は絶望のうちに心中を決意し、それまでの舞台のような抽象的セットを破壊する。場面が変わり実際の夜の屋外ロケで撮られた、美しくまた凄惨な夜半の道行(名残の橋づくし)はこの映画の白眉であり、吉右衛門、岩下の迫真の演技で描かれる ”彼岸への旅” の、日本的エロスと無常感が漂うリアルな映像美は日本映画史に残るものだ。この時代の日本には活力がみなぎり、内側から何かを変革しようとするエネルギーに満ちた若き才能が溢れていた。制作当時、篠田も武満も粟津もみな30歳台後半である。この映画が放つ時代を超えた芸術的芳香と力は、それらの才能とエネルギーが奇跡的に一つに集結できた時代の産物である。いくら金をつぎ込みCGを駆使しても、もはやこのように濃密な作品が生まれることはないだろう。

ちかえもん
2016 DVD-Box
ポニーキャニオン
もう一つの「近松心中物」の現代版傑作は、半世紀前に作られた芸術指向のシリアスな上記映画とは対照的なコンセプトで、NHK2016年上半期に放送した木曜時代劇『ちかえもん』(全8回) である。こちらは大坂の遊女・お初と商家平野屋の手代・徳兵衛の心中実話を描き、「世話物」初の作品となった『曽根崎心中』(1703) の誕生秘話をデフォルメした現代流パロディである。作者の近松門左衛門を主役(妻に逃げられ、スランプ中のさえない作家)として描いた「創作時代劇」なので、筋立てや登場人物の役柄は一部変えているが、ギャグ満載のコメディでもあり、ファンタジーでもあり、ミュージカル的でもあり、落語的でもある、という「笑いと涙と芸」が混然一体となった上方芸能の真髄が、見事に伝わってくる大傑作ドラマだ。近松の「虚実皮膜論」をドラマという場で試みたとも言える。タイトルの『ちかえもん』からして『ドラえもん』的だし、各回には「近松優柔不断極(ちかまつゆうじゅうふだんのきわみ)」(第1回) といった浄瑠璃風タイトルが付けられているななど、遊びごころで一杯だ(このブログ記事のタイトルも、それに倣って「ちかまつしんじゅうものけっさくをテレビで楽しむ」と読む。ただし、いいかげんだが)。本格的セットと衣装で演技する時代劇でありながら、毎回近松 (松尾スズキ) による現代関西弁の独り言と、有名フォークソングなどの替え歌が挿入されたり、アニメーションが入ったりと、とにかく意表を突く演出の連続で、毎回大笑いさせられる。悪役も登場するにはするが (黒田屋九平治を演じる山崎銀之丞がうまい)、悲劇ではなくハートウォームな結末にしたことを含めて、物語全体が終始コミカルかつ温かいトーンで満たされているところが素晴らしい。

「ちかえもん」役の松尾スズキ(リアクション芸、顔芸に注目)、謎の ”不幸糖売り”  万吉」役の青木崇高 (憑依芸に注目)に加え、早見あかりの「お初」(顔が洋風だがうまい)小池徹平の「あほぼん徳兵衛」(意外と適役)のカップル、岸部一徳(平野屋主人役はこの人しかいない)と徳井優(引っ越しのxxx風番頭がハマり役)の旦さん/番頭コンビ芸といい、その他の出演者も全員が素晴らしい。ちかえもんの母親役・富司純子のボケの名演技に、大昔(1960年代)の舞台コメディ『スチャラカ社員』(藤田まこと主演) に出演していた美人OL「ふじクーン!」(藤純子時代)を懐かしく思い出すのは私だけではないだろう。劇中に、当時の竹本座による人形浄瑠璃『曾根崎心中』の上演を再現したシーンもあるし (北村有起哉による「大夫の語り」が本職並みだ)、ドラえもんのように、主人公ちかえもんをいつも窮地から救う万吉が、(人形に魂が宿るという)人形浄瑠璃へのオマージュともなる涙々のファンタジックなオチも素晴らしい。「楽しめる」テレビドラマという観点からは、おそらくこの作品はこれまでの人生で私的ベストワンだ。

今や、新たにテレビ時代劇を手掛けるのはNHKのみといった状態だが、現代劇に新味が欠ける現状からすると、CGが使えるようになって、想像力次第でどんな物語も映像化が可能な時代劇は新鮮でもあり、テレビにとって益々有望なジャンルになるだろう (NHKもAIひばりとかに余計な金を使っていないで、もっと予算対象を絞るべきだろう)。この作品も今回録画を見返したが、演技や言葉遊びの洒落と面白さは何度見てもまったく変わらず、むしろ台詞や所作の細部の面白さにあらためて気づいて、毎回さらに楽しめるという驚くべき完成度を持ったドラマだ。これも傑作の朝ドラ『ちりとてちん』を書いた脚本の藤本有紀は、この作品で同年の「向田邦子賞」を受賞している。ストーリーの面白さもそうだが、“江戸の粋” と “上方の情” という違いはあっても、二人はユーモアのセンスでも肩を並べると思うし、藤本有紀が翌2017年にNHKで書いた、上方と江戸を結ぶ人情時代劇『みをつくし料理帖』も、とてもよくできたドラマだった。彼女はまさに向田邦子の世界を引き継ぐドラマ界の才人だ。

映画化、テレビドラマ化の他にも、これも名作『冥途の飛脚』他を題材にした秋元松代・作、蜷川幸雄・演出の『近松心中物語』という演劇が1979年の初演以来ロングランを続け、スタッフ、キャストを変えながら今も上演されているという(私はまだ見たことがないが)。男女の実際の心中事件はもはや絶滅しかかっていても、300年も前に書かれた古典的心中物語が、こうして未だに取り上げられ、現代の作家や表現者を触発して新しい作品を生み出し続けているのは、近松門左衛門の作品に、やはり時代を超えて日本人の心に訴える何かがあるからなのだろう。

2019/05/07

映画『ビル・エヴァンス タイム・リメンバード』を見に行く

たぶん、昔からの大方のジャズファンはそうではないかと思うが、レコードも散々聴き、関連情報も何度も見聞きし、伝記(『How My Heart Sings』, 1999, Peter Pettinger 著) も読んでいるので、正直、今更ビル・エヴァンスの伝記映画も……と思っていた。モンクと違って、エヴァンスには内外の文献情報だけでなく映像記録も多く、それをネット上でもかなり見ることができるので、DVDがあるのも知っていたが、持っていなかったのだ。しかし「日本だけの劇場公開」というコピーについ釣られて、(ヒマなこともあり)話題の映画『ビル・エヴァンス タイム・リメンバード(原題 Time Remembered : Life & Music of Bill Evans)』(2015、ブルース・スピーゲル監督)を見に、連休中に吉祥寺まで出かけた。PARCO の地下に映画館(UPLINK)があるのもまったく知らず、一時住んでいて、その後もよく来た久々の吉祥寺では、ほとんど浦島太郎状態だった。人が多く、活気があって、雑然とした街並みは相変わらずだが、やたらと増えた知らない店やカフェやらで、周辺の景色はずいぶん変わっていた。そもそも、昔よく行ったジャズ喫茶 “Funky” は、このPARCOのあたりにあったのだ。今は少し移動した場所で飲食店(名前は “Funky” で同じ)になっているが、うす暗い地下で鳴り響いていたJBLパラゴンの強烈な音は今でも覚えている。1970年代半ばのことだ。

Live in Tokyo
CBS/Sony 1973
ビル・エヴァンス (1929 -1980) はもちろんその当時は現役で、何度か来日もしていた。前にもどこかで書いたが、私は確か二度目の来日時(1976年?)に、新宿厚生年金会館での公演を見たように思う。1973年の初来日時のレコード(郵便貯金ホール)の写真を見ると、もう髪と髭を伸ばしたあの70年代のエヴァンスの風貌なので、二度目もほぼこの姿で登場したはずだが、どういうわけかそれもよく覚えていない。そのときも、この映画のパンフも含めて写真によく使われているように、首を90度前屈してピアノにのめり込むような例の姿勢で弾いていたと思うのだが、実際そうだったと言い切る自信はない。単にそういう刷り込まれたイメージを反芻しているだけかもしれないし、あるいは実際にそうだった可能性もある。だが、いつの時代も、どんなジャンルでも、アーティストにとってそうしたイメージは大事だ。ひと目でその人だと認識できるヴィジュアル・イメージと、加えてジャズの場合は特に音そのもの、その人にしか出せないサウンド・イメージが重要である。何かに憑かれたように首を傾けてピアノを弾くビル・エヴァンスのヴィジュアル・イメージは、彼の人生を描いたこのドキュメンタリー映画の中でも ”正しく” 表現されていた。上映中ずっと流れ続ける、美しいが、常に深い翳のあるピアノ・サウンドも、まさしくエヴァンスの人生そのものを表現していた。

New Jazz Conceptions
1957 Riverside
この映画は、ロシア系移民の子孫であるエヴァンス の51年という比較的短い生涯を、駆け足で最初から辿るドキュメンタリーで(上映時間は1時間20分だ)、ほとんどがレコードを中心とした音源、残されたエヴァンスのインタビュー音声、演奏を記録した映像(たぶんテレビ)に加え、親族やミュージシャンたちへのインタビューで構成されている。ポール・モチアン(ds)、ジャック・デジョネット(ds)、ゲイリー・ピーコック(b)、チャック・イスラエルズ(b)など、エヴァンス・トリオで共演したミュージシャン、ジョン・ヘンドリックス(vo)、トニー・ベネット(vo)、ジム・ホール(g)、ビリー・テイラー(p)、ドン・フリードマン(p) などのエヴァンスと同時代のミュージシャンや、Riversideのプロデューサーだったオリン・キープニューズ(ずいぶん太って別人のようだ)、唯一の現役(?)ピアニスト、エリック・リードなどが次々に登場して、それぞれエヴァンスの音楽や行動についてコメントしてゆく。ただし、流れる音楽もそうだが、インタビュー画面も急ぎ足、かつ細切れ、つぎはぎのパッチワークのようで、画面展開が目まぐるしい印象があり、もっと各人のコメントをじっくりと聞いてみたい気がした。しかし、そのほとんどが故人となった今では、エヴァンスを語る彼らのコメントは貴重なものだし、動くスコット・ラファロ (b) の映像も良かった。親族や関係者(非ミュージシャン)たちのコメントは、これまで見たことがなかったし、身近な人間として彼らが見ていたいくつかの逸話が初めて聞けて、これらは興味深かった。エヴァンスの出自と家庭、内向的で利己的な性格、クラシックの知見がマイルス他のジャズ界に与えた音楽的影響、ジャズの世界で繊細な白人が美の探求者として生きる過酷さ、生涯抜け出すことができなかったドラッグの泥沼など、ある程度知っていたことではあるが、映像でそれらを年代順に辿ると、あらためてエヴァンスに対する様々な思いが浮かんでくる。映画館のスクリーンが予想外に小ぶりで拍子ぬけしたが、器が小さいこともあって、音量を含めた音響面に関する不満はなく、ピアノ、ベース、ドラムス、各楽器の音が、それぞれ深く、かつクリアにバランスよく聞こえた。唯一の不満は日本語字幕の表示で、背景が明るいとよく読めない画面がかなり多かった(こっちの年のせい?)。たぶんテレビ映像では問題ないのかもしれないが、映画館のスクリーンでは、これは問題だろう。もう少し何とかならなかったものだろうか。

Everybody Digs Bill Evans
1959 Riverside
音楽面では、代表的レコードをかなりの枚数取り上げていたが、これもダイジェスト版CDのようで目まぐるしく、エヴァンスのレコードや演奏をよく知るジャズファンは別にして、馴染みのない人たちのために、もっとじっくりと聞かせる方がいいのではないかと感じた(元のDVDがそういう作りなので仕方がないが、モンクの映画ではもっと個々の演奏をきちんと聞かせている)。今振り返れば、晩年の一部の演奏を除き、基本的にエヴァンスの作品に駄作はなく、すべてが素晴らしいとしか言えないが、スコット・ラファロ と共演したRiversideの諸作は当然として、私的エヴァンス愛聴盤は①『New Jazz Conceptions(1956)、②『Everybody Digs Bill Evans(1958)、そして③『Explorartions(1961)というピアノ・トリオ3枚である(数字は録音年)。溌溂として、新鮮で、切れ味の良い①、ジャズ・ピアノにおけるバラード・プレイの極致と言うべき演奏が収められた②、三者の深く味わいのあるインタープレイが全編で聞ける③の3枚は、何度聴いても飽きるということがない。映画でも、特に②と③が名盤として紹介されていたが、意外だったのは、私がいちばん好きな③が、実は三人(エヴァンス、ラファロ、モチアン)の人間関係がぎくしゃくしていた時に録音されたものだ、という話だった。これは知らなかったので帰ってから確認すると、伝記にもそういう逸話が短く書かれていた。ラファロからも注意されていたように、エヴァンスのドラッグ耽溺が原因だった。このアルバムに聞ける、何とも言えない憂い、沈潜したムードと不思議な緊張感が漂う美は、そのことが背景にあったからのようだ。これが、体調も良く、みんなで仲良くやっていれば良い演奏が生まれるわけではない、というジャズの持つ不思議さなのだろう(演奏者自身のその時の意識と、聴き手側が受け取る印象の違いということでもある。こうした例はジャズではよくある)。また、若きエヴァンスが風にそよぐカーテンの向こうから端正な顔でじっとこちらを見ている、一見、知的で静かで美しいが、どことなくこの世の世界とは思えないような不思議な印象を与えるジャケット写真が、実はゴミため のように乱雑なエヴァンスのアパートメント自室内で、いちばんそれが目立たない窓際で撮られたものだった、というエピソードも実にエヴァンス的だ。つまり、内部(精神)に満ちた混沌、葛藤と、外部に向けて表現された美の世界(演奏)とのギャップである。ただし、エヴァンス的にはそれで ”均衡” していたのだとも言えるが。

Explorations
1961 Riverside
ビル・エヴァンスの人生は、大まかなことはほぼ知っているので、映画の中にそれほど目新しいエピソードはなかった。エヴァンスには、セロニアス・モンクのような神話や謎めいた逸話はなく、モンクの傑作ドキュメンタリー映画『ストレート・ノー・チェイサー Straight, No Chaser』(1988、クリント・イーストウッド制作)のように、本人の日常の行動を間近に追った映像記録も映画中にほとんどないので、映像そのものに特に新鮮な驚きはない。ただ、盟友スコット・ラファロの事故死(1961年)によるショックから徐々に立ち直り(ドラッグからは逃れられなかったが)、70年代に入ってから再婚して子供も生まれ、束の間の幸福そうな結婚生活の一部を記録した映像は、初めて見たこともあって、その明るい雰囲気が意外であり非常に印象的だった。それがエヴァンスの人生で最良の瞬間だったのかもしれない。しかしそのときでさえ、長年にわたって彼を支えてきた前妻(内縁)の自殺(1973年)という死の影をエヴァンスは引きずっていたのである。その後、再びドラッグに溺れ、新しい家族とも別れ、さらに幼少期から彼のただ一人の庇護者であり、敬愛してきた兄の自殺(1979年)という一撃で、エヴァンスの人格と人生は完全に崩壊する。

チャーリー・パーカー以降、モダン・ジャズ時代のジャズマンの多くがドラッグで破滅的人生を送ったのは周知のことで、エヴァンスもその一人だった。しかし同じように生涯ドラッグ漬けで、最後には肉体も精神も崩壊したセロニアス・モンクの人生が、全体に奇妙で、おぼろげで、くすんだような色彩なのに、どこかゆったりとして、その音楽同様に明るさとユーモアさえ感じさせるのと対照的に、この映画で描かれている死をモチーフにしたかのような人生、そしてリー・コニッツが指摘したように、何かに追われるがごとくオンタイムで前のめり気味に弾くピアノと同じく、に急いだエヴァンスの人生の印象は、ずっと暗く沈んだ色調のままである。その色調こそが、まさしくエヴァンスが弾くピアノの根底にあるもので、ジャズファンが愛するビル・エヴァンスの、ピュアで、深く、沈み込むような濃い陰翳を持つサウンドの美しさは、そうした彼の人生から生まれたものだったことがよくわかる。

2018/04/06

仏映画『危険な関係』4Kデジタル・リマスター版を見に行く

日本映画の新作『坂道のアポロン』に続き、恵比寿ガーデン・シネマで特別上映されている仏映画の旧作『危険な関係 (Les Liaisons Dangereuses 1960)』4Kデジタル・リマスター版を見に行った。この映画のサウンドトラックになっているジャズ演奏の謎と背景については、当ブログで何度か詳しく書いてきた。ただこれまでネットやテレビ画面でしか見ていなかったので、リマスターされたモノクロ大画面で、セロニアス・モンクやアート・ブレイキーの演奏を大音量で聞いてみたいと思っていたので出かけてみた。

18世紀の発禁官能小説を原作にしたロジェ・ヴァディムのこの映画は、その後何度もリメイクされるほど有名な作品だが、その理由は、単に色恋好きのフランス人得意の退廃映画という以上に、男女間の愛の不可思議さと謎を描いた哲学的なテーマが感じ取れるからだろう。もちろん出演するジェラール・フィリップ、ジャンヌ・モロー他の俳優陣が良いこともあるし、ジャズをサウンドトラックにしたモノクロ映像と音楽の斬新なコンビネーションの効果もある。映画の筋はわかっているので、今回は主にジャズがサウンドトラックとしてどう使われているのかということに注意しながら見ていた。この映画の音楽担当の中心だったモンクの<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>で始まるチェス盤面のタイトルバックは、再確認したが、アート・ブレイキーのグループ、デューク・ジョーダンたちの名前は出てくるが、画面にアップになってトランペットを演奏するシーンがあるケニー・ドーハムの名前だけ、やはりなぜか見当たらなかった。映画の画面に登場するジャズ・プレイヤーで目立つのは、ドーハムの他、当然ながら当時売り出し中の若いフランス人バルネ・ウィラン(ts)、パリに移住して当時は10年以上経っていたはずのケニー・クラーク(ds)に加え、デューク・ジョーダン(p)の後ろ姿などで、特にもはや地元民のケニー・クラークのドラムス演奏シーンがよく目立つように使われている。

サウンドトラックの楽曲としては、やはりアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズによる<危険な関係のブルース(No Problem)>が、派手な演奏ということもあって、冒頭から最後までいちばん目立った使い方をされていて、特にジャンヌ・モローの顔のアップが印象的なエンディングに強烈に使われているので、彼らのレコードが映画の公開後ヒットしたというのも頷ける。ただし以前書いたように、この曲はデューク・ジョーダン作曲であり、しかもブレイキー、リー・モーガン(tp)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(ds)というメッセンジャーズ側は、バルネ・ウィランを除き映画には出ないで音だけで、代わってジョーダンを含む上記のメンバーが出演している(もちろんセリフはないが)という非常にややこしい関係になっている。モンクの演奏は、この映画のサウンドトラックに使われた1959年のバルネ・ウィランを入れたクインテット(チャーリー・ラウズ-ts、サム・ジョーンズ-b、アート・テイラー-ds)によるスタジオ録音テープが、音楽監督マルセル・ロマーノの死後2014年に55年ぶりに発見されて、昨年CDやアナログレコードでも発表されたので、映画中の演奏曲名もよくわかるようになった。しかしじっと見ていると、いかにもモンクの曲らしい<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>と<パノニカ>の独特のムードが、男女間の退廃的なテーマを扱ったこの典型的なフランス映画の内容にいちばんふさわしいことが改めてよくわかる。そしてモンクの他の楽曲もそうだが、当時はやった派手な映画のテーマ曲に比べて、モンクの音楽がどれもまったく古臭くなっていないところにも驚く。監督ロジェ・ヴァディムは、やはりジャズがよくわかっている人だったのだろう。

Les Liaisons Dangereuses 1960
(1959 Rec/2017
Sam Records/Saga Jazz)
『危険な関係』は1959年制作(公開は1960年)の映画だが、この時代1960年前後は、1940年代後半からのビバップ、クール、ハードバップ、モードというスタイルの変遷を経て、音楽としてのモダン・ジャズがまさに頂点を迎えていたときである。ブレイキー他によるハードバップの洗練と黒人色を強めたファンキーの流れに加え、マイルス・デイヴィスによるモードの金字塔『カインド・オブ・ブルー』の録音も1959年、飛翔直前のジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』も同じく1959年、我が道を行くモンクもCBSに移籍直前のもっとも充実していた時期、さらにギターではウェス・モンゴメリーが表舞台に登場し、ピアノではビル・エヴァンスの躍進もこの時代であり、音楽としてのパワーも、プレイヤーや演奏の多彩さも含めて、ジャズ史上のまさに絶頂期だった。ジャズはもはや大衆音楽ではなく、ハイアートとしても認知されるようになり、当時の思想を反映する音楽としてヨーロッパの知識人からの支持も得て、中でもヌーベルバーグのフランス映画と特に相性が良かったために、この『危険な関係』、マイルスの『死刑台のエレベーター』、MJQの『大運河』などを含めて多くの映画に使われた。実は私は『危険な関係』(日本公開は1962年)をリアルタイムで映画館で見ていないのだが、こうしてあらためて60年近く前の映画を見ても、映像と音楽のマッチングの良さは、なるほどと納得できるものだった。1960年代の日本では、のっぺりと明るいだけのアメリカ映画と違って、陰翳の濃いイタリア映画やフランス映画が今では考えられないほど人気があって、何度も映画館に通ったことも懐かしく思い出した。アメリカ生まれではあるが、アフリカやフランスの血も混じったいわばコスモポリタンの音楽であるジャズと、常に自由を掲げた開かれた国フランスの映画は実にしっくりと馴染むのだ。

しかしこの時代を境に、べトナム戦争や公民権運動など、60年代の政治の時代に入るとモダン・ジャズからはわかりやすいメロディ“が徐々に失われてゆき、ロックと融合してリズムを強調したり、ハーモニーの抽象化や構造の解体を指向するフリージャズ化へと向かうことになる。だから、いわゆる「古き良き」モダン・ジャズの時代はここでほぼ終わっているのである。スウィング時代の終焉を示唆する1945年終戦前後のビバップの勃興がジャズ史の最初の大転換とすれば、二度目の転換期となった1960年前後は、いわゆるモダン・ジャズの終焉を意味したとも言える。その後1960年代を通じて複雑化、多様化し、拡散してわかりにくくなったジャズの反動として、政治の時代が終わった1970年代に登場した明るくわかりやすいフュージョンが、メロディ回帰とも言える三度目の転換期だったとも言えるだろう。さらに、アメリカの景気が落ち込んだ1980年代の新伝承派と言われた古典回帰のジャズは、そのまた反動だ。1990年代になってIT革命でアメリカ経済が息を吹き返すと、またヒップホップを取り入れた明るく元気なものに変わる。こうしてジャズは、音楽としてわかりやすく安定したものになると、自らそれをぶち壊して、もっと差異化、複雑化することを指向し、それに疲れると、今度はまたわかりやすいものに回帰する、という自律的変化の歴史を繰り返してきた。別の言い方をすれば大衆化と芸術化の反復である。マクロで見れば、その背後に社会や政治状況の変化があることは言うまでもない。なぜなら、総体としての商業音楽ジャズは、時代とそこで生きる個人の音楽であり、その時代の空気を吸っている個々の人間が創り出すリアルタイムの音楽だからである。聴き手もまた同じだ。だから時代が変わればジャズもまた変化する。ジャズはそうした転換を迎えるたびに「死んだ」と言われてきたのだが、実はジャズは決して死なないゾンビのような音楽なのだ。逆にそういう見方をすると、セロニアス・モンクというジャズ音楽家が、いかに時代を超越した独創的な存在だったかということも、なぜ死ぬまで現世の利益と縁遠い人間だったかということもよくわかる。映画の画面から流れる<パノニカ>の、蝶が自由気ままにあてどなく飛んでいるようなメロディを聴いていると、その感をいっそう強くする。

ところでこの映画は、昨年7月に亡くなった名女優ジャンヌ・モローを追悼して新たにリマスターされたものらしく、公開は同館で324日から始まっていて、413日まで上映される予定とのことだ。しかし私が座ったのは真ん中あたりの席だったが、この映画館の構造上どうしても見上げる感じになるので首が疲れるし、下の字幕と大きな画面の上辺を目が行ったり来たりするので目も疲れる。年寄りは高くなった後方席で、画面を俯瞰するような位置で見るのが画も音もやはりいちばん楽しめると思った。この映画館の音量は、『坂道のアポロン』と『ラ・ラ・ランド』の中間くらいの大きさで、まあ私的には許容範囲だった。観客層の平均年齢は平日の昼間だったので、予想通りかなり高年齢のカップルが多かった。昼間働いている普通の人には申し訳ないようだが、まあ今はどこへ行っても平日の昼間はこんな感じである。また面白そうなジャズがらみの映画が上映されたら行ってみようと思う。

2018/03/22

映画『坂道のアポロン』を見に行く (2)

映画中で演奏されていた曲を聴いていたら懐かしくなって、昔聴いていたLPCDを久しぶりにあれこれ引っ張り出して聴いてみた。みな有名曲なので、当時は耳タコになるくらい聴いていたレコードばかりだ。
Moanin'
Art Blakey
1959 Blue Note
オールド・ジャズファンなら知らない人はいない『モーニン Moanin’』(1959 Blue Note) は、ドラマー、アート・ブレイキー(1919-90)の出世作であり、このアルバムをきっかけにして、ブレイキーはジャズの中心人物としての地位を固めてゆく。続く『危険な関係』、『殺られる』のようなフランス映画のサウンドトラックのヒットで、ヨーロッパでも知られるようになり、その後1961年に初来日して、日本にファンキーブームを巻き起こし、日本におけるジャズの人気と認知度を一気に高めた功労者でもある。当時のモンク、マイルス、コルトレーンたちが向かったジャズの新たな方向とは違い、50年代半ばから主流だったハードバップの延長線上にファンキーかつモダンな編曲を導入したベニー・ゴルソン(ts)が、より大衆的なメッセンジャーズ・サウンドを作り出してジャズ聴衆の層を拡大した。このアルバムのメンバーは、この二人にリー・モーガン(tp)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(ds)が加わったクインテット。録音されたのが『アポロン』の時代より78年前ということもあって、昔はそれほど感じなかったのだが、今聴くと、実にテンポがのんびりしていることに気づく。訳書『セロニアス・モンク』の中で、ブレイキーとモンクとの親しい間柄の話も出て来るが、二人の個人的関係や、“メッセンジャーズ”というバンド名と人種差別、イスラム教(アラーの使者)との関係など、この本を読むまで知らなかったことも多い。このメンバーからはリー・モーガンがブレイクして大スターになるが、ブレイキーはその後もウェイン・ショーター(ts)80年代のウィントン・マルサリス(tp)をはじめ、メッセンジャーズというバンドを通じて、長年にわたってジャズ界の大型新人を発掘、育成してきた功労者でもある。アルバム・タイトルでもある冒頭曲<モーニン>は、NHK「美の壺」のテーマ曲でもあり、日本人の記憶にもっとも深く刻印されたジャズ曲の一つで、まさに『アポロン』の中心曲にふさわしい。

Never Let Me Go
Robert Lakatos
2007 澤野工房
<マイ・フェイバリット・シングス My Favorite Things>は、もちろんミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の劇中曲で、日本では今はJRCMでも知られているが、ジャズでこの曲が有名になったのは、ジョン・コルトレーン(1926-67) がソプラノサックスで演奏した同名タイトルのアルバムを発表してからだ(1961 Atlantic)。コルトレーンはその後この曲を愛奏曲にしたが、さすがにこれは聞き飽きた。それ以降ジャズではあらゆる楽器でカバーされてきたし、近年のピアノではブラッド・メルドー(p)のライヴ・ソロのバージョン(2011)が素晴らしい演奏だ。しかしコルトレーンの演奏と、何せ元メロディの美しさと3拍子のリズムがあまりに際立って印象的なので、どういじってもある枠から逸脱しにくいところが難しいと言えば難しい曲だ。そういう点から、むしろオーソドックスに徹したロバート・ラカトシュRobert Lakatos1965-)のモダンなピアノ・トリオ『ネバー・レット・ミー・ゴー Never Let Me Go』2007 澤野工房)の中の演奏が、手持ちのレコードの中ではいちばん気に入っている。ラカトシュはハンガリー出身の、クラシックのバックグラウンドを持つピアニストで、澤野には何枚も録音している。演奏はクールでタッチが美しいが、同時にハンガリー的抒情と温か味、ジャズ的ダイナミズムも感じさせる非常に完成度の高いピアニストだ。このアルバムは録音が素晴らしいこともあって、タイトル曲をはじめ、他のジャズ・スタンダードの選曲もみな美しく透明感のある演奏で、誰もが楽しめる現代的ピアノ・トリオの1枚だ。

Chet Baker Sings
1954/56 Pacific
チェット・ベイカーChet Baker(1929-88)は、若き日のその美貌と、アンニュイで中性的な甘いヴォーカルで、1950年代前半の西海岸のクール・ジャズの世界では、ジェリー・マリガン(bs)と共に圧倒的人気を誇ったトランぺッター兼歌手だ。しかし外面だけでなく、メロディを基にしたヴァリエーションを、ヴォーカルとトランペットで自在に展開する真正のジャズ・インプロヴァイザーとして、リー・コニッツも高く評価する実力を持ったジャズ・ミュージシャンでもあった。またベイカー独特の浮遊するような、囁くようなヴォーカルは、ボサノヴァのジョアン・ジルベルトの歌唱法にも影響を与えたと言われている。『チェット・ベイカー・シングス Chet Baker Sings』1954/56 Pacific)は、そのベイカー全盛期の歌と演奏を収めた代表アルバムであると共に、『アポロン』で(たぶん)唄われた<バット・ノット・フォー・ミー>に加え、<マイ・ファニー・ヴァレンタイン>などの有名曲も入った、あの時代のノスタルジーを感じさせながら、いつまでも古さを感じさせない文字通りオールタイム・ジャズ・レコードの定盤でもある。ただし問題はベイカーの人格だったようで、アート・ペッパーやスタン・ゲッツなど当時の他の白人ジャズメンの例に漏れず、その後ドラッグで人生を転落して行き、前歯が抜け、容貌の衰えた晩年も演奏を続けたものの、結局悲惨な最後を遂げることになるという、絵に描いたような昔のジャズマン人生を全うした。

Portrait in Jazz
Bill Evans

1959 Riverside
<いつか王子様が Someday My Prince Will Come>もディズニーの有名曲のジャズ・カヴァーだが、デイヴ・ブルーベック(p)の『Dave Digs Disney』1957 Columbia)、マイルス・デイヴィスの同タイトルのアルバム(1961 Columbia)と並んで、やはりいちばん有名なピアノ・バージョンはビル・エヴァンス(1929-80) の演奏だ。エヴァンスはライヴ演奏も含めて何度もこの曲を録音しているが、やはり『ポートレート・イン・ジャズ Portrait in Jazz』1959 Riverside)が、エヴァンスの名声と共に、ジャズにおけるこの曲の存在を高めた代表的演奏だろう。スコット・ラファロ(b)、ポール・モチアン(ds)とのピアノ・トリオによるこのアルバムは、この時代の他の3枚のリバーサイド録音盤と合わせて、言うまでもなくエヴァンス絶頂期の演奏が収められたジャズ・ピアノ・トリオの名盤の1枚だ。収録された他の曲どれをとっても、現代のジャズ・ピアノへと続く道筋を創造したエヴァンスのイマジネーションの素晴らしさ、原曲が見事に解体されてゆくスリルとその美しさ、三者の緊密なインタープレイ、というピアノ・トリオの醍醐味が堪能できる傑作だ。

2018/03/21

映画『坂道のアポロン』を見に行く(1)

昨年8月のブログで、漫画『坂道のアポロン』について書いたが、その映画版が今月ようやく公開されたので、出不精の重い腰を上げて見に行った。少し前にNHK BSで「長崎の教会」というドキュメンタリー番組を見たが、隠れキリシタンの伝統や、離島の教会で実際に牧師を目指す青年たちの話が取り上げられていた。キリスト教とのこうした独自の長い歴史が長崎にはある。原作で描かれている主人公の一人、千太郎と教会の関係も、もちろんこうした歴史的背景がモチーフになっている。そこに60年代後期という時代背景(1966年-)、米空母が入港していた軍港佐世保とジャズの関係、海を臨む坂と佐世保の風景など、原作者小玉ユキはこれらの要素を基に、佐世保の高校生を主役にして詩情豊かな昭和の青春ファンタジーとして作品を描いている。原作が名作で、ジャズ音を入れアニメ化されたこれも名作が既に発表されているので、さすがに実写の映画版は苦しいかと思っていた。短い時間内に登場人物の造形や物語の細部までは描き切れないので、どうしてもはしょった展開にはなるものの、それでもこの映画は、原作の持つ世界と透明感をきちんと描いていると思った。昭和40年代という物語の時代設定は古いが、大林宣彦監督の作品世界に通じるものがあって、あの時代を思って涙腺がゆるみがちな「老」も、その時代やジャズを知らない「若」も、青春時代を過ごした「男女」なら誰でも楽しめる永遠の青春映画である。とはいえ、まずは原作コミックを読み、アニメを見て、物語の流れと登場人物の魅力を知った上で、この実写映画を見た方が、佐世保の風景や若い俳優陣の演技、原作との違いなどを含めて、より一層楽しめることは間違いないだろう。

この映画の “星” は何と言っても川渕千太郎役の中川大志だ。千太郎が降臨したかのように、まさに原作通りのイメージで、混血のイケメンで不良だが、内面に人一倍の孤独と優しさを秘めた千太郎のキャラクターを見事に演じた演技は素晴らしい。彼はきっと原作を深く読み込んだに違いない。知念侑李演じる西見薫は最初、原作のイメージからすると都会的繊細さと身長が足らない気がするのと、高い声がどうしても萩原聖人を思い出させて、どうかなと思って見ているうちに、段々それが気にならなくなっていったので、やはり内面的演技力のある人なのだろう。小松菜奈は予想通り、原作の素朴で控えめな迎律子のイメージとは違って美しすぎて、どうしてもマドンナ的になってしまうが、共に両親のいない孤独な薫と千太郎の二人を、まさに聖母のように優しく見つめる律子の温かな視線と、微妙に揺れる乙女心をきちんと表現していて、こちらも見ているうちにまったく気にならなくなった。この主役3人は頑張ったことがこちらにも伝わってきた。ムカエレコード店主で律子の父、中村梅雀は得意のベースの演奏シーンが短くて残念。千太郎が兄のように慕う、ディーン・フジオカの桂木淳一(淳兄―ジュンニイ)は、さすがに大学生役はちと苦しいが、ムード、英語、トランペット、歌唱、どれをとってもまさにはまり役。この二人がからむジャズのセッションをもっと見たかった。

覚えている劇中曲は、この映画のテーマ曲でもあり、薫と千太郎のピアノとドラムスによるデュオ<モーニン Moanin’>(原曲アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ)、<マイ・フェイバリット・シングス My Favorite Things>(ジャズではジョン・コルトレ-ンが有名)の2曲が中心で、他に淳兄がクラブで唄う<バット・ノット・フォー・ミー But Not For Me>(チェット・ベイカーが有名でもちろん歌のモデルのはずだが、この曲だったかどうか記憶が曖昧)、薫のピアノ・ソロ<いつか王子様が Someday My Prince Will Come>(ピアノはビル・エヴァンスが有名)が少々流れた。他にも何曲かあったのだが、画面に集中していたのでよく覚えていない。中川はドラムスの心得が多少あるという話だが、知念はピアノの経験はまったくなく、譜面も読めないので、見よう見まねの特訓で習ったというから、まるで大昔のジャズマンの卵なみだ。しかし二人とも違和感なく、地下室でも、クラブでも、文化祭のシーンでも、ドラムスとピアノのデュオで目を合わせながら楽しそうに演奏していて(どこまで本人の音なのかは不明だが)、即興で互いの音とフィーリングを徐々に合わせて行くという、ジャズの醍醐味であり、大きな魅力の一つをよく表現できていると思った。ラストシーンとエンドロールは、あれはあれでありだろうが、せっかくジャズをモチーフにしてイントロからずっと流してきたのだから、小松菜奈の唄う<マイ・フェイバリット・シングス>で(下手でもいいから)、そのままエンドロールに入って、ジャズのセッションを続けて(吹き替えでOK)締めてもらいたかった。

ところで、時代設定とジャズという背景、主演陣がアイドルを含むメンバーということもあって、この映画の観客年齢層がいったいどういう構成になるのか、という個人的興味が実はあったのだが、映画を見に行ったのがたまたま月曜日の午後ということもあって、貸し切りか(!)と思えるほどの入りで、「層」を構成するほどの観客がいなかったのが残念だった。土日はもっといるのだろうと思うが、そもそも映画の宣伝が少ないような気もする。若い人がどう感じるかはよくわからないが、ジャズ好きだった中高年層に、原作と映画の存在自体をよく知られていないのではないだろうか。ジャズの演奏シーンを含めて、映画館で見る価値のある良い映画なので(見終わった後、誰でも温かい気持ちになります)、ぜひもっと多くの人に見てもらいたいと思う。ちなみに、今回初めて行った映画館では、セリフも音響も、画面と音量のバランスが良く取れていて、『ラ・ラ・ランド』の時のような異常な爆音ではなかったので、ジャズのセッションを含めて安心して最後まで楽しめた。これからはこちらの映画館にすることにした。

2017/12/07

映画館の音はなぜあんなに大きいのか

先日、新聞の投書欄で、今の映画館の音はどうしてあんなに大きいのかと、70歳の女性が投稿している記事を読んだ。アニメ映画なのに小さな子供は怖がり、途中で出てゆく子供もいて、自分も疲れて、あれでは難聴になりそうだと訴えていた。同感である。私は滅多に映画には行かないのだが、今年の初めに「ラ・ラ・ランド」の封切り上映を観るために久しぶりに映画館に行ったところ、そのあまりの爆音に耳が痛くなり、気持ちが悪くなるくらいだったからだ。後半はほとんど耳を半分塞いで見ていたが、あれでは興味も半減してしまう。コツコツという靴の足音が異様に大きな音で響きわたり、車のドアを閉める衝撃音の大きさにビクッとし、踊りや演奏の場面では耳をつんざくような音が流れている。いくら年寄は耳が遠くなるので丁度いいとか言われても、やり過ぎだろう。あの調子で昔のように何本も続けて見たら、それこそ耳がおかしくなる。たまたまその映画や映画館がそうだったのかと思い、ネットで調べてみたら、同じ疑問と悩みを訴えている人が実際にたくさんいるということがわかった。見に行きたくても、あれでは怖くて行けないという人もいる。小さな子供にとっては拷問に等しく、危険ですらある。日付を見ると、ずいぶん前からそういう訴えが出ているが、その後改善されたという話は掲載されていないし、現に私も今年になって体験しているので、あまり変わっていないということなのだろう。

昔のジャズ喫茶でも結構な大音量でレコードをかけていて(今でもそういう店はある)、一般の人がいきなり聞いたらびっくりするような音量ではあった。しかし、それはオーディオ的に配慮した「音質」が大前提であり、機器を選び、再生技術を磨き、耳を刺激する歪んだ爆音ではなく、再生が難しいドラムスやベースの音が明瞭かつリアルに聞こえる音質レベルと、家庭では再生できない音量レベルで、きちんと音楽が聴けることに価値があったわけで、「音がでかけりゃいい」というものではなかった。もちろん個人の爆音好きオーディオ・マニアは昔からいるし、一般にオーディオ好きは、普通の人たちに比べたら大音量には慣れているはずなのだが、一方で音質にも強いこだわりを持っている。そういう人間からみたら、今の映画館の、あのこけおどしのような音は、ひとことで言って異常である。マルチチャンネルやサラウンド効果を聞かせたいとかいう商業的理由もあるのだろうが、パチンコ屋やゲームセンターじゃあるまいし、静かに「映画」を見たい普通の人間にとってはそんなものは最低限でいい。密閉された空間では、爆音やそうした人工的なイフェクトはやり過ぎると聴覚や平衡感覚をおかしくするのだ。座る場所を選べ、とかいうアドバイスもあるが、そういうレベルではない。耳栓をしろ、とかいう意見もあるが、これもなんだかおかしいだろう(音に鈍感な人間からアドバイスなどされたくもないし)。とにかく空間に音が飽和していて、耳が圧迫されるレベルなのだ。大画面で迫力のある音を、という魅力があるので映画館に足を運ぶ人も多いのだろうが、大画面はいいとして、あの爆音は人間の聴力を越えた暴力的な音だ。だから映画を見たいときは、家の大画面テレビで、オーディオ装置につないでDVDやネット動画を見る方がよほど快適なので、今では大方の人がそうしているのだろうが、封切り映画だけはそうもいかないので、見に行くという人も多いのだと思う。

カー・オーディオを積んで、特にウーファーの低音をドスドス響かせながら爆音で走っている車を時々見かけるが、あれと似たようなものだ。あの狭い空間であの音量を出して、よく耳がおかしくならないものだといつも感心しているが、迷惑だし、公道を走っているとはいえ、車の中は一応個人の空間なので、耳を傷めようとどうしようと勝手だが、映画館は不特定多数の人たちがお金を払って集まるパブリック・スペースであり、全員があの拷問のような爆音を無理やり聞かされるいわれはないだろう。画面サイズと音量との適切なバランスについては、昔からAV界(オーディオ・ヴィジュアルの方だ)に通説があるが、そういうバランスをまったく無視したレベルの音量なのだ。いったい、いつからこんな音量になったのだろうか? なぜあれほどの音量が「必要」なのだろうか? ひょっとして、昔アメリカで流行った野外のドライブイン・シアター時代の音の効果の名残が基準にでもなっているのだろうか? 屋内の狭い空間であの異常な音量を出すのは、何か別の理由でもあるのだろうか? 誰があの音量を決めているのだろうか? 映画関係者に一度訊いてみたいものだ…と思って調べていたら、何と以前から「爆音上映」なるものがあって、むしろ爆音を楽しむ映画館や観客がいるらしい。家では楽しめない音量で、爆音愛好家(?)が映画館で身体に響くほどの音量を楽しむ企画ということのようだ。遊園地のジェット・コースターとか3Dアトラクション好きや、耳をつんざく大音量音楽ライヴが好きな人と一緒で、要は体感上の迫力と刺激を映画にも求めているのである。映画によってはそうした爆音が音響効果を生んで、リアルな体験が楽しめるという意見を否定するつもりはないが、それもあくまで映画の内容と音量の程度次第だろう。 

思うに、昔は「音に耳を澄ます」という表現(今や死語か?)にあるように、外部から聞こえる虫の声や微妙な音に、じっと感覚を研ぎ澄ます習性が日本人にはあった。虫の出す「音」を、「生き物の鳴き声」として認識するのは、日本を含めた限られた民族特有の感覚らしく、西洋人には単なる雑音としか聞こえないという。日本人の音に対するこの繊細な感覚は、音楽鑑賞においては世界に類をみないほどすぐれたものだった。ところがそれが仇になって、今の都会では近所の騒音とか、他人の出す音に対してみんなが神経質になっていて、近所迷惑にならないようにと誰もが気を使って毎日生きている。これが普通のスピーカーで音を出して聴くオーディオ衰退の理由の一つでもある。ところが、そういう環境で育った今の若者は、携帯オーディオの普及も一役買って、子供の頃から音楽をイヤフォンやヘッドフォンで聴く習慣ができてしまった。外部に気を使っている反動と、一方で外部の音を拾いやすいイヤフォンなどの機器の特性もあって、常時耳の中一杯に飽和する音(大音量)で思い切り音楽を聴きたいという願望が強くなり、おそらく彼らの耳がそうした聞こえ方と音量に慣れてしまったのだろう。要するに外部の微細な音を聞き取る聴覚が相対的に衰え、鈍感になったということである。映画館の大音量に変化がない、あるいはむしろ増えているのは、供給者側(製作、配給、上映)にそういう聴感覚を持つ人たちが増え、需要者(観客)側にもそういう人が増えたということなのだろう。感覚的刺激を求める人間の欲望には際限がないので、資本主義下では、脈があると見れば、それをさらに刺激してビジネスにしようとする人間も出て来る。最初は感動した夜間のLEDイルミネーションも、どこでもでやり始めて、もう見飽きた。プロジェクション・マッピングも、今は似たようなものになりつつある。テクノロジーを産み、利用するのも人間の性(さが)なので、これからも、いくらでも出て来るだろうし、そのつど最初は面白がり、やがて刺激に慣れ、飽き、次の刺激を求めることを繰り返すのだろう。こうして、かつて芸術と呼ばれた音楽も、映画も、あらゆるものがエンタテインメントという名のもとに、微妙な味や香りはどうでもいいが、大味で、瞬間の刺激だけは強烈な、味覚音痴の食事のような世界に呑み込まれつつある。これはつまり、文明のみならず、文化のアメリカ化がいよいよ深く進行していることを意味している、と言っても間違いではないような気がする。