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2019/06/01

Bill Evans with Horns(1)

映画『Bill Evans; Time Remembered』を見たこともあって、久しぶりにビル・エヴァンスのレコードを初期のものから聴き直してみた。エヴァンスと言えばまずピアノ・トリオで、超有名盤中心にジャズファンなら誰でも知っているようなレコードがほとんどだ。しかし、あまり紹介されることはないが、リーダー作は少ないながら、ホーン楽器の入ったコンボへの参加作品も結構多い。エヴァンスのコンボ共演盤における音楽的頂点は、言うまでもなくマイルス・デイヴィスの『Kind of Blue』だが、それ以外のレコードでは一定水準には達していても、エヴァンスの参加によって、これぞという決定的名盤が生まれたことはなかったようだ。マイルス・バンド参加時のように、グループとして作り込む時間があったケースは例外で、エヴァンス独自の音楽世界を表現するには、即席コンボではなく、やはりソロ、デュオ、リーダーとして率いるトリオまでがふさわしい、ということなのだろう。

今回あらためて感じたのは、エヴァンスがホーン楽器と共演したときの、バンドの編成やホーン奏者との "相性" についてである。相性というのは、理由はよく分からないが、何となくウマが合うとか合わないとかいうもので、ジャズ・ミュージシャンの世界でも技量とは別に、バンド編成の好みや奏者間の相性というものが当然あるだろう。たとえば共演相手なら、人種や血筋、性格や個性、演奏スタイルに加え、音楽的コンセプト、ジャズ観のような音楽家としての哲学が大きく影響するのではないかと思う。とはいえ、実際に即興セッションをやる現場でいちばん重要なのは、ジャズの場合 ”頭” ではなく、バンド全体や、互いの持つリズムやハーモニーに対する根本的な "感覚"(=何を心地良いと感じるか)だろう。それには音楽的技量やスタイルに加え、育った環境やキャリアがあるだろうが、突き詰めるとその人の生得的な資質、つまり血筋から来るものが影響しているようにも思う。いずれにしろ、エヴァンスのコンボ共演レコードを聴いていると、そうした相性の影響というものを強く感じる。(グローバル化した現代では、みんな生まれた時から世界中の音楽を耳にしながら成長し、かつ学習もしているので、吸収している情報量が圧倒的に違う。だから感覚的な次元の相性さえ、昔に比べてずっとバリアが少なくなっていることだろう)

もう一つ感じたのは、ピアノ・トリオのリーダー作だけ聴いているとあまり気づかないが、ホーン楽器が入った編成のコンボと共演したときの若きエヴァンスのピアノ・サウンドは、バッキングからソロに入った途端(たとえ短いフレーズでも)、瞬時にその場の “空気” を変えてしまうほど斬新だということだ。エヴァンスのピアノは、現代のジャズ・ピアノの底流であり雛形と言うべきもので、あまりに聴き馴染んでいるために、今の耳で聴くと、サウンドの美しさは別として、それほど “個性的” だとは感じない。しかしデビュー当時のエヴァンスのサウンドのインパクトは、生み出した音楽はまったく異質だが、ある意味で、あの時代のセロニアス・モンクと実は同じくらい強烈だったのではないかと思う(もちろん、歴史的に振りかえれば当然のことなのだが)。モンクの場合も、自身のリーダー作ではなく、他の作品に客演した数少ない初期のレコードで、そのユニークさ、インパクト(つまり当時の普通の演奏とのギャップ)が実際にどういうものだったかを聞くことができる。1950年代半ばという時代に、この二人がいかに独創的な音の世界を持ったピアニストだったかが、ハードバップ全盛期の主要レコードを時系列で聴いてゆくと、あらためてよくわかって興味深い。エヴァンスの ”相性” の問題も、結局のところ、この時代を超えた独創性に帰結するのかもしれない。

The Jazz Workshop
George Russell
1956 RCA
モンクの斬新さがよくわかるのは、ソニー・ロリンズの作品に加え、特にマイルス・デイヴィスの『Bag’s Groove』と『Modern Jazz Giants』の2枚(1954) における短いソロがその代表だ。一方、エヴァンスの場合それが鮮明な作品は、実質的デビュー作とも言えるジョージ・ラッセルの『The Jazz Workshop』(1956) だろう。1950年代半ばに、マイルスにも影響を与えた独自理論で既にモードを指向し、当時としては圧倒的にモダンだったジョージ・ラッセルの音楽と、既にラッセルやトリスターノを研究していたエヴァンスの音楽的相性の良さは当然で、その後エヴァンスは、ラッセルの『New York, New York(1959)、『Jazz in the Space Age(1960)、『Living Time』(1972) という3枚のアルバムに参加している。とても1956年録音とは思えないセクステット(アート・ファーマー-tp, ハル・マキュージック-as、バリー・ガルブレイス-g、ミルト・ヒントン-b、ポール・モチアン-ds)による『The Jazz Workshop』では<Ezz-Thetic>をはじめとして、タイトル通りラッセルの実験的かつ革新的な曲と演奏が並ぶが、そこで最初から最後まで当時のエヴァンスのモダンなピアノが聞こえて来る。特にエヴァンスのために書かれた<Concert for Billie the Kid>をはじめ、随所に聞ける若きエヴァンス(27歳)のピアノは、ため息が出るほど斬新かつシャープでスリリングである。初のリーダー作であるピアノ・トリオ『New Jazz Conceptions』を吹き込んだのがこの録音とほぼ同時期で、そこでも、その後の内省的な、いわゆるエヴァンス的ピアノ・トリオの世界に行く手前の(たぶんドラッグの手前でもある?)、デビュー当時のエヴァンスの若々しくフレッシュな演奏が聞ける。まったくの個人的趣味ではあるが、ジャズに限らず音楽界の巨人やスターになる人たちというのは、まだ未完成で粗削りだが、その時代、その年齢、その瞬間にしかできない表現の中に、未来の可能性を強く感じさせるようなデビュー時代の新鮮な歌や演奏が、聴いていていちばん刺激的で面白い。

1958 Miles
Miles Davis
1958 CBS/Sony
エヴァンスは次に、ラッセルの作品で共演したハル・マキュージックの『Cross Section Saxes(1958)、アート・ファーマーの『Modern Art(1958) など、当時全盛のハードバップ的世界とは異なるクールな演奏を指向するプレイヤーのアルバム に参加しつつ、マイルス・バンドとそのメンバーとの共演を重ね、徐々に音楽的洗練の度合いを高めて行く。そしてその頂点となったのが、コルトレーン、キャノンボールを擁したマイルス・デイヴィス・セクステットによる『Kind of Blue(1959) だ 。『1958 Miles』(1958) というアルバムは、その頂点に辿り着く直前の、セクステットのLP未収録音源を集めた日本制作盤(CBS/Sony)である。池田満寿夫のジャケット・デザインもそうだが、当時エヴァンスが傾倒していた禅の思想を反映するように、余分なものを削ぎ落し、まさにジャズにおける ”端正” の美を絵に描いたようなシンプルで美しい演奏が続く。聴きやすく、美しく、モダンで、かつジャズとして優れた内容を持つこれらの演奏全体のトーンを支配しているのが、マイルスの美意識と共に、ビル・エヴァンスのピアノであることは誰の耳にも明らかだ。ジャズ・レコード史上の頂点でもある『Kind of Blue』の価値も、音楽的コンセプトと楽曲の提供を含めたエヴァンスの参加があってこそだということがよくわかる。

The Blues and 
the Abstract Truth
Oliver Nelson
 1961 Impulse!
1960年前後に、エヴァンスがマイルス・バンド以外に参加したコンボ作品には、チェット・ベイカー(tp) の『Chet』(1958/59)、リー・コニッツ (as) のVerveの何枚かの盤(1959)、キャノンボール・アダレイ(as) との『Know What I Mean』(1961)、デイヴ・パイク(vib) の『Pike’s Peak』(1961) などがあるが、総じて、当時まだ主流だったいわゆるハードバップ的作品に、エヴァンスのモダンなサウンドはミスマッチでとまでは言わなくとも、正直あまり合っているとは思えない(勿体ない?)。またワンホーン作品(カルテット)もピアノ・トリオほどの緊密性がないので、中途半端な感じがして、意外と面白味がない。やはりコンボにおけるこの時代のエヴァンスの斬新なピアノがいちばん効果的だったのは、マイルスが見抜いたように、マルチ・ホーンをはじめとする複数の楽器による重層的で、かつモダンなサウンドを持った作品であり、マイルス・バンドでの諸作を除けば、その代表はオリヴァー・ネルソンの『The Blues and the Abstract Truth (ブルースの真実)』(1961) だろう。これは『Exploration』直後の録音であり、当時新進の作編曲家ネルソンのサックスと、フレディ・ハバード(tp)、エリック・ドルフィー(as,fl)、ジョージ・バーロウ(bs)、ポール・チェンバース(b)、ロイ・ヘインズ(ds) というオールスター・バンドに、エヴァンスのピアノが加わると、伝統的ブルースを基調にしながら、より現代的なサウンドを目指したネルソンの曲にアブストラクト感が一層加わって、当時の他のどんなバンドでも絶対に表現できない、きわめて美しくモダンなブルースの世界が出現する。だから名曲<Stolen Moments>をはじめ、何度聞いても飽きない新鮮さがこのアルバムにはある。

Interplay
1962 Riverside
61年夏にラファロを事故で失ったショックからエヴァンスは不調に陥るが、この時期には、フレディ・ハバード(tp)、ジム・ホール(g) とのクインテットによる人気盤『Interplay』(1962) を録音している。企画を提案したエヴァンスは、トランペットには相性の良いアート・ファーマーを希望していたが、ファーマーの都合により当時新人だったフレディ・ハバードを起用することになり、結果としてこのアルバムは、クールでモダンというよりも、スタンダード曲を中心にハバードのプレイをフィーチャーした、アップテンポで明るい印象のハードバップ的色彩が濃厚な作品になった。エヴァンスは、時々は自分を解放して、思い切りストレート・アヘッドな演奏をしてみたくなることがあると語っているが、このアルバムはまさにその種の演奏を中心にしたものなのだろう。確かに聴いていて、どれもストレスのない気持ちのいい演奏が続く。しかし上述のように、個人的には、トリオ作品を含めてエヴァンスのピアノはこうした曲調、演奏は、基本的に似合っていないように感じる。どうしても「無理して弾いている」感が付きまとうからだ(もちろんこれは個人的感覚であり、それが好みの人もいるだろうが)。

Loose Blues
1962/1982 Riverside
この時代の私的好みの1枚は、むしろ『Loose Blues (ルース・ブルース)(1962録音/1982リリース) の方だ 『Interplay』と同時期に、似たようなメンバーで録音されているが、ジム・ホールとフィリー・ジョー・ジョーンズ(ds) は変わらず、ハバードに替わりズート・シムズ(ts)、パーシー・ヒースに替わってロン・カーター(b)が参加しているところが違う。当時はRiversideの倒産や、エヴァンスのVerve移籍問題などもあって、この録音は結局お蔵入りとなり、リリースされたのはエヴァンスの死後で、録音後20年たった1982年だった。派手なInterplayに対して、『Loose Blues』はエヴァンスの自作曲を中心にした地味なアルバムだ。初めての曲が多く、演奏の一部に満足できなかったという理由でお蔵入りにしたらしいが、ゆったりしたテンポと、ズートとホールの陰翳のあるサウンドは、エヴァンス的にぴたりとはまって、完成度は別にして、個人的にはこのアルバムの方がずっと気に入っている。これが初録音と思われるTime Remembered>は、ズート、ホール、エヴァンスの3人の叙情的かつアンニュイな雰囲気のプレイが非常に美しい。エヴァンスとジム・ホールはそもそも相性が良く、この数ヶ月前に、ピアノとギターによる名作デュオ『Undercurrent』を録音して息も合っているし、異例とも言える人選であるズートの温かく、歌心のあるテナーも実に良い味で、クールで繊細なエヴァンスのサウンドと予想以上によく調和している。これを聴くと、エヴァンスとズート・シムズの共演がこのレコードだけだった、というのは非常に残念に思える。

2017/06/02

リー・コニッツを聴く #1:1950年代初期

私は前記レニー・トリスターノのLP「鬼才トリスターノ」B面のリラックスしたライヴ録音を通じて、初めてリー・コニッツ Lee Konitz (1927-) を知り、その後コニッツのレコードを聴くようになった。だが最初に買ったコニッツのレコード「サブコンシャス・リー Subconscious-Lee(Prestige) は、トリスターノのA面と同じく、当時(1970年代)の私には、リズムも、音の連なりも、それまで聴いていたジャズとまったく違う不思議な印象で、最初はまるでピンと来なかった。それもそのはずで、「鬼才トリスターノ」B面のコニッツの演奏は1955年当時のもので、師の元を離れて3年後、既に自らのスタイルを確立しつつある時期の演奏であり、一方「サブコンシャス・リー」はその5年も前の1949/50年の録音で、まだトリスターノの下で「修行中」のコニッツの演奏が収録されたものだったからだ。

Subconscious-Lee
1949/50 Prestige
1940年代後半は、全盛だったビバップの気ぜわしい細切れコードチェンジとアドリブ、派手な喧騒に限界を感じたり、誰も彼もがパーカーやバド・パウエルの物真似のようになった状況に飽き足らなかったミュージシャンが、それぞれ次なるジャズを模索していた時代だった。マイルス・デイヴィス、ジェリー・マリガンやレニー・トリスターノもその中心にいたが、3人ともビバップの反動から、より構造を持ち、エモーションを抑えた、知的な音楽を指向していた。当時リー・コニッツもマイルス、マリガンと「クールの誕生」セッションに参加するなど、彼ら3人と密接に関わりつつ、レスター・ヤングとチャーリー・パーカーという巨人2人から継承したものを消化して、自らの音楽を創り出そうと修練している時期だった。Prestigeのボブ・ワインストックがリー・コニッツのリーダー・アルバムを作る提案をしたが、当初予定していたトニー・フラッセラ(tp) との共演話が流れ、結果としてコニッツがトリスターノやシェリー・マン(ds)に声をかけ、師匠とビリー・バウアー(g)、ウォーン・マーシュ(ts)等トリスターノ・スクールのメンバーも参加して、1949/1950年にSPで何度かに分散して吹き込まれた録音を集めたのがアルバム「Subconscious-Lee」である。またこれはPrestigeレーベルの最初のレコードとなった。そういうわけで当初はトリスターノのリーダー名で発表されたようだが、後年コニッツ名義に書き換えられたという話だ。

1950年前後に録音された他のジャズ・レコードを聴くと、このアルバムの演奏が、ビバップに慣れた当時の聴衆の耳に如何に新しく(奇異に)響いたかが想像できる。ここでのトリスターノ、コニッツとそのグループのサウンドと演奏は、今の耳で聴いてもまさに流麗で、スリリングで、かつ斬新だ。アルバム・タイトル曲で、コニッツが作曲した複雑なラインを持つ<Subconscious-Lee>は、今ではコニッツのテーマ曲であり、かつジャズ・スタンダードの1曲にもなっている。また得意としたユニゾンとシャープな高速インプロヴィゼーションのみならず、<Judy>や<Retrospection>のようなバラード演奏における陰翳に満ちたトリスターノのピアノも美しい。トリスターノ派の演奏は、その時代なかなか理解されず、難解だ、非商業的だ、ジャズではない等々ずっと言われ続けていたが、まさにアブストラクトなこれらの演奏を聴くとそれも当然かと思う。1950年という時代には、彼らの感覚が時代の先を行き過ぎているのだ。当時20代初めだったイマジネーション溢れるコニッツは、ここでは疑いなく天才である。彼の若さ、SPレコードを前提にした1曲わずか3分間という時間的制約、そしてトリスターノ派の即興に対する思想と音楽的鍛錬が、このような集中力と閃きを奇跡的に生んだのだろう。個人的感想を言えば、トリスターノとコニッツは、このアルバムで彼らの理想とするジャズを極めてしまったのではないか、という気さえする。

Conception
1949/50 Prestige
同時期1949年から51年にかけての録音を集めたPrestigeのコニッツ2枚目のアルバムが「コンセプション Conception」だ。オムニバスだが単なる寄せ集めというわけではなく、当時一般に ”クール・ジャズ” と呼ばれ、ビバップの次なるジャズを標榜して登場し、その後のハードバップにつながる、ある種の音楽的思想を持ったジャズを目指したプレイヤーの演奏を集めたものだ。リー・コニッツが6曲、マイルス・デイヴィスが2曲、スタン・ゲッツが2曲、ジェリー・マリガンが2曲、とそれぞれがリーダーのグループで演奏している。当時コニッツのサウンドを評価していたマイルスは「クールの誕生」でも共作・共演しており、コニッツ名義のこのレコーディングにマイルスも参加したもので、コニッツとマイルス唯一のコンボでの共演作だ。ジョージ・ラッセルが斬新な2曲を提供していて、名曲<Ezz-Thetic>はこれが初演である。コニッツはまだトリスターノの強い影響下にある時代で、師匠はいないがスクールのメンバーだったサル・モスカ (p)、ビリー・バウアー (g)、アーノルド・フィシュキン (ds) もここに参加している。サル・モスカなどトリスターノそのもののようだし、初期の独特の硬質感と透明感を持つ、シャープかつ流れるようななコニッツのアルト・サウンドも素晴らしい。マイルスの参加で、トリスターノ色が若干薄まってはいるが、それでもコニッツ・グループの6曲の演奏を聞いた後では、マイルス、ゲッツ、マリガンの他のグループの演奏が今となっては実に「普通のジャズ」に聞こえる(主流という意味)。こうして並べて聞くと、コニッツたちが「クール」という一緒くたの呼び名を嫌った理由もわかるが、しかし当時(昭和25年である)はここに収められたどのグループの演奏も非常に「モダン」であったはずで、コニッツがいささか(当時のジャズを)突き抜けた存在だったということだろう。どの演奏もとても良いので、そういう歴史的な視点も入れて聞くとより楽しめるアルバムだ。

Konitz Meets Mulligan
1953 Pacific Jaz
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リー・コニッツとジェリー・マリガンGerry Mulligan (1927-96) は、ギル・エヴァンスと同じくコニッツが1947年にクロード・ソーヒル楽団に入ったとき以来の付き合いだ。マイルス・デイヴィスの「クールの誕生」バンドでの共同作業を経て、コニッツがスタン・ケントン楽団に入団してからも、マリガンは楽団へのアレンジメント楽曲の提供と共演を通じてコニッツと親しく交流していた。1953年、ケントン楽団在籍中のコニッツに、既にLA在住だったマリガンが、当時チェット・ベイカーChet Bakerと一緒に出演していたクラブ「Haig」へ出演しないかと声を掛け、3人を中心にしたピアノレス・コンボの活動を始めた。「コニッツ・ミーツ・マリガンKonitz Meets Mulligan」(1953 Pacific Jazz)は、この時の「Haig」でのライヴ演奏をPacific Jazzのリチャード・ボックとマリガンが録音したものに、他のスタジオ録音を加えてリリースされたものだ。3人の他にマリガンのレギュラー・リズム・セクションだったカーソン・スミス(b)、ラリー・バンカー(ds) が加わったクインテットによる演奏である。

コニッツはその前年にトリスターノの元を離れ、それまでとまったく肌合いの異なるコマーシャル・ビッグバンド、それも重量級のケントン楽団のサックス・セクションに所属していた。そこで強烈なブラス・セクションの音量と拮抗するという経験を経て、それまでの透明でシャープだが線の細い、コニッツ固有のアルトサックスの音色に力強さと豊かさを加えつつあった。トリスターノ伝来のインプロヴィゼーション技術に、ビル・ラッソらによるケントン楽団のモダンで大衆的なアレンジメントの演奏経験が加わり、さらにそこに力強さが加味されたわけで、そのサウンドの浸透力は一層高まっていた。このアルバムに聴ける、マリガンもベイカーの存在もかすむような、まさに自信に満ち溢れた切れ味鋭い、縦横無尽とも言うべきコニッツのソロは素晴らしいの一言だ。中でも <Too Marvelous for Words> と<Lover Man>における流麗でクールなソロは、コニッツのインプロヴィゼーション畢生の名演と言われている。またコニッツ生涯の愛奏曲となる <All the Things You Are>も、ここではおそらく最高度とも言える素晴らしい演奏だ。「Subconscious-Lee」の独創と瑞々しさに、その後につながる飛翔寸前の力強さが加わったのが、このアルバムでのコニッツと言えるだろう。この後50年代半ばまでコニッツは絶頂期とも言える時期を迎え、ジャズ誌のアルトサックス部門のポール・ウィナーをチャーリー・パーカーと争うまでに人気も高まり、初の自身のバンドを率い(Storyville時代)、さらにAtlanticというメジャー・レーベル時代に入ることになる。

2017/05/24

ジャズ・レコードから聞こえてくるもの

アンディ・ハミルトンの「Lee Konitz」を翻訳しながら、レニー・トリスターノやリー・コニッツ、ウォーン・マーシュ他のトリスターノ派のミュージシャンたちのレコードをずっと聴いていた(私の場合、手持ちのCD音源を取り込んだPCオーディオなので、好きな部分だけを何回でも繰り返し聴ける)。文章の意味がはっきりしない部分は著者にメールで問い合わせて確認していたが、本文中で録音記録に触れる部分があると、その音楽的背景を知るにはネット情報などの説明だけでなく、実際にそれらの音源を自分の耳で聴いたり、可能ならネット動画で確かめるのがいちばん確実で、それによって翻訳表現もより正確なものになるからだ。半分趣味とはいえ、ジャズ伝記類の翻訳は報われることの少ない仕事だと思うが、一ジャズファンという立場からすると、ジャズという音楽やミュージシャンの人生に関して知らなかったことを新たに発見してゆく楽しみだけでなく、これまで聴いたこともなかったような音源を聴く楽しみも与えてくれるので、苦労も相殺されるように感じている。今現在のジャズを聴く楽しみももちろん捨てがたいのだが、何せ、死ぬまでかかっても聴ききれないほどの膨大な音源が、モダン・ジャズにはまだまだ残されているのだ。それらの中には自分にとって決してカビのはえた骨董などでない、未知の宝物が眠っている可能性もある。その宝の山を掘り返す楽しみは何物にも代えがたいもので、歳を重ね、先が短くなるほど尚更そう感じるようになる。私にとってはジャズに古いも新しいもなく、良いものは良い、ということだけだ。

翻訳中には、こうして聴いていたレコードの情報を確認するために、
信頼性の高い海外のジャズ音楽家別ディスコグラフィー(discography) をいくつかネットで探して参照し、それらのデータを手持ちのLPCDの記載情報や、ネット上のレコード情報と照合する作業も並行して行なっていた。今はネットで個別レコード情報はかなり手に入るが、ミュージシャン別にまとまったものが意外に少ないし、そうした情報には結構いい加減なものも多い。結果として、何となく自分でトリスターノ派ミュージシャンのディスコグラフィー(英語版)を作ることになり、現在入手可能な150件近いトリスターノやコニッツ他の音源情報(LPCD)を表にまとめてみた(下表)。<録音年/アルバム・カバー/タイトル/録音日時・場所/演奏メンバー/演奏曲名/レーベル>をExcelを使って一覧表にしただけのものだが、これはたぶん日本初の試みだろう(今どき、そういうモノ好きな人がいるとも思えないので)。ジャズに興味のない人から見たら、いったい何をやっているのかと思うだろうが、これは、レコードや音源をたくさん所有していた昔のジャズマニアやレコードコレクターなら、たぶん一度は自分で作ってみたり、購入したりしたことがある類のレコード・リストである。私はそこまでのマニアでもコレクターでもないのでやったことはないが、昔なら大変な時間と労力を必要とする作業だっただろう。しかし今の時代は、インターネットとコンピュータを駆使すればあっという間に…とまでは言えないまでも、それほどの時間をかけずとも、そこそこのものを作成することが可能だ。ただし、それはネット上に公開された英語の原データとテキストを使い、そのほとんどを英語のままコピペ、再配列して作成したからで、これを日本語化(カタカナ表記)しようと思ったらさらにどれだけの労力が必要になるか想像したくもない。(これは趣味の世界なので別にどうということもないのだが、こうしたことからも、分野を問わず、ネット上に膨大な言語情報アーカイブを持つ英語圏の国々や人々が、どれだけ情報量も、情報処理速度上も、優位に立っているかよくわかる。つまり、誰でもいつでも参照可能な知的蓄積が他言語とは比較にならないほど膨大だということで、残念ながらこの点で日本語は圧倒的に不利なのだ。)やる以上は、ということで当初は完全ディスコグラフィーを訳書に掲載することを目指していたのだが、最終的には完成本のページ数制約のために、アルバム数を相当削り、また字数の多い演奏曲名部分を割愛せざるを得なかったので、イメージは原リストとは大分違うものになった。

トリスターノ派の音楽や人物に関しては、日本国内の公開情報はもちろんのこと、翻訳を開始した2013年頃にはネット上で公開されていた英語情報さえ非常に限られていた(今は格段に情報量が増えているが)。マイルスやコルトレーンなどの情報は、微に入り細にわたってそれこそ腐るほどあるのに、他にもたくさんいたジャズの天才や素晴らしいミュージシャンたちの音楽や人生の話は、日本ではほとんど表面的で断片的な紹介か、神話や伝説の次元に留まったままなのだ。今のように誰もがネットで情報を入手したり自分から発信できる時代と違い、昔は出版メディアが力を持っており、特に80年代バブル以降は、商業性を優先したメディアが限られた情報だけをあたかもジャズの全てであるかのよう伝えてきたこともあって、70年代までコアなジャズファンが楽しんできたマイナーなジャズやミュージシャンの情報は徐々に忘れ去られていった。パーカーとマイルスだけ聴いていればあとはどうでもいい、というような乱暴なことを言う人たちがいたせいもあるだろう。義憤というほどではないが、「リー・コニッツ」の翻訳を思い立ち、出版にこぎつけたモチベーションの一つは、本の内容の面白さもさることながら、そうした日本のジャズ文化に挑戦しようと思ったことだ。上述した自前のトリスターノ派ディスコグラフィーも、これまで日本では見たこともないものだが、もちろん日本のファンの中には数多くの彼らのレコードを所有し、場合によっては自分でディスコグラフィーを作成したりしている人もいることだろう。しかし訳書「リー・コニッツ」では、何としても、簡略版でもいいから、彼らの音楽の足跡をひと目で辿れるようなわかりやすいディスコグラフィーを併載し、それによって、一人でも多くの人に彼らの音楽にもっと興味を持ってもらいたかった(原著にこの資料はなく、また著者のハミルトン氏は哲学の人なので、コニッツの音楽思想への関心はあっても、そういういかにも日本的なアプローチに興味はないようだったが、提案は快諾してくれた)。信頼性にも問題がある断片ネット情報を読者が個別に見に行くのではなく、ミュージシャンの物語と、信頼できる音楽情報が一体となった「本」というパッケージで読めば、彼らの世界が一目瞭然で、読者としては単純に便利であり、しかもその方が楽しめるからだ。そこに実際の演奏記録(レコード)を聴く機会が加われば、さらに楽しみが深まると思う。

1970年代以降のジャズは、「ビッチェズ・ブリュー Bitches Brew(1970 CBS) に象徴されるマイルス・デイヴィスのコンセプトの支配的影響もあって、演奏家個人の技術や魅力よりも、一言で言えば全体としてコントロールされた集団即興に音楽の重心がシフトした。個性の出しにくいエレクトリック楽器の普及と、演奏後の録音編集という新技術がそこに加わったために、結果として、演奏現場で独自のサウンドで瞬間に感応する即興演奏で生きていた個々のジャズ演奏家の存在感が相対的に薄まって行くことになった。ロックやポップスの台頭、社会と聴衆の変化などが背景にあるのはもちろんだが、その後のジャズにカリスマ的ミュージシャンが現れにくくなったのも、個人から制御された集団へのシフトというジャズの基本的フォーマットの変化が主因の一つだろう。本来モダン・ジャズは、強力な個人が互いに個性と創造性をぶつけ合いながら作り上げた自由な音楽というところに最大の魅力があった。だからジャズ全盛期の真に創造的なミュージシャンの音楽からは、何物にも制約されない個人の強烈な創造エネルギーが今でも感じられるのだ。それはパーカーも、トリスターノも、コニッツも、モンクも同じである。そういう音楽家には人間としてもユニークな個性と魅力があり、彼らが送った人生にもまた不思議な引力がある。「出て来た音がすべてだ」という考え方も一方にあるが、私が個人的に興味を引かれるのは、単なるジャズ史的な位置づけや残された音源の音楽的評価ではなく、彼らの音楽と、それを生み出した人間との関係だ。ジャズ演奏家としての音楽哲学と思想を存命の本人が語った「リー・コニッツ」は、その意味で私にとっては実に刺激的な本だった。

翻訳中に自分で作ったディスコグラフィーを眺めながらレコードを聴いていると、彼らが送った時代や人生が何となく見えてくる。本に書かれた時代背景や人生だけでなく、彼らの音楽的個性や、音楽的に目指していたものが何だったのかということが、ド素人のジャズファンと言えどもおぼろげながら見えてくるのである。いつの時代も、優れた音楽家は一つの場所にじっとしているわけではない。常に進化しようとしているし、自らの目標に向かって努力し、変化してゆくものだ。また音楽的に一直線に上昇してゆくわけでもなく、調子の良い時も、悪い時期もあるし、場合によっては最初に録音したレコードを超えられずに一生を終える人もいる。出会った師や仲間に大きな影響を受け、音楽が次々と変遷する人もいる。生きている人間ならみな当然のことであり、私にはそこが面白いのだ。そうして作られたレコードから聞こえてくるのは抽象的な音に過ぎないのだが、そこに至るまでのジャズ音楽家の思想や、生き方や、苦悩を知ると、1枚のレコードがまったく違うものに聞こえてくる。今や手に負えないほど拡散しているジャズという音楽のフラグメントを追うのではなく、ミュージシャン個人や、時間軸というテーマで切り取る聴き方は、音源が昔とは比較にならないほど豊富で入手しやすい現代においては、ジャズを楽しむ良い方法の一つだと思う。それはまた日本人ならではの、レコードによる緻密で、繊細で、感覚的なジャズ鑑賞術をさらに掘り下げたジャズの楽しみ方にもなると思う。ジャズは何よりも自由な音楽なのであり、だからその聴き方もまた自由であるべきだ。様々なミュージシャンの名前やレコード名、楽理、ジャズ演奏技術の詳細を知らなくても、ジャズを楽しむ方法はいくらでもあるのだ。

基本的素材がほぼ出尽くしたと思われる20世紀に続く今は、現代の感覚でそれらをいかに変化させ、組み合わせ、あるいは新技術を駆使して、新しいフォーマットを創造するかがジャズに限らずあらゆるアーティストの宿命と言えるだろう。それが現代のアーティストにとって最大の命題であり、決して簡単なことではないだろうが、いずれそこから真に新しいアートが創造されることを期待もしている。だが一方で、今や過去の素材の一つにすぎないモダン・ジャズ黄金期の優れたミュージシャンの音源を聴くと、現代の音楽には望むべくもない、未来を信じ、ゼロから何かを生み出した行為にしか存在しないような強烈なエネルギーと創造性を感じることも事実だ。当時録音されたジャズ・レコードからは、我々を触発するそうした時代の空気と音楽家の精神が伝わってくる。私がレコードを聴くのは単なる<ド>ジャズ回顧ではなく、当時のレコードの音から今でもそれが聞こえてくるからだ。レコードという記録媒体に残されたモダン・ジャズは、20世紀半ばという時代と、アメリカという特殊な国を象徴する音楽だが、間違いなく現代世界の音楽の底流を作ったグローバルな音楽でもあり、今や時代を超えた価値を持つ古典だ。いまさら必要以上に持ち上げたり、貶めるようなことを言う対象でもなく、個々人が自由に聴いて、自由に想像し、自由に楽しむべき音楽遺産なのである。

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「リー・コニッツ ジャズ・インプロヴァイザーの軌跡」を翻訳しながら、備忘録のように書き留めてきたトリスターノやコニッツのレコードに関するメモを基に、彼らの主要レコードを次回から紹介したいと思います。これらの音源が、本書に書かれたトリスターノやコニッツの音楽と思想を理解する手助けとなること、それによって本書を読む楽しみが一層深まることを願っています1枚の有名レコードを聴いただけではわからない、ミュージシャン像や音楽が見えてくるようなものにしたいと思いますが、何度も言うようですが、基本的にド素人の感想文なので、できれば細部への突っ込みはご遠慮いただくようお願いします。私が知る限り、コニッツをはじめとするトリスターノ派の音楽思想や演奏技術の分析は、本書を高く評価していただいている名古屋の鈴木学氏(「鈴木サキソフォンスクール」主宰)が長年研究されてきたので、そうした分野に関心のある方は、鈴木先生のホームページにアクセスしていただければ、参考になる情報がきっと得られると思います。

2017/04/18

フレンチの香り:バルネ・ウィラン

ジャズはアメリカの音楽と思われているが、実はその生い立ちにはフランスの血が混じっている。ジャズ発祥の地と言われるニューオリンズは、元はフランス植民地であり、移入されたヨーロッパの音楽と、そこで生まれたクリオールと呼ばれるフランス系移民と黒人との混血の人たちによってニューオリンズ・ジャズが生まれたとされている。アジアの植民地でもそうだったが、異人種の隔離にこだわるアングロサクソン系と異なり、植民地支配にあたって現地人と融合することを厭わないフランスは、結果としてジャズの生みの親の一人になったのである。ジャンゴ・ラインハルト(ベルギー人ギタリスト)に代表されるように20世紀前半からフランスでもジャズが盛んだったが、1950年代に入って,そのジャズが ”モダン” になって言わばフランスに里帰りした。

ジョン・ルイスやマイルス・デイヴィスなどのアメリカのジャズプレイヤーがフランスを訪れ、「死刑台のエレベーター」や、モンクとアート・ブレイキーの「危険な関係」など、映画音楽の世界を通じて折からのヌーベルバーグの文化、芸術活動とも大きく関わった。マイルスなどはシャンソン歌手ジュリエット・グレコとのロマンスまで残しているほどだ。1950年代以降ケニー・クラーク、バド・パウエル、デクスター・ゴードン等々、数多くのジャズ・ミュージシャンが、黒人差別が根強く、生きにくいアメリカを離れてパリに移住した。上に書いたようなジャズとの歴史的関係もあり、フランスは日本と同じく、ジャズとそのプレイヤーを差別なく受け入れ、芸術と認めた国と民族であり、だから彼らはこの二つの国が好きだったのである。サックス奏者バルネ・ウィラン Barney Wilen (1937-1996)も、実はアメリカ人(父)とフランス人(母)を両親に持つハーフということだ。20歳の時に「死刑台のエレベーター」(録音1957)の音楽でマイルス・デイヴィスと、22歳の時に「危険な関係」(1959)でセロニアス・モンク、アート・ブレイキーらと共演している。マーシャル・ソラール(p)やピエール・ミシュロ(b)のようなプレイヤーと並んで、ホーン奏者としてフランスでは当時もっともよく知られたジャズ・ミュージシャンだった。当時のウィランの映像を見ても、アメリカの一流ミュージシャンたちにまったく引けを取らず、堂々と渡り合ってプレイしている。

ウィランは1956年にジョン・ルイス(p)やMJQとの共演盤でメジャー・デビューしていたが、初リーダー・アルバムとなったのは翌1957年、19歳の時に出したLP「ティルト Tilt」(Swing/Vogue)である。このアルバムは別メンバーによる2回のセッションからなり、興味深いのは、ハードバップ・スタンダードの4曲(A面)に加え、セロニアス・モンク作の4曲(B面)を取り上げていることだ。その4曲とは〈ハッケンサック〉、〈ブルー・モンク〉、〈ミステリオーソ〉、〈シンク・オブ・ワン〉で、後にリリースされたCDには、さらに〈ウィ・シー〉、〈レッツ・コール・ディス〉という2曲のモンク作品が追加されている。さらに驚くのは、録音日時が1957年1月であり、ということはモンクが同年コルトレーンと「ファイブ・スポット」に登場する7月より前、また傑作「ブリリアント・コーナーズ」(Riverside)のリリース前、すなわちモンクがアメリカでもまだあまり注目を浴びていなかった時だったことだ。モンクは1954年にパリ・ジャズ祭に出演してヨーロッパ・デビューしていたものの、その時はフランスでも散々な評判で、唯一ソロ・ピアノを評価したVogueに非公式に録音した(ラジオ放送用。Prestigeと契約中だったため)ソロ・アルバムを残しただけだ(これは名盤)。ウィランがここでモンク作品を取り上げたということは、彼がその時点で既にモンクのことをよく知り、その作品を評価していた証であり、フランスでもモンクを評価する動きが既にあったことを意味している。これが、1959年の「危険な関係」サウンドトラックでのモンクとウィランの共演につながっていったと解釈するのが妥当だろう。同時に、フランスが当時いかにジャズに対する興味と慧眼を持つ国だったか、ということも意味している。確かにパリはジャズの似合う街なのだ。

1959年に「危険な関係」撮影のためにパリを訪問していたケニー・ドーハム(tp)、デューク・ジョーダン(p)他とのクインテットで、パリのジャズクラブ「クラブ・サンジェルマン」にウィランが出演したときのライヴ録音盤が「バルネ Barney」(RCA)というレコードだ。フレンチ・ハードバップの香りのする若きウィラン、躍動感に満ちたドーハムやジョーダンのプレイ、またウィランとジョーダンの歌心あふれるバラード〈Everything Happens to Me〉など、聴きどころ満載の素晴らしいレコードだ。モノラルではあるが、当時のパリのジャズクラブの空気まで感じられるようなクリアな録音が演奏を一層引き立てていて、まさに「危険な関係」の時代にタイムスリップしたかのようなライヴ感が味わえる。その後このライヴ録音からは、モンクの〈ラウウンド・ミドナイト〉を含む未発表曲を加えた「モア・フロム・バルネ」もリリースされている。

ウィランは60年代にはフリー・ジャズに接近したり、一時演奏活動を休止した時期もあったようだが、その後復活し、90年代には日本のレーベルにも多くの録音を残していて、それらはいずれも評価が高い作品だ。「フレンチ・バラッズ French Ballads」(1987 IDA)は、復活後のバルネ・ウィラン50歳の時のフランス録音で、フランス人ミュージシャンとフランスの歌曲を演奏したレコードだが、ここではテナーとソプラノを吹いている。ウィランの演奏には太くハード・ボイルド的にブローする部分と、包み込むような柔らかい音色による陰翳の深い表現が混在している。若い時から彼のバラード演奏にはフランス風のある種独特の香気・味わいが備わっていた。その演奏にはやはりアメリカのジャズ・ミュージシャンとはどこか違うテイスト、フランス風の抒情と男性的色気のようなものが漂っていて、バラード演奏にそれが顕著だ。このアルバムでも〈詩人の魂〉,〈パリの空の下で〉,〈枯葉〉 などの有名なシャンソン、あるいはミッシェル・ルグランの作品を演奏しているが、いずれも本場ならではの解釈と、フランス風の香気に満ちた演奏である。

2017/03/17

「ジャズはかつてジャズであった」

1970年代のことを調べているうちに、本棚から出てきた懐かしい本と再会した。今から40年前に出版された、中野宏昭という人が書いた「ジャズはかつてジャズであった」という本だ(1977年 音楽之友社)。中野氏は1968年に大学を卒業後スイング・ジャーナル社編集部に入社した人で、数年後に体調を崩して同社を辞めた後も評論活動を続けていたが、1976年に病気のためにわずか31歳で夭折している(まったくの偶然だが、今日317日は彼の命日である)。この本は1970年からの短い6年間に、中野氏が雑誌などに寄稿した評論と、当時のLPレコードのライナーノーツとして書いた文章を、野口久光、鍵谷幸信、悠雅彦氏らが故人を偲んでまとめた遺稿集である。この本のタイトルは、「ユリイカ」の19761月号で発表された記事の表題からとったものだ。チャーリー・パーカー以来のジャズの伝統を受け継いできたキャノンボール・アダレイの死(1975年)が象徴するものと、マイルス・デイヴィスが当時模索していた新たな方向が示唆するものを対比しつつ、かつてプレイヤーが自らの身を削って生み出した、その場限りの瞬間の肉体的行為であったジャズが、エレクトリックの導入や、レコーディングという「作品」を指向する創作の場が主体となったことによって、かつて持っていた始原的創造行為という特性をもはや失った、という70年代の混沌としたジャズの情況を表現したものだ。とはいえ、ここで彼はジャズが終わったと言っているわけではなく、ジャズの持つ強靭さを信じ、新たな道筋を歩み出すジャズの未来をマイルスの当時の活動の中に見出そうとしている。

読んでいると、こうして駄文を書き連ねているのが恥ずかしくなるような、ジャズに対する深い愛情と真摯な態度に満ちた珠玉の言葉の連続だ。時代状況を反映して、企図された集団表現に舵を切ったマイルス・デイヴィスのエレクトリック・ジャズと、ジョン・コルトレーンの死後もなお伝統的な個人のインプロヴィゼーションを追求する継承者たちの対比に関する論稿なども書かれているが、今読んでも、透徹した視点と深い洞察で貫かれた素晴らしい文章である。おそらく死と向き合っていたこと、また自ら詩もたしなんでいたこともあるのだろう、言葉の隅々にまで繊細さと抒情が浸みわたる研ぎ澄まされた文章と固有の美学は、これまでの日本のジャズ批評がついに到達し得なかった最高度の領域に達していると思う。しかも過去のジャズに拘ることに価値を認めず、70年代の新進のミュージシャンについても、幅広い音楽的視点から未来への期待を込めて取り上げている。日本のジャズ史上稀な、このような優れたジャズ批評家が生きていたら、以降の日本のジャズシーンもひょっとしたら違ったものになっていたかもしれないと思わせるほどだ。しかしながら、その後に続く80年代のアメリカの経済的停滞と、日本のバブル騒ぎという商業主義の時代に巻き込まれたジャズの変遷を振り返ってみると、こうした知性と豊かな感性を備えた批評家がジャズの世界で生きてゆくのは結局難しかったのかもしれないとも思う。 

ビル・エヴァンスの「エクスプロレーションズ Explorations」(1961 Riverside)は、70年代にLPを入手して以来、CDを含めておそらく私がもっとも数多く聴いたジャズ・レコードだ。エヴァンスの他のRiverside作品に比べると一聴地味なスタジオ録音だが、当時のエヴァンス・トリオ(スコット・ラファロ-b、ポール・モチアン-ds)の究極のインタープレイがアルバム全体を通して収められた、芸術の域にまで達した稀有なジャズ・レコードの1枚だと個人的には思っている。<イスラエル>から始まり、<魅せられし心>、<エルザ>、<ナーディス>…等流れるように名演が続き、何より他のアルバムにはない深い陰翳とアルバム全体から醸し出される芸術的香気が素晴らしい。そして、そのLPのライナーノーツを書いていたのが中野宏昭氏だった。 

60年代までは、当時貴重だったレコードに関する史料的情報と、有名ライターのジャズ審美眼ゆえに読む価値があったライナーノーツは、LPが大量に発売され比較的簡単に入手できるようになった70年代に入ってからは、それほど重要でも、価値のあるものでもなくなっていた。しかし、このエヴァンス盤のライナーノーツだけは違っていた。中野宏昭という名前を初めて知ったのもこのライナーノーツを通じてであり、ビル・エヴァンスの真髄を捉えた知と情のバランスが見事なその解説は、エヴァンスの傑作ピアノ・トリオにまさにふさわしいもので、以来このLPと共にずっと私の記憶から離れずにきた。ジャズとは奏者にとっても聴き手にとっても、基本的に「個」の音楽であり…レコードにも誰もが認める名盤というものはなく、あるのは一人ひとりに固有の名盤だけだ…という本書中の中野氏の言葉に深く同意する。エヴァンスのこのレコードは、私にとって真の名盤なのである。

2017/03/13

ジャズを見る

コンサートやクラブでのジャズ・ライヴ演奏の機会は、昔に比べると今はずっと増えて身近になった。各地で行われているストリート・ジャズ祭なども盛んだ。私が昔行ったジャズの大物コンサート公演は、1970年代半ばのビル・エヴァンス(よく覚えていないが、新宿厚生年金でやった76年の来日だった気がする)、それに一時引退から復帰直後のマイルス・デイヴィスが、寒風吹きすさぶ新宿西口の空地(都庁予定地)でやった81年の野外ライヴだけだ(他にも行った気がするが、もう忘れてしまった)。60年代や、70年代前半の来日ラッシュ時代を過ごした一世代上の人たちは、もっと多くの大物ジャズ・ミュージシャンの来日公演を見たことだろうと思う。私がジャズに夢中になった70年代中頃には、ジャズの現場ではもうフュージョン時代へ入っていたのだ。

Bill Evans
The Tokyo Concert
1973 Fantasy
初来日時の録音
こうしたコンサート公演は、今もそうだが「聴く」より「見る」場と言った方が適切だろう。ロックやポップスの人気アーティストのコンサートに出かける若い人たちと、気分もテンションも基本的には変わらない。特に当時はめったにない機会だったこともあり、実物を「とにかく、ひと目見たい」というミーハー気分で出かけたので、演奏そのものはあまりよく覚えていない。記憶に残っているのは、ビル・エヴァンスが首を真下に向けたままピアノを弾く姿だったり(そもそもこれもイメージで、本当にそうだったかどうか自信はない)、寒い中ずいぶん待たされたあげく、病み上がりで想像以上に小さくか細いマイルス・デイヴィスがようやくステージに現れて、こちらも同じく下に向けて「ほんの短い時間」だけトランペットを吹いていた姿(これは確か)などだ。バブル時代や90年代に入ると、ライヴの機会も増えたので感激は昔より減ったものの、よく出かけていたが、それでもキース・ジャレットが呻き声を出しながら弾く体の動きや、「ブルーノート」でのロイ・ハーグローヴのしなやかな体や、やんちゃな目つきなど、記憶に残っているのはやはり視覚情報だ。

夏の野外ライヴ・コンサートは、PA音が拡散して集中できないのと、遠くてミュージシャンがよく見えないこと、何より暑いのが苦手で行かなかった。バブル当時盛り上がった「マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル」は毎年夜のTV番組で見ていた。TVで見ると音がよく聞こえるし、奏者の顔やちょっとした表情などもよくわかる。ジョシュア・レッドマンが初登場したときの演奏は心底すごいと思った。隣にいた日野皓正が、驚いたような表情でじっと彼を見つめていた画面をよく覚えている。ブルーノートのアルフレッド・ライオンがステージに登場して、満員の聴衆に拍手で迎えられたときの感激した表情も印象に残っている。東京に住んでいちばん良かったと思うのは、新宿や六本木などにジャズクラブが数多くあり、外人、日本人を問わず、一流ミュージシャンの演奏が間近で楽しめることだった。だがミュージシャンの「格」とは関係なしに、どんなプレイヤーであれ、そこではよく聞こえるPAなしの生音だけでなく、各奏者の表情も、体の動きも、反応も、息遣いもよくわかって、やっぱりジャズを「聴く」のにいちばんいいのは、大会場でやるコンサートよりは小さなクラブ・ライヴだと毎回思っていた。

昨年の末、その大会場(新宿文化センター)で2日間にわたり「新宿ピットイン」の50周年記念コンサートがあり、私は初日に出かけた。相倉久人氏が同年夏に亡くなったため、菊地成孔氏が代役としてMCを務めるということだった。当日はドリーム・セッションということで混成グループによるフュージョン系から、メインストリーム系、さらに大友良英、近藤等則、鈴木勲や山下洋輔リユニオン・グループのフリー・ジャズまで、延々6時間以上に及ぶ多彩なプログラムを堪能した(が疲れた)。しかし現場で覚えているのは会場を埋めた大半の中高年の客とその熱気、ステージ上の特に年配(?)ミュージシャンたちの、ぶっ飛んだ衣装とかこちらを圧倒するようなエネルギーだ。相対的に若い菊地氏のグループがいちばんクールに普通の(?)ジャズをやっていたので、佐藤允彦のピアノソロと共に音もよく記憶しているが、他の年寄りたち(中でも鈴木勲は当時82歳だ)は見た目と全体のインパクトが強烈で、余りの迫力に音楽そのものをよく覚えていない。

先日TV録画を整理していたら、東京MXが放映したそのコンサート録画が出てきたので改めて見てみた。2日間にわたる12時間のコンサートを約2時間に編集しているので、各演奏もダイジェストに近いが、2日目は渡辺貞夫や日野皓正などが出演し、オーソドックスなジャズが中心だったようだ。じっくり見直すと、確かに音はよく聞こえるが、一方初日のあのすごい熱気はさすがに伝わって来ない。まあ、これはお祭りということなので、レギュラー・メンバーではないグループが多く、現場でひたすら見て聞いて盛り上がればいいのだろう。というか、フリー系のジャズは聞くと面白いとは思うが、演奏を聴いてその「音」を記憶している人はいるのだろうか? 「聴く」というより、「体験する」もので、全身で受け止めた音の塊のエネルギーの記憶というのが正しい表現のような気がする。しかしジャズの聴衆というのは、コンサートでもクラブでも、掛け声はあってもロックやポップスのように観客総立ちで一緒に踊るようなことは普通はない。基本ジャズのスウィングは横揺れで、縦ノリではないからだという理由もあるが、歳のせいもあるだろう。それ以上に、ジャズはやはり一人で聴く音楽であり、大勢でわいわいと聞くものではないからだろう。行儀よく「見るともなしに聴く」、というのが正しい大人のジャズの聴き方か。

2017/03/06

ジャズを「読む」(3)

「演る」人は増え、「聴く」人は徐々に減り、「語る」人が大幅に減ったために、「読む」人も減った、というのが現在のジャズの楽しみを巡る構造と言えるのだろう。

私の洋書と翻訳書への興味は、ジャズには本当にもうこれ以上「語る」べきことはないのだろうか?という単純な疑問から始まった。日本で、日本人が、日本人のために語ってきたこと――それはそれで勿論価値のあることだが――それとは別の、これまで知られていない、もっと面白い世界が、ジャズという音楽にはまだあるのではなかろうか?という疑問である。

ジャズ・イズ
(ナット・ヘントフ)
白水社 1982/1991/2009年
(原著初版1976年)
それまでにナット・ヘントフ(今年1月に91歳で亡くなった)が書いた何冊かの優れたジャズ・エッセイや村上春樹氏の翻訳書などを読んではいたが、海外で出版されたジャズ・ミュージシャンの伝記類はマイルスの自叙伝を除き、あまり熱心に読むことはなかった。しかしアンディ・ハミルトンの「リー・コニッツ」に出会って、これこそまさに自分が読みたいと思っていた本なのだと思った。そして大作の伝記ではあるが、次に読んだロビン・D・G・ケリーの「セロニアス・モンク」もそうだった。二人とも際立つ個性を持つ独創的音楽家だが、日本では一部のコアなファンはいても、いわゆる「人気のある」ジャズ・ミュージシャンではなく、これまであまり深く紹介されたこともない人たちである。自分が長年二人のファンだったこともあって、この2冊の本をじっくり読んでみたが、何よりジャズという音楽とそれに挑戦する人間をリアルに描いていて、まず読み物として実に面白かった。同時にそこで、輸入音楽として主に「レコード」という記録媒体を通して、抽象的に音だけを「聴く」文化が築かれてきた日本のジャズの世界からは見えないもの、知られていないこと、語れないことも、まだまだあるのだということを実感した。

古典としてのモダン・ジャズの楽しみ方は様々だが、音楽的印象や分析以外に、その時代にジャズマン個人がどう生きていたのか、という演奏の背後にある人生や人間模様を知るとジャズをより深く楽しめる。Prestigeでのマイルスとモンクの有名なケンカに関する伝説もそうだが、ジャズという音楽には「音や演奏が全てだ」とは簡単に言い切れない何かがある。音楽的構造や技術面ではすっかり解体、分析されて、基本的な演奏技術について言えばジャズは今や誰でも習得可能な音楽になったかのようにさえ見える。学習したAIが、人間を凌ぐようなそれらしいジャズを演奏をする時代も間もなくやって来るだろう。しかしジャズとは詰まるところ自由な「個人」の音楽であり、ジャズの本当の面白さは、一定の約束事の範囲ではあるが、予定調和ではなく、次に何が起こるかわからない(何をしでかすかわからない)という人間の持つ予測不能性と、そこに生じる緊張感にこそあるのだと思う。多数のサンプルの平均値だけでは導き出せない、演奏者個々人の瞬時の判断の組み合わせと、時間軸に沿ったその積み重ねによって創られる音楽だから面白いのである。時間と空間を奏者と聴き手が濃密に共有するジャズ・ライヴ、特にジャズクラブでの演奏に尽きない変化と面白さがあるのはそのためだ。だがどんな名人でもその演奏は人生と同じで、いい時もあれば悪い時もあり、特に一発勝負のライヴは、メンバー間の相性、場所、楽器、その日の体調や気分などの「可変要素」が多くまたその影響も強い。だから有名プレイヤーが集まればいつも立派な演奏ができるとは限らない。名演もあれば駄演もある。しかしだからこそジャズは面白いのだ。現代のジャズもそこは同じだが、モダン・ジャズ全盛期のプレイヤーたちの背後にあった、創造を指向する強烈なエネルギーと濃密な空気はもはや望めないだろう。

マイルス・デイヴィス自伝
クインシー・トループ共著

シンコーミュージック
(JICC原著初版1990年)
20世紀半ばに、新たな音楽を創造することに挑戦した偉大なジャズ音楽家たちの演奏の背後にあるものも、日本にいてレコードを聴いているだけではわからないことがたくさんある。アメリカに数年住めばわかるというようなものでもないし、逸話や伝説など、間接情報を事細かに並べただけで描けるものでもない。それらを知った上で、自ら洞察し、言語化できる優れたライター(「語る」人)が必要なのである。古い作品も含めて、海外のジャズ批評家や作家の書いた優れた著作――「本物のジャズの現場」を知っている人たちの多様な思想や声を、日本の真のジャズファンや音楽ファンに伝えることには、21世紀の現在でもまだ意味があると思っているそして、当時そこから生まれ、今や古典となった本物のモダン・ジャズは、単に終わった古い音楽ではない。今聴いても、現在の音楽よりはるかにモダンで新鮮なものはたくさんある。そしてジャズのDNAも、我々が気づかないうちに姿形を変えて、現代の地球上のあらゆる音楽の中に脈々と受け継がれているのである。その源をあらためて辿り、新たな魅力を発見することは個人的に大いに楽しいことでもある

私は自分で「語る」ほどのジャズ体験も知識もないド素人なのだが、せめて海外で書かれた優れた書籍を紹介し、少なくなったとは言え、自分も含めてジャズを「読む」日本の人たち(特に英語嫌いな人たち)に多少の楽しみを提供するくらいのことはできるかもしれないと思って翻訳を始めた。村上春樹氏のような大作家は、自ら創作するためのエネルギーを内部に蓄積するために、敢えて翻訳という制約のある「枠内」作業に定期的に取り組んでいる、という話をどこかで読んだことがある。しかし特殊で、難儀で、時間はやたらとかかるが、金にならないジャズの翻訳書を世に送り出そうとする一般人がこの時代そうはいるはずもなく、その手の仕事は誰かヒマで、モノ好きな人間がやるしかないだろう。そういう「ジャズな人」の楽しみと喜びは、自ら手つかずの分野を探り当て、そこを掘り起こして新たな視点を見つけ、まだいるはずの「ジャズを読む」人と、その楽しみを分かち合うことである。

2017/02/25

モンク考 (3) 人間モンクの魅力と才

本書を読んで知ったもう一つの事実は、天才音楽家モンクの創造人生を現実面で支えていたのはほとんど周囲の人々、中でも女性たちであったということだ。とは言っても芸術家によくある話とか、他のジャズ・ミュージシャンたちの伝記に描かれているような乱れた女性関係の話ではない。モンクの‟ピュア“さを裏付けるように、母親バーバラ、妻ネリー、真のパトロンだったニカ男爵夫人の3人をはじめ、親族である義理の姉や妹、姪たち、さらにモンクにストライド・ピアノの基本を教えたアルバータ・シモンズ、モンクの友人でありメンターのような存在だったメアリ・ルー・ウィリアムズという二人のピアニスト、さらにモンクの売り出しに奔走したブルーノートのロレイン・ライオンもそうだ。母親とネリー夫人は別格としても、他の女性たち全員が、天才だが普通に考えれば変人で、厄介な人物モンクとその音楽を愛し、彼を無償の愛で支えている‟女神”のようだ。モンクには男女を問わず誰もが魅了される何かが当然あったのだろうが、とりわけ女神(Muse)たちから全人的に愛された人物だったのだと思う。‟普通の“ ジャズに見られる激しいジャズ的エモーション、無頼感、モダンなクールさなどとは異なり、複雑でモダンなのに純粋、無垢、素朴、ユーモアが、温かさと美しさと常に同居しているモンクの音楽が放つ不思議な魅力は、おそらくこのことと大いに関係があるのだろう。

Thelonious Monk Quartet
with John Coltrane
at Carnegie Hall
1957 Blue Note
この本には多くのジャズ・ミュージシャンやサイドマンたち、プロデューサー、クラブオーナーたちとモンクとの逸話が登場するが、彼らがどうモンクと音楽的、人間的に関わり、どうモンクの音楽を理解、吸収したのか、あるいは逆に反発したのか、ということが史実として興味深く描かれている。私が感じた本書の魅力の一つは、ハービー・ニコルズ、エルモ・ホープ、アート・ブレイキー、ソニー・ロリンズなどの登場人物との関係に見られるように、これまではレコードだけを通じて、自分の中でいわば点としてバラバラに存在していた当時のジャズ・ミュージシャンたちが、20世紀半ばのニューヨークを舞台にしたモンクの物語の中で、一つのコミュニティとしてリアルに繋がってゆくことだった。そして、そこで描かれるモンクの人間味もまた魅力的である。

とりわけ、モンクのヒーローだったデューク・エリントン、恩人コールマン・ホーキンズ、愛弟子のバド・パウエルたちとの交流は感動的だ。1950年代後半のジョン・コルトレーンとの交流も描かれており、二人の当時の素晴らしい共演記録も一部残されているが、録音数が限られているのは実に残念なことだ。幸い2005年に奇跡的に発見されたカーネギーホールでの実況録音(1957年)が、当時の二人の最良の演奏を記録している。高次の音楽的交感という意味から言えば、おそらくロリンズと並んでコルトレーンこそがモンクにとって最高のパートナーだっただろう。そしてモンクの薫陶が、その後のコルトレーンに与えた音楽的影響の大きさもジャズ史では周知のことである。マイルス・デイヴィスが自叙伝でも述べているモンクとの歴史的(?)口論は何度か出てくる。人柄はまったく正反対だが(もちろんモンクは優しい人間だ)、結局二人ともお山の大将同士だったのだろう。それに、片や裕福に育ち、田舎から出て来て一旗上げようという野心を持ったマイルスと、貧乏だが基本的にはニューヨークという都会育ちのモンク、という二人の経歴の違いも少なからず影響しているだろう。モンクの方が9歳年長だったが、どちらも生まれついてのリーダー的性格で、人物、音楽上の能力から見ても両雄相並び立たずということである。しかし音楽的コンセプトは違っていたかも知れないが、二人は間違いなく互いに敬意も抱いていただろう。特に天才肌のモンクの音楽性と創造力にはマイルスはかなわないと思っていただろうし、モンクはマイルスの知性と構想力、統率力には一目置いていただろう。コルトレーンとの共演と並び、1954年のクリスマス・イブ、プレスティッジの2枚のLPに残された二人の巨人の伝説の共演記録は人類の宝である。

Miles Davis and
the Modern Jazz Giants
1954 Prestige 
スティーヴ・レイシーとのやり取りをはじめとして、教師、指導者としてのモンクの有名な発言(名言)のいくつかも本書に出てくる。いずれもサイドマンや第三者にモンク流の音楽思想を伝えるものだが、どれもジャズの真理を突いた含蓄に富む言葉ばかりである。だがその指導法は、同じ時代にジャズ演奏教育のための学校を初めて作り、体系的、組織的に教えようとした白人のレニー・トリスターノの近代的手法とは対極にある超個人的手法だ。しかも譜面を見せずに、聞かせる音だけで自作曲のメロディを覚えさせるという徒弟制度並みの方法である。この場合、モンクが「ほとんど喋らない」というのもポイントだろう。教わる側はそれで否が応でも集中せざるを得ないからだ。それによって頭で理解するのではなく、フィーリングで体得することができる(するしかない)。リハーサルなしで、出たとこ勝負の即興演奏ができたのもそうした訓練があればこそだ。だがそもそもは、やはりこれがジャズ伝承の原点なのだと思う。

モンクの天才の一つが作曲の才だが、本書を読んでいてあらためて感じたのは、モンク作品のタイトルの素晴らしさだ。月並みなティン・パン・アレーや、無味乾燥のビバップの曲名とは違い、「ラウンド・ミドナイト」や「ルビー・マイ・ディア」のような有名曲はもちろんのこと、「エピストロフィー」、「ウェル・ユー・ニードント」、「ミステリオーソ」、「ストレート・ノー・チェイサー」、「ブリリアント・コーナーズ」、「アグリー・ビューティ」等々、どの曲名もジャズ・センスに溢れ、背後に意味と情景が感じられ、しかもメロディが即座に浮かんで来るほど曲のイメージと一体化している。モンクは音感とともに、実はこうした言語能力にも並々ならぬものを持っていたがゆえに、あの短いけれど本質を言い表した数々の名言を残してきたのだろう。

2017/02/24

モンク考 (2) モダン・ジャズ株式会社

1940年代半ばのビバップに始まるモダン・ジャズの歴史は、その盛衰においてアメリカという国の歴史と見事にシンクロしている。そしてそのビバップは、チャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーが創造したというジャズ史の通説への反証が、自身の評価の低さを嘆くモンクの心情を取り上げた本書中で幾度も繰り返されている。ビバップ時代に、その音楽の真の創始者は常に時代の先を行くモンクである、とブルーノート・レーベルが主導したモンク再評価キャンペーンが不発に終わった後、キャバレーカードの没収という不運も重なり、1957年夏のジョン・コルトレーンとの「ファイブ・スポット」出演に至るまで、およそ10年にわたってモンクは不遇なミュージシャン生活を余儀なくされた。

bird and diz
Charie Parker, Dizzy Gillespie
1949/50 Verve
「自由」を別の言い方で表せば、モンクの音楽の本質とは「反システム」であったとも言えるだろう。ガレスピーとパーカーが創造したと言われ、その後モダン・ジャズの本流となるコード進行に基づく「即興演奏のシステム化」の対極にあったのが、「個人の想像力と独創性」に依存し、コードの約束事による束縛を嫌い、即興の即時性、自由なリズム、そしてメロディを愛し続けたモンクの音楽である。システムとは、多数の人間が吸収し取り入れることのできる汎用性を備えたものであり、習得効率と商業性の高さという近代世界、特にアメリカにおける市場原理に適合した合理性が求められるものだ。むしろ、アメリカという国家とその文化を実際に形成してきたのはそうしたシステム的思考である。それに対し、個人の創造力とは代替のきかないものであり、コピーのできないものであり、誰もが手に入れることができるわけではない、非合理的、非効率なものである。この独創的個人と汎用システムという対置は、芸術の世界であれ、実業の世界であれ、少数の天才や独創的人物が創り出したものが、多数の普通の人々によって徐々に理解され、咀嚼され、コピーされ、大衆化してゆく、という人間社会に共通の普遍的構造を表しているとも言える。半世紀前と現代との違いは、その拡散速度の圧倒的な差だけだ。(コピー全盛の現代にあっては、もはやどれがオリジナルなのか見分けがつかないほどだが)。

Genius of Modern Music Vol.1
1947 Blue Note
この本の中で語られる、「モンクはものを作る人間で、それを売り出したのはガレスピーだった」という「ミントンズ・プレイハウス」の店主だったテディ・ヒルの譬えを敷衍して、ビバップ創生の物語におけるモンク、ガレスピー、パーカー3人の役割を、現代の企業組織風に「モダン・ジャズ株式会社」として置き換えてみればわかりやすい。内部にひきこもって集中するモンクは、試行錯誤を繰り返してゼロから新しいモノやアイデアを生み出す「研究開発部門」であり、進取の気性があったガレスピーは、できた試作品を市場に広く効果的に知らしめ、出てきた顧客の要望を素早く察知して、それを改善する過程をシステム化してゆく「マーケティング部門」であり、圧倒的演奏能力を持ったパーカーは、製品やアイデアを先頭に立って顧客にわかりやすく、魅力的にプレゼンして売り歩く「営業部門」だったとでも言えるだろう。モンクが、自身の独創性と貢献に対する認証の低さと、(キャバレーカード問題による露出の少なさも理由となって)市場という前線に近い場所にいたガレスピーとパーカーが脚光を浴び、その二人だけが富と名声を得たという不運を何度も嘆くのも、こうして見ると、企業組織の持つ構造と役割、各部門で働く人たち個人の能力や深層心理と重なるものがあるようにも思える。

そう考えると、創業者たちの一世代後のリーダーだったマイルス・デイヴィス(モンクより9歳年下)は、こうしてでき上った会社の基盤の上に、新たな発想でクール、ハードバップ、モード、エレクトリックなどのジャズ新事業を次々に立ち上げていった「新事業開発部門」である。そして創業者の一人モンクが持っていた、ジャズの枠組みを突き破ろうとする本来の「自由な精神(前衛)」に立ち返り、スピンアウトして別会社である「反システム事業」に再挑戦したのがセシル・テイラーやオーネット・コールマン、さらに後期のジョン・コルトレーンに代表されるフリー・ジャズのミュージシャンたちだった、と言えるかも知れない。そしてアメリカ経済と社会の変化と軌を一にした、1940年代から70年代にかけての「モダン・ジャズ株式会社」の創業から繁栄、衰退に至る約30年の歴史も、まるで会社の寿命を見ているかのようである。そしてジャズマンとしては比較的長生きだったモンクは(1976年引退、1982年64歳で没)、まさにその会社と同じ人生を生き、運命を共にしている。もちろん、音楽の世界をこれほど単純に図式化できないことは言うまでもないのだが、本書のような物語は、巨人と言われるような天才ジャズ音楽家が送った人生にも、才能だけではない、いつの時代の、どんな人間にも共通する宿命的な何かがあったのかも知れない、と凡人が想像を巡らす楽しみを与えてくれるのだ。