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2017/06/21

ウォーン・マーシュ #2

Warne Marsh
1957/58 Atlantic
ウォーン・マーシュ的には生涯で最もハイブロウな作品が、Atlanticレーベルに吹き込まれたワン・ホーンの「Warne Marsh」(1957/58)だろう。LA滞在からニューヨークに戻ったマーシュが、レニー・トリスターノの監修の元に制作したアルバムである(LPのアルバム・クレジットにもSupervision監修としてトリスターノの名前が入っている)。Atlanticには既にリー・コニッツと共演した「Lee Konitz with Warne Marsh(1955)を吹き込んでいたが、メジャー・レーベル初のワン・ホーンのリーダー作ということもあって、師匠ともども力の入ったレコーディングだったのだろう。LAでの諸作は、どれもいかにも西海岸という空気に溢れていて、非常に軽やかで清々しい雰囲気があるが、一方このアルバムは、ピアノはロニー・ボールで同じだが、LAとはまったく雰囲気の違う作品に仕上がっている。特にポール・チェンバース(b)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds) という、当時のマイルス・バンドのパワフルなリズム・セクションとマーシュの共演はどう見ても異色だ。アルバム内容を見ると、ロニー・ボール、チェンバース、フィリー・ジョー とのカルテット演奏が2曲、同じくチェンバース、ポール・モチアン(ds) によるピアノレス・トリオ演奏が4曲、計6曲という変則的組み合わせになっている。なぜだろうと、ディスコグラフィーで確認すると、実は前者のカルテットは19571212日に5曲収録され、後者のトリオは翌1958116日に5曲収録されていることがわかった。したがって、アルバム制作時に前者5曲の内3曲が、後者の1曲が "ボツ" になったということになる。しかも採用された、たった2曲しかないカルテット演奏の内、アルバム冒頭の1曲、<Too Close for Comfort>はなぜか演奏途中で(4分弱で)フェイド・アウトしているのである

この件について書かれたものを読んだことがないので、まったくの想像(妄想?)に過ぎないが、これらの選曲とテープ編集にはレニー・トリスターノの意向(と嗜好)が大きく反映されているような気がする。口を出し過ぎたので結果として「監修」とクレジットすることになったのか、最初から「監修」者なので責任上あれこれ口出ししたのか? とにかく、トリスターノがからむ話はおもしろい。しかし、そういうトリスターノの「メガネにかなった」演奏のみが選択され収録されていると考えれば、このアルバムにおける演奏のレベルと音楽的価値についての説明は不要だろう。さらにLAでの作品と印象が違う理由もわかる。リー・コニッツは、マーシュの特にチェンバース、モチアンとの4曲のピアノレス・トリオ演奏について何度も最高度の賛辞を送っている。これらの演奏からのインスピレーションが、その後コニッツのピアノレス・トリオの名作「Motion」(1961 Verve)の録音に結びついた可能性は十分にあるだろう(これも想像ですが)。蛇足ながら、特にこうしたピアノレス・トリオものを楽しむには、ある程度ステレオの音量を上げて、ベースとドラムスの動きも良く聞こえるようにしないと、レコードとプレイヤーの真価を見誤ります。

Live at the Half Note
1959 Verve
この後1959年には、コニッツ、マーシュに当時新進のピアニストだったビル・エヴァンスが加わったクラブ「ハーフノート」でのライヴ録音が残されている(ジミー・ギャリソン-b、ポール・モチアン-ds)。ビル・エヴァンスは、当日教師の仕事のために出演できなかったトリスターノに代わって急遽参加したものだという。だがコニッツ名義のこのレコード「ライヴ・アット・ザ・ハーフノート」がVerveレーベルからリリースされたのは1994年で、何とピーター・インドによる録音から35年後だが、この背景には録音テープを巡るトリスターノとコニッツの師弟間の様々な確執があったと言われている。(コニッツの演奏部分だけトリスターノがテープ編集で削除し、マーシュの部分のみ残して別のレコードとして一度リリースされたという逸話も残っている)。そうしたややこしい背景も理由の一つだったのか、「リー・コニッツ」の中でコニッツが語っているように、ビル・エヴァンスがコニッツの背後ではほとんど弾かず、まるでピアノレス・トリオのように聞こえる場面が多い。またコニッツ本人も認めているように、リズムの点を含めてこの二人は音楽的に相性があまり良くなかったようだ。だが一方のマーシュは、そうした状況だったにもかかわらず、このレコードでも相変わらず素晴らしい演奏をしていると思う。

Release Record:
Send Tape
1959/60 Wave
 
ウォーン・マーシュのこの時期の他のワン・ホーン・カルテットとしては、これもピーター・インド(b) の私家録音だが、トリスターノ派のメンバーと共演した「Release RecordSend Tape」(1959/60 Wave)がある。緊張感に満ちた高度なインプロヴィゼーションの続くAtlantic盤と違い、こちらは仲間内で非常にリラックスした当時のマーシュの演奏が楽しめる。本アルバムはマーシュ、インドの他、ロニー・ボール(p)、ディック・スコット(ds)というトリスターノ派によるカルテットの演奏が収められていて、時期からすると「ハーフ・ノート」でのライヴのすぐ後に当たる。録音された11曲はスタンダードとマーシュのオリジナルが約半々だ。「ハーフノート」でのマーシュの演奏も冴えわたっていたが、ここでは気心の知れたメンバーということもあってか、伸び伸びと独特のインプロヴィゼーションを楽しむマーシュの様子が伝わって来る好演の連続で、同じくロニー・ボールのリラックスした小気味の良いピアノも楽しめる好アルバムだ。

Crosscurrents
1978 Fantasy
マーシュはコニッツ同様に、60年代、70年代とそれほど注目を浴びたわけではないが、72年から、チャーリー・パーカーのアドリブラインを5人のサックス奏者がプレイする "スーパーサックス" の一員として参加している。その後リリースされた「クロスカレンツ Crosscurrents」(1978 Fantasy) は、リー・コニッツ、ウォーン・マーシュとビル・エヴァンス、という3人の共演(エディ・ゴメス-b、エリオット・ジグモンド-ds)で、一体どういう音楽になるのか期待一杯だったこともあって(まだVerveの「ハーフノート」ライヴ盤はリリースされておらず、初のエヴァンス・トリオとの共演に興味があった)、最初にアルバムを聴いた時は正直言って少々がっかりした記憶がある。当時はもうみんな年だったせいか、緊張感、躍動感というものがあまり感じられなかったからだが、こちらも年のせいか近年はそれなりの味わいがあるなと感じるようになった。「ハーフノート」盤同様に、ここでもエヴァンスはコニッツのバックではあまり弾いていない。しかしこのアルバム中で唯一、マーシュの短いバラード<Everytime We Say Goodbye> だけは、なぜか最初に聴いて以来ずっと耳から離れず、私にとって永遠のバラードとなった。コニッツのクールで理知的な表現とは異なり、マーシュのバラ―ドには不思議な味わいと温かみがあり、そのふわふわとした、つかみどころのない独特のテナーサックスの音色、メロディライン、演奏リズムには、マーシュにしかない音世界がある。ピッチが揺れるような、ゆらめくようなここでのマーシュのバラードは、聴いていると全身から力が脱けていくような気がするのだが、単なる抒情というものを超えて、遠くから、まるでこの世とあの世の境目から流れて来るかのような、実に摩訶不思議な音の詩になっている。ビル・エヴァンスのピアノも、コニッツのシャープな世界よりも、やはりリズムを含めてマーシュのソフトで柔軟な音世界の方がずっと相性が良いように思う。マーシュは、後年の「ア・バラード・ブック A Ballad Book」(1983 Criss Cross)でも、カルテットでこうしたバラード・プレイを中心に聞かせているので(ピアノはルー・レビー)、この独特の世界に興味がある人はぜひそちらも聞いてみていただきたい。

2017/06/10

リー・コニッツを聴く #5:1960年代後期

Charlie Parker
10th Memorial Concert
1965 Limelight
「チャーリー・パーカー10thメモリアル・コンサート」(Limelight) は、1965年の327日にカーネギーホールで行われたチャーリー・パーカー没後10年の追悼記念コンサート・ライヴである。ディジー・ガレスピー、ジェイムズ・ムーディ、ケニー・バロン等によるクインテットの演奏、ロイ・エルドリッジ、コールマン・ホーキンズ等のスイング派セッション、デイヴ・ランバートのスキャット、リー・コニッツの無伴奏アルト・ソロ、最後にガレスピー、コニッツにJ.J.ジョンソン、ケニー・ドーハム、ハワード・マギー等も加わったジャム・セッションという構成だ。ソニー・ロリンズとソニー・スティットも登場したようだが、契約の関係でこのCDには収録されていないそうである。パーカー追悼記念にエルドリッジやホーキンズが何でいるの、ということもあるし、選曲もとりたててパーカーゆかりの、というわけでもない。1965年という時代を考えると、ガレスピーが中心になってスウィング、ビバップ時代のメンバーが集まって旧交を温める、といった趣もあったのだろう。それにしてはそこにリー・コニッツがなぜ、という疑問もあるが、私がこのCDを買ったのは、そのコニッツのアルト・ソロによるブルース<Blues for Bird>を聴くためだった。

エルヴィン・ジョーンズとのピアノレス・トリオ「Motion」(1961)、デュオのみの「Duets」(1967)のちょうど中間にこのソロ演奏がある。ネットでコニッツの昔のビデオ映像を見ると、いつも舞台でジョークを飛ばしていて、結構笑いを取っている(ただしアメリカ風の大笑いではなく、イギリス風のくすくす笑い系だが)。トリスターノ派の音楽から来る堅苦しい印象や人物像を想像していると肩透かしを食うが、この会場でも演奏の前にキリストとパーカーをひっかけた軽いジョークをかましてからスタートしている。1960年代はジャズが拡散して、自分の立ち位置を見失うミュージシャンが多かっただろうが、コニッツにとっても「内省」の時代だったと言える。そういう意味では無伴奏アルト・ソロというのは究極のフォームだろう
。また「リー・コニッツ」で述べているように、ブルースは黒人のものであり、ブルーノートの使用も含めて白人の自分たちに真のブルースは演奏できない、というのがトリスターノ派の思想だった。12小節のジャズ・フォームとして、ブルーノートのコンセプトには依らずに、どこまで音楽的に意味のある演奏ができるか、というのがトリスターノやコニッツの姿勢だった。レニー・トリスターノは「鬼才トリスターノ」(1955)で、<Requiem> というソロ・ピアノ(多重録音)による美しいブルースで、亡くなったパーカーへの弔辞を述べたが、おそらくその師にならって、コニッツはここで同じくソロのブルース <Blues for Bird> に挑戦したのだろう。理由は、パーカーだけがブルースの真髄を捉えていたと彼らは考えていたからだ。チャーリー・パーカーの音楽に本当に敬意を表していたのは、パーカーのエピゴーネンたちではなく、実は当時まったく違う音楽をやっていると思われていたトリスターノとコニッツだったのではないだろうか。

The Lee Konitz Duets
1967 Milestone
リー・コニッツが1960年代にリリースした記憶すべきアルバムの1枚が「Duets」(1967 Milestone)だ。コード楽器によるソロ空間の制約を嫌ったコニッツは、「Motion」の延長線上で更なる空間を求めて11のデュオによってインプロヴィゼーションの可能性をさらに探求しようした。このアルバムは自らリストアップした共演者に声を掛け、承諾した9人のプレイヤーが1日集まって交代で演奏し、わずか5時間で一気に完成させたものだという。1960年代後半という時代背景もあって、コニッツ的にはフリー指向が一番強かった時期と思われる。コニッツのアルトとテナーサックス(一部電気アルト)に対し、テナーサックス(ジョー・ヘンダーソン、リッチー・カミューカ))、ピアノ(ディック・カッツ)、ヴィヴラフォン(カール・ベルガー)、ベース(エディ・ゴメス)、ギター(ジム・ホール)、ヴァイオリン(レイ・ナンス)、ヴァルブ・トロンボーン(マーシャル・ブラウン)、ドラムス(エルヴィン・ジョーンズ)という9人のプレイヤーが対峙して、緊張感のあるアブストラクトなデュオ演奏を繰り広げている(一部コンボ含)。全8曲の内、スタンダード、オリジナル曲の他、ガンサー・シュラーがライナーノーツに記しているように、ルイ・アームストロングやレスター・ヤングへのトリビュートと思われる曲やテーマも取り上げられており、フリー・コンセプションによってジャズの伝統を解釈しようと試みた部分もある。コニッツはどういうフォームで演奏しても、共演相手を「聴く」ことと、楽器間の「対話」に強烈な信念を持った人であり、そういう意味でこのデュオ・アルバムは、その姿勢が最も典型的に表れたものと言えるだろう。この時代の空気が濃厚に感じられる作品だが、コードやリズムからは自由になっても、美しいメロディに対するコニッツの執着から、アブストラクト寄りと言えども、他のフリー・ジャズ作品とは違う独自の音世界をこのアルバムから聴き取ることができる。

European Episode
Impressive Rome
1968 CamJazz
この時代の作品をもう1枚挙げるとすれば、1968年にイタリアで行われたボローニャ・ジャズ・フェスティヴァルに参加していたコニッツを招聘して録音された、カルテットによる2枚のLP「European Episode」と「Impressive Rome」(Campi) をカップリングした同名の2枚組CD(CamJazz)である。コニッツの希望で集められたリズム・セクションのメンバーは、マーシャル・ソラール(p)、アンリ・テキシェ(ds) というフランス人、それにスイス人ドラマーのダニエル・ユメール(ds)だ。ソラールとユメールはコンビで数多く共演しており、アンリ・テキシェはこの当時23歳で、ソラール、ユメールとフランスで活動しており、ユメールと共にこの年にフィル・ウッズを迎えてヨーロッピアン・リズム・マシーンを結成している。コニッツにとって60年代は苦難の時代だったが、「デュエッツ」に見られるように、当時のいわゆるフリー・ジャズとは異なる内省的なアブストラクトの世界を追求していた。コード楽器を排除してできるだけ大きなインプロヴィゼーションのスペースを求めてきたコニッツだが、ここではマーシャル・ソラールという、どちらかと言えば「饒舌な」フランス人ピアニストをリーダーにしたリズム・セクションを相手にしながら、非常にリラックスして会話しているように聞こえる。ユメールも、若きテキシェも、自由奔放に反応して伸び伸びと演奏しており、適度なアブストラクトさも加わって、全体として多彩で躍動感に溢れたアルバムとなった。

スタンダード3曲(+2)、オリジナル4曲(+1)の全10トラックで、スロー、ミディアム、ファスト各テンポ共にどの演奏も気持ち良く聞け、また録音も良い。Anthropology>、<Lover Man> というおなじみのスタンダード、それに<Roman Blues>という3曲は、それぞれVer.1Ver.2が収録されている(計6トラック)。聴きどころは、インプロヴィゼーションにおいて「同じことはニ度とやらない」という信条を持つコニッツが、それぞれの曲/Versionをどう展開しているのかという点で、まさにジャズ・インプロヴィゼーションの本質を聴く楽しみを与えてくれる。またコニッツが彼らヨーロッパのリズム・セクションとの演奏(会話)を非常に楽しんでいることがどの曲からも感じられる。反応の良さを求めるコニッツにとって意外にも相性が良かったというこの体験が、その後70年代以降のソラールとの交流や、ヨーロッパのミュージシャンたちとの共演作へと続いたのだろう。このアルバムはそういう意味で、コニッツの70年代以降の活動を方向付けた出発点とも言うべき演奏記録であり、「Motion」、「Duets」に次ぐ、60年代コニッツの代表作と言えるだろう。

2017/06/02

リー・コニッツを聴く #1:1950年代初期

私は前記レニー・トリスターノのLP「鬼才トリスターノ」B面のリラックスしたライヴ録音を通じて、初めてリー・コニッツ Lee Konitz (1927-) を知り、その後コニッツのレコードを聴くようになった。だが最初に買ったコニッツのレコード「サブコンシャス・リー Subconscious-Lee(Prestige) は、トリスターノのA面と同じく、当時(1970年代)の私には、リズムも、音の連なりも、それまで聴いていたジャズとまったく違う不思議な印象で、最初はまるでピンと来なかった。それもそのはずで、「鬼才トリスターノ」B面のコニッツの演奏は1955年当時のもので、師の元を離れて3年後、既に自らのスタイルを確立しつつある時期の演奏であり、一方「サブコンシャス・リー」はその5年も前の1949/50年の録音で、まだトリスターノの下で「修行中」のコニッツの演奏が収録されたものだったからだ。

Subconscious-Lee
1949/50 Prestige
1940年代後半は、全盛だったビバップの気ぜわしい細切れコードチェンジとアドリブ、派手な喧騒に限界を感じたり、誰も彼もがパーカーやバド・パウエルの物真似のようになった状況に飽き足らなかったミュージシャンが、それぞれ次なるジャズを模索していた時代だった。マイルス・デイヴィス、ジェリー・マリガンやレニー・トリスターノもその中心にいたが、3人ともビバップの反動から、より構造を持ち、エモーションを抑えた、知的な音楽を指向していた。当時リー・コニッツもマイルス、マリガンと「クールの誕生」セッションに参加するなど、彼ら3人と密接に関わりつつ、レスター・ヤングとチャーリー・パーカーという巨人2人から継承したものを消化して、自らの音楽を創り出そうと修練している時期だった。Prestigeのボブ・ワインストックがリー・コニッツのリーダー・アルバムを作る提案をしたが、当初予定していたトニー・フラッセラ(tp) との共演話が流れ、結果としてコニッツがトリスターノやシェリー・マン(ds)に声をかけ、師匠とビリー・バウアー(g)、ウォーン・マーシュ(ts)等トリスターノ・スクールのメンバーも参加して、1949/1950年にSPで何度かに分散して吹き込まれた録音を集めたのがアルバム「Subconscious-Lee」である。またこれはPrestigeレーベルの最初のレコードとなった。そういうわけで当初はトリスターノのリーダー名で発表されたようだが、後年コニッツ名義に書き換えられたという話だ。

1950年前後に録音された他のジャズ・レコードを聴くと、このアルバムの演奏が、ビバップに慣れた当時の聴衆の耳に如何に新しく(奇異に)響いたかが想像できる。ここでのトリスターノ、コニッツとそのグループのサウンドと演奏は、今の耳で聴いてもまさに流麗で、スリリングで、かつ斬新だ。アルバム・タイトル曲で、コニッツが作曲した複雑なラインを持つ<Subconscious-Lee>は、今ではコニッツのテーマ曲であり、かつジャズ・スタンダードの1曲にもなっている。また得意としたユニゾンとシャープな高速インプロヴィゼーションのみならず、<Judy>や<Retrospection>のようなバラード演奏における陰翳に満ちたトリスターノのピアノも美しい。トリスターノ派の演奏は、その時代なかなか理解されず、難解だ、非商業的だ、ジャズではない等々ずっと言われ続けていたが、まさにアブストラクトなこれらの演奏を聴くとそれも当然かと思う。1950年という時代には、彼らの感覚が時代の先を行き過ぎているのだ。当時20代初めだったイマジネーション溢れるコニッツは、ここでは疑いなく天才である。彼の若さ、SPレコードを前提にした1曲わずか3分間という時間的制約、そしてトリスターノ派の即興に対する思想と音楽的鍛錬が、このような集中力と閃きを奇跡的に生んだのだろう。個人的感想を言えば、トリスターノとコニッツは、このアルバムで彼らの理想とするジャズを極めてしまったのではないか、という気さえする。

Conception
1949/50 Prestige
同時期1949年から51年にかけての録音を集めたPrestigeのコニッツ2枚目のアルバムが「コンセプション Conception」だ。オムニバスだが単なる寄せ集めというわけではなく、当時一般に ”クール・ジャズ” と呼ばれ、ビバップの次なるジャズを標榜して登場し、その後のハードバップにつながる、ある種の音楽的思想を持ったジャズを目指したプレイヤーの演奏を集めたものだ。リー・コニッツが6曲、マイルス・デイヴィスが2曲、スタン・ゲッツが2曲、ジェリー・マリガンが2曲、とそれぞれがリーダーのグループで演奏している。当時コニッツのサウンドを評価していたマイルスは「クールの誕生」でも共作・共演しており、コニッツ名義のこのレコーディングにマイルスも参加したもので、コニッツとマイルス唯一のコンボでの共演作だ。ジョージ・ラッセルが斬新な2曲を提供していて、名曲<Ezz-Thetic>はこれが初演である。コニッツはまだトリスターノの強い影響下にある時代で、師匠はいないがスクールのメンバーだったサル・モスカ (p)、ビリー・バウアー (g)、アーノルド・フィシュキン (ds) もここに参加している。サル・モスカなどトリスターノそのもののようだし、初期の独特の硬質感と透明感を持つ、シャープかつ流れるようななコニッツのアルト・サウンドも素晴らしい。マイルスの参加で、トリスターノ色が若干薄まってはいるが、それでもコニッツ・グループの6曲の演奏を聞いた後では、マイルス、ゲッツ、マリガンの他のグループの演奏が今となっては実に「普通のジャズ」に聞こえる(主流という意味)。こうして並べて聞くと、コニッツたちが「クール」という一緒くたの呼び名を嫌った理由もわかるが、しかし当時(昭和25年である)はここに収められたどのグループの演奏も非常に「モダン」であったはずで、コニッツがいささか(当時のジャズを)突き抜けた存在だったということだろう。どの演奏もとても良いので、そういう歴史的な視点も入れて聞くとより楽しめるアルバムだ。

Konitz Meets Mulligan
1953 Pacific Jaz
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リー・コニッツとジェリー・マリガンGerry Mulligan (1927-96) は、ギル・エヴァンスと同じくコニッツが1947年にクロード・ソーヒル楽団に入ったとき以来の付き合いだ。マイルス・デイヴィスの「クールの誕生」バンドでの共同作業を経て、コニッツがスタン・ケントン楽団に入団してからも、マリガンは楽団へのアレンジメント楽曲の提供と共演を通じてコニッツと親しく交流していた。1953年、ケントン楽団在籍中のコニッツに、既にLA在住だったマリガンが、当時チェット・ベイカーChet Bakerと一緒に出演していたクラブ「Haig」へ出演しないかと声を掛け、3人を中心にしたピアノレス・コンボの活動を始めた。「コニッツ・ミーツ・マリガンKonitz Meets Mulligan」(1953 Pacific Jazz)は、この時の「Haig」でのライヴ演奏をPacific Jazzのリチャード・ボックとマリガンが録音したものに、他のスタジオ録音を加えてリリースされたものだ。3人の他にマリガンのレギュラー・リズム・セクションだったカーソン・スミス(b)、ラリー・バンカー(ds) が加わったクインテットによる演奏である。

コニッツはその前年にトリスターノの元を離れ、それまでとまったく肌合いの異なるコマーシャル・ビッグバンド、それも重量級のケントン楽団のサックス・セクションに所属していた。そこで強烈なブラス・セクションの音量と拮抗するという経験を経て、それまでの透明でシャープだが線の細い、コニッツ固有のアルトサックスの音色に力強さと豊かさを加えつつあった。トリスターノ伝来のインプロヴィゼーション技術に、ビル・ラッソらによるケントン楽団のモダンで大衆的なアレンジメントの演奏経験が加わり、さらにそこに力強さが加味されたわけで、そのサウンドの浸透力は一層高まっていた。このアルバムに聴ける、マリガンもベイカーの存在もかすむような、まさに自信に満ち溢れた切れ味鋭い、縦横無尽とも言うべきコニッツのソロは素晴らしいの一言だ。中でも <Too Marvelous for Words> と<Lover Man>における流麗でクールなソロは、コニッツのインプロヴィゼーション畢生の名演と言われている。またコニッツ生涯の愛奏曲となる <All the Things You Are>も、ここではおそらく最高度とも言える素晴らしい演奏だ。「Subconscious-Lee」の独創と瑞々しさに、その後につながる飛翔寸前の力強さが加わったのが、このアルバムでのコニッツと言えるだろう。この後50年代半ばまでコニッツは絶頂期とも言える時期を迎え、ジャズ誌のアルトサックス部門のポール・ウィナーをチャーリー・パーカーと争うまでに人気も高まり、初の自身のバンドを率い(Storyville時代)、さらにAtlanticというメジャー・レーベル時代に入ることになる。

2017/05/31

レニー・トリスターノの世界 #3

レニー・トリスターノの音楽コンセプトが、その後アメリカにおけるジャズの深層に様々な影響を与えていたことは事実だが、それを直接継承した音楽家はリー・コニッツやウォーン・マーシュのような弟子の他、一世代後のピアニストで同じく弟子だったコニー・クローザーズなどの限られた人たちだけだったようだ。しかし1970年代に入って、日本でそのコンセプトを継承し、自らのジャズとして追及し続けたミュージシャンが存在した。それがギタリストの高柳昌行 (1932-91) である。 

Cool Jo-Jo
高柳昌行
TBM 1978
「クール・ジョジョ Cool Jo-Jo」(1978 Three Blind Mice) は、弘勢憲二(p&ep)、井野信義(b)、山崎泰弘(ds)からなる高柳昌行のカルテット “セカンド・コンセプト”  がトリスターノ派ジャズに挑戦したアルバムである。選曲はレニー・トリスターノの<317 East 32nd>など2曲、リー・コニッツの<Subconscious-Lee>など3曲、ロニー・ボール作1曲、高柳自作曲が2曲という構成で、CDには4曲の別テイクが追加されている。高柳は当時、阿部薫(as)とのデュオ「解体的交感」(1970) や、“ニュー・ディレクション”という別グループによるフリー・ジャズ追求を経て、一方で伝統的4ビートによるトリスターノ派のクール・コンセプションをこのグループで追求していた。作品タイトル「クール・ジョジョ」(ジョジョは高柳の愛称)はそれを表している。このアルバムに聴ける演奏は、言うまでもなく日本におけるクール・コンセプションの最高峰の記録だろう。高柳のギターは、トリスターノのグループにおけるリー・コニッツの役割になるが、そのラインをコニッツのアルトサックスのラインと比較しながら聴くと実に興味深い。このグループではもう1枚、ライヴ録音として本作の1週間前に吹き込まれたアルバム「セカンド・コンセプト」(ライヴ・アット・タロー)が残されている(ベースは森泰人)。

Second Concept
Live at Taro
1978
高柳昌行の即興思想とアルバム・コンセプトについて、本作録音後の1980年のあるインタビューで、高柳自身がこう述べている。

『クールという言葉でたまたま呼ばれているが、あの音楽の内面は凄まじく熱いものだよ。外面的には冷たく見えても、精神的な部分は手がつけられないほど熱く燃えているんだ。日本でエネルギッシュだとかホットだとかいう言葉で表されるものは身体が燃え上がるような状態を言うようだが、本当は内面的に燃え上がっていなければ、熱いとは言えないと思うな。そして、その燃える部分はやはりアドリブだと思う。ジャズの命は何と言ってもアドリブなんだ。ミュージシャンが自身を最大限に表出できるクリエイティブな部分、アドリブが強烈な勢いを持っていなければだめだ、と今さらのように思うよ。
 トリスターノ楽派の音楽にはそれがあるんだ。平たく言えばジャズってのは、ニグロの腰ふりダンスだ。しかし、音楽として存在し続けるためには高度な内容を持たなければならない。そういう意味で、最も純粋なものを持っているのが、トリスターノだと思うわけ。音の羅列(られつ)の仕方だとか、ハ-モニ-など追求していくと、その高度な音楽性には脱帽するしかないよ。現時点で考えてみてもその音楽性は1歩以上進んでいるよ。建築の世界に移して考えてみればよくわかるが、パーカーは装飾過多のゴシック建築、トリスタ-ノの音楽は、シンプルで優美な直線と曲線を見事に組み合わせた近代建築なんだ。現代にも通じる美の極致だよ。シンプルなホリゾンタル・ライン、それでいて、信じられない程良く考え抜かれた曲線性、そして複雑この上ない音の羅列。<サブコンシャス・リ->なんて<恋とは何でしょう>のあんな簡単なコード進行からあれだけのリフ・メロディを生み出すなんて、ちょっと信じられないものがあるよ。こうして僕がしつこいまでにトリスターノを追う理由の一つがそれなんだ。僕はジャズの音楽家だし、そういうジャズの内面的な質の高さを伝えていきたいんだ。
 猿マネして黒人の雰囲気を伝えるのがジャズじゃないよ。自分の中で、自分なりに消化されたものをアドリブとして表出する。それこそが今僕がやり続けていきたいことなんだ。それを失っちゃったら全部白紙。これは最後の歯ドメでもあるわけ。でも、そういういいものはなかなか理解されないよね。これは明白な事実だから、あえて言う必要もないが、音楽的な純粋さとコマーシャル性は両立しないものなんだ。となれば、首のすげかえを心配してこうした音楽をとり上げようとするプロデューサーがいなくなるのも当然だよね。そこへいくとTBMの藤井(武社長)さんは大将なわけでね。ジャズの本当に熱い部分に真剣に取り組んでくれて、うれしいよね』
高柳昌行に師事していたギタリストには大友良英、廣木光一のような人たちがいるが、本コメントは、同じく一時期師事していたギタリスト、友寄隆哉氏のブログ内論稿から転載したものです。)

リー・コニッツ本人を除き、トリスターノ派の音楽の本質をこれほど正確に表現している言葉はこれまで聞いたことがない。”クール” については、「リー・コニッツ」のインタビューで後年コニッツが述べているのと同じ趣旨のことを語っているし、他のインタビューでのフリー・インプロヴィゼーションに対する思想も、「テーマも何もない白紙から始めるべきだ」というコニッツとほぼ同じことを言っている。2人はジャズ音楽家として共通する哲学を持っていたのだろう。高柳昌行という人は強烈な個性を持ったカリスマ的人物だったようだが、トリスターノ派の音楽を求道者とも言えるほどの情熱を持って理解し、尊敬し、しかも「日本人のジャズ」としてそれに挑戦しようとしていたジャズ・ミュージシャンが、当時の日本(フュージョン時代)にいたことに驚く。悠雅彦氏のライナーノーツによれば、この録音テープを児山紀芳氏が米国に持ち込み、リー・コニッツとテオ・マセロに聞かせたところ、その素晴らしさに二人ともびっくりし、コニッツは予定していた来日時に高柳と共演したいという提案までしたらしい。残念ながら来日がキャンセルになったために、共演はかなわなかったようだ。コニッツの演奏スタイルは、当時はかなり変貌してはいたものの、もし二人の共演が実現していたら、どんなに刺激的で興味深い演奏になっただろうかと想像せずにいられない。

2017/05/29

レニー・トリスターノの世界 #2

Lennie Tristano All Stars
(Rel. 2009 RLR)
前項のように、昔からAtlanticの「鬼才…」や「ソロ」ばかり紹介されるために、変人ぶりや難解で高踏的なイメージだけが定着してしまったが、限られてはいるものの、中には聴き手がリラックスしてトリスターノの名人ぶりを楽しめるレコードも残されている。Lennie Tristano All Stars」(RLR 2009)というCDは、トリスターノがシカゴからニューヨークに出てきた翌19478月にクラブ「Café Bohemia」(Pied Piper)で録音されたライヴ演奏と、19646月のクラブ「Half Note」でのTV中継ライヴ(Look Up & Live)からの3曲をカップリングした珍しいレコードだ。47年のライヴは、ビル・ハリス(tb)、フリップ・フィリップス(ts)、ビリー・バウアー(g)、チャビー・ジャクソン(b)、デンジル・ベスト(ds)という、ウッディ・ハーマン楽団のメンバーを中心にしたコンボにトリスターノが飛び入りしたもののようだ。未だスウィング色の強い、喧騒のビバップ・コンボに「潜入した」当時28歳のここでのトリスターノは、CMではないがまさに異星から来た「宇宙人トリスターノ」だ。ハリスやフィリップスの実にスウィンギングな熱演に客席から掛け声もかかり、ダンスも踊れそうな音楽に一応は合わせているが、リズム、ライン、コードとも時々周囲と全く違う異次元のサウンドを繰り出し、特にトリスターノのソロに入ると一気に場が冷え込み、演奏メンバーもクラブの客も面喰らっている様子が手に取るようにわかる。トリスターノがニューヨークのジャズシーンに突如出現した当時のインパクトが目に見えるようにわかって実におもしろい。このCDは録音もプアで基本的には好事家向けだが、トリスターノ・ファンなら初期のトリスターノと、当時のニューヨークのクラブでのビバップの雰囲気を知る貴重な記録として非常に楽しめる。それからワープして17年後、すっかりモダンになった1964年の「Half Note」ライヴ録音3曲は、リー・コニッツ、ウォーン・マーシュという弟子たちとトリスターノ最後の共演である(ソニー・ダラス-b、ニック・スタビュラス-ds)。このライヴ演奏翌年のヨーロッパ・ツアーを最後に、トリスターノはほぼ人前で演奏することはなくなる。

Lennie Tristano
Manhattan Studio
1955/56 Jazz Records
もう1枚は、ピアノ・トリオ「Manhattan Studio」(1955/56 Jazz Records)だ。'50年代初めにトリスターノは彼のジャズ教室のための練習と録音を目的にマンハッタンに小さなスタジオ(317 East 32nd)を作ったが、このレコードは1955/56年にかけて、そのスタジオで記録された演奏を集めた私家録音盤である。40年代の超革新的な姿勢も、このアルバムと同時期のAtlantic盤での録音ギミックもなく、ピーター・インド(b)、トム・ウェイバーン(ds)という二人の弟子をリズム・セクションに従えて、ごく当たり前のピアノ・トリオとして演奏している。コンボやソロが多く、またトリスターノのトリオと言えば50年代初めの数曲の演奏を除き、ビリー・バウアーのギターとベースによるものしかないので、ベースとドラムスによるトリオ演奏だけから成るアルバムはこの1枚だけだ。ここでは流れるようなスピードと美しさ溢れる「素顔の」トリスターノの素晴らしいピアノが堪能できる。9曲の内、自作2曲を除き、他7曲はトリスターノにしては珍しく全てスタンダードを弾いている。いつものようにいきなりくずさずに、どの曲もストレートにメロディを弾いていて、ごく普通の4ビートのピアノ・トリオとして構えずに聴け、トリスターノのインプロヴィゼーションの世界がわかりやすい。複雑さもなく、こんなにリラックスした雰囲気で、楽しそうに(たぶん)スウィングして弾いているトリスターノは他の録音では絶対に聴けない。弟子たちと自分のスタジオで、好きな曲を自由に弾いている様子が伝わってきて、他のアルバムで常につきまとう聴き手に強いる緊張感がここにはない。リズム・セクションも1950年代半ばの普通のピアノ・トリオのリラックスしたバッキングで、よく言われる正確で律儀なメトロノーム的な伴奏だけではない。しかしフォーマットは普通だが、演奏そのものはやはりトリスターノで、50年代半ばという時代を思えばその音世界の斬新さは相変わらずだが、同時にそのドライブ感と、次から次へ出てくる美しいフレーズとメロディ・ラインはまさにバド・パウエル並みで、これにはびっくりする。

Lennie Tristano
Chicago in April 1951
(Uptown)
数は少ないがリラックスして楽しめるライヴ音源もまだ残されている。数年前に発掘されリリースされたCDだが、19514月に故郷のシカゴに帰って、「ブルー・ノート・クラブ」に出演したレニー・トリスターノ・セクステットの未発表ライヴ録音全14曲を収めた2枚組CD「Chicago in April 1951」Uptown)がそれだ。これまでトリスターノのライヴ音源はプアなものが多かったが、これはピアノとホーンの音について言えば予想以上にクリアで、おそらくこれまでのグループによるクラブ・ライヴ録音ではベストの音質だろう。しかもトリスターノが時々MCをやりながら演奏していて、その声もクリアで、これにも驚く(初めて彼の声を聞いた)。リー・コニッツ(as)、ウォーン・マーシュ(ts)に、同じくトリスターノ門下だったウィリー・デニス(tb)が加わり、リズム・セクションにバディ・ジョーンズ(b)、ミッキー・シモネッタ(ds)を配した3管セクステットによる演奏である。このCDはトリスターノがまだ32歳の時の録音で、コニッツ、マーシュを含むグループとしての一体感も完成の域に達していた時期でもあり、おそらく音楽的には絶頂期にあっただろう。本作はプレイヤーとして全盛期のトリスターノの素晴らしいピアノと、グループのリラックスしたクラブ・ライヴ演奏が、初めてクリアな音で楽しめる貴重盤である。

Lennie Tristano Quintet
Live in Toronto 1952
Jazz Record
s
そしてもう1枚のライヴ録音は、翌1952年カナダ・トロント(UJPOホール)でのコンサート・ライヴ「Live in Toronto 1952(Jazz Records)で、こちらはリー・コニッツ (as)、ウォーン・マーシュ (ts)、ピーター・インド (b)、 アル・レヴィット (ds) というクインテットによる演奏。ビリー・バウアー (g) はツアーに参加しなかったものの、メンバーはいわば当時のトリスターノ派全員集合である。このトロントでのライヴは、当初実験的要素もあったコニッツ、マーシュを従えたバンドを立ち上げてから5年近く経っており、グループとしての音楽的コンセプトも各自の役割も全員に浸透し、互いの理解も深まった段階に達していたことだろう。一発勝負のライヴでありながら、6曲すべてにおいて全員その流れるようにスムースで切れ味の良いユニゾン、アドリブともに見事で、ビバップとは異なる手法によるジャズ史上最高レベルの集団即興演奏だと言われている。トリスターノが希求していた理想のジャズが、ある意味ここで完成されたとも言えるだろう。ところがコニッツはこの公演の翌月トリスターノの元を離れ、トリスターノが以前から評価していなかったスタン・ケントン楽団に入団し、結果このトリスターノ・バンドは実質的に解散することになるのである。

1940年代のシカゴ時代、コニッツが十代の時から師事していた師匠とその高弟は、ここについに袂を分かつ。音楽上よりも経済的な理由だったとは言え、このトロント直後の片腕リー・コニッツの離反がトリスターノに与えた衝撃がいかに大きかったかが想像できる。マーシュは ’55年まで留まったが、前項に記したように、1952年のこの一件後トリスターノは徐々に公の場に出なくなり、マンハッタンのスタジオにこもってフリー・ジャズや多重録音などのジャズ研究とジャズ教師に専念するようになる。トリスターノとコニッツはその後ついに完全には和解せず、時折の共演を除き、かつての師弟関係は失われる。1959年の「Half Note」で、トリスターノの代役として急遽参加したビル・エヴァンスと、コニッツ、マーシュが共演したライヴ演奏(Verve) にも、実はそうした師弟間の葛藤と裏事情が伺われる逸話が残されている。そして上記1964年の「Half Note」での共演を最後に、以後2人は二度と顔を合わせることはなかった。だが「リー・コニッツ」のインタビューで、70年代半ばになってから2人が交わした電話ごしの会話のことをコニッツが語っているが、久々の会話を終えたトリスターノの嬉しそうな姿を、当時の弟子コニー・クローザーズから後年伝え聞いたコニッツが、思わず落涙した話は胸を打つものがある。

トリスターノ派ミュージシャン以外にも、セシル・テイラーやチャールズ・ミンガス、ポール・ブレイ、ビル・エヴァンス等への影響を含めて、トリスターノの革新的コンセプトがその後のジャズに与えた音楽的影響は決して小さくはなかったが、アメリカではそれはずっと無視されるか、過小評価されてきた。彼は小さくてもいいので自分のジャズクラブが欲しいとずっと言っていたそうだ。大衆には受けなくとも、自分の音楽を理解してくれる聴衆が少しでもいれば、そこで思う存分演奏したいと考えたのだろう。商業主義への妥協を拒んだ人生ゆえに、’78年に59歳で亡くなるまでにその願いは結局かなわなかった。しかし20世紀半ばのアメリカという国には、このような「理念」を持つジャズ音楽家も存在したのである。

2017/05/27

レニー・トリスターノの世界 #1

「ジャズにも色々あるのだ」ということを初めて知ったのが、1970年代に盲目のピアニスト、レニー・トリスターノ  (1919-1978) の「 Lennie Tristano(邦題:鬼才トリスターノ) (1955 Atlantic) というレコードを聴いたときだった。それまで聴いていた "普通の" ジャズ・レコードとはまったく肌合いの違う音楽で、クールで、無機的で、構築的な美しさがあり、ある種クラシックの現代音楽のような雰囲気があったからで、ジャズ初心者には衝撃的なものだった。しかし、それ以来この独特の世界を持ったアルバムは私の愛聴盤となった。

Tristano
1955 Atlantic
1954/55年に録音されたLP時代のA面4曲の内の2曲<Line Up>と<East 32nd Street>は、ピーター・インド(b)、ジェフ・モートン(ds)というトリスターノ派リズム・セクションの録音テープを半分の速度にして再生しながら、その上にトリスターノがピアノのラインをかぶせて録音し、最後にそれを倍速にして仕上げたものだとされている(ただし諸説ある)。<Line Up>は、<All of Me>のコード進行を元にして、4/4と7/4という2つの拍子を用いたインプロヴィゼーションで、初めて聴いたときには思わずのけぞりそうになったほどだが、この緊張感に満ちた演奏は今聴いても実に刺激的だ。他のA面2曲<Turkish Mambo>とRequiem>は、トリスターノのピアノ・ソロによる多重録音である。<Turkish Mambo>4/45/812/87/8という4層の拍子が同時進行する複雑なポリリズム構造を持つ演奏だという(音楽学者Yunmi Shimによる分析)。もう1曲の<Requiem>は、音楽家として互いに深く尊敬し合っていたチャーリー・パーカー(1955年没)を追悼した自作ブルースで、トリスターノのブルース演奏は極めて珍しいものだが、これも素晴らしい1曲だ。武満徹の「弦楽のためのレクィエム」は、トリスターノのこの曲に触発されたものだと言われている。また後年トリスターノの弟子となる女性ピアニスト、コニー・クローザーズもこの曲を聴いてクラシックからジャズに転向したという。2人ともトリスターノの音楽の中に、ジャズとクラシック現代音楽を繋ぐ何かを見出したということだろう。このA面で聴ける構造美とテンション、深い陰翳に満ちた演奏は、トリスターノの天才を示す最高度の質と斬新さを持つ、ジャンルを超えた素晴らしい「音楽」だと思う。

LP時代のB5曲はうって変わって、リー・コニッツ(as)が加わったカルテットが、スタンダード曲をごく普通のミディアム・テンポで演奏しており、1955年6月にニューヨークの中華レストラン内の一室でライヴ録音されたものだ。(コニッツはこの数日後に、「Lee Konitz with Warne Marsh」をAtlanticに吹き込んでいる。)スタン・ケントン楽団を離れたコニッツが自己のカルテットを率いていた絶頂期だったが、ここではリズム・セクションにアート・テイラー(ds)、ジーン・ラメイ(b)というトリスターノ派ではないバップ奏者を起用していることからも、A面のトリスターノの「本音」とも言える音楽世界との差が歴然としている。しかし、この最高にリラックスした演奏もまた、ピアニストとしてのトリスターノの一面である。実は本来は、このカルテットのライヴ演奏のみでアルバムを制作する予定だったが、満足できない演奏があったコニッツの意見で、5曲だけが選ばれ、代わってトリスターノのスタジオ内に眠っていた上記4曲を「発見」したAtlanticが、それらをA面として収録してリリースした、ということだ(その後このライヴ演奏のみを全曲収録したCDも発表された)。アルバムの最終コンセプトはたぶんトリスターノが考えたのだろうが、A面はトリスターノの「本音」、B面は「こわもて」だけじゃないんですよ、という自身のコインの両面を伝えたかった彼のメッセージのようにも聞こえる(勝手な想像です)。ただしそれはあくまでLPアルバム時代の話であり、CDやバラ聴きネット音源ではこうした作品意図や意味はもはや存在しない。残念なことである。

Crosscurrent
1949 Capital
トリスターノは、チャーリー・パーカーと同年1919年にシカゴで生まれた。9歳の時には全盲となり、シカゴのアメリカ音楽院入学後はジャズだけでなくクラシック音楽の基礎も身に付け、20代初めから既に教師として教えるようになっていた。1946年にビバップが盛況となっていたニューヨークに進出し、シカゴ時代からの弟子だったリー・コニッツも間もなく師の後を追った。リー・コニッツ(as)、ウォーン・マーシュ(ts)、ビリー・バウアー(g)、ピーター・インド(b)、アル・レヴィット(ds)というトリスターノのグループは、既に1948年頃からフリー・ジャズの実験を初めており、1949年のアルバム「Crosscurrents」(Capitol)で、<Intuition>、<Digression>というジャズ史上初の集団即興による2曲のフリー・ジャズ曲を録音している。当時彼らはクラブ・ギグやコンサートでも実際に演奏している。ただしそれらは対位法を意識していたために、曲想としてはクラシック音楽に近いものだった。当然ながらクラブなどでは受けないので、その後グループとしてのフリー演奏は止めたが、1951年にマンハッタンに開設した自身のスタジオで、トリスターノはフリー・ジャズ、多重録音の実験を続けていたのだ。(多重録音は今では普通に行なわれているが、70年近く前にこんな演奏を自分で録音して、テープ編集していた人間がいたとは信じられない。テオ・マセロがマイルスの録音編集作業をする15年以上も前である。)

メエルストルムの渦
1975 East Wind
亡くなる2年前、1976年に日本のEast WindからLPでリリースされたレニー・トリスターノ最後のアルバムが「メエルストルムの渦 Descent into the Maelstrom」だ1975年に、当時スイング・ジャーナル誌編集長だった児山紀芳氏とEast Windが、隠遁生活に入っていたトリスターノと直接交渉して、過去の録音記録からトリスターノ自身が選んだ音源をまとめたものだそうだ。ただし音源は1952年から1966年にかけての5つのセッションを取り上げていて、中に1950年代前半(上記「鬼才トリスターノ」音源より前である)に録音したこうした多重録音の演奏が3曲収録されている。アルバム・タイトル曲<メエルストルムの渦>はエドガ・アラン・ポーの同名小説から取ったもので、録音されたのは1953年であり、当時としては驚異的なトリスターノのフリー演奏が聞ける。一人多重録音による無調のフリー・ジャズ・ピアノで、重層化したリズムとメロディがうねるように進行してゆく、まさにタイトル通りの謎と驚きに満ちた演奏だ。セシル・テイラー、ボラー・バーグマンなどのアヴァンギャルド・ジャズ・ピアニスト登場の何年も前に、トリスターノは既にこうした演奏に挑戦していたのである。1952年(195110月という記録もある)のピーター・インド(b)、ロイ・ヘインズ(ds)との2曲のトリオ演奏(Pastime、Ju-Ju)もピアノ部分が多重録音である。他の演奏は “普通の” トリスターノ・ジャズであり、1965年のパリでの録音を含めてピアノソロが5曲、1966年当時のレギュラー・メンバーだったソニー・ダラス(b)、ニック・スタビュラス(ds)とのトリオが同じく2曲収録されている。本人がセレクトした音源だけで構成されていることもあり、Atlantic2作品と共に、このアルバムはトリスターノの音楽的メッセージが最も強く込められた作品と言えるだろう。

The New Tristano
1962 Atlantic
1950年前後、トリスターノはインプロヴィゼーション追求の過程で、微妙に変化する複雑な「リズム」と、ホリゾンタルな長く強靭な「ライン」を組み合わせることによって、ビバップの延長線上に新しいジャズを創造しようとしていた。特に強い関心を持っていたのはポリリズムを用いた重層的なリズム構造だ。そのためリズム・セクションに対する要求水準は非常に高く、当時彼の要求に応えられるドラマーやベーシストはほとんどおらず、ケニー・クラークなどわずかなミュージシャンだけだったと言われている。よく指摘されるメトロノームのように変化のないリズムセクションも、その帰結だったという説もある。要するに、上記多重録音のレコードは、「それなら自分一人で作ってしまおう」と考えたのではなかったかと想像する。だからある意味で、これらの多重録音による演奏はトリスターノの理想のジャズを具体化したものだったとも言える。だが多重録音と速度調整という「操作」をしたことで、ジャズ即興演奏の即時性に反するという理由だと思うが、当時彼のAtlantic盤は批評家などから酷評された。その後しばらく経った1962年に、これらの演奏の延長線として、録音操作無しの完全ソロ・ピアノによるアルバム「ザ・ニュー・トリスターノThe New Tristano」(Atlantic)を発表して、自らの芸術的理想をついに実現したのである。

前作の演奏加工への批判に対する挑戦もあり、1曲を除き、完全なソロ・ピアノである。疾走する左手のベースラインと右手の分厚いブロック・コードを駆使して、複雑なリズム、メロディ、ハーモニーを一体化させてスウィングすべく、一人ピアノに向かって「自ら信じるジャズ」を演奏する姿には鬼気迫るものがあっただろうと想像する。盲目だったが彼の上半身は強靭で(ゴリラのようだったと言われている)、その強力なタッチと高速で左右両手を縦横に使う奏法を可能にしていた。収録された7曲のうち<You Don’t Know What Love Is>以外は「自作曲」だが、このアルバムに限らずトリスターノは、既成曲のコード進行に乗せてインプロヴァイズした別のLine(メロディ)に別タイトルをつけるので、原曲はほとんどスタンダード曲である。この姿勢が彼のジャズに対する思想(「即興」こそがジャズ)を表している。たとえば <Becoming>は<What Is This Thing Called Love>,<Love Lines>は<Foolin’ Myself>,<G Minor Complex>は<You’d Be So Nice To Come Home To> などだ。原曲がわかりやすいものもあれば、最初からインプロヴァイズしていて曲名を知らなければわからないものもある。同じく<Scene And Variations>の原曲は <My Melancholy Baby> で、<Carol>、<Tania>、<Bud>という3つのサブタイトルは彼の3人の子供の名前だ。Budは当然ながら、崇拝していたバド・パウエルにちなんで名づけたものだ。クールでこわもて風トリスターノの人間味を感じる部分である。

不特定の客が集まる酒を扱うクラブでの演奏を嫌がり、売上至上主義の商売に批判的で、その手助けをしたくない、というトリスターノの姿勢は若い頃シカゴ時代から基本的に変わらなかった。未開の領域で、自身の信じるビバップの次なるジャズを創造するという姿勢がより強固になっていった40年代後半以降、この傾向はさらに強まる。ジャズという音楽、アメリカという国の成り立ちを考えると、これが如何に当時の音楽ビジネスの常識からかけ離れていたかは明らかだろう。ニューポート・ジャズ祭への出演要請も事前の手続き上のトラブルから断ったりしているが、60年代のヨーロッパでのライヴなど、コンサート形式ならたとえpayが低くても基本的に参加する意志はあったようだ。しかし、クラブでも、コンサート・ホールでもその数少ないライヴ演奏記録は常に新鮮でスリリングな最高のジャズである。ただし、その音楽が本質的に内包する高い緊張感と非エモーショナルな性格から、ジャズにリラクゼーションを求める層に受けないのは昔も今も同じだろう

2017/05/24

ジャズ・レコードから聞こえてくるもの

アンディ・ハミルトンの「Lee Konitz」を翻訳しながら、レニー・トリスターノやリー・コニッツ、ウォーン・マーシュ他のトリスターノ派のミュージシャンたちのレコードをずっと聴いていた(私の場合、手持ちのCD音源を取り込んだPCオーディオなので、好きな部分だけを何回でも繰り返し聴ける)。文章の意味がはっきりしない部分は著者にメールで問い合わせて確認していたが、本文中で録音記録に触れる部分があると、その音楽的背景を知るにはネット情報などの説明だけでなく、実際にそれらの音源を自分の耳で聴いたり、可能ならネット動画で確かめるのがいちばん確実で、それによって翻訳表現もより正確なものになるからだ。半分趣味とはいえ、ジャズ伝記類の翻訳は報われることの少ない仕事だと思うが、一ジャズファンという立場からすると、ジャズという音楽やミュージシャンの人生に関して知らなかったことを新たに発見してゆく楽しみだけでなく、これまで聴いたこともなかったような音源を聴く楽しみも与えてくれるので、苦労も相殺されるように感じている。今現在のジャズを聴く楽しみももちろん捨てがたいのだが、何せ、死ぬまでかかっても聴ききれないほどの膨大な音源が、モダン・ジャズにはまだまだ残されているのだ。それらの中には自分にとって決してカビのはえた骨董などでない、未知の宝物が眠っている可能性もある。その宝の山を掘り返す楽しみは何物にも代えがたいもので、歳を重ね、先が短くなるほど尚更そう感じるようになる。私にとってはジャズに古いも新しいもなく、良いものは良い、ということだけだ。

翻訳中には、こうして聴いていたレコードの情報を確認するために、
信頼性の高い海外のジャズ音楽家別ディスコグラフィー(discography) をいくつかネットで探して参照し、それらのデータを手持ちのLPCDの記載情報や、ネット上のレコード情報と照合する作業も並行して行なっていた。今はネットで個別レコード情報はかなり手に入るが、ミュージシャン別にまとまったものが意外に少ないし、そうした情報には結構いい加減なものも多い。結果として、何となく自分でトリスターノ派ミュージシャンのディスコグラフィー(英語版)を作ることになり、現在入手可能な150件近いトリスターノやコニッツ他の音源情報(LPCD)を表にまとめてみた(下表)。<録音年/アルバム・カバー/タイトル/録音日時・場所/演奏メンバー/演奏曲名/レーベル>をExcelを使って一覧表にしただけのものだが、これはたぶん日本初の試みだろう(今どき、そういうモノ好きな人がいるとも思えないので)。ジャズに興味のない人から見たら、いったい何をやっているのかと思うだろうが、これは、レコードや音源をたくさん所有していた昔のジャズマニアやレコードコレクターなら、たぶん一度は自分で作ってみたり、購入したりしたことがある類のレコード・リストである。私はそこまでのマニアでもコレクターでもないのでやったことはないが、昔なら大変な時間と労力を必要とする作業だっただろう。しかし今の時代は、インターネットとコンピュータを駆使すればあっという間に…とまでは言えないまでも、それほどの時間をかけずとも、そこそこのものを作成することが可能だ。ただし、それはネット上に公開された英語の原データとテキストを使い、そのほとんどを英語のままコピペ、再配列して作成したからで、これを日本語化(カタカナ表記)しようと思ったらさらにどれだけの労力が必要になるか想像したくもない。(これは趣味の世界なので別にどうということもないのだが、こうしたことからも、分野を問わず、ネット上に膨大な言語情報アーカイブを持つ英語圏の国々や人々が、どれだけ情報量も、情報処理速度上も、優位に立っているかよくわかる。つまり、誰でもいつでも参照可能な知的蓄積が他言語とは比較にならないほど膨大だということで、残念ながらこの点で日本語は圧倒的に不利なのだ。)やる以上は、ということで当初は完全ディスコグラフィーを訳書に掲載することを目指していたのだが、最終的には完成本のページ数制約のために、アルバム数を相当削り、また字数の多い演奏曲名部分を割愛せざるを得なかったので、イメージは原リストとは大分違うものになった。

トリスターノ派の音楽や人物に関しては、日本国内の公開情報はもちろんのこと、翻訳を開始した2013年頃にはネット上で公開されていた英語情報さえ非常に限られていた(今は格段に情報量が増えているが)。マイルスやコルトレーンなどの情報は、微に入り細にわたってそれこそ腐るほどあるのに、他にもたくさんいたジャズの天才や素晴らしいミュージシャンたちの音楽や人生の話は、日本ではほとんど表面的で断片的な紹介か、神話や伝説の次元に留まったままなのだ。今のように誰もがネットで情報を入手したり自分から発信できる時代と違い、昔は出版メディアが力を持っており、特に80年代バブル以降は、商業性を優先したメディアが限られた情報だけをあたかもジャズの全てであるかのよう伝えてきたこともあって、70年代までコアなジャズファンが楽しんできたマイナーなジャズやミュージシャンの情報は徐々に忘れ去られていった。パーカーとマイルスだけ聴いていればあとはどうでもいい、というような乱暴なことを言う人たちがいたせいもあるだろう。義憤というほどではないが、「リー・コニッツ」の翻訳を思い立ち、出版にこぎつけたモチベーションの一つは、本の内容の面白さもさることながら、そうした日本のジャズ文化に挑戦しようと思ったことだ。上述した自前のトリスターノ派ディスコグラフィーも、これまで日本では見たこともないものだが、もちろん日本のファンの中には数多くの彼らのレコードを所有し、場合によっては自分でディスコグラフィーを作成したりしている人もいることだろう。しかし訳書「リー・コニッツ」では、何としても、簡略版でもいいから、彼らの音楽の足跡をひと目で辿れるようなわかりやすいディスコグラフィーを併載し、それによって、一人でも多くの人に彼らの音楽にもっと興味を持ってもらいたかった(原著にこの資料はなく、また著者のハミルトン氏は哲学の人なので、コニッツの音楽思想への関心はあっても、そういういかにも日本的なアプローチに興味はないようだったが、提案は快諾してくれた)。信頼性にも問題がある断片ネット情報を読者が個別に見に行くのではなく、ミュージシャンの物語と、信頼できる音楽情報が一体となった「本」というパッケージで読めば、彼らの世界が一目瞭然で、読者としては単純に便利であり、しかもその方が楽しめるからだ。そこに実際の演奏記録(レコード)を聴く機会が加われば、さらに楽しみが深まると思う。

1970年代以降のジャズは、「ビッチェズ・ブリュー Bitches Brew(1970 CBS) に象徴されるマイルス・デイヴィスのコンセプトの支配的影響もあって、演奏家個人の技術や魅力よりも、一言で言えば全体としてコントロールされた集団即興に音楽の重心がシフトした。個性の出しにくいエレクトリック楽器の普及と、演奏後の録音編集という新技術がそこに加わったために、結果として、演奏現場で独自のサウンドで瞬間に感応する即興演奏で生きていた個々のジャズ演奏家の存在感が相対的に薄まって行くことになった。ロックやポップスの台頭、社会と聴衆の変化などが背景にあるのはもちろんだが、その後のジャズにカリスマ的ミュージシャンが現れにくくなったのも、個人から制御された集団へのシフトというジャズの基本的フォーマットの変化が主因の一つだろう。本来モダン・ジャズは、強力な個人が互いに個性と創造性をぶつけ合いながら作り上げた自由な音楽というところに最大の魅力があった。だからジャズ全盛期の真に創造的なミュージシャンの音楽からは、何物にも制約されない個人の強烈な創造エネルギーが今でも感じられるのだ。それはパーカーも、トリスターノも、コニッツも、モンクも同じである。そういう音楽家には人間としてもユニークな個性と魅力があり、彼らが送った人生にもまた不思議な引力がある。「出て来た音がすべてだ」という考え方も一方にあるが、私が個人的に興味を引かれるのは、単なるジャズ史的な位置づけや残された音源の音楽的評価ではなく、彼らの音楽と、それを生み出した人間との関係だ。ジャズ演奏家としての音楽哲学と思想を存命の本人が語った「リー・コニッツ」は、その意味で私にとっては実に刺激的な本だった。

翻訳中に自分で作ったディスコグラフィーを眺めながらレコードを聴いていると、彼らが送った時代や人生が何となく見えてくる。本に書かれた時代背景や人生だけでなく、彼らの音楽的個性や、音楽的に目指していたものが何だったのかということが、ド素人のジャズファンと言えどもおぼろげながら見えてくるのである。いつの時代も、優れた音楽家は一つの場所にじっとしているわけではない。常に進化しようとしているし、自らの目標に向かって努力し、変化してゆくものだ。また音楽的に一直線に上昇してゆくわけでもなく、調子の良い時も、悪い時期もあるし、場合によっては最初に録音したレコードを超えられずに一生を終える人もいる。出会った師や仲間に大きな影響を受け、音楽が次々と変遷する人もいる。生きている人間ならみな当然のことであり、私にはそこが面白いのだ。そうして作られたレコードから聞こえてくるのは抽象的な音に過ぎないのだが、そこに至るまでのジャズ音楽家の思想や、生き方や、苦悩を知ると、1枚のレコードがまったく違うものに聞こえてくる。今や手に負えないほど拡散しているジャズという音楽のフラグメントを追うのではなく、ミュージシャン個人や、時間軸というテーマで切り取る聴き方は、音源が昔とは比較にならないほど豊富で入手しやすい現代においては、ジャズを楽しむ良い方法の一つだと思う。それはまた日本人ならではの、レコードによる緻密で、繊細で、感覚的なジャズ鑑賞術をさらに掘り下げたジャズの楽しみ方にもなると思う。ジャズは何よりも自由な音楽なのであり、だからその聴き方もまた自由であるべきだ。様々なミュージシャンの名前やレコード名、楽理、ジャズ演奏技術の詳細を知らなくても、ジャズを楽しむ方法はいくらでもあるのだ。

基本的素材がほぼ出尽くしたと思われる20世紀に続く今は、現代の感覚でそれらをいかに変化させ、組み合わせ、あるいは新技術を駆使して、新しいフォーマットを創造するかがジャズに限らずあらゆるアーティストの宿命と言えるだろう。それが現代のアーティストにとって最大の命題であり、決して簡単なことではないだろうが、いずれそこから真に新しいアートが創造されることを期待もしている。だが一方で、今や過去の素材の一つにすぎないモダン・ジャズ黄金期の優れたミュージシャンの音源を聴くと、現代の音楽には望むべくもない、未来を信じ、ゼロから何かを生み出した行為にしか存在しないような強烈なエネルギーと創造性を感じることも事実だ。当時録音されたジャズ・レコードからは、我々を触発するそうした時代の空気と音楽家の精神が伝わってくる。私がレコードを聴くのは単なる<ド>ジャズ回顧ではなく、当時のレコードの音から今でもそれが聞こえてくるからだ。レコードという記録媒体に残されたモダン・ジャズは、20世紀半ばという時代と、アメリカという特殊な国を象徴する音楽だが、間違いなく現代世界の音楽の底流を作ったグローバルな音楽でもあり、今や時代を超えた価値を持つ古典だ。いまさら必要以上に持ち上げたり、貶めるようなことを言う対象でもなく、個々人が自由に聴いて、自由に想像し、自由に楽しむべき音楽遺産なのである。

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「リー・コニッツ ジャズ・インプロヴァイザーの軌跡」を翻訳しながら、備忘録のように書き留めてきたトリスターノやコニッツのレコードに関するメモを基に、彼らの主要レコードを次回から紹介したいと思います。これらの音源が、本書に書かれたトリスターノやコニッツの音楽と思想を理解する手助けとなること、それによって本書を読む楽しみが一層深まることを願っています1枚の有名レコードを聴いただけではわからない、ミュージシャン像や音楽が見えてくるようなものにしたいと思いますが、何度も言うようですが、基本的にド素人の感想文なので、できれば細部への突っ込みはご遠慮いただくようお願いします。私が知る限り、コニッツをはじめとするトリスターノ派の音楽思想や演奏技術の分析は、本書を高く評価していただいている名古屋の鈴木学氏(「鈴木サキソフォンスクール」主宰)が長年研究されてきたので、そうした分野に関心のある方は、鈴木先生のホームページにアクセスしていただければ、参考になる情報がきっと得られると思います。

2017/03/21

アメリカ人はジャズを聴かない

Bill Evans
Waltz for Debby
1961 Riverside
・・・と言うと身も蓋もないように聞こえるが、勤めていた合弁企業の親会社がアメリカ北部の田舎町にある企業だったので、これは私の非常に狭い体験から出てきた結論である。1980年代までは、親会社には黒人や南米系の従業員やマネジャーもいたのだが、90代以降になってからは、数百人はいた本社事務所はほぼ米国系、ヨーロッパ系(駐在)の白人ばかりになった。その間付き合ったアメリカ人でジャズを聴いていた人は知る限り1人だけで、あとはヨーロッパ系の人間が2人だけいた。一般にヨーロッパ系の人間の方が、ジャズ好きが多いように思う。そのうちの1人(ベルギー人)の家に行って、彼のステレオでジャズのCDを一緒に聴いたりした。田舎町で隣家を気にする必要がまったくないので、イギリス製ステレオ装置のボリュームをいくら上げても構わないというのが実に爽快だったことを覚えている。それと、ビル・エヴァンスのライヴ盤「Waltz for Debby」も聴いたのだが、自分の家で聴くのとまったく違う音楽に聞こえるという不思議な体験をした。「ヴィレッジ・ヴァンガード」で、グラス同士がカチカチとぶつかり合うあの音も妙にリアルだった。たぶん再生装置だけでなく、周囲の静寂(SN比)と、家の広いスペースがそう感じさせたのだろう。

彼らは何を聴いているのか、というと大抵はポピュラー音楽か、カントリー音楽だった。若い人たちは当然ロックを聴いていたのだろう。田舎町ということもあって、ジャズクラブなど無論ないし、ジャズのコンサートなどもほとんどなかったようだ(知る限り)。小さなライヴ・ハウスのようなものもあったが、そこでは主にカントリーが演奏されていたようだ。その町にカラオケが登場したのもずいぶん後になってからで、日本で一緒に出掛けた経験からすると、音感も含めて大抵の人の歌は下手くそだった。日本人の足元にも及ばない。だがこれをもって、アメリカ人は歌が下手だ・・・とは一概に言えないだろう。子供の頃からしょっちゅう歌っている日本人と違って、そういう場と訓練がないのだから仕方がない。ひょっとして生バンドが伴奏したら、アメリカ人の方が乗りもよく、上手いということだってあるだろう(ないか?)。日本のジャズファンが千人に1人だとすると、アメリカ(あくまでこの地方)では、5千人から1万人に1人くらいの感覚だろうか(まったく根拠はないが)。ニューヨークやシカゴのような都会に行けば、人種構成も多彩になるし音楽環境もあるので、もっと数は多いのだろうが、それでも人口比はあまり変わらないのかもしれない。若い人がジャズを聴かないのは日本と同じだろう。毎日、世界で起きていることが瞬時にわかるような、世の中全体が蛍光灯で隅々まで明るく照らし出されたような時代にあっては(これはアメリカナイズと同義だ)、「陰翳」(もはや死語か)というものを感じ取る感性がまず退化するだろうし、クラシックであれジャズであれ、それを魅力の一つにしてきた音楽への関心も薄れるのは当然か。

Lennie Tristano
Tristano
1955 Atlantic
アメリカにおけるモダン・ジャズの物語を読んだり、見たりしても、主役の黒人ミュージシャンたちを除くと、登場するのはほぼユダヤ系かイタリア系の白人だけだ。レニー・トリスターノのような天才やジョージ・ウォーリントンのようなイタリア系の有名ピアニストも何人かいるが、イタリア系はたとえばジャズクラブ「ファイブ・スポット」のオーナーだったテルミニ兄弟とか、やはりビジネス業界側が中心のようだ(「ゴッドファーザー」の世界)。一方ユダヤ系の白人はリー・コニッツやスタン・ゲッツのような有名ミュージシャン、ブルーノートのアルフレッド・ライオンのようなプロデューサー、レナード・フェザーのような批評家、その他ショー・ビジネスの関係者など各分野にいる。とりわけ映画も含めて、アメリカの芸術、音楽、ショー・ビジネス全般におけるユダヤ系の人たちの影響力は、我々の想像をはるかに超える範囲に及んでいる。一方のアメリカの中枢、いわゆるWASP系は、そういう世界では影が薄いようだ。ちなみに親会社があった北部の町は、調べた限り、現在その地域の住民の95%は白人であり、そのおよそ半分はドイツ系、イギリス系の祖先を持つ。しかしモンクのパトロンだったニカ男爵夫人が、イギリス生まれのユダヤ系(ロスチャイルド家)の人物であり、マネージャーだったハリー・コロンビーがドイツ系のユダヤ人移民だったことを考えると、こうした統計の意味も単純ではない。今更だが、「日本人は・・・」と言うように、一言で「アメリカ人は・・・」とは言えない複雑な背景がアメリカという国にはある。ジャズはそういう国で生まれ育った音楽なのである。にしても、大統領がトランプとは・・・。

2017/02/25

モンク考 (3) 人間モンクの魅力と才

本書を読んで知ったもう一つの事実は、天才音楽家モンクの創造人生を現実面で支えていたのはほとんど周囲の人々、中でも女性たちであったということだ。とは言っても芸術家によくある話とか、他のジャズ・ミュージシャンたちの伝記に描かれているような乱れた女性関係の話ではない。モンクの‟ピュア“さを裏付けるように、母親バーバラ、妻ネリー、真のパトロンだったニカ男爵夫人の3人をはじめ、親族である義理の姉や妹、姪たち、さらにモンクにストライド・ピアノの基本を教えたアルバータ・シモンズ、モンクの友人でありメンターのような存在だったメアリ・ルー・ウィリアムズという二人のピアニスト、さらにモンクの売り出しに奔走したブルーノートのロレイン・ライオンもそうだ。母親とネリー夫人は別格としても、他の女性たち全員が、天才だが普通に考えれば変人で、厄介な人物モンクとその音楽を愛し、彼を無償の愛で支えている‟女神”のようだ。モンクには男女を問わず誰もが魅了される何かが当然あったのだろうが、とりわけ女神(Muse)たちから全人的に愛された人物だったのだと思う。‟普通の“ ジャズに見られる激しいジャズ的エモーション、無頼感、モダンなクールさなどとは異なり、複雑でモダンなのに純粋、無垢、素朴、ユーモアが、温かさと美しさと常に同居しているモンクの音楽が放つ不思議な魅力は、おそらくこのことと大いに関係があるのだろう。

Thelonious Monk Quartet
with John Coltrane
at Carnegie Hall
1957 Blue Note
この本には多くのジャズ・ミュージシャンやサイドマンたち、プロデューサー、クラブオーナーたちとモンクとの逸話が登場するが、彼らがどうモンクと音楽的、人間的に関わり、どうモンクの音楽を理解、吸収したのか、あるいは逆に反発したのか、ということが史実として興味深く描かれている。私が感じた本書の魅力の一つは、ハービー・ニコルズ、エルモ・ホープ、アート・ブレイキー、ソニー・ロリンズなどの登場人物との関係に見られるように、これまではレコードだけを通じて、自分の中でいわば点としてバラバラに存在していた当時のジャズ・ミュージシャンたちが、20世紀半ばのニューヨークを舞台にしたモンクの物語の中で、一つのコミュニティとしてリアルに繋がってゆくことだった。そして、そこで描かれるモンクの人間味もまた魅力的である。

とりわけ、モンクのヒーローだったデューク・エリントン、恩人コールマン・ホーキンズ、愛弟子のバド・パウエルたちとの交流は感動的だ。1950年代後半のジョン・コルトレーンとの交流も描かれており、二人の当時の素晴らしい共演記録も一部残されているが、録音数が限られているのは実に残念なことだ。幸い2005年に奇跡的に発見されたカーネギーホールでの実況録音(1957年)が、当時の二人の最良の演奏を記録している。高次の音楽的交感という意味から言えば、おそらくロリンズと並んでコルトレーンこそがモンクにとって最高のパートナーだっただろう。そしてモンクの薫陶が、その後のコルトレーンに与えた音楽的影響の大きさもジャズ史では周知のことである。マイルス・デイヴィスが自叙伝でも述べているモンクとの歴史的(?)口論は何度か出てくる。人柄はまったく正反対だが(もちろんモンクは優しい人間だ)、結局二人ともお山の大将同士だったのだろう。それに、片や裕福に育ち、田舎から出て来て一旗上げようという野心を持ったマイルスと、貧乏だが基本的にはニューヨークという都会育ちのモンク、という二人の経歴の違いも少なからず影響しているだろう。モンクの方が9歳年長だったが、どちらも生まれついてのリーダー的性格で、人物、音楽上の能力から見ても両雄相並び立たずということである。しかし音楽的コンセプトは違っていたかも知れないが、二人は間違いなく互いに敬意も抱いていただろう。特に天才肌のモンクの音楽性と創造力にはマイルスはかなわないと思っていただろうし、モンクはマイルスの知性と構想力、統率力には一目置いていただろう。コルトレーンとの共演と並び、1954年のクリスマス・イブ、プレスティッジの2枚のLPに残された二人の巨人の伝説の共演記録は人類の宝である。

Miles Davis and
the Modern Jazz Giants
1954 Prestige 
スティーヴ・レイシーとのやり取りをはじめとして、教師、指導者としてのモンクの有名な発言(名言)のいくつかも本書に出てくる。いずれもサイドマンや第三者にモンク流の音楽思想を伝えるものだが、どれもジャズの真理を突いた含蓄に富む言葉ばかりである。だがその指導法は、同じ時代にジャズ演奏教育のための学校を初めて作り、体系的、組織的に教えようとした白人のレニー・トリスターノの近代的手法とは対極にある超個人的手法だ。しかも譜面を見せずに、聞かせる音だけで自作曲のメロディを覚えさせるという徒弟制度並みの方法である。この場合、モンクが「ほとんど喋らない」というのもポイントだろう。教わる側はそれで否が応でも集中せざるを得ないからだ。それによって頭で理解するのではなく、フィーリングで体得することができる(するしかない)。リハーサルなしで、出たとこ勝負の即興演奏ができたのもそうした訓練があればこそだ。だがそもそもは、やはりこれがジャズ伝承の原点なのだと思う。

モンクの天才の一つが作曲の才だが、本書を読んでいてあらためて感じたのは、モンク作品のタイトルの素晴らしさだ。月並みなティン・パン・アレーや、無味乾燥のビバップの曲名とは違い、「ラウンド・ミドナイト」や「ルビー・マイ・ディア」のような有名曲はもちろんのこと、「エピストロフィー」、「ウェル・ユー・ニードント」、「ミステリオーソ」、「ストレート・ノー・チェイサー」、「ブリリアント・コーナーズ」、「アグリー・ビューティ」等々、どの曲名もジャズ・センスに溢れ、背後に意味と情景が感じられ、しかもメロディが即座に浮かんで来るほど曲のイメージと一体化している。モンクは音感とともに、実はこうした言語能力にも並々ならぬものを持っていたがゆえに、あの短いけれど本質を言い表した数々の名言を残してきたのだろう。