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2017/10/27

モンクを聴く #12:Club Live (1960 - 64)

ジャズは基本的にジャズクラブで聴くのがいちばん楽しいと思うが、少なくとも1950年代末から60年代初め頃に、モンクのライヴ演奏をジャズクラブ聴くことほどエキサイティングで、かつ面白い見ものはなかったことだろう。何が飛び出すかわからないという予測不能なモンクの音楽が、閉じられたクラブという空間でさらに聴き手の期待を高め、気分を盛り上げ、おまけにモンクの踊りまで見られたのだから。しかしニューヨークのキャバレーカード問題がずっと付きまとったこともあって、モンクにはニューヨーク市内での公式のクラブ・ライヴ録音は少なく、代わって西海岸のツアー時に好録音をいくつか残している。

At The Blackhawk
(1960 Riverside)
第21章 p430
ジョン・コルトレーンとのライヴ録音を別とすれば、モンクのクラブ・ライヴで一般的に最も有名なレコードは、1958年のジョニー・グリフィンとの「ファイブ・スポット」における『セロニアス・イン・アクション』と『ミステリオーソ』だが、もう1枚は、チャーリー・ラウズが参加した後、リバーサイド最後のレコードとなったサンフランシスコのクラブ「ブラックホーク」での19604月29日のライヴ録音だ。本書によれば、当時ベースのサム・ジョーンズとドラムスのアート・テイラーが国内の長期ツアー後同時に辞めたため、やむなくモンクは代わりのリズムセクションを探していたが、その後ベースはロン・カーター、次にジョン・オアを雇ったものの、SFのクラブ・ギグにはドラマーがいなかった。そこで、モンクが以前から気に入っていて、当時オーネット・コールマンのドラマーだったビリー・ヒギンズが、キャバレーカードを失って西海岸に戻るのを知ったモンクが、ヒギンズをそのギグに急遽採用した。予定していたリバーサイドとコンテンポラリーによるモンクとシェリー・マン(ds) とのSFでの共作企画が不調に終わったために、オリン・キープニューズが計画を変更し、チャーリー・ラウズに加えて現地のホーン奏者ジョー・ゴードン(tp) とハロルド・ランド(ts) を加えた3管のセクステットで、「ブラックホーク」でライヴ録音したのが『Thelonious Monk Quartet plus 2 At The Blackhawk』である。
当日のライヴ録音演目は以下の通り。
Let's Call This/ Four In One/ I'm Getting Sentimental Over You/ San Francisco Holiday (as Worry Later)/ 'Round Midnight/ Epistrophy (closing theme)/ Epistrophy (complete version)/ Evidence

そういう背景もあって、このセッションはモンクの音楽をよく知らないメンバーとの、いわば他流試合に近いので、当然ながら地元NYのクラブでレギュラーバンドと共演するときのようにモンクが自由奔放になることはなく、全体をまとめようとコントロールする姿勢が強い。しかしモンクの音楽に当時すっかり馴染んだラウズ、そこにモンクと最初にして最後の共演となったヒギンズのドラミング、西海岸のホーン・プレイヤーたちの初参加、という新鮮な組み合わせが、結果としてこのライヴ録音を他のモンクのレコードとは一味違うものにしていて、これはこれで楽しめる。ゴードンとランドもモンクと初顔合わせにしては健闘している。観客の声や拍手も聞こえて、クラブ・ライヴ感のある録音も良い(うるさいくらいなので、好みによるが)

Live at The It Club, Complete
(1964 Rec/1998 Columbia)
第26章 p543
モンクはその後コロムビア時代に『Misterioso - Recorded on Tour』(1965) という、あちこちのクラブやコンサートでテオ・マセロが録音し、その中から選んだライヴ演奏をランダムに収録するという手法で制作したLPアルバムを残している。単独のクラブ・ライヴとして、1998年に完全版として全曲収録してリリースされたCD『ライヴ・アット・ジ・イット・クラブ Live At The It Club』は、ロサンゼルスのクラブ「The It Club」で1964年10月31日、11月1日の2日間にわたって録音されたライヴ・アルバムで、全19曲が2枚のCDに収められている。好評だった前年の日本訪問時とは異なり、この頃にはカルテットのドラムスはフランキー・ダンロップからベン・ライリーBen Riley に、ベースはブッチ・ウォーレンからラリー・ゲイルズ Larry Galesという新メンバーに代わっている。フランキー・ダンロップ時代の軽快でメリハリのあるリズム・セクションとは異なるが、非常に安定感のあるリズムを刻むこの二人が、その後しばらくは60年代モンク・カルテットのリズムセクションとなった。
ライヴ録音演目は以下の通り。
<CD 1> Blue Monk/ Well, You Needn't/ Round Midnight/ Rhythm-a-Ning/ Blues Five Spot/ Bemsha Swing/ Evidence/ Nutty/ Epistrophy (Theme)
<CD 2> Straight, No Chaser/ Teo/ I'm Getting Sentimental Over You/ Misterioso/ Gallop’s Gallop/ Ba-lue Bolivar Ba-lues-are/ Bright Mississippi/ Just You, Just Me/ All The Things You Are/ Epistrophy (Theme)

本書によれば、1964年当時はモンクの精神、体調が徐々に悪化し始めた頃で、実はこの時の1ヶ月近い西海岸訪問中もモンクはかなりひどい精神状態だったようで、サンフランシスコのコンサート・ホールやロサンゼルスのホテル内でもひと騒動起こし、この「イット・クラブ」出演時もずっと奇妙な行動をしていたという。ところが、不思議なことにそうした状態だったにもかかわらず、このライヴ・レコードの演奏内容はなかなか素晴らしいのだ。演奏曲目も、すべてお馴染みのモンクの有名曲や好みのスタンダード曲が並び(<All The Things You Are>は珍しい)、コロムビアなので録音も非常にクリアで、各楽器の音も観客の声や拍手なども明瞭に聞こえ、臨場感溢れるクラブ・ライヴの雰囲気が楽しめる。Complete盤なので、1曲の演奏時間はやや長めでベースやドラムソロも頻繁に入るが、録音が良いので聞いていて快適だ。おそらく1960年代のレギュラー・カルテットによるライヴ録音としては、最もリラックスしているモンク・バンドの演奏がゆったりと楽しめるアルバムだろう。

この西海岸訪問中に、モンクは『Solo Monk』(1964 Columbia) の大部分を現地で録音している。翌週向かったサンフランシスコのクラブ「The Jazz Workshop」でも同じメンバーで出演しライヴ録音もされているが、本書でも指摘されているように、バンドが全体的に足取りの重いこちらの演奏は『It Club』とはまったく出来が違うので、おそらくモンクのコンディションがまた不調になったのではないだろうか。

2017/10/19

モンクを聴く #8:with Charlie Rouse (1959 - 70)

ジョニー・グリフィンに代わって短期間だけ参加したニー・ロリンズが去った後、ウェイン・ショーターを含む多くの後任テナー希望者があった中、モンクが選んだのはチャーリー・ラウズ(1924-1988)だった。ラウズは1958年末にモンクのバンドに加わり、その後1970年に辞めるまで約11年間在籍した。ラウズも当初は前任のテナー奏者たちと同じく、モンクの音楽を理解、吸収するのに苦労していた。しかし、ラウズがロリンズ、コルトレーン、グリフィンと違ったのは、共演することでモンクと対峙し、テナー奏者として成長しただけでなく、その長い在籍期間を通じて完全にモンク・バンドにとって欠かせない一部となって行ったことだ。モンクはラウズの存在ゆえに、長いキャリアを通じて初めて、自分のサウンドを自由に追求できる安定したワーキング・バンドを持つことができた。その間メインのドラマーはフランキー・ダンロップからベン・ライリーに、ベーシストはジョン・オアからブッチ・ウォーレン、ラリー・ゲイルズ等に代わったが、ラウズはテナー奏者として一貫してモンク・カルテットの要として活動を続けた。モンクの音楽を理解し、モンクの意図を汲み取り、モンクを助け、バンドを献身的に支える役目も果たした。1960年代を通じて築かれたモンクーラウズの独特の共生関係は、他に例を見ないような一体感をバンドにもたらしたが、一方で、代わり映えのしないカルテットのフォーマットとサウンドに、やがて音楽的には時に批判の対象ともなった。前任者たちのような “華” はないが、そうした批判にも耐え、リーダーのモンクが常に快適でいられるように場をまとめ、同時にモンクが目指すサウンドを一緒に作り上げたラウズのミュージシャン、サイドマンとしての能力と人格は、決して過小評価すべきではないだろう。

5 by Monk by 5
(1959 Riverside)
第20章 p402
ラウズのモンクとの初録音は、19592月の「タウンホール」コンサートでのテンテット(10重奏団)だった。そしてリバーサイドにおける最初のコンボ録音となったのが、19596月初めの『ファイブ・バイ・モンク・バイ・ファイブ 5 by Monk by 5』である。サム・ジョーンズ(b)、アート・テイラー(ds)という当時のレギュラー・カルテットに、カウント・ベイシー楽団の花形トランペッターだったサド・ジョーンズがコルネットで客演したクインテットによるアルバムだ。新作<プレイド・トゥワイス>、<ジャッキーイング>に加え、<ストレート・ノー・チェイサー>、<アイ・ミーン・ユー>、<アスク・ミー・ナウ>などすべてモンクの自作曲だ。まだ加わって半年ほどだったが、前任者たちと比較され、当初厳しい批判を受けていたラウズのソロは、ここでは一皮むけたように流麗だ。モンクにとってリバーサイド最後のスタジオ録音となったこのアルバムはどの曲も名演だが、何よりも演奏全体に自由と躍動感が満ちているところがいい。サド・ジョーンズの参加によるバンドへの刺激とクインテットという編成の違いはもちろんだが、それを生み出している大きな要因が、モンクのあの独特のリズムに乗ったアブストラクトなコードによるコンピングで、とりわけ空に向かって飛んで行きたくなるような<ジャッキーイング Jackie-ing>の開放感は最高だ。アート・テイラーのイントロのドラムス、ラウズとサド・ジョーンズのソロも素晴らしい。シカゴの作家フランク・ロンドン・ブラウンが、この曲に触発されて書いたという小説「ザ・ミス・メイカー The Myth-Maker」のくだりを本書で読んで、私は自分とまったく同じ感覚を抱いた人が半世紀前にいたのだ、と驚くと同時に非常に嬉しくなった。これぞ「モンク的自由」を象徴するようなサウンドだと思う。この曲はモンクも気に入って、その後しばらくコンサートのオープニングに使うなど、何度も演奏された。自分の姪の名前 「Jackie」に「-ing」を付けるモンクの言語センスも素晴らしい。

Monk's Dream
(1962 Columbia)

第24章 p488
Criss-Cross
(1963 Columbia)

第24章 p496
この時期(19571962年頃)のモンクは、何をやっても生涯で最も冴えわたっていたと思う。この期間は、一時期を除きモンク的には稀な、精神的にも肉体的にも非常に安定した状態が比較的長期にわたって続いていたからだ。好評だったラウズ(ts)、ジョン・オア(b)、フランキー・ダンロップ(ds) というカルテットによる1961年の2ヶ月近いヨーロッパ・ツアー等を通じて、固定バンドとしてこれまでにない一体感を高めたモンクのバンドは、翌19629月のリバーサイドからコロムビアへのモンクの移籍に伴い、10月末からデビューLP『モンクス・ドリーム Monk’s Dream』の録音を30丁目スタジオで開始した。リバーサイド時代との重複を避けるために、曲は慎重に選ばれ、<ロコモーティヴ>、<バイ・ヤ>、<ボディ・アンド・ソウル>、<モンクス・ドリーム>など従来録音機会の少なかった曲や、<スウィート・ジョージア・ブラウン>を基にした新曲で、これも躍動感に満ちた<ブライト・ミシシッピ>を加えた。バンドの好調さを示すかのように、このアルバムはどの曲でも安定感のある演奏を聞かせ、各プレイヤーも自分の役割を完全に理解、消化した上で演奏している様子がよくわかる。50年代末のような予測不能性やわくわくするような刺激は薄れたかもしれないが、モンクは初めて自分の思い通りのサウンドを自由に出せるバンドを手に入れたと言える。また大手コロムビアとの契約と、このデビュー・レコードは世の中の注目を集め、モンクは初めてスター・ミュージシャンの仲間入りを果たし、かつてない名声を得るのである。モンクもラウズも、ダンロップもオアも、おそらくこのアルバムと、続く『クリス・クロス Criss-Cross』(1963)の2枚が、60年代にコロムビアに残したスタジオ録音としては最上のレコードと言えるだろう。

Straight, No Chaser
(1966 Columbia)
第26章 p567
Underground
(1967 Columbia)
第27章 p579
1960年代後半になると、肉体や精神の不調もあって、モンクの作曲への意欲や創作エネルギーは徐々に衰えつつあったが、1966-67年にバド・パウエル、エルモ・ホープ、そしてジョン・コルトレーンという盟友3人を相次いで失うという悲運が、音楽家モンクの精神の安定と創造意欲にとどめのような一撃を与える。またコロムビアの商業主義とは相容れない芸術家モンクの葛藤や不満も、徐々に高まっていたことだろう。ロックやフォーク、ポップスに押され、音楽としてのジャズそのものの衰退も明らかだった。したがってこの時期のレコードには、60年代前半までのモンクにあったような活力はあまり感じられないが、代わって成熟した安定感のあるバンドといった趣が強い。『ストレート・ノー・チェイサー Straight, No Chaser』(1966) と、『アンダーグラウンド Underground』(1967) という2枚のアルバムは、ラウズに加え、ドラムスのベン・ライリーとベースのラリー・ゲイルズというシュアな2代目リズムセクションとなって、タイム、リズムともにモンク・カルテットが最もバランスの取れた演奏をしていた時期でも最良の演奏を記録したものだろう。また新曲として、前者には日本公演時に覚えた<ジャパニーズ・フォークソング(荒城の月)>を、後者には<アグリー・ビューティ>、<レイズ・フォア>、<ボーボーズ・バースデイ>、<グリーン・チムニーズ>という新作4曲も久々に加えている。

しかしモンクの精神的不安定さと、体調が理由でギグをキャンセルしたりすることが徐々に増えていったこともあって、1969年には5年間在籍したベン・ライリーが去り、チャーリー・ラウズも翌1970年についにモンクの元を離れた。50年代のロリンズ、コルトレーンと同じく、ラウズもまた、モンクとその音楽の目指す方向性に忠実に、しかも長期にわたって従ったミュージシャンだった。映画『ストレート・ノー・チェイサー』で、モンクとの録音セッションやインタビューを受けるラウズの姿が見られるが、画面や言葉からもその人柄や誠実さがよく表れている。ラウズはこの映画の公開(1989年)を待たずに、19881130日にモンクと同じ享年64歳でシアトルで亡くなる。そして奇しくも同じ日に、あのニカ男爵夫人もニューヨークで亡くなっている。