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2020/12/13

スティーヴ・レイシーを聴く #2

スティーヴ・レイシーが1965年に米国を去る前に残した(正式にリリースされた)リーダー作は4枚で、その昔、私が聞いていたレイシーのレコードも、実を言えば、それらのアルバムだけだ。離米直前の本書#4のインタビュー(さよならニューヨーク)で「過去のレコードはもう聴きたくないし、これからも聴かないだろう」と語っているように、60年代に入ると、自分が今現在追及している音楽は見向きもされず、録音はおろか演奏の場さえなかった当時のレイシーは過去を振り返るような気分でもなく、またそんな余裕もなかったのだろう。50年代後半から60年代初めにかけての、当時レイシーが研究していたモンク作品を中心にしたこれら4枚のアルバムは、まだレイシー自身の音楽を確立していない習作というべきものだ。とはいえ、それだけに、ハードバップからモード、フリーへと急速に変化しつつあった当時のジャズを背景に、今は上掲の2枚のCDに収まっている、まだ発展途上にあった若きレイシーの瑞々しいソプラノサックスのサウンドの変化を聴くのは楽しい。またレイシー自身も後年のインタビューでは、こうした若い時代の演奏を肯定的に振り返るようになっている(たいていのジャズ・ミュージシャンは、年を経ることで自分の過去の演奏への見方を変えるようだ)。

1957年のギル・エヴァンス盤の録音(9, 10月)の翌11月にレコーディングされたのが、23歳のレイシーにとって初めてのリーダー作『ソプラノサックス Soprano Sax』(Prestige 1958) である。このメンバーはデニス・チャールズとビュエル・ネイドリンガーというセシル・テイラーのグループのメンバーに、ピアニストとしてウィントン・ケリーWynton Kelly (1931-71) が加わったカルテット編成で、モンク作の1曲(Work)を除き、エリントン(Day Dream他)、コール・ポーター(Easy to Love) の作品など、スタンダード曲を中心に演奏したアルバムだ。曲目に加え、初リーダー作の録音で緊張していたこともあって、セシル・テイラーやギル・エヴァンスとの前記2作品に比べてやや無難な演奏に終始している印象がある。レイシーのソプラノサウンドは相変わらず滑らかでメロウだが、とにかく全員が冒険していない普通のハードバップ時代の演奏のように聞こえる。サウンド的に、やはりウィントン・ケリーのピアノの影響が大きいのだろう。中ではモンク作<Work>のサウンドだけが異彩を放っていて、やはりいちばんレイシーらしさが感じられる演奏だ。とはいえ、1曲目の<Day Dream>のレトロなイントロとメロディが滑らかに流れてくると、どこか懐かしい音にホッとしてなごむ。ご本人は満足していなくとも、私的には十分楽しめるアルバムだ。

初リーダー作の1年後、1958年10月に録音されたのが『リフレクションズ Reflections』(New Jazz 1959) である。当時モンク作品を演奏していた人間はほとんどいなかったそうで、アルバム・レベルでモンクの曲を複数取り上げた最初のミュージシャンは、実はフランスのバルネ・ウィランだった(『Tilt』1957)。レイシーのこのアルバムは全曲がセロニアス・モンク作品という世界初の試みであり、しかも<Four in One>、<Bye-Ya>、<Skippy>といった、モンクの中でも難しそうな曲ばかり取り上げているところにも、レイシーの意気込みが伺える。ここでは、ピアノに気心の知れたマル・ウォルドロン、ドラムスにまだコルトレーン・バンドで売り出し前のエルヴィン・ジョーンズというメンバーに声を掛けている。レイシーと音楽的相性の良さが感じられるこの二人が、本アルバムの出来に大きく寄与していることは間違いない(マル・ウォルドロンとレイシーは、ヨーロッパ移住後も親しく交流していた)。ところで本書のレイシーの話では、実はベースはネイドリンガーではなく、当時モンク・バンドのレギュラー・ベーシストだったウィルバー・ウェアの予定だったが、ウェアがリハーサルに現れなかったので(例によって飲み過ぎか?)、ピンチヒッターとして急遽ネイドリンガーを呼んだのだという(もしウェアが参加していたら、もっと良い作品になった可能性があるとレイシーは言っている……)。しかしモンク作品に集中し、その後のレイシーの音楽上の道筋を明確にしたという点からも、いずれにしろこのアルバムは50年代レイシーの記念碑と言うべき作品だろう。リズミカルな難曲に加え、<Reflections>と<Ask Me Now>というモンクの代表的バラードを2曲選んだところもいい。モンク自身でさえ、当時はあまり演奏しなくなったような曲まで選んだこのレコードをレイシーから献呈されて、モンクは喜び、演奏も褒めてくれたらしい。ついでに40年代末のブルーノート盤以来10年間演奏していなかった<Ask Me Now>を、その後は自分でもレパートリーとして取り上げるようになったのだという。

 1960年5月にジミー・ジュフリー Jimmy Giuffre (1921-2008) とカルテットを組んで、短期間「ファイブ・スポット」に出演したレイシーだったが、ジュフリーのコンセプトと折り合わず、そのグループは長続きしなかった。しかし、オーネット・コールマンの前座だった、わずか2週間のその出演時にレイシーを聴きに来たのがニカ夫人にけしかけられたモンクであり、もう一人がジョン・コルトレーンだった。その演奏を聴いたモンクは、(ジュフリーGの演奏は気に入らなかったようだが)その後自分のカルテット(チャーリー・ラウズ-ts、ジョン・オア-b、ロイ・ヘインズ-ds)にレイシーを加えて ”クインテット” を編成し、テルミニ兄弟が「ファイブ・スポット」に加えて出店したクラブ「ジャズ・ギャラリー」に、4ヶ月にわたって出演した。そして「ファイブ・スポット」でレイシーのソプラノサックスのサウンドを聴いたコルトレーンは、その後自分でもソプラノを吹き始めた。その年の11月に録音されたレイシー3作目のリーダー・アルバムが、『ザ・ストレート・ホーン・オブ・スティーヴ・レイシーThe Straight Horn of Steve Lacy』(Candid 1961) である。メンバーを一新して、チャールズ・デイヴィスのバリトンサックスとレイシーのソプラノの2管、ベースにはジョン・オア、ドラムスにはロイ・ヘインズという当時のモンク・バンドのリズムセクションという異色の編成で ”ピアノレス” カルテットに挑戦したレコードだ。これは2管のモンク・クインテットとして、「ジャズ・ギャラリー」で夏の4ヶ月間演奏した直後のタイミングなので、モンク直伝のサックス2管によるユニゾン・プレイなど、当然そのときのモンク・バンドの編成とメンバーから生まれたアイデアに基づくアルバムと考えていいのだろう。選曲は、相変わらずモンクの難曲3曲<Introspection>、<Played Twice>、<Criss Cross>を選び、セシル・テイラーの2曲<Louise>、<Air>と、1曲だけマイルスの<Donna Lee>(パーカー作という説もある)を取り上げているが、モンクのグループとの共演直後ということもあって、レイシーの創作意欲と挑戦的姿勢がとりわけ感じられる作品だ。オーネット・コールマンの登場後でもあり、レイシーが60年代フリー・ジャズへと向かう兆しがはっきりと聞き取れるのがこのアルバムでの演奏だ。

米国でのレイシー最後のリーダー作となったのが、モンクの曲をタイトルにした1961年11月録音の『エヴィデンス Evidence』(Prestige 1962)だ。オーネット・コールマンのグループにいて、レイシーと個人的に親しかったトランペットのドン・チェリー Don Cherry(1936-95)、同じくオーネットのグループにいたビリー・ヒギンズ Billy Higgins (1936-2001) をドラムスに、モンク作品を4曲(<Evidence>, <Let’s Cool One>, <San Francisco Holiday>, <Who Knows>)、エリントンを2曲(<The Mystery Song>、<Something to Live for>) 選曲している。同世代のドン・チェリーは、レイシーが兄弟のようだったというほど一緒に自宅で練習した仲で、フリー・ジャズへ向かうレイシーに音楽的ショックと強い影響を与えたプレイヤーであり、レイシー同様チェリーも60年代からヨーロッパで活動し、70年代に移住した。当然ながら、このアルバムで聴けるのは、モンクの影響圏から脱出し、いよいよフリー・ジャズへ向かって飛び立とうと助走に入ったレイシーの音楽である。レイシー自身、米国時代のアルバムの中では、ギル・エヴァンスとの共演盤と並んで本作をもっとも評価している。

ところで、他のメンバーに比してこのアルバムのベーシストが、「カール・ブラウン Carl Brown」というまったく聞いたことのない奏者なので、今回あらためて背景を調べてみた。アメリカのネット上のジャズ・フォーラムで、同じ質問をしている人がいて、何人かがコメントしている。これは当時オーネットと共演していたチャーリー・ヘイデン Charlie Haden (1937-2014)  が、何らかの理由で偽名で録音したのではないか、という意見もあって(ナット・ヘントフのライナーノーツに、ビリー・ヒギンズがレイシーに紹介したと書かれていることもあり)、関係者がいろいろ過去の話をしているのだが、結論はやはりヘイデンとは別人の実在したベーシストだったらしい。いくつか証拠(evidence) もあって、Atlantic向けにレイシーがヒギンズとトリオで録音した、以下の未発表音源3曲のメンバーにもカール・ブラウンの名前が記載されていることも、証拠の一つとしてあげられている。このときはAtlanticにドン・チェリーも録音していたそうだが、いずれもオクラ入りとなってリリースされなかったのだという。いずれにしろ、60年代に入ってからのレイシーの意欲的な2作は、当時は音楽的に過激すぎてまったく注目されずに終わったのだという。

[NYC, October 31, 1961 ; 5749/5752 Brilliant Corners Atlantic unissued;  Steve Lacy (ss), Carl Brown (b), Billy Higgins (ds) ; <Ruby, My Dear>, <Trinkle, Tinkle>, <Off Minor>]

2019/11/16

秋の夜長は "男性" ジャズヴォーカルで(2)

シナトラ系と対照的な、“囁き系” 歌唱の白人ジャズヴォーカリストとしては、チェット・ベイカーの他にマット・デニス Matt Dennis(1914 - 2002) という人がいる(かなりシブいが)。デニスは語りかけるような軽妙洒脱なピアノの弾き語りで、独特の味のある歌唱を聞かせたが、実は数々の名曲を書いた作曲家でもあった。<Violet for Your Furs>、<Angel EyesEverything Happens to Me>、<Will You Still Be Mine?>などの有名ジャズ・スタンダード曲がデニスの代表的作品で、数えきれないほどのジャズ・ミュージシャンがこれらの曲を取り上げている。これらの名曲を自身でカバーした『Matt Dennis Plays and Sings』(1954年?)は、ハリウッドのクラブ「Tally-Ho」でのライヴ録音で、ベース、ドラムスも入ったトリオによる演奏だ。ジャズはやはり、レコードもライヴ録音がいちばんいい。一聴、鼻歌みたいで声量には欠けるが、気負いも何もなく、何気なく語りかけるようなデニスの自然体のシャンソン風歌唱は、シナトラ系とは正反対だが、上手下手を超えて、ジャズという音楽の持つ最高の美点の一つであるリラクゼーションを絵に描いたような演奏と歌である。この洒脱さはニューヨークではなく、やはり西海岸ならではのものだろう。2曲だけ女性とのデュオのトラックがあるが、相手は奥さんである。

ところで、マット・デニスのこのリラックスしたピアノの弾き語りを聴いていると、いつも思い出すことがある。それは米国親会社への初出張時に同行したジャズ好きの先輩が連れて行ってくれた、シカゴの某ホテル地下にあったジャズクラブ(名前は忘れた)で聞いたジョージ・シアリング George Shearing (1919-2011) のソロ・ピアノだ。1981年のことで、シアリングのピアノを生で、しかも目の前で聞けるという、まさしく ”アメリカン” なジャズクラブの夜だった(シアリングはイギリス人だが)。初出張、初ライヴで舞い上がっていたこともあって、今と同じで演奏内容はよく覚えていないが、シアリングがピアノを弾く姿だけはよく記憶している。ちなみに、その前日はサンフランシスコで「キーストン・コーナー Keystone Korner」に寄って、当時人気絶頂だったリッチー・コール Richie Cole (1948-) のアルトサックスを聴いていた。ビル・エヴァンスはその前年1980年に亡くなっていたが、最後のアルバムとなった『Consecration』 を録音していたのもその「キーストン・コーナー」だ。質素なライヴハウスという感じで、料金も安く、まったく派手さがないジャズクラブという印象だったが、これがアメリカで初めて聞いたジャズ・ライヴで、忘れられない思い出だ。あの当時は今のようにシカゴやニューヨーク行きの直行便がまだ飛んでおらず(たぶん)、米国東部への出張は必ずハワイや西海岸で乗り継いでいたので、みんなそこでよく休憩して楽しんでいたのである。便利にはなったが、何もかもこ忙しくなって、時間に余裕のない現代の会社員に比べたら、何とものんびりした良い時代だった。(思えば、一時引退していたマイルス・デイヴィスが復帰して、来日したのもその1981年で、モンクが亡くなったのは翌年の1982年だった。)

シカゴで泊まったホテルの玄関前で、その先輩が財布を取り出して何かを調べていると、ホテルのドアボーイが寄って来て、「このホテルを買うつもりか?」とかジョークを言っていたのもよく覚えている。当時の日本はバブル期に入ろうかという直前で景気が良く、逆にアメリカ経済は80年代になると落ち込み、自慢だったクルマでも日本に追い抜かれたように感じて元気がなかった。実際に1989年には、アメリカのシンボルと言われていたニューヨークのロックフェラセンターまで日本企業が買収した。しかしアメリカは90年代からのIT革命で産業構造を変革し、徐々に息を吹き返す。2000年代に入った直後は9.11とイラク戦争、リーマンショックなどがあったものの、30年の間にGAFAに代表されるように完全に世界経済の覇権を取り戻した。一方の日本は80年代バブルで浮かれまくり、90年代のバブル崩壊でIT革命にも完全に乗り遅れ、その後我々が知る現在の日本への道を歩んできた。80年代バブルと、続くアメリカ主導のIT革命は、本当に日本のすべてを変えてしまったと思う。それまでは世の中全体がまだ物質的には今よりずっと貧乏だったと思うが、どこかもっと心に余裕があって、希望もあり、人間も社会もすべてがもっとゆったりとして寛容だった気がする。音楽の世界も一つの産業であるがゆえに、こうした時代ごとの経済活動に大きく影響を受けて変化し続けるもので、当然ながら各年代のジャズも日米それぞれの時代ごとの空気を反映していると思う。楽器ではなく、”人間の声” によるヴォーカル曲というのは、なぜか、こうした過去の記憶を次々に呼び起こすもののようだ。

もう1枚は60年代からで、ジャズファンなら誰でも知っているレコード、ジョニー・ハートマン Johnny Hartman (1923 - 83) がジョン・コルトレーン・カルテット (McCoy Tyner-p, Jimmy Garrison-b, Elvin Jones-ds) と共演した『John Coltrane & Johnny Hartman(1963 Impulse!) だろうか。ハートマンのヴォーカルを聴きながらコルトレーンのサックスも聴く、という贅沢な楽しみ方のできるヴォーカル・アルバムで、コルトレーンの『Ballads』のムードの延長線上で聞ける。ジャズファンがいちばんよく聴いた男性ヴォーカル・アルバムが実はこれではなかろうか。ハートマンの甘い声と歌唱は時に鼻につくこともあるが、聞き心地の良い滑らかなバリトンボイスなので、たまに聴くといい。ハートマンはコルトレーンとの共演前に、ハワード・マギー(tp)、ラルフ・シャロン(p)のクインテットをバックに『Songs From the Heart』(1956)というレコードをBethlehemレーベルに吹き込んでいて、時々それも聴いている。当然ながらこちらもテイスト的には同じだが、さらに甘い。

60年代以降のジャズヴォーカルはほとんど聞いたことがなかったが、ジョン・ピザレリ John Pizzarelli (1960-) は7弦ギター奏者バッキー・ピザレリ(1926-) の息子で、1980年代にギターとヴォーカルで20歳代でデビューした人だ。日本デビューは、まさにバブルの頂点だった1990年の『My Blue Heaven』(Chesky) で、これはなかなか良いアルバムだった。当時はハリー・コニック・ジュニア (1967-) と並んで新世代男性ジャズヴォーカリストとして脚光を浴びていた。そのピザレリが、ナット・キング・コールに文字通りトリビュートしたアルバムが『Dear Mr. Cole』(1993 Novus) だ。当時のレギュラー・トリオではなく、ベニー・グリーン Benny Green (p)、クリスチャン・マクブライド Christian McBride (b)という、当時まだ新進の若手ミュージシャンを迎えたドラムレス・トリオで、ピザレリが見事なギターワークとヴォーカルでコールの有名曲を軽快に演奏し、若きグリーンとマクブライドがイキのいいバッキングでサポートするというアルバムだ。どの曲も演奏が短く、キレがいいのが特徴で、全編楽しめる。ピザレリは現在も活動していて時々来日しているが、年齢を重ねて外見も音楽もシブくなった。


Night and Day
森山浩二 (1976 TBM)
日本にも数は少ないが男性ジャズヴォーカリストはいる。近年では小林圭とかTOKUとかが有名だが、昔は笈田敏夫くらいしか思い浮かばなかった。しかし1970年代にTBM(スリー・ブラインド・マイス)からレコードを出していた森山浩二という人がいて、当時ラジオで聞いたその歌が気に入ってすぐに買ったレコードが、初リーダー作の『Night and Day』(1976)だった。ピアノの山本剛とコンビを組んで活動していたようだが、このレコードも山本剛トリオ(井野信義-b, 小原哲次郎-ds)と録音したもので、独特のハスキーな声と、何より日本人離れしたそのリズム感とスウィンギングな唄いっぷりに驚いた。タイトル曲の他、<マイ・フーリッシュ・ハート>や<バイ・バイ・ブラックバード>など、ジャズ・スタンダードの名曲をカバーしたこのレコードでも、コンガを叩きながら唄い、実にハッピーかつスウィンギングな歌を聞かせている。こういう味のある歌唱は日本人歌手にはあまり聞けない。これはスタジオ録音盤だが、当時六本木に「Misty」という洒落たジャズクラブがあって私もよく行ったが、そこでハウスピニストとして出演していた山本剛トリオと共演したライヴ盤も出しているようなので(知らなかった)、最近それも探したけれど今は入手困難のようだ。日本人らしからぬ、しゃれた大人のジャズヴォーカルを聞かせてくれる、こういう素晴らしいジャズ歌手も当時はいたのである。

2017/10/15

モンクを聴く #6:with John Coltrane (1957 - 58)

1956年当時、モンクはマイルス・バンドにいたジョン・コルトレーン(1926-67) に目をかけていたが、モンクのキャバレーカード問題、コルトレーンのヘロイン問題という両者の障害のために、共演の機会はなかなか訪れなかった。その後マイルス・バンドをクビになったコルトレーンを、モンクはメンターとして個人的に指導するようになり、コルトレーンはニカ邸に加え、モンクの自宅にまで毎日のように通って指導を受けている。そして、ようやく初共演の録音セッションとなった1曲が、19574月のモンクのソロ・アルバム『Thelonious Himself』(Riverside) でのウィルバー・ウェアとのトリオによる<モンクス・ムード>である。

Monk's Music
(1957 Riverside)
第17章 p329-
続いて4管セプテットの一人としてだが、本格的共演作『Monk’s Music』(Riverside) がその直後6月に録音されており、モンクはコルトレーンを自分のバンドで雇うという約束をようやく果たした。レイ・コープランド(tp)、ジジ・グライス(as)、コールマン・ホーキンズ(ts)、ウィルバー・ウェア(b)、アート・ブレイキー(ds)というメンバーによるこのアルバムは、「ブリリアント・コーナーズ」と並んでリバーサイド時代のモンクを代表する録音で、<オフ・マイナー>、<エピストロフィー>、<ウェル・ユー・ニードント>など久々に取り上げた曲など、モンクの自作曲のみ6曲を演奏しているアルバム冒頭の、ホーンセクションだけの短いが荘厳な<アバイド・ウィズ・ミー Abide with Me>は、幼少時代から愛した賛美歌(日暮れて四方は暗く)をモンクが編曲したもので、心に染み入るその演奏はモンクの葬儀の際に流れた。この録音は、モンクがコールマン・ホーキンズという恩人と10年ぶりに共演するという機会でもあり、ホーキンズは<ルビー・マイ・ディア>で芳醇で温かなソロを聞かせている。しかし、コルトレーンはホーキンズに気後れしたのか、セプテットという編成もあったのか、まだ新入りだったせいなのか、ここではまだ全体にあまり目立たない演奏が多い。苦労した録音時のいくつかの逸話は本書に詳しいが、特にアート・ブレイキーの語る、恩人ホーキンズ、当時弟子のようだったコルトレーンに対するモンクの説教の裏話は、作曲家モンクの面目躍如といった趣があり非常に面白い(どことなくおかしい)。作曲に何ヶ月もかかり、当時病床にあったネリー夫人に捧げた名曲<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>は、インプロヴィゼーションのない通作歌曲形式の作品で、これが初演である。<ウェル・ユー・ニードント>演奏中に「コルトレーン!」と叫ぶモンクの声も、2011年のリマスターされたOJCステレオ版のCDではよく聞こえる(このCDは非常に音がクリアだ)。疲れ切ったモンク、重鎮ホーキンズの存在、新米メンバーだったコルトレーン初の本格的共演、難曲録音時の裏話、<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>の作曲と初演、ジャケット写真制作時の面白い逸話など、このアルバムは個々の演奏の完成度は別としても、何よりモンクらしい話題が豊富なので、それらを想像しながら聴くだけで十分楽しめる。

Thelonious Monk with
John Coltrane
(1957Rec. 1961 Jazzland)
第18章 p352
本書に詳しいように、ハリー・コロンビーやニカ夫人の尽力、テルミニ兄弟の支援によってキャバレーカードをようやく手に入れたモンクは、この翌月195774日からクラブ「ファイブ・スポット」にレギュラー出演し、コルトレーンも716日にモンク・カルテットのテナー奏者として同クラブに初登場する。ウィルバー・ウェア(b)(後にアーマッド・アブドゥルマリク)、シャドウ・ウィルソン(ds) を加えたコルトレーンのワンホーン・カルテットは、その後約半年間「ファイブ・スポット」に連続出演することになる。当時はまだ精神面に不安があったものの、長年の苦闘を終え、6年ぶりにやっとキャバレーカードを手にしてニューヨーク市内で仕事ができることに加えて、これはモンクにとって初の自分のレギュラー・バンドによるレギュラー・ギグであり、しかもそこでコルトレーンを擁して自作曲を演奏できるモンクが、どれだけ高揚した気分でいたかがわかろうというものだ。本書に詳しいように、当時「ファイブ・スポット」に日参した芸術家たちを中心とした聴衆側の熱気も伝説的なものだ。ところが返すがえすも残念なことに、この時期の伝説的カルテットの白熱のライヴ演奏を録音したレコードは存在しないのだ。それはコルトレーンが当時プレスティッジとの契約下にあったためで、唯一記録として残されているのが、リバーサイドが7月にスタジオ録音したと言われている3曲で、これも交換条件を出したプレスティッジのボブ・ワインストックの案(コルトレーンのレコードに、モンクがサイドマンとして参加する)をモンクが拒否したために、その後リバーサイド系のJazzlandレーベルによって 1961年にリリースされるまでお蔵入りになっていた。その3曲とはモンク作の<ルビー・マイ・ディア>、<トリンクル・ティンクル>、<ナッティ>で、当時のレギュラーだったウィルバー・ウェア(b)とシャドウ・ウィルソン(ds ) が参加している。その3曲に、モンクの19574月の『ヒムセルフ』からソロ演奏の<ファンクショナル>、6月の『モンクス・ミュージック』から<エピストロフィー>(ホーキンズ抜き)と<オフ・マイナー>のそれぞれ別テイク計3曲を加えて、1961年になってからリリースされたのが『Thelonious Monk with John Coltrane』(Jazzland) である。<ルビー・マイ・ディア>に聞けるように、メロディからあまり遊離することなく、シンプルに美しく歌わせるコルトレーンのその後のバラード演奏は、明らかにこの時期のモンクの「指導」によって磨かれたものだろう。<トリンクル・ティンクル>と<ナッティ>は、コルトレーンがモンクと共演してから初めて思う存分吹いているようで、モーダルな初期のシーツ・オブ・サウンドがたびたび現れる。7月中旬の「ファイブ・スポット」出演当初はボロボロだったと言われるコルトレーンの演奏は、以降モンクとのリハーサル(?)を経て飛躍的に進化して行ったが、あの「神の啓示」を得たという有名な発言も、モンクと共演していたこの時期のことである。ついにヘロイン断ちをしたのも同じ時期であり、その後さらに強まるコルトレーンの求道的な姿勢も、この当時に形作られたものだろう。最後に1曲だけ入ったモンクのソロ、<ファンクショナル>の別テイクもやはり素晴らしい。

Thelonious Monk Quartet
with John Coltrane
Live at Carnegie Hall
(1957 Rec. 2005 Blue Note)
第18章 p356
上記スタジオ録音は19577月だと言われているので、コルトレーンがバンドに入ってまだ間もない頃だ。その後18週間の「ファイブ・スポット」でのギグを経て、カルテットにとって初の大舞台となったのが1129日の「カーネギーホール」での慈善コンサートで、このときはベースがウィルバー・ウェアからアーマッド・アブドゥルマリクに代わっている。短波ラジオ局ヴォイス・オブ・アメリカ(VOA)によるこのコンサートの録音テープが米国議会図書館で奇跡的に「発見」されたのは、それから48年後の2005年であり、まるでタイムカプセルを開けたようなこの発見は当時大変な騒ぎとなった。ブルーノートのマイケル・カスクーナとモンクの息子T.S.モンクが、そのモノラル録音テープをデジタル・リマスターして発表したのが『Thelonious Monk Quartet with John Coltrane at Carnegie Hall』Blue Note)である。幻の「ファイブ・スポット」でのライヴではないが、4ヶ月以上にわたって共演してきたモンクとコルトレーンのカルテットによる演奏が素晴らしいのは当然で、しかも<スウィート・アンド・ラヴリー>を除く7曲がすべてモンクの自作曲である。冒頭の<モンクス・ムード>の美しい対話だけで、いかに二人が緊密な関係を築き上げていたかがよくわかる。モノラルだが録音も素晴らしくクリアで、モンクとコルトレーンだけでなく、アブドゥルマリクのベース、ウィルソンのドラムスも明瞭に聞き取れ、演奏の素晴らしさを倍増させている。当時の好調さを表すように、モンクも非常に生きいきとした文句のないプレイを聞かせているが、コルトレーンは完全にtake-offしており、その後の世界に半分突き進んでいる。このカルテットの演奏は、おそらくモンク作品を史上最も高い密度と次元で解釈、演奏したコンボの記録と言えるだけでなく、絶頂期のモンクと前期コルトレーンの2人を捉えたモダン・ジャズ史上最高の録音の一つと呼べるだろう。

Thelonious Monk Quartet
with John Coltrane
Live at Five Spot
(1958 Rec. 1993 Blue Note)
第19章 p376
モンクとコルトレーンのもう一つの共演記録としては、1957年末にバンドを去ったコルトレーンが、翌1958911日にジョニー・グリフィンの代役として「ファイブ・スポット」に出演したときの録音が残されている。アーマッド・アブドゥルマリク(b)とロイ・ヘインズ(ds) によるカルテットで、これは当時コルトレーンの妻だったナイーマが、プライベート録音していた音源を1993年にブルーノートがCD化したものだ。家庭用のレコーダーだったために音質は良くないが、その時期のモンクとコルトレーンの「ファイブ・スポット」における共演を捉えた唯一の貴重な録音である。それまでモンクとたっぷりリハーサルを積み上げ、また自身もミュージシャンとして急上昇中のコルトレーンは、クラブライヴということもあって、ここでは余裕しゃくしゃくで吹きまくっているようだ。

これら残された録音を聴くと、ソニー・ロリンズと並んで、真面目なコルトレーンも当時モンクの良き生徒であり、2人の人間的、音楽的相性も良かったように思える。本書からわかるのは、モンクは基本的に「ジャズの先生」であり、ロリンズ、コルトレーン、チャーリー・ラウズも含めて、モンクが好んだのは、実力はもちろんだが、師匠の言うことに謙虚に耳を傾け、成長しようとする誠実なミュージシャンだったということだ。ロリンズと同じく、自らの道を選んで飛び立ったコルトレーンとモンクが、その後レコード上で共演することは二度となかった。それから9年後の196612月、コルトレーンが亡くなる7ヶ月前、真冬のデトロイトでのコンサートが二人の最後の共演の場となった。

2017/06/23

3枚の「バラード」アルバム

Ballads
John Coltarne
1962 Impulse
「全編がバラード」というジャズ・レコードは一般に単調になりがちで、聴き手を飽きさせずに最後まで聞かせるだけの魅力を維持するのは難しい。だから奏者にとっても難易度が高く、同時にジャズ・ミュージシャンとしてのセンスが問われるものであり、昔はよほどの力量と自信がないと挑戦できなかったと言われている(イージー・リスニングやBGM的なレコードはまた別である)。だからそうして残された名盤の数はそれほど多くない。その中でもっともよく知られているのが、ジョン・コルトレーン John Coltrane (1926-1967) がカルテットで録音した文字通りの「バラード Ballads」(1962 Impulse)だ。1960年代、フリーに突き進んでいた頃のコルトレーンが一休みして鼻歌を歌ったものだとか、色々な評価をされてきたが、コルトレーンは既に50年代から歌心のあるバラード・プレイを数多く残しているし、セロニアス・モンクとの邂逅によってその技術とセンスにさらに磨きをかけていた。したがって、このアルバムは当時ジャズの本流にいたコルトレーンが持つ本質の一部を抽出した集大成と言うべきものだろう。今やジャズ・バラードのデフォルトのような存在になっており、誰が聴いても納得の永遠のジャズ・レコードの1枚だ。 

A Ballad Album
Warne Marsh
1983 Criss Cross
もう一人のテナー奏者ウォーン・マーシュ Warne Marsh は、生涯を通じて「リズム」を極める道を進んだ。譜面上の小節線からの解放と自由を目指したマーシュは、特にリズムに対する優れた感覚を持った真に独創的なインプロヴァイザーだった。その特徴は、独特の複雑なリズム感、高音域の多用、小節線を意識させない漂うような長いメロディ・ライン、そしてトリスターノ派特有のエモーションを排したべたつかないクールな表現だ。マーシュの「ア・バラード・アルバム A Ballad Album」(1983 Criss Cross)は、1987年にロサンジェルスのクラブで演奏中に倒れて亡くなる4年前、晩年のマーシュがバラードに挑戦したアルバムだ。よく知られたスタンダードのバラードやミディアム・テンポの曲で構成されており、ルー・レヴィーの美しいピアノ他とのカルテットによる演奏である。微妙に揺れ動く、漂うようなタイム感で、ゆったりと曲を料理することを楽しむかのような演奏は、トリスターノ派の原点と言うべきレスター・ヤングのあのリラックスした演奏を思い起こさせ、聴く側も全編でその独特の味わいをくつろいで楽しむことができる隠れたバラード名盤である。

Ballad Session
Mark Turner

2000 Warner Bros.
1965年生まれのマーク・ターナー Mark Turner は、特に強い影響を受けたミュージシャンとして、上記ジョン・コルトレーンとウォーン・マーシュの2人の名前を挙げている。新世代のテナーサックス奏者とはいえ、コルトレーンは珍しくはないが、マーシュの名前を挙げるのは極めて異例だ。バークリー時代に出会ったトリスターノ派の音楽に、バークリー・メソッドにはない独自性を見て新鮮なショックを受け、その後トリスターノやマーシュの研究を始めたという話だ。このアルバム「バラード・セッション Ballad Session」(2000 Warner Bros.) では、スタンダードの名曲とウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、ポール・デスモンド、カーラ・ブレイなどのオリジナル曲という多彩な選曲によるバラード演奏に挑戦している。ケヴィン・ヘイズ(p)、カート・ローゼンウィンケル(g)、ラリー・グレナディア(b)、ブライアン・ブレイド(ds)によるカルテット、クインテット、トリオと編成も多彩だ。ターナーのテナーはコルトレーンとマーシュを融合し自身の中で消化することによって、固有のサウンドを生み出すことを目指してきたものだろう。このアルバムは、バラード・アルバムをそれぞれ録音している先人二人へのオマージュとして聞くこともでき、全体を通して時折コルトレーンと、とりわけマーシュのサウンドが聞こえて来る。先人に比べると当然ながらモダンで、サウンドの肌合いも乾いているが、同時にずっと深くクールに沈潜してゆく音楽だ。ここでのローゼンウィンケルのギターは、ターナーとの相性も、アルバム・コンセプト的にも素晴らしいと思う。

コルトレーンとマーシュの音楽的方向性を考えると、片や最後はジャズという枠を超えた世界に突き進んだジャズの巨人の一人であるのに対し、片やジャズの枠組みの内部で、白人の非主流派としてどこまで独自の表現が可能かということを深く地道に突き詰めようとした、名声とはまったく無縁の人だ。黒人と白人ということも含めて2人には一見共通項がないように見えるが、非常に思索的で内省的な人格を持ち、生涯にわたって自分の信じる音楽をストイックに追求し続けたという点ではよく似ている。ベクトルの向かう方向が違っただけだ。マーク・ターナーの音楽から受ける印象からすると、おそらく資質的にこの2人に近いものがあるがゆえに、先人の音楽に共通する、範とすべき何かを見出したのだろう。

2017/04/06

バド・パウエルとモンク

ロビン・ケリーの「Thlonious Monk」 を読んで、セロニアス・モンクとバド・パウエル(Bud Powell 1924-1966)の実際の関係がどのようなものだったのかを初めて知った。7歳年長のモンクがパウエルの師匠のような存在だったという話はこれまでも聞いていたが、2人の具体的な関係や、ジャズ・ミュージシャンとして生きた時代、ニューヨークと、パウエルが一時移り住んだパリ時代の2人の関係など、自分の中で情報が整理できていなかったので、そうだったのかと驚くことも多かった。何より、2人がピアニストとして単なる先輩、後輩の関係だっただけではなく、兄弟のような愛情と絆で結ばれていたことも知った。パウエルの友人だったもう一人の優れたピアニスト、エルモ・ホープも加わって、この3人は生涯の友となるのである。

バド・パウエルは疑いなくモダン・ジャズ・ピアノの開祖であり、パウエルなくしてその後のジャズ・ピアノの発展はなかったと言われているが、和声やリズム面のコンセプトにおいて、初期のパウエルにもっとも大きな影響を与えたのがモンクであり、若きパウエルのジャズ界での成長を後押しし、生涯を通じて彼を支え続けたのもモンクだった。パウエルはピアニスト兼アレンジャーとして初の職場となったクーティ・ウィリアムズ楽団時代に、当時仕事に恵まれず苦労していたモンクの曲<ラウンド・ミドナイト>を、楽団の演目に取り上げて欲しいとボスを説得している。そして、1945年にクーティ・ウィリアムズ楽団によって<ラウンド・ミドナイト>が初録音された。一方のモンクは、1947年に<イン・ウォークト・バド(In Walked Bud)>という、パウエルに捧げた曲を作っている。

パウエルはその後ビバップの中心人物として、全盛期だった1940年代後期から50年代半ばにかけてブルーノート、ルーレット、ヴァーブ等で天才としか言えない別格のレコードを何枚も残した後、徐々に閃きを失い、精神の病も進行していった。その後1959年から5年間をパリで過ごしたが、ジャズ・ミュージシャンを芸術家として温かく迎え入れた当時のパリは、アメリカで苦労していた彼らにとっては救いの都だった。そのパリ時代のパウエル(とレスター・ヤング)のイメージを元にして描いたのが映画「ラウンド・ミドナイト」(1986年)で、落ちぶれた天才テナーマンをデクスター・ゴードンが実際に演じていることで有名だ。アルコールと抗精神病薬の影響もあって、半ば廃人のようになったパリ時代のパウエルを、大江健三郎が目撃している(「危険な綱渡り」)。パリ時代の最後になって結核で倒れたパウエルに送金して助けたのも、1964年にニューヨークに帰還した後、どん底状態にあったパウエルを支えていたのもモンクだった。

パウエルの天才はビバップ高速奏法の技術だけではない。時折垣間見せるロマン派的な情感の表出が並外れているのだ。「ジャズ・ジャイアントJazz Giant」(1949-50 Verve/ Ray Brown &  Curley Russel-b, Max Roach-ds)は、全盛期のそうした両面のパウエルの演奏が楽しめる傑作レコードだ。とりわけ最後に続くスタンダードのバラード3曲(YesterdaysApril in ParisBody & Soul)に聴ける抒情と美は言語を超越する素晴らしさで、まさに芸術の域に達している。そしてパウエルがパリに移住した後は、モンクのヨーロッパ・ツアー時のパリ訪問を楽しみにしていて、現地での2人の再会も友情に満ちたものだったという。そのパリ時代にパウエルが録音したトリオ作品の1枚が、モンクの曲を中心にした「ポートレート・オブ・セロニアス A Portrait of Thelonious」だ1961/ Pierre Michelot-b, Kenny Clarke-ds)。実際このレコードに収録されているモンクの曲は、<ルビー・マイ・ディア>、<オフ・マイナー>、<セロニアス>、<モンクス・ムード>の4曲だけだが、異郷にあったパウエルの、モンクへの友情がそれぞれの演奏から溢れているような、とても温かいアルバムだ。このレコードがCBSからリリースされたのは1965年で、収録された<ルビー・マイ・ディア>についてのレナード・フェザーの皮肉な質問と、パウエルへの慈愛に満ちたモンクの返答が聞ける2人の対談も行なわれている。そして、印象的なこのレコードのジャケットを飾る画は、ジャズ・ミュージシャンの守護天使であり、最後までモンクを支え続けたパトロンであり画家でもあった、ニカ男爵夫人が描いたものである。この画にはやはり、モンクの音楽とどこか相通ずるものを感じる。

バド・パウエルは、その翌年1966年の夏に41歳で短い生涯を終える。そして翌1967年5月にはエルモ・ホープも43歳で急死し、さらにその直後7月のジョン・コルトレーン40歳の死という盟友3人の連続死が、既に肉体と精神を病みつつあったモンクに決定的な打撃を与える。同じ年に、モンクと共にあった伝説のジャズクラブ「ファイブ・スポット」もついに閉店し、モンクをはじめとするミュージシャンたちを苦しめた悪名高いキャバレーカードも廃止され、いわゆる「モダン・ジャズの時代」はここにある意味終焉を迎えた。そして、ベトナム戦争と公民権問題で揺れるアメリカを象徴するように、フリー・ジャズ、ジャズ・ロック、ファンク、エレクトリック、フュージョン等々、その後に続く混沌の70年代に入ってゆくのである。

2017/02/25

モンク考 (3) 人間モンクの魅力と才

本書を読んで知ったもう一つの事実は、天才音楽家モンクの創造人生を現実面で支えていたのはほとんど周囲の人々、中でも女性たちであったということだ。とは言っても芸術家によくある話とか、他のジャズ・ミュージシャンたちの伝記に描かれているような乱れた女性関係の話ではない。モンクの‟ピュア“さを裏付けるように、母親バーバラ、妻ネリー、真のパトロンだったニカ男爵夫人の3人をはじめ、親族である義理の姉や妹、姪たち、さらにモンクにストライド・ピアノの基本を教えたアルバータ・シモンズ、モンクの友人でありメンターのような存在だったメアリ・ルー・ウィリアムズという二人のピアニスト、さらにモンクの売り出しに奔走したブルーノートのロレイン・ライオンもそうだ。母親とネリー夫人は別格としても、他の女性たち全員が、天才だが普通に考えれば変人で、厄介な人物モンクとその音楽を愛し、彼を無償の愛で支えている‟女神”のようだ。モンクには男女を問わず誰もが魅了される何かが当然あったのだろうが、とりわけ女神(Muse)たちから全人的に愛された人物だったのだと思う。‟普通の“ ジャズに見られる激しいジャズ的エモーション、無頼感、モダンなクールさなどとは異なり、複雑でモダンなのに純粋、無垢、素朴、ユーモアが、温かさと美しさと常に同居しているモンクの音楽が放つ不思議な魅力は、おそらくこのことと大いに関係があるのだろう。

Thelonious Monk Quartet
with John Coltrane
at Carnegie Hall
1957 Blue Note
この本には多くのジャズ・ミュージシャンやサイドマンたち、プロデューサー、クラブオーナーたちとモンクとの逸話が登場するが、彼らがどうモンクと音楽的、人間的に関わり、どうモンクの音楽を理解、吸収したのか、あるいは逆に反発したのか、ということが史実として興味深く描かれている。私が感じた本書の魅力の一つは、ハービー・ニコルズ、エルモ・ホープ、アート・ブレイキー、ソニー・ロリンズなどの登場人物との関係に見られるように、これまではレコードだけを通じて、自分の中でいわば点としてバラバラに存在していた当時のジャズ・ミュージシャンたちが、20世紀半ばのニューヨークを舞台にしたモンクの物語の中で、一つのコミュニティとしてリアルに繋がってゆくことだった。そして、そこで描かれるモンクの人間味もまた魅力的である。

とりわけ、モンクのヒーローだったデューク・エリントン、恩人コールマン・ホーキンズ、愛弟子のバド・パウエルたちとの交流は感動的だ。1950年代後半のジョン・コルトレーンとの交流も描かれており、二人の当時の素晴らしい共演記録も一部残されているが、録音数が限られているのは実に残念なことだ。幸い2005年に奇跡的に発見されたカーネギーホールでの実況録音(1957年)が、当時の二人の最良の演奏を記録している。高次の音楽的交感という意味から言えば、おそらくロリンズと並んでコルトレーンこそがモンクにとって最高のパートナーだっただろう。そしてモンクの薫陶が、その後のコルトレーンに与えた音楽的影響の大きさもジャズ史では周知のことである。マイルス・デイヴィスが自叙伝でも述べているモンクとの歴史的(?)口論は何度か出てくる。人柄はまったく正反対だが(もちろんモンクは優しい人間だ)、結局二人ともお山の大将同士だったのだろう。それに、片や裕福に育ち、田舎から出て来て一旗上げようという野心を持ったマイルスと、貧乏だが基本的にはニューヨークという都会育ちのモンク、という二人の経歴の違いも少なからず影響しているだろう。モンクの方が9歳年長だったが、どちらも生まれついてのリーダー的性格で、人物、音楽上の能力から見ても両雄相並び立たずということである。しかし音楽的コンセプトは違っていたかも知れないが、二人は間違いなく互いに敬意も抱いていただろう。特に天才肌のモンクの音楽性と創造力にはマイルスはかなわないと思っていただろうし、モンクはマイルスの知性と構想力、統率力には一目置いていただろう。コルトレーンとの共演と並び、1954年のクリスマス・イブ、プレスティッジの2枚のLPに残された二人の巨人の伝説の共演記録は人類の宝である。

Miles Davis and
the Modern Jazz Giants
1954 Prestige 
スティーヴ・レイシーとのやり取りをはじめとして、教師、指導者としてのモンクの有名な発言(名言)のいくつかも本書に出てくる。いずれもサイドマンや第三者にモンク流の音楽思想を伝えるものだが、どれもジャズの真理を突いた含蓄に富む言葉ばかりである。だがその指導法は、同じ時代にジャズ演奏教育のための学校を初めて作り、体系的、組織的に教えようとした白人のレニー・トリスターノの近代的手法とは対極にある超個人的手法だ。しかも譜面を見せずに、聞かせる音だけで自作曲のメロディを覚えさせるという徒弟制度並みの方法である。この場合、モンクが「ほとんど喋らない」というのもポイントだろう。教わる側はそれで否が応でも集中せざるを得ないからだ。それによって頭で理解するのではなく、フィーリングで体得することができる(するしかない)。リハーサルなしで、出たとこ勝負の即興演奏ができたのもそうした訓練があればこそだ。だがそもそもは、やはりこれがジャズ伝承の原点なのだと思う。

モンクの天才の一つが作曲の才だが、本書を読んでいてあらためて感じたのは、モンク作品のタイトルの素晴らしさだ。月並みなティン・パン・アレーや、無味乾燥のビバップの曲名とは違い、「ラウンド・ミドナイト」や「ルビー・マイ・ディア」のような有名曲はもちろんのこと、「エピストロフィー」、「ウェル・ユー・ニードント」、「ミステリオーソ」、「ストレート・ノー・チェイサー」、「ブリリアント・コーナーズ」、「アグリー・ビューティ」等々、どの曲名もジャズ・センスに溢れ、背後に意味と情景が感じられ、しかもメロディが即座に浮かんで来るほど曲のイメージと一体化している。モンクは音感とともに、実はこうした言語能力にも並々ならぬものを持っていたがゆえに、あの短いけれど本質を言い表した数々の名言を残してきたのだろう。

2017/02/24

モンク考 (2) モダン・ジャズ株式会社

1940年代半ばのビバップに始まるモダン・ジャズの歴史は、その盛衰においてアメリカという国の歴史と見事にシンクロしている。そしてそのビバップは、チャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーが創造したというジャズ史の通説への反証が、自身の評価の低さを嘆くモンクの心情を取り上げた本書中で幾度も繰り返されている。ビバップ時代に、その音楽の真の創始者は常に時代の先を行くモンクである、とブルーノート・レーベルが主導したモンク再評価キャンペーンが不発に終わった後、キャバレーカードの没収という不運も重なり、1957年夏のジョン・コルトレーンとの「ファイブ・スポット」出演に至るまで、およそ10年にわたってモンクは不遇なミュージシャン生活を余儀なくされた。

bird and diz
Charie Parker, Dizzy Gillespie
1949/50 Verve
「自由」を別の言い方で表せば、モンクの音楽の本質とは「反システム」であったとも言えるだろう。ガレスピーとパーカーが創造したと言われ、その後モダン・ジャズの本流となるコード進行に基づく「即興演奏のシステム化」の対極にあったのが、「個人の想像力と独創性」に依存し、コードの約束事による束縛を嫌い、即興の即時性、自由なリズム、そしてメロディを愛し続けたモンクの音楽である。システムとは、多数の人間が吸収し取り入れることのできる汎用性を備えたものであり、習得効率と商業性の高さという近代世界、特にアメリカにおける市場原理に適合した合理性が求められるものだ。むしろ、アメリカという国家とその文化を実際に形成してきたのはそうしたシステム的思考である。それに対し、個人の創造力とは代替のきかないものであり、コピーのできないものであり、誰もが手に入れることができるわけではない、非合理的、非効率なものである。この独創的個人と汎用システムという対置は、芸術の世界であれ、実業の世界であれ、少数の天才や独創的人物が創り出したものが、多数の普通の人々によって徐々に理解され、咀嚼され、コピーされ、大衆化してゆく、という人間社会に共通の普遍的構造を表しているとも言える。半世紀前と現代との違いは、その拡散速度の圧倒的な差だけだ。(コピー全盛の現代にあっては、もはやどれがオリジナルなのか見分けがつかないほどだが)。

Genius of Modern Music Vol.1
1947 Blue Note
この本の中で語られる、「モンクはものを作る人間で、それを売り出したのはガレスピーだった」という「ミントンズ・プレイハウス」の店主だったテディ・ヒルの譬えを敷衍して、ビバップ創生の物語におけるモンク、ガレスピー、パーカー3人の役割を、現代の企業組織風に「モダン・ジャズ株式会社」として置き換えてみればわかりやすい。内部にひきこもって集中するモンクは、試行錯誤を繰り返してゼロから新しいモノやアイデアを生み出す「研究開発部門」であり、進取の気性があったガレスピーは、できた試作品を市場に広く効果的に知らしめ、出てきた顧客の要望を素早く察知して、それを改善する過程をシステム化してゆく「マーケティング部門」であり、圧倒的演奏能力を持ったパーカーは、製品やアイデアを先頭に立って顧客にわかりやすく、魅力的にプレゼンして売り歩く「営業部門」だったとでも言えるだろう。モンクが、自身の独創性と貢献に対する認証の低さと、(キャバレーカード問題による露出の少なさも理由となって)市場という前線に近い場所にいたガレスピーとパーカーが脚光を浴び、その二人だけが富と名声を得たという不運を何度も嘆くのも、こうして見ると、企業組織の持つ構造と役割、各部門で働く人たち個人の能力や深層心理と重なるものがあるようにも思える。

そう考えると、創業者たちの一世代後のリーダーだったマイルス・デイヴィス(モンクより9歳年下)は、こうしてでき上った会社の基盤の上に、新たな発想でクール、ハードバップ、モード、エレクトリックなどのジャズ新事業を次々に立ち上げていった「新事業開発部門」である。そして創業者の一人モンクが持っていた、ジャズの枠組みを突き破ろうとする本来の「自由な精神(前衛)」に立ち返り、スピンアウトして別会社である「反システム事業」に再挑戦したのがセシル・テイラーやオーネット・コールマン、さらに後期のジョン・コルトレーンに代表されるフリー・ジャズのミュージシャンたちだった、と言えるかも知れない。そしてアメリカ経済と社会の変化と軌を一にした、1940年代から70年代にかけての「モダン・ジャズ株式会社」の創業から繁栄、衰退に至る約30年の歴史も、まるで会社の寿命を見ているかのようである。そしてジャズマンとしては比較的長生きだったモンクは(1976年引退、1982年64歳で没)、まさにその会社と同じ人生を生き、運命を共にしている。もちろん、音楽の世界をこれほど単純に図式化できないことは言うまでもないのだが、本書のような物語は、巨人と言われるような天才ジャズ音楽家が送った人生にも、才能だけではない、いつの時代の、どんな人間にも共通する宿命的な何かがあったのかも知れない、と凡人が想像を巡らす楽しみを与えてくれるのだ。