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2017/05/27

レニー・トリスターノの世界 #1

「ジャズにも色々あるのだ」ということを初めて知ったのが、1970年代に盲目のピアニスト、レニー・トリスターノ  (1919-1978) の「 Lennie Tristano(邦題:鬼才トリスターノ) (1955 Atlantic) というレコードを聴いたときだった。それまで聴いていた "普通の" ジャズ・レコードとはまったく肌合いの違う音楽で、クールで、無機的で、構築的な美しさがあり、ある種クラシックの現代音楽のような雰囲気があったからで、ジャズ初心者には衝撃的なものだった。しかし、それ以来この独特の世界を持ったアルバムは私の愛聴盤となった。

Tristano
1955 Atlantic
1954/55年に録音されたLP時代のA面4曲の内の2曲<Line Up>と<East 32nd Street>は、ピーター・インド(b)、ジェフ・モートン(ds)というトリスターノ派リズム・セクションの録音テープを半分の速度にして再生しながら、その上にトリスターノがピアノのラインをかぶせて録音し、最後にそれを倍速にして仕上げたものだとされている(ただし諸説ある)。<Line Up>は、<All of Me>のコード進行を元にして、4/4と7/4という2つの拍子を用いたインプロヴィゼーションで、初めて聴いたときには思わずのけぞりそうになったほどだが、この緊張感に満ちた演奏は今聴いても実に刺激的だ。他のA面2曲<Turkish Mambo>とRequiem>は、トリスターノのピアノ・ソロによる多重録音である。<Turkish Mambo>4/45/812/87/8という4層の拍子が同時進行する複雑なポリリズム構造を持つ演奏だという(音楽学者Yunmi Shimによる分析)。もう1曲の<Requiem>は、音楽家として互いに深く尊敬し合っていたチャーリー・パーカー(1955年没)を追悼した自作ブルースで、トリスターノのブルース演奏は極めて珍しいものだが、これも素晴らしい1曲だ。武満徹の「弦楽のためのレクィエム」は、トリスターノのこの曲に触発されたものだと言われている。また後年トリスターノの弟子となる女性ピアニスト、コニー・クローザーズもこの曲を聴いてクラシックからジャズに転向したという。2人ともトリスターノの音楽の中に、ジャズとクラシック現代音楽を繋ぐ何かを見出したということだろう。このA面で聴ける構造美とテンション、深い陰翳に満ちた演奏は、トリスターノの天才を示す最高度の質と斬新さを持つ、ジャンルを超えた素晴らしい「音楽」だと思う。

LP時代のB5曲はうって変わって、リー・コニッツ(as)が加わったカルテットが、スタンダード曲をごく普通のミディアム・テンポで演奏しており、1955年6月にニューヨークの中華レストラン内の一室でライヴ録音されたものだ。(コニッツはこの数日後に、「Lee Konitz with Warne Marsh」をAtlanticに吹き込んでいる。)スタン・ケントン楽団を離れたコニッツが自己のカルテットを率いていた絶頂期だったが、ここではリズム・セクションにアート・テイラー(ds)、ジーン・ラメイ(b)というトリスターノ派ではないバップ奏者を起用していることからも、A面のトリスターノの「本音」とも言える音楽世界との差が歴然としている。しかし、この最高にリラックスした演奏もまた、ピアニストとしてのトリスターノの一面である。実は本来は、このカルテットのライヴ演奏のみでアルバムを制作する予定だったが、満足できない演奏があったコニッツの意見で、5曲だけが選ばれ、代わってトリスターノのスタジオ内に眠っていた上記4曲を「発見」したAtlanticが、それらをA面として収録してリリースした、ということだ(その後このライヴ演奏のみを全曲収録したCDも発表された)。アルバムの最終コンセプトはたぶんトリスターノが考えたのだろうが、A面はトリスターノの「本音」、B面は「こわもて」だけじゃないんですよ、という自身のコインの両面を伝えたかった彼のメッセージのようにも聞こえる(勝手な想像です)。ただしそれはあくまでLPアルバム時代の話であり、CDやバラ聴きネット音源ではこうした作品意図や意味はもはや存在しない。残念なことである。

Crosscurrent
1949 Capital
トリスターノは、チャーリー・パーカーと同年1919年にシカゴで生まれた。9歳の時には全盲となり、シカゴのアメリカ音楽院入学後はジャズだけでなくクラシック音楽の基礎も身に付け、20代初めから既に教師として教えるようになっていた。1946年にビバップが盛況となっていたニューヨークに進出し、シカゴ時代からの弟子だったリー・コニッツも間もなく師の後を追った。リー・コニッツ(as)、ウォーン・マーシュ(ts)、ビリー・バウアー(g)、ピーター・インド(b)、アル・レヴィット(ds)というトリスターノのグループは、既に1948年頃からフリー・ジャズの実験を初めており、1949年のアルバム「Crosscurrents」(Capitol)で、<Intuition>、<Digression>というジャズ史上初の集団即興による2曲のフリー・ジャズ曲を録音している。当時彼らはクラブ・ギグやコンサートでも実際に演奏している。ただしそれらは対位法を意識していたために、曲想としてはクラシック音楽に近いものだった。当然ながらクラブなどでは受けないので、その後グループとしてのフリー演奏は止めたが、1951年にマンハッタンに開設した自身のスタジオで、トリスターノはフリー・ジャズ、多重録音の実験を続けていたのだ。(多重録音は今では普通に行なわれているが、70年近く前にこんな演奏を自分で録音して、テープ編集していた人間がいたとは信じられない。テオ・マセロがマイルスの録音編集作業をする15年以上も前である。)

メエルストルムの渦
1975 East Wind
亡くなる2年前、1976年に日本のEast WindからLPでリリースされたレニー・トリスターノ最後のアルバムが「メエルストルムの渦 Descent into the Maelstrom」だ1975年に、当時スイング・ジャーナル誌編集長だった児山紀芳氏とEast Windが、隠遁生活に入っていたトリスターノと直接交渉して、過去の録音記録からトリスターノ自身が選んだ音源をまとめたものだそうだ。ただし音源は1952年から1966年にかけての5つのセッションを取り上げていて、中に1950年代前半(上記「鬼才トリスターノ」音源より前である)に録音したこうした多重録音の演奏が3曲収録されている。アルバム・タイトル曲<メエルストルムの渦>はエドガ・アラン・ポーの同名小説から取ったもので、録音されたのは1953年であり、当時としては驚異的なトリスターノのフリー演奏が聞ける。一人多重録音による無調のフリー・ジャズ・ピアノで、重層化したリズムとメロディがうねるように進行してゆく、まさにタイトル通りの謎と驚きに満ちた演奏だ。セシル・テイラー、ボラー・バーグマンなどのアヴァンギャルド・ジャズ・ピアニスト登場の何年も前に、トリスターノは既にこうした演奏に挑戦していたのである。1952年(195110月という記録もある)のピーター・インド(b)、ロイ・ヘインズ(ds)との2曲のトリオ演奏(Pastime、Ju-Ju)もピアノ部分が多重録音である。他の演奏は “普通の” トリスターノ・ジャズであり、1965年のパリでの録音を含めてピアノソロが5曲、1966年当時のレギュラー・メンバーだったソニー・ダラス(b)、ニック・スタビュラス(ds)とのトリオが同じく2曲収録されている。本人がセレクトした音源だけで構成されていることもあり、Atlantic2作品と共に、このアルバムはトリスターノの音楽的メッセージが最も強く込められた作品と言えるだろう。

The New Tristano
1962 Atlantic
1950年前後、トリスターノはインプロヴィゼーション追求の過程で、微妙に変化する複雑な「リズム」と、ホリゾンタルな長く強靭な「ライン」を組み合わせることによって、ビバップの延長線上に新しいジャズを創造しようとしていた。特に強い関心を持っていたのはポリリズムを用いた重層的なリズム構造だ。そのためリズム・セクションに対する要求水準は非常に高く、当時彼の要求に応えられるドラマーやベーシストはほとんどおらず、ケニー・クラークなどわずかなミュージシャンだけだったと言われている。よく指摘されるメトロノームのように変化のないリズムセクションも、その帰結だったという説もある。要するに、上記多重録音のレコードは、「それなら自分一人で作ってしまおう」と考えたのではなかったかと想像する。だからある意味で、これらの多重録音による演奏はトリスターノの理想のジャズを具体化したものだったとも言える。だが多重録音と速度調整という「操作」をしたことで、ジャズ即興演奏の即時性に反するという理由だと思うが、当時彼のAtlantic盤は批評家などから酷評された。その後しばらく経った1962年に、これらの演奏の延長線として、録音操作無しの完全ソロ・ピアノによるアルバム「ザ・ニュー・トリスターノThe New Tristano」(Atlantic)を発表して、自らの芸術的理想をついに実現したのである。

前作の演奏加工への批判に対する挑戦もあり、1曲を除き、完全なソロ・ピアノである。疾走する左手のベースラインと右手の分厚いブロック・コードを駆使して、複雑なリズム、メロディ、ハーモニーを一体化させてスウィングすべく、一人ピアノに向かって「自ら信じるジャズ」を演奏する姿には鬼気迫るものがあっただろうと想像する。盲目だったが彼の上半身は強靭で(ゴリラのようだったと言われている)、その強力なタッチと高速で左右両手を縦横に使う奏法を可能にしていた。収録された7曲のうち<You Don’t Know What Love Is>以外は「自作曲」だが、このアルバムに限らずトリスターノは、既成曲のコード進行に乗せてインプロヴァイズした別のLine(メロディ)に別タイトルをつけるので、原曲はほとんどスタンダード曲である。この姿勢が彼のジャズに対する思想(「即興」こそがジャズ)を表している。たとえば <Becoming>は<What Is This Thing Called Love>,<Love Lines>は<Foolin’ Myself>,<G Minor Complex>は<You’d Be So Nice To Come Home To> などだ。原曲がわかりやすいものもあれば、最初からインプロヴァイズしていて曲名を知らなければわからないものもある。同じく<Scene And Variations>の原曲は <My Melancholy Baby> で、<Carol>、<Tania>、<Bud>という3つのサブタイトルは彼の3人の子供の名前だ。Budは当然ながら、崇拝していたバド・パウエルにちなんで名づけたものだ。クールでこわもて風トリスターノの人間味を感じる部分である。

不特定の客が集まる酒を扱うクラブでの演奏を嫌がり、売上至上主義の商売に批判的で、その手助けをしたくない、というトリスターノの姿勢は若い頃シカゴ時代から基本的に変わらなかった。未開の領域で、自身の信じるビバップの次なるジャズを創造するという姿勢がより強固になっていった40年代後半以降、この傾向はさらに強まる。ジャズという音楽、アメリカという国の成り立ちを考えると、これが如何に当時の音楽ビジネスの常識からかけ離れていたかは明らかだろう。ニューポート・ジャズ祭への出演要請も事前の手続き上のトラブルから断ったりしているが、60年代のヨーロッパでのライヴなど、コンサート形式ならたとえpayが低くても基本的に参加する意志はあったようだ。しかし、クラブでも、コンサート・ホールでもその数少ないライヴ演奏記録は常に新鮮でスリリングな最高のジャズである。ただし、その音楽が本質的に内包する高い緊張感と非エモーショナルな性格から、ジャズにリラクゼーションを求める層に受けないのは昔も今も同じだろう

2017/04/28

鈍色(にびいろ)のピアノ: バリー・ハリス

1970年代後半セロニアス・モンクの晩年に、モンクと同じくニュージャージー州ウィーホーケンのニカ夫人邸で暮らしていたのがピアニストのバリー・ハリス Barry Harris (1929 -) だった。この二人の音楽的交流についての記録は見当たらないが、1976年にモンクがニューヨーク市内で最後に聞いたのが、ピアノ・バー「ブラッドリーズ」に出演していたバリー・ハリスであり、ニカ邸で最後に一緒にピアノを弾いたのも、19822月に自室で倒れていたモンクを発見したのもハリスだった。だから晩年のモンクをいちばん身近で見ていたジャズ・ミュージシャンがバリー・ハリスだったのだ。1988年のモンクのドキュメンタリー映画「Straight No Chaser」には、トミー・フラナガンと共に登場し、モンクの曲を二人で演奏している。ハリスはジャズ教育者、指導者としても著名な人物であり、88歳の今も健在で、ニューヨークでピアノ教師として指導を続けているという。

Breakin' It Up
1959 Argo
バリー・ハリスは十代でビバップの洗礼を受けているので、パド・パウエルの直系バップ・ピアニストと一般によく言われているが、パウエルのようなきらびやかさや情感の表出はあまり感じられない、どちらかと言えば地味なピアニストだ。トミー・フラナガンの華麗さや洗練とも違うし、デューク・ジョーダンの哀愁や抒情とも違って、もっと土臭くブルージーであり、そういう点ではハンク・ジョーンズに近いものを感じるが(人ともデトロイト出身だ)、ハリスのピアノの音色はもっとくすんでいて、湿り気があるような気がする。私の愛聴盤、1959年のデビュー・アルバム「ブレイキン・イット・アップ Breakin’ It Up」(Argo/ William Austin-b, Frank Gant-ds)から既にして、(アルバム・ジャケットそのままの)いぶし銀のような独特のシブい音色が聞こえてくる。ピアノの音に色があるかどうかは知らないが、たとえて言えば「鈍色(にびいろ―濃灰色)」だ。そして聴けば聴くほど味の出てくるその演奏は、場末のジャズクラブで一杯やりながら、肩の力を抜いて聴くともなしに聴いているうちに、いつのまにか引き込まれて聴き惚れてしまうようなすぐれたB級名人芸の味わいがあるのだ。だから何度聴いても飽きない独特の魅力がある。

Plays Tadd Dameron
1975 Xanadu
ハリスはキャノンボール・アダレイとの共演を経て、「At The Jazz Workshop」(1960 Riverside)のようなライヴ演奏をはじめ、60年代以降トリオ作品を何枚か録音しているが、バラードでもアップテンポでも、このシブい印象は変わらない。その後1970年代半ばにバップ・リバイバルが盛り上がった当時にリリースされた、タッド・ダメロンの曲を取り上げた「プレイズ・タッド・ダメロンPlays Tadd Dameron」(1975 Xanadu/ Gene Ramey-b, Leroy Williams-dsというアルバムも、若干こもり気味の録音(LP)だが、上記名人芸の味わいが強くて私は好きだ。ハリスの演奏はバド・パウエルのようにあまり肩肘張って正面から聴いてはいけない。本でも読みながら、あるいは軽く酒でも飲みながら「聴くともなしに聴く」のが正しいバリー・ハリスの楽しみ方だろう。

Barry Harris in Spain
1991 Karonte
 
私はバリー・ハリスのライヴ演奏を生で聞いたことがないので、音色についての印象はあくまでレコードから聞こえる音のことなのだが、1991年にリリースされたアルバム「Barry Harris In Spain」(Nuba, Chuck Israels-b, Leroy Williams-ds)を聴いて一番嬉しかったのは、ハリス的シブさは変わらないものの、楽器の音、余韻、空気感ともに録音が現代的で素晴らしく、それまで演奏はいいけれどもっと音が良かったら(つまり昔のジャズ音ではなく)…という唯一の不満が初めて解消され、ハリスのいつものブルージーで、ゆったりと深みのある演奏すべてがとても気持ちのいいクリアーな音で楽しめたことである。これによりハリス的聴き方の楽しみが倍加した。やはりいい奏者にはいい録音が必要だ(この後に吹き込んだ日本制作盤も音は良い)。このアルバムは冒頭の〈Sweet Pea〉をはじめ、どのトラックもメロディアスで実に聞かせるが、「At The Jazz Workshop」でのバラードの名演 〈Don't Blame Me〉を長年愛聴してきた者としては、円熟したハリスによるこの曲の再演もまた嬉しい。もっともっと長生きしてほしいものだ。

2017/04/21

優しき伴走者:デューク・ジョーダン

バド・パウエルやケニー・ドリューと並んで、アメリカからヨーロッパに移住したピアニストの一人がデューク・ジョーダン Duke Jordan(1922-2006)だ(ジョーダンは1978年にコペンハーゲンに移住)。1940年代後半にチャーリー・パーカーのグループで活動し、パーカーのダイアル盤では短いが実に美しいイントロを弾く初期のジョーダンの演奏が聞ける(その当時に知り合った白人歌手、シーラ・ジョーダンと1952年に結婚している。1962年離婚)。ボクサーになろうかというくらい腕っぷしが強かったようだが、反対に性格は優しく人柄の良い人だったようだ。彼の音楽を聴けばそれは誰でもわかる。映画「危険な関係」の作曲者の件でダマされた(?)のも、そういう人物だったからなのかもしれない。50年代前半にはテナー奏者スタン・ゲッツ (1927-1991)の伴奏者として多くのアルバムに参加しているが、絶頂期だったゲッツの当時の名盤の1枚「スタン・ゲッツ・プレイズ Stan Getz Plays」(1952 Verve/ Jimmy Raney-g, Bill Crow-b, Mousie Alexander-ds)で、美しく流麗なゲッツのソロの背後で、目立たずに優しく抒情的な雰囲気を作り出しているのは、間違いなくジョーダンのピアノである。

数多いジャズ・ピアニストの中でも、デューク・ジョーダンはトミー・フラナガンと並ぶイントロの名人である。2人とも長い活動期間を通じて数多くの作品に参加しているが、しゃしゃり出ずいつも控えめでいながら、そのイントロやメロディ・ラインの美しさで必ず聴く者をはっとさせ、そしてどの演奏も常にジャズのフィーリングに満ちているところも同じだ。そこに日本の優れた職人気質と共通の美意識を感じることから、私はトミー・フラナガンを「誇り高きジャズピアノ職人」と称しているが、同じ理由でデューク・ジョーダンもその職人仲間である。けれどフラナガンの近寄りがたいほどの「誇り」と都会的洗練に対し、美しいがもっと親しみやすく、素朴でどこか人肌の温かさを感じるのがジョーダンなのだ(日本の職人さんにもいますね、両方のタイプが)。早いパッセージでもスローな曲でもそれは変わらず、いつでも人間味の感じられる演奏がジョーダンの魅力だ。フラナガンもジョーダンも、ピアニストとしてジャズ史に残るような芸術家ではないが、2人のどの演奏からも、誰もがジャズの魅力を感じとることのできる素晴らしいジャズ演奏家だ。

デューク・ジョーダンがリーダーのアルバムも数々聴いてきた。Blue NoteSignal1978年のデンマーク移住後の多くのSteeple Chase盤、後年の日本での何作かの録音など(「Kiss of Spain」他)、ジョーダンは70年代以降非常に多くのトリオ・アルバムを吹き込んでいるが、ピアノ・トリオとしてのアルバム完成度は、初のヨーロッパ録音で、印象的なアルバム・ジャケットで知られる「フライト・トゥ・デンマーク Flight To Denmark」(1973 Steeple Chase/ Mads Vinding-b、Ed Thigpen-ds)がやはり一番だろう。アルバム全体から聞こえてくる哀愁とでも呼びたい抒情と優しいメロディは、いかにも日本人が好むもので、他のピアニストには決して出せない類の情感だ。このアルバムはどの演奏も耳に心地よいが、特に「バルネ」でのウィランとの共演や、その後もジョーダンが何度も弾いている愛奏曲〈Everything Happens to Me〉は、実にしみじみとして美しく、このアルバムでのエレガントな演奏が最高だと思う。マット・デニス (vo) の曲で、本人を含めて様々なミュージシャンがインストでカバーしているが、私はデューク・ジョーダンの演奏がいちばん好きだ。ジョーダンはこのレコードの評価によって、タクシー運転手をするなど苦しかった60年代の生活からやっと抜け出してジャズ・シーンに復帰し、その後はデンマークに移住してSteeple Chaseに多くのアルバムを残すのである。

とはいえ、どうしても最後に私が戻ってくるのは、フランスのSwing/Vogueレーベルからリリースされた初リーダー作「デューク・ジョーダン・トリオ」(1954/ Gene Ramey-b, Lee Abrams-ds)である。この素朴なピアノ・トリオには、上に述べたジョーダンの資質が見事に凝縮されていて、シンプルで美しく、どことなく哀愁の漂う、そしてよく歌うメロディ…とジョーダンの原点のような演奏ばかりだ。チャーリー・パーカーも絶賛したイントロで有名な〈Embraceable You〉、そして美しいバラード〈Darn That Dream〉 など、何度聴いてもしみじみするいい演奏なので、ジョーダンを聴いていると結局最後はいつもこの地味なアルバムに戻ってくるのだ。”しみじみしたい”人は、ぜひデューク・ジョーダンを聴いてみてください。