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2017/10/29

モンクを聴く #13 : Concert Live (1961-69)

モンクはクラブ出演以外に米国内の数多くのコンサートに出演しているが、本書を読むとその公演スケジュールの過密さは驚くほどである。3回の通算約8年間におよぶキャバレーカード無効期間のために、ニューヨーク市内のクラブ出演機会が限られ、やむを得ず国内のコンサート公演とニューヨーク以外の都市のクラブ出演に力を入れざるを得なかったからだ。またヨーロッパを中心に海外ツアーにも頻繁に出かけていたので、ブートレグを含めて数多くの海外コンサートのライヴ録音も残されている。演奏の質という点からすると、コンサート・ライヴはクラブ・ライヴとスタジオ録音の中間にあって、当然ながらクラブほどの自由さと熱狂はないが、スタジオほどの作られ感がなく、多少よそ行きだがバランスの取れた演奏を記録した好録音が多いのが特長だ

Two Hours with Thelonious
(Fresh Sound/
Orig.Rec.1961 Riverside)
第25章 p450-
1961年春、モンク7年ぶりのヨーロッパ訪問となり、ジョージ・ウィーンがアレンジした初のヨーロッパ・ツアーにおける各国での公演は、イギリスでの評判を除けば大成功だった。特に1954年の初訪問で散々な評判だったパリでは、熱狂的な聴衆に迎えられた。だが本書にあるように、その時イタリアのミラノのコンサートでは、アーティストとレーベルという関係は終わったも同然だったが、契約上もう2枚のLPを制作する権利を有していたリバーサイドが、イタリアではモンクがあずかり知らない内に現地で録音していた。その音源と別途入手したパリ公演の録音を合わせて、1963年に『Two Hours with Thelonious』と題した2枚組のLPでリリースしたのだ。現在入手できるCDは、Fresh Soundの同タイトルのCDの他、418日パリ「オリンピア」劇場での『Live in Paris』(フランス放送協会による録音)、421日ミラノ「テアトロ・リリコ」での 『In Italy』(リバーサイドによる録音)という単独盤がある。この時のチャーリー・ラウズ(ts)、ジョン・オア(b)、フランキー・ダンロップ(ds)という新しく結成したカルテットによる他の公演も、その後ドイツ、オランダ、スウェーデンなどの現地ラジオ局が放送した音源などを元にレコードとしてリリースされている。演奏曲目はどの公演も<Jackie-ing>で始まり、モンクお馴染みの名曲が並んでいる。これらは精神、肉体ともに音楽家モンクの絶頂期とも言える時期の録音で、新カルテットもツアーを通じて徐々に安定度と緊密さを高めていたこともあって、この1961年のヨーロッパ録音はどれも安定した、高水準のコンサート・ライヴ演奏である。

Monk in Tokyo
(1963 Columbia)
第24章 p499-
モンクの初来日ツアーは196359日から6都市を巡る2週間で、東京では3回公演を行なったが、521日の「サンケイホール」での最終公演を記録したのが『モンク・イン・トーキョー Monk in Tokyo』である。欧米での音楽家としての評価を含めて、当時は人気的面ではモンクの絶頂期だったが、本書を読むと、1963年というのは精神的、肉体的コンディションとしては微妙な時期だったようだ。このツアーでは、チャーリー・ラウズ(ts)、フランキー・ダンロップ(ds)は変わらないが、来日直前の「バードランド」のギグで、ベース奏者のジョン・オアが店主オスカー・グッドスタインと喧嘩して辞めてしまったために、急遽当時23歳のブッチ・ウォーレンが代役として参加した。しかしこの東京公演では、お馴染みのモンクの有名曲ばかりとは言え、モンクも好調そうで、バンドも非常に安定したパフォーマンスを見せているし(多少よそ行きの感はあるが…ツアー疲れか?)、録音も良く、数あるモンクのコンサート・ライヴ録音の中でも最良の1枚だろう。何よりこの録音には、当時の日本の聴衆が、いかにモンクの来日を心待ちにしていたのか伝わってくるような、会場の熱い雰囲気もよく捉えられている。この時の全東京公演の司会をつとめたのが相倉久人氏だった。この来日では、モンクに傾倒していたピアニストの八木正夫や、その後も来日のたびにアテンドした京都のジャズ喫茶「しあんくれーる」店主の星野玲子氏とも知り合った。帰国直前の523日には東京放送(TBS)でテレビ放送用の録画もしており、<エヴィデンス>、<ブルーモンク>など5曲を演奏しているが、このTV映像も残されていて、演奏と共にこの時のモンクの衣装もアクションも見ものだ。モンクはその後1966年にラウズ、1970年には後任のテナー奏者ポール・ジェフリー他を擁したカルテット、1971年にはジャイアンツ・オブ・ジャズ一行のメンバーとして来日している。

Live at the 1964
Monterey Jazz Festival
(Universal)
第26章 p540-
 
1964年9月、前年に続いてモンクは西海岸のモントレー・ジャズ・フェスティバルに登場した(LAの「The It Club」、SFの「The Jazz Workshop」出演の前月である)。この時のドラムスはベン・ライリーで、当時レギュラー・ベーシストだったラリー・ゲイルズが手を負傷したために、スティーヴ・スワローが代わってベースを担当している。カルテットでは<Blue Monk>, <Evidence>,<Bright Mississippi>,<Rhythm-a-Ning>を演奏し、さらに前年実現しなかった大編成によるモンク作品解釈という企画で、バディ・コレットが「Festival Workshop Ensemble」として<Think of One>, <Straight, No Chaser>という2曲を、モンク・カルテットに自身を含む 西海岸のプレイヤーによる4管を加えたオクテット用に編曲して演奏した。本書によれば、このアンサンブルは現地では大好評を博したということだが、確かに大編成バンドによるモンク作品の演奏は、どれを聴いても、とにかく興味の尽きない面白さがあるので個人的には大好きだ。ここでのモンクはカルテット、FWEとも好調である。

Paris 1969
(2013 Blue Note)
第27章 p597
モンクは1963年以降頻繁にヨーロッパ・ツアーに出かけ、現地録音も数多く残しているが、60年代後期のモンクのライヴ録音で、最も印象深いのは1969年のヨーロッパ・ツアー最終日12月5日のパリ「サル・プレイエル」での公演だ。当時は、ベースのラリー・ゲイルズの後任になったウォルター・ブッカーもモンクの病気による活動休止でバンドを去ったために、バークリーにいた若い白人のネート・ハイグランドを雇ったものの、次に5年間在籍したベン・ライリーもバンドを去ってしまう。代わりのドラマーを探していたモンクがツアー直前にやっと見つけたのが、まだ17歳の高校生で息子のトゥートより若いパリス・ライトだった。当然ながら、ほとんどリハーサルなしという、モンク流のいつものやり方でライトがいきなり臨んだヨーロッパでの演奏が大変だったことは予測がつくが、パリのこの舞台では、当時ヨーロッパに住んでいたフィリー・ジョー・ジョーンズが、途中<Nutty>でライトに代わって登場するというハプニングがあり、バンドが生き返ったようになる。前歯は抜けていても、フィリー・ジョーのドライヴ感は相変わらずだしかし、体調やバンドがそうした厳しい状況にあっても、当時52歳のモンク自身は、どの曲でも依然として創造力に満ちた魅力的なピアノ演奏を繰り広げているのだ。多分アンコールと思われる<Don't Blame Me>,<I Love You Sweetheart of All My Dreams>, <Crepuscule with Nellie>というソロ演奏は、聴衆の熱狂的な反応を呼び起こしている。晩年になってからのモンクの抑制されたピアノ・ソロは、深い味わいと美しさがあって、どの演奏も素晴らしい。本書によれば、それは引退の直前まで変わらなかったようだ。ブルーノートが2013年にリリースしたこの音源(TV放送用映像)には、CD/DVDのセットがあるが、当時のモンクの姿が貴重な映像として残されているこの公演の模様は、ぜひTV放送された映像を記録したDVDで見ることをお勧めしたい。モンクに往年のエネルギッシュさはないが、録音が非常にクリアなこともあって、モンクと彼の音楽は晩年になっても素晴らしかったことを再認識するはずだ。(ライナーノーツはロビン・ケリーが書いている。またDVDの最後には、この時のモンクの楽屋裏の姿やフランス人ベーシスト、ジャック・ヘスによる短いインタビューも収録されている。

モンク単独のヨーロッパでのコンサート出演は、1954年のパリに始まり、15年後の1969年末に同じ場所「サル・プレイエル」でこうして終わりを迎えた。この直後にはついにチャーリー・ラウズもバンドを去り、代わってジミー・ジェフリーがテナーを吹いた翌1970年10月のニューポート・ジャズ祭の日本公演を最後に、モンク・カルテットとして出演したツアーは終わり、以降はジョージ・ウィーン主催の「ジャイアンツ・オブ・ジャズ」ツアー・メンバーの一員としての参加がモンクの主なコンサート活動となる。その後1973年からはほぼ活動を止め、1976年6月の「カーネギー・ホール」における単独コンサートが、モンクの人生で最後の公演の場となった。

2017/10/19

モンクを聴く #8:with Charlie Rouse (1959 - 70)

ジョニー・グリフィンに代わって短期間だけ参加したニー・ロリンズが去った後、ウェイン・ショーターを含む多くの後任テナー希望者があった中、モンクが選んだのはチャーリー・ラウズ(1924-1988)だった。ラウズは1958年末にモンクのバンドに加わり、その後1970年に辞めるまで約11年間在籍した。ラウズも当初は前任のテナー奏者たちと同じく、モンクの音楽を理解、吸収するのに苦労していた。しかし、ラウズがロリンズ、コルトレーン、グリフィンと違ったのは、共演することでモンクと対峙し、テナー奏者として成長しただけでなく、その長い在籍期間を通じて完全にモンク・バンドにとって欠かせない一部となって行ったことだ。モンクはラウズの存在ゆえに、長いキャリアを通じて初めて、自分のサウンドを自由に追求できる安定したワーキング・バンドを持つことができた。その間メインのドラマーはフランキー・ダンロップからベン・ライリーに、ベーシストはジョン・オアからブッチ・ウォーレン、ラリー・ゲイルズ等に代わったが、ラウズはテナー奏者として一貫してモンク・カルテットの要として活動を続けた。モンクの音楽を理解し、モンクの意図を汲み取り、モンクを助け、バンドを献身的に支える役目も果たした。1960年代を通じて築かれたモンクーラウズの独特の共生関係は、他に例を見ないような一体感をバンドにもたらしたが、一方で、代わり映えのしないカルテットのフォーマットとサウンドに、やがて音楽的には時に批判の対象ともなった。前任者たちのような “華” はないが、そうした批判にも耐え、リーダーのモンクが常に快適でいられるように場をまとめ、同時にモンクが目指すサウンドを一緒に作り上げたラウズのミュージシャン、サイドマンとしての能力と人格は、決して過小評価すべきではないだろう。

5 by Monk by 5
(1959 Riverside)
第20章 p402
ラウズのモンクとの初録音は、19592月の「タウンホール」コンサートでのテンテット(10重奏団)だった。そしてリバーサイドにおける最初のコンボ録音となったのが、19596月初めの『ファイブ・バイ・モンク・バイ・ファイブ 5 by Monk by 5』である。サム・ジョーンズ(b)、アート・テイラー(ds)という当時のレギュラー・カルテットに、カウント・ベイシー楽団の花形トランペッターだったサド・ジョーンズがコルネットで客演したクインテットによるアルバムだ。新作<プレイド・トゥワイス>、<ジャッキーイング>に加え、<ストレート・ノー・チェイサー>、<アイ・ミーン・ユー>、<アスク・ミー・ナウ>などすべてモンクの自作曲だ。まだ加わって半年ほどだったが、前任者たちと比較され、当初厳しい批判を受けていたラウズのソロは、ここでは一皮むけたように流麗だ。モンクにとってリバーサイド最後のスタジオ録音となったこのアルバムはどの曲も名演だが、何よりも演奏全体に自由と躍動感が満ちているところがいい。サド・ジョーンズの参加によるバンドへの刺激とクインテットという編成の違いはもちろんだが、それを生み出している大きな要因が、モンクのあの独特のリズムに乗ったアブストラクトなコードによるコンピングで、とりわけ空に向かって飛んで行きたくなるような<ジャッキーイング Jackie-ing>の開放感は最高だ。アート・テイラーのイントロのドラムス、ラウズとサド・ジョーンズのソロも素晴らしい。シカゴの作家フランク・ロンドン・ブラウンが、この曲に触発されて書いたという小説「ザ・ミス・メイカー The Myth-Maker」のくだりを本書で読んで、私は自分とまったく同じ感覚を抱いた人が半世紀前にいたのだ、と驚くと同時に非常に嬉しくなった。これぞ「モンク的自由」を象徴するようなサウンドだと思う。この曲はモンクも気に入って、その後しばらくコンサートのオープニングに使うなど、何度も演奏された。自分の姪の名前 「Jackie」に「-ing」を付けるモンクの言語センスも素晴らしい。

Monk's Dream
(1962 Columbia)

第24章 p488
Criss-Cross
(1963 Columbia)

第24章 p496
この時期(19571962年頃)のモンクは、何をやっても生涯で最も冴えわたっていたと思う。この期間は、一時期を除きモンク的には稀な、精神的にも肉体的にも非常に安定した状態が比較的長期にわたって続いていたからだ。好評だったラウズ(ts)、ジョン・オア(b)、フランキー・ダンロップ(ds) というカルテットによる1961年の2ヶ月近いヨーロッパ・ツアー等を通じて、固定バンドとしてこれまでにない一体感を高めたモンクのバンドは、翌19629月のリバーサイドからコロムビアへのモンクの移籍に伴い、10月末からデビューLP『モンクス・ドリーム Monk’s Dream』の録音を30丁目スタジオで開始した。リバーサイド時代との重複を避けるために、曲は慎重に選ばれ、<ロコモーティヴ>、<バイ・ヤ>、<ボディ・アンド・ソウル>、<モンクス・ドリーム>など従来録音機会の少なかった曲や、<スウィート・ジョージア・ブラウン>を基にした新曲で、これも躍動感に満ちた<ブライト・ミシシッピ>を加えた。バンドの好調さを示すかのように、このアルバムはどの曲でも安定感のある演奏を聞かせ、各プレイヤーも自分の役割を完全に理解、消化した上で演奏している様子がよくわかる。50年代末のような予測不能性やわくわくするような刺激は薄れたかもしれないが、モンクは初めて自分の思い通りのサウンドを自由に出せるバンドを手に入れたと言える。また大手コロムビアとの契約と、このデビュー・レコードは世の中の注目を集め、モンクは初めてスター・ミュージシャンの仲間入りを果たし、かつてない名声を得るのである。モンクもラウズも、ダンロップもオアも、おそらくこのアルバムと、続く『クリス・クロス Criss-Cross』(1963)の2枚が、60年代にコロムビアに残したスタジオ録音としては最上のレコードと言えるだろう。

Straight, No Chaser
(1966 Columbia)
第26章 p567
Underground
(1967 Columbia)
第27章 p579
1960年代後半になると、肉体や精神の不調もあって、モンクの作曲への意欲や創作エネルギーは徐々に衰えつつあったが、1966-67年にバド・パウエル、エルモ・ホープ、そしてジョン・コルトレーンという盟友3人を相次いで失うという悲運が、音楽家モンクの精神の安定と創造意欲にとどめのような一撃を与える。またコロムビアの商業主義とは相容れない芸術家モンクの葛藤や不満も、徐々に高まっていたことだろう。ロックやフォーク、ポップスに押され、音楽としてのジャズそのものの衰退も明らかだった。したがってこの時期のレコードには、60年代前半までのモンクにあったような活力はあまり感じられないが、代わって成熟した安定感のあるバンドといった趣が強い。『ストレート・ノー・チェイサー Straight, No Chaser』(1966) と、『アンダーグラウンド Underground』(1967) という2枚のアルバムは、ラウズに加え、ドラムスのベン・ライリーとベースのラリー・ゲイルズというシュアな2代目リズムセクションとなって、タイム、リズムともにモンク・カルテットが最もバランスの取れた演奏をしていた時期でも最良の演奏を記録したものだろう。また新曲として、前者には日本公演時に覚えた<ジャパニーズ・フォークソング(荒城の月)>を、後者には<アグリー・ビューティ>、<レイズ・フォア>、<ボーボーズ・バースデイ>、<グリーン・チムニーズ>という新作4曲も久々に加えている。

しかしモンクの精神的不安定さと、体調が理由でギグをキャンセルしたりすることが徐々に増えていったこともあって、1969年には5年間在籍したベン・ライリーが去り、チャーリー・ラウズも翌1970年についにモンクの元を離れた。50年代のロリンズ、コルトレーンと同じく、ラウズもまた、モンクとその音楽の目指す方向性に忠実に、しかも長期にわたって従ったミュージシャンだった。映画『ストレート・ノー・チェイサー』で、モンクとの録音セッションやインタビューを受けるラウズの姿が見られるが、画面や言葉からもその人柄や誠実さがよく表れている。ラウズはこの映画の公開(1989年)を待たずに、19881130日にモンクと同じ享年64歳でシアトルで亡くなる。そして奇しくも同じ日に、あのニカ男爵夫人もニューヨークで亡くなっている。