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2019/07/14

ビッグバンド・ジャズを聴く

6月末に紀尾井ホールで行なわれた「角田健一ビッグバンド定期公演」に出かけた(年2回やっているらしい)。紀尾井ホールは、2017年夏の山中千尋のコンサート以来だ。出かけた理由は、どういうわけか、春先に何となく、生のビッグバンドのサウンドを急に聴いてみたくなって、チケットを予約しておいたからだ。角田健一ビッグバンド(通称 “ツノケンバンド”)の予備知識はほとんどなかったが、角田さんはトロンボーン奏者として宮間利之や高橋達也等の複数の著名ビッグバンド在籍を経て、1990年に自分のバンドを立ち上げたらしい。ジャズだけでなく、武満徹の音楽に挑戦するなど、野心的な試みも行なっているリーダーだ。私も1枚だけ録音の良いCDを持っていて(『Big Band Stage』)、これは以前オーディオ的興味で購入したもので、優れた録音のCDだが、ビッグバンドは音域とダイナミックレンジが広く、しかも音にスピードと厚み、迫力があるので、音響的にもやはりライヴで聴くのが最高だ。例によって会場の観客層(満員だった)を目視分析すると、予想通り、自分より一世代上の世代とおぼしき高齢男女がほとんどだった(つまり平均70歳代半ばくらいか)。穏やかな口調でMCも兼ねて進行するリーダーの角田さんは、いろいろ企画を立てて、子供からお年寄りまでを対象に、ビッグバンドの普及に努めておられるようで、会場には子供たちの姿も見られた。当然だが年齢層からして、半分居眠りをしているような人も中には見受けられたが、<イン・ザ・ムード>、<ムーンライト・セレナーデ>をはじめ、誰でも知っている往年のビッグバンドの名曲をずらりと並べ、アンサンブルとソロをバランスよく組み合わせた演奏とサウンドは、滑らかでよく練り上げられ、予想以上に素晴らしいものだった。編成はピアノ、ベース、ギター、ドラムスに、各種サックスとブラス(金管)セクションが加わった標準的なもので、昔はやかましいと感じていたブラスのサウンドも、紀尾井ホールの音響がまろやかなことも影響しているのか、非常に快適で楽しめた。

長年ジャズを聴いてきたが、正直言うと、ビッグバンドは苦手だった(聴いていたのは秋吉敏子くらいだ)。昔から好んで聴いてきたのは、少人数コンボによるジャズばかりである。理由は、基本的に大勢で一緒に何かをする団体行動というものが生来嫌いなこと、一糸乱れぬ統率された演奏とサウンド(合奏)というイメージがどうも苦手、音的に複数のブラス楽器の高音がうるさい、という3点だ。前2者はまったく個人的な嗜好、性格(非体育会系)によるものだが、そもそも規則に縛られない、自由な個人の音楽であることがいちばんの魅力であるジャズに、組織や規律を思い切り導入して個人を制御する、というコンセプトがよくわからない。クラシックと違って、本来そういう規則、約束ごと、支配を好まない人間が、ジャズを演奏したり、聴いたりするものではないか――というような疑問である。ブラス・セクションの音数の多さと高音がやかましい、というのはサウンド上の好み、あるいは聴感そのものの問題なのだろう(やたらと耳につく昔のブラスバンドのイメージ)。もともとシンプルでモノトーン的な音楽世界が好みなので、音数の多い、きらびやかな音楽は苦手なのだ。ピアノのデュオ(連弾)が嫌いなのも同じ理由である。たぶん若いときは、高音に対する聴覚が敏感なことも影響しているのか、とも思う。

The Popular Duke Ellington
1966
しかしよく考えてみれば、ジャズは1930年代のスウィング・ジャズ全盛時代まではビッグバンドが主体で、そもそもは唄ったり、踊ったりするための伴奏音楽として発展してきた音楽なのだ。それがデューク・エリントン、カウント・ベイシー、グレン・ミラー、ベニー・グッドマンのような有名な大編成バンドの最盛期である。バンドが少人数になり、音楽だけを独立して演奏し、クラシックのように「聴衆」としてそれを聴くのが当たり前のようになり始めたのは、1940年代後半のビバップ登場以降だ(1950年代半ばのニューヨークのクラブでさえ、まだスモールコンボの伴奏で客が踊るのが普通だったらしい)。上記バンドや、クロード・ソーンヒル、スタン・ケントンなどの白人ビッグバンドから、ビバップ以降も数多くのスター・ソロ奏者や、クールジャズでマイルスにも多大な影響を与えたギル・エヴァンスのような名アレンジャーが生まれて来た。日本でも戦後の進駐軍以降はアメリカ流になり、昔(1960-70年代)はスマイリー小原、原信夫、高橋達也、宮間利之などのリーダーに率いられていた生ビッグバンドが、テレビ番組や舞台のショーの歌や踊りの伴奏音楽としてかならず出演していたように思う。したがって今回の観客層のような私より一世代上の人たちが若いときには、「ジャズ」と言えばそうした音楽を意味していたのだろう。石原裕次郎や日活映画全盛期の、あのナイトクラブやキャバレーで演奏される、きらびやかなジャズというイメージである。ロックやポップスが登場するまで、日本でもそうした「ジャズ」が唄って踊れる音楽だったのだ。しかしアート・ブレイキー他が来日してファンキー・ブームが起こった60年代からはその日本でも、「聞かせる」スモールコンボのモダン・ジャズが徐々に主流になり、エレキギターを使うロック系も台頭し、何より70年代の「カラオケ」の登場が、こうした生ビッグバンド(生オケ)の仕事場と、そこで働くバンドマンの生活の糧を徐々に奪って行ったことは間違いないだろう。大昔のニューヨークで、無声映画からトーキー(今の音声付映画)の時代になって、映画館で生演奏をしていた多くのミュージシャンが失業したときと同じだ(例えが古すぎるか?)。そういうわけで、ビッグバンド・ジャズは確かに伝統的ジャズではあるが、大学のバンドやブラスバンドなど音楽教育の場だけで生き残った、古臭くてやかましい昔の音楽、というのが私的イメージだったのだ。

Big Band Stage
角田健一ビッグバンド
2011 Warner Music
ところが、ツノケンバンドのよく制御され統率のとれたオーソドックスな演奏とそのサウンドは、予想に反して聴いていて非常に心地良かった。爽快でさえあった。ビバップが作った「自由な個人による自由な即興演奏」というモダン・ジャズのイメージはもはや大昔のもので(幻想か?)、ハードバップ(定型化)、フリー(解体)を経て、1970年代のマイルスの電化サウンド導入以降は、フュージョンも含めて、全体が組織的に統御された演奏とサウンドがジャズでも主流になった。もう突出した個人の創造性だけに頼る音楽ではなくなり、基本的にみんなで調和しながらアレンジされた演奏をするエンタメ音楽になった。これはつまり、ある意味でスウィング時代のジャズへの先祖返りと言えないこともない。1960年代の混沌とした政治状況とその反映でもある行先の見えないフリー・ジャズ時代の後、反動として1970年代にわかりやすいフュージョンが支持されたのも偶然ではなく、精神的バランスを取ろうとする人間心理が働いて、社会全体として、そうした安定した世界を音楽にも求めたということなのだろう。その後20世紀末からインターネット時代になって数十年経ち、今や世界中で溢れる洪水のような(しかも似たような)情報に誰もが振り回されるようになって、頭の中が日常的にどこか混沌とした状態になり、しかも将来が不安だらけということになると、時代の気分として、みんなそれを逃れて、分かりやすく、きちんと統制の取れた落ち着いた音楽を求めたくなるのではないかという気がする(これはジャズに限らない。分かりやすいメロディを持つ ”あいみょん” の音楽が支持されるのも同じ現象だ)。世代的にも、私には昔のビッグバンド・ジャズへのノスタルジーはまったくないので、おそらくツノケンバンドに対する自分でも予想外の反応と共感も、よく知っているメロディばかりという分かりやすさ、きちんと統率された組織が生む整然としたサウンドの美しさと安心感、各奏者の職人技のように磨き抜かれた破綻のないソロ演奏、聴いていて単純に楽しいと感じるスウィング感とサウンド……といったような要素が、複雑で分かりにくい現実から開放してくれる、一種のカタルシス効果を与えてくれたからではないかと思う(もちろん、こちらが年をとったせいもあるだろうが……)。いわば、ごちゃごちゃになったコンピュータのファイルを、リセットしてきれいに整理整頓し直したときのような爽快感が後に残って、この世界も悪くないなと思ったのだ。確かに、ジャズの原点とはこういうものだったのだなあ、と思わず再認識させられた気もした。

The Monk : Live at Bimhuis
狭間美帆
2018 Universal
実を言えば、それまで秋吉敏子のバンド以外まともに聞いたことのなかったビッグバンドへの私の興味に火をつけたのは、2017年の「東京ジャズ」で聴いた、狭間美帆が指揮したデンマーク・ラジオ・ビッグバンド(DRBB)だった。リー・コニッツ目当てで出かけたものの、このビッグバンドと各ソロ奏者の共演が新鮮で、特にビッグバンドの多彩なリズムとサウンドが斬新で、今まで聴いてきたどんなジャズバンドにもない魅力と可能性を感じたのである。『セロニアス・モンク』翻訳作業を通じて聴いた、モンクがホール・オヴァートンと共作した、自作曲自演による2回のビッグバンド公演ライヴ録音の独創性と面白さをあらためて知ったことも、興味を持ったもう一つの要因だった。そのモンク作品を、2017年「東京ジャズ」の直後に、狭間美帆がオランダのメトロポール・オーケストラを指揮してライヴ録音したアルバムが『The Monk: Live at Bimhuis』(2018)である。これはもう、モンクの音楽を現代のジャズ・アレンジと大編成バンドで聞かせてくれるという、個人的に望んでいた最高の組み合わせであり、どの曲も大いに楽しんでいる。オヴァートンと同じように、クラシックの作曲科出身で、ジャズ畑奏者の出身でないところが狭間美帆の作る音楽のユニークさの主因なのだろう。今年10月には名門DRBB初の女性主席指揮者に正式就任するという話なので、今後彼女の発信する音楽も非常に楽しみである。伝統的で超オーソドックスな角田健一ビッグバンドも、狭間美帆の現代的アレンジによる斬新なジャズ・オーケストラも、今後ジャズを聴く楽しみの幅を大いに広げてくれそうだ。

2017/09/15

「作曲家」 セロニアス・モンク(1)

Brilliant Corners
(1956 Riverside)
『セロニアス・モンク 独創のジャズ物語』のロビン・ケリーの原書には、モンクのアルバム、映像作品の簡単なリストが参考資料として巻末についているだけで、詳細なレコード情報などはない。ただし、初録音情報などを記した自作曲のリストがある。既述のように、この本はモンクの音楽やレコードの分析を主題にしたものではなく、またその種の本は既にいくつも書かれているので、著者も敢えて付け加えるつもりはなかったのだろう。ただし本文中には、年代ごとにレコーディング・セッションと演奏曲に関するかなり詳細な記述がある。しかし、それらは文章の流れの中で触れており、またジャケット写真を含めてリリースされたレコードに関する情報がほとんどないので、読んでいてどのレコードなのか具体的に知りたいと思う読者もいることだろう。今はインターネットで調べればほとんどの情報は個別に辿ることができるが、それでは読者に不親切なので、コニッツの本と同じくジャケット写真付きの簡単なディスコグラフィーを作成して、巻末に参考用として添付しようかと思っていたが、既述の通り大部の本となってしまい、ページ数の制約もあるので、自作曲のリスト共々今回は難しいということになった。そういうわけで、モンクの代表的レコードについて、本書を参照しながら時系列で確認できるようなレコード・ガイドをこのブログ上で書こうかと考えていた。ところが、考えているうちに、それは何か違うのかなと思い始めた。モンクには『ブリリアント・コーナーズ』のような傑作とされる名盤も確かにあるのだが、それは、例えばマイルスの『カインド・オブ・ブルー』やコルトレーンの『至上の愛』、ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』のような、誰もが思いつくジャズの決定的名盤とは、一般的人気度という見方は別にしても、どこか「性格」が違うでのではなかろうかという疑問である。

リー・コニッツの時と同じく、モンクの本を翻訳中ずっとモンクのレコードを聴きながら作業していたのだが、何度も繰り返して聴いているうちに改めてその感を深めたことがある。それは、モンクの演奏は1940年代のまだ若い時も、中年になった1960年代も、音楽の骨格そのものにはほとんど変化がないということだ。普通のジャズ・ミュージシャンは、年齢と経験を重ねてゆくうちに、時代と共にその演奏スタイルやサウンドも徐々に進化あるいは変化してゆくものだ。ディスコグラフィーに沿った年代別の聴き方をしていると、素人耳にもそれははっきりとわかるもので、聴き手としてはそこがまたジャズの面白い部分でもある。ところがモンクは、初のリーダー作である1947年のブルーノート録音の時から既にモンクそのもので、最後のスタジオ録音となった1971年のブラック・ライオンの『ロンドン・コレクション』に至るまで、音楽上の造形にはほとんど基本的に変わりがないように聞こえる。もちろん年代や、録音時のコンディションや、共演相手によって演奏には当然ある程度の変化はあるのだが、基本的には30歳代も50歳代の音楽も一緒なのだ。要するに、モンクは最初からずっと「素晴らしくモンク」なのである。本人も、またネリー夫人も語っていたように、何十年も前と何も変わったことはやっていないのに、1950年代の終わり頃になってから音楽家として急に脚光を浴び、世間の認証が得られたのは、「世の中のモンクの聴き方」の方が変化したからだ、ということなのだろう。ジャズ・ミュージシャンとしてこれは特異で驚くべきことに違いないし、ジャズ史にこのような人物は他にはいない。

プロのジャズ・ミュージシャンや批評家、真にコアなモンクファンを別にすれば、おそらく普通のジャズファンは、レコードを聴きながらジャズ・ピアニストとしてのモンクの演奏を楽しみ、聴いているのではないかと思うし、私もこの本を読むまでは長年そういう聴き方をしていた。もちろん作曲家であることも、<ラウンド・ミッドナイト>や<ルビー・マイ・ディア>のような名曲の作曲者であることも知識としては当然知ってはいたが、レコードを聴くときは普通のジャズ・ピアニストを聴くときのように聴いていたし、同じ曲を何度も取り上げていても、代表的レコードから聞こえてくるその個性的な演奏の魅力を単に楽しんでいた。モンクの音楽を分析的に聞いたところで(しかもド素人が)少しも面白くないし、モンクにしかないあの開放感と不思議なサウンド、リズム、メロディを素直に楽しむのがいちばんいいからだ。しかし上述の自分の観察から、またこの本を読んで改めて理解したのは、モンクという音楽家はピアニスト以前に、本質的にまず「作曲家=composer」なのだということだった。

モンクは、即興演奏だけの単なるジャズ・ピアニストではなく、コンポーザー(作曲家)、アレンジャー(編曲者)、インプロヴァイザー(即興演奏家)という3つの資質を併せ持った稀有なジャズ・ミュージシャンだと言われている。タッド・ダメロンのようなビバップの作曲家もいるが、演奏家としてはモンクのような存在感はなく、またジャズの巨人と呼ばれてきた人たち、例えばマイルス・デイヴィスは作曲より、むしろ常に曲と演奏の全体的構造を考えるアレンジャーとしての資質が強く、ジョン・コルトレーンやソニー・ロリンズはほぼ真正のインプロヴァイザーだったと言えるだろう。そしてビル・エヴァンスやキース・ジャレットのようなピアニストを含めて、大方のジャズ・ミュージシャンはこのインプロヴァイザー型である。しかしクラシック音楽の世界では、モーツァルトやベートーヴェンの時代までは、音楽家は一人でこの3つの技術を持っているのが当たり前だったが、その後の歴史でこれらは徐々に分化し、曲を作る人、演奏する人、さらには全体の指揮をする人というように、専業化が進んで今のようになったと言われている(ただしショパンのように、ピアニストの一部には自作曲を演奏した音楽家もいた)。ジャズも初期の段階では、これらの技術は未分化だったが、クラシック同様に徐々に作曲(ポピュラー曲)、編曲、演奏という分化した専門技術から成る音楽となって行ったようだ。ジャズの始祖とも言われるバディ・ボールデンの後、それらの技術を一人で「統合」し、多くの有名曲を作り、編曲し、ピアノを通じてビッグバンドという自らの「楽器」を指揮することで、黒人音楽の伝統の上に高度な水準の音楽を創造した史上初の「ジャズ音楽家」が、スウィング時代に現れたデューク・エリントンである。ジャズ史におけるエリントンの偉大さはそこにあり、そして曲を単なる素材にした即興演奏の価値が一層重視されるようになったビバップ以降のモダン・ジャズ時代に、この3つの要素を統合し、一人3役の能力を持った音楽家として登場したのがセロニアス・モンクなのである。エリントンがモンクの音楽を直ちに理解したこと、モンクとエリントンの互いへの敬意を示す本書中のいくつかの逸話は、したがって非常に説得力のあるものだ。

Genius of Modern Music
(1947- 52 Blue Note)
モンクは1930年代から既に作曲を始めていたようだが、驚くことに、モンクの作った有名曲の多くが、まだ若かった1940年代(20歳代)に既に作曲されている。本書で描かれているようにモンク初のリーダーセッションとなったのが、1947年モンク30歳の時に、これらの自作曲を引っ提げて臨んだブルーノートへのスタジオ録音である。ブルーノートのアルフレッド・ライオンたちは、194710月から11月にかけて、セクステット、トリオ、クインテットで計3回、19487月にミルト・ジャクソンを入れたカルテットで1回、その後しばらくして19517月に同じくクインテットで1回、最後の録音となった19525月のセクステットで1回、と都合6回の録音セッション(78回転SP盤)を行なっている。1947年の録音では、<ルビー・マイ・ディア>、<ウェル・ユー・ニードント>、<オフ・マイナー>、<イン・ウォークト・バド>、<ラウンド・ミッドナイト>などが、1948年録音では<エヴィデンス>、<ミステリオーソ>、<アイ・ミーン・ユー>、<エピストロフィー>などが、1951年録音には<フォア・イン・ワン>、<ストレート・ノー・チェイサー>、<クリス・クロス>、<アスク・ミー・ナウ>、1952年録音には<スキッピー>、<ホーニン・イン>、<レッツ・クール・ワン>などが収録されている。こうして録音リストを見ると、実は上記ブルーノートにおける録音の時点で、モンクは既に自身の「名曲」の大半を作曲していたことがわかる。したがってこれらブルーノートの初期セッションをLP時代にまとめたレコード『Genius of Modern Music Vol.1,2,3』(Vol.3はミルト・ジャクソン名義)こそ、まさに音楽家セロニアス・モンクの原点だと言える。聴いていると、これらの演奏が1940年代の大部分の聴衆の耳には、あまりに先進的かつ個性的に聞こえ、理解できなかったという話もよくわかる。そして、上記セッションで気づくもう一点は、モンクが、ソロ以外のすべての演奏フォーマット(トリオ、カルテット、クインテット、セクステット)で録音していることだ。ブルーノートはメンバーの構成、人選を当初モンクに一任していたので、ビバップとは異なるコンセプトで自作してきた曲が、それぞれのフォーマットでどのような「サウンド」になるのか、モンクはひょっとして初期の録音の場で周到に実験していたのではないだろうか(あくまで想像です)。

At Town Hall (Live)
(1959 Riverside)
こうした1940年代のキャリアから見ても、モンクをモンクたらしめているのは何よりも作曲家 (composer) の資質だと言えるだろう(ただし本書に書かれているように、ピアノ奏者としてなかなか認められなかった当時の状況が、結果的にモンクの創造エネルギーをより作曲に向かわせたという一面はあるかもしれない)。そしてエリントンが自らのオーケストラで追求したように、モンクはソロの他に、トリオ、コンボ、さらには後年の「タウンホール」のビッグバンドなど、様々なアンサンブル・フォーマットで、これらの自作曲を「再解釈」しながら、新たな「サウンド」を探求し続けていたのだろう。つまり何よりも「作曲」こそが、モンクという音楽家の真のアイデンティティであり、音楽上の基盤だった。本書に書かれている1959年の「タウンホール」コンサートの準備段階で、モンクと編曲者ホール・オヴァートンの会話を録音したテープは貴重な記録だ。そこでモンクの曲を習得していたオヴァートンに対して、「聴くのは曲じゃない、サウンドだ」と語ったように、自身が作った「曲の構造とメロディ」から生み出し得る様々な「サウンドの可能性」を探求するために、モンクは生涯にわたって自作曲を数限りないヴァリエーションで解釈(アレンジ)し、演奏(インプロヴァイズ)し続けていたのだということが、ド素人の私にも「ようやく」分かったのである。

モンクの音楽は様々に語られてきたが、その全体像を短い言葉で的確に説明するのは不可能だろう。しかし唯一、1982年のモンクの死の直後、ジャズ批評家ホイットニー・バリエットが述べた、「モンクのインプロヴィゼーションは彼の作品が融解したものであり、モンクの作品は彼のインプロヴィゼーションを凍結したものだ」という比喩はまさに至言だと思う。「作曲と即興」が可逆的に一体化したものこそがモンクの音楽の本質だという見方である。普通の耳には摩訶不思議に響くのも、誰にもまねができないのも、思考するジャズ・ミュージシャンをいつまでも触発し続けるのも、そのような音楽は他に類例のない存在だからだ。そしてそこが、与えられた曲を単なる素材にして、自身のアレンジや即興演奏で様々に解釈する「普通の」ジャズ・ミュージシャンとモンクが根本的に違う部分なのだ。
(#2に続く)

2017/02/25

モンク考 (3) 人間モンクの魅力と才

本書を読んで知ったもう一つの事実は、天才音楽家モンクの創造人生を現実面で支えていたのはほとんど周囲の人々、中でも女性たちであったということだ。とは言っても芸術家によくある話とか、他のジャズ・ミュージシャンたちの伝記に描かれているような乱れた女性関係の話ではない。モンクの‟ピュア“さを裏付けるように、母親バーバラ、妻ネリー、真のパトロンだったニカ男爵夫人の3人をはじめ、親族である義理の姉や妹、姪たち、さらにモンクにストライド・ピアノの基本を教えたアルバータ・シモンズ、モンクの友人でありメンターのような存在だったメアリ・ルー・ウィリアムズという二人のピアニスト、さらにモンクの売り出しに奔走したブルーノートのロレイン・ライオンもそうだ。母親とネリー夫人は別格としても、他の女性たち全員が、天才だが普通に考えれば変人で、厄介な人物モンクとその音楽を愛し、彼を無償の愛で支えている‟女神”のようだ。モンクには男女を問わず誰もが魅了される何かが当然あったのだろうが、とりわけ女神(Muse)たちから全人的に愛された人物だったのだと思う。‟普通の“ ジャズに見られる激しいジャズ的エモーション、無頼感、モダンなクールさなどとは異なり、複雑でモダンなのに純粋、無垢、素朴、ユーモアが、温かさと美しさと常に同居しているモンクの音楽が放つ不思議な魅力は、おそらくこのことと大いに関係があるのだろう。

Thelonious Monk Quartet
with John Coltrane
at Carnegie Hall
1957 Blue Note
この本には多くのジャズ・ミュージシャンやサイドマンたち、プロデューサー、クラブオーナーたちとモンクとの逸話が登場するが、彼らがどうモンクと音楽的、人間的に関わり、どうモンクの音楽を理解、吸収したのか、あるいは逆に反発したのか、ということが史実として興味深く描かれている。私が感じた本書の魅力の一つは、ハービー・ニコルズ、エルモ・ホープ、アート・ブレイキー、ソニー・ロリンズなどの登場人物との関係に見られるように、これまではレコードだけを通じて、自分の中でいわば点としてバラバラに存在していた当時のジャズ・ミュージシャンたちが、20世紀半ばのニューヨークを舞台にしたモンクの物語の中で、一つのコミュニティとしてリアルに繋がってゆくことだった。そして、そこで描かれるモンクの人間味もまた魅力的である。

とりわけ、モンクのヒーローだったデューク・エリントン、恩人コールマン・ホーキンズ、愛弟子のバド・パウエルたちとの交流は感動的だ。1950年代後半のジョン・コルトレーンとの交流も描かれており、二人の当時の素晴らしい共演記録も一部残されているが、録音数が限られているのは実に残念なことだ。幸い2005年に奇跡的に発見されたカーネギーホールでの実況録音(1957年)が、当時の二人の最良の演奏を記録している。高次の音楽的交感という意味から言えば、おそらくロリンズと並んでコルトレーンこそがモンクにとって最高のパートナーだっただろう。そしてモンクの薫陶が、その後のコルトレーンに与えた音楽的影響の大きさもジャズ史では周知のことである。マイルス・デイヴィスが自叙伝でも述べているモンクとの歴史的(?)口論は何度か出てくる。人柄はまったく正反対だが(もちろんモンクは優しい人間だ)、結局二人ともお山の大将同士だったのだろう。それに、片や裕福に育ち、田舎から出て来て一旗上げようという野心を持ったマイルスと、貧乏だが基本的にはニューヨークという都会育ちのモンク、という二人の経歴の違いも少なからず影響しているだろう。モンクの方が9歳年長だったが、どちらも生まれついてのリーダー的性格で、人物、音楽上の能力から見ても両雄相並び立たずということである。しかし音楽的コンセプトは違っていたかも知れないが、二人は間違いなく互いに敬意も抱いていただろう。特に天才肌のモンクの音楽性と創造力にはマイルスはかなわないと思っていただろうし、モンクはマイルスの知性と構想力、統率力には一目置いていただろう。コルトレーンとの共演と並び、1954年のクリスマス・イブ、プレスティッジの2枚のLPに残された二人の巨人の伝説の共演記録は人類の宝である。

Miles Davis and
the Modern Jazz Giants
1954 Prestige 
スティーヴ・レイシーとのやり取りをはじめとして、教師、指導者としてのモンクの有名な発言(名言)のいくつかも本書に出てくる。いずれもサイドマンや第三者にモンク流の音楽思想を伝えるものだが、どれもジャズの真理を突いた含蓄に富む言葉ばかりである。だがその指導法は、同じ時代にジャズ演奏教育のための学校を初めて作り、体系的、組織的に教えようとした白人のレニー・トリスターノの近代的手法とは対極にある超個人的手法だ。しかも譜面を見せずに、聞かせる音だけで自作曲のメロディを覚えさせるという徒弟制度並みの方法である。この場合、モンクが「ほとんど喋らない」というのもポイントだろう。教わる側はそれで否が応でも集中せざるを得ないからだ。それによって頭で理解するのではなく、フィーリングで体得することができる(するしかない)。リハーサルなしで、出たとこ勝負の即興演奏ができたのもそうした訓練があればこそだ。だがそもそもは、やはりこれがジャズ伝承の原点なのだと思う。

モンクの天才の一つが作曲の才だが、本書を読んでいてあらためて感じたのは、モンク作品のタイトルの素晴らしさだ。月並みなティン・パン・アレーや、無味乾燥のビバップの曲名とは違い、「ラウンド・ミドナイト」や「ルビー・マイ・ディア」のような有名曲はもちろんのこと、「エピストロフィー」、「ウェル・ユー・ニードント」、「ミステリオーソ」、「ストレート・ノー・チェイサー」、「ブリリアント・コーナーズ」、「アグリー・ビューティ」等々、どの曲名もジャズ・センスに溢れ、背後に意味と情景が感じられ、しかもメロディが即座に浮かんで来るほど曲のイメージと一体化している。モンクは音感とともに、実はこうした言語能力にも並々ならぬものを持っていたがゆえに、あの短いけれど本質を言い表した数々の名言を残してきたのだろう。