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2017/10/29

モンクを聴く #13 : Concert Live (1961-69)

モンクはクラブ出演以外に米国内の数多くのコンサートに出演しているが、本書を読むとその公演スケジュールの過密さは驚くほどである。3回の通算約8年間におよぶキャバレーカード無効期間のために、ニューヨーク市内のクラブ出演機会が限られ、やむを得ず国内のコンサート公演とニューヨーク以外の都市のクラブ出演に力を入れざるを得なかったからだ。またヨーロッパを中心に海外ツアーにも頻繁に出かけていたので、ブートレグを含めて数多くの海外コンサートのライヴ録音も残されている。演奏の質という点からすると、コンサート・ライヴはクラブ・ライヴとスタジオ録音の中間にあって、当然ながらクラブほどの自由さと熱狂はないが、スタジオほどの作られ感がなく、多少よそ行きだがバランスの取れた演奏を記録した好録音が多いのが特長だ

Two Hours with Thelonious
(Fresh Sound/
Orig.Rec.1961 Riverside)
第25章 p450-
1961年春、モンク7年ぶりのヨーロッパ訪問となり、ジョージ・ウィーンがアレンジした初のヨーロッパ・ツアーにおける各国での公演は、イギリスでの評判を除けば大成功だった。特に1954年の初訪問で散々な評判だったパリでは、熱狂的な聴衆に迎えられた。だが本書にあるように、その時イタリアのミラノのコンサートでは、アーティストとレーベルという関係は終わったも同然だったが、契約上もう2枚のLPを制作する権利を有していたリバーサイドが、イタリアではモンクがあずかり知らない内に現地で録音していた。その音源と別途入手したパリ公演の録音を合わせて、1963年に『Two Hours with Thelonious』と題した2枚組のLPでリリースしたのだ。現在入手できるCDは、Fresh Soundの同タイトルのCDの他、418日パリ「オリンピア」劇場での『Live in Paris』(フランス放送協会による録音)、421日ミラノ「テアトロ・リリコ」での 『In Italy』(リバーサイドによる録音)という単独盤がある。この時のチャーリー・ラウズ(ts)、ジョン・オア(b)、フランキー・ダンロップ(ds)という新しく結成したカルテットによる他の公演も、その後ドイツ、オランダ、スウェーデンなどの現地ラジオ局が放送した音源などを元にレコードとしてリリースされている。演奏曲目はどの公演も<Jackie-ing>で始まり、モンクお馴染みの名曲が並んでいる。これらは精神、肉体ともに音楽家モンクの絶頂期とも言える時期の録音で、新カルテットもツアーを通じて徐々に安定度と緊密さを高めていたこともあって、この1961年のヨーロッパ録音はどれも安定した、高水準のコンサート・ライヴ演奏である。

Monk in Tokyo
(1963 Columbia)
第24章 p499-
モンクの初来日ツアーは196359日から6都市を巡る2週間で、東京では3回公演を行なったが、521日の「サンケイホール」での最終公演を記録したのが『モンク・イン・トーキョー Monk in Tokyo』である。欧米での音楽家としての評価を含めて、当時は人気的面ではモンクの絶頂期だったが、本書を読むと、1963年というのは精神的、肉体的コンディションとしては微妙な時期だったようだ。このツアーでは、チャーリー・ラウズ(ts)、フランキー・ダンロップ(ds)は変わらないが、来日直前の「バードランド」のギグで、ベース奏者のジョン・オアが店主オスカー・グッドスタインと喧嘩して辞めてしまったために、急遽当時23歳のブッチ・ウォーレンが代役として参加した。しかしこの東京公演では、お馴染みのモンクの有名曲ばかりとは言え、モンクも好調そうで、バンドも非常に安定したパフォーマンスを見せているし(多少よそ行きの感はあるが…ツアー疲れか?)、録音も良く、数あるモンクのコンサート・ライヴ録音の中でも最良の1枚だろう。何よりこの録音には、当時の日本の聴衆が、いかにモンクの来日を心待ちにしていたのか伝わってくるような、会場の熱い雰囲気もよく捉えられている。この時の全東京公演の司会をつとめたのが相倉久人氏だった。この来日では、モンクに傾倒していたピアニストの八木正夫や、その後も来日のたびにアテンドした京都のジャズ喫茶「しあんくれーる」店主の星野玲子氏とも知り合った。帰国直前の523日には東京放送(TBS)でテレビ放送用の録画もしており、<エヴィデンス>、<ブルーモンク>など5曲を演奏しているが、このTV映像も残されていて、演奏と共にこの時のモンクの衣装もアクションも見ものだ。モンクはその後1966年にラウズ、1970年には後任のテナー奏者ポール・ジェフリー他を擁したカルテット、1971年にはジャイアンツ・オブ・ジャズ一行のメンバーとして来日している。

Live at the 1964
Monterey Jazz Festival
(Universal)
第26章 p540-
 
1964年9月、前年に続いてモンクは西海岸のモントレー・ジャズ・フェスティバルに登場した(LAの「The It Club」、SFの「The Jazz Workshop」出演の前月である)。この時のドラムスはベン・ライリーで、当時レギュラー・ベーシストだったラリー・ゲイルズが手を負傷したために、スティーヴ・スワローが代わってベースを担当している。カルテットでは<Blue Monk>, <Evidence>,<Bright Mississippi>,<Rhythm-a-Ning>を演奏し、さらに前年実現しなかった大編成によるモンク作品解釈という企画で、バディ・コレットが「Festival Workshop Ensemble」として<Think of One>, <Straight, No Chaser>という2曲を、モンク・カルテットに自身を含む 西海岸のプレイヤーによる4管を加えたオクテット用に編曲して演奏した。本書によれば、このアンサンブルは現地では大好評を博したということだが、確かに大編成バンドによるモンク作品の演奏は、どれを聴いても、とにかく興味の尽きない面白さがあるので個人的には大好きだ。ここでのモンクはカルテット、FWEとも好調である。

Paris 1969
(2013 Blue Note)
第27章 p597
モンクは1963年以降頻繁にヨーロッパ・ツアーに出かけ、現地録音も数多く残しているが、60年代後期のモンクのライヴ録音で、最も印象深いのは1969年のヨーロッパ・ツアー最終日12月5日のパリ「サル・プレイエル」での公演だ。当時は、ベースのラリー・ゲイルズの後任になったウォルター・ブッカーもモンクの病気による活動休止でバンドを去ったために、バークリーにいた若い白人のネート・ハイグランドを雇ったものの、次に5年間在籍したベン・ライリーもバンドを去ってしまう。代わりのドラマーを探していたモンクがツアー直前にやっと見つけたのが、まだ17歳の高校生で息子のトゥートより若いパリス・ライトだった。当然ながら、ほとんどリハーサルなしという、モンク流のいつものやり方でライトがいきなり臨んだヨーロッパでの演奏が大変だったことは予測がつくが、パリのこの舞台では、当時ヨーロッパに住んでいたフィリー・ジョー・ジョーンズが、途中<Nutty>でライトに代わって登場するというハプニングがあり、バンドが生き返ったようになる。前歯は抜けていても、フィリー・ジョーのドライヴ感は相変わらずだしかし、体調やバンドがそうした厳しい状況にあっても、当時52歳のモンク自身は、どの曲でも依然として創造力に満ちた魅力的なピアノ演奏を繰り広げているのだ。多分アンコールと思われる<Don't Blame Me>,<I Love You Sweetheart of All My Dreams>, <Crepuscule with Nellie>というソロ演奏は、聴衆の熱狂的な反応を呼び起こしている。晩年になってからのモンクの抑制されたピアノ・ソロは、深い味わいと美しさがあって、どの演奏も素晴らしい。本書によれば、それは引退の直前まで変わらなかったようだ。ブルーノートが2013年にリリースしたこの音源(TV放送用映像)には、CD/DVDのセットがあるが、当時のモンクの姿が貴重な映像として残されているこの公演の模様は、ぜひTV放送された映像を記録したDVDで見ることをお勧めしたい。モンクに往年のエネルギッシュさはないが、録音が非常にクリアなこともあって、モンクと彼の音楽は晩年になっても素晴らしかったことを再認識するはずだ。(ライナーノーツはロビン・ケリーが書いている。またDVDの最後には、この時のモンクの楽屋裏の姿やフランス人ベーシスト、ジャック・ヘスによる短いインタビューも収録されている。

モンク単独のヨーロッパでのコンサート出演は、1954年のパリに始まり、15年後の1969年末に同じ場所「サル・プレイエル」でこうして終わりを迎えた。この直後にはついにチャーリー・ラウズもバンドを去り、代わってジミー・ジェフリーがテナーを吹いた翌1970年10月のニューポート・ジャズ祭の日本公演を最後に、モンク・カルテットとして出演したツアーは終わり、以降はジョージ・ウィーン主催の「ジャイアンツ・オブ・ジャズ」ツアー・メンバーの一員としての参加がモンクの主なコンサート活動となる。その後1973年からはほぼ活動を止め、1976年6月の「カーネギー・ホール」における単独コンサートが、モンクの人生で最後の公演の場となった。

2017/10/27

モンクを聴く #12:Club Live (1960 - 64)

ジャズは基本的にジャズクラブで聴くのがいちばん楽しいと思うが、少なくとも1950年代末から60年代初め頃に、モンクのライヴ演奏をジャズクラブ聴くことほどエキサイティングで、かつ面白い見ものはなかったことだろう。何が飛び出すかわからないという予測不能なモンクの音楽が、閉じられたクラブという空間でさらに聴き手の期待を高め、気分を盛り上げ、おまけにモンクの踊りまで見られたのだから。しかしニューヨークのキャバレーカード問題がずっと付きまとったこともあって、モンクにはニューヨーク市内での公式のクラブ・ライヴ録音は少なく、代わって西海岸のツアー時に好録音をいくつか残している。

At The Blackhawk
(1960 Riverside)
第21章 p430
ジョン・コルトレーンとのライヴ録音を別とすれば、モンクのクラブ・ライヴで一般的に最も有名なレコードは、1958年のジョニー・グリフィンとの「ファイブ・スポット」における『セロニアス・イン・アクション』と『ミステリオーソ』だが、もう1枚は、チャーリー・ラウズが参加した後、リバーサイド最後のレコードとなったサンフランシスコのクラブ「ブラックホーク」での19604月29日のライヴ録音だ。本書によれば、当時ベースのサム・ジョーンズとドラムスのアート・テイラーが国内の長期ツアー後同時に辞めたため、やむなくモンクは代わりのリズムセクションを探していたが、その後ベースはロン・カーター、次にジョン・オアを雇ったものの、SFのクラブ・ギグにはドラマーがいなかった。そこで、モンクが以前から気に入っていて、当時オーネット・コールマンのドラマーだったビリー・ヒギンズが、キャバレーカードを失って西海岸に戻るのを知ったモンクが、ヒギンズをそのギグに急遽採用した。予定していたリバーサイドとコンテンポラリーによるモンクとシェリー・マン(ds) とのSFでの共作企画が不調に終わったために、オリン・キープニューズが計画を変更し、チャーリー・ラウズに加えて現地のホーン奏者ジョー・ゴードン(tp) とハロルド・ランド(ts) を加えた3管のセクステットで、「ブラックホーク」でライヴ録音したのが『Thelonious Monk Quartet plus 2 At The Blackhawk』である。
当日のライヴ録音演目は以下の通り。
Let's Call This/ Four In One/ I'm Getting Sentimental Over You/ San Francisco Holiday (as Worry Later)/ 'Round Midnight/ Epistrophy (closing theme)/ Epistrophy (complete version)/ Evidence

そういう背景もあって、このセッションはモンクの音楽をよく知らないメンバーとの、いわば他流試合に近いので、当然ながら地元NYのクラブでレギュラーバンドと共演するときのようにモンクが自由奔放になることはなく、全体をまとめようとコントロールする姿勢が強い。しかしモンクの音楽に当時すっかり馴染んだラウズ、そこにモンクと最初にして最後の共演となったヒギンズのドラミング、西海岸のホーン・プレイヤーたちの初参加、という新鮮な組み合わせが、結果としてこのライヴ録音を他のモンクのレコードとは一味違うものにしていて、これはこれで楽しめる。ゴードンとランドもモンクと初顔合わせにしては健闘している。観客の声や拍手も聞こえて、クラブ・ライヴ感のある録音も良い(うるさいくらいなので、好みによるが)

Live at The It Club, Complete
(1964 Rec/1998 Columbia)
第26章 p543
モンクはその後コロムビア時代に『Misterioso - Recorded on Tour』(1965) という、あちこちのクラブやコンサートでテオ・マセロが録音し、その中から選んだライヴ演奏をランダムに収録するという手法で制作したLPアルバムを残している。単独のクラブ・ライヴとして、1998年に完全版として全曲収録してリリースされたCD『ライヴ・アット・ジ・イット・クラブ Live At The It Club』は、ロサンゼルスのクラブ「The It Club」で1964年10月31日、11月1日の2日間にわたって録音されたライヴ・アルバムで、全19曲が2枚のCDに収められている。好評だった前年の日本訪問時とは異なり、この頃にはカルテットのドラムスはフランキー・ダンロップからベン・ライリーBen Riley に、ベースはブッチ・ウォーレンからラリー・ゲイルズ Larry Galesという新メンバーに代わっている。フランキー・ダンロップ時代の軽快でメリハリのあるリズム・セクションとは異なるが、非常に安定感のあるリズムを刻むこの二人が、その後しばらくは60年代モンク・カルテットのリズムセクションとなった。
ライヴ録音演目は以下の通り。
<CD 1> Blue Monk/ Well, You Needn't/ Round Midnight/ Rhythm-a-Ning/ Blues Five Spot/ Bemsha Swing/ Evidence/ Nutty/ Epistrophy (Theme)
<CD 2> Straight, No Chaser/ Teo/ I'm Getting Sentimental Over You/ Misterioso/ Gallop’s Gallop/ Ba-lue Bolivar Ba-lues-are/ Bright Mississippi/ Just You, Just Me/ All The Things You Are/ Epistrophy (Theme)

本書によれば、1964年当時はモンクの精神、体調が徐々に悪化し始めた頃で、実はこの時の1ヶ月近い西海岸訪問中もモンクはかなりひどい精神状態だったようで、サンフランシスコのコンサート・ホールやロサンゼルスのホテル内でもひと騒動起こし、この「イット・クラブ」出演時もずっと奇妙な行動をしていたという。ところが、不思議なことにそうした状態だったにもかかわらず、このライヴ・レコードの演奏内容はなかなか素晴らしいのだ。演奏曲目も、すべてお馴染みのモンクの有名曲や好みのスタンダード曲が並び(<All The Things You Are>は珍しい)、コロムビアなので録音も非常にクリアで、各楽器の音も観客の声や拍手なども明瞭に聞こえ、臨場感溢れるクラブ・ライヴの雰囲気が楽しめる。Complete盤なので、1曲の演奏時間はやや長めでベースやドラムソロも頻繁に入るが、録音が良いので聞いていて快適だ。おそらく1960年代のレギュラー・カルテットによるライヴ録音としては、最もリラックスしているモンク・バンドの演奏がゆったりと楽しめるアルバムだろう。

この西海岸訪問中に、モンクは『Solo Monk』(1964 Columbia) の大部分を現地で録音している。翌週向かったサンフランシスコのクラブ「The Jazz Workshop」でも同じメンバーで出演しライヴ録音もされているが、本書でも指摘されているように、バンドが全体的に足取りの重いこちらの演奏は『It Club』とはまったく出来が違うので、おそらくモンクのコンディションがまた不調になったのではないだろうか。

2017/10/23

モンクを聴く #10:Les Liaisons Dangereuses (1958-59)

TILT
Barney Wilen
(1957 Swing/Vouge)
ジャズとパリとの関係は、50年代後半のフランス映画が象徴的で、ケニー・クラークやパド・パウエルをはじめとする多くのジャズメンも、パリに移住するなど、ジャズとミュージシャンたちを温かく迎え入れたこの街を愛した。ところがモンクは、1954年の初訪問だったパリ・ジャズ祭での評判が散々だったこともあって、その後1961年に初のヨーロッパ・ツアーで再訪するまで一度もパリを訪れていない。しかしモンクをパリに連れて行ったアンリ・ルノーのように、フランスには1940年代のブルーノート録音時代からモンクに注目していた現地のミュージシャンもいたのだ。フランス人テナー奏者バルネ・ウィラン (1937-96) も19歳のデビュー・アルバム 『ティルト TILT』19571月録音)で、早くもモンクの曲を6曲も取り上げ(LPで<Hackensack>、<Blue Monk>、<Misterioso>、<Think of One>の4曲、さらにCDで<We See>、<Let's Call This>の2曲追加)、モダンで滑らかなモンク作品のフランス流解釈を披露している。驚くのは、この録音がスティーヴ・レイシーの全7曲のモンク作品による『REFLECTIONS』(195810月録音)の19ヶ月も前だということだ。調べたことはないが、モンク本人との共演を除き、モンクの作品をこれだけ取り上げたホーン奏者はバルネ・ウィランが世界初だったのではなかろうか? ウィランはつまり、それ以前からモンク作品の研究をしていたということだろう。

Les Liaisons Dangereuses 1960
(1959 Rec/2017
Sam Records/Saga Jazz)
第19章 p371-
バルネ・ウィランとモンクとの関係については、本ブログの4/144/18の「危険な関係サウンドトラックの謎」、「バルネ・ウィラン」両記事で詳述している。ところが、ロビン・ケリーの本に詳しく書かれているフランス映画『危険な関係』サウンドトラックの逸話と、その後自分で調べた真相(?)に関するこの記事を書いた時点では知らなかったのだが、1959年にモンクとウィランが共演し、サウンドトラックとしては使われたが、レコード化されなかった未発表音源が今年2017年になって初めてリリースされていたのである。それが2枚組CD『Thelonious Monk - Les Liaisons Dangereuses 1960』 (Sam Records/Saga Jazz)で、ロビン・ケリーも含めた数人の解説者による60ページ近いブックレットを読むと、さらに細かいが面白い話が色々と書かれている。このブックレットには、録音内容を記録したメモや、ノラ・スタジオでの録音風景を撮影した写真もたくさん掲載されており、麦藁帽子(本書に逸話が書かれているように、これは中国製ではなく、アフリカの打楽器奏者ガイ・ウォーレンが送ってきた北部ガーナの農民の帽子だ)をかぶったモンクとレギュラー・メンバーの他、客演した当時22歳のバルネ・ウィラン、さらにネリー夫人、ニカ夫人の姿も写っている。これだけでも非常に貴重な史料だ。

この音源は、ロジェ・ヴァディムの『危険な関係』の音楽監督だったマルセル・ロマーノ(1928-2007)の死後、ジャズマニアの友人が保管していたロマーノのアーカイブの中から、2014年に55年ぶりに「発見」されたものだという。ロマーノはフランスのジャズ界では著名な人物で、1950年代にはバルネ・ウィランのマネージャーもしていて、ロビン・ケリー書の記述では1957年にNY「ファイブ・スポット」でモンクと会ったという話だが、実は1954年のモンクの初来訪時に既にパリで会っていたという(ウィランの上記アルバムでのモンク研究の痕跡を見れば、マネージャーだったロマーノがモンクと会っていてもおかしくない)。そのロマーノの残したテープの中に、ウィランの未発表音源がないかどうかFrancois Le Xuan Saga Jazzの創設者)と友人のFred ThomasSam Recordsの創設者)が探しているときに偶然そのテープを見つけたのだという。1958年夏に、ロジェ・ヴァディムとロマーノはモンクにサウンドトラック作曲の申し入れを行なったのだが、モンクはなかなか受け入れようとしなかった。1959年の夏、映画完成の直前になってようやく承諾したものの、サウンドトラック向け新曲は結局1曲も書けずに、既存の自作曲を録音することになったが、これはその時の演奏を録音したテープだったのだ。

実は、モンクは1958年10月デラウェア州でニカ夫人、チャーリー・ラウズと一緒に、麻薬所持を理由に警察による逮捕、暴行被害に合い、その後精神的に不安定になってしばらく入院していたが、その時またもや(3度目である)警察にキャバレーカードを無効にされ、ニューヨークのクラブで仕事ができなくなった。さらに翌1959年2月には、モンクが期待し、精魂込めて取り組んだ「タウンホール」のビッグバンドのコンサート後、批判的な論評に怖気づいたリバーサイドが、予定していた8都市のコンサート・ツアーをキャンセルしたために、モンクには唯一の収入の見込みがなくなってしまったのだ。精神的に落ち込んだモンクは、4月にはボストンのクラブ「ストリーヴィル」出演後行方不明になって、グラフトン州立精神病院に収容され、その後抗精神病薬の治療を受けるようになった。それやこれやで、この映画音楽の依頼を受けた当時、モンクはとても新しい曲を書けるような精神状態になかった、というのが本ブックレットでロビン・ケリーが述べている見方で、このいきさつは本書にも書かれている。

仏映画「危険な関係」
第19章 p371-
1959727日にNYノラ・スタジオで録音されたステレオ音源は、モンク、チャーリー・ラウズ(ts)、サム・ジョーンズ(b)、アート・テイラー(ds)という当時のレギュラーカルテットに、直前のニューポート・ジャズ祭でアメリカデビューを果たしたバルネ・ウィラン(ts) が客演した2テナーのクインテットによるものだ。お馴染みの曲が中心だが、リバーサイド時代のモンクには、このレギュラー・カルテットを中心にしたスタジオ録音は1作(『5 by Monk by 5』)しかないので、その意味でも貴重な録音だ。
2枚のCDの収録内容は以下の通り。
<CD1> Rhythm-a-Ning/ Crepuscule with Nellie/ Six in One (solo)/ Well, You Needn’t/ Pannonica (solo)/ Pannonica (solo)/ Pannonica (quartet)/ BaLue Boliver Ba-lues-Are/ Light Blue/ By and By (We'll Understand It Better) 
 <CD2> Rhythm-a-Ning(alt.)/ Crepuscule with Nellie (take 1)/ Pannonica (45 master)/ Light Blue (45 master)/ Well, You Needn’t (unedited)/ Light Blue (making of)

このテープは、翌728日、29日のアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズによる演奏(こちらは<No Problem> などのデューク・ジョーダン作品)を収録した録音テープと一緒に、ロマーノが映画の完成に間に合わせるために急いでパリに持ち帰ったものだ。映画冒頭のタイトルバック<クレパスキュール…>や<パノニカ>をはじめ、これらの演奏は映画中で何度も使われている。特筆すべきは、おそらくロマーノ所有のマスターテープの保存状態が良かったために、多分あまり加工していないこのステレオCDの音は非常にクリアで、音場も良く、モンクのピアノも、各メンバーの楽器もボディ感のある鮮明な音で再生できることだ(同時発売のアナログ盤はきっとさらに良いのだろう)。リバーサイド時代のモンク作品の録音は、どれもいまいちのように思うが、その中で比べても一番良い音だと思う。このセッションは、モンクにとってリバーサイド最後のスタジオ録音となった『5 by Monk by 5』 録音(19596月)の直後で、モンクの体調も回復し、チャーリー・ラウズがようやくモンクの音楽に馴染んだ頃でもあり、ラウズのプレイも非常にスムースだ。モンクとの最初にして最後の共演となった若きバルネ・ウィランは時々トチっている部分もあるが、4曲に参加して堂々とプレイしている。おそらくアンニュイな映画のイメージを意識したのだろう、ほとんどの曲がテーマ中心に比較的短く、かつゆったりとしたテンポで演奏されている。印象的な<Six in One>は、この時名付けられたモンクのソロによる即興のブルースで、同じ年10月のSFでのソロアルバムで、多少変形されて<Round Lights>として演奏された曲だ。CD2の<Light Blue>メーキングでは、アート・テイラーのドラムスのリズムを巡って、延々と続く(?)スタジオ内のモンクたちの会話も捉えられている。

1960年に公開された映画『危険な関係』がヨーロッパで大ヒットしたこともあり、翌1961年に7年ぶりにパリを再訪し「オリンピア」劇場で公演したモンクは54年の時とは打って変わって熱狂的な聴衆に迎えられた。当時アメリカでもようやく名声を高めていたモンクは、文字通り凱旋を果たしたのである。パリは、1954年のニカ男爵夫人との出会いがあり、愛弟子バド・パウエルが暮らしていた場所でもあり、その後のモンクの人生に大きな影響を与えた街だった。

2017/10/19

モンクを聴く #8:with Charlie Rouse (1959 - 70)

ジョニー・グリフィンに代わって短期間だけ参加したニー・ロリンズが去った後、ウェイン・ショーターを含む多くの後任テナー希望者があった中、モンクが選んだのはチャーリー・ラウズ(1924-1988)だった。ラウズは1958年末にモンクのバンドに加わり、その後1970年に辞めるまで約11年間在籍した。ラウズも当初は前任のテナー奏者たちと同じく、モンクの音楽を理解、吸収するのに苦労していた。しかし、ラウズがロリンズ、コルトレーン、グリフィンと違ったのは、共演することでモンクと対峙し、テナー奏者として成長しただけでなく、その長い在籍期間を通じて完全にモンク・バンドにとって欠かせない一部となって行ったことだ。モンクはラウズの存在ゆえに、長いキャリアを通じて初めて、自分のサウンドを自由に追求できる安定したワーキング・バンドを持つことができた。その間メインのドラマーはフランキー・ダンロップからベン・ライリーに、ベーシストはジョン・オアからブッチ・ウォーレン、ラリー・ゲイルズ等に代わったが、ラウズはテナー奏者として一貫してモンク・カルテットの要として活動を続けた。モンクの音楽を理解し、モンクの意図を汲み取り、モンクを助け、バンドを献身的に支える役目も果たした。1960年代を通じて築かれたモンクーラウズの独特の共生関係は、他に例を見ないような一体感をバンドにもたらしたが、一方で、代わり映えのしないカルテットのフォーマットとサウンドに、やがて音楽的には時に批判の対象ともなった。前任者たちのような “華” はないが、そうした批判にも耐え、リーダーのモンクが常に快適でいられるように場をまとめ、同時にモンクが目指すサウンドを一緒に作り上げたラウズのミュージシャン、サイドマンとしての能力と人格は、決して過小評価すべきではないだろう。

5 by Monk by 5
(1959 Riverside)
第20章 p402
ラウズのモンクとの初録音は、19592月の「タウンホール」コンサートでのテンテット(10重奏団)だった。そしてリバーサイドにおける最初のコンボ録音となったのが、19596月初めの『ファイブ・バイ・モンク・バイ・ファイブ 5 by Monk by 5』である。サム・ジョーンズ(b)、アート・テイラー(ds)という当時のレギュラー・カルテットに、カウント・ベイシー楽団の花形トランペッターだったサド・ジョーンズがコルネットで客演したクインテットによるアルバムだ。新作<プレイド・トゥワイス>、<ジャッキーイング>に加え、<ストレート・ノー・チェイサー>、<アイ・ミーン・ユー>、<アスク・ミー・ナウ>などすべてモンクの自作曲だ。まだ加わって半年ほどだったが、前任者たちと比較され、当初厳しい批判を受けていたラウズのソロは、ここでは一皮むけたように流麗だ。モンクにとってリバーサイド最後のスタジオ録音となったこのアルバムはどの曲も名演だが、何よりも演奏全体に自由と躍動感が満ちているところがいい。サド・ジョーンズの参加によるバンドへの刺激とクインテットという編成の違いはもちろんだが、それを生み出している大きな要因が、モンクのあの独特のリズムに乗ったアブストラクトなコードによるコンピングで、とりわけ空に向かって飛んで行きたくなるような<ジャッキーイング Jackie-ing>の開放感は最高だ。アート・テイラーのイントロのドラムス、ラウズとサド・ジョーンズのソロも素晴らしい。シカゴの作家フランク・ロンドン・ブラウンが、この曲に触発されて書いたという小説「ザ・ミス・メイカー The Myth-Maker」のくだりを本書で読んで、私は自分とまったく同じ感覚を抱いた人が半世紀前にいたのだ、と驚くと同時に非常に嬉しくなった。これぞ「モンク的自由」を象徴するようなサウンドだと思う。この曲はモンクも気に入って、その後しばらくコンサートのオープニングに使うなど、何度も演奏された。自分の姪の名前 「Jackie」に「-ing」を付けるモンクの言語センスも素晴らしい。

Monk's Dream
(1962 Columbia)

第24章 p488
Criss-Cross
(1963 Columbia)

第24章 p496
この時期(19571962年頃)のモンクは、何をやっても生涯で最も冴えわたっていたと思う。この期間は、一時期を除きモンク的には稀な、精神的にも肉体的にも非常に安定した状態が比較的長期にわたって続いていたからだ。好評だったラウズ(ts)、ジョン・オア(b)、フランキー・ダンロップ(ds) というカルテットによる1961年の2ヶ月近いヨーロッパ・ツアー等を通じて、固定バンドとしてこれまでにない一体感を高めたモンクのバンドは、翌19629月のリバーサイドからコロムビアへのモンクの移籍に伴い、10月末からデビューLP『モンクス・ドリーム Monk’s Dream』の録音を30丁目スタジオで開始した。リバーサイド時代との重複を避けるために、曲は慎重に選ばれ、<ロコモーティヴ>、<バイ・ヤ>、<ボディ・アンド・ソウル>、<モンクス・ドリーム>など従来録音機会の少なかった曲や、<スウィート・ジョージア・ブラウン>を基にした新曲で、これも躍動感に満ちた<ブライト・ミシシッピ>を加えた。バンドの好調さを示すかのように、このアルバムはどの曲でも安定感のある演奏を聞かせ、各プレイヤーも自分の役割を完全に理解、消化した上で演奏している様子がよくわかる。50年代末のような予測不能性やわくわくするような刺激は薄れたかもしれないが、モンクは初めて自分の思い通りのサウンドを自由に出せるバンドを手に入れたと言える。また大手コロムビアとの契約と、このデビュー・レコードは世の中の注目を集め、モンクは初めてスター・ミュージシャンの仲間入りを果たし、かつてない名声を得るのである。モンクもラウズも、ダンロップもオアも、おそらくこのアルバムと、続く『クリス・クロス Criss-Cross』(1963)の2枚が、60年代にコロムビアに残したスタジオ録音としては最上のレコードと言えるだろう。

Straight, No Chaser
(1966 Columbia)
第26章 p567
Underground
(1967 Columbia)
第27章 p579
1960年代後半になると、肉体や精神の不調もあって、モンクの作曲への意欲や創作エネルギーは徐々に衰えつつあったが、1966-67年にバド・パウエル、エルモ・ホープ、そしてジョン・コルトレーンという盟友3人を相次いで失うという悲運が、音楽家モンクの精神の安定と創造意欲にとどめのような一撃を与える。またコロムビアの商業主義とは相容れない芸術家モンクの葛藤や不満も、徐々に高まっていたことだろう。ロックやフォーク、ポップスに押され、音楽としてのジャズそのものの衰退も明らかだった。したがってこの時期のレコードには、60年代前半までのモンクにあったような活力はあまり感じられないが、代わって成熟した安定感のあるバンドといった趣が強い。『ストレート・ノー・チェイサー Straight, No Chaser』(1966) と、『アンダーグラウンド Underground』(1967) という2枚のアルバムは、ラウズに加え、ドラムスのベン・ライリーとベースのラリー・ゲイルズというシュアな2代目リズムセクションとなって、タイム、リズムともにモンク・カルテットが最もバランスの取れた演奏をしていた時期でも最良の演奏を記録したものだろう。また新曲として、前者には日本公演時に覚えた<ジャパニーズ・フォークソング(荒城の月)>を、後者には<アグリー・ビューティ>、<レイズ・フォア>、<ボーボーズ・バースデイ>、<グリーン・チムニーズ>という新作4曲も久々に加えている。

しかしモンクの精神的不安定さと、体調が理由でギグをキャンセルしたりすることが徐々に増えていったこともあって、1969年には5年間在籍したベン・ライリーが去り、チャーリー・ラウズも翌1970年についにモンクの元を離れた。50年代のロリンズ、コルトレーンと同じく、ラウズもまた、モンクとその音楽の目指す方向性に忠実に、しかも長期にわたって従ったミュージシャンだった。映画『ストレート・ノー・チェイサー』で、モンクとの録音セッションやインタビューを受けるラウズの姿が見られるが、画面や言葉からもその人柄や誠実さがよく表れている。ラウズはこの映画の公開(1989年)を待たずに、19881130日にモンクと同じ享年64歳でシアトルで亡くなる。そして奇しくも同じ日に、あのニカ男爵夫人もニューヨークで亡くなっている。

2017/04/14

仏映画「危険な関係」サウンドトラックの謎

ルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」(1957)にはマイルス・デイヴィス、ロジェ・ヴァディム監督の「大運河」(1957)にはMJQ、エドゥアール・モリナロ監督の「殺られる」(1959)にはアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズというように、当時ヌーベルバーグと呼ばれた新潮流の象徴だったフランス映画には盛んにジャズが使われていた。映画「危険な関係」は、ロジェ・ヴァディム監督による1959年制作の作品である。フランスの貴族を描いた18世紀の官能小説が原作で、舞台を20世紀のパリに置き換え、退廃的な上流階級の恋愛模様をジェラール・フィリップとジャンヌ・モローが演じている映画だ(後年何度かリメイク映画化されている)。小説と同じく映画も反社会的だと物議をかもし、フランスやイギリスでは当初上映禁止になったらしい。ロビン・ケリーの「Thelonious Monk」に、この「危険な関係」のサウンドトラックとモンクにまつわる面白い裏話が出て来る。私は映画そのものを見ておらず、映画にモンクが関係していることも知らず、この映画に関係する所有ジャズ・レコードは、デューク・ジョーダン(p)がリーダーの「危険な関係のブルース」(1962) だけだったこともあり、この話は意外だった。そこで、この映画と音楽の背景について調べたのだが、映画、音楽ともにネット上でも様々な説明があって、どこにもはっきりしたことが書いていないので、自分でさらに詳細な情報に当たり整理してみた。すると驚くような事実(おそらくだが)が浮かび上がったのである。

「死刑台のエレベーター」にマイルス・デイヴィスを起用した音楽監督、マルセル・ロマーノからモンクに打診があったのは1958年である。モンクは不評だったヨーロッパ・デビュー(1954年のパリ・ジャズ祭に出演した)後はヨーロッパを訪問していなかったが、1957年夏に「ファイブ・スポット」にジョン・コルトレーンと共に登場し、ようやく注目を浴び始めていた当時のモンクをニューヨークで直接見たロマーノが、モンクの音楽をサウンドトラックとして使いたいと申し入れてきたのだ。しかし当時ボストンのクラブ「ストーリーヴィル」出演時に奇妙な行動をし、その後一時行方不明になったりしていたモンクは情緒不安定な状態にあり、なかなかその申し入れを受諾しなかった。ロジェ・ヴァディムもニューヨークまでやって来て、何とかモンクの了承を取り付けようとしたが、モンクはなお首を縦に振らなかった。1959年の夏、映画が完成した後にモンクはやっと承諾したものの、映画のサウンドトラックための新曲は結局書けず、その代わりに当時アメリカ・デビューをしたばかりのフランス人テナー奏者バルネ・ウィランを自分のカルテットに加えて、〈オフ・マイナー〉、〈クレパスキュール・ウィズ・ネリー〉、〈パノニカ〉など、当時リバーサイドに吹き込んでいた既存曲をあらためて映画用に録音した。ところがロマーノは、万が一モンクがダメだった場合に備えて、デューク・ジョーダン(p)にも作曲を依頼しておいたのである。そこでモンクのグループ(チャーリー・ラウズ-ts、サム・ジョーンズ-b、アート・テイラー-ds)と同じ時に同じスタジオで、バルネ・ウィランを加えたアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズによるジョーダン作の曲も録音したのだ。

この映画の音楽担当は確かにセロニアス・モンクとクレジットされているのだが、上映後大ヒットしたのは、当時人気絶頂だったアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのサウンドトラック・レコード「危険な関係」(1960 Fontana)であり、しかも作曲者名としてクレジットされているのは、デューク・ジョーダンではなく全曲ジャック・マーレイ(Jaques Marray)という人物だった。一説によれば、映画中に出て来るナイトクラブでの演奏シーンには、デューク・ジョーダン(p)、ケニー・ドーハム(tp)、バルネ・ウィラン(ts)、ポール・ロベール(b)、ケニー・クラーク(ds)が登場するが、実はそのシーンの音楽は、アート・ブレイキー(ds)、リー・モーガン(tp)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(b)にバルネ・ウィラン(ts)が加わった演奏で置き換えられているというのだ。それはニューヨークで、モンクのカルテットと同じ時に録音された演奏ということである。つまりドーハム、ジョーダンやクラークは映画に顔だけは出したが彼らの演奏は使われず、一方ブレイキーのグループは映画には登場しなかったが演奏は使われ、かつそのサウンドトラック・レコードは大ヒットしたというわけである。そしてフランスの当時の新人スタープレイヤー、バルネ・ウィランは3つのセッションいずれにも参加しているのである。

ジャック・マーレイという人物はデューク・ジョーダンの仮名だという説もあるが、ジョーダンは1962年になって「危険な関係のブルース」という映画で使用された曲 ("No Problem")を演奏したレコードを出している(私が持っているもの)。そしてそれはチャーリー・パーカー夫人だったドリス・パーカー所有のパーカー・レコードがリリースしたもので、夫人自身が書いたそのライナー・ノーツには、ブレイキーのオリジナル・サウンドトラックにはジョーダンの作曲にもかかわらず別人の名前が誤って使われており、このレコードこそ本当の作曲者による演奏だとはっきり書いてある。このレコードのメンバーは、ソニー・コーン(tp)、チャーリー・ラウズ(ts)、エディ・カーン(b)、アート・テイラー(ds)である。ジャック・マーレイは確かに実在の作曲家らしく、この映画の音楽も一部担当していたようだが、なぜジョーダンではなく彼の曲としてクレジットされていたのかは調べたがわからなかった。パーカーが可愛がっていたジョーダンを、夫人が当時の経済的苦境から救うためにリリースしたものだと言われているので、この話が真実だった可能性は高い。

ところでモンクの音楽は実際にどう使われたのだろうか? オリジナル映画を確認したところ、映画冒頭のチェスの盤面を使ったタイトルバックの音楽はモンクの〈クレパスキュール・ウィズ・ネリー〉である。音楽担当としてのモンク、ジャック・マーレイ、バルネ・ウィラン、モンクのグループ、ブレイキーのグループ、デューク・ジョーダン、ケニー・クラークの名前は全員が出て来る。だがケニー・ドーハム他の名前はない。バルネ・ウィランを加えたモンク・グループの演奏が〈パノニカ〉他計7曲と、モンクによるゴスペル聖歌のピアノ・ソロ1曲で、これらが映画のほぼ全編に使われている。特に〈クレパスキュール…〉と〈パノニカ〉がメインテーマ曲で、この2曲は何度も聞こえてくる。ブレイキーのグループの演奏が主としてパーティやクラブなど華やかな場面で使用されているのに対して、モンクの音楽は大部分が男女間の微妙な情景の背景音楽として挿入されている。アブストラクトでどことなく不安なムードを醸し出すモンクのサウンドが、このフランス映画のアンニュイで危なげなムードにぴたりとはまって、ロジェ・ヴァディムがなぜモンクの音楽を使いたかったのかがよくわかる。一方ケニー・ドーハム、バルネ・ウィラン、ケニー・クラーク、デューク・ジョーダン(背中だけ?)は確かに画面に登場している。その演奏は明らかにボビー・ティモンズのピアノやリー・モーガンのトランペットなどメッセンジャーズ側のものだが、そこでの音楽「全部」がアート・ブレイキー側の音源なのかどうかはわからなかった(ケニー・ドーハムの顔とトランペット・プレイは何度かアップになっているので、一部はその音をそのまま使っている可能性もある。それが全部リー・モーガンの音だとしたらひどい話なので…)。またモンクが演奏したサウンドトラックは映画中だけで使われ、レコード化されなかった(おそらく映画用新曲が書けなかったために、当時リバーサイドに吹き込んだばかりの曲だけを使ったからだろう)。

本来なら、新曲によるサウンドトラックはもちろん、ナイトクラブでの演奏シーンにはモンクが登場したはずで、また撮影に合わせてパリでのコンサート、クラブ・ライヴも別途企画されていたのだが、モンクの不調でこうした企画はすべてお流れとなってしまったのだ。どうなるかはっきりしなかった当時のモンクを不安視したヴァディムとロマーノが、とにかくバルネ・ウィランをフィーチャーして企画を練り直し、結果として安全策として準備していたジョーダンの曲と、ブレイキーのグループの演奏が脚光を浴びたということなのだろう。この映画の日本公開は1962年で、モンクの初来日は翌1963年だった。映画と完全に一体化したマイルス・デイヴィスの「死刑台のエレベーター」とは対照的に、「危険な関係」の音楽として普通に思い浮かべるのは華々しいブレイキーかジョーダンであり、この映画をモンクの音楽と共に記憶しているジャズファンもほとんどいないのではないだろうか(少なくとも私の世代では)。しかしこのエピソードも、いかにもモンクらしいと言うべきか。

(追記 2017 7/5)
知らなかったのだが、気が付いたら、何とこのとき以降お蔵入りになっていたと思われる、モンクのカルテットにバルネ・ウィランが加わった上記演奏(1959) が、今年になってCD/LP「Les Liaisons Dangereuses 1960」(SAM RECORDS/SAGA) として発売されていた。映画中で聞こえるモンクの演奏はこれが音源である。

2017/03/25

映画「ラ・ラ・ランド」にモンクが・・・

Straight No Chaser
1966/67 CBS
映画は最近ほとんど見ていないし、そもそもミュージカルもあまり興味はないのだが、観に行った妻の「モンクが出てたわよ・・・」という一言で、久々に重い腰を上げて評判の映画「ラ・ラ・ランド La La Land」を観に映画館まで出かけた。正確にはモンクが出ていたわけではなく、映画の冒頭でジャズ・ピアニストを目指す主人公(ライアン・ゴズリング)が、レコード(LP)に合わせてピアノを練習しているシーンが出て来るのだが、その曲というのがセロニアス・モンクが弾く〈荒城の月〉だったのだ。1966年のモンク2度目の日本ツアーで、日本人の誰かが教えた滝廉太郎のこの曲(*)の持つマイナーな曲想をモンクが気に入り、日本公演で披露したところ大受けし、帰国後のニューポート・ジャズ・フェスティバルで初演し、そこでも喝采を浴びたので、その後モンク・カルテットのレパートリーに加えたという話がロビン・ケリーの「Thelonious Monk」に出て来る。(当時のモンクは曲作りに苦労するようになっていて、新曲がなかなか書けなかったことも背景にある。)

(*追記4/7: 先日Webを見ていたら、ANAの広報ページ<Sky Web 2007年>のインタビューで、1966年のモンク来日時に写真を撮っていた「新宿DUG」のオーナー中平穂積氏が、お礼としてモンクにあげたオルゴールの曲が「荒城の月」だったと語っている。この演奏アイデアの源は中平氏のオルゴールだったようだ。ニューポートで初演したときに中平氏は現地にいて感激して泣いた、という話もしている。)

その後、この曲はモンクのアルバム「ストレート・ノー・チェイサーStraight, No Chaser」(CBS 1966/67)に〈Japanese Folk Song〉という(大雑把な)曲名で収録されているので、主人公が聞いていたのはたぶんこのレコードだろう。妻がなぜモンクの演奏だと気づいたかというと、家で私がずっとかけていたモンクの音源の中にこの〈荒城の月〉があり、妻もそれを何度も耳にしていて覚えてしまったからだ。このアルバムは、モンクの有名なブルースであるアルバム・タイトル曲や、冒頭のいかにもモンク的な〈ロコモーティヴ〉、デューク・エリントンのバラードをチャーリー・ラウズ(ts)が美しく演奏した〈I Didn’t Know About You〉、モンクのピアノ・ソロによる賛美歌など、全体として非常にリラックスした演奏が楽しめるレコードだ。監督のデミアン・チャゼルが、なぜその場面で「モンクの荒城の月」をあえて選んだのか、その意味や意図は不明だ(日本の観客に受けると思ったのだろうか?)。

A Celebration of
Hoagy Carmichael
1982 Concord
 
同じく映画の最初のところで、主人公のアパートを訪ねた姉が椅子に座っていると、帰宅した主人公が「その椅子は(ホーギー)カーマイケルが座った貴重な椅子なんだから・・・」と言って、姉から椅子を取り上げるシーンがある。たぶんカーマイケルが何者なのか知らない人がほとんどだと思うが、Hoagy Carmichael1899年生まれの白人のジャズ・ピアニスト、歌手で(デューク・エリントンと同じ生年)、ビックス・バイダーベック(白人でクール・ジャズの始祖と言われている)、ルイ・アームストロングなどと共演したが、何より作曲家として有名な人だ。〈Stardust〉,〈Georgia On My Mind〉,Slylark〉など、どことなく哀愁のある数々の名曲を作曲しており、これらはジャズ・スタンダードとして、白人、黒人を問わず多くのミュージシャンに取り上げられている。私は彼のレコードそのものは持っていないのだが、その名曲をデイヴ・マッケンナDave Mckennaという白人ピアニスト(ソロピアノの名人)が、ピアノソロでライヴ録音したレコードは持っている。それがConcordレーベルの「Celebration of Hoagy Chamichael」(1982)というレコードである。

このレコードは私の愛聴盤でもあり、マッケンナがとにかくゆったりと、次々に奏でるカーマイケルの名曲は、目の前で演奏されているような臨場感のある録音の生々しさもあって、1人でじっくり聴いていると本当にリラックスして聴き入ってしまう素晴らしいレコードだ。その中でも特に好きな曲は、1938年作曲の〈ザ・ニアネス・オブ・ユーThe Nearness Of You〉で、ネド・ワシントンによる歌詞を含めて原曲はいかにもアメリカを感じさせる甘いバラードだが、枯れた風情のマッケンナのピアノが実にしみじみとして味わい深いのだ。マイケル・ブレッカーの文字通りの「ニアネス・オブ・ユー」(2001 Verve)というアルバムで、ジェイムズ・テイラーがこれも味のある歌を聞かせるヴォーカル・バージョンもあり、他にもノラ・ジョーンズやダイアナ・クラールもカバーしている。映画「ラ・ラ・ランド」中のオリジナル曲は、冒頭の〈Another Day of Sun〉 や、主演女優エマ・ストーンがシャンソン風に歌う〈Audition(夢追い人)〉など、全体として優れた楽曲が多いとは思うが、主役の2人を結ぶロマンスの鍵となる肝心のソロ・ピアノ〈Mia & Sebastian’s Themeという曲らしい〉が、ジャズでもなければクラシックでもないような中途半端な曲で、これだけは「何だかなあ・・・」と思った。私なら、ここにマッケンナがソロで演奏する〈ザ・ニアネス・オブ・ユー〉をかぶせるのになあ、とつくづく思った。こちらは正真正銘のジャズ・ピアノであり、しかもアメリカ的ロマンチシズムに溢れる美曲だからだ。(映画を見た人は、騙されたと思って、ぜひこのレコードのこの曲を一度聴いて比較してみてください。)

映画<La La Land>
Soundtrack
ハリウッドで作り、しかもロサンジェルスを舞台にしたミュージカル映画なので、「ジャズ」がモチーフになってはいても、その扱いが浅く、全体として「白人が作りました感」は否めない。しかし私には、(そんなもんだと思っているので)そこは別に気にならない。「ラウンド・ミドナイト」も「バード」も見たが、何せ映画でジャズをテーマにして描くのは難しいのだ。ジャズの演奏をうまく使った古いフランス映画(「死刑台のエレベーター」とか「危険な関係」)もあるが、最高の「ジャズ映画」と言えばやはり「真夏の夜のジャズ」(1958)と、セロニアス・モンクの「ストレート・ノー・チェイサー」(1988)という2つのドキュメンタリー映画だろう。とはいえ、私はミュージカルについてはたいした知識もなく、過去の作品へのオマージュやパロディと思われる部分の面白さ等が理解できたわけではないが、主役は男女ともに良かったし、踊りも楽曲も良く(上記ソロピアノを除き)、映画としては十分に楽しめた。

この映画の主題を簡単に言うと、「常に進化しなければ」という脅迫観念に捉われているアメリカ人が、絶え間ない進化の陰で捨ててきた「古き良きもの」(映画では、ジャズはその象徴として描かれているにすぎない)に対してどことなく感じているある種の罪悪感と、「頑張れば夢はいつか叶うものだ」という、楽天的な古来のアメリカン・ドリームの2つを組み合わせたごく月並みなものだと思う。アメリカ人が無意識のうちに共有しているこの2つの要素を、これもアメリカ伝統のロマンスを軸にしたミュージカル映画というパッケージにくるんだ見事な3点セットになっているからこそ、多くの「アメリカ人」の心の琴線に触れ、支持されたのだろう。グローバリゼーション(アメリカ化)によって、今やその2つとも世界共通の普遍的なモチーフなので世界中で受け入れられているのだろうが、この映画を称賛する他の国の人たちが、アメリカ人ほど「切実に」そこに共感しているのかどうか、それはわからない。