ページ

ラベル Cecil Taylor の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Cecil Taylor の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020/11/27

スティーヴ・レイシーを聴く #1

リー・コニッツとセロニアス・モンクの本を翻訳中は、ずっと二人のレコードを聴きながら作業していたが、今回出版した『スティーヴ・レイシーとの対話』(月曜社)も同じだ(左記イメージは、Jason Weiss編纂の原書)。そして、今はネット上でヴィジュアル情報へも簡単にアクセスできるので、YouTubeで映像を見たり、インタビューなどの音声記録を聞いたりして、生きて動いている彼らのイメージを把握することもできる。特に「声と喋り」は、インタビュー本の場合、翻訳した文章と実際の話し方のトーンやリズムを、できるだけ近いイメージにしたいので必須情報だ。だがレコードは、コニッツより多作なレイシーの場合、なんと200作近いアルバムをリリースしているそうなので、とても全部は聴けないし、70年代以降はフランスのSaravah、スイスのHat Hut、イタリアのSoul Noteなど、ヨーロッパのマイナー・レーベル録音中心なので、昔ほどではないにしても入手が難しい音源も結構多く、本当にコアなファン以外は聴いたことのないレコードがほとんどだろう。したがって手持ちの代表的音源をあらためて聴き直し、ほとんど知らなかった70年代以降の数多いCDのうちの何枚かを新たに入手し、それらを聴いていた。

セシル・テイラーとレイシー
Vitrolles jazz festival, France
July 1984. Photo: Guy Le Querrec
ジャズ・ミュージシャンに関する翻訳書を出版後、そうして自分で聴いたレコードを紹介するブログ記事を書いているのは、自分なりに音楽の印象を再確認する意味もあるが、むしろ本を購入していただいた読者への私なりのアフターサービスのつもりである。本当なら日本の読者向けに、訳書には(レコードのジャケット写真を含む)ディスコグラフィを掲載したいのだが、リー・コニッツ本だけは何とかそうできたものの、モンクもレイシーも、ページ数の制約もあってそれができなかった。今はネットで調べればレコード情報はすぐに分かるし、訳書の性格からしても、私がここで書くようなことは当然知っているコアなファンや読者も多いだろう。だが、そうではない人たちも当然いるはずなので、そういう読者向けに、訳書の進行に沿って代表的レコードに関する情報をブログで後追いする記事をこれまでも書いてきた。本には書いていないが、調べてみて初めて知ったトリヴィア的周辺情報もそこに加えている。絵画好きなスティーヴ・レイシーは好みの絵をジャケットによく使い、レコードのジャケットと収録曲とのイメージのつながりの大事さについて語っているが、私のようなオールド・ジャズファンも、読みながらレコード・ジャケットの絵柄イメージが湧き、そこから音が聞こえてくるような「ジャズ本」が本当は理想なので、そういう観点からも、このブログ記事が読者の参考になれば嬉しい。

同書の巻末に掲載しているSelected Discographyに沿って、レイシーがデビューした50年代から見て行くと、1950年代前半のディキシーランド時代に参加したレコードも何枚かあるが(『Progressive Dixieland ; Dick Sutton Sextet』, Jaguar 1954他)、今は一般CDでは入手できそうもないので、まず挙げられるのはピアニストで作曲家のセシル・テイラー Cecil Tailor (1929-2018) との共演盤だ。ディキシーという伝統的ジャズの世界から(モダンを飛び越して)その対極にあるアヴァンギャルドの大海に、レイシーをいきなり放り込んだのが5歳年長のテイラーである。そのテイラーのデビュー作がレイシーも参加した『ジャズ・アドヴァンス Jazz Advance』(Transition 1956、録音1955年12月)であり、このアルバムはモンクとデンジル・ベストの共作で、カリブ風のリズムを持つ<Bemsha Swing>で始まる。19歳だった1953年から6年間行動を共にし、モンクやその曲を知ったのもこのテイラー盤を通じてであり、レイシーの音楽人生の基本的方向を決定づけたのは間違いなくセシル・テイラーだろう。デニス・チャールズ Dennis Charles (ds) とビュエル・ネイドリンガーBuell Neidlinger (b)という、当時はほとんど需要(仕事)のなかった若きカルテットの演奏は、1970年代でもまだ前衛というイメージだったと記憶しているが、今の耳で聴くと適度なアヴァンギャルド感が新鮮で耳に心地良い。1956年11月から57年1月にかけて、「ファイブ・スポット」に初めて長期出演したのがセシル・テイラーのこのバンドで、レイシーは途中から加わっている。キャバレーカードをようやく取り戻した40歳のセロニアス・モンクが、7月にジョン・コルトレーンを擁して自身初のリーダーとなるカルテットで登場する半年前のことだ。前衛画家や、詩人や、作家たちが、彼らを聴きに「ファイブ・スポット」に毎夜集まっていた。

テイラーのカルテットは、その57年7月のニューポート・ジャズ祭にも出演して3曲約30分間の演奏をしている(『At Newport』Verve)。左の盤のジャケット写真に写っているのは、同じくジャズ祭に出演したドナルド・バード(tp)とジジ・グライス(p)で、こっちが主役扱いだ。これら3曲のトラックは、テイラーのコンピ盤等にも収録されているので、そちらで聴いてもいい。テイラーの下でまだ修業中だったレイシーは、テイラーとのこの時代の自分の演奏を気に入っていないようだが、ニューポート・ライヴは、Transition盤よりはバンドの一体感も出て、当然だがレイシーも明らかに腕が上がっている。1950年代のテイラーの「バド・パウエルと、エロル・ガーナーと、バルトークをミックスしたようなサウンド」(レイシー談)は、その独特のリズムと共に、実に魅力的なサウンドで、いつまでも聴いていたくなるほど個人的には好みだ。レイシーが何度も語っているように、モンクと同じく、当時はまったく受け入れられなかったテイラーだが、およそハードバップ時代の演奏とは思えない、これらの斬新な演奏を聴くと、50年代のセシル・テイラーは、まさに1940年代後半のビバップ時代におけるレニー・トリスターノと、ほぼ同じ立ち位置にいたのだということがよく分かる。

カナダ出身のギル・エヴァンスGil Evans (1912-88) は、1940年代後半にジェリー・マリガンやリー・コニッツと共に、クロード・ソーンヒル楽団のピアニスト兼首席編曲者として在籍していた。よく知られているように、その後40年代末に、このメンバーにマイルス・デイヴィス他が加わって、『クールの誕生』に代表される、ビバップとは対照的な抑制のきいた多人数アンサンブル(ノネット)からなる、いわゆるクール・ジャズを生み出す。エヴァンスは『Round Midnight』(CBS 1956)などで、その後もマイルスとのコラボレーションを続けながら、初のリーダー作『ギル・エヴァンス・アンド・テン Gil Evans & Ten』(Prestige 1957)をリリースするが、本書にあるように、このレコードが、ソプラノサックスを吹くレイシーを初めて全面的にフィーチャーした録音となり、レイシーをジャズ界に実質的にデビューさせ、また生涯続いたレイシーとエヴァンスの親しい交流のきっかけとなった。

『Gil Evans & Ten』は、セシル・テイラーとのアヴァンギャルドな響きの共演盤とは異なり、スタンダード曲を中心に、全編エヴァンスらしいスムースでメロウな演奏が続くが、レイシーの繊細かつ滑らかなソプラノプレイは曲想にぴたりと合ってすばらしい。たぶんこれは、エヴァンスが思い描いていた通りのサウンドだったのだろう。このときは譜読み技術がまだ未熟で、バンドの他のメンバーに大変な迷惑をかけたとレイシーは述懐しているが、このエヴァンス盤での演奏自体は本人も気に入っているという。ギル・エヴァンスは、その後しばらくして、自身のアルバム『Into the Hot』(Impulse! 1961)でセシル・テイラーのユニットのプロデュースをしている。レイシーが作曲面で大きな影響を受けた素晴らしい作品だ、と本書中で言及しているテイラーの3曲、<Pots>, <Bulbs>, <Mixed>は、エヴァンスのこのアルバムに収録されている(他の3曲はジョニー・カリシ作品)。レイシーが言うように、確かにこれらはいずれもすごい曲と演奏であり、60年代に入って、テイラーがさらに進化し続けていることを如実に示している。

2020/10/25

訳書『スティーヴ・レイシーとの対話』出版

表題邦訳書が10月末に月曜社から出版されます。

20世紀に生まれ、100歳を越えた音楽ジャズの歴史は、これまでに様々な視点や切り口で描かれ、もはや語り尽くされた感があります。しかし「即興 (improvisation)」 こそが音楽上の生命線であるジャズは、つまるところ、限られた数の優れた能力と個性を持つ「個人」が実質的に先導し、進化させてきた音楽です。こうした見方からすると、ジャズ史とは、ある意味でそれらのジャズ・ミュージシャンの「個人史」の総体であると言うこともできます。大部分がミュージシャン固有の知られざる実体験の集積である個人史は、その人の人生で実際に起きたことであり、ジャズの巨人と呼ばれた人たちに限らず、多くのジャズ・ミュージシャンの人生には、これまで語られたことのない逸話がまだ数限りなくあります。そこから伝わって来るのは、抽象的な、いわゆるジャズ史からは決して見えてこない事実と、時代を超えて現代の我々にも響く、普遍的な意味と価値を持つ物語やメッセージです。変容を続けた20世紀後半のジャズの世界を生き抜いた一人の音楽家に対して、半世紀にわたって断続的に行なわれたインタビューだけで構成した本書は、まさにそうした物語の一つと言えます。

スティーヴ・レイシー (Steve Lacy 1934-2004) は、スウィング・ジャズ時代以降ほとんど忘れられていた楽器、「ソプラノサックス」をモダン・ジャズ史上初めて取り上げ、生涯ソプラノサックスだけを演奏し続けたサックス奏者 / 作曲家です。また「自由と革新」こそがジャズの本質であるという音楽哲学を生涯貫き、常に未踏の領域を切り拓くことに挑戦し続けたジャズ音楽家でもあります。1950年代半ば、モダン・ジャズが既に全盛期を迎えていた時代にデビューしたレイシーは、ジャズを巡る大きな時代の波の中で苦闘します。そして1965年に30歳で故郷ニューヨークを捨ててヨーロッパへと向かい、その後1970年から2002年に帰国するまで、33年間パリに住んで音楽活動を続けました。本書は、そのスティーヴ・レイシーが米国、フランス、イギリス、カナダ他の音楽誌や芸術誌等で、1959年から2004年に亡くなるまでの45年間に受けた34編のインタビューを選び、それらを年代順に配列することによって、レイシーが歩んだジャズ人生の足跡を辿りつつ、その音楽思想と人物像を明らかにしようとしたユニークな書籍です。本書の核となるPART1は、不屈の音楽哲学と音楽家魂を語るレイシーの名言が散りばめられた34編の対話集、PART2は、ほとんどが未発表のレイシー自筆の短いノート13編、PART3には3曲の自作曲楽譜、また巻末には厳選ディスコグラフィも収載されており、文字通りスティーヴ・レイシーの音楽人生の集大成と言うべき本となっています。

原書は『Steve Lacy; Conversations』(2006 Duke University Press) で、パリから帰国してボストンのニューイングランド音楽院で教職に就いたレイシーが2004年に亡くなった後、ジェイソン・ワイス Jason Weiss が編纂して米国で出版した本です。編者であるワイスは、1980年代初めから10年間パリで暮らし、当時レイシーとも親しく交流していたラテンアメリカ文学やフリー・ジャズに詳しい米国人作家、翻訳家です。本書中の何編かの記事のインタビュアーでもあり、また全体の半数がフランス語で行なわれたインタビュー記事の仏英翻訳も行なっています。「編者まえがき」に加え、各インタビューには、レイシーのその当時の音楽活動を要約したワイス執筆の導入部があり、全体として一種のレイシー伝記として読むことができます。

一人のジャズ・ミュージシャンの生涯を、ほぼ「インタビュー」だけで構成するという形式の書籍は、知る限り、私が訳した『リー・コニッツ』だけのようです。しかしそれも、数年間にわたって一人の著者が、「一対一の対話で」集中的に聞き取ったことを書き起こしたもので、本の形式は違いますがマイルス・デイヴィスの自叙伝もそこは同じです。それに対し本書がユニークなのは、45年もの長期間にわたって断続的に行なわれたインタビュー記事だけで構成していることに加え、インタビュアーがほぼ毎回異なり、媒体や属する分野、職種が多岐にわたり(ジャズ誌、芸術誌、作家、詩人、音楽家、彫刻家…他)、しかも国籍も多様であるところです。このインタビュアー側の多彩な構成そのものが、結果的にスティーヴ・レイシーという類例のないジャズ音楽家を象徴しており、それによって本書では、レイシーの人物とその思想を様々な角度から探り、多面的に掘り下げることが可能となったと言えます。ただし、それには聞き手はもちろんのこと、インタビューの受け手の資質も重要であり、その音楽哲学と並んで、レイシーが鋭敏な知性と感性、さらに高い言語能力を備えたミュージシャンであることが、本書の価値と魅力を一層高めています。

本書のもう一つの魅力は、レイシーとセロニアス・モンクとの音楽上の関係が具体的に描かれていることです。モンクの音楽を誰よりも深く研究し、その真価を理解し、生涯モンク作品を演奏し続け、それらを世に知らしめた唯一の「ジャズ・ミュージシャン」がスティーヴ・レイシーです。私の訳書『セロニアス・モンク』(ロビン・ケリー)は、モンク本人を主人公として彼の人生を描いた初の詳細な伝記であり、『パノニカ』(ハナ・ロスチャイルド)では、パトロンとしてモンクに半生を捧げ、彼を支え続けたニカ男爵夫人の生涯と、彼女の視点から見たモンク像が描かれています。そして本書にあるのが三番目の視点――モンクに私淑して師を身近に見ながら、その音楽と、音楽家としての真の姿を捉えていたジャズ・ミュージシャン――というモンク像を描くもう一つの視点です。レイシーのこの「三番目の視点」が加わることで、謎多き音楽家、人物としてのモンク像がもっと立体的に見えて来るのではないか、という期待がありました。そしてその期待通り、本書ではレイシーがかなりの回数、具体的にモンクの音楽と哲学について語っており、モンクの楽曲構造の分析とその裏付けとなるレイシーの体験、レイシー自身の演奏と作曲に与えたモンクの影響も明らかにされています。ニューヨークのジャズクラブ「ファイブ・スポット」と「ジャズ・ギャラリー」を舞台にした、ニカ夫人とモンク、レイシーの逸話、またソプラノサックスを巡るレイシーとジョン・コルトレーンの関係など、1950年代後半から60年代初頭にかけてのジャズシーンをリアルに彷彿とさせるジャズ史的に貴重な逸話も語られています。そして何より、モンクについて語るレイシーの言葉には常に温かみがあり、レイシーがいかにモンクを敬愛していたのかが読んでいてよく分かります。

本書で描かれているのは、ジャズの伝統を継承しつつ、常にジャズそのものを乗り越えて新たな世界へ向かおうとしたスティーヴ・レイシーの音楽の旅路と、その挑戦を支えた音楽哲学です。20世紀後半、世界とジャズが変容する中で苦闘し、そこで生き抜いたレイシーの音楽形成の足跡と、独自の思想、哲学が生まれた背景が様々な角度から語られています。レイシーが生来、音楽だけでなく写真、絵画、演劇などの視覚芸術、文学作品や詩など言語芸術への深い関心と知識を有するきわめて知的な人物であったこと、それら異分野芸術と自らの音楽をミックスすることに常に関心を持ち続けていた音楽家であったことも分かります。後年のレイシー作品や演奏の中に徐々に反映されゆくそうした関心や嗜好の源は、レイシーにとってのジャズ原体験だったデューク・エリントンに加え、セシル・テイラー、ギル・エヴァンス、セロニアス・モンクという、レイシーにとってモダン・ジャズのメンターとなった3人の巨匠たちで、彼らとの前半生での邂逅と交流が、その後のレイシーの音楽形成に決定的な影響を与えます。

さらにマル・ウォルドロン、ドン・チェリー、ラズウェル・ラッドなど初期フリー・ジャズ時代からの盟友たち、テキストと声というレイシー作品にとって重要な要素を提供した妻イレーヌ・エイビ、フリー・コンセプトを共同で追求したヨーロッパのフリー・ジャズ・ミュージシャンや現代音楽家たち、テキストやダンスをミックスした芸術歌曲(art song)や文芸ジャズ(lit-jazz) を共作したブライオン・ガイシン他の20世紀の詩人たち、ジュディス・マリナや大門四郎等の俳優・ダンサーたち、富樫雅彦や吉沢元治のような日本人前衛ミュージシャン――等々、スティーヴ・レイシーが単なるジャズ即興演奏家ではなく、芸術上、地理上のあらゆる境界線を越えて様々なアーティストたちと交流し、常にそこで得られたインスピレーションと人的関係を基盤にしながら、独自の芸術を形成してゆく多面的な音楽家だったこともよく分かります。

翻訳に際しては、いつも通り、原文の意味が曖昧に思える箇所は著者にメールで質問して確認しています。ワイス氏によれば、本書は英語版原書と今回の日本語版の他は、数年前にイタリア語版が出版されただけで、オリジナル記事の半数がフランス語のインタビューであるにもかかわらず、フランス語版は出ていないそうです(イタリアのおおらかさと、フランス国内で芸術活動をする《アメリカ人》に対するフランス的反応のニュアンスの対比は、本書中のレイシーの発言からも想像できます)。

なお、この本はレイシーの音楽人生と思想に加え、フリー・ジャズを含めた曲の構造とインプロヴィゼーションの関係、またソプラノサックスとその演奏技術に関するレイシーの哲学や信念など、ジャズに関わる専門的なトピックもかなり具体的に語られています。そこで今回は、サックス奏者で批評家でもある大谷能生さんに、プロのミュージシャンの視点から、レイシーとその音楽に関する分析と考察を別途寄稿していただくことにしました。タイトルは『「レイシー・ミュージック」の複層性』です。どうぞ、こちらもお楽しみに。

(*) 月曜社のHP/ブログもご参照ください。https://urag.exblog.jp/240584499/

2017/05/27

レニー・トリスターノの世界 #1

「ジャズにも色々あるのだ」ということを初めて知ったのが、1970年代に盲目のピアニスト、レニー・トリスターノ  (1919-1978) の「 Lennie Tristano(邦題:鬼才トリスターノ) (1955 Atlantic) というレコードを聴いたときだった。それまで聴いていた "普通の" ジャズ・レコードとはまったく肌合いの違う音楽で、クールで、無機的で、構築的な美しさがあり、ある種クラシックの現代音楽のような雰囲気があったからで、ジャズ初心者には衝撃的なものだった。しかし、それ以来この独特の世界を持ったアルバムは私の愛聴盤となった。

Tristano
1955 Atlantic
1954/55年に録音されたLP時代のA面4曲の内の2曲<Line Up>と<East 32nd Street>は、ピーター・インド(b)、ジェフ・モートン(ds)というトリスターノ派リズム・セクションの録音テープを半分の速度にして再生しながら、その上にトリスターノがピアノのラインをかぶせて録音し、最後にそれを倍速にして仕上げたものだとされている(ただし諸説ある)。<Line Up>は、<All of Me>のコード進行を元にして、4/4と7/4という2つの拍子を用いたインプロヴィゼーションで、初めて聴いたときには思わずのけぞりそうになったほどだが、この緊張感に満ちた演奏は今聴いても実に刺激的だ。他のA面2曲<Turkish Mambo>とRequiem>は、トリスターノのピアノ・ソロによる多重録音である。<Turkish Mambo>4/45/812/87/8という4層の拍子が同時進行する複雑なポリリズム構造を持つ演奏だという(音楽学者Yunmi Shimによる分析)。もう1曲の<Requiem>は、音楽家として互いに深く尊敬し合っていたチャーリー・パーカー(1955年没)を追悼した自作ブルースで、トリスターノのブルース演奏は極めて珍しいものだが、これも素晴らしい1曲だ。武満徹の「弦楽のためのレクィエム」は、トリスターノのこの曲に触発されたものだと言われている。また後年トリスターノの弟子となる女性ピアニスト、コニー・クローザーズもこの曲を聴いてクラシックからジャズに転向したという。2人ともトリスターノの音楽の中に、ジャズとクラシック現代音楽を繋ぐ何かを見出したということだろう。このA面で聴ける構造美とテンション、深い陰翳に満ちた演奏は、トリスターノの天才を示す最高度の質と斬新さを持つ、ジャンルを超えた素晴らしい「音楽」だと思う。

LP時代のB5曲はうって変わって、リー・コニッツ(as)が加わったカルテットが、スタンダード曲をごく普通のミディアム・テンポで演奏しており、1955年6月にニューヨークの中華レストラン内の一室でライヴ録音されたものだ。(コニッツはこの数日後に、「Lee Konitz with Warne Marsh」をAtlanticに吹き込んでいる。)スタン・ケントン楽団を離れたコニッツが自己のカルテットを率いていた絶頂期だったが、ここではリズム・セクションにアート・テイラー(ds)、ジーン・ラメイ(b)というトリスターノ派ではないバップ奏者を起用していることからも、A面のトリスターノの「本音」とも言える音楽世界との差が歴然としている。しかし、この最高にリラックスした演奏もまた、ピアニストとしてのトリスターノの一面である。実は本来は、このカルテットのライヴ演奏のみでアルバムを制作する予定だったが、満足できない演奏があったコニッツの意見で、5曲だけが選ばれ、代わってトリスターノのスタジオ内に眠っていた上記4曲を「発見」したAtlanticが、それらをA面として収録してリリースした、ということだ(その後このライヴ演奏のみを全曲収録したCDも発表された)。アルバムの最終コンセプトはたぶんトリスターノが考えたのだろうが、A面はトリスターノの「本音」、B面は「こわもて」だけじゃないんですよ、という自身のコインの両面を伝えたかった彼のメッセージのようにも聞こえる(勝手な想像です)。ただしそれはあくまでLPアルバム時代の話であり、CDやバラ聴きネット音源ではこうした作品意図や意味はもはや存在しない。残念なことである。

Crosscurrent
1949 Capital
トリスターノは、チャーリー・パーカーと同年1919年にシカゴで生まれた。9歳の時には全盲となり、シカゴのアメリカ音楽院入学後はジャズだけでなくクラシック音楽の基礎も身に付け、20代初めから既に教師として教えるようになっていた。1946年にビバップが盛況となっていたニューヨークに進出し、シカゴ時代からの弟子だったリー・コニッツも間もなく師の後を追った。リー・コニッツ(as)、ウォーン・マーシュ(ts)、ビリー・バウアー(g)、ピーター・インド(b)、アル・レヴィット(ds)というトリスターノのグループは、既に1948年頃からフリー・ジャズの実験を初めており、1949年のアルバム「Crosscurrents」(Capitol)で、<Intuition>、<Digression>というジャズ史上初の集団即興による2曲のフリー・ジャズ曲を録音している。当時彼らはクラブ・ギグやコンサートでも実際に演奏している。ただしそれらは対位法を意識していたために、曲想としてはクラシック音楽に近いものだった。当然ながらクラブなどでは受けないので、その後グループとしてのフリー演奏は止めたが、1951年にマンハッタンに開設した自身のスタジオで、トリスターノはフリー・ジャズ、多重録音の実験を続けていたのだ。(多重録音は今では普通に行なわれているが、70年近く前にこんな演奏を自分で録音して、テープ編集していた人間がいたとは信じられない。テオ・マセロがマイルスの録音編集作業をする15年以上も前である。)

メエルストルムの渦
1975 East Wind
亡くなる2年前、1976年に日本のEast WindからLPでリリースされたレニー・トリスターノ最後のアルバムが「メエルストルムの渦 Descent into the Maelstrom」だ1975年に、当時スイング・ジャーナル誌編集長だった児山紀芳氏とEast Windが、隠遁生活に入っていたトリスターノと直接交渉して、過去の録音記録からトリスターノ自身が選んだ音源をまとめたものだそうだ。ただし音源は1952年から1966年にかけての5つのセッションを取り上げていて、中に1950年代前半(上記「鬼才トリスターノ」音源より前である)に録音したこうした多重録音の演奏が3曲収録されている。アルバム・タイトル曲<メエルストルムの渦>はエドガ・アラン・ポーの同名小説から取ったもので、録音されたのは1953年であり、当時としては驚異的なトリスターノのフリー演奏が聞ける。一人多重録音による無調のフリー・ジャズ・ピアノで、重層化したリズムとメロディがうねるように進行してゆく、まさにタイトル通りの謎と驚きに満ちた演奏だ。セシル・テイラー、ボラー・バーグマンなどのアヴァンギャルド・ジャズ・ピアニスト登場の何年も前に、トリスターノは既にこうした演奏に挑戦していたのである。1952年(195110月という記録もある)のピーター・インド(b)、ロイ・ヘインズ(ds)との2曲のトリオ演奏(Pastime、Ju-Ju)もピアノ部分が多重録音である。他の演奏は “普通の” トリスターノ・ジャズであり、1965年のパリでの録音を含めてピアノソロが5曲、1966年当時のレギュラー・メンバーだったソニー・ダラス(b)、ニック・スタビュラス(ds)とのトリオが同じく2曲収録されている。本人がセレクトした音源だけで構成されていることもあり、Atlantic2作品と共に、このアルバムはトリスターノの音楽的メッセージが最も強く込められた作品と言えるだろう。

The New Tristano
1962 Atlantic
1950年前後、トリスターノはインプロヴィゼーション追求の過程で、微妙に変化する複雑な「リズム」と、ホリゾンタルな長く強靭な「ライン」を組み合わせることによって、ビバップの延長線上に新しいジャズを創造しようとしていた。特に強い関心を持っていたのはポリリズムを用いた重層的なリズム構造だ。そのためリズム・セクションに対する要求水準は非常に高く、当時彼の要求に応えられるドラマーやベーシストはほとんどおらず、ケニー・クラークなどわずかなミュージシャンだけだったと言われている。よく指摘されるメトロノームのように変化のないリズムセクションも、その帰結だったという説もある。要するに、上記多重録音のレコードは、「それなら自分一人で作ってしまおう」と考えたのではなかったかと想像する。だからある意味で、これらの多重録音による演奏はトリスターノの理想のジャズを具体化したものだったとも言える。だが多重録音と速度調整という「操作」をしたことで、ジャズ即興演奏の即時性に反するという理由だと思うが、当時彼のAtlantic盤は批評家などから酷評された。その後しばらく経った1962年に、これらの演奏の延長線として、録音操作無しの完全ソロ・ピアノによるアルバム「ザ・ニュー・トリスターノThe New Tristano」(Atlantic)を発表して、自らの芸術的理想をついに実現したのである。

前作の演奏加工への批判に対する挑戦もあり、1曲を除き、完全なソロ・ピアノである。疾走する左手のベースラインと右手の分厚いブロック・コードを駆使して、複雑なリズム、メロディ、ハーモニーを一体化させてスウィングすべく、一人ピアノに向かって「自ら信じるジャズ」を演奏する姿には鬼気迫るものがあっただろうと想像する。盲目だったが彼の上半身は強靭で(ゴリラのようだったと言われている)、その強力なタッチと高速で左右両手を縦横に使う奏法を可能にしていた。収録された7曲のうち<You Don’t Know What Love Is>以外は「自作曲」だが、このアルバムに限らずトリスターノは、既成曲のコード進行に乗せてインプロヴァイズした別のLine(メロディ)に別タイトルをつけるので、原曲はほとんどスタンダード曲である。この姿勢が彼のジャズに対する思想(「即興」こそがジャズ)を表している。たとえば <Becoming>は<What Is This Thing Called Love>,<Love Lines>は<Foolin’ Myself>,<G Minor Complex>は<You’d Be So Nice To Come Home To> などだ。原曲がわかりやすいものもあれば、最初からインプロヴァイズしていて曲名を知らなければわからないものもある。同じく<Scene And Variations>の原曲は <My Melancholy Baby> で、<Carol>、<Tania>、<Bud>という3つのサブタイトルは彼の3人の子供の名前だ。Budは当然ながら、崇拝していたバド・パウエルにちなんで名づけたものだ。クールでこわもて風トリスターノの人間味を感じる部分である。

不特定の客が集まる酒を扱うクラブでの演奏を嫌がり、売上至上主義の商売に批判的で、その手助けをしたくない、というトリスターノの姿勢は若い頃シカゴ時代から基本的に変わらなかった。未開の領域で、自身の信じるビバップの次なるジャズを創造するという姿勢がより強固になっていった40年代後半以降、この傾向はさらに強まる。ジャズという音楽、アメリカという国の成り立ちを考えると、これが如何に当時の音楽ビジネスの常識からかけ離れていたかは明らかだろう。ニューポート・ジャズ祭への出演要請も事前の手続き上のトラブルから断ったりしているが、60年代のヨーロッパでのライヴなど、コンサート形式ならたとえpayが低くても基本的に参加する意志はあったようだ。しかし、クラブでも、コンサート・ホールでもその数少ないライヴ演奏記録は常に新鮮でスリリングな最高のジャズである。ただし、その音楽が本質的に内包する高い緊張感と非エモーショナルな性格から、ジャズにリラクゼーションを求める層に受けないのは昔も今も同じだろう

2017/02/24

モンク考 (2) モダン・ジャズ株式会社

1940年代半ばのビバップに始まるモダン・ジャズの歴史は、その盛衰においてアメリカという国の歴史と見事にシンクロしている。そしてそのビバップは、チャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーが創造したというジャズ史の通説への反証が、自身の評価の低さを嘆くモンクの心情を取り上げた本書中で幾度も繰り返されている。ビバップ時代に、その音楽の真の創始者は常に時代の先を行くモンクである、とブルーノート・レーベルが主導したモンク再評価キャンペーンが不発に終わった後、キャバレーカードの没収という不運も重なり、1957年夏のジョン・コルトレーンとの「ファイブ・スポット」出演に至るまで、およそ10年にわたってモンクは不遇なミュージシャン生活を余儀なくされた。

bird and diz
Charie Parker, Dizzy Gillespie
1949/50 Verve
「自由」を別の言い方で表せば、モンクの音楽の本質とは「反システム」であったとも言えるだろう。ガレスピーとパーカーが創造したと言われ、その後モダン・ジャズの本流となるコード進行に基づく「即興演奏のシステム化」の対極にあったのが、「個人の想像力と独創性」に依存し、コードの約束事による束縛を嫌い、即興の即時性、自由なリズム、そしてメロディを愛し続けたモンクの音楽である。システムとは、多数の人間が吸収し取り入れることのできる汎用性を備えたものであり、習得効率と商業性の高さという近代世界、特にアメリカにおける市場原理に適合した合理性が求められるものだ。むしろ、アメリカという国家とその文化を実際に形成してきたのはそうしたシステム的思考である。それに対し、個人の創造力とは代替のきかないものであり、コピーのできないものであり、誰もが手に入れることができるわけではない、非合理的、非効率なものである。この独創的個人と汎用システムという対置は、芸術の世界であれ、実業の世界であれ、少数の天才や独創的人物が創り出したものが、多数の普通の人々によって徐々に理解され、咀嚼され、コピーされ、大衆化してゆく、という人間社会に共通の普遍的構造を表しているとも言える。半世紀前と現代との違いは、その拡散速度の圧倒的な差だけだ。(コピー全盛の現代にあっては、もはやどれがオリジナルなのか見分けがつかないほどだが)。

Genius of Modern Music Vol.1
1947 Blue Note
この本の中で語られる、「モンクはものを作る人間で、それを売り出したのはガレスピーだった」という「ミントンズ・プレイハウス」の店主だったテディ・ヒルの譬えを敷衍して、ビバップ創生の物語におけるモンク、ガレスピー、パーカー3人の役割を、現代の企業組織風に「モダン・ジャズ株式会社」として置き換えてみればわかりやすい。内部にひきこもって集中するモンクは、試行錯誤を繰り返してゼロから新しいモノやアイデアを生み出す「研究開発部門」であり、進取の気性があったガレスピーは、できた試作品を市場に広く効果的に知らしめ、出てきた顧客の要望を素早く察知して、それを改善する過程をシステム化してゆく「マーケティング部門」であり、圧倒的演奏能力を持ったパーカーは、製品やアイデアを先頭に立って顧客にわかりやすく、魅力的にプレゼンして売り歩く「営業部門」だったとでも言えるだろう。モンクが、自身の独創性と貢献に対する認証の低さと、(キャバレーカード問題による露出の少なさも理由となって)市場という前線に近い場所にいたガレスピーとパーカーが脚光を浴び、その二人だけが富と名声を得たという不運を何度も嘆くのも、こうして見ると、企業組織の持つ構造と役割、各部門で働く人たち個人の能力や深層心理と重なるものがあるようにも思える。

そう考えると、創業者たちの一世代後のリーダーだったマイルス・デイヴィス(モンクより9歳年下)は、こうしてでき上った会社の基盤の上に、新たな発想でクール、ハードバップ、モード、エレクトリックなどのジャズ新事業を次々に立ち上げていった「新事業開発部門」である。そして創業者の一人モンクが持っていた、ジャズの枠組みを突き破ろうとする本来の「自由な精神(前衛)」に立ち返り、スピンアウトして別会社である「反システム事業」に再挑戦したのがセシル・テイラーやオーネット・コールマン、さらに後期のジョン・コルトレーンに代表されるフリー・ジャズのミュージシャンたちだった、と言えるかも知れない。そしてアメリカ経済と社会の変化と軌を一にした、1940年代から70年代にかけての「モダン・ジャズ株式会社」の創業から繁栄、衰退に至る約30年の歴史も、まるで会社の寿命を見ているかのようである。そしてジャズマンとしては比較的長生きだったモンクは(1976年引退、1982年64歳で没)、まさにその会社と同じ人生を生き、運命を共にしている。もちろん、音楽の世界をこれほど単純に図式化できないことは言うまでもないのだが、本書のような物語は、巨人と言われるような天才ジャズ音楽家が送った人生にも、才能だけではない、いつの時代の、どんな人間にも共通する宿命的な何かがあったのかも知れない、と凡人が想像を巡らす楽しみを与えてくれるのだ。