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2023/12/28

ジャズと翻訳(6)ソニー・ロリンズ

Saxophone Colossus
Sonny Rollins
(1956 Prestige)

日本語表記の続きになるが、楽器名 "saxophone" も、昔は一般的にサックス=「サ[キ]ソフォン」 だったのが、いつごろからか「サ[ク]ソフォン」という表記が増えたようだ。辞書を見ても、両方の表記があり、ネット上でも同じで、ほぼ半々くらいか(日本語「クーソ」というつながりの音を嫌って、一部の前人が、あえて「キソ」という表記にしたのかもしれない?)。ジャズファンなら誰でも知っていたソニー・ロリンズの名盤『サキソフォン・コロッサス(=サキソフォンの巨像or巨人)』(1956)も、通称「サキコロ」で通っていた。これが「サクコロ」では何となくしまらないような気がするが…?。このアルバムはトミー・フラナガン(p)、ダグ・ワトキンス(b)、マックス・ローチ(ds)という、今では夢のようなメンバーによるテナーのワンホーン・カルテットの傑作だ。ベン・ウェブスター、コールマン・ホーキンズ等に続く豪快なテナーサウンドで、ジョン・コルトレーンに先駆けて、若手テナーの第一人者という地位と人気を1950年代半ばに決定づけたロリンズの出世作でもある。大きく男性的なサウンドと、豊かなメロディライン、多彩なリズムが魅力のロリンズに対し、コード、モード奏法からフリージャズへと向かったコルトレーンという二人のジャズテナーの巨人は、その演奏スタイルと個性のゆえに、日米ともに支持ファン層が分かれていた。しかし1967年に40歳で早逝したコルトレーンに対し、その後も我が道を行き、ジャズ界の重鎮として生き抜いてきたロリンズは、21世紀の今も存命だ。

Saxophone Colossus
by Aidan Levy
(2022 Hachette Books)
実は、昨年12月に米国で出版されたソニー・ロリンズ初の本格的伝記『Saxophon Colossus: The Life and Music of Sonny Rollins』(Aidan Levy著)の邦訳版を現在翻訳中だ。本記事で触れている「大著」とはこの本のことで、何といっても約800ページ(本文テキストだけで720ページ)もあって、ロビン・ケリーの『Thelonious Monk』より長く、分厚くデカいハードカバーの現物を目の前にしたときは、さすがに「うーん…」と思わず引いた。前記事(5)の本棚写真のいちばん右側にある巨大な本(笑)がそうだが、最近の本は見た目ほど重くないのが救い(?)か(だが、モンク本以降の翻訳は、紙の原書ではなくPDFのPC画像でやっているので、デカさや重さは関係ないと言えば、ない)。ただ、この本はページ数だけでなく、ページ当たりの単語数が多いので、たぶん20%くらいはモンク本より長いかもしれない。モンク本の完訳原稿の文字数が、MSWordで約80万文字だった(出版した邦訳版はその85%の量)ので、たぶん100万文字近くは行くかもしれない…。ちなみに、長寿だったアルトのリー・コニッツが3年前に92歳でコロナで亡くなった今、1930年生まれで今年93歳になるソニー・ロリンズは、おそらく20世紀のジャズ巨匠中、最年長かつ最後の存命テナーサックス奏者だ(ただし、2014年からさすがに演奏活動は休止している)。パーカー、マイルス、コルトレーン等と同時代を生き、彼らと共にモダン・ジャズ黄金期を実際に経験してきた貴重な生き証人がロリンズなのだ (ドラマーではさらに年長の98歳のロイ・ヘインズがいるが)。

The Bridge
Sonny Rollins
(1962 RCA)
ロリンズはモダン・ジャズ史に名を刻む巨人だが、突然雲隠れしたり、宗教やヨガにはまったり、急にモヒカン刈りにしたり、モンクほどではないにしても、その思想と音楽人生には謎も多く、しかも、これまで本格的伝記は一度も書かれてこなかった。エイダン・レヴィ氏のこの伝記は、当時絶頂期だったロリンズが突然ジャズシーンから姿をくらまして(1960/61年)、一人で練習していたというイーストリバーにかかる有名な「橋」(ウィリアムズバーグ橋)を境に、その前後の年月をPART1とPART2に分けて書かれている。チャーリー・パーカー、セロニアス・モンク、バド・パウエル、クリフォード・ブラウン、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、オーネット・コールマンといったジャズ界の巨人たちとの関係はもちろん、ロリンズが関わってきた他のジャズ界の主要人物たちも次々に登場するが、その物語を、存命のロリンズ本人と著者の未発表直接インタビューをはじめ、主要ジャズ・ミュージシャンや関係者との200を超える新旧インタビューを中心にして描くという、米国ジャズマン伝記の王道を行く編集と構成だ。ロリンズの名盤誕生の背景や、レコーディング情報などもたっぷりと書かれている。

"A Great Day in Harlem"
by Art Kane (Aug.12, 1958) 
米国南部ではなく、カリブ海西インド諸島出身の両親を持つロリンズは、ニューヨーク・ハーレム生まれで、アート・テイラー(ds)、ケニー・ドリュー(p)、ジャッキー・マクリーン(as) のような友人たちと、「シュガーヒル」と呼ばれるハーレムの山の手で育った。この本でも触れているが、モダン・ジャズ全盛期の1958年夏に、そのハーレムで撮影され「エスクァイア」誌に掲載された『A Great Day in Harlem』(ハーレムの素晴らしき一日)という有名な集合写真がある。そこに写っている4世代にまたがる57人のジャズ・ミュージシャンの中で、当時ロリンズは最年少(28歳)であり、これらのうち今も存命なのは、ロリンズと1歳年上のベニー・ゴルソン (ts) の二人だけだそうだ(モンク、ミンガス、レスター・ヤングなどみな写っているが、エリントン、マイルス、コルトレーン等は、当日ニューヨーク市内にいなかったので、この写真には写っていない)。こういう写真を見ると、60年という歳月が過ぎ去ると、今自分の周りいる人間は、みんなこの世からいなくなってしまい、新しい人間と入れ替わっている――という当たり前だが、厳粛な事実をあらためて思い知る。

翻訳は、昨年夏ごろに本ブログを通じて著者エイダン・レヴィ氏から直接依頼されたもので、併せて邦訳本の出版社探しも頼まれた。ソニー・ロリンズは、私的な翻訳対象クライテリアからすると有名かつ大物すぎるのだが、これまで公表された確実な情報が意外に少なく、その人生にも陰翳がある人物であるところに興味を引かれたこともあって、思い切って翻訳を引き受けた(そのときは、まさかこれほどのボリュームの本とは思っていなかったが…)。米国での出版前、昨年秋にはPDFの最終原稿を受け取っていて、一部翻訳も始めていたのだが、予想通り、ロビン・ケリーの『Thelonious Monk』の時と同じく、出版やジャズを巡る今の情勢下、この長大な伝記を日本語で出版しようという男気のある(?)出版社がなかなか見つからず、苦労していた。だが幸いなことに、ノンフィクション翻訳書に力を入れている「亜紀書房」さんが取り上げてくれることになった。基本的に日本語の「完訳版」出版を目指しているが、そうするとたぶん1,000ページ近く(以上?)の本になるので、短縮化の可能性等も含めて、どうやって現実的折り合いをつけるか亜紀書房さんと今後検討する予定だ。モンク本と同じく、記事引用元、背景、関連逸話を詳述している「原注」も貴重な情報ばかりなのだが、小フォントで本文と同様のボリュームがあり、これも和訳したら、おそらく倍近い長さの本になってしまうだろう。いずれにしろ、おそらく今の翻訳ペースだと、出版は来年半ば以降になると思われる。

ロリンズ近影
久々の本格的ジャズ・ミュージシャン伝記、しかも「最後の大物」ソニー・ロリンズということもあって、出版後早々に米国内で多くの書籍賞を受賞し、ハードカバー版は重版され、最近ペーパーバック版も出た。この本は、米国黒人史を背景にした初のロリンズ個人史に加え、ビバップ以降のジャズ史、主なジャズ・ミュージシャンの逸話など、これまでに公表されてきた、ありとあらゆるモダン・ジャズ関連情報を、最新情報も含めて1冊に凝縮したような内容になっている。したがってコアなジャズファンだけでなく、一般の音楽ファンが読んでも、「ロリンズを中心にしたバップ後のモダン・ジャズ史」として俯瞰できる楽しみもある。問題は、上述したように、その長さだけだろう(アメリカ人は本当に長い本が好きだ…)。モンク本でもそうだったが、訳していると、あまりの長さに、途中で放り出したくなるときもある。日本語の本は、小説でもノンフィクションでも、パラグラフごとに改行したりして、余白が多くスカスカだが、アメリカの本はとにかく活字(中身)がぎっしり詰まっているものが多い。文法も違うので、日本語に翻訳すると、おおよそ原書の1.5倍くらいの長さの本になるのだ。翻訳とは、他人が書いたテキストという「制約」の中で日本語文章を「ひねり出す」作業なので、パズルを解くような側面がある。それをずっと続けていると頭が疲れて、たまに身動きできない拘束衣を着せられているように感じるときがある。そういうときは、何の制約もない「日本語の文章」を、自分の言葉とリズムで好き勝手に書いて、すっきりしたいと思う。当初は訳書PRと文章修行が目的だったこのブログで、こうした駄文を何年も書き続けてきた理由の一つは、実はそうした憂さ晴らし的な効用もあるからだ。とはいえ、こうした本邦初となる書籍の翻訳作業は、聞いたことのない新情報が次から次へ出て来るという点で、単なるジャズファン的感想を言えば「楽しい」の一言だ。

私はジャズという音楽そのものへの関心はもちろんまだ強いが、人生の先が見えた今、昔のようにひたすら好みのレコードを探し出すことに喜びを感じたり、集めて聴いて楽しむということははもうない。今はむしろ人間としてのジャズ・ミュージシャンへの興味の方が大きい。ジャズほどそのサウンドに「人間性(個性、人格)」が表現される音楽はないからだ。具体的な歌詞がないのに、抽象的なサウンドを通して逆に人間が見えて来る、というのがジャズの不思議さであり特質なのだ。技術的な解説や、誰の音楽的影響だとかいうような蘊蓄ではなく、どういう人生を歩んできたがゆえに、そういうサウンドのジャズになったのか、という人間的な側面に今はより興味がある。ライヴ演奏の楽しみは、それを自分の目と耳で確認するということでもある。今後も(生きている限り)、そういう視点で面白い海外ジャズ書を探し出し、可能なら翻訳出版して、数少なくなった日本のジャズファンに楽しんでもらいたいと思っている。

(年末でもあり、ひとまず 完)

2023/12/10

ジャズと翻訳(5)日本語表記

英語版ジャズ用語集の一例
ジャズ本は音楽書なので、普通の文章に加えて、当然ながら原書英語にもジャズ独特の表現が頻出する。普通の辞書には載っていないスラングも多く、私はジャズの演奏はしないので、翻訳を始めたころ(10年前)は解釈に悩む語句も多かった。一般音楽用語までは手持ちのPC版『ランダムハウス英和』『リーダーズ英和』『研究社大英和』で95%はカバーできるが、時にはこれらの大辞典にも載っていない言葉もある。その場合はWebで調べるのだが、Web上の日本語の「ジャズ用語集」などは結構いい加減な説明もあるので、かならずしも信用できない。英語版のオンライン・ジャズ用語集もかなり多いが、これまでのところ、コロンビア大学のWeb版 "Jazz Glossary" は語句説明も簡潔で内容も信頼できるし、有用だ。

ジャズだけに限らないが、よく見る簡単な語句でも音楽用語の意味は特殊だ。たとえば名詞 ”time" は「拍子」で、4/4拍子は "four-four (time)" だし、3/4拍子は "three-four (time)"だ。また ”value" とは「音価」(音の長さのこと)で、 "note" は「音符」、"whole note" は「全音符」、"half note" とは「二分音符」で、「四分音符」は "quarter note" だ。(この「二分」と「四分」とは、割合のことではなく、全音符-whole note-を2つ、4つに分けた長さ、という意味だと今ごろ理解したのも、英語表現への疑問からだった。8分音符以降も同じ)。"changes" とは変化ではなく曲中のコード構成(進行)のことだし、"chops" は肉切りではなく、楽器演奏技術(技量)を指す。

動詞系もたとえば "trading section"とは貿易課のことではない。日本では「バース交換」と呼ぶのが普通のようだが、この「バース」とはいったい何のことかと調べたら、実は "bars" すなわち複数の 「小節 (bar)」のことで(英語発音では「バー」だろう)、奏者間の4小節とか8小節の短い掛け合い演奏 (trading 4s, とか8sと表記)のことだとわかった。ときどき見かける 「ヴァース交換」 という日本語表記が混乱の元だ(日本語の「小節」は、英語では "bar" の他に "measure" とも "meter"とも表記されることがあるのでややこしい)。日本では普通に使うブルースやロックギターの「チョーキング」(キュイーンと弦を上下にずらして音をスラーさせる技)も、英語では "bend (ing)" (曲げる)だ。 "sit in"「飛び入り演奏」などはよく知られているが、"lay out" は、あるパートの演奏だけを一時休止すること、"stroll" は文字通り、その間ぶらつくようにプレイすること、"lay (laid) back" はゆったりとしたフィーリングでプレイすること、"play cold" はぶっつけ本番、"noodling" は適当に慣らし演奏すること (ラーメン屋のチャルメラから来ているのか?と思ったがそうではない)等々…これらはジャズ用語のほんの一部だ。

マイルズ・デイヴィス?
マイルス・デイビス?
AIで翻訳が簡単、身近になった一方で、大昔の翻訳書や翻訳者のイメージのまま、今も勘違いしている人が時々いる。原書にあった資料、写真などが未収載だとか、名前などのカタカナ表記が間違っているとか、ネット上のブックレビューの場などで批判(非難)する人もいる。ジャズ・ミュージシャンの「人名」など、固有名詞の日本語表記にいちゃもんをつけている人が時々いるが、これも歴史的背景があって、これが正しいとか、厳然と決まったルールがあるわけでもない。ウィリアムスとウィリアムとか、ジェイムスとジェイムとか、エヴァンスとエヴァンとか、末尾の濁音もそうだ。今や完全に日本語になったブルース(blues)は英語発音ではブルーと濁るし(いやブルースでいいという説もある)、マイルス(Miles)も実はマイルだ。油井正一さんが、日本語は末尾の濁音を嫌うので、あえてをスという表記にした、という話をどこかで読んだことがある。上記 "bar" のように、"b" と "v" の表記(「バー」か「ヴァー」か。"Davis" もデイビスかデイヴィスか、など)、あるいは語尾 "-ve" の「ブ」と「ヴ」も、どちらにするか迷う("five", "live", "love"など)。どっちでもいいと思うが、気になる人には気になるだろう。昔、坂本九の「上を向いて歩こう」が、アメリカでは「スキヤキ」になったくらい、あちらでは大らか(いい加減?)なので、こうした細かな点にこだわるのも日本人の特性か。

ただし今は、聞いたことのない単語や人名の発音でも、何語であろうとインターネットの音声辞書でネイティヴの発音でほとんどが確認でき、「実際の発音に近い」日本語表記が可能になったので、今後は昔のようなことは減るだろう。串刺し検索のできるWeb辞書や、モノの画像情報もそうだが、「百聞は一見に如かず」がいとも簡単に可能になって、たぶん昔の翻訳者が何のことかといちばん苦労していた問題が噓のように、なんでもインターネットで即座に分かる時代になった。

地名などで、どこに点[・]を入れるかも、決まりはあるようで、ない。New Yorkは本来の表記基準ならニュー・ヨークとすべきだろうが、慣例表記はニューヨークだし、Los Angels ロス・アンジェルスもロサンゼルスだし、San Francisco サン・フランシスコもサンフランシスコで、みな同じように前人が最初に使用した表記がそのまま使用されて一般化し、日本語として定着したものだ。アルトサックスもアルト・サックスも、テナーサックスもテナー・サックスもそうで、決まりはない。私は縦書きの場合[・]が途中に入ると読みにくい(うるさい)ので、日本語化した単語は[・]なしの表記を好んでいる。ジャズ書の翻訳文は人名、楽器名、曲名、地名などカタカナ表記がどうしても多く、見た目がごちゃごちゃしがちなので、それをうるさく感じさせずに、できるだけ縦書き日本語として「視覚的に」スムースに読ませる工夫も必要で、たとえば頻出するジャズクラブ名や新聞・雑誌名などは「xxxx」とカッコ付きにして、他の一般カタカナ語句と区別して、すぐに分かるようにしているのもその一つである。

日本語の漢字、ひらがな、カタカナの歴史もそうだが、ラテン語の英米語への浸透、変形、定着が示すように、外来語の発音や表記は、歴史的な試行が積み重なって徐々に定着してゆくもので、「原語の発音」にあまり拘泥して白黒つけるものでもないと思う。その民族、文化圏に適した表現に時間をかけて自然に収斂してゆくものだろう。特に日本という国は、そうした外来文化の吸収に関しては、2,000年に及ぶ独特の技術(?)蓄積があるので、どんな外来語も。いずれはもっとも適切な発音や表現に落ち着き、定着してゆくのだろうと思う。

ところで、本記事の(1)冒頭に記したように、団塊の世代が漸減して市場が縮小するとともに、ジャズを「聴く人」が減り、出版社も編集者もジャズを「知る人」も減り、何より本自体が売れなくなった今の時代、この種の特殊な(ジャズ)翻訳書が出版社側の企画からスタートすることはほぼないと言える。読者層が限られ「売れない」ことに加え、出版社からすると、翻訳書は「儲からない」のだ。バブル時代以降らしいが、日本への著作権料が高騰して、高い印税を原著者や版権者にまず支払わなければならず、さらに翻訳者にも別途翻訳料を支払い(昔に比べるとずっと安いようだが)、今は写真など図版類にも個別に著作権料を別途支払う必要があって、近年はこれも高騰しているらしい。原書掲載の写真類をカットしたり、時に代替したりするのは、それが理由だ。しかも、ジャズ本などは典型的だと思うが、翻訳書は一部を除いて大量の印刷部数になるケースも稀で、せいぜい千から数千部程度で、規模の経済が有効ではない(村上本は別として)。だから、国内本を出版するよりも、1冊あたりの原価が大幅に高くなるという宿命がある(翻訳書の価格が高いのはそれが理由だ)。しかも翻訳者は、長い時間と労力を費やす割に一般的に印税は低く、労働の対価としても、まったく見合っていないケースが大半だ。今後AI翻訳化がさらに進めば、ますますそうなるだろう。

というわけで、出版社、翻訳者ともに経済的にはあまりハッピーな世界ではないのだ。それにもかかわらず、ジャズを含めて、いわば特殊な芸術ジャンルの翻訳書が今でも世に出ている理由は、翻訳者と出版社(編集者)の「熱意」以外の何物でもない。一部の大ヒット作を除けば、マイナーな翻訳書の出版で大儲けした人などいないと言っていい。訳者も出版社もほぼボランティアに近い条件で、いわば情熱だけで出版しているのに近いケースが大部分だろう。儲けようとしてやっているのではなく、あくまで情熱と、出版することに価値と意味がある(埋もれさせるのは勿体ない、日本語で読んで楽しんでくれる人がまだ世の中にいる)と信じているから、出版社も赤字覚悟でやっているようなもので、いわばボランティアに近いのだ。

(続く)

2023/10/27

ジャズと翻訳(3)伝記・評伝

Thelonious Monk
Robin DG Kelley

インタビュー本と同じく、アメリカで多いジャズ本が「伝記」(biography) である。私の訳書にも2冊の伝記がある。意外に思えるが、一般的にアメリカ人は歴史本、伝記の類が好きだ。米国には「伝記作家」と呼ばれる伝記、評伝を専門にする作家もいるくらいで、ジャーナリストの他にも、大学教授などアカデミズムの世界の人たちが、ジャズやジャズ・ミュージシャンを対象に取り上げて、史実を基にして分析、考察、論評しているのも日本には見られない特徴だ。ジャズを生み、長い歴史と人材を持つ国と、ジャズが単に輸入ポピュラー音楽の一つで、一部の大衆が趣味として楽しむという日本の伝統とは異なる背景があるからだろう。ただし同じ大学教授でも、『リー・コニッツ』のアンディ・ハミルトン(英Darham大)はイギリス人の哲学・美学者、『セロニアス・モンク』のロビン・ケリー(米UCLA) は歴史学者である。大学教授だから偉いとか、すごいとか、そういうことではなく、レコードを中心にした日本の典型的な「ジャズ語り」とは、また違う切り口と内容を持った「ジャズ書」が生まれるということである。

アメリカ人の伝記好きの理由はいろいろと想像できるが、一つには、国としての歴史が短いので、余計に自分たちの「歴史」を大事にして、「国家としてのアイデンティティ」を共有したいという社会的なニーズが強いことだと思う。もう一つは移民による国家なので、自身の「ルーツ」を知りたいという強い潜在的願望を多くのアメリカ人が個人として持っているからだろう。そして3番目が、その個人が新世界で闘って生き抜くという、建国以来の「個人主義」とそこから派生した「ヒーロー像」という伝統だろう。創造性と革新性が米国型ヒーローの特徴であり、デジタル時代以降の創造的ビジネス変革者なら、ビル・ゲイツ、スティーヴ・ジョブズ、今なら最近評伝が出たイーロン・マスク(南ア出身)などが、そういうヒーローだ。

ジャズミュージシャン個人の伝記もたくさん書かれていて、調べてみると大物ミュージシャンにはほとんど自伝とか評伝がある。しかし「読み物」として、外国のジャズファンが読んでも興味を持てるような普遍性のある本はそれほど多くはないだろうと思う。パーカー、ホリデイ、マイルスやコルトレーンのような大物、あるいはモンクのような謎多き人物(インタビュー記録がほとんどない)を除けば、よほどの個人的ファンでもないかぎり、有名ジャズマンといえども、単に事実を並べただけのような伝記類はそう面白いものではない、というのが個人的な感想だ。ジャズ・アーティストの誰もが、魅力的で立派な人物なわけでもないし(むしろその逆の人が多い?)、また伝記に書いて面白いような人生を送ったわけでもないだろう。もう一つは、やはり音楽家やその人生に対する「著者」独自の視点と洞察が、文章の底に常に流れていなければ、異文化圏の人間が読んで感動したり、興味を抱くことはないだろう。伝記には物語性もないと面白くない。したがって著者の「筆力」も当然ながら重要だ。

The Baroness
Hannah Rothchild
 
そういうわけで私はジャズ・ミュージシャンの伝記類はこれまであまり読まなかった。その例外が、ロビン・ケリー氏が14年の歳月をかけて、それまで伝説や謎に包まれていた人物セロニアス・モンクの人生を辿った初の本格的伝記『Thelonious Monk』だった。『リー・コニッツ』『 スティーヴ・レイシー』もそうだったが、日本ではあまり紹介されることがなく、情報が限られていて、しかも自分がその音楽に魅力を感じ、もっと知りたいと思っているミュージシャンの個人史は、当たり前だが一文を訳すたびに新たな発見があって、やめられないほど面白い。もう一人は、ジャズ・ミュージシャンではないが、そのモンク本を読んで、謎のパトロンという存在から興味を持ったニカ夫人だ。以前から多少の知識はあったが、そのニカ本人の人生を描いた本があることを知って、こちらも読んでみた。

英国ロスチャイルド家出身のニカ男爵夫人(パノニカ)は、当時のジャズ界全体の大パトロンで、パーカーとモンクの最後を自宅で看取ったという伝説的人物だ。『パノニカ(原題:The Baroness)』はノンフィクション伝記なのだが、破天荒な人生を歩んだ謎の大叔母(祖父の妹)の誰も知らなかった人生の足跡を、ハナ・ロスチャイルド氏が親族ならではの視点と情報で辿りつつ、著者の一人語りで、ある種「20世紀小説的な」筆致で描いているので、翻訳中は小説を訳しているような気がしていた。実話とは思えないような圧倒的スケールの人生もあって、読後感も伝記というより、小説を読んだような気がする作品である(著者は女性映像作家であり、小説家でもある)。特に、ニカがNYに移る前の前半生部分は、ヨーロッパにおけるロスチャイルド家の謎の歴史や実態を描いた貴重な情報も含まれている。この2冊ともに、謎多き個人の伝記であると同時に、20世紀という時代の深層、アメリカという国家、20世紀半ばのジャズ界とそこで生きるミュージシャンたちの暮らしや、相互の人間的、音楽的なつながりが生き生きと浮かんで来るところが、私的には読んでいて非常に面白く、日本語に翻訳してみたいと思った理由だ。

Miles:
The Autobiography
Quincy Troupe

自分で訳した上記2冊を除けば、私がこれまで日本語で読んで「面白い」と思ったジャズマン伝記は、『マイルス・デイヴィス自叙伝』(クインシー・トループ 1989/中山康樹・訳 1991)だけだ。なんといっても、ジャズの本流中の本流であるマイルスの「一人語り」という形式がいい。そして上記モンク本もそうだが、こうしたジャズ史上に残る大物ミュージシャンの伝記は、本人だけでなく、ジャズの時代的、音楽的背景、周辺の人物との様々な関係なども同時に描かれているので、それがまさに「ジャズ史そのもの」になっているのである。それも事実だけでなく、裏面史や、人生や、微妙な人間関係が具体的に見えてくる。だから、マイルスの人生と音楽に加えて、登場人物も含めてジャズ史的な読み方をしても面白くないはずがないのだ。

ただし、この本は「ノンフィクション」としては原書、訳書ともに少し問題(?)があったようだ。原書はクインシー・トループのマイルスへの「インタビュー」に基づく聞き書き(共著)だが、「自叙伝」と呼ぶには情報引用の出所、編集の問題(内容のどこまでが著者とのインタビューに基づくものか?)があり、訳書は翻訳者による無断改編が多いという。昔はこのへんは寛容で、かなり手を加えた訳書も多かったようだが、今はいずれも出版にあたって普通は厳しくチェックされる。原著の「引用」部分は出典を明示することが求められるし、訳書の「改編」は原著者、版元の承諾が前提である。私は自分の訳書はすべて基本的に原書通りに完訳(パラグラフの変更や、テキスト抜粋なし)しているが、『セロニアス・モンク』の場合、長すぎてどこも出版してくれないので、やむなく一部をカットして短縮したし、他の訳書も含めて、一部の章タイトル名など日本人には分かりにくい部分を変更しているが、いずれも「事前に著者の了承」を得たうえで行なっている。しかし、そうした点を別とすれば、中山康樹・訳のマイルス自叙伝は、ジャズファンが読んで楽しめる日本語ジャズ伝記の筆頭だろう。

ところで、今年出版した私の訳書『カンバセーション・イン・ジャズ』の中で、ラルフ・J・グリーソンが行なった12人のミュージシャンへのインタビューのうち、他は「です、ます」調なのに、ディジー・ガレスピーの章だけ口語体に近い表現になっているが、「原文」はどうなっているんだ?と疑問を呈している、さるブログ記事を読んだ。まあ、そう思うのも無理はないし、日本語への翻訳で常に問題になる点だろう。異言語(文化)間には、単語の意味を含めて完全な「等価」表現はない。そこを微妙に「調節」して、違和感なく他言語に置き換える技術が翻訳である。ガレスピーの場合は、二人の「関係性」を日本語の「書き言葉」で表すために、あえてガレスピーだけそういう訳文にしたのである。原書の英語は、録音したインタビューの口語表現を著者(トビー・グリーソン)が文字起こしする際に、ほとんどすべて普通の文体に編集して書いている。だからガレスピーの章も、多少くだけた表現が多いが、基本的には他と同じ会話文体だ(口語表現をそのまま文章にすることは普通はない)。この二人は同年齢であり(1917年生まれ、モンクとも同じ生年)、家族ぐるみの付き合いをしていて、グリーソン家が1964年のガレスピーの米大統領選出馬の応援までしていた仲なので、グリーソンの「自宅」で行なったプライベートな対話時に、堅苦しい表現で「話すはずがない」からだ。

一方、他のインタビュイーはTV出演時のデューク・エリントン(1998年生まれ)を除き、これもグリーソンの自宅での対談だが、全員グリーソンより「年下」で、なおかつジャーナリスト、ジャズ評論家として当時のグリーソンは当然それなりの人物として尊敬されていた。だから、いくらフランクなアメリカといえども、一流ミュージシャンたちが「タメ口で話す」はずもなく、当然それなりの態度と言葉遣いをしていただろう。つまり、そこも「想像」である。英語には日本語のようなあからさまな敬語表現が少ないが(あるにはある)、会話の場合、話し手の「トーン(話しぶり、短縮表現など)」がかなりそこを表現している。だから「書き言葉」としての日本語訳の文章は、性別、年齢や、上下関係など、「日本文化的に見て」違和感のない表現にするのが望ましいと思う。そこは、不自然にならない限り訳者の裁量範囲なのだ。私は原テキストに忠実に、逐語的に翻訳することを心掛けているが、マイルス自叙伝も含めて「作家的な」翻訳者だと、このへんはかなり表現に幅が出てくるだろう。

個々の人格や個性に関しても、原書テキストのトーンを大きく逸脱することなく、訳文の表現で、ある程度は違いが出せると思う。この本の場合、12人のミュージシャンは、ジャズ界での実績や演奏の個性、原文のリズムや使用する言葉(短縮など)を勘案して、それぞれの「人物の雰囲気」が感じられる訳文になるように心がけた。たとえばジョン・コルトレーン、ジョン・ルイス、ビル・エヴァンスのような生真面目な雰囲気のある人たちと、クインシー・ジョーンズやフィリー・ジョー・ジョーンズのようなやんちゃな感じのタイプとでは印象が違うと思う。今はヴィジュアルやオーディオの記録も簡単に視聴でき、リズムを含めた話し方、話しぶりの情報も、実際に目や耳で確認できるので、それも参考にしてできるだけ訳文に反映させるようにしている。特にリズムには話し手の個性が出る。この本で面白かったのは、12人の発言を訳してみて、レコードなどで聞ける彼らの「音楽」と、インタビューでの「語り口」に、明らかに「相関がある」のを感じたことで、そこにジャズという音楽の本質がよく表れていると思う。

もう一点、英日翻訳者にとっては当たり前のことだが、英語では、大統領もホームレスも、男も女も、大人も子供も、1人称の主語「私」は「I」しかない。「私、アタシ、俺、オレ、僕、ボク、ワシ、自分、おいら、おいどん、拙者……」などと多様な表現で、その人の性別、立場、地位とか性格まで表す日本語のような豊富な語彙は英語の主語にはない(複数のweも、2人称youも、3人称he/sheも同様)。上述した中山康樹氏訳の『マイルス・デイヴィス自叙伝』では、独白するマイルスはずっと「オレ」で通している。第三者も「奴」が多い。もちろん原書はすべて「I, (my, me)」であり、「he (his, him)」である。共著者クインシー・トループとの対話とはいえ、品のない「マザファッカー」という語を連発するジャズマン・マイルスが、「私は」とか「僕は」とか言ったらやはり妙なので、ここは「俺」でもなく、視覚的にも「オレ」がいちばんぴったりだ、と訳者が判断したのだろう。これを「私」で始めたら、全体のトーンがまったく違う物語になったことだろう。そのいかにも「らしい」マイルスの語り口のおかげもあって、この本は面白い「日本語」の読み物になったのである。ただそのイメージがあまりにハマりすぎて、それ以降(私もそうだが)マイルスはいつも「オレ」と言わないとサマにならないのが困ったところでもある。当然だが、マイルスが「私は」と真面目な顔(?)で言っていたときも彼の人生にはあったはずだ(実際の人間マイルス・デイヴィスは知的で、シャイで、繊細な人だったと言われている)。今の生成AI翻訳は、このへんも、「主語」を選択することで、訳文はどうにでも書き分けられるようだ。ただし周知のように、日本語は「私は」とか、「それが」とかの「主語」なしでも文章が成立するところが、英語と異なる。(続く)

2023/10/14

ジャズと翻訳(2)インタビュー本

Lennie Tristano
Eunmi Shim
私はこれまでに3冊のインタビュー本を翻訳してきたが、初の訳書が『Lee Konitz: Conversations on the Improvisor's Art』(原書 2007 Michigan大学) だった。トリスターノ派の音楽全体に興味を持っていたので、実はリー・コニッツの前に、当時日本ではほとんど情報が手に入らなかった、コニッツの師匠レニー・トリスターノ唯一の伝記である『Lennie Tristano』(2007 Michigan大学) をまず訳してみようと思っていた。10年前にはWeb上(英語)でもトリスターノ派に関する情報がほとんどなく、あれこれ探してやっと見つけた本である。また同じくトリスターノの弟子のベース奏者、ピーター・インド Peter Ind がトリスターノ派の音楽について書いた『Jazz Visions』(2008) も見つけた。前者に関しては著者ユンミ・シム Eunmi Shim(韓国出身、現在はバークリー音楽大学教授)に直接コンタクトして翻訳の可否について問い合わせていたのだが、音楽学の学者である著者のアカデミックな視点が少々私的興味とは違う方向だったこと、またインドの本も少し方向が違う印象だったので、最終的にやはり『Lee Konitz』を手掛けてみることにしたのだ。これはミシガン大経由で著者アンディ・ハミルトン氏に、メールで直接コンタクトして翻訳許可をもらった(次の『セロニアス・モンク』も『パノニカ』も同様に、著者ロビン・ケリー氏およびハナ・ロスチャイルド氏から直接許諾をもらって翻訳している)。

Lee Konitz
Andy Hamilton
『Lee Konitz』は、老境に入ったアルトサックス奏者リー・コニッツ(1926-2020, インタビュー当時70歳代後半)への5年間にわたるインタビューを通して、彼の音楽人生とジャズ哲学を探るというユニークな一種の自叙伝だ。インタビューは<コニッツx著者>の1対1で、イギリス人著者アンディ・ハミルトン(Darham大教授、美学・哲学者)が強調しているように、マイルス自叙伝のような編集、脚色や他の資料からの引用を一切せずに、「コニッツ本人の言葉」をほぼそのまま載せて、そのユニークな人生とジャズ哲学を語らせている。特に「ジャズ即興演奏とは何か」という自身の疑問に起因する、パーカーやコルトレーンの「固有のヴォキャブラリーの組み立て」に基づく演奏技法と、コニッツの「内発的 (spontaneous) アイデア」による純粋な即興演奏思想との対比は、これまでどんなジャズ本でも語られてこなかった、ジャズの本質に迫るユニークなトピックであり、ジャズ・ミュージシャンが何を考えて、どう演奏しているのか、という音楽家の内面を探る非常に興味深い議論だ。シカゴ時代からの師匠レニー・トリスターノの音楽思想、師弟関係、ビバップとトリスターノ派の音楽の関係、彼らの音楽の本質を語る部分も、これまで日本では読んだことがない非常に貴重な情報だ。そこに、著者ハミルトンがインタビューで取材した、多くのジャズ・ミュージシャン(40人)のコニッツに関するコメントを加えた構成にして、リー・コニッツというミュージシャン像とその音楽を、立体的に描いている。

ジャズは黒人――アフリカ系アメリカ人が中心となって生まれ、発展した音楽だが、いわゆる白人ジャズ・ミュージシャンも数多い。日本ではこうして「黒人」に対して「白人」ミュージシャンとひと言で呼ぶが、アメリカの白人といっても様々なバックグラウンドを持つ人たちの集まりで(もちろん黒人もそうだ)、ジャズの場合いちばん多いのはいわゆるWASPではなく、ユダヤ系アメリカ人である。ハリウッドの映画産業から始まり、ガーシュインやアーヴィング・ヴァーリンのようなポピュラー音楽作曲家、ブルーノートのアルフレッド・ライオンやフランシス・ウルフ、プレスティッジのボブ・ワインストックやアイラ・ギトラーのようなレコード・プロデューサー、ナット・ヘントフ、レナード・フェザーのようなジャズ評論家、ジョージ・ウィーンのようなジャズ興行主、大物ミュージシャンでは古くはベニー・グッドマンはもちろん、本書で出自を公言しているリー・コニッツやスティーヴ・レイシーの他にも、ギル・エヴァンス、ビル・エヴァンス、スタン・ゲッツも、ユダヤ系移民の子孫だと言われている。その他バート・バカラック、ジョン・ゾーンのような音楽家もそうだし、アメリカのクラシック音楽の世界でもその傾向は同じだ(バーンスタインなど)。

ユダヤ人には特別な能力があるからだとか、陰謀論的な見方とか、根拠の曖昧な議論には与しない。ジャズを含めてそもそも「芸能」というものが、主として(宿命的に支配者層にはなれない)被差別階層の人たちによって作り上げられてきたのは、アメリカだけでなく、諸外国や日本の芸能の歴史を見ても明らかだからだ。元々、様々な社会的ハンディを背負って生き、進路の選択肢が限られているがゆえに、個人としての才能、能力を最大限生かせる分野に人生を賭ける――という生き方を選ぶしか方法がないので、結果的にそこで名を遺した人が多いということではないかと思う。アメリカという新しく複雑な移民国家では、人種間競争が厳しく、ヒエラルキー形成の歴史も短いので、それがより顕著な形で表れているということを学習したのも、数冊のジャズ書の翻訳を実際に手掛けて、翻訳過程でその背景を知ったからだ。黒人の音楽を白人が「拝借」して商業的に成功させた、という見方が一般にあるが、芸術的な観点から見れば、そんな単純なものとは言えない。どんなミュージシャンにも、それぞれ「個人としての」歴史や背景があるのだ。トリスターノや初期のコニッツから感じられる強靭な意志と音楽的テンションの源は、当時のビバップという「本流の黒人」が作った強力で魅力的なジャズの世界の内側から、何とかして「自分たち固有の音楽」を創り出したい、という「傍流の白人」アーティストとしての強い芸術的願望であることも、コニッツの本を通じて初めて理解した。トリスターノがもっとも敬愛していたのは、ビバップの権化チャーリー・パーカーとバド・パウエルなのだということも、この本で初めて知った。日本のギタリスト高柳昌行の音楽を知ったのも、トリスターノ派が起点だった。

Steve Lacy
Jason Weiss
2番目のインタビュー本『スティーヴ・レイシーとの対話』(原書 2006) は、ソプラノサックス奏者<スティーヴ・レイシーx多彩なインタビュアー>という組み合わせで、20世紀後半に、主にヨーロッパで40年以上にわたって行なわれたレイシーへの34篇のインタビューを、編者ジェイソン・ワイスが一部翻訳し(仏→英)、年代順に解説を加えて再編集し、そこにレイシー本人のメモなども加えて彼の人生と音楽思想を描く――というこれもまたユニークな構成のインタビュー集である。特にレイシーが私淑し、自身の音楽の基盤となったセロニアス・モンクの音楽の分析と解釈は、類を見ない深さで師のサウンドの構造と本質を語っている。モンクの音楽をここまで深く理解し、語っている音楽家はいない。そして、そのインスピレーションがいかに自身の音楽を形成してきたかを詳細に述べている。この本は月曜社の企画で、私が選んだものではないが、セロニアス・モンクを通じてレイシーに興味を持っていたこともあって翻訳を引き受けた。翻訳作業を通じて、あまり詳しく知らなかったスティーヴ・レイシーという音楽家と、その音楽を知る非常に良い機会となった。

これら2冊はインタビューを通じて掘り下げた、白人サックス奏者、リー・コニッツとスティーヴ・レイシーのある種の自叙伝とも言える。アルトとソプラノという楽器、年齢の違い(レイシーは1933年生まれで2004年没)に加え、コニッツはビバップから出発して、トリスターノとの邂逅を経て独自の音楽を追及し、一方のレイシーはディキシーランドから出発して、セシル・テイラーを通してモンクを知り、フリージャズに向かった、という経歴上の違いがあるが、この二人にはいくつか共通点もある。両者ともにユダヤ系白人(コニッツはオーストリア系、レイシーはロシア系)サックス奏者であり、片やレニー・トリスターノ、片やセロニアス・モンクという、ともにジャズ史上の巨人というべき人物だが、「ジャズ本流」のミュージシャンとは言い難い師に、青年時代に薫陶を受けたという経歴を持っていること、さらに両者ともに1960年代後半という、人生の半ばで、実質的に米国の地を去って新天地ヨーロッパを活動拠点とし、そこで晩年まで暮らしたということである(コニッツはケルン、レイシーはパリ)。逆に言えば、米国では彼らの音楽は受け入れられなかったと言える。2冊のインタビュー本による個人史からは、ジャズ・ミュージシャンの人生の背後にあった、20世紀生まれのジャズという音楽の特質が鮮明に浮かび上がってくる。

Conversations
in Jazz
Ralph J Gleason
一方、今年初めに出版した3冊目のインタビュー本『カンバセーション・イン・ジャズ』は、米国の著名ジャーナリストであるラルフ・J・グリーソンが一人で行なった<グリーソンx12名のジャズ・ミュージシャン>というインタビュー集で(原書は14人)、1960年前後に行なわれたグリーソンの私的インタビュー音声を、2016年に息子のトビー・グリーソン氏が初めて文字化してイェール大から出版したもので、ほとんどのインタビューが初出だ。1960年代に日本でモダン・ジャズ・ブームが起こる前の米国のジャズ黄金時代に、若きコルトレーンやロリンズ、ビル・エヴァンス、MJQの全メンバー 、フィリー・ジョー・ジョンーズのような大物ミュージシャンたちが、何を感じ、考えていたのか、当時の彼らの音楽思想を、すぐれたインタビュアーが一人で切り取ったもので、ミュージシャンたちのナマの声を通してジャズ史の一断面をとらえた興味深く、また貴重な記録である。個人的には、マイルス・デイヴィスに関する各ミュージシャンの意見や、ビル・エヴァンスのトリスターノとモンクに関するコメントが面白かった。

Notes and Tones
Arthur Tailor
このように、同じインタビュー本だが、上記3冊はそれぞれ個性的な内容を持ち、いずれもインタビューを通して、いわば「ジャズ・ミュージシャンという存在」を様々な角度から描くという書籍である。ジャズとは結局、ミュージシャン個人の声を聴く音楽なので、今の私の関心は、昔と違ってレコードやテクニカルな情報よりも、ジャズサウンドの根本にあるミュージシャン個人の人生や演奏思想にあり、「彼らがなぜそのような演奏をするに至ったか」という事実を知ることにある。そういう視点で翻訳候補に挙げている興味深いインタビュー本が、まだ他にも何冊かある。たとえばその中の1冊で、ドラマーのアーサー(アート)・テイラー著の『Notes and Tones』(1977/93) は、グリーソンの本と同じ構成(インタビュアー1人 x 複数ミュージシャン)だが、これはグリーソン本から約10年後、すなわちフリージャズ登場後の1970年前後、およびそれ以降に行なわれたインタビューである点と、インタビュアー自身がアート・テイラーというビバップ以降、ジャズの巨人たちとの数々の名演に加わってきたジャズ・ドラマーである点が違う(サブタイトルが "Musician-to-Musician Interviews")。ロックやポピュラー音楽が米国の音楽市場の主役になる以前、モダン・ジャズがまだまだ隆盛だった1960年前後で、訊き手が白人の著名ジャーナリストであるグリーソン本では、どことなく「よそ行き」の雰囲気が感じられるジャズ・ミュージシャンたちが、それから約10年後に、ミュージシャン同士でリラックスして本音を語り、またマイルス・デイヴィスなど主流のアーティストの他に、オーネット・コールマンやドン・チェリーなどフリージャズ以降のミュージシャンも登場し、ロックやフリージャズ登場後の米国ジャズ界の変化やミュージシャンたちの反応も見られ、ある意味でアメリカという国、ジャズという音楽の歴史の複雑さを表出している非常に興味深い1冊だ。こうした原書を年代順に何冊か翻訳出版して、一種の「日本語によるジャズ・オーラル・ヒストリー」にしてみたいと考えているのだが、今後これらを訳書として日本で出版できるかどうかはまだ未定だ。(続く)

2023/09/24

ジャズと翻訳(1)ジャズ本

ジャズを「同時代の音楽」として楽しみ、主導してきた1940ー50年代初め生まれの団塊を中心とする世代が、今や70歳から80歳に達し、鬼籍に入り、病院に入り、寝たきりになり……と、社会活動から徐々に退場しつつあり、日本の実質的なジャズの聴き手の数は減る一方だ。2010年に休刊したジャズ専門誌「スイングジャーナル」の後継誌「Jazz Japan」編集長の今夏の孤独死が象徴するように(彼はもう1世代若いのだが)、4年近いコロナ禍とこの夏の酷暑が、ジャズを知り、楽しんできたその世代に、特に大きな肉体的ダメージを与えているような気がする。そういう背景もあって、ジャズに対する国内の「需要」全体が、これまで以上に急速に冷え込んでいるように感じる。「Jazz Japan」誌は今156号で終了するが、「Jaz. in」と名称を変更して再出発するという。

中高年が残り少なくなってきた人生をどう楽しむか、人それぞれ考え方があるだろうが、今の私の楽しみの一つは「20世紀ジャズ博物館」を渉猟することだ。20世紀半ばに生まれたモダン・ジャズは時代を先導する音楽だったが、そのジャズの「核たる部分」は今や古典であり、残されたジャズDNAが多様な音楽に拡散し、浸透し、その中でジャズは今も生き続けている、というのがいろいろ考えた末の私の認識だ。ただし本来「ルールがないのがルールである」という自由な精神を持ち、ジャズを生んだアメリカと同じく多様な文化の混合物、つまり雑種であるジャズDNAの生命力は強靭であり、今後さらに薄く拡散しながら膨張を続けることだろう。したがって、その核となった部分が収納された「20世紀ジャズ博物館」は、私にとっては宝の山だ。録音、映像記録はもちろん、ジャズの時代とその音楽、人物たちを描写し、語った、国内外の「ジャズ本」もその一部であり、そこから面白いものを探し出すのが楽しみなのだ。数は減ったかもしれないが、そういう楽しみ方をしているジャズファンはまだまだいると思うし、日本ではほとんど紹介されたことのない海外ジャズ書の自力翻訳出版も、その一環としてやってきた。

定年退職後、その翻訳出版を半分趣味で始めて10年経った。その間5冊の翻訳書を出版したので、ほぼ2年に1冊というペースとなり、これは「死ぬまでに10冊」を目標にした当初の計画通りである。そのきっかけというか目的は、本ブログを開始した初期の「ジャズを『読む』」という3本の連載記事(2017年3月)で書いた通りである。要は、自分で面白いと思ったジャズ本を、「日本語で読めるもの」にしたい、ということだった。「演る」を除き、趣味としてのジャズの面白さは《「聴く」→「読む」→「知る」→「考える」→「聴く」》という終わりのないサイクルにある、というのが私的ジャズ観なので、「読む」という行為はジャズを楽しむための必須要件なのだ。

時にネガティヴな使い方もされる「蘊蓄」(うんちく)と呼ばれる知識集積も、単に「聴く」だけではない、この「読む」→「知る」→「考える」というプロセスで培われるもので、ジャズが他のポピュラー音楽と異なるのは、クラシック音楽と同じく、この知的プロセス単独でも十分に楽しめるだけの、歴史と深さと多様性を持っている音楽だからである。曲や楽理や演奏技術に加え、米国史、ジャズ史、ジャズ・ミュージシャンの個人史とその人生など、周辺情報を深く知れば知るほど、ジャズを「聴く」ことが楽しくなる。そこを「面倒くさい」と思うような人は、そもそもジャズ好きにはならないだろう。

長年生きてきて思うのは、大雑把に分けると、年齢や性別を問わず、いつの時代も人間はやはり「寄らば大樹」という権力志向、上昇指向の強い体制派と、「そんなの関係ねぇ」という反権力の自由派の2通りに分類できそうだということだ。もちろんどんな人間にも両面があるし、世の中的には両者ともに必要だが、そのバランスが個人や組織や社会の在り方を決める。ジャズ好き人間はどう考えても昔からやはり後者なのだろうと思う。権力好き(?)なジャズマンとかジャズファンも中にはいるかもしれないが、あまり想像しにくい。スティーヴ・レイシーが語ったように、ジャズとは本質的に反体制、反定型の音楽、つまり出来上がった世界や決め事に抗ったり、そこから脱出したりして、常に「制約からの自由」を追い求める音楽であり、そこにこそ世界中の人々の心に響き、そこに共感する――という音楽としてのジャズが持つ魅力と普遍性があるのだと思う。

私はどうも昔から、エラそうにしている(「主流」然とした)ヒトやモノが嫌いな性分だ。モノにだって一見してエラそうに見えるモノはあるし、クルマやオーディオでも、そういう匂いのする製品は昔からある。クルマやオーディオならコンパクトで、機能的で、スッキリしたデザインの機械が好きだ。どの世界であれ、中心的存在のヒトやモノはもちろんそれなりにリスペクトするが、それよりもあまり目立たないけれど、実は非常に良い仕事をしているヒトやモノが好きな性分なのだ。ジャズにもパーカーやマイルスのように、歴史的に主流というべき人たちは当然ながらいるが、ジャズの魅力は、基本的にそれが必ずしもヒエラルキーにはならず、また聴き手にもそれを感じさせず、目立たないながら個性のある優れたミュージシャンも数多く存在し、そうした人たちの演奏も平等に楽しめるところにある(あった)。自分の訳書で取り上げてきたジャズマンの顔ぶれを見てもそうだし、ピアニストなら独創的なモンクや、いぶし銀のような魅力があるトミー・フラナガンやバリー・ハリスに魅力を感じるのも同じ理由だ。

ジャズ演奏にはソロもあれば、小編成から大編成のアンサンブルまであり、楽器の種類も、演奏の形態も多様だし、そこに参加するミュージシャンも多彩だ。とはいえ、ジャズとは基本的には「自由な個人の音楽」であるところが重要なのだと思う。誰か第三者が正確に書いた譜面を楽器でなぞり、その世界の枠内で完成された美や個性を追求するクラシック音楽との違いがそこにある。誰にも似ていない自分だけの声(voice) を自由に追い求めるのがジャズ・ミュージシャンの性であり、他のミュージシャンや楽器と共演することで、そこからまた別のサウンドを新たに生み出す過程にジャズの醍醐味がある。だがあくまで大前提は、まず奏者一人一人が「独自のサウンド」を持っていることなのだ。バンドメンバー個々人のサウンドを「ブレンド」して生み出すデューク・エリントンの音楽が、米国でなぜあれだけ評価され、崇拝されているのか――それはジャズという音楽の持つ「個と集団」という本質的関係を、自らのバンド音楽の中で高い次元で調和させることを常に目指し、しかもそれを実現してきたからで、エリントンの目指した音楽そのものが「ジャズ」を見事に体現していたからである。

ジャズに関する英語の原書は、現役の会社員時代から読んでいて、ときどき面白い原書に出会うと、日本ではなぜこうした「面白いジャズ本」が出版されないのだろうか、とずっと疑問に思っていた(「面白い」と言っても自分がそう感じるだけの話で、他の人はそうは思わない可能性もあるが…)。はっきり言って、今も私の本棚にずらりと並んでいる1970年代から読んできた数多くのジャズ本も含めて、日本で出版されてきたジャズ関連書籍(教則本や演奏技術書の類を除く)のほぼ80%が、著者の解説や感想文付き「レコード・カタログ」だ。続く10%が翻訳書を中心にしたパーカー、マイルス、コルトレーンなどジャズ巨人の伝記類と、ジャズ解説書も兼ねたジャズ通史で、この2タイプが、時代と著者は違えど(多少の新情報を加えながら)繰り返し出版されてきた(これは日本のジャズ受容史と関係する話で、日本人ほどジャズの「レコード」を聴いてきた国は世界中探してもない。一般人にはジャズのナマ演奏がほとんど聴けなかったというのが、いちばん大きな理由で、そこは明治以降のクラシック音楽の受容史と同じことだ)。そして残る10%(以下?)がマイナーなジャズ・ミュージシャン、批評、思想、楽理等に関するコアな本だろう。これらが少ない理由は、言うまでもなく、出版しても売れない(需要が少ない)類の本だったからだろう。

だから教則本や演奏技術書(今はこの分野の本ばかりだが)を除くほとんどのジャズ本は、「レコード紹介」を通じた演奏、楽曲、ミュージシャン、楽器の解説書だ。もちろんそれはそれで読んで面白いのだが、私のような長年の読者からすると、さすがにもう飽きた。また、芸術批評の対象に値するようなすぐれた「ジャズ・レコード」は、(私見では)1990年代でほぼ終わっていると思う。ジャズは「マイルスさえ聞いていればいい」とか乱暴なことを言う人がいたせいで、(売れることもあって)毎年のように出るマイルス本も、もうおなか一杯だ。数少ない例外的に面白かったジャズ本は、批評家なら相倉久人、また山下洋輔氏や、菊地成孔・大谷能生両氏というジャズ演奏家の書いた本、さらにマイク・モラスキー氏のように外から見た日本のジャズなど、ジャズという音楽そのもの、その歴史、特質、影響、他音楽との関係などが、独自の視点で書かれている本が新鮮で面白かった。もう一つ、定期的に出版され、ジャズ本としては例外的に「売れて」いるのが作家・村上春樹氏が執筆した本(自著、訳書)だが、これはジャンルとしてのジャズ本というよりも、「村上本」として人気があるということだろう。

私は元来、分野やメディアに関わらず、著名な人物が「本音で語るインタビュー」が好きだ。ジャズも例外ではなく、初の訳書『リー・コニッツ』もそうだし、最近も『カンバセーション・イン・ジャズ』という、1960年頃の批評家ラルフ・J・グリーソンのインタビュー記録を復刻した本を翻訳出版した。伝統的に、米国のジャズ・ジャーナリズムの基本は「インタビュー」であり、なおかつ日本と違って、ミュージシャンといえども、自分の言葉で個人としての意見を述べ、発信せざるを得ない社会文化的背景があるので(黙っていると、何も考えていないアホだと見なされる。アメリカ人が、しょうもないことでも、とにかく堂々と何でも喋るのはそのせいである)、音楽に限らず、芸術の世界全般に多くのアーティストに対する優れたインタビュー記録が残されてきた。だから米国のノンフィクションのジャズ本の多くは、ジャズ・ミュージシャンの演奏記録と共に、本人あるいは周囲の人間に対するインタビューに基づいた情報(一次史料)を基にして書かれている。その中にはアーティストの個人史として、あるいは20世紀芸術論として、21世紀の今でも(だからこそ)十分に読む意味と価値がある書籍も含まれている。そこが日本の一般的ジャズ本との大きな違いだろう。

「インタビュー」という、ある種の即興演奏に近い「対話」形式、インタビューする側の知見と力量、対話を通じて互いに相手を触発する言語表現力、結果としての対談内容の質と深度に、文化的な違いも含めて日米間には大きな差があるように思う。日本では昔から「書いたもの > 語ったもの」という暗黙の価値基準があるように思え、その場限りで消える対話、対談に重きが置かれて来なかった(軽く見られる)歴史があるからだと思う。そして当然だが、少なくとも「英語」を完璧に駆使できない限り、20世紀の日本人が当時の米国のジャズ・ミュージシャンたちの音楽思想や、本心、本音をリアルタイムの「インタビュー」を通して聞き出すことは簡単ではなかっただろう。加えて、同じ国や共同体の一部で生きるという実体験がなければ、背景も含めた言葉の真の意味を理解することは難しいだろう。だから、英語ネイティヴによって語られた本、書かれた本が、やはり私が知りたいと思っているジャズの世界を楽しみ理解するためには必要なのだ。(続く)

2023/05/31

『グレースの履歴』

最近のTVドラマは、マンガやアニメの実写版のように、早いテンポの荒唐無稽なストーリーや、軽い人物描写ばかりで、元来そういうドラマを面白がって、結構好きだった私でもいささか食傷気味だ。21世紀に入ってから、音楽、映像、テキストすべてが「アートからエンタメ」に変容して、今や面白くないと、後の配信市場でも稼げない。その方向に行かざるを得ない作り手側も、それを好む視聴者側も、ほぼ同世代が世の中の中心になっているので、需要・供給両面で軽くて面白いエンタメ作品ばかりが増えることになる。消えつつある団塊世代や年配者も楽しめ、じっくりと味わえる、昔の文芸作品的なドラマはほぼ消えたと言っていい。現在、それに唯一挑戦できるドラマ供給者が、スポンサーフリーのNHKなのである。

この3月から5月にかけて放映されたNHK BSのプレミアムドラマ『グレースの履歴』(全8回)は、そういう風潮の中で、久々に物語そのものと、映像、音楽、登場人物の演技等、全盛期のテレビ作品にしか見られなかった丁寧な作りと高い質を持った大人のドラマだった。ヨーロッパの一人旅の途上、事故で急逝した妻の遺した車(グレース)のカーナビに導かれて、二人の過去を辿ることになる夫の旅路を繊細に描く物語だ。

脚本・演出を手掛けたのは源 孝志で、『京都人の密かな愉しみ』(2014~21)、『平成細雪』(2018)、『スローな武士にしてくれ』(2019)、『怪談牡丹灯籠』(2019) など、多くの大人のドラマをNHKで制作してきた人だ。音楽担当の阿部海太郎と組んだNHKドラマは、おそらく二人の美意識に共通したものがあるからだと思うが、丁寧に作られた映像と音楽が共に繊細で、美しく、格調の高さがあって、どの作品も何度でも見たくなる奥行と魅力がある。配役も、おそらく源 孝志の世界観と美意識に共感する俳優が選ばれているので、どの役者も今風の大袈裟な無理やり感が皆無で、登場人物として物語の中に自然に溶け込んで演じている。

最新作『グレースの履歴』でも、尾野真千子、滝藤賢一という夫婦の両主役に加え、源作品では欠かせない柄本 佑の自然な演技が光っていた。尾野真千子は、時おり関西風味が強すぎると感じることもあるが、やはりさすがの演技力で、物語の主人公・美奈子の独特の存在感をここまで表現できる女優はなかなかいないだろう。夫の希久夫役の滝藤賢一はTBSの『半沢直樹』で初めて知った人だが、様々な役柄がこなせる幅のある役者だ。近年では、広瀬アリスとの日テレのコメディ『探偵が早すぎる』で大いに笑わせてもらった。本作『グレースの履歴』では、真面目な、理系の「受け身の男」を演じて、実に良い味を出していた。その他、伊藤英明、宇崎竜童もよかったが、意外にも(?)広末涼子が希久夫の元恋人役を好演していたと思う。

映像美は源 孝志作品の要であり、本作でも3人目(?)の主人公「HONDA S800(エスハチ)」の深紅の車体の美しさを存分に生かして、湘南、信州、琵琶湖、瀬戸内、四国松山を巡る主人公のドライブと共に、各地の海、森、農道、並木、高原、湖などの背景にエスハチを溶け込ませた映像がふんだんに見られる。特に冒頭やエンディングで、尾野真千子の運転するS800がメタセコイアの並木道(滋賀県高島市らしい)を走る画、滝藤が信州の長い一本道の農道を走る画は美しい。クルマ好きにはたまらないドラマでもあるが、NHK制作なので社名「HONDA」への言及は控え目だ。しかし作者の「HONDA」への思い入れは、原作の小説を読むと非常に深いものがあることが分かる。今は消えてしまったが、20世紀の日本の夢を乗せた、この初の日本製ライトウェイト・スポーツカーの持つ、どこへでも身軽に飛んで行ける軽快さ、自由さが、主人公二人を結びつけ、人生を導く鍵なのだ。

ドラマを見てから『グレースの履歴』の原作小説を読んでみた。この本は源 孝志自身が2010年に『グレース』というタイトルで出版し(文芸社)、2018年に文庫本で『グレースの履歴』と改題して改めて発行されている(河出文庫)。著者がまだテレビ界でブレイクする以前に書かれた小説のようだが、やはり「脚本」を読んでいるように映像が目に浮かんで来る、非常にヴィジュアル・イメージを喚起する語り口の作家だということが分かる。ただし、ドラマを先に見ているので、登場人物のイメージがどうしてもテレビの印象に引っ張られ、テレビの俳優がそのまま浮かんでくる。ヴィジュアル情報が与える強烈さを再認識したが、先に小説を読んでいたら、どんな俳優がテレビ版には合っているのか想像できたか――と考えてみたのだが、もうイメージが湧いて来ない。

原作の登場人物は、それぞれ複雑な過去を背負っているが、8回連続とはいえ、TVドラマでは細かな情報をすべてカバーすることはできないし、(歳のせいか)こちらが見落とすこともあるので、見ていてときどき「??」と思う場面があった。また今回は前半録画もし損ねた。そこで、原作を読んでみることにしたのだが(TVドラマを見てから原作を読んだのは私的には初めてだ)、多少ストーリーがドラマ版と違うところもあるが(林遣都のエピソードなど)、なるほどそうだったのか、と納得できた場面も結構あった。この作者の作品は、非常に緻密に組み立てられているので、ドラマでも、何度も見ると毎回新たな発見がある。ただしエンディングは、「グレース」という車名の由来に回帰する小説版の方がしゃれていると思った。

ドラマは、10年以上構想を温めてきた源 孝志自身が、原作から脚本・演出のすべてを手掛けているわけで、その完成度の高さも分かろうというものだ。つい最近、2026年からのF1復帰を発表したホンダだが、2輪から始めて、世界の4輪市場に挑戦し、1964年に初参戦したF1で、80年代にはついに数多くのタイトルを制覇するという偉業を成し遂げた。ホンダは、戦後世界における日本の復興という夢と、日本ブランドの新たな価値を象徴する会社の一つだった。その夢を実現させたホンダと、創業者で生涯一人の技術者でもあった本田宗一郎氏への、著者の尊敬と愛が溢れるオマージュである原作小説には、同じく昔のホンダと創業者が好きだった私も、何度か胸に込み上げて来る部分があった。劇中、元ホンダ・レーシングチームのメカニックで、今は信州・岡谷でバイク修理店を営んでいる宇崎竜童演じる仁科 征二郎が、S800(グレース)を巡る物語の鍵を握っている設定がその象徴だ。薄っぺらなエンタメを遥かに凌ぐ、ノンフィクションの重みと歴史的背景に支えられた『グレースの履歴』は、大人が真に楽しめる良質な小説であり、TVドラマである。おそらく既に要望が急増しているとは思うが、NHKには、ぜひ地上波で本ドラマを再放送することをお願いしたい。

2023/03/31

映画『BLUE GIANT』を見に行く

2月に封切りになったアニメ映画『BLUE GIANT』(石塚真一作、立川譲監督)を見て来た。原作漫画については、以前このブログで極私的感想文を書いている(2017年8月「ジャズ漫画を読む(2)ブルージャイアント考」)。主人公であるジャズに挑戦する若きサックス奏者の人物造形やストーリーはさすがによく描けているが、「ドドド…」とか「ブオー!」とか「ダダダ…」とか、ひたすら楽器の擬音と、動きを表す背景の線(「集中線」というらしい)が続く演奏場面ばかりで、登場人物がときどき口にする内面の独り言を除けば、セリフのまったくないコマだけが延々と何ページも続き、にもかかわらず、そこから「ジャズの音が聞こえてくる」(これは人によってまったく音のイメージが違うはずだが)という空前の「脳内ジャズ漫画」だ。アニメではその漫画の人物たちが動き出し、脳内ではなく、画面から実際にジャズのサウンドが聞こえて来る。

2013年に「ビッグコミック」で連載開始したこの漫画は、単行本シリーズ第1部全10巻(無印)、続編であるヨーロッパ編「Supreme」全11巻に続き、現在は第3部のアメリカ編「Explorer」連載中という、10年間も続いて累計1,000万部近くを売った大ベストセラー漫画である。漫画に加えてCDやLP他の関連グッズを含めれば、いかなる分野であれ昔から「カネにならない」と言われてきたジャズがらみで、こんなに売れた「コンテンツ」はないのではなかろうか。それほど面白く魅力ある作品だということだろうし、昔ながらのジャズという音楽の「イメージ」を変え、それを受け入れ、楽しむ「新しい層」を開拓した、まさに画期的な漫画である。いわば「古くて、新しい音楽」というイメージを、あらためてジャズに与えた作品と言えるだろう。

坂道のアポロン
とはいえ、「ジャズ漫画」と、そのアニメ化を含むマルチメディア化は『ブルージャイアント』が初めてではない。同作の連載が始まる前年の2012年に、『坂道のアポロン』(児玉ユキ原作)が既にTV版アニメ(フジテレビ /ノイタミナ)で、ジャズを取り入れた優れた映像作品として制作されている。クラシック音楽の世界では『のだめカンタービレ』や『ピアノの森』など、メジャーな漫画もアニメもドラマもいくつか制作されているし、クラシックは年齢、性別を問わず、音楽としての認知度が高く、市場に受け入れられやすいので、今後ともその手の作品は現れることだろう。しかしジャズはそうではない。近年大衆化が進んだとは言え、ロックやポップスのように分かりやすくはなく、日本に限らず、いまだに基本的には知る人ぞ知る(コア層しか聴かない)音楽なので、若者を含めた一般人にとっては敷居が高く、コマーシャル的な観点からの市場規模も小さい。「物語」としてのジャズ漫画(2008年)も、そのTVアニメ化(2012年)も、実写映画化(2018年)も、日本生まれの『坂道のアポロン』が世界初だろう。この作品は、’70年安保闘争に揺れる長崎県の軍港・佐世保を舞台にした1970年前後の高校生の青春を、ジャズを主題にして詩情とノスタルジーに満ちた表現で描いた少女漫画が原作だ。時代背景への共感もあって、少女漫画的なストーリーではあっても、ジャズが青春の音楽だった団塊世代や、ジャズ好き中高年層にも違和感なく受け入れられ、好評を博した。とりわけアニメ版で、原作では聞こえなかったジャズの「サウンド」が、テレビの映像と共に聞こえてきたときには、大袈裟だが本当に感動したものだ。しかも映像と音楽が物語の流れに沿って自然に気持ちよく組み合わされ、たとえば文化祭の体育館での「My Favorite Things」演奏シーンのように、有名なジャズ曲や演奏が作品中でBGMも含めて使われているので、ジャズファン的にも大いに楽しめる作品だった。

一方の本作『BLUE GIANT』は、私のような年寄りのジャズ観からすると、想像すらしたことのない「熱血ジャズ漫画」という、ある意味で形容矛盾とさえ思える、あり得ないような設定の作品だ(ロックバンドの話じゃあるまいし…という)。ジャズへの情熱に駆られたド素人の高校生が、逆境をものともせず、しかも狭い日本の中に留まらず、「世界一のジャズ・プレイヤーになる」という夢に向かって世界を股にかけてチャレンジし、人生を切り開いてゆく――という、『坂道のアポロン』の穏やかで詩的、文学的世界とは正反対の、ダイナミックで、まさにスポ根的な成長物語だ。だが、たとえばセリフもそうだし、英語の各章タイトルも、『坂道のアポロン』では有名ジャズ・スタンダードの英語曲名だけだったが、本作では、その章の内容に沿った英語もタイトル名に選ばれている――など、作者の石塚真一氏の米国本土や海外での実体験と、そこで培った言語力を基にして描いているので、第2部以降のヨーロッパ編でもアメリカ編でも、相変わらず大胆で強引な主人公の行動とストーリー展開にもかかわらず、背景や人物描写にリアリティがあって、漫画的な荒唐無稽さがあまり感じられない。ヨーロッパ各国の人や価値観の多様性、ロックとジャズの対比、アメリカの文化的個性と各都市の人々の気風なども、「ユニバーサルな音楽」というジャズ最大の特性を通してよく表現されている。「前へ前へ」と常にドライヴをかけるようなストーリー展開が特徴で、また作者の人間観だと思われるが、主人公の人柄と熱意ゆえに、国や地域を問わず、かならず彼を理解し支える協力者が現れるなど、人物と人間関係の描写に常に温かみが感じられるので、どの章でもそれが心に響き、読んでいて気持ちが良い。

今回のアニメ映画版は、主人公・宮本大のジャズへの情熱、日本での成長と友情を中心に描く第1部を土台にしている。ジャズ・ピアニスト上原ひろみが演奏と作曲の他、音楽表現全体を監修していて、プロのジャズ・ミュージシャンたちが登場人物になりきって実際に演奏した「ナマ音」を録音し、そのサウンドに合わせて物語を展開させた、という本格的ジャズ・アニメ映画である。こちらも、当然ながら漫画では、いわば「空耳」でしか聞こえなかった「サウンド」が実際に映像に加わり、それが映画館のドルビー音響で、しかも大音量で聞けるのだから、ジャズファンなら楽しめないはずがない。それどころか、これまでジャズを聴いたことがない(or 原作すら読んでいない)、という若い観客層までが映画館に足を運び、ネット上で「ジャズ、カッケー!」とか言って感激している。私が行った映画館の客層も、若者もいれば、高齢者もいて、男女比も含めて幅広い層で構成されていたし、観客動員数も予想以上の大ヒット映画になっているらしい。原作もそうだが、音楽も入って、よりドラマチックな展開のアニメ版では、「泣ける」という声もさらに強まっているようだ。

これは原作者、制作者の期待(狙い)通りの反応と言えるだろう。原作者がインタビューで、この漫画を書き始めた動機について語っているように(私も上記ブログ記事で作品の背景を分析している)、ジャズ自体は今や普通にどこでも聞こえてくる音楽になっているが、その一方で、ジャズと真剣に向き合う演奏家は、この半世紀の間ジャズの「勉強と分析」に注力しすぎて、ある意味で複雑で頭でっかちな音楽にしてしまい、普通の聴き手の「エモーション(情感)」に理屈抜きで直接訴えかける、ジャズが本来持っていたはずの原初的「パワー」を失ってしまったかのように思える――という傾向に対するアンチテーゼとして、「ジャズを知らない若者にも、ジャズが持っている音楽としてのパワーと素晴らしさを、シンプルかつストレートに伝えたい」というのが、そもそもの作者の意図だった。その作者がイメージしているジャズの原点は、1950年から60年代にかけてのブルーノート・レーベルのサウンドのようだ。RVG録音に代表される当時のブルーノートのレコードと演奏は、(好きか嫌いかという次元を超えて)永遠に語り継がれる20世紀ジャズ・クラシックであり、まさにオールタイム・ジャズサウンドだからだ。作者がイメージしていたこうしたサウンドを、アニメでは上原ひろみの現代的アレンジで再現し、それを映像に加えることで若者の心を掴むことにも成功したようだ。

私はアニメーションの技術についてはまったくの門外漢なので、映像面に関して云々する立場にはないが、なめらかな線と動き、落ち着いた色彩で描かれた本作の映像は非常にきれいで楽しめた。しかしサウンド面に関しては、ジャズファン的見方からすると、映画で流れるジャズのサウンドを、漫画のイメージから予想していた通りだったという人もいれば、意外なサウンドに聞こえたという人もいるだろうと思う(私は後者だった)。アニメ『坂道のアポロン』では、いわゆる「スタンダード曲」という、ジャズファンなら誰でも知っている音楽と演奏が聞こえて来るし、時代的、ストーリー的にも当然そういう選曲になる。ビル・エヴァンスの弾く「いつか王子様が」とかジャズ・メッセンジャーズの「モーニン」とかがそうで、それらがアニメ中でも違和感なく自然に耳に入って来る。しかし『BLUE GIANT』では、まず時代設定が「現代」であり、20歳前後の、ロクにジャズ理論や演奏のキャリアも積んでいない現代の若者が作曲したオリジナル曲や、彼らが演奏するジャズが、いったいどんな「サウンド」なのかは誰にも想像がつかないはずなのだ。実は、そこをアニメではどう表現するのか――制作者が、そこをどう解釈して実際のサウンドを作ったのかが、個人的にいちばん興味があったのだが、聞こえてきたのは、比較的「普通のサウンド」だったので私的には幾分拍子ヌケした(もっとフリーっぽい、ハチャメチャなサウンドを予想していたからだ)。しかし、原作者が好む上述のジャズ・サウンドの傾向と、このアニメ作品の企画意図からすると、おそらくいろいろ意見があったにしても、まずまず妥当なサウンドに直地したということなのだろう。ロックやポップスしか知らない日本の若者にアピールするためには、ある程度分かりやすい音楽でなければならないだろうし、いきなりハードでアヴァンギャルドなジャズというわけにもいかないからだ。上原ひろみが、そのバランスを考慮しながらサウンドをまとめていったのだろうと推察する。だが登場人物たちの「熱く燃え上がるような意欲」は、アニメによる動く映像の効果も併せて、サウンド的にもリアルに表現されていたと思う。

漫画『BLUE GIANT』はまだ連載中の作品でもあり、アニメ化をどこまでやるのかは分からないが、仮に今後も計画しているようなら、「旅立ち編」とも言える、日本を舞台にした今回の第1部から、いかにもヨーロッパ的な多国籍メンバーによる第2部「Supreme」、ジャズの「本場」アメリカ大陸を、冒険するかのように横断してゆく現在連載中の第3部「Explorer」――と、聞こえてくる宮本大のサックスとバンドのサウンドが、彼の人間的、音楽的成長と共に、どのように変化してゆくのかも「聞きどころ」になるだろう。ストーリー展開もさることながら、ジャズファンにとってはそれもまた、アニメ化した『BLUE GIANT』の大きな楽しみになった。

2023/03/04

BRUTUS「JAZZ is POP !」を読む

雑誌「BRUTUS」3月1日号の特集「JAZZ is POP!」を読んだ。良くも悪くも、まさに現代のジャズシーンをそのまま表しているタイトルで、新進からベテランのミュージシャン、批評家など多彩なメンバーが現代のジャズとポップスの関係を語っている。私の近刊訳書『カンバセーション・イン・ジャズ』の監修・解説をお願いしたミュージシャン&批評家の大谷能生さんも、興味深い一文を寄稿している(「JAZZの100年を一気読み。」)。19世紀西洋絵画の歴史と対比するという独自の視点で、ジャズの総体と、現代の「ポップ化」に至る歴史的変遷とその意味・背景を解説しているが、この号のタイトルからすると、マクロな視座でジャズの変容を分かりやすく伝えるこの一文こそ「巻頭」に置くべき文章ではないかと思った(ジャズ誌ではないので、仕方ないか)。分野によらず、重箱の隅をつつくような細かな断片情報ばかりが目立つ現代日本で、こうした視点でジャズという音楽全体を俯瞰し、相対化できる批評家はもう少ないと思う。私の訳書の監修・解説をお願いしたのもそれが理由である。

1960年代にモードを手にして芸術の域に達し、一方、当時の政治状況を反映して難解さと抽象度を増したフリージャズで自己解体してしまったかのようなジャズが、その「反動」で、最初に「ポップ化(=大衆化)」したのは世の中が穏やかになった1970年代である。主導したのはもちろん60年代末のマイルス・デイヴィスの電化ジャズであり、その弟子筋のハービー・ハンコックのファンクや、チック・コリア、ウェザーリポートなど、ジャンルをミックスしたようなジャズが続々登場し、その後70年代半ばから「フュージョン」として本格的に大衆化した時期がそれだ。同じ頃デューク・エリントンが亡くなり、マイルスが一時引退し、モンクも引退し…という史実が象徴するように、それまで隆盛だった「モダン・ジャズ」は、ここでほぼ30年の進化の歴史を終える。しかし、この時点から80年代末までは、それまでの余韻とウィントン・マルサリスの登場などもあって、ポップ化したものの、まだ主がジャズであり従がポップス側という「イメージ」が世の中的にも成り立っていた。特に日本では、バブルに向かっていた好景気が、ジャズ=高級=大人の音楽という従来のイメージを支え、ジャズクラブの隆盛に見られたように、聴き手も音楽市場もそれをエンジョイしていたからだ。

Roy Hargrove
The Vibe (Novus, 1992)
しかし日本のバブル崩壊と時を同じくして、1990年前後にマイルス・デイヴィス、アート・ブレイキー、スタン・ゲッツなど、20世紀最後のジャズアイコンが相次いで消え、それと共にジャズとポップスが主客転倒してゆくのが90年代からである。ロイ・ハーグローヴという人は、ちょうどその端境期に登場したトランぺッターで、彼を見出したウィントン・マルサリスがモダン・ジャズに引導を渡し、どっぷりと古いジャズ側(博物館)に回帰して行ったのに対し、ハーグローヴはモダン・ジャズの香りをまだ残しつつ、重心はR&B、ヒップホップなど、既に21世紀のジャズ側に移行している非常にイキのいい斬新なアーティストだった。だから私にとって「20世紀最後のジャズマン」は、ロイ・ハーグローヴであり(もう一人はサックスのジェイムズ・カーターだった)、「ブルーノート東京」で90年代に見た、まだ20歳代のやんちゃなハーグローヴのライヴの記憶は、今思えば、あたかもモダン・ジャズの「フィナーレ」のようだった。現代のジャズを代表するアーティストの一人であるロバート・グラスパーと、そのハーグローヴの関係を今号の「BRUTUS」で知って、なるほど、と合点がいった。しかし、そのハーグローヴも2018年に49歳という若さであっさり亡くなってしまった。

現代は、20世紀のようにジャズが越境してポップス側を徐々に「侵食している」という構図ではなく(これは昔ながらのジャズ側からの視点だ)、資本の論理がより強まって、巨大化したビジネスになったポップス市場全体にジャズが呑み込まれ、その内部で攪拌され、希釈され、分解し、細かな「ジャズ粒子」となって拡散しながら、現代のポップス全体に溶け込みつつある、というイメージではないかと思う。20世紀はじめに音楽的進化をほぼ終えた西洋クラシック音楽が、完成されていた和声の基本体系を提供して、100年前にジャズの生みの親の一人になったわけだが、これを歴史的に見れば、ジャズとは「クラシックのポップ化」の一環として生まれた音楽だった、とも言えるだろう。近年のクラシック音楽のさらなるポップ化ぶりはすさまじいものがあるが、続いてその子供であるジャズもまったく同じ道を歩んでいるとも言える。21世紀における音楽のポップ化とは、ある意味で、現代資本主義が20世紀までの芸術を食いつぶす過程、すなわち20世紀までの純粋芸術解体プロセスの一環なのである。

amazonジャズ書籍の
独走ベストセラー本

「ジャズのポップ化」を牽引しているのは消費側(聴く側)だけではない。ジャズ誌「スイングジャーナル」が休刊して10年以上経つが、今やジャズ界で隆盛なのは「聴き手側」の情報誌よりも「演奏者側の本」で、ジャズ理論だけでなく、ギターを筆頭に、ピアノ、サックス、ドラムス、ベースなどの教則本、楽譜、奏法解説など、昔は考えられなかったほど多種多様な楽器別のジャズ誌や本が増殖している。この基調を形成し、それまでの「聴くだけ」のファンでなく、ジャズを「演る」ことの面白さに若者を目覚めさせたきっかけの一つが、出版物にまだ力があった15年ほど前、’00年代半ばの菊地成孔、大谷能生両氏による、ジャズの歴史と理論を「ジャズ演奏者側」の視点で初めて語った一連の著作(マイルス、バークリー、東大アイラ―本)にあることは間違いないだろう。その後2013年から連載が始まり、「BRUTUS」今号にも特別掲載されている、若き主人公がミュージシャンとして成長する姿を熱く描く、ジャズ系スポ根(?)漫画『ブルージャイアント』も、その流れを強めたことだろう。つまり、ジャズを演奏する側の数が昔に比べて圧倒的に増えたが、彼らは当然ながら聴く側の人でもあり、結果として、聴き手のジャズや楽理に関する知識も昔とは比べられないほど高度化しているということでもある。毎年日本各地で開催される「ジャズフェス」の数の多さには本当にびっくりするが、加えて、蕎麦屋やラーメン屋やファミレスやショッピングセンターで、BGMとして流れる「匿名ジャズ」が当たり前になったように、ジャズの音楽としての垣根も低くなり、日常生活の中で普通に聞こえてくる音楽になった。こうして感覚的にも、日本人全体のジャズ・リテラシーが大幅に高まって、ポップ化を加速しているのだろう。

今や何をもって「ジャズ」と呼ぶのかもはっきりしなくなり、そう呼ぶことにいったい意味があるのか、という疑問さえ湧いてくるのが現代の日本の音楽シーンだ。印象からすれば、「ジャズ」とも呼べるし「ポップス」とも呼べるような「ジャズっぽい音楽」が急増している、という表現がいちばんしっくりと来るが、それをジャズ目線で俯瞰的に見れば、常に時代と共に変容してゆくジャズという音楽の、「現時点の姿」にすぎないとも言える。とはいえ、たとえジャズそのものがどう変化しようと、聴き手側 も「同時に」変化してゆくのは困難なのだ。たとえば、20世紀半ばの「黄金期のモダン・ジャズ」(=ジャズという音楽の基本モデル)を同時代の音楽として聴きながら青春時代を送った人たちにとっては、それがデフォルトであり、「ジャズ」とは今でもその時代における意味、感覚、体験を喚起する具体的言語であり音楽なのだ。それ以前のスウィング・ジャズも、後のフュージョン世代もそこは同じだ。これは、「生きた時代」 が違うのだから仕方がない。音楽を聴くということはきわめて個人的な体験であり、いつの時代も、感受性がいちばん豊かな青年期に、いちばん感銘を受けた音楽は無意識のうちにその人の身体の奥深くまで浸透し、人は生涯それを忘れることができないからだ。それが音楽の持つ力であり、音楽と人間との関係というものだろう。つまり、音楽は「その時代の聴き手」を選ぶということである。

60歳、70歳になっても、現在進行形の新しい音楽に関心を持ち、それを鑑賞し批評できる感性を持ったスーパー中高年(&老人)も中にはいるだろうが、基本的に 「contemporary (同時代の)音楽」 の主役は常に若者であり、いつの時代も若者の感性だけが新たな魅力を持ったその時代のアートを 「発見」 してきたわけで、年寄りにはその能力も出番もないと思った方が賢明だろう。若者は今現在と未来に生き、先の短い年寄りが過去を振り返るのは人間として当たり前のことであり、世の中はそれがうまくバランスすることで健全さを維持してきた。だから、一時期のように(「ど・ジャズ」と呼んで過去の音楽をバカにしたり、反対に(「あんなモノはジャズじゃない」と言って)現代の音楽に価値を認めないといった、世代を対立させ分断するような不毛な議論ではなく、ジャズという、ひと繋がりの長く、深く、幅広い歴史を持った音楽を愛する聴き手として、互いに補完し合い棲み分けることが可能なのだ、という認識が大事だと思う。

「21世紀のポップス」とは、ある意味で、クラシックやジャズという近代芸術音楽の集大成ともいうべき要素と構造と技術から成る非常に「高度な音楽」であり、21世紀のポップスの聴衆も、それらを苦も無く楽しめるほどの音楽的感性とリテラシーを備えた人たちだと言うこともできるだろう。音楽を構成する素材とアイデアは、20世紀までに、もうあらかた出尽くした感があるので、たとえテクノロジー面での 「進化」 は続いても(AIやコンピュータが生み出す音楽なども含め)、21世紀の音楽そのものにあるのは 、 完成した部品の新たな組み合わせで得られる「変化ないし多様化」 だけではないだろうか(大谷さんは、それを「リ・デザイン」と呼んでいる)。伝統的に、外国からやって来たものを何でも取り込んで「日本化」 してしまうのが得意な我が国でも、現在のJ-POPの音楽的進化(作曲者、演奏者、聴衆)を見ていると、ジャズ側の延長線上というよりも、むしろ大衆音楽としての 「J-POPという総体」の中から、やがて日本独自の音楽とジャズが融合した、真の「J-JAZZ」と呼ぶべき新たな音楽ジャンルが生まれて来るのではないか、という予感さえする。今号の「BRUTUS」にはそれを感じさせる星野原さんも登場しているが、ジャズの技術や要素を自然に取り入れた近年のJ-POPのサウンド、それを演奏する一部アーティストの洗練ぶりは、まさに世界レベルだと思う。むしろJ-POPこそが、日本ジャズ独自の進化系だと思えるほどで、この音楽は21世紀の今後に向かってさらに進化してゆく可能性を秘めていると思う。

100年前にアフリカ、ヨーロッパ、カリブ海からの様々に異なる音楽的、文化的、社会的要素が混淆、融合して北米のニューオーリンズという場所で偶然生まれ、その後米国の発展と繁栄を背景に世界中へと拡散していった「 JAZZ と呼ばれてきた音楽」が持っている最大の特質は、やはり「雑種のDNA」なのだろう(つまり、この音楽はアメリカという国家そのものだ)。「ジャズは死んだ」と何べん宣告されても、どっこいどこかでしぶとく生き残っていく強靭さがその象徴なので、以前は「ゾンビ」 のような音楽だと思っていたが、最近はやはり「雑種」という出自が、その生命力の源なのだとあらためて思うようになった。アメリカ生まれのどんな音楽も、ある意味で雑種と言えるが、ジャズの持つ「雑種性」 はそのスケールと深度と多様性が違う。それゆえその本質が固定した枠組みに縛られず(自由)、一箇所、一ジャンルに留まらず(越境)、状況 に応じて自在に変化し、膨張を続ける(変容)――という類を見ない音楽になったのだろう。今や空気のように当たり前に存在し、時代に応じて変化し続けるこの音楽がこれからも「JAZZ/ジャズ」と呼ばれるのかどうかは分からない。しかし、20世紀に北米の一地方で起きた音楽上の化学反応と同様のことが、21世紀にはおそらく世界的規模で、地球上のどの地域でも起こり得る、あるいは既にそれが起きつつあるのは確かだと思う。その音楽が、名称はともかく、やがて「21世紀のジャズ」となるのだろう。

2022/12/08

訳書『カンバセーション・イン・ジャズ』出版

表題訳書『カンバセーション・イン・ジャズ / ラルフ・J・グリーソン対話集』(トビー・グリーソン編、小田中裕次訳、大谷能生監修・解説)が、リットーミュージックから来年1月に出版されます。

原書『The Ralph J. Gleason Interviews: Conversations in Jazz』(2016 Yale Univ. Press) は、20世紀米国の著名な音楽ジャーナリスト、ラルフ・J・グリーソン(1917 - 75)が、モダン・ジャズ全盛期の1959年から61年にかけて、サンフランシスコの自宅を訪れた当時の一流ジャズ・ミュージシャンたちと行なった私的インタビューの録音テープを元にした書籍です。1975年のグリーソンの死後、90年代になって自宅倉庫で見つかったテープの文字起こし作業を子息のトビー・グリーソン氏が手掛け、そこから選んだ計14名のミュージシャンとのインタビューを編集し、2016年にイェール大学出版局から書籍として初めて発表したもので、大部分が未発表の対談記録です。邦訳版の本書『カンバセーション・イン・ジャズ』は、原書からヴォーカリスト2名を除く12名を選び、編者による導入部分と、インタビューを書き起こしたテキスト全文を収載しています。昔のジャズファンなら誰でも知っている大物ミュージシャンばかりですが、現代の読者は必ずしもそうではないという時代背景を考慮し、各ミュージシャンの略歴およびインタビュー当時の代表的レコード情報を、参考資料として訳者が補足しています。

グリーソンが約2年の間に対談したのは以下のジャズ・ミュージシャンたちです。当時まだ20代半ばの新人だったクインシー・ジョーンズから、絶頂期のコルトレーンやビル・エヴァンス、グリーソンと同年齢で親しかったディジー・ガレスピー(当時41歳)、さらに61歳のレジェンド、デューク・エリントンまで、幅広い年齢層と多彩なミュージシャンで構成されています。

♦ジョン・コルトレーン ♦クインシー・ジョーンズ ♦ディジー・ガレスピー ♦ジョン・ルイス ♦ミルト・ジャクソン ♦パーシー・ヒース ♦コニー・ケイ ♦ソニー・ロリンズ ♦フィリー・ジョー・ジョーンズ ♦ビル・エヴァンス ♦ホレス・シルヴァー ♦デューク・エリントン

Ralph J. Gleason
1960年代にグリーソンが司会をしていたテレビ番組『Jazz Casual』出演時(1960年)のデューク・エリントンを除き、インタビューは全て、西海岸でのライヴやツアーの合間にバークレーのグリーソン邸を訪れたミュージシャンたちが、同家の居間でごくプライベートな環境で行なったものです。ジャズ黄金時代ならではの豪華メンバーに加え、リラックスした環境下で行なわれたフランクな対話であることが、本書のもう一つの価値です。マイルス・デイヴィスをはじめ、多くのアーティストから信頼されていたジャーナリストであり、インタビューの名手でもあったグリーソンの的確で簡潔な質問に対して、本音で語るジャズ・ミュージシャンたちの肉声を捉えている点が、大幅な編集をしがちな雑誌や新聞に掲載されたインタビュー記事との大きな違いです。中でも、インパルス移籍直後のジョン・コルトレーン、ウィリアムズバーグ橋への隠遁事件直前のソニー・ロリンズ、ビジネス的野心に燃える若きクインシー・ジョーンズ、黄金トリオ結成後間もないビル・エヴァンス、新機軸のジャズ・カルテットを成功裡に運営していたジョン・ルイス他MJQ全員のインタビューはきわめて貴重であると共に、当時の彼らの本音や悩みが率直に語られており、ジャズ史的興味が尽きません。

ラルフ・J・グリーソンは、セロニアス・モンク、ディジー・ガレスピーと同年の1917年(大正6年)、ニューヨーク市生まれのジャズ、ロック、ポピュラー音楽批評家です。1930年代、コロンビア大学在学中に米国初となるジャズ批評誌を創刊し、第二次大戦後は「サンフランシスコ・クロニクル」紙の専属コラムニストとして活動。ナット・ヘントフ Nat Hentoff と並ぶ20世紀米国を代表する音楽ジャーナリストとして、サンフランシスコを拠点に西海岸ポピュラー音楽の潮流を主導しただけでなく、ヘントフと同じく、その批評対象は音楽を超えて政治、社会、文化の領域にまで及んでいました。また「ダウンビート」誌の副編集長兼批評家(1948-60)として同誌の他、「ニューヨーク・タイムズ」紙、「ガーディアン」紙等、多数の主要メディアにも寄稿し、フランク・シナトラ、マイルス・デイヴィス、ボブ・ディラン、サイモンとガーファンクルなど、ジャズとポピュラー音楽界の当時の大スターたちへのインタビューや、主要レコードのライナーノーツ執筆も数多く手がけています。さらにジャズだけでなく、西海岸を中心にしたロック分野にも深く関わり、60年代後半からはジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッドなどの西海岸ロックバンドを評価、支持し、1967年には音楽雑誌「ローリングストーン」を共同創刊するなど、ロック批評の分野でも活躍していました。

グリーソンはまた、カリフォルニア州モントレーで現在も開催している「モントレー・ジャズ・フェスティバル」の創設 (1958)、テレビ番組『Jazz Casual』(SF/KQED公共放送)の司会(1960-68)、ディジー・ガレスピーの大統領選出馬応援(1964)、デューク・エリントンのドキュメンタリー映画の制作 (1968) など、多面的な活動で20世紀米国文化の根幹としてのジャズ、ポピュラー音楽の価値を語り、ミュージシャンたちを支援し続けました。没後の1990年には、グリーソンの功績を讃えて、ポピュラー音楽に関する優れた「音楽書」に授与される ”The Ralph J. Gleason Music Book Award" が創設されました。21世紀に入ってから途切れていた同賞が、今年(2022年)米国「ロックの殿堂」(Rock & Roll Hall of Fame)、ニューヨーク大学他の共催で、20年ぶりに復活し、2022年度の同賞には『Liner Notes for the Revolution: The Intellectual Life of Black Feminist Sound』(Daphne A. Brooks)が選ばれています。
100年を超える歴史を持つ音楽ジャズを生んだ米国は、ジャーナリズムの国でもあり、ジャズも演奏記録とその批評に加えて、メディアやジャーナリストによるジャズ・ミュージシャンへの「直接インタビュー」を通して、その歴史が記録されてきた音楽です。そこが、輸入音楽としてレコードの鑑賞と録音情報を中心にしてジャズの歴史が築かれてきた日本との違いです。複数のジャズ音楽家と複数のインタビュアーの組み合わせによるアンソロジー形式のインタビュー本は過去に何冊か出版されており、一人の音楽家だけを対象にした本も、マイルス・デイヴィスの自叙伝や私が訳したリー・コニッツ、 スティーヴ・レイシーをはじめ、これまでに何冊か書かれています。しかし「複数の」ジャズ・ミュージシャンを対象に、同時代を生きていた「単独の」人物がインタビューする形式の対談をまとめた本は少なく、ジャズ史的にも貴重です。なぜなら、これによって各音楽家が語る個人的体験や思想だけでなく、その背景となるインタビュー当時のジャズシーン全体が、一人のインタビュアーの固定された視点を通してフォーカスされ、より明瞭に浮かび上がってくるからです。本書は、公民権運動の高まり、ベトナム戦争本格参戦、ロックやポピュラー音楽の爆発的膨張、フリー・ジャズの発展等、激動の1960年代が始まろうとしていた米国で、モダン・ジャズ黄金時代を生きていたミュージシャンたちが見ていた当時のジャズシーンと彼らのジャズ観を、一流の音楽ジャーナリストが鋭く切り取った貴重な歴史ドキュメントとも言えます。

ジャズと米国の歴史は切っても切れない関係にありますが、ジャズレコード、特にすぐれた「ライヴ録音」は、時としてタイムカプセルを開けたときのような驚きと感動を聴き手に与えることがあります。古いインタビュー記録である本書から感じるのも、まさしく同種の新鮮さと驚きであり、60年という歳月を飛び越えて、モダン・ジャズ全盛期のアーティストの肉声と時代の空気が生々しく伝わってきます。そして本書のインタビュー全体を通読することで、1930年代のスウィング時代のビッグバンドから、第2次大戦後のビバップを経て、1950年代のスモール・コンボ中心のモダン・ジャズ時代へと移り変わるジャズ史の流れが、各ミュージシャンの個人史、人間関係、体験談等を通じてリアルに浮かび上がって来ます。

ジャズはまたミュージシャン個人の哲学や思想、感情を「話し言葉」のように楽器の「サウンド」を通じて表現する音楽芸術です。インタビューは逆に、そのサウンド表現に代わって、彼らが文字通り「自分の言葉」で音楽家としての思想を直接的に表現する場です。ミュージシャンの人格や哲学と、彼らの演奏表現のダイレクトな関係にこそジャズの魅力と真実があると考えている私のようなジャズ好きにとっては、この「言語とサウンド」の関係、すなわち各ミュージシャンの音楽的個性と、その背後にある人間性が、彼らの具体的な「言葉」を通して、どのインタビューからもはっきりと伝わってくるところが本書のもう一つの魅力と言えます(どこまでそのニュアンスを翻訳で伝えられたかは分かりませんが)。半世紀以上前の古い記録ですが、本書にはジャズという音楽と、ジャズを演奏するミュージシャンたちをより深く理解し、楽しむためのヒントがたくさん散りばめられていると思います。

その古い記録を、21世紀の今ごろになって翻訳出版するのには理由があります。本書を起点にして、その後20世紀後半に米国で出版されたジャズ・ミュージシャンへの同形式のインタビュー書を何冊か選び、それらをシリーズ化して翻訳出版することを企画しています。ただし私のようなオールドジャズファンの回顧に偏ることなく、ジャズ史的考察と音楽的な背景を、専門家の視点で客観的に分析・検証していただくために、プロの音楽家かつ批評家であり世代的にも若い大谷能生さんに、「Jazz Interviews Vol.1」と題した本書を含めたシリーズ全体の監修と解説をお願いしています。それらのジャズ・インタビュー本を年代順にシリーズ化して翻訳出版することによって、これまである意味で偏っていたり、あるいは曖昧な印象が強かった「20世紀後半のジャズ史」を、ジャズ・ミュージシャンたちの肉声で内部から辿る(日本語の)「オーラル・ヒストリー」として、よりリアルに描いてみたいと考えています。

今後の翻訳対象書籍は既に何冊か選定していますが、現在の出版界の状況から、この企画を実現するにはジャズファンからの強いご支持が必要と思います。本書への感想、あるいは今後の企画に対するご要望、ご提案等をお持ちの方は、リットーミュージック宛、もしくは本ブログ「Contact」を通じて、小田中裕次宛に直接ご意見をお聞かせいただくようお願いいたします。

2022/05/04

『中牟礼貞則』を読む

昨年出版された『中牟礼貞則:孤高のジャズ・インプロヴァイザーの長き軌跡』(久保木靖・編著、リットーミュージック)を読んだ。今年89歳()になる大ベテラン・ジャズ・ギタリスト中牟礼貞則(なかむれ・さだのり 1933-)との回顧録的インタビューを中心に、親しいジャズ関係者の証言、コラム、ディスコグラフィなどで構成された書籍だが、中牟礼貞則が演奏した未発表の貴重な音源を収めたCDが添付されているところが普通のジャズ本と違う。教則本ではなく、ジャズ・ミュージシャンが自ら語る音楽や人生を、テキスト(本人の言葉)とサウンド(実際の演奏記録)でパッケージした書籍は、単なる音や映像だけの記録とはまた異なる味わいとリアリティがあって、非常に楽しめる形態だと思う。

情報が有り余る現代では、ネット上のどこにでも書いてあるような、通り一遍のジャズ情報や知識をまとめただけのジャズ本に、もはや存在価値はないだろう。しかし、一流ジャズ・ミュージシャンの「生の声」を聞くインタビューを中心にした本は、上っ面の情報ではなく、時として人生やジャズという音楽の本質に触れる非常に奥深い対話が聞けるところに、音楽書として時代を超えた価値がある。また、ジャズのような即興音楽に携わるミュージシャンは、総じて発想も会話もユニークで、ユーモアやオリジナリティに富んでいる人が多いので、読んで(聞いて)いて退屈しない。そして何よりも(自分で訳した『リー・コニッツ』や『 スティーヴ・レイシー』がその典型だが)、ジャズ・ミュージシャンが「なぜ、そういうサウンドの演奏をするのか?」「何を考えて、演奏しているのか?」――という、聴き手にとって素朴だが本質的な疑問に対する答の一部が、「本人」の口から直に語られるところがいちばん面白いのである(ただし、それにはインタビューする側に、ジャズ知識はもちろん、そうした対話へと導くインタビュー技術が必要だが)。人生の履歴、ジャズ学習の経緯、交友関係、影響を受けたミュージシャン、目指していた音楽、実際の音楽的嗜好、個人としての思想――等々、演奏で表現される「ミュージシャン固有の音楽」の背後にある様々な人間的要素が、楽器の音とは別に奏者の肉声を通して伝わって来る。そこから、素人の耳では音楽的に聞き取るのが難しい部分や、ミュージシャン自身の音楽哲学、人間性に関する様々なヒントが感じられ、演奏をより深く理解できる気がして、ジャズを聴く楽しみが倍化するのである。しかし、アメリカではアーティストへのインタビューをまとめた書籍は一般的だが、日本では雑誌などの短いインタビュー記事にほぼ限られる。特に「一人の日本人ジャズ・ミュージシャン」だけを対象にして、編集本ではなく、本人の肉声をほぼそのまま収載した本格的なインタビュー本は、これまで出版されていないと思う(秋吉敏子の本がいちばん近いが)。ジャズ・ギタリスト中牟礼貞則の長い音楽人生をインタビュー中心に辿った本書は、そういう意味で本邦初となる書籍だろう。

Lennie Tristano
Atlantic 1956
ほぼ同年齢で、1950年代から同時代のジャズシーンを生きた高柳昌行や渡辺貞夫、70年代から師弟関係にある渡辺香津美などとの交流に関する史実も興味深い。特にギタリストの高柳昌行は私的関心からいろいろと調べたことがあるが、中牟礼貞則との個人的関係のことはまったく知らなかった。渡辺貞夫も中牟礼貞則も温厚な人柄のように見えるので、あの高踏的で尖ったイメージが強い高柳昌行とはなかなか結び付かなかったのだが、人間関係とは分からないものだ。また高柳昌行とトリスターノ派の音楽的関係はもちろん知っていたが、中牟礼貞則もその研究仲間の一人だったということも知らなかった。本書ではジャズ・ギターの本質について、中牟礼の示唆に富む多くのコメントが聞けるが、トリスターノ派のギタリスト、ビリー・バウアーにはあまり関心がなく、むしろジム・ホールを高く評価し敬意を抱いている点や、ガット・ギターへの理解など、高柳・中牟礼両氏には、根本的な部分でやはり共通のジャズ・ギター思想があったのだろう(高柳昌行とトリスターノの関係については、本ブログ2017/5/31『レニー・トリスターノの世界#3』、および2020/9/18『あの頃のジャズを読む#8:日本産リアルジャズ』をご参照ください)。高柳昌行が芸術指向の強い前衛ギタリストだったとすれば、ストイックにジャズの本流を歩み続けた中牟礼貞則は、まさに「孤高のジャズ・ギター職人」と呼べるミュージシャンではないかと私は思う。本書を読んでいて浮かんで来た中牟礼貞則の(サウンド云々ではない)「人物としてのイメージ」にもっとも近いジャズ・ミュージシャンは、本ブログで『誇り高きジャズ・ピアノ職人』(2017/4/17) と書いたトミー・フラナガンだ。

Conversation
TBM 1975

私が所有している中牟礼貞則のレコードには、1960年代に渡辺貞夫とボサノヴァを演奏している何枚かと、ベースの稲葉国光とのデュオ『カンバセーション』(1975 TBM)というアナログ盤がある。これはジム・ホール&ロン・カーターの有名なデュオ『Alone Together』(1972) の3年後の録音だが、コンセプトと共演は稲葉・中牟礼の方が早かったという(私は演奏も、この日本版デュオの方が深く内省的で好きだ)。その後所有した中牟礼の入ったCDは、『ジャズ・ギター紳士録Vol.1&2』(1997/98 Paddle Wheel) に収録された岡安芳明、渡辺香津美との2曲の共演曲のみだ。この、キャリアの長さの割に派手なリーダー作が少なく、サイドマンとして数多くの優れた仕事をしながら目立たないところもトミー・フラナガンとよく似ている。それに「歌伴」が得意なところもそうだろう。ジャズほどプレイヤーの人間性(人格)がそのまま演奏に表れる音楽はないと思うが、おそらくフラナガンも中牟礼貞則も、サポート上手で控え目な人物なのだろうと想像している(私が知る鹿児島県出身者は、みなさん心優しい人だが、中牟礼氏のサウンドや言動からも、どこかそうした温か味を感じる)。本書巻末には中牟礼貞則のディスコグラフィが収載されており、双頭を含むリーダー作と主演レコード31枚、客演とセッション参加レコード167枚という、計200作にのぼるレコードリストが、70年というジャズ・ギタリストとしての長いキャリアと、多彩な演奏活動を物語っている。

本書に添付されているCD収録曲は、当然だがまったく知らなかった演奏ばかりだ。銀座にあった高級ナイトクラブ「ファンタジア」でのライヴ演奏4曲(1956年=昭和31年)、その41年後、名古屋のジャズクラブ「Jazz Inn Lovely」でのリー・コニッツ Lee Konitz (as)とのデュオ演奏4曲 (1997)、2曲のソロ演奏 (2020)、これら10曲がすべて未発表の私家録音という貴重な音源である。1956年のライヴ録音は、トリスターノ派的クール・ジャズを中牟礼のギターと2管のセクステットで演奏しているが、当時トリスターノ音楽のいちばんの理解者と言われていた徳山陽 (1925-) のピアノ演奏を、私はこのCDで初めて聴いた。1956年という時代にあって、まさにトリスターノばりのラインを持った硬質なピアノに驚くが、上京して5年ほどで、まだ20代前半の中牟礼のモダンなギターにもびっくりする。演奏はもちろん、選曲もトリスターノ派のオリジナルや彼らが好んだ曲ばかりで、まさにビバップの横浜「モカンボ」(1954)と、実験的な銀座「銀巴里」(1963)という、日本ジャズ史上、時代の最先端を行く両ジャズ・セッションの中間に位置する演奏である。進化論的ジャズ史で言えば、「モカンボ」はアメリカの10年遅れのビバップ、「ファンタジア」は5年遅れのクール、そして「銀巴里」での前衛的実験の頃に、ほぼアメリカに追いついた日本ジャズが、その後高柳、山下洋輔、富樫雅彦などの60年代フリージャズ活動を経て、70年代についに独自の世界に到達したという歴史を、いわばこの1956年の演奏が裏書きしているとも言えるだろう。

2つ目の録音、1997年のリー・コニッツと中牟礼貞則の共演を、まさか21世紀の今頃になって聴けるとは思わなかった。コニッツには多くのデュオ作品があるが、1967年の『Lee Konitz Duets』を除き、ほとんどがピアノとのデュオであり、ギターとのデュオ演奏はなかったと思う。ギター奏者との共演も、1950年代のビリー・バウアー以降は、ケニー・ウィーラーの『Angel Song』(1996)でのビル・フリゼール、ドン・フリードマン(p)とのトリオによる『Thingin'』(1996)でのアッティラ・ゾラー、マーク・ターナー(ts)との『Parallels』(2000)でのピーター・バーンスタインなど、数える程である。

1990年代のリー・コニッツ (1927- 2020) の演奏は、当然ながら(中牟礼たちが傾倒した)カミソリのように鋭いインプロヴィゼーションを次から次へと生み出していた1950年代前半とは異なる音楽に変貌していた。しかし私見だが、当時のコニッツはジャズ音楽家として二度目のピークを迎えていた時期だったと思っている。60歳を過ぎた80年代後半から、コニッツは初めて自身がリーダーになったコンボを率い、ブラジル音楽に熱中したり、ストリングスと共演したり、上記デュオ作品やトリオに挑戦したり、自由で多彩な演奏活動を世界中で繰り広げていて、90年代半ばには日本にも数回来日してコンサート公演や録音を残している。このデュオは、その折にケイコ・リー(vo) の名古屋でのライヴ時の前座として共演したものだという。コニッツ好みのスタンダード曲が並ぶが、コニッツも中牟礼も、50年代のトリスターノ的音楽からはすっかり離れ、既に両者とも独自の音楽を形成していた時期の演奏である。本書で中牟礼は、このときの共演についてはクールな言葉で回想しているが、やはり青春時代に傾倒した音楽を象徴するミュージシャンと40年後に直接共演するという場であり、胸中には、おそらく他の人間には分からない何かが湧き上がっていたことだろう。(私の勝手な思い込みかもしれないが)このデュオは、そうした歳月を経てきた二人のベテラン・ミュージシャンの、言葉を超えた感慨を感じさせる邂逅セッションであり、個人的には非常に楽しめた。この時70歳だったリー・コニッツは、2020年4月にコロナのために92歳で亡くなった。

実に良いジャケットだ…
添付CDの最後のソロ2曲を聴いて、迷わず中牟礼貞則の最新ソロ・ギター作『デトゥアー・アヘッド Detour Ahead - Live at Airegin』(2020) を購入した(アルバム・タイトル ”Detour Ahead” は、ビリー・ホリデイ他で有名なスタンダード曲だが、「この先、迂回路あり」という道路標識の文言で、様々な比喩に用いられる)。本格的ジャズ・ギターのソロ・アルバムの数は多くない。古くはジョー・パス、マーチン・テイラー等が有名だが、いずれもどちらかと言えば音数の多い奏者が得意とするジャンルだ。ジム・ホールのような空間を生かした、音数の少ない端正な演奏が持ち味の奏者にとっては、デュオのように、少なくとも対話を通じて自分をインスパイアしてくれる相手がいないソロ演奏、それもアルバム1枚全曲ソロというのはハードルが高いフォーマットだろう。『Detour Ahead』は中牟礼としても初の試みであり、すべて「横濱エアジン」でのライヴ演奏だ。オクラ入りしていた2003年ソロ演奏のテープを聞いた中牟礼が、やはりレコード化しようと決心してそこから4曲を選び、そこへ新たにデジタル録音した4曲を追加したものだという。2003年はスタンダード曲、2020年の演奏はビル・エヴァンスの<Time Remembered>、ジム・ホールの<All Across the City>、 スティーヴ・スワロウの<Falling Grace>、自作の<Inter-cross>という、中牟礼の愛奏曲でまとめている。ジム・ホールがパット・メセニーとデュオで演奏している美曲<All Across the City>は私の愛聴曲であり、中牟礼のソロ解釈も非常に楽しめた。このアルバムは、どの曲も中牟礼独自の解釈とソロ演奏が楽しめるジャズ・ギター好きには必聴の1枚だが、本書を読んでから聴くと、さらに味わいが深まる。ジャズ・ギタリストにしては珍しく、いまだに立ってギターを抱えて弾くという「健脚」の中牟礼氏には、ぜひこれからも元気に活躍していただきたいと思う。

最後に、本書の中で、リー・コニッツへのインタビューを中心にした私の訳書『リー・コニッツ ジャズ・インプロヴァイザーの軌跡』(2015) が、中牟礼貞則氏の愛読書の一つだと書いてある箇所を読んで、望外の喜びを感じた。「<訳者>冥利につきる」とは、まさにこのことである。

2021/02/26

モンクの『パロ・アルト (Palo Alto) 』(1968) を巡る話

2月17日はセロニアス・モンクの命日なので、毎年この時期はモンクがらみの話を書いている。今年は、昨年秋に初めてリリースされたモンクの未発表音源『パロ・アルト(Palo Alto)』に関する話を書いてみたい。ジャズという音楽の面白いところは、巨人と言われるような大物ミュージシャンの昔の録音がレコード化されずに眠ったまま、ある日突然発掘されて陽の目を見るところだ。しかもそれが、今聴いてもやはり「これぞ本物だ」としか言えないような、なぜ発表されなかったのか不思議なくらいすごい演奏の場合が結構あるのだ。

モンクの未発表音源でいちばん有名なのは、2005年に米国議会図書館で半世紀ぶりに偶然発見された、ジョン・コルトレーンが参加したモンク・カルテットの「カーネギーホール」でのコンサート・ライブ録音だろう(1957年11月30日録音『Thelonious Monk Quartet with John Coltrane Live at Carnegie Hall』)。そしてもう一つは、4年前の2017年にフランスで発見された音源で、音楽プロデューサーだったマルセル・ロマーノが保管していた、1959年の仏映画『危険な関係』のサウンドトラックとして使ったスタジオ録音だ。映画の中でしか聴けなかったモンク・カルテットと、そこにバルネ・ウィランが加わったクインテットによる演奏を収めた『Les Liaisons Dangereuses 1960』は、スタジオ内でのやりとりを含めて、こちらも奇跡的に生々しいステレオ録音が聴ける(2作とも本ブログ2017年10月「モンクを聴く」ご参照)。しかし、実はモンクを中心にしたジャズ未発表音源の文字通りの宝庫は、ニカ夫人が私家録音した膨大な量のテープだろうが、それらは門外不出としてロスチャイルド家管理の下、今も封印されたままのようだ。

昨年秋に初めてリリースされたモンクの未発表音源『パロ・アルト (Palo Alto)』(Impulse!) は、上記のモンク全盛期の録音2作とは異なり、モンクが50歳を過ぎた1968年10月に録音されたモンク晩年のライヴ演奏だ。そして、クラブギグ、コンサートホール、スタジオといった普通のジャズ演奏の場ではなく、サンフランシスコから40kmほど南へ下ったパロ・アルトにある地方高校の講堂で、若者を中心にした地元の聴衆を前にした昼間のライヴ演奏であるところも珍しい。モンクはサンフランシスコでは、ソロ名盤『Alone in San Francisco』(1959)、ビリー・ヒギンズや西海岸プレイヤーと共演した『At the Blackhawk』(1960)、本盤と同メンバーで、モンクの没後1982年にリリースされた2枚組『At the Jazz Workshop』(1964) など3作品を残している。『Palo Alto』の録音は『Underground』(1968年2月 NYC) の後、コロムビア最後の録音となったオリヴァー・ネルソンとのビッグバンド『Monk's Blues』(1968年11月 LA) の直前に位置する。ちなみに、モンクの人生最後の単独ライヴ録音は、ほぼ1年後の1969年12月にパリの「サル・プレイエル」で行われた、ヨーロッパでも最後となったコンサートである。

ロビン・ケリー著『Thelonious Monk』によれば、60年代後半のモンクは、経済的、精神的、肉体的に様々な問題を抱えていて、決して万全な状態とは言えず、自宅で倒れて意識不明のまま入院したり、特に精神的に好不調の波が非常に激しかった。とりわけ66-67年にバド・パウエル、エルモ・ホープ、ジョン・コルトレーンという盟友3人を相次いで失ったことで、モンクの音楽家精神と創造意欲をはさらに衰えていた。したがって60年代前半までのモンクにあった創造性や活力はあまり感じられないものの、相棒のチャーリー・ラウズ(ts) に加え、ラリー・ゲイルズ(b)、ベン・ライリー(ds)という非常にシュアな2代目リズムセクションを得て、長い時間をかけてバンドをまとめたおかげで、最もバランスの取れた安定した演奏をしていた時期でもあり、このレコードでの演奏もそれを反映している。プログラムも、夜のジャズクラブに聴きに来るような客層ではなく、若者を中心にした地元聴衆を意識して有名曲(Ruby, My Dear/ Well, You Needn't/ Don't Blame Me/ Blue Monk/ Epistrophyを集めた分かりやすいもので、音源となった素直なアナログ・ステレオ録音もライヴ感があって上々だ。

このレコードのもう一つの価値は1968年という時代背景にある。公民権運動、ベトナム反戦と続く既存体制や価値観の変革を求める運動は60年代後半にはさらに強まり、米国社会が騒然としていた中、パロ・アルトでのコンサートの半年前の1968年4月にキング牧師が、6月にはロバート・ケネディ上院議員がロサンゼルスで暗殺された。現在も続く人種問題の根は深く、融和に向かおうとしていた白人街パロ・アルトと、黒人街イースト・パロ・アルトの分裂も深まった。マイルス・デイヴィスと同じくモンクも、表立った政治的発言は決してしないジャズ・ミュージシャンだった。しかしこのパロ・アルトにおけるコンサートは、人種問題に揺れる1960年代末の米国西海岸の小さな町で、ジャズを愛する一人の白人高校生の熱意で実現したギグを通じて、期せずして人種を超えた地元の人々の融和にモンクが一役買った貴重な実例であり、このレコードはその背景を知って聴くと、より大きな意味を持つというのがロビン・ケリー氏の見方だ。確かに演奏会場全体に流れている、どことなく温かな雰囲気からも、そうした背景が伝わってくるようだ。

ロビン・ケリー氏と著書
モンク生誕100年にあたる2017年に出版した私の訳書『セロニアス・モンク 独創のジャズ物語』は、日本語で上下2段組700ページもある大著だ。しかし、実はこれでも訳文全体の約15%をカットしている。ロビン・ケリー氏の原書『Thelonious Monk』(2009) は600ページもあり、本文の全訳文だけでWord原稿で約80万文字だった(原稿用紙2,000枚分)。UCLA教授のケリー氏は歴史学者であり、本文の他にモンク家の全面協力の下、14年もの歳月をかけて収集した史料の出典や、背景を記した膨大な巻末脚注も加わっていて、仮に完訳本を出すとなると、最低でも800-900ページを優に超える長さになる(正直言って、翻訳中も何度か途中で投げ出したくなるほどの長さだった)。だから上下2巻にする以外に、日本語による完訳版の出版は難しい。しかし当然ながら、出版不況下の今どき、ジャズ・ミュージシャンを主人公にした、そんな長尺な翻訳書を出版してくれる出版社などない。『リー・コニッツ』も『パノニカ』もそうだが、『セロニアス・モンク』も私が自分で企画した翻訳書であり、版権確認と日本語翻訳の可否を著者のケリー教授に直接打診して、なぜ翻訳したいのかという理由も説明した上で、ご本人から許可をいただいて翻訳したものだ。私は、ジャズ本流の外側にいる特異な音楽家、あるいは単なる変人(時に狂人)といった表現で常に語られ、長い間誰も核心に触れられずにきたモンクという人物、その実人生、その音楽の素晴らしさを初めて真摯に伝えるこの本を、何としても日本語で紹介したいと思っていた。しかし、本来なら最初に決めるべき出版社も、当然自分の責任として翻訳後に探すという約束である(このやり取りを通じて、ケリー氏が本当に良い人物だと知った)。

しかし1年以上かけて翻訳した『セロニアス・モンク』出版を10社近くの出版社に打診しても、どこも「やろう」とは言ってくれなかった。モンクは、日本ではマイルスやコルトレーンのような一般的な人気者ではないので、読者数も限られるという営業上の懸念があり、もちろんそれが尻込みする最大の理由だったろうが、とにかく書物として「長すぎる」というのがもう一つの理由だった(何でも短いSNS全盛の時代に完全に逆行しているので、当然だろう)。そこで、ケリー氏に事情を説明し、日本語での完訳本出版は難しそうであり、唯一の可能性は、原書の一部をカットして、全体を短縮して単行本として出版する以外にないことを伝えた。そして日本の想定読者層を考えると、ジャズを中心にした「音楽書」として出版し、音楽と直接的関わりの薄い部分、つまり同書の物語を編む縦糸というべき、人種差別を核にした米国黒人史や政治史に関する記述部分を主にカットせざるを得ないが、それでも翻訳を許可してもらえるかどうかと尋ねた。ケリー教授はアフリカ系アメリカ人歴史学者であり、この本が単なるジャズ・ミュージシャンの伝記ではなく、米国黒人史を背景にしてモンクという独創的音楽家を描く、もっと大きな物語であることを私も重々承知していたので、無理かもしれないと半ばあきらめていたのだ(それに、昔は甘かったらしいが、今は翻訳する側が原書の内容に勝手に手を加えることを契約上許可しない著者や版元も多い)。ところが、ケリー氏がその提案を了承してくれたのである。

しかしながら、2016年秋口に何とかして15%ほど訳文を減らした修正案を準備してもなお、出版してくれるところはなかなか見つからなかった。そして半年ほど経った最後の最後になって(2017年4月)、本当にあきらめかけたときに手をあげてくれたのが、月曜社とシンコーミュージックの2社だった。結果的にシンコーミュージックから10月に出版していただくことに決まったが、それでも700ページというジャズ本としては異例の大著になった(月曜社は、これが縁となり、その後パノニカとレイシーに関する本を出版していただいた)。

このカットした部分に、モンクがなぜパロ・アルト高校で演奏するに至ったか、その背景に関する逸話も含まれていた。原書では、米国史上有名な白人による黒人差別や暴力に関する歴史的事件のほとんどに触れているが、パロ・アルトの事例は、中で唯一悲惨さとは無縁のポジティヴな逸話だ。そしてある意味で、モンクという人物を象徴するような物語でもある。だから長さの制約さえなければそのまま訳文を掲載したかったが、他の歴史的背景のかなりの部分をカットした以上、パロ・アルトの逸話だけ入れてもその「意義」が伝わりにくいと考えた。こうした訳文削除の背景については訳書の「解説」でも触れているので、カットされたその黒人史に関する部分を読みたい、という読者の方からの問い合わせもいただいたが、版権の問題や上記理由で日本での書籍化は難しいとお答えしている。

モンクのこのレコード『Palo Alto』(CD、LP)には、ロビン・ケリー氏が自らこの逸話の政治的背景を書いた長文ライナーノーツが添付されており、国内盤にはその日本語訳もついている。そこに、この話の主人公で当時高校生だったダニー・シャーの後年のコメントも書かれているし、他に新聞広告やポスター、コンサートプログラムのコピー等の史料も添付されている。また息子のT.Sモンクとシャーのインタビュー映像もYouTubeで公開されている。とはいえ本来は、上述のような苦闘(?)を経てようやく出版した邦訳書の一部でもあるので、以下に私が「試訳」した未発表部分を、ご参考までに紹介したいと思う(ケリー氏のライナーノーツの解説が、当時の背景を非常に詳細に語ったものなので、私の原書訳文は、むしろそのダイジェスト版のようではあるが)。

***

《 この話はカリフォルニア州パロ・アルトという、スタンフォード大学近くの裕福な白人のカレッジタウンから始まる。パロ・アルトが起点のベイショア・フリーウェイをはさんで、イースト・パロ・アルトがあった――当時は貧しく、黒人住民が中心の ”郊外の貧困地域” だった。その極貧ぶりと失業率の高さゆえに、その街を別の国だと譬える人もいたほどだった。アフリカの独立や、台頭しつつあった黒人民族主義者の気運に触発されて、地元の活動家の中には、誇りを持ってその町を ”ナイロビ” というニックネームで呼ぶ人たちもいた。1966年にアフリカ中心の教育に特化した独立学校としてナイロビ・デイスクールが創設され、その2年後に、”ナイロビ” を町の公式名称にすることを問う住民投票を目指す運動が始まったのだ。その運動は反白人主義によるものではなかった。それどころか、名称変更の支持者たちは、そのコミュニティの中で地域への誇りを持つ気持が浸透すれば、学校や近隣地区を改善し、経済を強化でき、最終的には人種に関わらず、ナイロビをすべての家族にとって魅力的な場所にできると信じていたのである。4月3日、町議会は名称変更についての公聴会を開くことを可決したが、その翌日キング師が暗殺された。若者たちがあちこちの略奪行為や焼き打ちに加わるにつれて、期待されていた協力の可能性は怒りに取って代わられた。「ナイロビに賛成しよう」と駆り立てるポスター、チラシ、黒とオレンジ色のバンパーステッカーは戦闘的な雰囲気を漂わせるようになった。人種間の緊張が高まるにつれて、パロ・アルト自由主義のグループは黒人の中流層を引き寄せて、何とか白人の近隣住民と一体化しようと試みた。
 ここでダニー・シャーの紹介をすると、彼はパロ・アルトの上流中産階級の家庭で生まれ育った16歳のユダヤ系の少年だった。ジャズ狂で、人種間の緊張が高まっていた1968年に、パロ・アルト高校の2年生に進級するところだった。ダニーを知らぬものはいなかったが、それは1年前に独力でパロ・アルト高校初のジャズ・コンサートをプロデュースし、そこでなんとあのピアニスト、ヴィンス・ガラルディとヴォーカル・グループのランバート・ヘンドリックス・アンド・ロスを招聘したからだ。しかも毎週水曜日のランチタイムには、学校内でジャズのラジオ番組の司会も務めていた――ただし放送局の設備はマイク一本と、じっくり配置を考えた数本のスピーカー、それにターンテーブルだけだった。学校外では、ベイエリアのコンサート・プロモーターのもとで仕事をするようになり、そこでダーレンス・チャンと知り合ったが、彼女はカリフォルニア大学バークレー校で初めて一連のジャズ・コンサートをプロデュースし、批評家ラルフ・J・グリーソンの下で働いていた。シャーは回想する。「僕の夢は、セロニアス・モンクとデューク・エリントンをパロ・アルト高校に連れて来ることだった。第一候補はモンクだったので、ダーレンスにどうやって彼と接触したらいいか尋ねたら、彼女がジュールズ・コロンビー[訳注:モンクの元マネージャーだったハリー・コロンビーの兄]の電話帽号を教えてくれたんだ。僕はジュールズに電話して、モンクに高校で演奏して欲しいという話を伝えた。彼は500ドルくらいかかるよ、と言ったと思う。最終的にジュールズは契約書と、何枚かのモンクの写真、それに『アンダーグラウンド』のLPも何枚か送ってきた。あとは校長に頼んで契約書にサインしてもらうだけだった」
 モンクは、10月末にはサンフランシスコの「ボース・アンド・クラブ」に3週間出演することになっていたので、シャーは10月27日、日曜日の午後に学校の講堂を確保し、他の2つのバンドの出演も決めた――<ジミー・マークス・アフロアンサンブル>とケニー・ワシントンをフィーチャーした<スモーク>だった。主役はモンクのカルテットで、収益金はインターナショナル・クラブに寄贈されることになっていたので、チケットはあっという間に売り切れるだろうとシャーは踏んでいた。ところがそうは行かなかった。2ドルのチケットを売りさばくのに苦労したシャーは、購読していた新聞のコネを通じて、何軒かの新聞販売店にプログラムへの広告掲載を売りこみ、各店の窓にコンサートを宣伝するポスターを貼ってくれるよう頼み込んだ。それでもチケットの売れ行きが良くならないと、彼はコンサートをイースト・パロ・アルトにも売り込むことにした。「それで、ついにイースト・パロ・アルトにもポスターを貼り出すことにして、街中に貼るポスターの見出し文をこう書いた。『それで、本当にモンクが白人だらけのパロ・アルトにやって来るのだろうか? 信じれば、そうなるさ』。僕が会った黒人連中は疑っていたので、とにかく日曜日に学校の駐車場に来てくれ、そこでモンクを見たらチケットを買ってくれ、って言ったんだ」
 あとは、モンクとバンドが確実にギグに来られるようにすればよかった。コンサートの何日か前に、シャーはホテルにいたモンクに電話して、どこに来てもらいたいか念押しした。するとモンクは、「えー、私はその件は何も聞いてないよ」と答えた。分かったのは、モンクが契約書を一度も見ていないこと、しかもサンフランシスコからパロ・アルトへ行って、クラブの最初のセットに間に合うように戻ってくる移動手段がないということだった。しかし、モンクはその少年の厚かましさを面白いと思ったし、特にシャーが、自分の兄の車でバンドの行き帰りの送迎をさせると申し出たこともあって、その出演を承諾した。日曜日の午後、両パロ・アルトの町から黒人と白人の少年たちが駐車場に集まり、モンクが現れるのを見ようと待っていた。バンが駐車場に止り、中からモンク、チャーリー・ラウズ、ラリー・ゲイルズ、ベン・ライリーが現れると、そこにいたみんながチケットを買う列に並んだ。最終的に、モンクのカルテットは人種の入り混じった、ほぼ満員の聴衆に素晴らしいショーを披露した。彼らは1時間以上演奏した。嵐のような拍手に呼び戻されたモンクはアンコールも演奏した――ソロ・ピアノによる〈スウィートハート・オブ・オール・マイ・ドリームズ〉――それから、これ以上は演奏できないことを丁重に謝った。「今晩は街に戻って演奏しなければならないので、ご了承ください」。モンクはそれをコンサートの締めの言葉にし、ダニーは現金でモンクに謝礼を支払い、それから彼の兄が「ボース・アンド・クラブ」までバンドを送り届けたが、時間的には十分な余裕があった。数日後、ジュールズからダニーに電話があり、出演料を請求した。「私は彼に、それならモンクさんに支払いましたよと言った。『私のコミッションはどうなるの?』と言うので、『コロンビーさん、こちらにはサインした契約書はないんです。なのでコミッションをお望みなら、モンクさんに話した方がいいですよ』って答えた」。その後成長したシャーは、西海岸でもっとも成功をおさめた屈指のコンサート・プロモーターになった。
 モンクも16歳のダニー・シャーも、この地域の人種間の関係に、このコンサートがどういう意味をもたらしたのか完全に理解していたわけではなかった。つまり気持ちの良いある日の午後に、黒人と白人が、そしてパロ・アルトとイースト・パロ・アルトが、争いをやめて一緒に集まり、〈ブルー・モンク〉、〈ウェル・ユー・ニードント〉、〈ドント・ブレイム・ミー〉を聞いたということである。それから9日後の住民投票で、イースト・パロ・アルトをナイロビに改名する案は2対1以上の大差で完敗した 》