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2019/04/19

徒然なるピアノ・トリオ(1)

今どきは、TV番組のBGMはもちろん、蕎麦屋でもラーメン屋でも居酒屋でも、店の中でジャズが当たり前のように聞こえてくるので、日常のBGMとしてのジャズという存在は、もはや何の違和感もなくなっている。昔のように耳を澄まして真剣にジャズを聴く人はもう一握りだろう。しかし昔から、真剣に聴くべき本格的なジャズがある一方で、イージーリスニング的に聞ける肩の凝らないジャズはあったし、聴く側にもそういうニーズがあった。一言で「ジャズ」と言っても、その裾野は広く、様々な楽しみ方ができる様々な演奏が存在してきたのである。昔からのジャズファンは、本格的な有名ジャズ・レコードとは別に、そうした個人的な愛聴盤を何枚か、かならず持っていることだろう。つまり、ぼんやりとしたまま、あるいは軽い読書をしながら、あるいは軽く一杯飲みながら、聞くともなしにゆったりと流して聴けるジャズである。一般に、ジャズは抽象的で、しかも(ヴォーカルを除き)歌詞がなく、具体的イメージが浮かびにくい音楽なので、そういう聞き方に適している。思考や会話の邪魔にならず、音楽側に思考が引っ張られず、一方で空間を満たす音には、どこかポップス系とは違う、ある種の情感を刺激する要素があるので、むしろ思考や会話を促すからだ。現在、巷にジャズBGMが溢れているのは、俗に言うおシャレ度もあるだろうが、ジャズの持つこの抽象性も大きな理由だ。(しかし、昔からのコアなジャズファンにとっては、抽象的どころか、奏者の名前、顔やアルバム名、曲名までが頭に浮かんで来てしまうほど具体的記憶と結びついていることが多いので、時に逆効果でもある。)

今もそうだが、そういうジャズはピアノ・トリオが圧倒的に多い。ただしそれは、パウエル、モンク、エヴァンスといった、唯一無二の個性を持ったジャズ史に残るような独創的なピアニストの演奏ではない(エヴァンスは既にそういう聴き方もされているが)。天才や超一流ではないが、優れた演奏技術と独特の味わいを持つ名人級ピアニストの演奏であることが多い。中にはホテルのラウンジで聞くような カクテル・ピアノと侮蔑的に呼ばれたような奏者もいたし、そういう演奏もあったし、その手の線を狙って作られたレコードもあった。ところが、名人級のピアニストの場合、あえて狙ったような企画でも、当たり前だが、腕が良いので結果として素晴らしいジャズ・アルバムになってしまうこともある。もちろん、狙わずとも、演奏した曲の曲調によっては、一聴イージーリスニング的に聞こえるが、しかし優れた内容の作品もある。コンピレーション・アルバムを別にしても、この手のジャズ・レコードは数多くあるし、ピンキリの世界でもあり、また線引きも難しいが、きちんとしたプレイヤーによる良質の「ジャズ・アルバム」であることを第一条件とすれば、基本的には――1曲の演奏時間が短く(5分前後?)、個性があまり強くなく、重くなく、メロディが聴き取りやすく、スローからミディアム・テンポで、聴いていて心が落ち着く、ある種ムーディな雰囲気を持つ演奏である――ことが共通点だろう。ただし聴く側の個人的な好みも、もちろんある。もう一つは、録音が貧弱ではなく、オーディオ的にも聴いていて快感を感じるような、気持ちの良い録音であることも大事な条件だ。

Moodsville
Tommy Flanagan
1960 Prestige
そうして徒然なるままに聴けて、なおかつジャズとして良質、という主旨でピアノ・トリオのアルバムを選んだら、筆頭に来るのはやはりトミー・フラナガンTommy Flanagan (1930-2001) だろう。1960年録音の『Moodsville 9』というアルバム (トミー・ポッター-b, ロイ・ヘインズ-ds) は、タイトルが表すように、Prestigeレーベルの企画作品で、何十枚もあるレコードの9番目という意味で、ソフトでメローな演奏ばかりを奏者ごとに集めた ”Moodsville” というシリーズものの1枚だ(-villeとは、村、街、場所などを意味する接尾語)。しかし単なるイージーリスンングに堕さないところがトミー・フラナガンたる所以である。フラナガンは、本ブログ別項でも何度か紹介しているが、フレーズ(メロディ)の美しさ、都会的洗練、アクのなさ、流麗な演奏という点では断トツのピアニストであり、しかも、どんな企画やセッションでも決して手を抜かず、安直な演奏をしないところが素晴らしい。このアルバムは、スローからミディアムテンポのスタンダード曲の演奏が中心だが、とにかく全編にわたって演奏が穏やかで気品があり、メロディ・ラインが美しく、ヴァン・ゲルダー録音の音も相まって、静かに耳を傾けられ、しかも聞き飽きしない深みのあるピアノ・トリオである。フラナガンには、もちろん本格的なジャズ名盤も数多いが、こうした優れたトリオ作品が他にも何枚もある。現代的なワイドレンジ録音でフラナガンの美音が楽しめる後期のアルバムは、『Jazz Poet』(1989 Timeless)、『 Sea Changes』(1996 Alfa)などだ。

First Time Ever
Barry Harris
1998 Alfa
バリー・ハリス Barry Harris (1929 -)も、トミー・フラナガンと並んで、どのアルバムを聴いても決してハズレのない、バップ時代を知る数少ない存命のピアニストだ。手抜きをせず、駄作というものが一切なく、同時にハリスならではの、聴けば聴くほど味の出る、いぶし銀のようなしぶい味わいが最大の魅力だ。一聴地味に聞こえるその演奏には、押しつけがましさがないので、聞き流すこともできるが、じっと耳を傾けて深く味わうことできるという点で、稀有なピアニストだ。ジャズとは一つの「言語」なので、技術の巧拙以上に、演奏に奏者の人柄、人格というものが語り口としてはっきりと表れる音楽だ。お喋りで、目立ちたがる人はそういう演奏になるし、無口で控えめな人は、演奏もやはりそうなる。フラナガンやハリスは、きっと控えめで誠実な人物なのだと思う。私的愛聴盤は何と言ってもブログ別項で紹介した3枚だが、中でも『In Spain』(1991 Nuba) は、深々とした現代的録音でハリスの演奏の味わいが最高に楽しめる1枚だ。90年代後半に日本でリリースされたLive at Dug』(1997 Enja)と『First Time Ever』(1998 Alfa) も、ハリスの魅力が、いずれも現代的なレンジの広い、クリアな録音で楽しめるアルバムだ。前者は稲葉国光(b)、渡辺文雄(ds)との新宿のクラブ「Dug」でのライヴ録音、後者はジョージ・ムラーツ(b)、リロイ・ウィリアムズ(ds)という旧知のベテランとのスタジオ録音であり、ハリス66歳時のトリオ演奏だ。控えめながら、噛めば噛むほど味わいの深まるハリスの演奏は、何もかもが派手で慌ただしい現代では、たぶん聴く(弾く)ことのできない滋味あふれる貴重なジャズ・ピアノである。

When There Are Grey Skies
Red Garland
1963 Prestige
レッド・ガーランド Red Garland (1923-84) の『When There Are Grey Skies』(1963 Prestige、ウェンデル・マーシャル-b, チャーリー・パーシップ-ds)は、タイトルが象徴するように、スローでブルーな曲を中心に、ガーランドが醸し出す密やかな哀愁が非常に素晴らしいアルバムだ。ガーランドと言えば、代表的ピアノ・トリオ『Groovy』や、有名なマイルスとのセッションをはじめ、ブルースやミディアム・テンポの曲に聴ける、ころころと転がるような気持ちの良いピアノが持ち味で、本作でも何曲かはそれが聞ける。しかし<Sonny Boy>、<St.James Infirmary>、<Nobody Knows the Trouble I See> という3曲のような、哀感のある、微妙で繊細な演奏も実は非常にうまい。50年代録音には、『All Kinds of Weather』(1958 Prestige) という季節や天候を音で描いたレコードもあり、こちらも地味だがとても味わいのあるアルバムだ。もう1枚、ガーランドには『Nearness of You(1962 Jazzland)というアルバムがあって、こちらはスロー・バラードだけを集めた一種の企画ものなのだろうが、全編ガーランドの粘るような、独特の味わいのあるバラード・プレイが楽しめる。

Kiss of Spain
Duke Jordan
1989 3361*Black
デューク・ジョーダン Duke Jordan (1922-2006) も、トミー・フラナガンと同じく、メロディではなく、あえて “美旋律”と呼びたくなるような、日本人好みの美しいフレーズを紡ぎ出す名人である。チャーリー・パーカーとの共演時代から始まり、ヨーロッパ移住後のSteepleChase時代までに、数多くの優れたアルバムをリリースしているが、80年代以降は日本でも何枚か録音を残した。中でも、山中湖のペンション3361*Blackがプロデュースし、そこで録音したレコードは私の愛聴盤だ。『Kiss of Spain』(1989) はその1枚で、富樫雅彦のドラムス、井野信義のベースという異例の組み合わせによるピアノ・トリオである。あの富樫が入っているので、聞き流すという類の演奏ではないが、しかしスタンダード曲中心のジョーダンのピアノ自体は、相変わらずの優しさと叙情に満ちた聴きやすいものなので、富樫雅彦の繰り出す繊細なリズムも同時に楽しみながら、ゆったりと浸ることのできる素晴らしいピアノ・トリオであることに違いはない。馴染みのある<As Time Goes By>、<All the Things You are>、<When You Wish Upon a Star>などのバラード曲もカバーしており、アコースティック感あふれる気持ちの良い録音も、3361シリーズの魅力の一つである。ただし、低音域をきちんと再生できる良いオーディオ装置の方が、より深くこの演奏の味わいを楽しめると思う。

2017/02/26

モンク考 (4) 米国黒人史他について

著者ロビン・D・Gケリー氏はニューヨーク・ハーレム生まれで、現在カリフォルニア大学教授を務める歴史学者である。米国黒人史を専門とし、これまでに同分野の多くの著書も発表していて、2冊の邦訳版もある。(自ら楽器も演奏し、またジャズを中心としたブラック・ミュージックについての造詣も深く、関連誌に多くの論稿も寄稿している。)著者はモンクの物語を貫く縦糸として、米国黒人史を織り込むことを最初から意図して本書を執筆しており、その点があくまで音楽を主体とした従来のジャズマン個人史や評伝との違いだろう。ノースカロライナ州における19世紀奴隷制時代の米国の状況と、そこで生きたモンクの曽祖父から物語を始め、セロニアス・モンクという姓名の由来、少年時代からの逸話、伝聞、発言等を整理し、そこにモンクの演奏記録、また当時の様々なレビュー等を引用した上で、それぞれの情報を徹底的に検証している。そしてその作業から得られた「事実」として確度の高い情報を、いわばジグソーパズルのように時系列に沿って丹念に配置してゆくことによってモンクの実像に迫ろうとしている。

したがって、物語の途上では米国黒人史で起きた悲惨な事件や政治的事例が数多く挿入されている。モンク自身は、共感するところはあったにしても政治活動には直接関与しなかった純粋な音楽家だったことが本書からわかるが、日本人が知らない、あるいはよく理解していない、そうした歴史的背景とジャズという音楽は不可分なのだという思想はもちろん理解できる。実際モンクを始め、多くのジャズ・ミュージシャンが警察の暴力の被害に会っており、そして近年のアメリカにおける、一世紀前と変わらぬ警察による黒人への暴力事件の報道を見聞きすると、残念ながら本書に書かれているエピソードが一層リアリティを増して感じられることも確かだ。数多いそれらの事例と、長期にわたって収集された膨大な資料に拠る克明な記述とが相まって、結果的に原著は長大な本となった。

しかし著者は、敢えてそうした手法を取り入れることで、これまでのジャズ評論やジャズ個人史の問題でもあった主観とイメージ(想像、時に妄想)、間接情報中心の記述をできるだけ排し、より客観的な視点で事実を積み上げることによってリアルなモンク像を描くことに挑戦している。「リー・コニッツ」の著者アンディ・.ハミルトンの場合は、存命の人物への直接インタビューによって、コニッツの演奏思想、哲学とジャズ即興演奏の本質を明らかにしようというアプローチだったが、両著者ともに曖昧な間接情報と脚色を排し、事実に重きを置くという点でまったく同じ姿勢だと言える(二人とも大学教授という共通の職業柄もある)。その点が、ジャズ・ミュージシャンの伝記として本書がアメリカで数々の賞を受賞し高く評価された理由の一つだろう。結果として非常に長い本となったが、細部の事実を含めてこれまで日本では知られていない情報も多く、何よりもジャズ好きであれば、1930年代以降のアメリカとモダン・ジャズ史を新たな視点で俯瞰するノンフィクション読み物としても非常に面白く読める。 

記録映画
<Straight No Chaser>
1988
おそらくモンク・ファンの多くは既に見ておられると思うが、本書中に出て来るドイツのブラックウッド兄弟が1967年に撮影したドキュメンタリー・フィルムを中心にして、1988年に再編集された傑作記録映画がある。それが「ストレート・ノー・チェイサー」(クリント・イーストウッド総指揮、シャーロット・ズワーリン監督――この人も女性である)で、あの 動くモンク“――ピアノを弾き(あるいはピアノにアタックし)、踊り、くるくるつま先立ちで回り、煙草を吸い(時にピアノや床を灰皿代わりにしながら)、話し、道を歩くモンクの姿が捉えられている。ネリー夫人も、ニカ男爵夫人も、息子トゥートも、マネージャーのハリー・コロンビーも、チャーリー・ラウズも、テオ・マセロも、その他本書に登場する多くの人たちの映像と肉声の記録もそこに残されている。そして1960年代後半のニューヨーク、アムステルダム・アベニューも、ヨーロッパ・ツアー中のモンク一行も、モンクが晩年のほとんどを過ごしたウィーホーケンのニカ邸内部のモンクの部屋とピアノ、そこから見えるハドソン川とマンハッタンの遠景、おまけに ”キャットハウス” ニカ邸の住人だった多数の猫たちも登場する。モンクが晩年を過ごし、最後を迎えたニカ邸で当時暮らしていたバリー・ハリスが、トミー・フラナガンとピアノ・デュオでモンクの曲を弾くシーンもある。そして最後に、正装で棺に納められたモンクの葬儀の模様も挿入されている。ジャズ・ファンにとっては幸福なことに、今やインターネット動画でさらに多くの動くモンクの映像記録も見ることができる。この本を読み、モンクのレコードや音源をあらためて聴き、さらにこれらの映像を見ることで、モダン・ジャズの歴史と、セロニアス・モンクという唯一無二の天才ジャズ音楽家を再発見する楽しみを、多くの人にぜひ味わっていただきたいと思う。