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2022/07/29

夏のオーディオ

夏のオーディオはあまり楽しくない。音が悪いからである。夏場はエアコンを使わざるを得ない日が多いので、まずエアコンが発する音そのものがどうしても気になる。我が家のエアコンはもう10年くらい使用しているので、なおさらだ。住んでいるマンションは立地、部屋の位置、間取りなど、オーディオ環境もかなり考慮して選んだ物件なのだが、皮肉なことに、外部ノイズに対する環境が良くなればなるほど、今度は内部で発生するノイズが気になるようになる。つまり部屋全体のSN比 (signal / noise) が悪化したように聞こえる。そうなると微妙な音の聞こえ方や、音質の違いがどうのこうの、などと言えるレベルの環境ではなくなるのだ。SNとは比率なので、原理的には再生音量(signal)を上げてやれば、対ノイズ比は向上し、相対的によく聞こえるようになるはずだが、一般家庭の環境ではそうそうスピーカーの音量も上げられない。さらに集合住宅の場合、夏場は自宅だけでなく各家庭のエアコン使用率が高いので、必然的にAC電源ラインに乗るエアコン由来のノイズが増える。そのせいで、「再生音場」の静けさに影響を与える背景ノイズ(バックグラウンド・ノイズ)も増えるので、やはりSNに影響が出て、音の「鮮度」が落ちる。

PS Audio Noise Harvester
ド素人なのに、なぜACノイズの存在が分かるかというと、大分前からPS Audioの "Noise Harvester" というノイズ・フィルターを2つ、別々の電源タップのコンセントに挿しているからだ。文字通りノイズを取り込んで(harvestして)それを光に変える、というふれ込みのフィルターで、原理や効果のほどはよく分からないが、ACノイズが多いと、それぞれが(目ざわりなくらい)派手なブルーのLEDランプを点滅させてノイズを「吸収する」(ことになっている)ので、「ああ今はノイズが多いのだ」と誰でも判断できる。事実、そういうときの音は明らかにクリアさに欠け、曇ったようになる(フィルターがなかったら、もっとひどいはず…ということになるが)。エアコンの他、蛍光灯、電子レンジ、冷蔵庫、洗濯機、掃除機などから発生するノイズが影響することもよく分かる(使用中にランプが点滅するので)。自分の家で使っていなくても、隣近所がそうしたノイズをまき散らす機器を使っていると、青ランプが時に激しく点滅したり、ジーッと音がするほど点きっぱなしになることもある。これらのノイズの影響が少なく、ほとんどランプが点灯していないときは、明らかにSNが向上し、再生音場が非常に静かになるので、小音量でも細かな音がよく聞き取れ、見違えるように楽音のクリアさ、立体感等が向上して、聴いていて非常に「気持ちの良い音」になる。低域や高域がどうとか、音質が良くなるとか、そういうことよりも、「音場が静かになる(透明度が増す)」という点で効果があるというべき機器だ。

   マイ電柱
柱上トランスを自宅専用にする
長年こうした経験をしていると、いくら良い(高価な)機器を使っていても、一般家庭で楽しむオーディオとは、結局のところ「ノイズ制御」が肝心だということがよく分かる。真っ白なキャンバスを背景にして絵を描くか、薄汚れたようなキャンバスを使うか、という違いのようなもので、線や色彩(オーディオの場合は、音の輪郭、音色)と、背景とのコントラストに明らかな差が出てくるからだ。「マイ電柱」を立てて配電トランス段階から自宅専用回線にしたり、屋内に専用の「200V回線」を導入して100Vとは別回線にするとか、「家庭用バッテリー」を使うとか、昔からマニアが追及してきたACノイズ遮断のための大掛かりな方法もいろいろあって、もちろん効果はきっと大きいのだろう。しかし、私のような中途半端なオーディオ好きで、しかもマンション住まいの身では、家人を説得して、そこまでやる根性も知識も資金もないので、(大方のオーディオ好きはそうだろうと想像するが)何もしないよりはましだという結論で、せいぜいアイソレーション・トランスとか、電源コンセントとか、電源ケーブルとか、上記ノイズフィルターとかいった導入可能な機器を選び、自分なりに工夫しながら何とかノイズ低減対策をしてきたわけである(それすら「普通の人」からみると、わけが分からない行為だろうが…)。

私の場合、Mac主体のPCオーディオシステムなので、電源系統に加えて、音の起点となるPC本体から発生する信号経路へのデジタルノイズの影響も対策が必要になる。音の入り口なので、これは普通に考えられている以上に大きな影響がある(と思う)。MacBook Pro本体(再生時はバッテリーで駆動)、HDD/SSDの電源(外部アナログ電源化)、USBケーブルの選択(長さ、質)、MacからDDC/DACへのUSB給電方法(電源/信号分離)などいろいろと工夫して、何とかしてオーディオ回路へ影響を与えそうなノイズを極小化しようとしてきた。こうした細かなノイズ対策は、やればやるほど「音場が静かになる(見通しが良くなる)」ので、ド素人でもその効果のほどが分かるのだ。それでも、夏は電源系ノイズが侵入しやすいで、夏場の音はどうも気に入らない。

長年Macを使ってiTunes(データ管理)とAudirvana(再生ソフト)という組み合わせで再生してきたが、設定をあれこれいじっているうちに、歳のせいか、うっかりAudirvana側ではなく、いつの間にかiTunes側の再生で聴いていることが時々ある。もっさりしたメリハリのない音なので、今日はノイズがひどいなと思っていると、実はiTunes側で再生していた、という経験が何度かある。それくらい音が違うので、PCオーディオの場合「再生ソフト」の質は非常に重要だ。アナログの音の入り口であるターンテーブル、アーム、カートリッジの質と同じである。当初はMac専用ソフトだったAudirvanaだが、やがて"Plus" へヴァージョンアップし、その後はWinにも対応した。さらに昨年ストリーミングに対応するサブスク型の "Studio" へと変遷してきたが、今年になって、ローカルファイル専用で、かつサブスクではない買い切り型の "Audirvana 本(もと)" を日本専用にリリースして、いわば「先祖返り」した。私が使っているのは、原点とも言える買い切り型の "Audirvana Plus" で、確か当時日本円で7,000円台だったと思う。何でもかんでも「コスパが…」とかいう今の風潮は嫌いだが、それに従えば、オーディオという高額になりがちな趣味の世界で、これほど「コスパの高い」ソフトはないと思う。

山下達郎 「Softly」
「ストリーミング&サブスク」という、主流となりつつある音楽配信市場に関しては、ライヴを再開し、アルバム『Softly』をマルチ・パッケージで発売し、自作品は死ぬまでサブスクのチャネルには載せないと最近コメントした山下達郎のミュージシャンとしての思想に深く共感した。つまり音楽制作者側ではなく、音楽表現行為に一切関わっていない外部のサービス業者が最大の果実を受け取る、というビジネス構造への疑問である。配信は、新譜紹介など、昔のラジオが果たしていた機能をもっと便利にし、完全有料化したものと考えられなくはないが、関心を持った音楽を個人が入手するために、CDやLPなど何らかの音楽パッケージを購入するチャネルは、音楽家を擁する音楽制作・販売会社・レコード店など、別のビジネスだったのだが、デジタル化が根本的にその構造を変えてしまった。現代の配信ビジネスは、ごく限られた数の大資本がサブスクによって顧客を囲い込み、ビジネス全体を一手に支配してしまうのだ(これはDAZNなどスポーツ配信なども同じだ)。

そこには、常に「消費」を促す便利なサービスの介在が利用者の選択肢を狭めるという基本的問題に加え、その音楽を愛するがゆえに「自らの意志で」音楽パッケージ(CD、LP、テープ等)を購入してきた聴き手と、創り手であるミュージシャンとの間に存在してきた「見えない絆」を断ち切ってしまうのではないかという危惧もある。音楽配信は、世界中「いつでもどこでも音楽を垂れ流す」ことによって、音楽のもっとも大きな存在意義だった、個々の音楽家と聴き手を直接結びつけてきた関係を崩壊させ、ひいては音楽そのものの「消費材化」をますます加速することになる――という危惧を本能的に感じている音楽家や音楽ファンも多いのではないかと想像する。いったい音楽とは誰のために、何のために存在しているのか、という根本的疑問である。「個人が選択し、所有する音源」を聴くことの意味を再認識したり、ジャンルに関わらず、リアルな「音楽共有体験」を提供するライヴの場が増えてゆくのは当然だろう。

好きな音楽やミュージシャンを自分の意志で選び、気に入った音源(音楽パッケージ)を自分で探し、対価を払ってそれらを購入し、その音楽を最良と思える音で再生し、味わい、そこに込められた音楽家の意志や思想を聴き取る――という、かつては当たり前に行なっていた音楽を楽しむための一連の作業は、便利だとか速いとかいった実利の尺度とは何の関係もない、今振り返れば実に「ぜいたくな行為」であった(それゆえ「趣味」として成立していたのである)。今やYouTubeでもApple Musicでも、こちらが頼んでもいないのに、AIがお勧めの音楽や曲を「リスト」にして次から次へと勝手に提案してきて、勝手に再生し始め、CMなしにもっと快適に聞きたければ金を払え、と迫る。大きなお世話だ、ほっとけ、自分で選ばせろ、と思いつつも、人間というのは、やがてそのイージーさに慣れると、いつの間にか向こうの提案を口を開けて待っているのが普通の状態になるのだろう(こうして単細胞化がますます進行する)。

それやこれやで、オーディオ的には暑い夏場はあまりやる気が起こらない。昼間のオーディオはほどほどの音で聴き、夜ベッドに寝転んでいるときは、やむなくイヤフォンで聴くしかないので、iPhoneでYouTubeの音楽を聴くことが増えた。そこで山本潤子の楽曲をiPhoneで聴いているうちに、あの美しい声は圧縮音源ではなく、もっといい音で聴いてみたいという欲求が起きてきて、ついでにジャズやJ-POPの手持ちのiTunes の楽曲も、久々にiPhone側に転送してみる気になった。iPod時代は定期的にやっていたのだが、そもそも外出することが減ったし、iPhoneを使うようになってからは、イヤフォンで音楽を聴くこともなくなったからだ。今はAppleがMac/iTunesのサービスを終了してMusicに変わっているが、そもそもの基本機能だった音楽データ管理に使うかぎり、長年使い慣れたiTunesは、音楽ファンにとっては、やはりよく練られた使いやすいソフトなのだ。

iTunesに保存してあるオリジナルデータは、XLDを使って非圧縮のAIFFで手持ちのCDからリッピングしているので当然データ量は大きく(50MB/曲くらい)、そのままだと音は良いが、大した曲数は転送できない(大容量のiPhoneを使えばいいのだが、そこまでやる気はない)。「適度に」圧縮したデータに変換して転送する方法が必要になるが、いろいろ調べたところ、なかなかこれといった参考情報が見つからない。今はみんな、クラウドやストリーミングで、元々圧縮された音源をそのまま聴くのが主流になっているので、昔ながらの「非圧縮データをPCから転送する」といったニーズが少ないからなのだろう。しかし、MP3などの圧縮音源は確かに軽くて便利ではあるが、私見では、やはりスカスカだったり、不自然な音が多いように思う(これは聴く人の「音」への姿勢と感度次第。それとイヤフォン、ヘッドフォンなのか、スピーカーなのか、でも違う)。音楽のジャンルにも依るが、特にJ-POPなど、ポピュラー系の音楽は最初からデジタル加工しすぎて、元々の音がつぶれたようなものが結構多いので、それを圧縮したり2次加工すると、さらに音が劣化するものと推察される(特に80年代など、デジタル化初期のCDなどがひどい。またミニコンポやラジカセ再生が流行した時代のCDもそうだ。同じ時代の楽曲でも、リマスターなど、改善され再発されたCDなどを聴くと、その差がよく分かる)。

外部ソフトを使えば簡単にデータの変換ができることは分かったが、Macは自己完結的に何でもできるように設計されている優秀なコンピュータなので、ド素人なりにさらに調べてみた。その結果、iTunesのAIFFファイルをAACに圧縮変換してMac内に(追加)保存する方法もあるが、元のAIFFデータをiTunesからiPhoneに転送(同期)する時、手動設定でビットレートを任意に決めてAACに圧縮できる方法があることを知った。まあ結局は圧縮なので、音質が劣化するのは仕方がないが、手持ちのファイルから、自分で曲(プレイリスト、アーティスト、アルバム、曲など何でも選択可能)やビットレート(圧縮率)を自由に選択できるところが気に入った。AACの128kbpsだと、やはりスカスカ感があったので256kbpsで転送したところ、イヤフォンならまずまず許容できる音になった(スピーカーではダメだろうが)。この、必要なら自分でデータ圧縮条件を変えて、iPhoneのデータ容量に応じて転送できる、という自由度があるところがいい。それで、よく聴いているジャズやポップスの楽曲を選んでiPhoneに数百曲ほど転送し、夜寝るときにはそれらを聴いて、快適に楽しんでいる。暑い夏は、こういう気楽な聴き方で過ごすのがちょうどいい。しかし快適すぎてそのまま眠ってしまい、イヤフォンのコードが首に巻き付いて、何度か夜中に苦しくて目が覚めたので、仕方なく初の「コードレス・イヤフォン」を入手してみたが、今度は、朝起きると、ベッドのどこかに転がってしまって、見つからない。夏のオーディオはどうやってもやはり面倒くさい。

2022/05/31

さらば「オンキョー」

連休明けの5月13日に、『元JASDAQ上場の音響機器名門、オンキョーホームエンターテイメント(大阪)が破産』というニュース記事をYahooで読んだ。「オンキョー」の不振は以前から聞いていたが、ついに……というべきか。1990年代にオーディオ不況と言われるようになってから四半世紀が過ぎ、オンキョーも21世紀に入って以降、PCやデジタル機器、配信事業など、いろいろ手を打って来たようだが、いかんせん日本の産業構造の問題、世界的競争力の低下、消費者の嗜好変化などに加え、デジタル化による「音楽産業」そのものの急激な変質の結果、一企業の努力ではどうにもならない事業環境上の負荷が重くのしかかってきたのだろう。オーディオ好きという立場だけでなく、個人的にいろんなことを考えさせるニュースだった。

1970年代から80年代にかけての日本のオーディオ全盛期には、サンスイ、パイオニア、トリオ(ケンウッド)という御三家、当時からのハイエンドで今も存続しているアキュフェーズ、ラックスマンに加え、ソニー(Sony)、松下/パナソニック(Technics)、東芝(Aurex)、日立(Lo-D)、三洋(Otto)、三菱(Diatone)、NECという総合電機メーカーも各社独自の「オーディオブランド」を持ち、アンプやスピーカー、レコードプレーヤーを販売するなど、まさに百花繚乱の様相を呈していた。大手企業のブランドは、ソニーとパナソニックの一部機器を除いて消滅し、音楽系のブランドだったTEACはEsoteric、パイオニアはスピーカーのTADと、プロ用や高級機器ブランドを立ち上げて生き残った。「オンキョー」は、ヤマハ、デンオン(現デノン)、ビクター(現JVCケンウッド) という音楽系企業と並んで、派手さはないが、専門技術をベースにした信頼性の高い製品を送り出すオーディオ専業メーカーというイメージがあって、スピーカーやアンプで、いくつも名器を生んできた会社だ。

   ONKYO M6
     1976年頃
個人的にいちばん記憶に残っているオンキョー製品は、1970年代後半に販売された「ONKYO M6」というスピーカーだ。35cm2wayバスレフ型の、当時としても大型のスピーカーで、黒いバッフルとグレーの塗装という、JBLライクな男っぽいデザインが特徴だった。もちろんハイエンドとは違うコンシューマー機器だが、日本オーディオ史に残るほどインパクトのある製品だったし、私にとっても初めて買った大型スピーカーだった。長岡鉄男氏の推薦通り、強力な磁気回路を積んだ大口径・高能率ウーファーのおかげで、日本のスピーカーにありがちな、精緻だが、こじんまりしたところがなく、とにかく豪快かつ伸びやかに、ストレスなく鳴りまくり(出力音圧レベル95dB!)、カートリッジSHURE M44Gを付けたレコードプレーヤーで、ジャズのLPを大音量で聴くと最高だった(今なら近所から苦情必至の音量で聴いていた。あの頃はなぜあんな音量が出せたのか、今考えると不思議だ。近所にはさらに、私とは比較にならないほどの爆音を出している人もいたし……)。

ウーファーから軽々と出て来るウッドベースの低音、チタン振動板とコーンの複合4cmドーム・ツイーターの明るくキラキラした高音がシンバルの音を際立たせて、これぞジャズサウンドと感激していたことを思い出す。好みに応じて3段階にモード切替ができるレベルコントローラーが下部に付いていて、しかも上部に配置されたツイーター部とバスレフポート部が取り外し可能で、簡単に左右入れ替えできるところも「マニアごころ」(まだ初心者だったが)をくすぐった。確か5万円/台くらいだったと思うが(当時のサラリーマン平均給与の約30%)、私はまさにこのスピーカーで「オーディオ」に目覚めたと言っても過言ではく、実に気持ちよくジャズが鳴り、本当に楽しめるスピーカーだった(近所は迷惑だったろうが)。

  ONKYO Integra M506
    パワーアンプ 1979年
当時は日本中で、音楽の楽しさに目覚めた大量の団塊世代がオーディオ機器の購入者となり、サラリーマンになった彼らの給料も右肩上がりで安定していたので、汎用的なオーディオ機器も作ればいくらでも売れ、各メーカーもM6のように特長のある製品作りができた夢のような時代だった。オンキョーもスピーカーに加えて、コンシューマー向け高級セパレートアンプIntegraシリーズなども投入していた。高度成長期を象徴する「いつかはクラウンに……」というトヨタの宣伝文句と同じくステータス的な意味もあったオーディオは、マニア層だけではなく普通の音楽好きも、出世と給料に応じて徐々に高級機器に目を向け、買い替えていた時代だ。SDGsの昨今では考えられない消費行動だが、ただし、憧れの「超」がつく高級製品は、クルマ同様に海外オーディオ製品が中心だった。何事も、これが日本の消費者と市場の特徴であり限界だったとも言える。

  アメリカの巨大スーパー
しかし、その後も経済成長を続けた日本がバブルに浮かれ、CD登場から10年ほど経った今から30年前のアメリカの田舎の「スーパーマーケット」で、日用品売り場の横で音楽CDが雑然と山積みになって、1枚数ドル(10ドル以下)で売られている様子にびっくりした記憶がある(円/ドル=約150時代)。当時日本ではまだCD1枚が2,000円から3,000円という時代で、アナログに対するCDの高音質信仰も生きていたし、都会でも田舎でも「レコード店」で正価でしか売られていなかった(元々アメリカでは、日本ほど「レコード」をあがめる文化はなく、単価も安い。日本市場が高すぎたのだ)。だが今にして思えば、当時のアメリカのこの光景が「音楽産業の未来」を暗示していたのだろう。ネット空間で、台所用品とか日用品といったモノのすぐ隣のページで、CDや、DVDというソフトを安価に売っているAmazonの手法こそ、30年前に私が目撃したスーパーマーケットに象徴される伝統的なアメリカの小売りマーケティングそのものである。ある意味クソみそ一緒に、何もかも大量に陳列して、あとは消費者に自由に選ばせる、というこのアメリカ式のスーパーマーケットは、今や日本でも普通になった。

90年代に本気でデジタル化へ舵を切ったアメリカでは、2001年にハードディスク(HDD)を積んだ小さく軽いAppleの「iPod」が、音楽再生・管理ソフト「iTunes」と共に登場し、メディアとしての音楽テープやディスクを駆逐し始めた。同時に、CDデータをPC/HDDへリッピングして再生するPCオーディオも広まり、続いてMP3など音楽データの圧縮技術が徐々に開発、改良されて、インターネットを通じて購入した音楽データを直接PCへダウンロードできる時代になり、もう音楽メディアとしてのCDを買う必要もなくなった。さらに2007年に登場した「iPhone」は、電話に加えてメール、オーディオ、カメラというマルチ機能を搭載して進化を続け、音楽ソースのディスク・メディアからデータへの移行を加速し、結果的に「音楽情報」の価値の下落を決定的なものにした。そして今や老若男女を問わず「スマホ」で、いくら聴いても見ても「ただ」のYouTubeや、サブスクリプションというインターネット上の有料デジタルサービスを通じて、ストリーミングという名の「グローバル垂れ流し音楽」から簡単に見つかる「好みの曲」だけを、好きなだけ適当に「つまみ食い」しながら、そこそこ音も良くて、安価で軽いワイアレス機器で聴くともなしに聴く……という具合に、この30年間に出現したデジタル社会は、世界中の人間のライフスタイルそのものを完全に変えてしまった。

「音楽」は、もはや特別なものではなく、レコード店を探しまくってやっと手に入れた「貴重なディスク」に格納された芸術作品とも呼べる「愛着のある音楽」や、1枚ごとに深いコンセプトが込められた「アルバム」を、家に鎮座した高音質オーディオシステムで再生して、じっくりと「鑑賞する」ものではなく、いつでもどこでも「好きな曲だけ」選んで気軽に聞ける、日常の娯楽として「消費する」対象になった。ビデオ映像の「倍速視聴」が急増しているように、「映像」分野でもこれは同じで、安価なDVDや、録りためたTV録画、ネット配信で溢れかえる手元の映像情報を消費するのに忙しくて、早送りして、ひたすらストーリーを追うだけで、作品や物語の意味、微妙な細部の表現をいちいち吟味したり鑑賞したりする余裕(興味)がない。異常に音の大きい爆音映画の流行等は、その裏返しだろう。デジタル化によるアニメやゲームの進化も、20世紀に音楽市場を牽引していた若者の娯楽の選択肢を多様化させ、音楽離れに拍車をかけた。

デジタル化による利便性は、「文化」の大衆化と劣化を同時にもたらした。それを加速しているのは、もちろんアメリカ的商業主義だが、加えてあっという間に世界中に普及した、「SNS」という誰でもネット上で「自由にものを言える」コミュニケーション・ツールと、それを提供する新しいビジネスだ。「文芸」という文字芸術の世界でも、ネットやこのSNSの影響で「書くこと」「発信すること」が大衆化し(このブログもそうだが)、音楽や映像世界と似たようなことが起きつつある。爆発的に「増殖」する膨大な文字情報を前にして、時間がない現代人は内容を深く考えるヒマもなく、またそのエネルギーも興味も失せて、とにかく早急にそれらを「消費」しようとして、結果として、さっさと読める「短くて軽い」読み物ばかりがもてはやされている(売れている)。芸術作品の評価は「いいね!」の一言で済まし、メールなどは絵文字1文字だ。要は、高速、高効率のデジタル化によって、あらゆる情報の「断片化」が急激に進行し、20世紀には有機的に統合されているかのように見えていた世界と、それを支えていた、共通の価値観に基づく仮想ヒエラルキーが瓦解しつつあるということなのだろう。だから昔ながらのオーディオという、「再生音楽」に特化し、「微妙な音の違い」を「抽象的に評価」したり、その過程を時間をかけて楽しむ、のんびりとした特殊な世界の意義や価値も薄まり、今後ますます限られた人たちだけの、真にディープな趣味の世界へと向かって行くのだろう(これはこれで面白いのだが)。

こうして、いわば世界的に「文化の総体」が、雑でレベルの低い次元へと均質化してゆき(下方収斂)、世界中の人間の行動や価値観、ニーズも際限なく均質化(単純化、似たり寄ったり)してゆく、何もかも「コスパ」(cost-performance) 優先の消費市場では、日本的モノ作りが得意としてきた、価格(コスト)は高いが、「一つで何でもできます」「細部の洗練度が違います」「分かる人には分かります」的、すなわち「ガラパゴス的」進化を遂げて獲得した微妙な品質上の有意差だけでは、もはや勝負にならない。国内市場でそれを享受し、自慢とさえ思ってきた日本人も、この30年でどんどん貧乏になって(団塊は年金生活者へ、中堅層は給料が上がらず、若者は仕事そのものがない)、その優位性を付加価値として甘受する経済的余裕がなくなった。

際限なく続く日本企業の世界市場における存在感の低下、身の回りから「Made in Japan」がどんどん消えて行く薄ら寒さ、その流れを食い止めたり、対抗すべき未来の国家や産業ヴィジョンが見当たらない不安、等々――GAFAのような巨大ビジネスや低コスト品しか生き残れない時代になった今、「オンキョーの破産」は、往年のオーディオファンにとっては寂しいニュースだが、残念ながら、過去30年間の日本のデジタル敗戦のツケが、ますます顕在化しつつあることを示しているだけであり、「ゲームチェンジした世界」の敗者を象徴する一例にすぎないとも言える。

2021/04/30

Macオーディオを再構築する(6)

読売新聞販売店がマック(ハンバーガーの方)の宅配に乗り出す、というニュースを読んでびっくりした(マック側も再構築か)。大昔は蕎麦屋か寿司屋と相場が決まっていた「出前」が、何から何まで可能になった世界など30年前には誰も予想していなかっただろう。そのうちドローン宅配でも実用化したら、もうSF世界だ。外に出られないコロナ禍はその流れを確実に加速した。読書も、最近は「本の出前」元祖のamazonばかりで街の書店になかなか足が向かなかったが、先日気分転換に久々に出かけてみた。様々な色やサイズの本が棚にずらりと並んだ書店は見た目もやはり壮観で、広がるインクの匂いと共に、昔から書店や図書館に行くといつも感じた胸がわくわくしてくるような不思議な高揚感を久しぶりに味わった。その昔、アナログレコード店に通ったときと同じで、空から降って来る見えないデータではなく、目に見える「形とイメージ」を持つ情報を並べた書店には、ネット空間にはない捨てがたい「実物」の魅力がある。

その書店の雑誌売り場で気づいたのは、オーディオ雑誌や関連記事に、どことなくある種の活気を感じたことだ。かれこれ5,6年はまったくオーディオ系の雑誌類を読んでこなかったので、浦島太郎状態にあるのは間違いないが、しばらく前に書店を覗いたときの、一言で言えばあからさまな「衰退」といった印象とは違うようだ。若い人も巻き込んだアナログオーディオの復活ブームが後押ししていることは確かだろうが、電磁式ではない「光電式」カートリッジとか、単なるレトロ趣味だけではなくアナログ界にも新技術が登場していて驚いた。そういえば、寺垣式アナログプレーヤーとか、レーザーでLPレコードの溝を読み取る方式など、新発想のアナログ関連機器が昔から開発、製品化されてきたことを思い出した。

そもそも趣味のオーディオとは、「ハイエンド」と称される高級機器によるジャズやクラシックの「究極のアコースティック・サウンド再生」という、金に糸目を付けない富裕層の道楽が始まりだ。オーディオ思想的には、大きく分けて、あくまで原音を再現することにこだわる「原音追及」派と、ヨーロッパに見られるような、再生するサウンドの質にこだわる「高品位再生音追及」派という二つのコンセプトがあった。CDがアナログをほぼ置き換えた90年代に発表された「寺垣式プレーヤー」開発の歴史と経緯を追った『アナログを蘇らせた男』(1992年講談社/森谷正規著)という本を昔読んで感動した記憶があるが(今は文庫化されているようだ)、寺垣武氏(1924-2017) が開発したΣ3000 アナログプレーヤーは前者の思想から生まれたものだ。そのためには、音源情報を最大限レコード盤から取り出すための技術がもっとも重要であるという発想から、レコードプレーヤーのメカニズムを徹底的に検証、分析して妥協せずに開発したという、まさに日本の伝統工芸職人のような技術者魂を示す典型的事例だ。SACD開発もそうだが、こうした趣味と感性の世界における機器開発のコンセプトにも、富裕層をターゲットにした、西洋流のほどほどの合理性と芸術性優先思想と、完璧を目指して理論を突き詰める、あくまでストイックな日本流技術思想という両者の性格がよく表れている。アンプやスピーカー等他の機器も含めて、この西洋流/日本流思想は、再生音の違いにもよく表れている。

そうした富裕層の娯楽が、経済発展に伴い、1970年代頃から一般庶民層にも徐々に普及してきたのが日本におけるオーディオの歴史だ。だから昔からハイエンド路線(「Stereo Sound」誌&菅野沖彦流)と、自作を含めた低コスト路線(「Stereo」誌&長岡鉄男流)という両極の楽しみ方があった。そのどちらの層にもファンがいたが、1980年代のCD&バブル時代以降になると、誰でも使える便利で安価なCDプレーヤーの登場で、オーディオとは無縁だった一般層へのミニコンポ、ラジカセの普及が急速に進んだ。一方で、趣味のオーディオファン層ではハイエンド志向が相対的に強まり、高額商品化が進み、その流れが'00年代まで続いた(私もその過程であれこれと散財した)。しかし庶民の趣味としてのオーディオの楽しみとは、高級機器を組み合わせて音作りをすることだけではなく、自分で工夫を重ねて得られる「微細な音の変化」を感知し、聴き比べる過程にこそある、とバブル後になってからやっと悟り、それまでの散財がアホらしくなった私は、'00年代に入ってからもSACDやハイレゾなど、相変わらず新技術・高価格化路線を続けるオーディオからは足を洗って、素人にも工夫する楽しみの余地がまだ残されていた「未開のPCオーディオ」の世界へと向かったのだ。

AirMac Express
そのPCオーディオに火を着けた在野のパイオニアは、CDプレーヤーによる再生技術が持つ潜在的問題を指摘し、またバブル以降ハイエンド志向の流れを作り、オーディオファン層に対し高額な商品ばかり販売しようと煽っていたオーディオ業界を、「ボッタクリ」、「ゾンビ」などと’00年代初めからネット上で激しく批判していたプロケーブル社だ。CDP本体を買い替える以外に素人には遊ぶ要素がなくなって、代わりにン十万円/mという、機器より高額な電源ケーブルや接続ケーブルが人気になっていた90年代から'00年代は、まさにオカルトと言われても当然の時代だった。何をやっても音が変わるのがオーディオなので、合理的判断をする根拠も境界線もよく見えず、キリがない世界だからだ。プロケーブルは、リーズナブルな価格のプロ用ケーブル(音響の専門家が、業務用に使用するような常識的価格の電線)の販売を中心に、CDPではなくPC(Mac)と、登場間もないiTunesと、Mac版無線LAN機でありDAC機能を持った「AirMac Express (AME)」を使った、素人でもCDP以上の高音質を楽しめる、まったく新しい(有線/無線)ネットワーク・オーディオシステムを、ウェブ上で全国のオーディオマニアも巻き込みながら草の根で提唱していた。これが実に面白く新鮮で、CDPオーディオに面白みを感じなくなっていた私はすぐにその世界にはまり、その延長線でずっとMacオーディオで遊んできたのだ。以来同社を見てきたが、宣伝文言に多少のクセと偏向(?)はあるものの、プロケーブルの提案と価格相応の製品は基本的には信頼している(今はAmazonでも楽天でも買えるようになった)。

アナログ音源のSP盤からLP盤へ移行したのが1950年前後であり、デジタル音源ディスクであるCDが日本で登場したのが1982年、PCオーディオの開発段階を経て、CDに代わってダウンロード音源データ入手が本格化したのが2010年代と、オーディオは約30年周期で新しい技術とメディアが登場して世代交代してきた。そして通信技術のさらなる進化によって、今はストリーミングによるウェブ配信が主流になりつつあるので、続く20年間は世界的にストリーミング/サブスクが音源の主役の時代になるのだろう。とにかく火の使用以来「便利さ」を求めて人類は発展してきたわけで、一度便利さを味わうと、もう元には戻れないので、こうした変革はキリもなく続くだろう。同時にアナログ・リヴァイバルに見られるように、失われた過去の技術や音源への郷愁を背景にした旧メディア回帰現象も、今後も繰り返されることだろう。便利さを追求しながらも、一方でそれも人間の習性だからだ。

長年のオーディオ歴で学んだ教訓の一つが(95%の普通の人にはまったく関係ない話だが)、個人の趣味としてのオーディオの目的、醍醐味とは結局のところ、昔言われていたような「理想とする音の追及、実現」などではなく、単に「音の違いを聴き比べて楽しむこと」にある、ということだ(あくまで個人の感想です)。どんなジャンルの「趣味」(要はオタクの遊びの世界である)であっても、その究極の醍醐味は、「対象の微細な違いや変化」を感知して一喜一憂することにあり、誰にでも分かるような差異に気づいたところで趣味としての面白みはない。ケーブル一本の違いで音が変わるはずがないとか、デジタルで伝送しているデータを基に再生した音に違いがあるはずがないとか、オーディオ全体をオカルト扱いしていた人たちも過去にはいたが、「何をやっても音が変化する」というのはオーディオ好きなら誰もが当たり前に経験することであり、それはそういう音響への興味と感受性を持っている種類の人間だということで、そこから個人の趣味としてのオーディオがスタートするのである。そこに「面白み」を感じない人は、この世界には縁がないということだろう。どんなにメディア側が変化しようと、そこは同じだ。

イヤフォンやヘッドフォンは別として、スピーカーによるオーディオの再生音(サウンド)は「耳(聴覚)」だけで聞いていると思いがちだが、実はそうではなく、全身(五感)で聴いている。ステレオ装置で音楽を聴くときは、視覚(上下左右前後の音像定位感)、触覚(音圧、音の肌触り)など、実際にはあらゆる感覚を動員しながらサウンドを全身で受け止めている。音楽ライヴを楽しむときはまさにそれだが、オーディオでは実像は見えなくとも、「想像力」を働かせて同じことを疑似体験しているのである。早い話が、二日酔いとか体調が悪いとき、気分が良くないときは、感覚が鈍っているので聞こえるオーディオの音も良くないものだ。身体面もメンタル面も、両方とも音の聞こえ方に大いに影響する。昔「オーディオ体型論」なる仮説を思いついたことがある(2017年6月ブログ記事ご参照)。音量や音の高低とか、音の物理的特性の違いに対する感覚的反応とは別に、聴く人間の体型(筋肉質、やせ型、肥満型等)によって「好みの音」は違うのではないか。耳から入る音の情報は、耳だけで処理しているわけではなく、音が空気を震わせて感じさせる骨伝導や、身体の脂肪や筋肉の付き具合で、音の全身への物理的伝達に個人差があり、「脳」がそれを感知して「快適だ」と感じさせる音(情報)は、実は人によって微妙な違いがあるのではなかろうか、という仮説である。

要するに(当たり前のことだが)原音再生など、昔のオーディオマニアが夢想していた一定不変の理想の音など、どこにも存在しない蜃気楼みたいなものではないか、ということである。音が良い、悪い、良くなる、悪くなる、思い込み、プラシーボ…云々という昔ながらのオーディオ議論はまさにこれだろう。アナログもデジタルも、何をやっても少しでも条件が変われば出て来る音が微妙に変化する、というのはオーディオ好きの多くの人間が実際に経験してきた疑いのない真実である。しかし、それが良くなったのか、悪くなったのか、万人が納得できる客観的な説明など誰にもできない。それを聴く本人が判断すべきことだ。だからこその趣味なのである(とはいえ大前提として、ライヴも含めて自分の好きな音楽を、良い音で、できるだけたくさん聴く体験をして、自分なりの判断基準を持つことは必須条件だろう)。

自宅敷地に「方舟」(はこぶね)というオーディオ上の音響的工夫を取り入れた巨大な視聴室を自分で設計して建設し、汎用パーツを使った低コスト自作SPをリファレンスにして、できる限り客観的な評価基準を導入して比較実験しながらオーディオの世界を追求し、しかもオーディオという趣味を語って哲学を感じさせた長岡鉄男氏こそ本物のオーディオ評論家だったと今でも思っている。音源としてのジャズと共に長年そのオーディオを趣味として楽しんできて、(確かに散財もしたが)楽しく面白い時間も過ごしてきた。昔と比べて、今はどれくらいオーディオを楽しんでいる人がいるのか皆目見当もつかないが、アナログオーディオの復活と同時に、CDP、PC、ネットワーク、ダウンロード、ストリーミング等、ツールとソースの多様化で趣味としての裾野が大きく広がっていることは間違いないだろう。昔、長岡さんが、高額機器ばかりに向かわないで「分相応に楽しめ」と言っていたが、まさにその通りだと思う。今は何でもかんでもカネ、という究極の資本主義世界になってしまったが、金がないと楽しめないような趣味ではつまらない。誰もがライヴ音楽を自由に聴けるという選択肢の広い時代だからこそ、個人が工夫して自分だけの音を作るオーディオもまた楽しいのだ。PCや周辺デバイスの選択、その組み合わせを自由に変えて実験したり、それらを自分で組み立てたりして、持てる知恵と想像力を駆使して、安価に軽やかに音で遊ぶ現代の若いオーディオファンがもっと増えるといいと思う。

ところで、今回のMac周辺デバイス再構築後の再生音比較は、しばらくの間試行してみて、いずれ機会があればレビューしてみたい。もちろん蘊蓄だけは立派だが、年季の入った駄耳で聞き分けられれば……という前提なので、まったく差はない(聞き分けられない→よく分からない)ということも十分あり得るので、そこはあらかじめご了承いただきたい。

2021/04/17

Macオーディオを再構築する(5)

振り返ってみると、ジャズに熱中していた1970年代の終わり頃、オーディオ誌で知ったスピーカーケーブルの違い(長さ、太さ、材質、構造等)による音の変化が、私の「オーディオ遍歴」の始まりだった。同じLPレコードから再生される音の「違い」があまりに面白くて、それ以降はアンプやスピーカー等の単体オーディオ機器購入の他に、スピーカーの自作、電源コンセント/タップ/ケーブル、接続ケーブル類、レコードプレーヤーの改造、ブチルゴム制振による諸々インシュレーターの自作等…と、ありとあらゆるオーディオ小細工(我が家では "Kozaiking" と呼ぶ)を趣味でやってきた(何をやったのかもう覚えていない…)。今になってみるとバカバカしいこともやったが、昔はオーディオマニアの聖地だった秋葉原へ材料を買いに出かけたりして、素人でも自分で工夫できるところと、その結果実際に音が変化する過程がとにかく面白かった。現在、音の入り口であるMac周辺でやっていることは、私にとっては昔のKozaikingと同じことなのだ。

アナログ系もジャズ中心にCDと同じ程度の枚数のLPがあるので(CDと同じタイトルが多い)、ターンテーブルや足元、カートリッジ(シェル、リード線)とアーム周辺を改造したレコードプレーヤーKENWOOD KP9010 (30年ほど前の製品)が今も現役で稼働している。アナログはメカさえ壊れなければ、こうして長い間楽しめるところも良い。それとこの機種はオート・アームリフターがあって、居眠りしていても(しょっちゅうある)片面再生が終わるとアームが自動的に上がるので、針もレコードも痛めないところが老年モノグサ者的には高ポイントだ。カートリッジ、フォノイコ、昇圧トランスなどで長年遊んでいたが、私の「腕」では、現状どうやってもMacシステム側の方が音の良いケースが多く、何よりも、とにかく便利なので最近はほとんどMac側で聴いている。LPやCD時代、苦労してカセットテープやCDRに録音編集していた自分だけの「コンピレーション」(好きな演奏・曲集)も、iTunesでは「プレイリスト」として、いとも簡単に作れるなど、昔を思えばまるで夢のような使い勝手だ。

定年退職を機に、これで「あがり」として揃えたのがMacを入り口にした以下のシステムで、これらを人生最後のオーディオと決めている(向こうが壊れるのが先か、こっちが死ぬのが先か…)。DAC以降をこのラインアップに決めてからかれこれ7,8年になり、その間何もいじっていない。昔のオーディオ感覚だと中級クラス(?)のシステムということになるのだろうが、我ながら「分相応の」システムに落ち着いたような気がする。
  • DDC--(spdif)--DAC/PS Audio Nuwave--(XRL/belden88760)--PreAmp/PRIMARE PRE30--(XRL/belden88760)--PowerAmp/PRIMARE A33.2--(SPcable/cardas-crosslink)--Speaker/TAD PRO TSM-2201+PT-R4 
  • (xxxx) は接続ケーブル。接続ケーブルはあれこれ混在させると訳がわからなくなる。昔はその変化も楽しんでいたが、きりがなく、今はもう面倒くさいので、常用ケーブル類はシンプルなワンブランドに決め、Mac周辺USBケーブルはunibrainに、バランスケーブルはbelden88760というプロケーブル推薦品に統一した。いずれも余計な響きのない信頼できるケーブルだ。
15年ほど前にCDPからPC再生へ移行した後、単体DACも何台か換えたが、当時はまだ輸入品中心のデジタルくさく硬い音が多かった。大型の電源トランスを積んだPS Audio/Nuwave DACの、アナログライクで柔らかでいながら力強い音が気に入って、以来ずっと使っている。アンプも国産、輸入品など思い出せないくらいいろいろ換えたが、PRIMAREは特にPRE30の北欧らしいシンプルなデザインが気に入って、パワーアンプのA33.2と共に購入した。オーディオ機器はデザインも非常に重要だと思うが、このコンビはデザイン同様に音も端正でまったく不満がない。それとPRE30は、大昔の音質優先アンプと違って入力や音量をリモコンで変えられるので、椅子に座って聴きながら、iPhone/iTunes Remoteを併用して、曲も音量も瞬時に切り変えられるところも快適だ(生来が横着者なので、便利さには勝てない)。元々、豊潤なゆったりとした音よりも、端正で、かつ力(芯)のある音、スピード感のある音(硬い音ではない)が好みなので今のこの組み合わせには満足している。

「オーディオとはスピーカー、それも大型スピーカーを鳴らすことだ」と長年にわたって思い込んできた(B&W、JBL、Monitor Audio…と何台大型スピーカーを換えたことか…)。それに、エレクトロニクスの進化に依存し、変化の激しい入力側や最近のアンプ類と違って、スピーカーは発音の原理も素材も、昔から基本的にはほとんど変わっていない唯一の機器なので、古いから音質的に劣る、あるいはハイレゾは再生できないとかいうことはもちろんない(SACDもハイレゾも、いわば究極のアナログサウンドをデジタルで再現する技術だと思うので)。最終的にスピーカーから出て来る音の質や個性こそが、やはりオーディオの楽しみの原点であり醍醐味だと思う。ただし今は常識だが、大型はもちろんのこと、たとえ小型でも、スピーカーとはパワーをぶち込んで音量を上げないと本来の「実力」を発揮しないものだと経験上も知った。中途半端な音量では本来の音質や能力は分からないのだ。

そして「スピーカー(SP)を鳴らす」とは結局のところ「部屋を鳴らす」ことと同義で、部屋の空間ボリューム、音響特性などの要素が音の聞こえ方のほとんどを決める(大きなSPを気持ち良く鳴らすには、当然だが大きな容量の部屋が必要だ)。SPの音を聴いていると思っているが、実は部屋固有の周波数特性等のクセも込みの音を聴いているのである。普通はSPの置き方や部屋の工夫等でサウンド(響き)を調整するわけだが、古来オーディオの達人とは、これを自分の聴覚で精密に聞き取り、機器選択やセッティングを最適な状態(もちろん自分好みの)に調整できる人たちのことだ(私の駄耳では到底無理だ…)。私の場合、せいぜいテスト音源を使って、左右SPのチャンネルバランスと、正相・逆相による音のフォーカスチェックを定期的にやっているくらいだ。逆相によるチェックとSPセッティング<位置、角度等>は、素人にもできる有効な方法だと思う。

しかし存分にスピーカーの音量を上げられるオーディオ誌とかショップの視聴室や、一部のジャズ喫茶は、やはり異次元の世界だ。大らかだった昔とちがって、隣近所に異常に気をつかう現代日本の都市部の普通の住宅では、それは不可能なことであり、実現するには大金持ちになって専用のオーディオ・ルームでも作るか、あるいはキツネやタヌキしかいないような田舎のポツンと一軒家にでも住むしかないだろう(だがそこで、電気増幅した大きな音をわざわざ聴きたいか、という疑問はある…)。結局、現代の都会や市中で暮らして理想的な部屋を持てないなら、部屋にオーディオ側を合わせるしかないと考えるに至って、モノとしての存在感が大きく、場所をとる大型SPではなく、リビングなど「普通の部屋」で、大音量でなくとも、ある程度近接して楽しめそうなニアフィールド系の機器と聴き方にやっと開眼したのが10年近く前だ。元祖は江川三郎氏なのだろうが、これはいわば盆栽オーディオとも言え、迫力には欠けるが繊細で精密なサウンドを楽しむ、年齢相応の枯れた聴き方とも言えるだろう。ただし私の場合、机の上に置くような小さなシステム(ミニ盆栽)ではない。もちろんヘッドフォンも一つの選択肢だが、携帯音楽は別として、やはり家の中で座って耳を塞いで音楽を聴きたくはないので…。

TAD PRO TSM-2201
+PT-R4

そうこうして辿り着いたのが、TAD PRO TSM-2201というユニークな形状の小型モニターSPで、しかもTADにしてはずいぶんと安価なスピーカーだったが、あまり売れなかったらしい。日本のオーディオ好きは嗜好が保守的なので、たぶんデザインが理由なのだろう(私は好きだが)。ユニットも含めて決して安っぽくはなく、角にはR処理を施しているし、しかも小さく軽く扱いやすい(歳をとると、何事も軽くて扱いやすいモノが良い。確かに音は良いが、少し動かすのもひと苦労の重い大型SPにはもう懲りた)。密閉型なので音にクセがなく、入力に対して非常にリニアに反応し、音のバランスが良くて、パワーを入れても音の造形が崩れない優秀なスピーカーだと思う。足元を固めてやると、中低音にスピード感のある非常に気持ちの良い鳴り方をする。だがモニター系なので、正確だが余計な響きがないリアルな音質で(あっさりして愛想のない音とも言える)、そこが好みの分かれるところだろう。しかも密閉型20cmウーファーなので、低音域が薄過ぎると感じる人もいるだろうし、大編成オケとかの再生はやはり得意とは言えないだろうが、小編成のジャズのように個々の楽器の音をクリアに再生したいという聴き方には合っているし、特にヴォーカルの自然な表現は気に入っている。

低域改善のためにサブウーファーも試してみたが、バランス的に好みではないので、今はAudirvanaのグライコで多少低域を持ち上げて補っている。今回長さが気になっていたスピーカーケーブル(cardas-crosslink 4芯)を久々にカットしていくらか短縮してみたら、やはり多少低域のバランスが変わった(これは、あまりハマるとキリがないので、ほどほどにしておく)。上に乗せているリボンツイーターPT-R4は飾りみたいなものだが、TADと同じパイオニア製なのでデザイン的にも違和感がなく一体化しているし(と自分では思う…)、自作SP台の上にKriptonのボードを置き、Taocのインシュレーターを挟んだ見た目が小型ロボットのようで、これも私的には気に入っている。音も前述したようなPC側入力の改善策(?)による変化を毎回きちんと表現してくれるので、当分は(死ぬまで)このシステムで行きたい。どうせ高音はますます聞こえなくなるし、耳鳴りはするわで、実はもうスピーカーの音質を云々するほどの肉体的条件が整っていないし…。(続く)

2021/03/30

Macオーディオを再構築する(4)

もうすぐ6年になるハードディスク(HDD)2代目LaCie (3TB) の作動音が、最近さすがにシャーシャーとうるさくなってきたこともあって、壊れる前にストレージの新規導入を検討した。近年TV録画などHDD の映像系需要が激増したおかげで、当然ながら生産・供給量も増え、TBクラスの大容量HDDが昔からは想像もできないほど安価になった。データ量あたりの単価からすると、感覚的には1/5から1/10くらいになったほどで、今は代わりにSSDが昔のHDD価格帯に相当するのだろう。そのSSDも最近になってやっと低価格化してきたので、この際だからと、LaCieに代わる新HDDと、ついでにSSDをバックアップと音質比較を兼ねて導入することにした。

Glyph Atom SSD1TB

HDDは音質の観点から、LaCie用に使っていたエーワイ電子製アナログ電源(12V/3A) を継続使用する前提なので、バスパワーでも電源内蔵タイプでもなく、交換可能なACアダプター付きを対象にした。長時間連続再生しながら音を集中して聴く、というオーディオ用HDD使用法だと、耐久性と静音性がもっとも重要だ。調べたら、今のHDD単体の世界市場は、ほとんどWestern Digital (WD) とSeagateの2社の寡占状態らしいので、もう性能的にはどのブランドでも大差ないだろう。そこで最終製品としての信頼性を優先して、現在使用しているI/O製HDDと同じWD/Redを搭載し、かつ日本国内製造のLogitec社のHDD(2TB)を選択した。外付けSSDは、まだ割高だがプロ・オーディオ分野で信頼性の高い米国GlyphのAtom SSD (1TB) という小さなmobile SSDにした。当面I/OとLogitecのHDD2台を常用/比較しながら、GlyphはバックアップとHDD/SSD音質比較用、あるいはいずれ気が向けばハイレゾ専用として使用という計画だ。

この際なので(またも)、MacOSも古いSierraから、まだiTunesが残っている最後のOSX10.14 Mojaveにアップグレードした(これはスムースに移行)。初期から使ってきた再生ソフトAudirvanaは、Win対応にもなったロゴの違う ”新Audirvana" も導入済みだが、以前から使い慣れたUIのMac専用 "Audirvana Plus" をまだ使い続けている(Plusも新Audirvanaも性能面は同等で、名前を統一しただけだ、と同社FAQには書いてある)。AudirvanaにiTunesの楽曲データごと完全移管する案も考えたが、やっとiTunesのデータを整理したばかりなので、iTunesと連動するintegrated modeで使い続けている。いずれその気になってハイレゾを始めたら、ハイレゾファイルのみ、Audirvanaのライブラリーとして別管理することも計画している。

Pioneer BDR-X12JBK
あれやこれやと考えているうちに(こういう時間が実はいちばん楽しい)、ふと浮かんだ疑問が、PCオーディオを始めた初期(2008年以降)のリッピング・データと、最新ドライブ装置とソフトで読み込んだデータを比較した場合、再生音に差があるものか、ということだった(どうでもいい人には、どうでもいいような比較である)。初期のころは、「80年代から買い集めたCD」を「MacBook内蔵ドライブ」で「iTunesで直接AIFFでリッピング(エラー訂正あり)」し、外部HDDに格納、それを「iTunesで再生」していたわけだが、よく考えたら現在保有しているデータのたぶん半分以上は、この時代の音源なのだ。当時はとにかく便利だし、並みのCDプレイヤーよりはよほど音が良いということで満足していたが、まずはデジタル音楽黎明期だったCD音源そのものの質、MacBook内蔵ドライブの性能、iTunesのリッピング能力等からみたら、デジタル技術的には格段に進化しているはずだ。その後、確か2013年ころからiTunesではなく、XLD (X Lossless Decoder) というリッピングソフトを使って読み込むようになり、さらに2016年からはI/O データの普通の外付けDVDドライブを使ってきたので、それらの違いにも興味がわく(きりがない……)。そういうわけで、この際だからと(またも)信頼できるリッピング専用機を導入してみようと、さらにオーディオの虫が動いた。いろいろ調べて、Pure Readという精密なリッピング機能を持つPioneerのBlu-rayドライブBDR-X12JBKを購入した。

そんなことで、久々のオーディオ投資で常用外部ストレージが、I/O (3TB)、Logitec (2TB)、Glyph (1TB)と、3台になったわけである。しかし私のMBP (Early2015) は、USB3.0が2箇所しかなく、一つはHDD、もう一つは再生時にはDDC/DAC、リッピング時はDVDドライブにそれぞれつないでいる。最新のThunderbolt3、USB-C端子はなく、その代わり、接続できる機器もほとんどなく、今や無用の長物化しているThundebolt2端子が2箇所遊んでいる(Thunderbolt3とは端子形状が違う)。リッピング装置/ソフトやHDD/SSD間のオーディオ的聴き比べ(遊び)には、間を置かず切り替え試聴ができた方が楽しい。そうなると、少なくともMBPとストレージ2台の同時接続が望ましいが、ノイズ対策のために今はMBPをバッテリー駆動で再生していることもあって、内部分岐し接点の多いUSBハブはできれば使いたくないので(理論的根拠はない)、このThunderbolt2端子の活用策を考えた。

Thunderbolt Single Port 
USB3.0 Dongle
いろいろ調べた結果、Thunderbolt (1&2)/USB3.0変換コネクターというものをたった1種類ネットで見つけた(台湾のLintesという会社の製品で、結構高価だが、他に選択肢がないので。信頼性は分からないが試してみる)。これで、既存USB端子を加えて最低でも2台のHDDないしSSDを同時にUSB結線できるので、聴き比べも楽になる(Thundebolt2端子はもう一つあるが、当面2台でいいだろうということで)。Thundebolt2の速度は、spec上はUSB3.0よりは速いが、最低でもUSB3.0並みになるはずだ。しかしHDD vs SSDもそうだが、データ読み取り、伝送の「速度」とオーディオ的「音質」の関係は、いまいちよく分からない。速ければ速いほど本当に音も良いのだろうか? そうなら、なぜ良いのか、理論的根拠も知りたいが、オーディオは昔からそのあたりが曖昧で、そこがまた面白いところでもある。そのへんは実際に聴いて比べてみたい。

Bus-Power Pro
さらにあれこれと考えているうちに、以前DDC/Hi-Face Proにセットで使っていたオーロラサウンドのUSB電源供給機Bus-Power Proがあったことを思いだした(今はPro2という新バージョンになっている)。Hi-Face自体は旧ドライバーが新MacOSに非対応で使用できなかったので、相棒の存在を忘れていたのだが、これを現在バスパワー/DDCとして使用中のiFi nano iONEにかませたらどうなるかと思って試しに繋いでみたら(USB2.0接続になるが)、MBPのMIDI設定でも問題なくDDCを認識した。出てきた音を聴いてみたが、iFiはかなりノイズ対策をしている機器のはずだが、それでもMacバスパワーに換えてトランス式ACアダプター電源による補助電力を供給してみると、明らかに音の厚みとクリアさが増すので、やはりPCとバスパワー接続したUSB機器のノイズ対策には効果があるようだ。オーディオは、アナログだろうとデジタルだろうと、やはりノイズ制御が肝要なのだとあらためて納得。以前からアナログアンプ類とDACはアイソレーション・トランス経由で給電しているし、上記HDDのLaCieもエルサウンドのアナログ電源経由で使用してきた。ACバックグラウンド・ノイズが減ると、とにかくステレオ音場が静かになって広がり、再生音の滲みが減って音像の実体感が増すことを経験しているので、PCとUSB機器間も同じことなのだろう。Mac/Bus-Power Pro間をデータ専用USBケーブルで結線して電力供給を完全に断てば、さらに効果的と思われる。いずれUSBバスパワーのGlyph SSDでも分離給電を試してみたいと思う。

究極の電源対策は、マイ電柱や200V電源でACノイズをシャットアウトすることだろうが、残念ながら集合住宅ではそうもいかない。あのホンダが開発し、ついに市場投入した商用電源ノイズ対策機器であるオーディオ用バッテリー「LiB-AID E500 for Music」 にも興味が湧くが、電力消費の少ないオーディオ上流部分への適用なら、大きなノイズ削減効果が見込めそうだ。しかしACノイズフリーを目的に、再生時にはバッテリー駆動しているMBPのようなノートPC本体も、HDDやSSD自体も、それ自体がノイズ発生源なので、デジタル機器のノイズ問題はキリがない。ただし、何らかの対策や工夫をすればするほど「音場」が静かになり、透明度が増し、音がくっきりと聞こえてくる(ように感じる)ことも事実だ。
Mac改編接続フロー
というわけで、左記チャートに示すような改編接続フローがとりあえず完成した。 iTunesライブラリーの整理整頓は予想以上に大変で、素人には頭が痛くなるような作業だったが、こちらもどうにかこうにか完了した。ファイル階層の見た目もスッキリし、(!)マーク の出る楽曲や重複データなども可能なかぎりつぶした(まだ時々出るが)。そのiTunesの「修正版ライブラリー/音源データ」を、3つのストレージそれぞれに置くことにした。3種類のストレージは、Glyph SSD(バスパワー)、I/O HDD(電源内蔵)、Logitec HDD(外部アナログ電源)と電源供給のタイプもそれぞれ異なる。これでデータの相互バックアップができ、3つもあれば万が一どれか1台がクラッシュしたときも安心だ。

聴くときにiTunesのoptionコマンドでストレージ/ライブラリーを選択すれば、同じ曲のストレージ別即時聴き比べも可能になる(はずだ)。過去の音源と新たにリッピングした音源の差、新たにリッピングする同一曲のストレージ別の音の差はもちろん、HDD/SSDの違い、Thunderbolt2 / USB3.0経由の音とUSBダイレクトの音の違いなど、聴き比べで遊べる組合わせはたくさんありそうだ……そんなに聴き比べてどうする?(笑)という疑問を持つ向きもあろうが、これぞオーディオの楽しみの本質なのである。(続く)

2021/03/13

Macオーディオを再構築する(3)

2018年夏に、オーディオ専用PCとして10年近く使ったMacBookからMacBook Pro (MBP) に入れ換え、音の入り口周辺のデバイスを再構築してから早くも2年半が過ぎた。出てきた音が気に入ったので、その間オーディオ的には何もせず、ひたすら翻訳しながら好きなジャズを聴いて楽しむ、という平穏な(?)日々を過ごしてきた。しかし、いかに満足していても、決して一箇所に長い間留まっていられず、常にどこかしら手を加えて音の変化を知りたい、とつい考えてしまうのがオーディオ好きの哀しい性(さが)だ。昨年10月末に『スティーヴ・レイシーとの対話』がやっと出版され、一息入れたこともあって、久しくおとなしかった「オーディオの虫」がそぞろ動き始めた。

とはいえ、DAC以降の機器に現状大きな不満はないので(持たないようにしている)、畢竟その対象はMacをベースにした音の入り口部分になる。アンプやスピーカーはアナログでもデジタル時代でも基本は一緒であり、また一般的にどうしても高額になるので、普通はそう頻繁には換えられないが、音の入り口は機器をあれこれ変化させて楽しめる。CDプレーヤー時代は電源周りとか、ケーブル類をいじるか、あるいはCDプレーヤー本体を交換するくらいしか素人にはほとんど遊びようがなく、オーディオ的には実につまらない時代だった(しかも結局やたらと高額化し、金満オーディオへと向かった)。それがPC時代になると、アナログLP時代にレコードプレーヤー周りで、素人でもターンテーブル、アーム、カートリッジ、配線、MCトランス、フォノイコ等の違いや、手を加えて音の変化を楽しめたのと同じ感覚で、しかも比較的安価に、PC周りのデバイスを変化させて楽しめるようになった。そこで昨年末、コロナ禍でずっとインドア生活を強いられていたこともあって、まず大元の音源管理から手を付けようと、前から乱雑ぶりが気になっていた「iTunesライブラリー」をこの際大掃除して、整理してみようかと思い立ったのが運のつき(?)だった。

2001年にAppleから発表されたiTunesは、音楽ファンにとってはソニーのカセットウォークマン以来の革命的な音楽ガジェットだった。CDリッピングによる音源データと再生ソフトウェアは音楽メディアの概念を変え、軽く小さなiPodという再生機器との組み合わせで、どこへでも手軽に音楽を持ち歩けるという素晴らしいデジタル・アイテムだった。さらにiTunesの優れた点は、ディスク・メディアから解放された音楽再生だけではなく、Macと組み合わせて手持ちの音源情報を整理、管理、応用するデータベースにもなり、自分専用コンピであるプレイリスト作成や、好きな曲を聴きたいときに自由に選んですぐに聴けるという、音楽ファンが夢に見ていた機能のほとんどを現実のものにしてくれたところだ。しかしその後、マルチメディア化の流れでヴィジュアル情報も対象にする、ネットにもつながる、Windowsも対象にする、などあれもこれもと欲張って複雑化、肥大化の一途をたどった結果、初期Ver.10時代までの「シンプルで、美しく、聡明」というMac的な世界観からは徐々に離れてゆき、Ver.12以降はUIも分かりにくく使いにくいソフトになって今に至っている。そのiTunesが2019年末のMacOSX最後のCatalina以降はついにその名称もなくなって、「Music」だけにしぼった機能に単純化された。Win 版は名前も継続するそうなので、元祖のMacから消えるということのようだ。まあ「音楽」だけだった初代への先祖返りとも言えるが、最近7年ほどは、iTunesは基本的にMac用音楽データベースとしての機能しか使っていなかった私には関係がない、と言えば関係ない変更でもある。

しかし音楽データだけとはいえ、PCオーディオを始めた'00年代半ば以来、私はiTunesに膨大なCD音源を貯めこんできた。おまけにiTunes自身のバージョンアップ、MacOSXのアップグレード、使用Mac機種の交代、外部HDDの入れ替え、iPodやiPhoneへのデータ転送……などを10年以上にわたって繰り返してきた結果、Macの「iTunesライブラリー」の整理、統合、音楽データの移動やコピーもそのつど繰り返してきたので、MBPのFinderで調べてみると、iTunes内ファイルの階層が入れ子状態のようにぐちゃぐちゃになっていた。せっかく手作業で貼り付けた一部のアルバムアートワークなども、あちこち消えたりしている。再生時も、時々びっくりマーク(!)が出て、音楽データが何度も所在不明になったりしたが、素人なりに、そのつど手作業でデータ検索や移動もしてきたので、今も普段聴く分には問題はない。それにiTunesのデータべースとしての構造や出来は基本的に気に入っているので、今更他のソフトに切り替える気もない。しかし、このファイル階層のぐちゃぐちゃぶりは、見た目も含めてどうも気分が悪いので、年末でもあるし、大掃除もかねて久々に何とか整理してみようかと思い立ったのだ。

iTunes 正常なファイル階層
Apple Communityより
正確に調べたことはないが、iTunesの音楽データはたぶん80%以上がジャズで、非圧縮AIFFのファイルをすべて外付けHDDに格納してきた。気づくと、アルバム数(CD枚数)で約1,400、曲数で約14,000、データ量で約700GB近くになっていた。非圧縮なので仮に約50MB/曲、10曲/アルバムとすればほぼ単純計算通りになる数字だ。今は家で聴くだけで持ち歩くわけではないので、圧縮によるデータ量軽減と経済性よりも、オーディオ的に「44.1kHz/16bitの音源再生を極める」という音質優先が基本思想だ。テレビ録画用需要が急増したせいかHDDが非常に安価になってきたので、今や音質を犠牲にして圧縮する必要性も薄まり、通信も5Gとかになれば、ネット配信上もデータ量の問題は相対的にますます小さくなってゆくだろう。

しかし、ネットワークでつながろうと、データを圧縮しようと、デジタル音声の変化は人間にはほとんど感知できないレベルだとか、ハイレゾにすれば何もかも解決するとか……誰が何を言おうと、そうした巷のデジタル言説(?)は信用していない。なぜかというと、大昔(1980年代)CDプレーヤーが登場した当時、デジタル音楽の世界の素晴らしさを伝える大宣伝と大合唱に騙されて、それまで集めたLPレコードをほとんど処分したあげく、喜び勇んで中級クラスのCDプレーヤーを初めて買ったものの、LPの密度の高い音に比べるべくもない、その驚くべき「スッカスカの音」に愕然とし、心底失望した原体験があるからだ。当時そういうオーディオファンは日本中にいただろうし、あの時の「デジタルショック」は未だに忘れられないトラウマなのだ。そもそも物理的に高速回転するディスクから「データ」を読み取りながら、「リアルタイム」でそれを正確に「音として再生」するデジタル技術は、予想したほど簡単なものではなかったのだ。CDプレーヤーにつきまとった実体感のない音の原因もそこにあるのか、と素人ながらずっと思っていた。

後になってからCDの20kHzという高域上限スペックや、ディスクの回転機構とデータ読み取り技術に問題があったとか言って、あれこれ工夫を重ねたデジタル音楽が「まともな音」をやっと聞かせるようになるのに、それから十年以上はかかったし、普及品CDプレーヤーはそれでも完成されたとは言えないだろう。SACDになって、何百万円もするハイエンドといわれる機器で初めてアナログ並みの音が可能になっただけだ(ただし、あくまでこれはオーディオ好きの意見であり、90%以上の「普通の」聴き手にとっては、今では通常盤CDとCDプレーヤー再生で何の問題もなく聞けるレベルの音だろう、という意味である。音楽ビジネス上はそれでOKだからだ)。だから私は’00年代になってから、iTunesという画期的なソフトの出現で、もっと静的にCDデータをファイルとして読み取れ、しかも素人でも自分の工夫次第で再生音の変化を楽しめる余地のあるPCオーディオに移行したのだ。ただし再生音の品質面では、やはりAmaraやAudirvanaのような優秀な再生専用ソフトウェアが開発されて初めて、PCオーディオのサウンドも満足できるレベルに達したと言えるだろう。しかも、これらソフトの価格は、オーディオ機器類に比べたら決して高いものではない。

vs.44.1kHz/16bit ?
米国では、今やアナログレコードの売り上げがとっくにCDを追い越しているが(もちろんCDからストリーミングへ、という急速な市場変化が背景にある)、日本もついにソニーが「LPレコードの生産」を再開したり、「カセットテープ」が人気になるなど、アナログオーディオへの根強い人気が衰えないのも、単なる流行や回顧趣味だけではなく、アナログの真の高音質を知る音楽ファンが体験してきた、こうした歴史的な背景があるからだと思う。新技術だ何だのと言ったところで、「サンプル音」ではなく、「基音と倍音が一体となって響く自然な音楽」を聴いてきた人間が持つ聴感を甘く見てはいけないということだろう(もちろん人によるが)。同様に、古い音源をデジタル・リマスターしたり、MQAのように別のデジタル技術で加工して「ハイレゾ」と称している音は、(すべてではないだろうが)きれいだが、どこか音の骨格 (body) が曖昧になり、どうしても人工的な匂いがするので、私のように「20世紀にアナログ録音」されたジャズ音源を中心にした聴き方では、特に恩恵は感じない(DSDなどによる新録音はもちろん別だ)。いずれにしろ、CDの歴史が示しているように、何事も利便性を優先すると、かならず代わりに何か大事なものを失うということなのだろう。とはいえ、一度便利さを体験すると、もう過去には戻れないのも悲しい人間の性だ(最近も、余計な仕事をさせないというポリシーで、ずっと再生時には切っていたMacのWi-Fiを、iPhoneを使ってiTunes Remoteでリモコン操作する便利さに勝てず、ずっとつなぎっぱなしになった)。

しかしアナログオーディオの世界では、努力と工夫次第で、今でも過去の音源の高忠実、高音質再生を個人が楽しめるのである。20世紀の終わり頃からCD音源として大量に作られ、消費者に販売された「44.1kHz/16bit」による音楽データ資産も、個人が今でもそれらをもっと楽しめる技術やノウハウを提供する責任が音楽産業にはあるのではなかろうか、という気がする。供給側の論理(=商売)だけによる、高額なSACDやハイレゾ化商品だけが方法ではないと思う。過去の標準的CD音源データから、個人レベルで素晴らしい音楽を再生しているPCオーディオの達人も世の中には実際いるようだし、私のようにPCの持つ圧倒的利便性という恩恵を享受しつつ、なおかつ、高音質の世界と両立させてみたいと思っている人も多いだろう。とはいえ私は、今さらオーディオ機器に大金をつぎ込む気はない(過去に散々つぎ込んできたので)。あくまで遊びとして、手持ちのジャズCD音源を、PCを通してできるだけリアルに再生するために、リーズナブルなコストと手間で、満足のゆく効果を発揮してくれる機器や再生方法を探し、それらを使いこなして自分の好みの音を出すのが今のオーディオの楽しみ方だ。(続く)

2020/07/16

あの頃のジャズを「読む」 #4:ジャズの変容

油井正一
「アスペクト・イン・ジャズ」
2014 CDジャーナル・ムック
1960年代後半の日本は、戦後生まれの団塊世代が20歳前後となり、ロック、フォーク、ポップスなど軽音楽(死語?)への関心と需要が爆発的に増え、若者を中心に音楽全体の大衆化が一気に進んだ時代だ。それが、マイナーで難しい音楽だったジャズへの関心も増大させた。同時に、アメリカを中心にした海外のジャズやジャズ・ミュージシャンに加えて、日本国内で日本独自のジャズを追求するミュージシャンたちも、ようやく日の目を見るようになった。65年にバークリー留学から帰ってきた渡辺貞夫がボサノヴァ・ブームを巻き起こし、日野皓正のモダンなジャズ・ロックが映画やファッションでも人気となってフュージョン人気の先鞭をつけ、1970年前後からは富樫雅彦や山下洋輔が日本オリジンのフリー・ジャズで日本国内のみならず、世界のジャズ界をも驚かせるようになった。こうして日本におけるジャズはより多彩な音楽となって、限られた聴衆だけが好んでいた60年代の前衛的芸術音楽から、終戦後の50年代的ポピュラー音楽への道を再び歩き出す。ラジオ放送でも、FM東京の油井正一「アスペクト・イン・ジャズ」(1973 - 79)や、渡辺貞夫「マイ・ディア・ライフ」(1972 - 89) などが人気になって、全国にジャズとその情報が流れるようになった。

さらに、1977年からは田園コロシアム(後に読売ランド)の「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」、80年代に入ると、82年から斑尾の「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」、86年から山中湖の「マウントフジ・ジャズ・フェスティバル」などがそれぞれ始まり、その模様はTV番組でも放映された。景気が良くなると資金が潤沢になって芸術の芸能化が強まる(エンタメ化する)、というのが資本主義社会の常だ(逆もまた真で、景気が落ち込むと芸能の芸術化が起きがちだ。80年代米国ジャズ界におけるフュージョンからW・マルサリスへの流れはその象徴だ)。70年代から続く好景気に支えられて、マイナーだった日本のジャズ界にもやっと金が回るようになり、ロックやポップスでは普通だった、大資本スポンサー後援による大規模な野外ジャズ・フェス等が開催されるようになった(海外、日本人ミュージシャンともに、これらのコンサート出演者の豪華さは、今振り返るとすごいものだ)。こうしたイベントを可能にするほど聴衆が拡大した背景には、バブル景気と共に、80年代に主流となったフュージョンで、ジャズの大衆化(底辺拡大)がさらに進んだこともあっただろう。もちろん、それでもロック、ポップス、歌謡曲などに比べたら比較にならないほど小さなマーケットと聴衆だったとは思うが、バブル期の80年代末にかけては、(表層的には)おそらく史上もっとも日本のジャズ界が多彩で活気に満ちていた時代だっただろう。

辛口JAZZノート
寺島靖国 / 1987 日本文芸社 
だが1980年代は、日本中のあらゆる分野で、日本人全体が浮かれまくっていたので、後で振り返ると実質的に何も残っていない……という、文字通り泡と消え、祭の後のような空虚さが感じられる時代だったとも言える。ジャズの世界も同じ印象で、実際、個人的に記憶に残るほど印象的なレコードも演奏もほとんどないのだ。ある野外ジャズ・フェスで、最前列で酒を飲んで「踊りまくる」聴衆を見ながら、後方でジャズ仲間と座って聴いていた寺島靖国氏(当時、客が減って経営が苦しくなっていたジャズ喫茶「Meg」の店主で、1938年生まれの戦中派)が、ため息まじりの感想を述べている記事をよく覚えているが、これが80年代日本のジャズの風景を象徴している。寺島氏は、こうしたジャズの変容と、相変わらず黒人や大物ばかり取り上げる権威主義、教条主義のジャズメディアに逆らい、無視されてきたマイナーな50年代白人ジャズを敢えて紹介するなど、あくまで個人の趣味を重視する「分かりやすい」ジャズの聴き方を『辛口JAZZノート』(1987) という処女本で打ち出し、これが(たぶん)当時の風潮に不満を持っていた多くのジャズファンの共感を呼び、大ヒットした(私も吉祥寺駅ビル2Fの本屋で初版を買った)。ジャズ喫茶店主や、他の著者によるいわゆる「ジャズ本」は、この本がきっかけとなって、その頃から90年代にかけて数多く出版されるようになった。私も、その後「テラシマ本」はほとんど読んだと思うし、「Stereo」誌や「オーディオアクセサリー」誌などで、快楽の泥沼オーディオ(?)に踏み込んでからの記事も愛読していたが、クリーン電源確保を目的にしたオーディオ専用ケーブルや屋内トランス設置はともかく、自宅の庭に「マイ電柱」を立てたあたりでさすがに引いた…(面白かったが、我が家には庭がないし…)。しかし、その後も2000年代に入ってプライベート・レーベルの「寺島レコード」を興すなど、常に超個人的趣味優先で、多少の迷走や暴走(?)があったにしても、寺島氏が先頭に立って、ジャズとは多彩な音楽であり、その聴き方も自由だという思想を打ち出して、世紀末におけるジャズとオーディオの世界の楽しみ方を広げてくれたことは確かだ。

吉祥寺 「Sometime」
話は少し戻るが、1970年代になると銀座や青山、六本木のような都心に、ライヴ演奏が楽しめるジャズクラブが何軒も登場し、80年代後半のバブル時代まで、店の数も増加し続けた。ただし増えたのは65年開業の老舗、新宿「ピットイン」のようにコアなジャズをひたすら聴かせる店よりも、ジャズのライヴ演奏と一緒に酒や食事も楽しめる「大人のジャズクラブ」である(バブル期の88年に開業した「Blue Note東京」は、その頂点だ)。さらに都心だけでなく、JR中央線沿線など郊外にも何軒かカジュアルなジャズクラブが出現し、ライヴ演奏がやっと身近で楽しめるようになってきたのも70年代後半だ(吉祥寺の老舗「Sometime」は1975年開店である)。60年代にジャズに熱中した青春時代を送り、その後中堅社会人になって、おまけにバブルで金回りのよくなった(?)団塊世代が、80年代に(カラオケに加えて)これらのジャズクラブの中心的客層になったのは間違いないだろう。

日本におけるジャズは、こうして70年代から80年代にかけて、暗いジャズ喫茶で(煮詰まった)コーヒーをすすりながら、深刻な顔をしてレコードを聴く「小難しい音楽」から、明るい屋外でリラックスして(たまには踊って)「陽気に聴くライヴ音楽」へ、さらに夜はジャズクラブで酒を飲みながら、ゆったりとライヴ演奏を聴く「おしゃれな音楽」へと徐々に変貌していった。そしてバブル到来と共に、80年代終わりに最盛期を迎え(最後のアダ花を咲かせ?)、90年代初めのバブル終焉と共に、1950年代からのいわゆる「モダン・ジャズの時代」も終わりを迎えたと言えるだろう。こうして振り返ると、戦後日本のジャズの盛衰は、良くも悪くも、団塊世代の人生の歩みとシンクロしていることがよく分かる。そしてそれから30年、モラスキー氏の『ジャズ喫茶論』(2010)からも既に10年が過ぎた今は、演奏者の顔が見えない「匿名ジャズ」が、TVの中でも街中でも便利なBGMとなり、また日本中のクラブやバー、コンサート会場、ジャズ・フェスなどで、プロアマ問わず日本人ジャズ・ミュージシャンによるライヴ演奏が毎日のように聴ける時代になった。1960年代には前衛であり先端音楽だった日本におけるジャズは、今や誰もが自由に聴いて楽しみ、演奏できる普通の音楽の一つになったと言えるだろう。

吉祥寺「A&F」
ところで、インターネットで自由に音源を選べる昨今では、レコード音源を聞かせる昔ながらのジャズ喫茶は、一関「ベイシー」など地方の一部の老舗名店を除くと、今や発見困難なほど稀少かつ貴重な存在となった(客が来ないので当然だ)。たまにあっても、音量を絞ってBGM的に静かにジャズを流す店がほとんどだ。思えば、1970年代は吉祥寺を中心に都内の大方のジャズ喫茶に顔を出したが、当時まだ多かった60年代的な密閉感の強い、暗く、狭いジャズ喫茶が苦手だった私は(それが好きな人はもちろんいた)、吉祥寺の中でも比較的明るくゆったりとした「A&F」によく通った。ネットで調べても「A&F」はファンが多かったようで、新譜がよくかかったこと、音がこもらずにクリーンで気持ちが良かったこと、ママさん(大西店主の奥さん)もいて店の雰囲気が明るかったこと、などが理由にあげられているが、同感だ。他店に比べて敷居が低く、構えずに誰でも気楽に入りやすかったのである。当時は吉祥寺いちばんの老舗だった野口店主の「Funky」も、寺島店主の「Meg」も、まだ60年代の雰囲気が濃厚で、なんとなく空気が重く、店に入るのに勇気がいる感じだった(寺島店主などは、後年のオーディオ狂い時代と違って、暗く神経質な文学青年みたいだったし…。しかし後年アルコールを導入するなど方針転換してジャズクラブ的になったその「Meg]も、2018年についに閉店し、現在は同名の後継店になっている)。一方の「A&F」には普通に会話のできる談話室も階段をはさんで反対側にあり、聴取室側には JBL と ALTEC の2組の大型SPシステムが並んで置かれていた。「A&F」で知った名盤や当時の新譜も数多く、2つのSPシステムから交互に再生される、カラッとした開放的なジャズサウンドを聴きに行ったあの日々は、正直言って本当に楽しかったし、懐かしい(同店は2002年まで営業を続けたようだ)。

現代のジャズ喫茶
神戸・元町「JamJam」
現在、こうした古典的ジャズ喫茶の香りを残しつつ、高度なジャズサウンドを大きなスペースでゆったりと、かつ大音量で楽しめるのは、大都市圏では、私の知る限り神戸・元町の「JamJam」だけだ。昔のジャズ喫茶では普通だったレコード・リクエストは受けない、など店主の哲学も明快だし、店内は多少暗いが、昔のジャズ喫茶と違って広く、天井が高く、空間容量が大きいので、オーディオ的にも理想的な環境だ。また「A&F」と同じく、聴取専用席に加えて会話のできる席もある。2017年3月のブログ記事「神戸でジャズを聴く」で紹介しているが、初めて同店を訪れたときは、まさに70年代にタイムスリップしたのではないかと思えるほど感激したのを覚えている。私的理想とも言えるジャズ喫茶「JamJam」で鳴るジャズは、ライヴ演奏とは別種の、(音響に優れた昔のジャズ喫茶やオーディオショップ等で時々聴けた)ヴァーチャル・リアリティ的次元のジャズサウンドであり、同店は現代の大都市にあって唯一それが楽しめる貴重な「異空間」だ。未体験の人(もちろんジャズやオーディオに興味のある人)は、ぜひ一度訪問してみることをお勧めする。ちまちましたヘッドフォンによる脳内音楽でもなく、単に音がばかでかいだけの「爆音」でもない、スピーカーが実際に大空間の空気を震わせて、過去の名演を立体的に再現するリアルなジャズ・オーディオの世界と、半世紀前からの日本的ジャズの楽しみ方がどういうものだったのか、それらが実際に体感できると思う。同店には関西に出かけるたびに立ち寄ってきたが、今年はコロナ禍で行けないのが残念だ。今は阪神大震災以来の2度目の苦境に直面しているのかもしれないが、「JamJam」には、なんとか頑張って生き残って欲しい。

2020/07/03

あの頃のジャズを「読む」 #3:レコード

「幻の名盤読本」
スイングジャーナル
1974年4月
ジョン・コルトレーン(67年)、アルバート・アイラー(70年)の連続死で、1970年代に入ったアメリカでは既にフリー・ジャズもほぼ終わりつつあり、マイルスの電化ジャズが登場しても、ロックに押されてジャズ人気は相対的に下降気味だった。ところが一方、1970年代半ばの日本では、1950/60年代録音のアナログLPレコードが、いわば新譜と同じか、場合によってはそれ以上に価値あるものとして扱われていた。ジャズは、興味を持つと次から次へと聴きたくなる中毒性のある音楽なので、レコード・コレクターと言われる人たち以外の普通のジャズファンでさえ、ジャズ雑誌の「幻の名盤」特集などを、わくわくしながら読んで、当時はあちこちにあったレコード店を何軒も探し回ったりしていた。こうした動きに呼応して、60年代ほどではなかったにしても、アメリカのベテラン・ミュージシャンたちが盛んに来日していた(本国では仕事が減ってきたこともあって)。もちろん、70年代のジャズ新譜や、日本人ミュージシャンの演奏をリアルタイムで聴いて楽しんでいた人もいただろうが、大部分の「普通のジャズファン」は、まずは1950/60年代のマイルスやコルトレーンの名演や、それまであまり知られていなかったミュージシャンたちの名盤と言われるレコードをジャズ喫茶や自宅で初めて聴いて、その素晴らしさに感激していたと思う。都会の一部を除き、海外や日本のミュージシャンのライヴ演奏を聴く場も機会も当時は限られていたので、大方のジャズファンにとっては、たとえ過去のものであっても、ジャズの本場アメリカのレコードという音源が依然として魅力的かつ貴重だったのである。

いずれにしろ、おそらく60年代よりもずっと早く海外の音楽情報が伝わったはずにもかかわらず、70年代の日本には、リアルタイムのジャズシーンとは別に、アメリカと実際10 - 15年くらいのタイムラグがある「レコードを中心にした日本独自のローカルジャズシーン」が存在していたということである。これはやはり、既にあったジャズ喫茶という存在とともに、「スイングジャーナル」誌を中心とするジャズメディアが、レコード業界やオーディオ産業と共に作った特殊な日本的構造と言っていいのだろう。当時まだ若かった私のような新参のジャズファンは、知らずに洗脳されつつ、その世界を大いに楽しんでいたことになる。60年代はよく知らないが、オーディオへの関心を含めたジャズの大衆化、コマーシャル化を推進した1970年代の「スイングジャーナル」誌には、後で振り返れば功罪共にあるのだろうが、ジャズという音楽の面白さ、素晴らしさを、できるだけ多くの音楽ファンに知ってもらおうとする「志」も、同時に感じられたことも確かである(80年代以降は?だが)。特に、私が今でも何冊か所有している70年代に発行されたジャズレコードの特集号は貴重であり、解説付きレコードカタログとして非常にクオリティが高いものだ。

「私の好きな1枚の
ジャズ・レコード」
1981 季刊ジャズ批評別冊
『季刊ジャズ批評』は、当時はコアなジャズファンを対象としたジャズ雑誌で、『別冊』ムック本を定期的に出版していた。1981年の別冊「私の好きな1枚のジャズ・レコード」は、ミュージシャンや、作家他の各界ジャズファンが、それぞれ思い入れの深いジャズ・ミュージシャンのレコード1枚(計110人)について語った文章(1978/80既出文)を収載したもので、日本人がジャズレコードに寄せる独特の思いが全編に溢れている。執筆者の多彩さにも驚くが、中には、ジャズへの愛情のみならず、その人の人生までもが1枚のレコードを通して、しみじみと伝わって来るようなすぐれたエッセイもある。その後も同様の企画があったが、この時代に書かれた文章のような熱さと深みは当然だが望むべくもない。ジャズクラブのように、同一の時空間で演奏者と聴衆が共有する1回性の「ライヴ即興演奏」こそがジャズの醍醐味だ、と考えるモラスキー氏のような普通のアメリカ人(かどうかは分からないが)が、こうした日本人のレコード偏重を奇異に思ったのもまた当然だろう。特に彼は、聴き手(鑑賞側)というだけではなく、自分でもジャズピアノを弾く演奏側という立場でもあるところが視点の違いに関係しているように思う(一般に、ジャズ・ミュージシャンは過去に録音された自分の演奏にあまり興味を持たない人が多いようだ。現在の自分の演奏、前に進むことのほうが大事だからだろう)。

「レコード」に対するジャズファンのこの特殊な姿勢は、日本における明治以来の西洋クラシック音楽の輸入、教化、普及という受容史も大いに影響していると思う。つまり生演奏を滅多に聴けないがゆえに、複製代替物ではあるが、レコードという当時はまだ「貴重な」メディアを通して西洋の音楽を「拝聴する」、という姿勢が学校教育などを通じて自然に形成されてきたからだ。クラシック音楽と同様に、60年代には芸術音楽だと思われていた貴重なジャズのレコードを、つい「鑑賞する」という態度で聴くのも、普通の聴き手にとっては自然なことだった。ジャズを聴きながら「踊る」などとんでもない話で、じっと目を閉じて、音だけを聴いて演奏の「イメージ」を膨らませるわけである(踊らずとも、指や足でリズムはとっていた)。それ以前からあったクラシック音楽の「名曲喫茶」がそうだったように、たとえ再生音楽であっても「高尚な場と音楽」を提供する側(ジャズ喫茶店主)が、何となく偉そうで権威があるような立ち位置になるのも、クラシックの世界と同じ構造なのだ。「店内での会話・私語厳禁」という信じられないような「掟」を標榜していたジャズ喫茶があったのも、咳払いや、何気に音を立てることにもビクビクする、あのクラシックのコンサート会場で現在でも見られる光景と根は同じである。(行ったことがないので知らないが、アメリカのクラシックのコンサート会場でも同じなのだろうか? それともお国柄で、みんなリラックスして例の調子で聴いているのだろうか?)

Cool Struttin'
Sonny Clark / 1958 Blue Note
もう1点は「オーディオ」の役割とも関わることで、何度も繰り返し再生し、鑑賞できるレコードだからこそ、音や演奏の持つ「細部の美」に気づき、そこに「こだわり」が生まれる。これは芸術評価における日本的繊細さや美意識の伝統(特に陰翳美に対する)から来るもので、既にクラシック音楽鑑賞でこうした文化的伝統は形成されていた(アメリカ文化はダイナミックだが、基本的に何事も平板で大雑把だ)。そのためには再生される「音響のクオリティ」が大事で、生演奏を彷彿とさせるレベルのサウンドが望ましい。趣味のオーディオが際限なく泥沼化しやすいのも、この「高音質へのこだわり」のせいであり、本来ダイナミックでオープン、つまりどう展開するのか分からない「アメリカ的な大雑把さ」が魅力であるジャズという音楽と、スタティックで「整然としたミクロの美」にとことんこだわる日本的嗜好の融合が、日本におけるジャズの風景を独特なものにしてきた最大の理由だと言えるだろう。

特に1950年代後半のジャズレコードは、単なる1回性の即興演奏を録音したものだけではなく(プレスティッジの多くはそうだったらしいが)、ブルーノートやリバーサイドの名盤のように、スタジオに特別編成のメンバーを集めたり、ヴァンゲルダーのような優れた録音エンジニアによって高い録音クオリティを確保したり、プロデューサーのいる場で何度もリハを重ね、総合的にじっくりと作り込んだ「作品」という性格が強いアルバムも多かった(たとえば、1956年のセロニアス・モンクのアルバム同名曲<Brilliant Corners>の演奏は、リバーサイドのプロデューサーだったオリン・キープニューズが、25回の「未完成」録音テイクをテープ編集して完成させたものだ、という話は極端な例として有名だ。これはその後のマイルス/テオ・マセロ合作を経て、音楽ジャンルに関わらず、今では当たり前に行なわれている録音手法である。)。それらは確かに1回だけの「生演奏」とは違うが、繰り返して聴く価値のある演奏が収録された「ジャズ作品」と考えられていたし、事実優れた演奏やアルバムも多かった。だからソニー・クラーク Sonny Clarkというピアニストとその作品『クール・ストラッティン Cool  Struttin'』(1958 Blue Note) の存在を知らない、あるいはそのレコードに聴ける、翳のある独特のピアノの音色の魅力が分からないアメリカ人は、「本当にジャズを聴いているのか?」と思う日本人が多かったのである。

LPレコードに今でも人気がある理由の一つは、そうした時代の演奏とサウンドを再現するには、音源をデジタル化したり、圧縮したりして加工された音ではなく、当時のアナログ録音手法に則った再生方式の方が原理的に「より忠実で再現性が高い」、という考え方があるからだ。そして、たとえ疑似体験と言えども、それを最大限楽しむには、ジャズという音楽が持つエネルギーが聴き手に十分に伝わり、同時に演奏の細部も聞き取れるような高音質で、かつ音量を上げた再生が望ましいのである。こうした日本人の持つ嗜好や美意識、つまりは「オタク文化」を、米国のジャズ文化との比較を交えた日米文化論としてもっと掘り下げたら、モラスキー氏の『ジャズ喫茶論』はさらに深いレベルの議論になったようにも思う。

Waltz for Debby
Bill Evans / 1961 Riverside
 
ジャズとは常に「生きている」音楽であり、毎回の演奏に「想定外」のことが起こるところがその魅力と醍醐味なのに、レコードという缶詰音楽は、いかに名演、素晴らしい録音であっても、同じ音が繰り返し聞こえてくるだけの、所詮は「想定内」のいわば過去の音楽にすぎない、という見方の違いが根本的な部分だろう。「ジャズ(音楽)はライヴがいちばん」という認識は、「音源」が簡単に、自由に入手でき、貴重なものではなくなった現代では当然ながら高まっているが、生演奏を聴く機会がまだ少なく、西洋音楽鑑賞法の伝統が濃厚で、芸術鑑賞に独特の視点があった半世紀前の日本の時代状況を考えれば、聴き手がジャズという音楽に向き合う姿勢(ジャズ観)という点で、(ジャズの歴史的背景云々は別としても)そもそも日米間には大きな相違があったのではないかと思う。だから上記日本側の見方とは反対に、「日本人はジャズが分かっていない…」という見方が米国側の一部にあった(今もある?)のもまた当然なのだろう。しかし、面白くもない下手くそなジャズライヴを100回聴くより、好きなミュージシャンが演奏する1950年代の名盤を、ジャズ喫茶や自宅の優れたオーディオ装置でじっくりと聴いて楽しんだ方がよっぽどいい、という考え方が一方にあることも確かだ。ビル・エヴァンスのライヴ録音『Waltz for Debby』のレコードを、エヴァンス好きな日本人が耳を澄ませてじっと聴き入っているときに、「ヴィレッジ・バンガード」の(たぶん)アメリカ人女性客がバカ笑いする大声がスピーカーから響きわたる……という絵柄も、よく考えると、ある意味で実にシュールだ。

2020/06/20

あの頃のジャズを「読む」 #2:1970年代

現代ジャズの視点
相倉久人 / 1967 東亜音楽社
私は1960年代の前半、田舎の中学生時代にビートルズ、レイ・チャールズ、ボサノヴァ等で洋楽の洗礼を受けた世代に属する。ジャズに興味を持つようになったのは高校に入ってからで、他のポピュラー音楽とは違う、そのサウンドのカッコよさに夢中になった。東大入試が中止になった1969年に大学に入った頃には、もう学生運動もピークを過ぎつつあったが、その後も学内は2年間バリケード封鎖されて授業もなかった。おかげで時間だけはたっぷりとあったので(金はなかったが…)、ジャズ好きな先輩から借りたり、自分で買ったわずかな枚数のLPレコードを毎晩繰り返し聴いたり、「ジャズ喫茶」に連れて行ってもらったりしていた。当時のジャズには、何より反体制、伝統破壊というアナーキーなイメージと、大人っぽい知的な音楽という魅力があり、学生運動に関わる一部の若者に特に人気がある音楽でもあった。左翼思想の強い先輩が多かったので、その影響を受けて、自分でも米国黒人史やジャズ関連の本を、わけもわからず何冊か読んだりしていた。たとえば生まれて初めて買ったジャズ本、相倉久人の『現代ジャズの視点』(1967 東亜音楽社)など、レベルが高すぎて当時は読んでも面白くも何ともなく、ちんぷんかんぷんだった(単に頭が悪かったせいかもしれないが、ジャズは、とにかくたくさん聴かないと分からない音楽だということを学んだ)。

この時代を振り返ってみて、また以降に挙げるような本を読んであらためて思うのは、ジャズを真に「同時代の音楽」だと感じていたのは1960年代半ばに青春時代を送っていた、私より少々年長の60年安保世代だということだ。だからジャズに強いノスタルジーを感じ、こだわりを持っているのは、やはりこの世代の人たちなのだろうと思う。私の世代は、「生き方」や「行動」と関連付けてジャスを捉えるようなことはもうなかったし、単にカッコいい大人の音楽、という見方でジャズと接していたように思う。とはいえ、自分の世代を含めたその後の聴衆もそうだが、いずれにしろジャズは、いつの時代も、ほんの一握りの人たちだけが熱中していたマイナーな音楽だったことに変わりはないだろう。

Return to Forever
Chick Corea / 1972 ECM
しばらくは全国どこの大学でも、まだ全共闘運動がくすぶるように続いていたが、それも70年安保と連合赤軍事件(1971-72)を境に一気に下火になった。ジャズ喫茶へ行くと、それまでの重いハードバップやフリー・ジャズに代って、カモメ(?)が飛ぶきれいな水色のジャケットに入った、穏やかで軽いチック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエヴァー』(1972 ECM) がしきりに流れていた。もう政治の時代ではなく、この間までヘルメットをかぶってデモに出かけていた学生も、就職活動に精を出していた。ファッションのように政治思想とジャズを結び付けて語っていた人たちも、大抵は何事もなかったかのようにジャズから離れて行った。だから、半世紀前のチック・コリアのこのアルバムは、ジャズファンにとっては公民権、ベトナム、沖縄、安保など学生運動で世界中が騒然としながらも基調は「暗く重い」シリアスな60年代から、平和な時代を求める「明るく軽い」ポップな70年代への転換点を象徴するレコードだった(当時はクロスオーヴァーと呼んでいた)。どことなく世の中に「緊張感が漂っていた」60年代から、いわば「戦い済んで気の抜けたような」70年代へと日本は移行して行った。そして戦後の繁栄を謳歌していた時代が終焉し、ベトナム戦争がボディブローとなって徐々に落ち目になったアメリカ経済とは対照的に、80年代後半のバブルがはじけるまで、その後の20年間、日本はほぼひたすら明るく軽い時代へと邁進する。ジャズを含めた音楽全体への嗜好も、当然こうした時代の風潮を反映したものだった。

今になって振り返ると、1970年代の日本はジャズの最盛期だったようにも見えるが、戦後の50年代に輸入ポピュラー音楽、ダンス音楽として大衆化し、続く60年代になると新しい前衛音楽芸術として認知され、思想や文化としても大いに盛り上がった 「モダン・ジャズ」が、徐々に芸術から芸能(商業音楽)へと再び変質してゆく過渡期(あるいは、いわゆるジャズが終わりつつあった時期)だったとも言えるだろう。私の世代は、60年代と違って若者音楽の中心は既にジャズではなく、ロックやフォーク、ポップスに移行しつつあった。つまりジャズが完全に「大人の音楽」として定着し、多様化し始めた微妙な時期に、遅れてジャズの洗礼を受けた世代なので、この「芸能か芸術か」という問題には妙に敏感なのだ。何もかもがエンタメ化し、カネにならない芸術、カネに換算できない芸術は無価値だとすら思われるようになった現代から見ると信じられないような話だが、あの時代は、「芸術」を食い物にしていると思われていた「商業主義 commercialism」への反発が強く、ジャズはもちろん、フォークやロックの一部ミュージシャンですら、商業主義、画一主義の象徴であるテレビには背を向けていたほどなのである。(昨今のWHOやIOCのような世界的機構の動きが露骨に示しているように、半世紀後の21世紀となった今は、分野にかかわらず、もはや設立時の20世紀的理念や使命は消え失せ、ひたすらカネ、カネ…で動く利権集団や国際興行主のような世界組織ばかりが支配する、究極の資本主義に到達した。)

1970年代の日本のジャズ界は、マイルスが先鞭をつけ、ウェザー・リポートやハービー・ハンコックが後を継いだエレクトリック楽器を使ったフュージョンやファンク、60年代の政治的余韻をまだ残していたフリー・ジャズ、50年代のモダン・ジャズ黄金期を回顧するビバップ・リヴァイヴァル、チック・コリアやキース・ジャレットのような新世代ミュージシャンの登場、日本人ジャズ・ミュージシャンの活躍……等々、情報源たるジャズ雑誌と、ジャズ喫茶という空間を核にして、あらゆるジャンルのジャズが溢れていた時代で、聴き手はそれらを自由に選んで聴いていた。とりわけ、70年代の大方の聴き手にとっては、ジャズがもっと熱かった60年代には限られた場所でしか聞けなかった1950/60年代の「本場アメリカ」のジャズを、立派なオーディオ装置のあるジャズ喫茶だけでなく、自宅のステレオで気軽に聞け、黄金時代のジャズとその時代を「追体験」できるということが単に楽しくて仕方がなかったのだ。やっと手に入れたLPレコードに針を降ろした瞬間、まるで缶詰を開けたときのように、その時代(主として50年代アメリカ)の空気が一気に部屋中に広がるあの快感は(前に書いたタイムスリップ感覚である)、ジャズファンなら誰しも覚えていることだろう。

ジャズ喫茶広告
1976年「スイングジャーナル」
私の場合、毎月そうしたLPレコードを何枚も買って自宅で聴いたり、ジャズ喫茶に通って聴くようになったのは、1973年に大学を卒業して就職してからだ。銀座や新宿を中心とした60年代に有名だった老舗ジャズ喫茶に加え、吉祥寺をはじめとする都内の各所や、地方の有名ジャズ喫茶の多くが開店したのも70年代前半である。それまで高価だった輸入盤に代る比較的安価な国産レコードの発売と、それを再生するオーディオ機器の隆盛が、ジャズ喫茶の増加と国産レコードの販売にはずみをつけた。この流れを「スイングジャーナル」のようなジャズ雑誌が作り、また煽った。ジャズ評論家とは別に、菅野沖彦、岩崎千明のようなオーディオ評論家がジャズ雑誌にも登場し、ジャズとオーディオの魅力を語り、音響ノウハウを伝え、読者を啓蒙した。また当時の有名ジャズ喫茶店主なども雑誌に登場して、自店のオーディオ装置を紹介したり、解説したりしていた。1950年代を源流とする、この「ジャズ(ソフト)とオーディオ(ハード)の組み合わせ」こそが、70年代以降のジャズの普及と大衆化を促進し、同時に日本独特のジャズ文化を創り上げた最大の要因であり、需要と供給両面でそれを後押ししたのが当時の日本の経済成長だった。

ジャズとオーディオは、録音再生技術の進化と呼応して、歴史的に海外でももちろんワンセットで発展してきた(クラシック音楽と同じく、1960年代までは、ジャズが主としてアコースティック楽器による音楽だったことが要因の一つである)。しかし、一般人の趣味としてのオーディオが、主として富裕層のものだった欧米に対し、日本では富裕層ばかりか、私のような普通のサラリーマンまで含めた「大衆的な趣味」になったところが大きな違いだろう。もちろんこれには、安価で高品質なオーディオ機器を製造する日本の電機メーカーの発展が寄与していたし、それを支えた購買力を生んだ日本の経済成長が背景にあった。その一方で、高額な海外の有名ブランド・オーディオ機器への強い憧れもあった。ジャズ喫茶がそのショールーム的役割も果たし、当時のジャズ&オーディオファンを啓蒙し刺激した。壁の薄い六畳一間のアパートに、JBLの大型マルチウェイSPやALTEC の劇場用大型PAシステムを持ち込んで、少音量でジャズを聴く……という、海外では想像もできないシュールな楽しみ方をするなど、まさしく日本的、ガラパゴス的趣味世界だろう(趣味なので、人に迷惑さえかけなければ、何だっていいと個人的には思う)。正直言って私の場合も、もしもオーディオにまったく興味を持たず、単に音楽としてのジャズを聴くだけだったら、たぶん80年代初めには完全にジャズから離れていたと思う。70年代後半からフュージョン全盛時代になって、つまらないと思いつつも、また音源がLPからCDへ、さらにデータへと移行し、ジャズの活力もさらに失われて行って、何度か聴くのをやめた期間があっても、聴き手としてジャズと関わり続けて今日に至っているのは、オーディオを介して「黄金期のジャズレコード」(音源)を再生し、その素晴らしさと奥深い世界を味わうことを趣味としてずっと楽しんできたからだ。そして、オーディオの世界もジャズに劣らず深く、「聴くー読むー考えるー(また聴く)」というループにはまりやすいので、ジャズとオーディオというコンビは、この点でも非常に相性が良いのである。

ジャズ喫茶論
マイク・モラスキー

2010 筑摩書房
マイク・モラスキーは『戦後日本のジャズ文化』(2005)の中で、アメリカのライヴ演奏重視のジャズの世界に対し、レコード再生を主とする日本独特の奇妙なジャズ喫茶文化を、意図して挑発的な視点で取り上げた。その後、関係者の話を直接聴取すべく、日本各地のジャズ喫茶を現地取材したり、当時を知る人たちにインタビューするといったフィールドワークを通して、更に議論を深めた『ジャズ喫茶論』(2010 筑摩書房)を発表した。そのモラスキー氏が初来日したのが1976年ということなので、彼はまさにこの時代に東京他のジャズ喫茶を巡って驚いていたわけである。この本はアメリカ人が書いているので、当然だが、よくある「ノスタルジー」としてのジャズ喫茶回顧という視点ではなく、レコード再生音楽を提供する当時のジャズ喫茶が、いかに日本独特の「非ライヴ・ジャズ空間」を創出し、ジャズの普及や理解を深める機能と役割を担っていたか、それが日本の特殊なジャズ文化の形成にどんな影響を与えたのか、その背景には何があったのか……等を分析、考察したユニークな文化論的エッセイである。ジャズ喫茶に通った経験のある我々さえ知らないような細かな情報を拾い集め、それを日本人には難しい客観的視点で分析しているので、興味深い指摘が多く、本書も非常に楽しめた。ただし、著者自身オーディオ音痴を自認しており、また話を複雑にするので、あえてオーディオ的な細部にはあまり触れようとしなかったようだが、日本独特の、このジャズとオーディオの関わりについての考察が文化論的に少々浅い、というのが私的印象だ(演奏する音楽家と、一般的な女性は、オーディオ的なものにあまり興味を示さないようである。これも実は、考察に値するテーマだと思っている)。それと、『ジャズ喫茶論』で指摘されている、ジャズレコードに対する日本人の強いフェティシズムの背景としては、「ジャズ」と「レコード」という要素以外に、歴史的に「欧米の異文化」や「繁栄の50年代アメリカ」に憧れていた当時の日本人の持つ本質的、潜在的性向も大きく影響していたと思う。

2018/07/20

Macオーディオを再構築する(2)

Mac本体の入れ替えだが、事前にいろいろ調べて下準備し、まず旧MBから、Mac標準の「移行アシスタント」というソフトを使って、結線して新MBPにデータ移行することにしたが、古いMBにはUSB2FireWire400の端子しかなく、MBPにはThunderbolt2USB3しかない。Wi-Fiでも行けるが時間がかかるし不安なのでLANにしようと思ったが、MBPにはもはやLAN端子がない。変換コネクターを使うかUSB接続だが、MBには遅いUSB2しかない。仕方なく結局シンプルにUSB2/USB3で両者をつなぎ、指示通りに実行したが、それほど時間もかからず無事移行でき(MB本体にはたいしたデータは入っていないので)、MBのオーディオ特化設定もそのままコピーできた。Audirvana Plusという再生ソフトプレイヤーを使っていたが、このソフトも問題なく移行していた。この作業は意外なほど簡単だった。素人ながら、これまでいろいろ使ってみた印象を言えば、やはりMacは本当に生まれながらにおしゃれでスマートな秀才、一方のWindowsは努力の結果やっと成績の上がってきた垢抜けない凡才だろう。CDをリッピングした非圧縮音楽データは、専用アナログ電源(エーワイ電子)につないだLacieの3TBの外付けHDD(2代目で約3年使用)に保存しているので、あとは iTunesとAudirvana が連携して普通に再生してくれればいいだけだ……と思っていたらそこからが大変だった。

まず、やたらとヴィジュアル表示が増えてうるさい新バージョンに敢えてアップして来なかったiTunes のバージョンが、シンプルな表示が気に入って長年使ってきた旧バージョン(10→11)から、その新バージョン(12)にすっかり書き換えられていた。次にMacからUSBでつなぎ、専用バスパワーをかませ、PS AudioDACに同軸ケーブルでつないでいた小型DDCHi-Face (M2Tech/Aurola) を新MBPが認識しない。いや、機器としては認識するが、MIDI設定で見るとサウンドデバイスとして認識していない。つまり音が出て来ない。いろいろ調べた結果、Hi-Face用の旧ドライバーではだめらしい。新しいドライバーのバージョンをネットで探したが、とっくの昔に別の製品に切り替わっていてメーカーも代理店もサポートしていない。おまけに iTunes のライブラリーも書き換えられていて、どこを探して指定してもファイルが開けない。Audirvanaも、新MBPのOSでは音の良いDirect Mode設定が使えなくなっている……とまあ、素人の悲しさもあって、あれやこれや浦島太郎並みの混乱とトラブル続きで途方に暮れた。それにPC設定はどれもそうだが、以前どうやって設定したのか、使っているうちに最初の設定方法のことは忘れてしまうのだ(年のせいもあるが)。進化の激しいデジタルオーディオは、こうしたところが問題で、普通の情弱中高年には手に負えない。それに、その種の設定トラブルの解決には、どうしてそうなるのかというコンピュータ側の ”論理” に、こちらの思考回路を合わせる必要があるので、それがまた余計に頭を疲れさせる。MacはWinに比べたらずっと感覚的に操作しやすいように設計されているのだが、普段はほとんど何も考えずに音楽を再生しているだけで、WinのようにPCとして使い慣れていないので、やはり混乱する。ネット上のお助け情報だけが唯一の頼りなので、調べまくって解決方法を探すわけだが、まあそれもデジタルオーディオの楽しみ方の一つでもあるのだろう(ところがその方法も、しばらくすると忘れているのだ)。

iFi audio /nano iONE
いろいろと面倒くさくなったので、この際だからということでHi-Faceに代わって、去年出たイギリスの iFi audio /nano iONE という有線/無線でDDCにもDACにも使える非常にコンパクトな機器を見つけたので、それを購入した。これは小型の単体DACとしても使える機器だが、これをDDCとして使い、デジタル同軸ケーブルでPS AudioのDACにつないだ。DDC(digital-digital-converter)とは、ジッターやPCノイズを運んでくる可能性が高いUSB経由の信号を、S/PDIF信号に変換してデジタル伝送するための機器だ。PCオーディオはデジタルノイズと伝送ロスの制御が重要なので、接続ケーブルの質と共に、こうしたデバイスが有ると無いとでは、かなり音の純度が変わる(と言われているが、これは実際に音を比較して確認している)。この機種はクロック機能やノイズ対策もきちんと考慮しているようなので、選択した。いずれ単体DACとしても使って、今のDACと比べてみようかとも思っている。Audirvanaもハイレゾ再生が可能なAidirvana Plus3という新バージョンにアップグレードした。HDDのLacieも最近作動音がうるさくなってきたので、バックアップも兼ねてI/O dataの据え置き3TBHDDを買った。これも私のような使い方の場合、単なるデータ保存ではなく、音楽の長時間連続再生をするのでHDDなら何でもいいというわけではなく、タフさと信頼性、静音性も必要なのだ(大容量SSDはまだまだ高価だし)。ケーブル類も、Procable推薦のunibrain の短いUSB3で統一した(同社が販売するケーブル類は信頼している)。

そういうわけで、久々のオーディオ投資になったわけだが、全部の費用を合算しても、昔日の、今となっては夢(悪夢?)のような金額には到底及ばない。とにかく安い(相対的に)。時々ネットで、数千円の再生ソフトが高いので買うのをやめて無料ソフトにしたとかいう話を聞くが、趣味の世界でもあるのでどっちがまともかという議論は別にして、昔のオーディオファンからしたら信じられないような感覚だ。CDも売れないわけだ。無論このご時世、余計な金を使う必要はないし、何でも安いにこしたことはないだろう。個人の価値観で金の使い途ももちろん変わる。しかし一般論として、相応の価値があると自分が思うもの(「モノ」に限らない)に対しては、それなりの対価を支払うべきではないだろうか。コピペとネット全盛の今は、何でもかんでも便利で安くなって(時にはタダで)結構なことだが、これからはAIにはできないことを人間がやらなければならない時代なのに、様々な作品の犯罪的な海賊版の提供サイトとその需要をはじめ、情報やソフトウェアの利用、公共図書館の新刊書貸し出しなどに見られるように、タダあるいは安いからという理由で、長い時間や労力をかけて他人が創造した著作物(知的所有権)に対して消費者が相応の対価を支払わない風潮が続けば、個人の創造性や文化の進歩を損なうだけでなく、回りまわって結局自分のところにも金が回って来なくなる、という潜在的リスクが資本主義にはあることを想像した方ががいいと思う(自戒も込めて)。「安いモノ」は、単に品質上の差だけでなく、本来そこ(高いモノ)から支払うべきコスト(賃金)が削られ、創造した人や労働者(自分のことでもある)に分配される金(使える金)が減るということであり、一見「タダ」を可能にしている背景の一部は、知らないうちに誰か、例えば大資本や企業がそのコストを肩代わりして、その対価として裏で必要な個人情報やデータをかき集めてビジネスに利用しているということでもある。今は誰にでも将来への不安はあるが、余裕があって可能な人は、できるだけ目に見える今現在の社会と人に金を「還流」させることを意識すべきだと思う。人それぞれ考え方は違うだろうが、「安いモノには訳がある」、「金は天下の回りもの」といった昔ながらの格言は真実だと思っている。でないと、富が一部に集中し続け、世の中の大半が益々貧乏という負のスパイラルに陥る危険性がある。アメリカは常に日本の先行モデルでとっくにそうなっているが、あちらにはまだ豊富で多様な資源があり、厳しい競争下でも変革を止めない独自の挑戦マインドもある。元来保守的で、しかも資源もなく、「知」で生きるしかない日本でも、そうなりつつあるのだ。

話を戻すと、そんなこんなで、DAC/プリ/パワーアンプを経て、やっとスピーカーからまともに音が出てきたのは作業開始の3日後だった。入り口システムの再構築後1ヶ月が経過したが、新CPU、倍増メモリー、SSDを積んだバッテリー駆動の新MBPの設定は旧MBのまま踏襲しiTunes とAudirvana が新バージョンとなり、HDD/MBP間の古いFireWire400をUSB3へ変更し、同じくUSB3でMBP/新DDCをつないだ音がどうなったのかと言えば、「音場」が蒸留水のように圧倒的に透明になってよく見えるようになった。あるいは曇った眼鏡のレンズを拭いたように見通しがよくなった、とも言えようか。もやもやしていた暗騒音のようなものが減り、細かな音がよく聞こえるようになって、電源環境を改善した時の変化に似ているようだ。気持ち音速が上がり、切れ味も良くなったようだ(これらは昔ながらのオーディオ的表現なので、ちんぷんかんぷんの人もいると思うが)。一言で言うと、駄耳の私にもわかるほど予想以上にクリアな音になった(ように聞こえる)。HDDは新HDDに無事データコピーを完了したので、現Lacieを当面そのまま使用するが、両者をつなぎ換えて聴き比べると、これも微妙に音が違って聞こえるような気がする(いずれ確認したい)。システムの川下側はまったく変えていないので、こうした川上の機器変更による音質改善の効果は、純粋に6年間のデジタル技術の進化がもたらしたものと考えていいのだろう。ただし、慣れないiTunes ver.12は、ヴィジュアル情報はいいとしてもUIが予想通り使いにくく(余計なお世話の、いらないサービスが多くて複雑)、しかも勝手にシャッフルしてどう設定しても治らないので、シンプルなver.11に戻した(このダウングレードも方法を調べたり、結構な手間がかかった)。私のようにiTunesの音を聴くわけでもなく、ライブラリーによるデータ管理中心の使い方には、やはり10や11といったシンプルな前バージョンの方が断然使いやすい。

しかし、昔からそうだが、変える時にせっかちに一遍に置き換えるので、いったいどの機器や設定条件がいちばん音に影響を与えているのか(オーディオの楽しみ方の基本)、ということがよくわからないところが問題だ。まあ、いずれいじっているうちに徐々にわかるだろうとは思う。機器やソフトによるアップサンプリングやイコライジングは今のところ一切行っておらず(今は小型SPなので、いずれ低域補正のイコライジングはやるつもり)、CDから非圧縮で取り込んだ16bit44.1kHzデータのネイティヴ再生のままでも、これだけ音が変化するというところがオーディオの魔訶不思議で実に面白いところだ。どこかに手を加えると必ず音が変わるというのは、アナログでもデジタルでも一緒なのである。オカルトでもプラシーボでもない、流行りのわかりやすい爆音嗜好とは対極にある、この微妙だが現実の音の変化を聴き取り、楽しむのが古来のオーディオという遊びなのだ(ただし、どちらが良い悪いとかいう問題ではなく、”音を楽しむ” という点ではどちらも同じだ)。デジタル技術の進化によって、昔と違ってそれが今は比較的安価に楽しめるのは、やはりありがたい。これから、音馴らしをしながら(機器や接続が馴染む<エージング>につれ、音も徐々に変化することも事実だ)設定や接続やらあれこれいじって、しばらく楽しむことにする。システムが安定したら、いずれハイレゾにも手を出してみようかとも思っている。久々のオーディオネタに興奮して話が長くなったが、以上顛末記でした。