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2018/10/06

忘れ得ぬ声 : ジャッキー・マクリーン

なぜか時々無性に聴きたくなるジャズ・ミュージシャンがいる。サックス奏者ジャッキー・マクリーン(Jackie McLean 1931-2006) もその一人だ。私はマクリーン・フリークというほどではないが、一時期マクリーンに凝って、いろいろアルバムを聴き漁ったことがあり、当時集めたLPCDもかなりの数になっている。時々、PCに入れたマクリーンのアルバム音源を連続して再生していると、懐かしさもあって、つい時の経つのを忘れるほど楽しい。親しかった昔の友人と久々に会って、話を聞いているような気がするからだ。もう亡くなってしまった昔の知人や懐かしい友人たちは、顔も思い出すが、むしろ記憶している "声" の方が、いつまでも生々しく聞こえてくるように思う。マクリーンの場合、特にそう感じるのは、ややピッチが高めで、哀感を感じさせる、かすれたアルトサックスの音色、粘るリズムとフレーズ、演奏の中から聞こえてくるブルース……それらが一体となってマクリーンにしかない個性的サウンドを形作っているのだが、それが単なるサックスの音というより、“人間の声” のように感じさせるせいだと思う。同じチャーリー・パーカーのコピーから始めても、ソニー・スティットのような名手をはじめとした他のパーカー・エピゴーネンとは違う、マクリーンにしかないその "声” が、技術の巧拙を超えて、どのアルバムを聴いても聞こえてくる。アルトサックスではリー・コニッツもそうだが、これはジャズではすごいことで、それこそがジャズ音楽家の究極の目標の一つと言ってもいいくらいなのである。マクリーンのアルトで有名なアルバムと言えば、日本ではまずはソニー・クラークの名盤『Cool Struttin’』(Blue Note 1958)、それにマル・ウォルドロンの『Left Alone』Bethlehem 1960)が昔から定番だ。どちらも出だしの一音でマクリーンとわかる、これぞジャズというそのサウンドには忘れがたいものがある。

マクリーンの公式な初録音は、20歳のとき1951年のマイルス・デイヴィス『Dig』(Prestige)参加で、その後毎年のようにマイルスのBlue NotePrestige等のレコーディング・セッションに参加していた。初リーダー作となったのは、ハードバップの時代に入り、ドナルド・バードのトランペットも入った2管の『The Jackie McLean Quintet-The New Tradition Vol.1』1955 Ad-Lib/Jubilee)だ。私はこのアルバムが大好きで、McLean(as)Donald Byrd(tp)Mal Waldron(p)Doug Watkins(b)Ronald Tucker(ds) というメンバーによる演奏は、マクリーンもバードも含めて、ほぼ全員が20歳代の新進プレイヤーたちの気合を象徴するように、粗削りだがアルバム全体が溌溂かつ伸びのびとしていて、どの演奏もエネルギーに満ちているので、聴いていて実に気持ちが良い。ここでのマクリーンは、既にして個性全開ともいうべき鋭いフレーズと独特のサウンドを展開しており、ドナルド・バードの流れるようなトランペット・ソロ、初期のマル・ウォルドロンのアブストラクト感のあるピアノ、ダグ・ワトキンスの重量感のあるベースなど、どのプレイも楽しめる。特にマクリーンとバードの2管の相性は良いと思う。アルバム冒頭の<It’s You or No One>が聞こえてきた途端に、全盛期のモダン・ジャズの空気が流れ、マクリーンのあの “声” に何とも言えない懐かしさがこみあげて来る。私的に大好きな演奏The Way You Look Tonight>、マクリーンが書いたジャズ・スタンダード<Little Melonae>の初演、最後にはマクリーンのアイドル、チャーリー・パーカーへのオマージュとして、バラード<Lover Man>も入っている。初代レーベル(Ad-lib)は猫のジャケットだが、この2代目(Jubilee)の面白いデザイン(フクロウ?)も、本アルバムの若さと爽快感がそこから聞こえて来るようで気に入っている。

マクリーンはこの後PrestigeNew Jazzに何枚かのレコードを吹き込み、さらにドナルド・バードと共にBlue Noteに移籍し、1959年の初リーダー作『New Soil』以降、1960年代はBlue Note盤、その後ヨーロッパのSteeple Chase盤などをはじめ、一時引退するまで数多くの録音と名盤を残しており、その間独特のアルトの音色も微妙に変化してゆく。復帰後、晩年の'90年代には、大西順子(p)と『Hat Trick』Somethin’else 1996)を吹き込んでいる。人それぞれに好みがあると思うが、私が個人的に好きなマクリーンは、どれも一般的なジャズ名盤とまでは言えなくとも、やはり瑞々しい若き日の演奏が聴ける1950年代だ。まずはPrestigeの『4, 5 and 6』(1956) で、McLean(as)Mal Waldron(p)Doug Watkins(b)、Art Taylor(ds)というワン・ホーン・カルテット(4)による 3曲(Sentimental JourneyWhy was I BornWhen I Fallin' Love)、そこにDonald Byrd(tp) が加わったクインテット(5)で2曲(ContourAbstraction)、さらにHank Mobley(ts) が加わったセクステット(6)で1曲(Confirmation)ということで、タイトルの『4, 5 and6』になる。考えてみれば、Prestigeらしい適当なアルバム・タイトルだが、ヴァン・ゲルダー録音による音が生々しく、どの曲を聴いてもハードバップのあの時代が蘇って来るような、肩の凝らない演奏が続いて楽しめる。ここでもドナルド・バードのトランペットが良い味だ。

上の盤と並んで好きなこの時期のレコードは、Prestigeの傍系レーベルNew Jazzに吹き込んだ『McLean’s Scene』(1956)だ。Prestigeと違って、New Jazzのアルバムはタイトルもそうだが、このマクリーンのレコードの赤い印象的なジャケット・デザインに見られるように、どれも “一丁上がり” という軽さがなく、一応考えているように見える(Blue NoteRiversideのような丁寧さや知性は感じられないが)。こちらもMcLean(as)Bill Hardman(tp)Red Garland(p)Paul Chambers(b)Art Taylor(ds)という2管クインテットによる3曲(Gone with the WindMean to MeMcLean's Scene)と、McLean(as)Mal Waldron(p)Arthur Phipps(b)Art Taylor(ds)というワン・ホーン・カルテット3曲(Our Love is Here to StayOld FolksOutburst)を、組み合わせたスタンダード曲中心の作品だ。こうした曲の組み合わせも、Prestigeが一発録りで一気に録音した音源を、あちこちのアルバムに適当に(?)組み合わせて収録しているので、アルバム・コンセプト云々はほとんど関係ない(もう1枚、同じメンバーで同日録音した音源を収録した『Makin’ The Changes』というマクリーンのリーダー作がある。当然だが、こちらも良い)。この時代のこうしたレコードは、細かなことをごちゃごちゃ言わずに、ひたすら素直にマクリーンの音を楽しむためにあるようなものだ。ただし、マクリーンの "声" を生々しく捉えたヴァン・ゲルダー録音でなかったら、ここまでの魅力はなかっただろう。Prestigeもこれでだいぶ救われた。

もう1枚も、同じくNew Jazzの『A Long Drink of the Blues』1957)である。全4曲ともにゆったりとしたブルースとバラードで、タイトル曲で冒頭の長い(23分)のブルース<A Long Drink of the Blues>のみがMcLean(ts,as)Webster Young(tp)Curtis Fuller(tb)Gil Cogins(p)Paul Chambers(b)Louis Hayes(ds)という3管セクステット、残る3曲のバラード(Embraceable YouI Cover the WaterfrontThese Foolish Things)が、McLean(as)Mal Waldron(p)Arthur Phipps(b)Art Taylor(ds)というワン・ホーン・カルテットによる演奏だ。スタジオ内の長い演奏前のやり取りの声から始まる1曲目のブルースでは、マクリーンがアルトとテナーサックスを吹いているが、そのテナーはフレーズはまだしも、ピッチのやや上がったかすれた音色までアルトと同じようで、まるで風邪をひいたときのマクリーンみたいなところが面白い。後半のバラードは、ビリー・ホリデイの歌唱でも有名なスタンダードで、マクリーンの哀愁味のあるアルトの音色がたっぷり楽しめる。当時ホリデイの伴奏をし、独特の間を生かした自己のスタイルを確立しつつあったマル・ウォルドロンのピアノも、メロディに寄り添うように美しいバッキングをしている。この作品もそうだが、Blue Note盤のような格調、また演奏と技術の巧拙やアルバム完成度は別にして、ブルースやバラードなどを若きマクリーンがリラックスして吹いており、こちらも肩の力を抜いて、あの “声” をひたすら楽しんで聴けるところが、’50年代のこうしたアルバムに共通の魅力だ。新Macオーディオ・システムは時間とともに音が一段と良くなり、間接音の響きが増して実に気持ちが良いので、ついヴォリュームを上げてしまうが、ヴァン・ゲルダー録音のマクリーン一気通貫聴きの楽しみを倍加している。

2017/10/19

モンクを聴く #8:with Charlie Rouse (1959 - 70)

ジョニー・グリフィンに代わって短期間だけ参加したニー・ロリンズが去った後、ウェイン・ショーターを含む多くの後任テナー希望者があった中、モンクが選んだのはチャーリー・ラウズ(1924-1988)だった。ラウズは1958年末にモンクのバンドに加わり、その後1970年に辞めるまで約11年間在籍した。ラウズも当初は前任のテナー奏者たちと同じく、モンクの音楽を理解、吸収するのに苦労していた。しかし、ラウズがロリンズ、コルトレーン、グリフィンと違ったのは、共演することでモンクと対峙し、テナー奏者として成長しただけでなく、その長い在籍期間を通じて完全にモンク・バンドにとって欠かせない一部となって行ったことだ。モンクはラウズの存在ゆえに、長いキャリアを通じて初めて、自分のサウンドを自由に追求できる安定したワーキング・バンドを持つことができた。その間メインのドラマーはフランキー・ダンロップからベン・ライリーに、ベーシストはジョン・オアからブッチ・ウォーレン、ラリー・ゲイルズ等に代わったが、ラウズはテナー奏者として一貫してモンク・カルテットの要として活動を続けた。モンクの音楽を理解し、モンクの意図を汲み取り、モンクを助け、バンドを献身的に支える役目も果たした。1960年代を通じて築かれたモンクーラウズの独特の共生関係は、他に例を見ないような一体感をバンドにもたらしたが、一方で、代わり映えのしないカルテットのフォーマットとサウンドに、やがて音楽的には時に批判の対象ともなった。前任者たちのような “華” はないが、そうした批判にも耐え、リーダーのモンクが常に快適でいられるように場をまとめ、同時にモンクが目指すサウンドを一緒に作り上げたラウズのミュージシャン、サイドマンとしての能力と人格は、決して過小評価すべきではないだろう。

5 by Monk by 5
(1959 Riverside)
第20章 p402
ラウズのモンクとの初録音は、19592月の「タウンホール」コンサートでのテンテット(10重奏団)だった。そしてリバーサイドにおける最初のコンボ録音となったのが、19596月初めの『ファイブ・バイ・モンク・バイ・ファイブ 5 by Monk by 5』である。サム・ジョーンズ(b)、アート・テイラー(ds)という当時のレギュラー・カルテットに、カウント・ベイシー楽団の花形トランペッターだったサド・ジョーンズがコルネットで客演したクインテットによるアルバムだ。新作<プレイド・トゥワイス>、<ジャッキーイング>に加え、<ストレート・ノー・チェイサー>、<アイ・ミーン・ユー>、<アスク・ミー・ナウ>などすべてモンクの自作曲だ。まだ加わって半年ほどだったが、前任者たちと比較され、当初厳しい批判を受けていたラウズのソロは、ここでは一皮むけたように流麗だ。モンクにとってリバーサイド最後のスタジオ録音となったこのアルバムはどの曲も名演だが、何よりも演奏全体に自由と躍動感が満ちているところがいい。サド・ジョーンズの参加によるバンドへの刺激とクインテットという編成の違いはもちろんだが、それを生み出している大きな要因が、モンクのあの独特のリズムに乗ったアブストラクトなコードによるコンピングで、とりわけ空に向かって飛んで行きたくなるような<ジャッキーイング Jackie-ing>の開放感は最高だ。アート・テイラーのイントロのドラムス、ラウズとサド・ジョーンズのソロも素晴らしい。シカゴの作家フランク・ロンドン・ブラウンが、この曲に触発されて書いたという小説「ザ・ミス・メイカー The Myth-Maker」のくだりを本書で読んで、私は自分とまったく同じ感覚を抱いた人が半世紀前にいたのだ、と驚くと同時に非常に嬉しくなった。これぞ「モンク的自由」を象徴するようなサウンドだと思う。この曲はモンクも気に入って、その後しばらくコンサートのオープニングに使うなど、何度も演奏された。自分の姪の名前 「Jackie」に「-ing」を付けるモンクの言語センスも素晴らしい。

Monk's Dream
(1962 Columbia)

第24章 p488
Criss-Cross
(1963 Columbia)

第24章 p496
この時期(19571962年頃)のモンクは、何をやっても生涯で最も冴えわたっていたと思う。この期間は、一時期を除きモンク的には稀な、精神的にも肉体的にも非常に安定した状態が比較的長期にわたって続いていたからだ。好評だったラウズ(ts)、ジョン・オア(b)、フランキー・ダンロップ(ds) というカルテットによる1961年の2ヶ月近いヨーロッパ・ツアー等を通じて、固定バンドとしてこれまでにない一体感を高めたモンクのバンドは、翌19629月のリバーサイドからコロムビアへのモンクの移籍に伴い、10月末からデビューLP『モンクス・ドリーム Monk’s Dream』の録音を30丁目スタジオで開始した。リバーサイド時代との重複を避けるために、曲は慎重に選ばれ、<ロコモーティヴ>、<バイ・ヤ>、<ボディ・アンド・ソウル>、<モンクス・ドリーム>など従来録音機会の少なかった曲や、<スウィート・ジョージア・ブラウン>を基にした新曲で、これも躍動感に満ちた<ブライト・ミシシッピ>を加えた。バンドの好調さを示すかのように、このアルバムはどの曲でも安定感のある演奏を聞かせ、各プレイヤーも自分の役割を完全に理解、消化した上で演奏している様子がよくわかる。50年代末のような予測不能性やわくわくするような刺激は薄れたかもしれないが、モンクは初めて自分の思い通りのサウンドを自由に出せるバンドを手に入れたと言える。また大手コロムビアとの契約と、このデビュー・レコードは世の中の注目を集め、モンクは初めてスター・ミュージシャンの仲間入りを果たし、かつてない名声を得るのである。モンクもラウズも、ダンロップもオアも、おそらくこのアルバムと、続く『クリス・クロス Criss-Cross』(1963)の2枚が、60年代にコロムビアに残したスタジオ録音としては最上のレコードと言えるだろう。

Straight, No Chaser
(1966 Columbia)
第26章 p567
Underground
(1967 Columbia)
第27章 p579
1960年代後半になると、肉体や精神の不調もあって、モンクの作曲への意欲や創作エネルギーは徐々に衰えつつあったが、1966-67年にバド・パウエル、エルモ・ホープ、そしてジョン・コルトレーンという盟友3人を相次いで失うという悲運が、音楽家モンクの精神の安定と創造意欲にとどめのような一撃を与える。またコロムビアの商業主義とは相容れない芸術家モンクの葛藤や不満も、徐々に高まっていたことだろう。ロックやフォーク、ポップスに押され、音楽としてのジャズそのものの衰退も明らかだった。したがってこの時期のレコードには、60年代前半までのモンクにあったような活力はあまり感じられないが、代わって成熟した安定感のあるバンドといった趣が強い。『ストレート・ノー・チェイサー Straight, No Chaser』(1966) と、『アンダーグラウンド Underground』(1967) という2枚のアルバムは、ラウズに加え、ドラムスのベン・ライリーとベースのラリー・ゲイルズというシュアな2代目リズムセクションとなって、タイム、リズムともにモンク・カルテットが最もバランスの取れた演奏をしていた時期でも最良の演奏を記録したものだろう。また新曲として、前者には日本公演時に覚えた<ジャパニーズ・フォークソング(荒城の月)>を、後者には<アグリー・ビューティ>、<レイズ・フォア>、<ボーボーズ・バースデイ>、<グリーン・チムニーズ>という新作4曲も久々に加えている。

しかしモンクの精神的不安定さと、体調が理由でギグをキャンセルしたりすることが徐々に増えていったこともあって、1969年には5年間在籍したベン・ライリーが去り、チャーリー・ラウズも翌1970年についにモンクの元を離れた。50年代のロリンズ、コルトレーンと同じく、ラウズもまた、モンクとその音楽の目指す方向性に忠実に、しかも長期にわたって従ったミュージシャンだった。映画『ストレート・ノー・チェイサー』で、モンクとの録音セッションやインタビューを受けるラウズの姿が見られるが、画面や言葉からもその人柄や誠実さがよく表れている。ラウズはこの映画の公開(1989年)を待たずに、19881130日にモンクと同じ享年64歳でシアトルで亡くなる。そして奇しくも同じ日に、あのニカ男爵夫人もニューヨークで亡くなっている。