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2018/04/06

仏映画『危険な関係』4Kデジタル・リマスター版を見に行く

日本映画の新作『坂道のアポロン』に続き、恵比寿ガーデン・シネマで特別上映されている仏映画の旧作『危険な関係 (Les Liaisons Dangereuses 1960)』4Kデジタル・リマスター版を見に行った。この映画のサウンドトラックになっているジャズ演奏の謎と背景については、当ブログで何度か詳しく書いてきた。ただこれまでネットやテレビ画面でしか見ていなかったので、リマスターされたモノクロ大画面で、セロニアス・モンクやアート・ブレイキーの演奏を大音量で聞いてみたいと思っていたので出かけてみた。

18世紀の発禁官能小説を原作にしたロジェ・ヴァディムのこの映画は、その後何度もリメイクされるほど有名な作品だが、その理由は、単に色恋好きのフランス人得意の退廃映画という以上に、男女間の愛の不可思議さと謎を描いた哲学的なテーマが感じ取れるからだろう。もちろん出演するジェラール・フィリップ、ジャンヌ・モロー他の俳優陣が良いこともあるし、ジャズをサウンドトラックにしたモノクロ映像と音楽の斬新なコンビネーションの効果もある。映画の筋はわかっているので、今回は主にジャズがサウンドトラックとしてどう使われているのかということに注意しながら見ていた。この映画の音楽担当の中心だったモンクの<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>で始まるチェス盤面のタイトルバックは、再確認したが、アート・ブレイキーのグループ、デューク・ジョーダンたちの名前は出てくるが、画面にアップになってトランペットを演奏するシーンがあるケニー・ドーハムの名前だけ、やはりなぜか見当たらなかった。映画の画面に登場するジャズ・プレイヤーで目立つのは、ドーハムの他、当然ながら当時売り出し中の若いフランス人バルネ・ウィラン(ts)、パリに移住して当時は10年以上経っていたはずのケニー・クラーク(ds)に加え、デューク・ジョーダン(p)の後ろ姿などで、特にもはや地元民のケニー・クラークのドラムス演奏シーンがよく目立つように使われている。

サウンドトラックの楽曲としては、やはりアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズによる<危険な関係のブルース(No Problem)>が、派手な演奏ということもあって、冒頭から最後までいちばん目立った使い方をされていて、特にジャンヌ・モローの顔のアップが印象的なエンディングに強烈に使われているので、彼らのレコードが映画の公開後ヒットしたというのも頷ける。ただし以前書いたように、この曲はデューク・ジョーダン作曲であり、しかもブレイキー、リー・モーガン(tp)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(ds)というメッセンジャーズ側は、バルネ・ウィランを除き映画には出ないで音だけで、代わってジョーダンを含む上記のメンバーが出演している(もちろんセリフはないが)という非常にややこしい関係になっている。モンクの演奏は、この映画のサウンドトラックに使われた1959年のバルネ・ウィランを入れたクインテット(チャーリー・ラウズ-ts、サム・ジョーンズ-b、アート・テイラー-ds)によるスタジオ録音テープが、音楽監督マルセル・ロマーノの死後2014年に55年ぶりに発見されて、昨年CDやアナログレコードでも発表されたので、映画中の演奏曲名もよくわかるようになった。しかしじっと見ていると、いかにもモンクの曲らしい<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>と<パノニカ>の独特のムードが、男女間の退廃的なテーマを扱ったこの典型的なフランス映画の内容にいちばんふさわしいことが改めてよくわかる。そしてモンクの他の楽曲もそうだが、当時はやった派手な映画のテーマ曲に比べて、モンクの音楽がどれもまったく古臭くなっていないところにも驚く。監督ロジェ・ヴァディムは、やはりジャズがよくわかっている人だったのだろう。

Les Liaisons Dangereuses 1960
(1959 Rec/2017
Sam Records/Saga Jazz)
『危険な関係』は1959年制作(公開は1960年)の映画だが、この時代1960年前後は、1940年代後半からのビバップ、クール、ハードバップ、モードというスタイルの変遷を経て、音楽としてのモダン・ジャズがまさに頂点を迎えていたときである。ブレイキー他によるハードバップの洗練と黒人色を強めたファンキーの流れに加え、マイルス・デイヴィスによるモードの金字塔『カインド・オブ・ブルー』の録音も1959年、飛翔直前のジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』も同じく1959年、我が道を行くモンクもCBSに移籍直前のもっとも充実していた時期、さらにギターではウェス・モンゴメリーが表舞台に登場し、ピアノではビル・エヴァンスの躍進もこの時代であり、音楽としてのパワーも、プレイヤーや演奏の多彩さも含めて、ジャズ史上のまさに絶頂期だった。ジャズはもはや大衆音楽ではなく、ハイアートとしても認知されるようになり、当時の思想を反映する音楽としてヨーロッパの知識人からの支持も得て、中でもヌーベルバーグのフランス映画と特に相性が良かったために、この『危険な関係』、マイルスの『死刑台のエレベーター』、MJQの『大運河』などを含めて多くの映画に使われた。実は私は『危険な関係』(日本公開は1962年)をリアルタイムで映画館で見ていないのだが、こうしてあらためて60年近く前の映画を見ても、映像と音楽のマッチングの良さは、なるほどと納得できるものだった。1960年代の日本では、のっぺりと明るいだけのアメリカ映画と違って、陰翳の濃いイタリア映画やフランス映画が今では考えられないほど人気があって、何度も映画館に通ったことも懐かしく思い出した。アメリカ生まれではあるが、アフリカやフランスの血も混じったいわばコスモポリタンの音楽であるジャズと、常に自由を掲げた開かれた国フランスの映画は実にしっくりと馴染むのだ。

しかしこの時代を境に、べトナム戦争や公民権運動など、60年代の政治の時代に入るとモダン・ジャズからはわかりやすいメロディ“が徐々に失われてゆき、ロックと融合してリズムを強調したり、ハーモニーの抽象化や構造の解体を指向するフリージャズ化へと向かうことになる。だから、いわゆる「古き良き」モダン・ジャズの時代はここでほぼ終わっているのである。スウィング時代の終焉を示唆する1945年終戦前後のビバップの勃興がジャズ史の最初の大転換とすれば、二度目の転換期となった1960年前後は、いわゆるモダン・ジャズの終焉を意味したとも言える。その後1960年代を通じて複雑化、多様化し、拡散してわかりにくくなったジャズの反動として、政治の時代が終わった1970年代に登場した明るくわかりやすいフュージョンが、メロディ回帰とも言える三度目の転換期だったとも言えるだろう。さらに、アメリカの景気が落ち込んだ1980年代の新伝承派と言われた古典回帰のジャズは、そのまた反動だ。1990年代になってIT革命でアメリカ経済が息を吹き返すと、またヒップホップを取り入れた明るく元気なものに変わる。こうしてジャズは、音楽としてわかりやすく安定したものになると、自らそれをぶち壊して、もっと差異化、複雑化することを指向し、それに疲れると、今度はまたわかりやすいものに回帰する、という自律的変化の歴史を繰り返してきた。別の言い方をすれば大衆化と芸術化の反復である。マクロで見れば、その背後に社会や政治状況の変化があることは言うまでもない。なぜなら、総体としての商業音楽ジャズは、時代とそこで生きる個人の音楽であり、その時代の空気を吸っている個々の人間が創り出すリアルタイムの音楽だからである。聴き手もまた同じだ。だから時代が変わればジャズもまた変化する。ジャズはそうした転換を迎えるたびに「死んだ」と言われてきたのだが、実はジャズは決して死なないゾンビのような音楽なのだ。逆にそういう見方をすると、セロニアス・モンクというジャズ音楽家が、いかに時代を超越した独創的な存在だったかということも、なぜ死ぬまで現世の利益と縁遠い人間だったかということもよくわかる。映画の画面から流れる<パノニカ>の、蝶が自由気ままにあてどなく飛んでいるようなメロディを聴いていると、その感をいっそう強くする。

ところでこの映画は、昨年7月に亡くなった名女優ジャンヌ・モローを追悼して新たにリマスターされたものらしく、公開は同館で324日から始まっていて、413日まで上映される予定とのことだ。しかし私が座ったのは真ん中あたりの席だったが、この映画館の構造上どうしても見上げる感じになるので首が疲れるし、下の字幕と大きな画面の上辺を目が行ったり来たりするので目も疲れる。年寄りは高くなった後方席で、画面を俯瞰するような位置で見るのが画も音もやはりいちばん楽しめると思った。この映画館の音量は、『坂道のアポロン』と『ラ・ラ・ランド』の中間くらいの大きさで、まあ私的には許容範囲だった。観客層の平均年齢は平日の昼間だったので、予想通りかなり高年齢のカップルが多かった。昼間働いている普通の人には申し訳ないようだが、まあ今はどこへ行っても平日の昼間はこんな感じである。また面白そうなジャズがらみの映画が上映されたら行ってみようと思う。

2018/03/22

映画『坂道のアポロン』を見に行く (2)

映画中で演奏されていた曲を聴いていたら懐かしくなって、昔聴いていたLPCDを久しぶりにあれこれ引っ張り出して聴いてみた。みな有名曲なので、当時は耳タコになるくらい聴いていたレコードばかりだ。
Moanin'
Art Blakey
1959 Blue Note
オールド・ジャズファンなら知らない人はいない『モーニン Moanin’』(1959 Blue Note) は、ドラマー、アート・ブレイキー(1919-90)の出世作であり、このアルバムをきっかけにして、ブレイキーはジャズの中心人物としての地位を固めてゆく。続く『危険な関係』、『殺られる』のようなフランス映画のサウンドトラックのヒットで、ヨーロッパでも知られるようになり、その後1961年に初来日して、日本にファンキーブームを巻き起こし、日本におけるジャズの人気と認知度を一気に高めた功労者でもある。当時のモンク、マイルス、コルトレーンたちが向かったジャズの新たな方向とは違い、50年代半ばから主流だったハードバップの延長線上にファンキーかつモダンな編曲を導入したベニー・ゴルソン(ts)が、より大衆的なメッセンジャーズ・サウンドを作り出してジャズ聴衆の層を拡大した。このアルバムのメンバーは、この二人にリー・モーガン(tp)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(ds)が加わったクインテット。録音されたのが『アポロン』の時代より78年前ということもあって、昔はそれほど感じなかったのだが、今聴くと、実にテンポがのんびりしていることに気づく。訳書『セロニアス・モンク』の中で、ブレイキーとモンクとの親しい間柄の話も出て来るが、二人の個人的関係や、“メッセンジャーズ”というバンド名と人種差別、イスラム教(アラーの使者)との関係など、この本を読むまで知らなかったことも多い。このメンバーからはリー・モーガンがブレイクして大スターになるが、ブレイキーはその後もウェイン・ショーター(ts)80年代のウィントン・マルサリス(tp)をはじめ、メッセンジャーズというバンドを通じて、長年にわたってジャズ界の大型新人を発掘、育成してきた功労者でもある。アルバム・タイトルでもある冒頭曲<モーニン>は、NHK「美の壺」のテーマ曲でもあり、日本人の記憶にもっとも深く刻印されたジャズ曲の一つで、まさに『アポロン』の中心曲にふさわしい。

Never Let Me Go
Robert Lakatos
2007 澤野工房
<マイ・フェイバリット・シングス My Favorite Things>は、もちろんミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の劇中曲で、日本では今はJRCMでも知られているが、ジャズでこの曲が有名になったのは、ジョン・コルトレーン(1926-67) がソプラノサックスで演奏した同名タイトルのアルバムを発表してからだ(1961 Atlantic)。コルトレーンはその後この曲を愛奏曲にしたが、さすがにこれは聞き飽きた。それ以降ジャズではあらゆる楽器でカバーされてきたし、近年のピアノではブラッド・メルドー(p)のライヴ・ソロのバージョン(2011)が素晴らしい演奏だ。しかしコルトレーンの演奏と、何せ元メロディの美しさと3拍子のリズムがあまりに際立って印象的なので、どういじってもある枠から逸脱しにくいところが難しいと言えば難しい曲だ。そういう点から、むしろオーソドックスに徹したロバート・ラカトシュRobert Lakatos1965-)のモダンなピアノ・トリオ『ネバー・レット・ミー・ゴー Never Let Me Go』2007 澤野工房)の中の演奏が、手持ちのレコードの中ではいちばん気に入っている。ラカトシュはハンガリー出身の、クラシックのバックグラウンドを持つピアニストで、澤野には何枚も録音している。演奏はクールでタッチが美しいが、同時にハンガリー的抒情と温か味、ジャズ的ダイナミズムも感じさせる非常に完成度の高いピアニストだ。このアルバムは録音が素晴らしいこともあって、タイトル曲をはじめ、他のジャズ・スタンダードの選曲もみな美しく透明感のある演奏で、誰もが楽しめる現代的ピアノ・トリオの1枚だ。

Chet Baker Sings
1954/56 Pacific
チェット・ベイカーChet Baker(1929-88)は、若き日のその美貌と、アンニュイで中性的な甘いヴォーカルで、1950年代前半の西海岸のクール・ジャズの世界では、ジェリー・マリガン(bs)と共に圧倒的人気を誇ったトランぺッター兼歌手だ。しかし外面だけでなく、メロディを基にしたヴァリエーションを、ヴォーカルとトランペットで自在に展開する真正のジャズ・インプロヴァイザーとして、リー・コニッツも高く評価する実力を持ったジャズ・ミュージシャンでもあった。またベイカー独特の浮遊するような、囁くようなヴォーカルは、ボサノヴァのジョアン・ジルベルトの歌唱法にも影響を与えたと言われている。『チェット・ベイカー・シングス Chet Baker Sings』1954/56 Pacific)は、そのベイカー全盛期の歌と演奏を収めた代表アルバムであると共に、『アポロン』で(たぶん)唄われた<バット・ノット・フォー・ミー>に加え、<マイ・ファニー・ヴァレンタイン>などの有名曲も入った、あの時代のノスタルジーを感じさせながら、いつまでも古さを感じさせない文字通りオールタイム・ジャズ・レコードの定盤でもある。ただし問題はベイカーの人格だったようで、アート・ペッパーやスタン・ゲッツなど当時の他の白人ジャズメンの例に漏れず、その後ドラッグで人生を転落して行き、前歯が抜け、容貌の衰えた晩年も演奏を続けたものの、結局悲惨な最後を遂げることになるという、絵に描いたような昔のジャズマン人生を全うした。

Portrait in Jazz
Bill Evans

1959 Riverside
<いつか王子様が Someday My Prince Will Come>もディズニーの有名曲のジャズ・カヴァーだが、デイヴ・ブルーベック(p)の『Dave Digs Disney』1957 Columbia)、マイルス・デイヴィスの同タイトルのアルバム(1961 Columbia)と並んで、やはりいちばん有名なピアノ・バージョンはビル・エヴァンス(1929-80) の演奏だ。エヴァンスはライヴ演奏も含めて何度もこの曲を録音しているが、やはり『ポートレート・イン・ジャズ Portrait in Jazz』1959 Riverside)が、エヴァンスの名声と共に、ジャズにおけるこの曲の存在を高めた代表的演奏だろう。スコット・ラファロ(b)、ポール・モチアン(ds)とのピアノ・トリオによるこのアルバムは、この時代の他の3枚のリバーサイド録音盤と合わせて、言うまでもなくエヴァンス絶頂期の演奏が収められたジャズ・ピアノ・トリオの名盤の1枚だ。収録された他の曲どれをとっても、現代のジャズ・ピアノへと続く道筋を創造したエヴァンスのイマジネーションの素晴らしさ、原曲が見事に解体されてゆくスリルとその美しさ、三者の緊密なインタープレイ、というピアノ・トリオの醍醐味が堪能できる傑作だ。

2017/10/31

モンクを聴く #14:London Collection (1971)

Complete London Collection
(1971 Black Lion)
第28章 p627
「ジャイアンツ・オブ・ジャズ 」は、1971年にジョージ・ウィーンが第1回目を企画した日本やオーストラリア、ヨーロッパ各地を巡業するという興業ツアーである。ディジー・ガレスピー、アート・ブレイキー、ソニー・スティットらのビバップ/モダン・ジャズ時代の大物メンバーを集めたグループによるその公演に、既に体調が相当悪化していたモンクも参加した。3枚のCDから成る『Complete London Collection』は、そのツアー終了後、ロンドンから帰国する直前の19711115日に、Black Lionレーベルのアラン・ベイツの企画で、モンク、アート・ブレイキー(ds)、アル・マッキボン(b)というメンバーで録音されたソロとトリオによる全演奏記録である。モンクにとって最後のソロ、トリオ演奏による録音でもあり、またこのアルバムが文字通りモンク最後のスタジオ録音リーダー作となった。おそらく体調による技術的衰えはあっただろうが、その演奏からはモンクの持つ情感とイマジネーションはまったく失われていない。モンクのピアノの音をクリアに捉えた録音も良く(特にソロ)、このアルバムは晩年のモンクの素顔を描いた素晴らしい記録である(ただし現在は入手が難しそうなのが難点だが)。

London Collection
Vol.1 - Solo
これらの録音の一部は、1970年代に日本でも『Something in Blue』、『The Man I Love』という2枚のLPでリリースされている。『London Collection』はその時の6時間に及ぶ録音から、LPには未収録だった他の音源(別テイクなど)も含めた全29の演奏を3枚のCDに収録したものだ。Vol.1はソロ演奏のみ10曲(自作曲5)、Vol.2はトリオによる8曲(全て自作曲)、Vol.3は別テイクを中心としたソロとトリオによる11曲で(<The Man I Love>を除き自作曲)、すべてモンクの愛奏曲と言っていいだろう。収録曲は以下の通り。

<Vol.1> Trinkle Tinkle (Take 3)/ Crepuscule With Nellie (Take 2)/ Darn That Dream/ Little Rootie Tootie/ Meet Me Tonight In Dreamland/ Nice Work If You Can Get It/ My Melancholy Baby/ Jackie-ing/ Loverman/ Blue Sphere
<Vol.2> Evidence (Take 2)/ Misterioso/ Crepuscule With Nellie (Take 4)/ I Mean You/ Criss Cross/ Ruby My Dear/ Nutty (Take 2)/ Hackensack (Take 2)
<Vol.3>  Trinkle Tinkle (Take 2)/ The Man I Love/ Something In Blue/ Introspection (Take 1)/ Trinkle Tinkle (Take 1)/ Crepuscule With Nellie (Take 3)/ Nutty (Take 1)/ Introspection (Take 3)/ Hackensack (Take 1)/ Evidence (Take 1)/ Chordially

モンクのピアノ・トリオによる録音セッションは『The Unique Thelonious Monk』(1956) 以来15年ぶり、ブレイキーとのレコーディング共演も『Monk’s Music』(1957) 以来14年ぶりである。Vol.2のトリオ演奏で取り上げているのは、1947年に初演した<Misterioso>と<Ruby, My Dear>の2曲を除くと、これまでトリオでは演奏したことのない自作曲ばかりだ。モンクが怒ったと本書で書かれているように、この録音では曲のコード進行を忘れているアル・マッキボンのベースが難点だが、トリオ演奏の中では特に<Ruby, My Dear>が印象的だ。<Ruby,…>はコンボやソロでは演奏しているが、トリオでの演奏は1947年の初演以来なので、この録音は四半世紀ぶりということになる。モンクのここでの演奏は、1947年の自身の初録音よりも、むしろ1961年のバド・パウエル『A Portrait of Thelonious』におけるパウエルの演奏を思い起こさせる。早逝した愛弟子パウエルへのオマージュとして取り上げたものだったのだろうか。

London Collection
Vol.2 - Trio
この後1973年頃からモンクはほぼ隠遁生活に入ったために、「ジャイアンツ・オブ・ジャズ」公演とそのグループによるスタジオ録音以外にリーダー作の録音機会はなく、このアルバムがモンク最後のスタジオ録音となった。ネリー夫人、アフリカ/ガーナの友人ガイ・ウォーレン、批評家アラン・モーガン、ピアニストのブライアン・プリーストリーら親しい人たちだけに囲まれて、ロンドンのチャペル・スタジオで行なわれた録音の模様は本書に詳しい。ガレスピーの曲中心の巡業に長期間加わってきた当時のモンクは、おそらく肉体的にも精神的にも疲れ切っていただろうが、ここでようやく、久々に自分自身の作品と向き合うことができた。いくつかのスタンダード曲を除き、自身のこれまでの作品を1曲ずつじっと振り返るように弾いていて、度忘れもし、時折のミスタッチもあるが、これらの演奏から聞こえてくるのは、この時のモンクの心象風景を映し出しているかのように、それまでのモンクには余り聞けなかった透明感のある、どこかひんやりとした肌合いの音楽である。
London Collection
Vol.3 -Solo/Trio
数多いモンクのアルバムの中でも、70年代に買った上記2枚のLPにはなぜか特別に心惹かれるものがあって、時々取り出しては聴きたくなる不思議な引力があった。特にソロ・アルバム『Thelonious Himself』1956)と同じく、自らと対話するように音を一つ一つ選びながら深く沈潜してゆく気配が濃厚なソロ演奏は、聴き手の心に深く沁み入るものがある。これらのソロ演奏は、いくつかのその後のコンサート・ライヴを除けばモンク最後のソロだが、晩年のモンクのソロは本当に素晴らしい。おそらく初めてではないかと思われるVol.1の<Jackie-ing>のソロは、最初どの曲か気づかないほどで、まるで現代音楽のように聞こえる。慈しむかのように弾く、スタンダードの愛奏曲<Darn That Dream>も美しい。そしてVol.3の最後に加えられた <コーディアリー Chordially> と名付けられた即興のソロ演奏は、モンクが本番前のウォーミング・アップとして、一人でスタジオのピアノの調子を探っている様子を約9分間にわたって録音したもので、LPには収録されていなかった。ゆったりとコードを押さえながら、パラパラとアルペジオと短いメロディで次のコードへ即興でつないでゆくだけの曲とも呼べないものなのに、あたかも時が止まったかのようなその透徹した響きの美しさは感動的だ。そしてモンクの頭の中で鳴り響いている音を、聴き手として初めて共有できたような不思議な喜びを覚える。それは「Golden Circle」における、晩年のバド・パウエルの尋常ならざる超スローテンポの <I Remember Clifford> を聴いた時と同じ不思議な感動で、ジャンルも技術も何もかも全てを超越した、純粋に音楽の美しさだけが心に残るような演奏である。まさしくセロニアス・モンク最後のソロにふさわしい。

2017/10/23

モンクを聴く #10:Les Liaisons Dangereuses (1958-59)

TILT
Barney Wilen
(1957 Swing/Vouge)
ジャズとパリとの関係は、50年代後半のフランス映画が象徴的で、ケニー・クラークやパド・パウエルをはじめとする多くのジャズメンも、パリに移住するなど、ジャズとミュージシャンたちを温かく迎え入れたこの街を愛した。ところがモンクは、1954年の初訪問だったパリ・ジャズ祭での評判が散々だったこともあって、その後1961年に初のヨーロッパ・ツアーで再訪するまで一度もパリを訪れていない。しかしモンクをパリに連れて行ったアンリ・ルノーのように、フランスには1940年代のブルーノート録音時代からモンクに注目していた現地のミュージシャンもいたのだ。フランス人テナー奏者バルネ・ウィラン (1937-96) も19歳のデビュー・アルバム 『ティルト TILT』19571月録音)で、早くもモンクの曲を6曲も取り上げ(LPで<Hackensack>、<Blue Monk>、<Misterioso>、<Think of One>の4曲、さらにCDで<We See>、<Let's Call This>の2曲追加)、モダンで滑らかなモンク作品のフランス流解釈を披露している。驚くのは、この録音がスティーヴ・レイシーの全7曲のモンク作品による『REFLECTIONS』(195810月録音)の19ヶ月も前だということだ。調べたことはないが、モンク本人との共演を除き、モンクの作品をこれだけ取り上げたホーン奏者はバルネ・ウィランが世界初だったのではなかろうか? ウィランはつまり、それ以前からモンク作品の研究をしていたということだろう。

Les Liaisons Dangereuses 1960
(1959 Rec/2017
Sam Records/Saga Jazz)
第19章 p371-
バルネ・ウィランとモンクとの関係については、本ブログの4/144/18の「危険な関係サウンドトラックの謎」、「バルネ・ウィラン」両記事で詳述している。ところが、ロビン・ケリーの本に詳しく書かれているフランス映画『危険な関係』サウンドトラックの逸話と、その後自分で調べた真相(?)に関するこの記事を書いた時点では知らなかったのだが、1959年にモンクとウィランが共演し、サウンドトラックとしては使われたが、レコード化されなかった未発表音源が今年2017年になって初めてリリースされていたのである。それが2枚組CD『Thelonious Monk - Les Liaisons Dangereuses 1960』 (Sam Records/Saga Jazz)で、ロビン・ケリーも含めた数人の解説者による60ページ近いブックレットを読むと、さらに細かいが面白い話が色々と書かれている。このブックレットには、録音内容を記録したメモや、ノラ・スタジオでの録音風景を撮影した写真もたくさん掲載されており、麦藁帽子(本書に逸話が書かれているように、これは中国製ではなく、アフリカの打楽器奏者ガイ・ウォーレンが送ってきた北部ガーナの農民の帽子だ)をかぶったモンクとレギュラー・メンバーの他、客演した当時22歳のバルネ・ウィラン、さらにネリー夫人、ニカ夫人の姿も写っている。これだけでも非常に貴重な史料だ。

この音源は、ロジェ・ヴァディムの『危険な関係』の音楽監督だったマルセル・ロマーノ(1928-2007)の死後、ジャズマニアの友人が保管していたロマーノのアーカイブの中から、2014年に55年ぶりに「発見」されたものだという。ロマーノはフランスのジャズ界では著名な人物で、1950年代にはバルネ・ウィランのマネージャーもしていて、ロビン・ケリー書の記述では1957年にNY「ファイブ・スポット」でモンクと会ったという話だが、実は1954年のモンクの初来訪時に既にパリで会っていたという(ウィランの上記アルバムでのモンク研究の痕跡を見れば、マネージャーだったロマーノがモンクと会っていてもおかしくない)。そのロマーノの残したテープの中に、ウィランの未発表音源がないかどうかFrancois Le Xuan Saga Jazzの創設者)と友人のFred ThomasSam Recordsの創設者)が探しているときに偶然そのテープを見つけたのだという。1958年夏に、ロジェ・ヴァディムとロマーノはモンクにサウンドトラック作曲の申し入れを行なったのだが、モンクはなかなか受け入れようとしなかった。1959年の夏、映画完成の直前になってようやく承諾したものの、サウンドトラック向け新曲は結局1曲も書けずに、既存の自作曲を録音することになったが、これはその時の演奏を録音したテープだったのだ。

実は、モンクは1958年10月デラウェア州でニカ夫人、チャーリー・ラウズと一緒に、麻薬所持を理由に警察による逮捕、暴行被害に合い、その後精神的に不安定になってしばらく入院していたが、その時またもや(3度目である)警察にキャバレーカードを無効にされ、ニューヨークのクラブで仕事ができなくなった。さらに翌1959年2月には、モンクが期待し、精魂込めて取り組んだ「タウンホール」のビッグバンドのコンサート後、批判的な論評に怖気づいたリバーサイドが、予定していた8都市のコンサート・ツアーをキャンセルしたために、モンクには唯一の収入の見込みがなくなってしまったのだ。精神的に落ち込んだモンクは、4月にはボストンのクラブ「ストリーヴィル」出演後行方不明になって、グラフトン州立精神病院に収容され、その後抗精神病薬の治療を受けるようになった。それやこれやで、この映画音楽の依頼を受けた当時、モンクはとても新しい曲を書けるような精神状態になかった、というのが本ブックレットでロビン・ケリーが述べている見方で、このいきさつは本書にも書かれている。

仏映画「危険な関係」
第19章 p371-
1959727日にNYノラ・スタジオで録音されたステレオ音源は、モンク、チャーリー・ラウズ(ts)、サム・ジョーンズ(b)、アート・テイラー(ds)という当時のレギュラーカルテットに、直前のニューポート・ジャズ祭でアメリカデビューを果たしたバルネ・ウィラン(ts) が客演した2テナーのクインテットによるものだ。お馴染みの曲が中心だが、リバーサイド時代のモンクには、このレギュラー・カルテットを中心にしたスタジオ録音は1作(『5 by Monk by 5』)しかないので、その意味でも貴重な録音だ。
2枚のCDの収録内容は以下の通り。
<CD1> Rhythm-a-Ning/ Crepuscule with Nellie/ Six in One (solo)/ Well, You Needn’t/ Pannonica (solo)/ Pannonica (solo)/ Pannonica (quartet)/ BaLue Boliver Ba-lues-Are/ Light Blue/ By and By (We'll Understand It Better) 
 <CD2> Rhythm-a-Ning(alt.)/ Crepuscule with Nellie (take 1)/ Pannonica (45 master)/ Light Blue (45 master)/ Well, You Needn’t (unedited)/ Light Blue (making of)

このテープは、翌728日、29日のアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズによる演奏(こちらは<No Problem> などのデューク・ジョーダン作品)を収録した録音テープと一緒に、ロマーノが映画の完成に間に合わせるために急いでパリに持ち帰ったものだ。映画冒頭のタイトルバック<クレパスキュール…>や<パノニカ>をはじめ、これらの演奏は映画中で何度も使われている。特筆すべきは、おそらくロマーノ所有のマスターテープの保存状態が良かったために、多分あまり加工していないこのステレオCDの音は非常にクリアで、音場も良く、モンクのピアノも、各メンバーの楽器もボディ感のある鮮明な音で再生できることだ(同時発売のアナログ盤はきっとさらに良いのだろう)。リバーサイド時代のモンク作品の録音は、どれもいまいちのように思うが、その中で比べても一番良い音だと思う。このセッションは、モンクにとってリバーサイド最後のスタジオ録音となった『5 by Monk by 5』 録音(19596月)の直後で、モンクの体調も回復し、チャーリー・ラウズがようやくモンクの音楽に馴染んだ頃でもあり、ラウズのプレイも非常にスムースだ。モンクとの最初にして最後の共演となった若きバルネ・ウィランは時々トチっている部分もあるが、4曲に参加して堂々とプレイしている。おそらくアンニュイな映画のイメージを意識したのだろう、ほとんどの曲がテーマ中心に比較的短く、かつゆったりとしたテンポで演奏されている。印象的な<Six in One>は、この時名付けられたモンクのソロによる即興のブルースで、同じ年10月のSFでのソロアルバムで、多少変形されて<Round Lights>として演奏された曲だ。CD2の<Light Blue>メーキングでは、アート・テイラーのドラムスのリズムを巡って、延々と続く(?)スタジオ内のモンクたちの会話も捉えられている。

1960年に公開された映画『危険な関係』がヨーロッパで大ヒットしたこともあり、翌1961年に7年ぶりにパリを再訪し「オリンピア」劇場で公演したモンクは54年の時とは打って変わって熱狂的な聴衆に迎えられた。当時アメリカでもようやく名声を高めていたモンクは、文字通り凱旋を果たしたのである。パリは、1954年のニカ男爵夫人との出会いがあり、愛弟子バド・パウエルが暮らしていた場所でもあり、その後のモンクの人生に大きな影響を与えた街だった。

2017/10/17

モンクを聴く #7:with Johnny Griffin (1958)

コルトレーンの後任、モンク・カルテット二人目のレギュラー・テナー奏者になったジョニー・グリフィン(1928-2008) はシカゴ生まれで、ライオネル・ハンプトン楽団でプロのキャリアをスタートさせ、1957年にニューヨークに進出した。本書にあるように、195512月にシカゴで共演したモンクはグリフィンを気に入り、オリン・キープニューズにリバーサイドがグリフィンと契約するよう働きかけたらしいが、ブルーノートが先に契約してしまったという。

Art Blakey's Jazz Messengers
with Thelonious Monk
(1957 Atlantic)

第17章 p327
アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのメンバーとしてブルーノートに何作か録音したグリフィンの、モンクとの初の共演セッションは、19575月のアトランティック・レーベルの『Art Blakey's Jazz Messengers with Thelonious Monk』である。相性の良いブレイキーが率いるクインテット(グリフィン-ts、ビル・ハードマン-tp、スパンキー・デブレスト-b)に、<エヴィデンス>、<イン・ウォークド・バド>、<リズマニング>、<ブルー・モンク>、<アイ・ミーン・ユー>という自作の5曲を提供した代わりとして、モンクが(ユニオン最低賃金で)サイドマンとして客演したセッションだ<リズマニング>はこのレコードが初録音である。サイドマンとは言え、当然このセッションを仕切っているのはモンクで全体としてメッセンジャーズ側がまだモンクの音楽を消化していない様子が伺えるが、グリフィンは自作ブルース<パープル・シェイズ>を提供していて、他の曲でもやはりモンクとの相性の良さが既に感じられる。ちなみにモンクが参加したアトランティックのレコードはこれ1枚だけである。グリフィンはその後1958年にリバーサイドに移籍し、小さな身長(165cmくらい)なのに、高速で豪快なサックスを吹きまくることから付けられたニックネーム通りの「リトル・ジャイアント The Little Giant(1959)というアルバムを含めて、リバーサイドから何作かリリースしている。

Thelonious in Actin
(1958 Riverside)
第19章 p364
195712月にコルトレーンとの初の長期ギグを終えたモンクは、テルミニ兄弟の要請で、翌19586月から二度目となる「ファイブ・スポット」での8週間のレギュラー・ギグを開始する。カルテットのテナー奏者として、モンクはコルトレーンの後任に依然としてソニー・ロリンズを雇いたいと思っていたが、ロリンズは既に完全にリーダーとして活動していたので、その案の実現は難しく、代わってジョニー・グリフィンを雇うことにした。上記アトランティック盤のセッションから約1年後である。グリフィンがリバーサイドに移籍したことから、コルトレーンの時と違って「ファイブ・スポット」でのレーベルによる初のライブ録音が可能となった。「ファイブ・スポット」でのモンク・カルテットの公式ライヴ録音は、グリフィンと共演したこの2枚のアルバムだけである。アーマッド・アブドゥルマリク(b)とロイ・ヘインズ(ds)というカルテットによる195879日、87日の2日間のセッションをリバーサイドが録音したが、7月9日の録音は演奏が不満だったモンクの許可が出ず(モンクの死後、キープニューズが発表して追加した)、8月7日の録音だけが『セロニアス・イン・アクションThelonious In Action』と『ミステリオーソMisterioso』という2枚のLPでリリースされた。全曲がモンクの自作曲で、同一メンバーによる同日演奏を振り分けただけなので、演奏内容に大きな違いはないが、ジョニー・グリフィンのテナーは、ロリンズともコルトレーンとも異なる快活さと、枠内に留まらない自由と豪放磊落さを持っているので、ライヴ録音ということもあって両アルバムとも非常に楽しめる。

Misterioso
(1958 Riverside)
第19章 p364
本書にあるように、クラブの出演ステージ上でリハーサルをやっていたモンク流の指導方法に加え、グリフィン的にはモンクのピアノだと、どこか拘束されているような気がするという感覚もよくわかる。モンク独特のリズムに乗ったアクセントでコンプしながら、飛び回るようなやんちゃなグリフィンをコントロールするように、モンクが冷静な音を出して手綱を引き締めているような瞬間がたびたびあるからだ。これは真面目できちんとした(?)ロリンズやコルトレーン相手のモンクとは明らかに違う。しかしこのグリフィンの豪快さと対照的にクールなモンクとの対比が、このアルバムの面白いところで、聞きどころでもある。モンクも、グリフィンの枠にはまらない自由さと豪快さを違う個性として評価していたのだろう、ロリンズやコルトレーンに対するのとは別のアプローチを楽しんでいるようにも聞こえる。また著者ロビン・ケリーが好きなロイ・ヘインズの躍動的なドラミングも非常に素晴らしい。いずれにしろ、クラブ・ライヴがジャズではいちばんエキサイティングで楽しい、ということを証明しているようなアルバムである。ピアノ・トリオ入門がプレスティッジ盤であるように、モンクのコンボ演奏入門には、ジョニー・グリフィンとのこの「ファイブ・スポット」ライヴが最適だろう。

しかしモンクの絶頂期とも言える、この時期の「ファイブ・スポット」のライヴ演奏を記録したのがこの2枚のアルバムだけというのは、リバーサイドの大失態ではないかと思う。さらに後年19606月にテルミニ兄弟が新たにオープンした「ジャズ・ギャラリー」で、キャバレーカードを三たび取り戻して久々に登場したモンクのバンド(チャーリー・ラウズ-ts、ジョン・オア-b)に、ロイ・ヘインズ(ds)、さらに初めてスティーヴ・レイシー(ss) が加わったクインテットの長期間(16週間)の貴重なライヴ演奏も録音されなかった。芸術指向が強く、完全主義のオリン・キープニューズ的には、何が起こるかわからないライヴ録音は気が進まなかったのだろうか? あるいは本書にあるように、キープニューズとモンクの関係は、この時期には既に相当悪化していたようなので、そうした影響もあったのかもしれない。この当時のリバーサイドの録音記録を見ると、ビル・エアヴァンス、キャノンボール・アダレイ等を頻繁に録音しているので、モンクへの過小な印税支払い疑惑と自分の録音の少なさなどを、当時モンクが不満に思っていたことも確かだろう。実際その年の末には、モンクはリバーサイドを去るという決断を下すのである。一般的な印象とは違って、本書における著者のリバーサイドとオリン・キープニューズの描き方は一貫して批判的だ。 

グリフィンは約2ヶ月という短期間でモンクのバンドを辞めるが(「ファイブ・スポット」では金にならない、という理由で)、その後1960年からエディ・ロックジョー・デイヴィス(ts)と双頭クインテットを率い、1963年にはヨーロッパに移住し、1978年までオランダで活動した。その間、1967年のモンクのヨーロッパ・ツアー時には、オクテット、ノネットのメンバーとして参加している。グリフィンは辞める際、後任にソニー・ロリンズを指名し、19589月にそのロリンズは「ファイブスポット」での12日間のギグとコンサートでモンクと短期間共演するが、翌10月のモントレージャズ祭出演を機に、チャーリー・ラウズの名前を自分の後任候補の一人として挙げてバンドを去るのである。

2017/10/15

モンクを聴く #6:with John Coltrane (1957 - 58)

1956年当時、モンクはマイルス・バンドにいたジョン・コルトレーン(1926-67) に目をかけていたが、モンクのキャバレーカード問題、コルトレーンのヘロイン問題という両者の障害のために、共演の機会はなかなか訪れなかった。その後マイルス・バンドをクビになったコルトレーンを、モンクはメンターとして個人的に指導するようになり、コルトレーンはニカ邸に加え、モンクの自宅にまで毎日のように通って指導を受けている。そして、ようやく初共演の録音セッションとなった1曲が、19574月のモンクのソロ・アルバム『Thelonious Himself』(Riverside) でのウィルバー・ウェアとのトリオによる<モンクス・ムード>である。

Monk's Music
(1957 Riverside)
第17章 p329-
続いて4管セプテットの一人としてだが、本格的共演作『Monk’s Music』(Riverside) がその直後6月に録音されており、モンクはコルトレーンを自分のバンドで雇うという約束をようやく果たした。レイ・コープランド(tp)、ジジ・グライス(as)、コールマン・ホーキンズ(ts)、ウィルバー・ウェア(b)、アート・ブレイキー(ds)というメンバーによるこのアルバムは、「ブリリアント・コーナーズ」と並んでリバーサイド時代のモンクを代表する録音で、<オフ・マイナー>、<エピストロフィー>、<ウェル・ユー・ニードント>など久々に取り上げた曲など、モンクの自作曲のみ6曲を演奏しているアルバム冒頭の、ホーンセクションだけの短いが荘厳な<アバイド・ウィズ・ミー Abide with Me>は、幼少時代から愛した賛美歌(日暮れて四方は暗く)をモンクが編曲したもので、心に染み入るその演奏はモンクの葬儀の際に流れた。この録音は、モンクがコールマン・ホーキンズという恩人と10年ぶりに共演するという機会でもあり、ホーキンズは<ルビー・マイ・ディア>で芳醇で温かなソロを聞かせている。しかし、コルトレーンはホーキンズに気後れしたのか、セプテットという編成もあったのか、まだ新入りだったせいなのか、ここではまだ全体にあまり目立たない演奏が多い。苦労した録音時のいくつかの逸話は本書に詳しいが、特にアート・ブレイキーの語る、恩人ホーキンズ、当時弟子のようだったコルトレーンに対するモンクの説教の裏話は、作曲家モンクの面目躍如といった趣があり非常に面白い(どことなくおかしい)。作曲に何ヶ月もかかり、当時病床にあったネリー夫人に捧げた名曲<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>は、インプロヴィゼーションのない通作歌曲形式の作品で、これが初演である。<ウェル・ユー・ニードント>演奏中に「コルトレーン!」と叫ぶモンクの声も、2011年のリマスターされたOJCステレオ版のCDではよく聞こえる(このCDは非常に音がクリアだ)。疲れ切ったモンク、重鎮ホーキンズの存在、新米メンバーだったコルトレーン初の本格的共演、難曲録音時の裏話、<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>の作曲と初演、ジャケット写真制作時の面白い逸話など、このアルバムは個々の演奏の完成度は別としても、何よりモンクらしい話題が豊富なので、それらを想像しながら聴くだけで十分楽しめる。

Thelonious Monk with
John Coltrane
(1957Rec. 1961 Jazzland)
第18章 p352
本書に詳しいように、ハリー・コロンビーやニカ夫人の尽力、テルミニ兄弟の支援によってキャバレーカードをようやく手に入れたモンクは、この翌月195774日からクラブ「ファイブ・スポット」にレギュラー出演し、コルトレーンも716日にモンク・カルテットのテナー奏者として同クラブに初登場する。ウィルバー・ウェア(b)(後にアーマッド・アブドゥルマリク)、シャドウ・ウィルソン(ds) を加えたコルトレーンのワンホーン・カルテットは、その後約半年間「ファイブ・スポット」に連続出演することになる。当時はまだ精神面に不安があったものの、長年の苦闘を終え、6年ぶりにやっとキャバレーカードを手にしてニューヨーク市内で仕事ができることに加えて、これはモンクにとって初の自分のレギュラー・バンドによるレギュラー・ギグであり、しかもそこでコルトレーンを擁して自作曲を演奏できるモンクが、どれだけ高揚した気分でいたかがわかろうというものだ。本書に詳しいように、当時「ファイブ・スポット」に日参した芸術家たちを中心とした聴衆側の熱気も伝説的なものだ。ところが返すがえすも残念なことに、この時期の伝説的カルテットの白熱のライヴ演奏を録音したレコードは存在しないのだ。それはコルトレーンが当時プレスティッジとの契約下にあったためで、唯一記録として残されているのが、リバーサイドが7月にスタジオ録音したと言われている3曲で、これも交換条件を出したプレスティッジのボブ・ワインストックの案(コルトレーンのレコードに、モンクがサイドマンとして参加する)をモンクが拒否したために、その後リバーサイド系のJazzlandレーベルによって 1961年にリリースされるまでお蔵入りになっていた。その3曲とはモンク作の<ルビー・マイ・ディア>、<トリンクル・ティンクル>、<ナッティ>で、当時のレギュラーだったウィルバー・ウェア(b)とシャドウ・ウィルソン(ds ) が参加している。その3曲に、モンクの19574月の『ヒムセルフ』からソロ演奏の<ファンクショナル>、6月の『モンクス・ミュージック』から<エピストロフィー>(ホーキンズ抜き)と<オフ・マイナー>のそれぞれ別テイク計3曲を加えて、1961年になってからリリースされたのが『Thelonious Monk with John Coltrane』(Jazzland) である。<ルビー・マイ・ディア>に聞けるように、メロディからあまり遊離することなく、シンプルに美しく歌わせるコルトレーンのその後のバラード演奏は、明らかにこの時期のモンクの「指導」によって磨かれたものだろう。<トリンクル・ティンクル>と<ナッティ>は、コルトレーンがモンクと共演してから初めて思う存分吹いているようで、モーダルな初期のシーツ・オブ・サウンドがたびたび現れる。7月中旬の「ファイブ・スポット」出演当初はボロボロだったと言われるコルトレーンの演奏は、以降モンクとのリハーサル(?)を経て飛躍的に進化して行ったが、あの「神の啓示」を得たという有名な発言も、モンクと共演していたこの時期のことである。ついにヘロイン断ちをしたのも同じ時期であり、その後さらに強まるコルトレーンの求道的な姿勢も、この当時に形作られたものだろう。最後に1曲だけ入ったモンクのソロ、<ファンクショナル>の別テイクもやはり素晴らしい。

Thelonious Monk Quartet
with John Coltrane
Live at Carnegie Hall
(1957 Rec. 2005 Blue Note)
第18章 p356
上記スタジオ録音は19577月だと言われているので、コルトレーンがバンドに入ってまだ間もない頃だ。その後18週間の「ファイブ・スポット」でのギグを経て、カルテットにとって初の大舞台となったのが1129日の「カーネギーホール」での慈善コンサートで、このときはベースがウィルバー・ウェアからアーマッド・アブドゥルマリクに代わっている。短波ラジオ局ヴォイス・オブ・アメリカ(VOA)によるこのコンサートの録音テープが米国議会図書館で奇跡的に「発見」されたのは、それから48年後の2005年であり、まるでタイムカプセルを開けたようなこの発見は当時大変な騒ぎとなった。ブルーノートのマイケル・カスクーナとモンクの息子T.S.モンクが、そのモノラル録音テープをデジタル・リマスターして発表したのが『Thelonious Monk Quartet with John Coltrane at Carnegie Hall』Blue Note)である。幻の「ファイブ・スポット」でのライヴではないが、4ヶ月以上にわたって共演してきたモンクとコルトレーンのカルテットによる演奏が素晴らしいのは当然で、しかも<スウィート・アンド・ラヴリー>を除く7曲がすべてモンクの自作曲である。冒頭の<モンクス・ムード>の美しい対話だけで、いかに二人が緊密な関係を築き上げていたかがよくわかる。モノラルだが録音も素晴らしくクリアで、モンクとコルトレーンだけでなく、アブドゥルマリクのベース、ウィルソンのドラムスも明瞭に聞き取れ、演奏の素晴らしさを倍増させている。当時の好調さを表すように、モンクも非常に生きいきとした文句のないプレイを聞かせているが、コルトレーンは完全にtake-offしており、その後の世界に半分突き進んでいる。このカルテットの演奏は、おそらくモンク作品を史上最も高い密度と次元で解釈、演奏したコンボの記録と言えるだけでなく、絶頂期のモンクと前期コルトレーンの2人を捉えたモダン・ジャズ史上最高の録音の一つと呼べるだろう。

Thelonious Monk Quartet
with John Coltrane
Live at Five Spot
(1958 Rec. 1993 Blue Note)
第19章 p376
モンクとコルトレーンのもう一つの共演記録としては、1957年末にバンドを去ったコルトレーンが、翌1958911日にジョニー・グリフィンの代役として「ファイブ・スポット」に出演したときの録音が残されている。アーマッド・アブドゥルマリク(b)とロイ・ヘインズ(ds) によるカルテットで、これは当時コルトレーンの妻だったナイーマが、プライベート録音していた音源を1993年にブルーノートがCD化したものだ。家庭用のレコーダーだったために音質は良くないが、その時期のモンクとコルトレーンの「ファイブ・スポット」における共演を捉えた唯一の貴重な録音である。それまでモンクとたっぷりリハーサルを積み上げ、また自身もミュージシャンとして急上昇中のコルトレーンは、クラブライヴということもあって、ここでは余裕しゃくしゃくで吹きまくっているようだ。

これら残された録音を聴くと、ソニー・ロリンズと並んで、真面目なコルトレーンも当時モンクの良き生徒であり、2人の人間的、音楽的相性も良かったように思える。本書からわかるのは、モンクは基本的に「ジャズの先生」であり、ロリンズ、コルトレーン、チャーリー・ラウズも含めて、モンクが好んだのは、実力はもちろんだが、師匠の言うことに謙虚に耳を傾け、成長しようとする誠実なミュージシャンだったということだ。ロリンズと同じく、自らの道を選んで飛び立ったコルトレーンとモンクが、その後レコード上で共演することは二度となかった。それから9年後の196612月、コルトレーンが亡くなる7ヶ月前、真冬のデトロイトでのコンサートが二人の最後の共演の場となった。

2017/10/13

モンクを聴く #5:with Sonny Rollins (1953 - 57)

本書によれば、ソニー・ロリンズ(1930-) は高校時代からモンクの自宅に通って学習し、モンクから音楽的薫陶を受けていたということなので、モンクをある意味師匠のように尊敬していたのだろう。モンクもテナー奏者としてのロリンズの高い能力を最初から認めていて、あまり口出しはしないでロリンズのミュージシャンとしての成長を見守っていたようだ。そうした関係もあって、ロリンズはおそらくモンクの音楽的意図を読み取る能力が誰よりも長けていたのだと思う。この2人のレコードでの共演からは音楽上ほとんど破綻が感じられず、どの演奏も非常にスムースで完成度が高い。音楽的相性から見ても、モンクに最も合っていたホーン奏者はソニー・ロリンズだったと思う。ロリンズと共演する時は、モンクのピアノだけが浮き上がるようなことがなく、二人のサウンドが自然に調和していてまったく違和感を感じさせないからだ。モンクはロリンズを高く評価し、クラブ・ギグで何度か共演しながら、ずっと自分のバンドのメンバーに欲しがっていた。しかしロリンズが成長して一本立ちしつつあったこともあり、レコードや短期間のギグでの共演を除き、結局ロリンズがモンク・バンドのレギュラー・メンバーになることはなかった。

Thelonious Monk
and Sonny Rollins
(1954 Prestige)
第12章 p242
2人の最初のレコード上の共演は、プレスティッジでの19531113日録音のモンクの自作3曲<レッツ・コール・ディス>、<シンク・オブ・ワン>、<13日の金曜日>で、次が195410月録音の<アイ・ウォント・トゥー・ビー・ハッピー>、<ザ・ウェイ・ユー・ルック・トゥナイト(今宵の君は)>、<モア・ザン・ユー・ノウ>というスタンダード3曲である。1953年録音は、本書にあるように、モンクとロリンズの到着が遅れ、おまけにインフルエンザでレイ・コープランド(tp)が倒れ、代わって急遽ジュリアス・ワトキンス(fh)が参加して、パーシー・ヒース(b)とウィリー・ジョーンズ(ds)によるセクステットで演奏したもので、いつ終わるのか…と有名な<13日の金曜日>が収録されている。1954年録音のスタンダード曲は、プレスティッジによるロリンズのリーダー・セッションに、モンクがエルモ・ホープに代わってサイドマンとして参加したもので、ロリンズのテナーサックスにトミー・ポッター(b)とアート・テイラー(ds)が参加したカルテットによる演奏である。

Monk
(1954 Prestige)
第14章 p265
プレスティッジは名演と言われる54年の<モア・ザン・ユーノウ>のみをロリンズのアルバム『ムーヴィング・アウト Moving Out』に入れ、54年の他のスタンダード2曲と53年の<13日の金曜日>という計3曲、さらにのピアノ・トリオ(アート・ブレイキー-ds、パーシー・ヒース-b)による54年録音<ワーク>、<ナッティ>というモンク作品2曲を加えて、『Thelonious Monk & Sonny Rollins』というアルバムとしてリリースした。53年の残り2曲は、545月の他のセッション(レイ・コープランド-tp、フランク・フォスター-ts、カーリー・ラッセル-b、アート・ブレイキー-ds)と組み合わせて、『Monk』という別のLPでリリースするという、何を考えていたのかよくわからない、ややこしいアルバム構成になっている(私も調べてみて初めて全体の構成がわかった)。当時23、4歳のロリンズはまだ成長途上にあったが、既に堂々とした、流れるようなテナープレイは、やはりモンクとの長い交流と相性の良さを感じさせるものだ。

Brilliant Corners
(1956 Riverside)
第16章 p313
ソニー・ロリンズが上記54年録音の2年後に参加し、モンクの最高傑作とされるアルバムが、195610月と12月に3回のセッションでリバーサイドに録音された『ブリリアント・コーナーズ Brilliant Corners』である。ロリンズは当時クリフォード・ブラウン/マックス・ローチ、マイルス・デイヴィスなどとセッションを重ね、同年6月には傑作『サキソフォン・コロッサス Saxophone Colossus』(Prestige) を録音するなど、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。モンクの素晴らしいピアノ・ソロ<アイ・サレンダー・ディア>を除き、モンク自作の4曲が収録されており、<ブリリアント・コーナーズ>、<バルー・ボリバー・バルーズアー>、<パノニカ>という新作3曲は、アーニー・ヘンリー(as)、オスカー・ペティフォード(b)、マックス・ローチ(ds)が参加したクインテットによる演奏である。25テイクを要した難曲<ブリリアント・コーナーズ>の演奏を巡って、モンクと口論して辞めたオスカー・ペティフォードに代わって、<ベムシャ・スウィング>のみポール・チェンバース(b)が、また直前にディジー・ガレスピーのバンドに加わったアーニー・ヘンリーに代わってクラーク・テリー(tp)が参加している。このうち新作<パノニカ >と<バルー・ボリバー・バルーズアー>の2曲は、言うまでもなく、火事にあうなど大変な時期にモンクに手を差しのべてくれたニカ夫人に捧げたものだ。あのニカ夫人のイメージがまさに浮かび上がって来るような、チェレスタで始まる<パノニカ>のメロディとリズムは、一度聴くと忘れられないほど印象的だ。ブルース<バルー・ボリバー…>は、モンクをはじめとしたミュージシャンが頻繁に出入りしたため、ニカ夫人が退去を迫られたボリバー・ホテルを(たぶん)皮肉って付けた曲名だろう。タイトル曲を含めたこのアルバム録音時の状況と逸話は本書に詳しいが、モンクのソロで演奏されるバラード<アイ・サレンダー・ディア>、マックス・ローチの<ベムシャ・スウィング>におけるドラム・プレイ、さらにモンクとたっぷり練習した全盛期のロリンズのソロはもちろん、その後間もなくして亡くなったアーニー・ヘンリーのアルトサックスは音色、フレーズ共に本当に素晴らしい。わかりやすいハードバップ全盛の1956年という時代にあって、独創的としか言いようのない、我が道を行くこのサウンドを創造したモンクも、それぞれのプレイヤーの演奏も、どの曲も本当に素晴らしく、モンクの最高傑作の名に恥じないアルバムだ。

Sonny Rollins Vol.2
(1957 Blue Note)
第17章 p326
ロリンズとモンクの共演作4枚目のアルバムは、『ブリリアント・コーナーズ』の半年後、19574月にブルーノートに録音されたロリンズのリーダー作『Sonny Rollins Vol.2』。ロリンズの絶頂期であり、参加メンバーも大物ばかりで、J.J.ジョンソン(tb)を加えた2管クインテットによる超豪華ジャムセッションである。モンクにとっては、ブルーノート初録音からちょうど10年目にあたり、6月の『モンクス・ミュージック』録音、7月の「ファイブ・スポット」出演の直前である。モンクはリバーサイドのソロ・アルバム『ヒムセルフ』録音の合間をぬって、ハッケンサックのヴァン・ゲルダー・スタジオに出かけている。アルフレッド・ライオンやヴァン・ゲルダーとも久々に再会し、また気心の知れたメンバーとの共演にリラックスして客演したモンクは、全6曲のうち自作の2曲に参加している。ポール・チェンバース(b)、アート・ブレイキー(ds)とのカルテットでバラード<リフレクションズ>を、J.J.ジョンソン(tb)とホレス・シルヴァー(p)も加わったクインテットで、ブルース<ミステリオーソ>を演奏している。ロリンズやブレイキーをはじめ、参加メンバーはモンク旧知のミュージシャンばかりで、これぞモダン・ジャズというべき演奏はどれも素晴らしいが、他の典型的ハードバップの演奏の中にモンクの2曲が入ると、やはりそこだけどこか空気が違うことがよくわかる。<ミステリオーソ>はモンクがロリンズ、シルヴァーがJ.J.ジョンソンのバックで弾いているので、モンク的ブルースというよりもハードバップ的色合いが濃い。ロリンズのワンホーン・カルテットによる<リフレクションズ>ではモンクのみがピアノを弾いているが、2人の初録音から3年半が経過し、テナー奏者として既に完成の域に達していたロリンズとモンクは、ここでも素晴らしく息の合った演奏に仕上げている。この邂逅によって、モンクとロリンズは二人の頂点とも言える演奏を録音したと言えるだろう。

モンクのことが好きだったロリンズは、その後いつでも共演する準備はあったようだが、1958年にジョニー・グリフィンの後任として「ファイブ・スポット」で短期間共演するといった機会を除き、残念ながらその後2人の共演レコードは残されていない。

2017/10/06

モンクを聴く #2 : Piano Trio (1952 - 56)

モンクのピアノ・ソロは美しいが独白特有の緊張感が常に感じられ、ある種の厳しさがあるので(コロムビア盤は別だが)、しょっちゅう聞きたいとは思わない。一方コンボは音楽としては非常に面白いのだが、曲全体の複雑な構造とリズム、ホーンなどバンド編成と声部に気を取られて、モンクの音そのものがやや聞き取りにくい時がある。トリオはその中間で、何よりモンクのピアノの音が中心なのでよく聞こえるし、リズムセクションが入るので活気が出て、モンク独特のリズム、アクセントも、ドラムス相手に瞬時に反応するモンクの意図もよく聞こえて来る。編成がシンプルなので曲のメロディも骨格もよく見え、ひと言で言えば聞いていて分かりやすくて楽しい。絵画で言えば、ソロはデッサン、コンボは油絵、トリオは水彩画に例えられるだろうが、そこは何を描いてもモンクはモンクで、しかも抽象画だ。

Genius of Modern Music Vol.1
(1947 Blue Note)
第10章
しかし、モンクはライヴの場でもそうだが、ピアノ・トリオの録音数も思いのほか少なく、単独アルバムとしてはプレスティッジとリバーサイドに吹き込んだ3枚だけだ。当然ながら「作曲家」モンクとしては、シンプルなトリオよりも、やはり基本的にホーン・セクションを入れた重層的なサウンドで自分の音楽を表現したかったからだろう。録音としては194710月に、ブルーノートに吹き込んだアート・ブレイキー(ds)とジーン・ラメイ(b)とのトリオが最初で、そこでは<ルビー・マイディア>、<ウェル・ユー・ニードント>、<オフ・マイナー>、<イントロスペクション>の自作曲4曲に加え、<ナイス・ワーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イット>、<パリの4月>という計6曲を録音している。モンクはピアノ・トリオのドラマーとしてアート・ブレイキーを好んでいたが、これはやはり1940年代のバド・パウエルとのジャムセッション巡りの時代からの長い交流と師弟関係があって、気心が知れていたことと、ブレイキーのスウィンギングで力強いドラミングがモンクの好みだったからだろう。

Thelonious Monk Trio
(1952/54 Prestige)
第12章 p237
モンク初の単独のトリオ・アルバムは、プレスティッジと契約後の初録音となった1952年の『Thelonious Monk Trio』だ。現在のCDには全10曲が収録され、自作曲8曲、スタンダード2曲という構成で、52年10月録音の4曲にアート・ブレイキー(ds)とゲイリー・マップ(b)を使い、同年12月録音の4曲ではドラムスにマックス・ローチを起用した。本書に書かれているように、ブルーノートでは売れず、仕事のない長く苦しい時期を経て、ようやく新規レーベルと契約して心機一転したモンクの気迫が伝わって来るような、溌剌とした、明るく、力強い演奏が続く。スタジオのピアノの調律が狂っていようとお構いなしに、一緒に鼻歌を歌いながら楽しそうに弾くモンクの声もはっきりと聞こえて来る。トリオというシンプルな編成もあるのだろう、ブルーノート時代の、非ビバップというコンセプトにこだわって頭を使い過ぎたかのような、ある種芸術指向の強い複雑な音楽とは別のモンクの姿が見えて来る。現CD冒頭の<ブルー・モンク>は、2年後の19549月に別途ヴァン・ゲルダー・スタジオで初録音されたもので、アート・ブレイキー(ds)とパーシー・ヒース(b)がサポートしているが、このブルースはまさに 「モダン・ジャズのイメージ」 を代表する演奏だ。モンクも後年この<ブルー・モンク>が大好きな曲だと言っている。後にビッグバンドでも再演した息子に捧げた<リトル・ルーティ・トゥーティ>の活気とユーモア、デンジル・ベストとの共作<ベムシャ・スウィング>の躍動するリズム、ミディアム・スローのバラード<リフレクションズ>、ソロ演奏<ジャスト・ア・ジゴロ>(これも1954年の別録音)の美しさなど、その後のモンク・スタンダードとなる名曲と名演ぞろいだ。ピアノ・トリオというシンプルな編成と全曲3分以内という短さもあって、モンクの素顔を捉えたような飾り気のないストレートな解釈と弾むようなリズムで、RVGリマスター盤の録音も良く、どの曲を聞いても非常に気持ちが良い。シンプルに演奏してはいても、1952年から54年という時代を思えば、ここでのサウンドとメロディは斬新で、開放感に溢れ、モンクがいかに先進的な音楽家だったかがよくわかる。私がモンクを好きになったのもこのアルバムを聞いてからだ。モンクを初めて聴きたいという人がいるなら、ソロやコンボではなく、ピアノ・トリオを、中でもまずこのアルバムを勧めたい。これを聴いて文句があるようなら、縁がなかったと思ってモンクは諦めた方が良い。

Thelonious Monk
Plays Duke Ellington
(1955 Riverside-stereo)
第15章 p282-
モンクの次のトリオ・アルバムは、リバーサイドに移籍後の初録音、19557月の『プレイズ・デューク・エリントン Plays Duke Ellington』である。プレスティッジ盤は2曲を除き、すべてモンクの自作曲だったが、当時モンクのオリジナル曲はまだ大衆向けとは言えないと考えていたプロデューサーのオリン・キープニューズは、もっとわかりやすい曲を演奏したトリオ・アルバムを作って、まずモンクを売り出そうとした。そこで最初に選んだのがデューク・エリントンの作品だった。長い付き合いのオスカー・ペティフォード(b)とケニー・クラーク(ds)というリズムセクションをモンクは選んだ。本書に書かれているように、このアルバムには「リバーサイドに言われたモンクが渋々作った」とかいう見方を含めて様々な評価があったが、大筋としては「控えめな印象」という表現が一番多かったようだ。しかし著者がネリー夫人や息子トゥートの発言として書いているように、尊敬するデューク・エリントンの作品を取り上げたこのレコードの録音に、実際モンクは並々ならぬ意義を感じていたという。ブラシ・ワーク中心のケニー・クラークのドラミングも含めて、プレスティッジ盤に比べて全体的に「モンクらしさ」が控えめで、ある種大人しく、上品な作品であることは間違いない。やはりエリントンという大先達の作品だけを取り上げるという挑戦は、モンクと言えどもかなり緊張して臨んだことは間違いないだろうし、普通のスタンダード曲に比べてエリントンの曲の完成度が高くて、モンク流の解釈と再構成も慎重にならざるを得なかったのかもしれない。本書に書かれた録音時のモンクのエピソード(譜読みにたっぷり時間をかけた)からも、そうした心理があった可能性がある。選曲はエリントンの有名なナンバーのみで、<スウィングしなけりゃ意味ないね>、<ソフィスティケイティッド・レディ>、<キャラバン>など全9曲で、<ソリチュード>のみがソロ演奏である。

The Unique
Thelonious Monk
(1956 Riverside-stereo)
第16章 p304
リバーサイドの次のトリオ・アルバムは、翌19563月、4月に録音した『ザ・ユニーク・セロニアス・モンク The Unique Thelonious Monk』である。オスカー・ペティフォードのベースは変わらず、既にヨーローッパに移住していたケニー・クラークに代わってアート・ブレキーをドラムスに起用している。エリントンに続き、今度は、全曲スタンダードのモンク流解釈をトリオで聞かせようというリバーサイドの戦略だ。<ティー・フォー・ツー>、<ハニー・サックル・ローズ>など、よく知られたスタンダード曲のみ7曲を演奏している。ビリー・ホリデイの愛唱歌だった<ダーン・ザット・ドリーム>は、モンクが最も好んだバラード曲の一つだ。同じくバラードの<メモリーズ・オブ・ユー>のみソロ演奏だが、本書でも書かれているように、この曲を愛奏していたモンクのストライド・ピアノの先生だったアルバータ・シモンズをおそらく偲んだもので、その後モンク愛奏曲の一つともなった。何より曲のメロディ、とりわけ古い歌曲を愛したモンクが両バラードともに慈しむかのように繊細にメロディを弾いている様子が聞こえて来る。このレコードでは、エリントン盤とは異なり、モンク流の曲の解釈と再構成をかなり取り入れており、またアート・ブレイキーの参加がモンクを煽っていたことは間違いないだろう。結果としてこのアルバムは、プレスティッジの自作曲中心のアルバムと対を成す、ピアノ・トリオにおけるモンク流スタンダード解釈のショーケースとなっている。

Thelonious Monk
Plays Duke Ellington
(1955 Riverside-mono)
エリントン盤をはさんで、これら50年代のピアノ・トリオ3作における自作曲とスタンダードのモンク流解釈と演奏を聴き比べてみると非常に面白い。なお、リバーサイドの上記2作品アルバム・ジャケットは、モノラルとステレオ・バージョンの2種類がある。本書に書かれているように、現在CDに主として使われている上記ジャケット写真は、いずれも売り上げ増を狙ったリバーサイドがステレオ・バージョン用に作ったものだ。ちなみに左のジャケットはモノラル盤の『Plays Duke Ellington』オリジナル・ジャケットである。まだ30歳代半ばのスリムなモンクが写っている。

モンクはこの15年後、1971年のアート・ブレイキー(ds)とアル・マッキボン(b)を起用した最後のスタジオ録音『ロンドン・コレクション London Collection Vol.2』(Black Lion)まで、トリオだけのアルバムは録音していない。

2017/04/14

仏映画「危険な関係」サウンドトラックの謎

ルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」(1957)にはマイルス・デイヴィス、ロジェ・ヴァディム監督の「大運河」(1957)にはMJQ、エドゥアール・モリナロ監督の「殺られる」(1959)にはアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズというように、当時ヌーベルバーグと呼ばれた新潮流の象徴だったフランス映画には盛んにジャズが使われていた。映画「危険な関係」は、ロジェ・ヴァディム監督による1959年制作の作品である。フランスの貴族を描いた18世紀の官能小説が原作で、舞台を20世紀のパリに置き換え、退廃的な上流階級の恋愛模様をジェラール・フィリップとジャンヌ・モローが演じている映画だ(後年何度かリメイク映画化されている)。小説と同じく映画も反社会的だと物議をかもし、フランスやイギリスでは当初上映禁止になったらしい。ロビン・ケリーの「Thelonious Monk」に、この「危険な関係」のサウンドトラックとモンクにまつわる面白い裏話が出て来る。私は映画そのものを見ておらず、映画にモンクが関係していることも知らず、この映画に関係する所有ジャズ・レコードは、デューク・ジョーダン(p)がリーダーの「危険な関係のブルース」(1962) だけだったこともあり、この話は意外だった。そこで、この映画と音楽の背景について調べたのだが、映画、音楽ともにネット上でも様々な説明があって、どこにもはっきりしたことが書いていないので、自分でさらに詳細な情報に当たり整理してみた。すると驚くような事実(おそらくだが)が浮かび上がったのである。

「死刑台のエレベーター」にマイルス・デイヴィスを起用した音楽監督、マルセル・ロマーノからモンクに打診があったのは1958年である。モンクは不評だったヨーロッパ・デビュー(1954年のパリ・ジャズ祭に出演した)後はヨーロッパを訪問していなかったが、1957年夏に「ファイブ・スポット」にジョン・コルトレーンと共に登場し、ようやく注目を浴び始めていた当時のモンクをニューヨークで直接見たロマーノが、モンクの音楽をサウンドトラックとして使いたいと申し入れてきたのだ。しかし当時ボストンのクラブ「ストーリーヴィル」出演時に奇妙な行動をし、その後一時行方不明になったりしていたモンクは情緒不安定な状態にあり、なかなかその申し入れを受諾しなかった。ロジェ・ヴァディムもニューヨークまでやって来て、何とかモンクの了承を取り付けようとしたが、モンクはなお首を縦に振らなかった。1959年の夏、映画が完成した後にモンクはやっと承諾したものの、映画のサウンドトラックための新曲は結局書けず、その代わりに当時アメリカ・デビューをしたばかりのフランス人テナー奏者バルネ・ウィランを自分のカルテットに加えて、〈オフ・マイナー〉、〈クレパスキュール・ウィズ・ネリー〉、〈パノニカ〉など、当時リバーサイドに吹き込んでいた既存曲をあらためて映画用に録音した。ところがロマーノは、万が一モンクがダメだった場合に備えて、デューク・ジョーダン(p)にも作曲を依頼しておいたのである。そこでモンクのグループ(チャーリー・ラウズ-ts、サム・ジョーンズ-b、アート・テイラー-ds)と同じ時に同じスタジオで、バルネ・ウィランを加えたアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズによるジョーダン作の曲も録音したのだ。

この映画の音楽担当は確かにセロニアス・モンクとクレジットされているのだが、上映後大ヒットしたのは、当時人気絶頂だったアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのサウンドトラック・レコード「危険な関係」(1960 Fontana)であり、しかも作曲者名としてクレジットされているのは、デューク・ジョーダンではなく全曲ジャック・マーレイ(Jaques Marray)という人物だった。一説によれば、映画中に出て来るナイトクラブでの演奏シーンには、デューク・ジョーダン(p)、ケニー・ドーハム(tp)、バルネ・ウィラン(ts)、ポール・ロベール(b)、ケニー・クラーク(ds)が登場するが、実はそのシーンの音楽は、アート・ブレイキー(ds)、リー・モーガン(tp)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(b)にバルネ・ウィラン(ts)が加わった演奏で置き換えられているというのだ。それはニューヨークで、モンクのカルテットと同じ時に録音された演奏ということである。つまりドーハム、ジョーダンやクラークは映画に顔だけは出したが彼らの演奏は使われず、一方ブレイキーのグループは映画には登場しなかったが演奏は使われ、かつそのサウンドトラック・レコードは大ヒットしたというわけである。そしてフランスの当時の新人スタープレイヤー、バルネ・ウィランは3つのセッションいずれにも参加しているのである。

ジャック・マーレイという人物はデューク・ジョーダンの仮名だという説もあるが、ジョーダンは1962年になって「危険な関係のブルース」という映画で使用された曲 ("No Problem")を演奏したレコードを出している(私が持っているもの)。そしてそれはチャーリー・パーカー夫人だったドリス・パーカー所有のパーカー・レコードがリリースしたもので、夫人自身が書いたそのライナー・ノーツには、ブレイキーのオリジナル・サウンドトラックにはジョーダンの作曲にもかかわらず別人の名前が誤って使われており、このレコードこそ本当の作曲者による演奏だとはっきり書いてある。このレコードのメンバーは、ソニー・コーン(tp)、チャーリー・ラウズ(ts)、エディ・カーン(b)、アート・テイラー(ds)である。ジャック・マーレイは確かに実在の作曲家らしく、この映画の音楽も一部担当していたようだが、なぜジョーダンではなく彼の曲としてクレジットされていたのかは調べたがわからなかった。パーカーが可愛がっていたジョーダンを、夫人が当時の経済的苦境から救うためにリリースしたものだと言われているので、この話が真実だった可能性は高い。

ところでモンクの音楽は実際にどう使われたのだろうか? オリジナル映画を確認したところ、映画冒頭のチェスの盤面を使ったタイトルバックの音楽はモンクの〈クレパスキュール・ウィズ・ネリー〉である。音楽担当としてのモンク、ジャック・マーレイ、バルネ・ウィラン、モンクのグループ、ブレイキーのグループ、デューク・ジョーダン、ケニー・クラークの名前は全員が出て来る。だがケニー・ドーハム他の名前はない。バルネ・ウィランを加えたモンク・グループの演奏が〈パノニカ〉他計7曲と、モンクによるゴスペル聖歌のピアノ・ソロ1曲で、これらが映画のほぼ全編に使われている。特に〈クレパスキュール…〉と〈パノニカ〉がメインテーマ曲で、この2曲は何度も聞こえてくる。ブレイキーのグループの演奏が主としてパーティやクラブなど華やかな場面で使用されているのに対して、モンクの音楽は大部分が男女間の微妙な情景の背景音楽として挿入されている。アブストラクトでどことなく不安なムードを醸し出すモンクのサウンドが、このフランス映画のアンニュイで危なげなムードにぴたりとはまって、ロジェ・ヴァディムがなぜモンクの音楽を使いたかったのかがよくわかる。一方ケニー・ドーハム、バルネ・ウィラン、ケニー・クラーク、デューク・ジョーダン(背中だけ?)は確かに画面に登場している。その演奏は明らかにボビー・ティモンズのピアノやリー・モーガンのトランペットなどメッセンジャーズ側のものだが、そこでの音楽「全部」がアート・ブレイキー側の音源なのかどうかはわからなかった(ケニー・ドーハムの顔とトランペット・プレイは何度かアップになっているので、一部はその音をそのまま使っている可能性もある。それが全部リー・モーガンの音だとしたらひどい話なので…)。またモンクが演奏したサウンドトラックは映画中だけで使われ、レコード化されなかった(おそらく映画用新曲が書けなかったために、当時リバーサイドに吹き込んだばかりの曲だけを使ったからだろう)。

本来なら、新曲によるサウンドトラックはもちろん、ナイトクラブでの演奏シーンにはモンクが登場したはずで、また撮影に合わせてパリでのコンサート、クラブ・ライヴも別途企画されていたのだが、モンクの不調でこうした企画はすべてお流れとなってしまったのだ。どうなるかはっきりしなかった当時のモンクを不安視したヴァディムとロマーノが、とにかくバルネ・ウィランをフィーチャーして企画を練り直し、結果として安全策として準備していたジョーダンの曲と、ブレイキーのグループの演奏が脚光を浴びたということなのだろう。この映画の日本公開は1962年で、モンクの初来日は翌1963年だった。映画と完全に一体化したマイルス・デイヴィスの「死刑台のエレベーター」とは対照的に、「危険な関係」の音楽として普通に思い浮かべるのは華々しいブレイキーかジョーダンであり、この映画をモンクの音楽と共に記憶しているジャズファンもほとんどいないのではないだろうか(少なくとも私の世代では)。しかしこのエピソードも、いかにもモンクらしいと言うべきか。

(追記 2017 7/5)
知らなかったのだが、気が付いたら、何とこのとき以降お蔵入りになっていたと思われる、モンクのカルテットにバルネ・ウィランが加わった上記演奏(1959) が、今年になってCD/LP「Les Liaisons Dangereuses 1960」(SAM RECORDS/SAGA) として発売されていた。映画中で聞こえるモンクの演奏はこれが音源である。

2017/02/25

モンク考 (3) 人間モンクの魅力と才

本書を読んで知ったもう一つの事実は、天才音楽家モンクの創造人生を現実面で支えていたのはほとんど周囲の人々、中でも女性たちであったということだ。とは言っても芸術家によくある話とか、他のジャズ・ミュージシャンたちの伝記に描かれているような乱れた女性関係の話ではない。モンクの‟ピュア“さを裏付けるように、母親バーバラ、妻ネリー、真のパトロンだったニカ男爵夫人の3人をはじめ、親族である義理の姉や妹、姪たち、さらにモンクにストライド・ピアノの基本を教えたアルバータ・シモンズ、モンクの友人でありメンターのような存在だったメアリ・ルー・ウィリアムズという二人のピアニスト、さらにモンクの売り出しに奔走したブルーノートのロレイン・ライオンもそうだ。母親とネリー夫人は別格としても、他の女性たち全員が、天才だが普通に考えれば変人で、厄介な人物モンクとその音楽を愛し、彼を無償の愛で支えている‟女神”のようだ。モンクには男女を問わず誰もが魅了される何かが当然あったのだろうが、とりわけ女神(Muse)たちから全人的に愛された人物だったのだと思う。‟普通の“ ジャズに見られる激しいジャズ的エモーション、無頼感、モダンなクールさなどとは異なり、複雑でモダンなのに純粋、無垢、素朴、ユーモアが、温かさと美しさと常に同居しているモンクの音楽が放つ不思議な魅力は、おそらくこのことと大いに関係があるのだろう。

Thelonious Monk Quartet
with John Coltrane
at Carnegie Hall
1957 Blue Note
この本には多くのジャズ・ミュージシャンやサイドマンたち、プロデューサー、クラブオーナーたちとモンクとの逸話が登場するが、彼らがどうモンクと音楽的、人間的に関わり、どうモンクの音楽を理解、吸収したのか、あるいは逆に反発したのか、ということが史実として興味深く描かれている。私が感じた本書の魅力の一つは、ハービー・ニコルズ、エルモ・ホープ、アート・ブレイキー、ソニー・ロリンズなどの登場人物との関係に見られるように、これまではレコードだけを通じて、自分の中でいわば点としてバラバラに存在していた当時のジャズ・ミュージシャンたちが、20世紀半ばのニューヨークを舞台にしたモンクの物語の中で、一つのコミュニティとしてリアルに繋がってゆくことだった。そして、そこで描かれるモンクの人間味もまた魅力的である。

とりわけ、モンクのヒーローだったデューク・エリントン、恩人コールマン・ホーキンズ、愛弟子のバド・パウエルたちとの交流は感動的だ。1950年代後半のジョン・コルトレーンとの交流も描かれており、二人の当時の素晴らしい共演記録も一部残されているが、録音数が限られているのは実に残念なことだ。幸い2005年に奇跡的に発見されたカーネギーホールでの実況録音(1957年)が、当時の二人の最良の演奏を記録している。高次の音楽的交感という意味から言えば、おそらくロリンズと並んでコルトレーンこそがモンクにとって最高のパートナーだっただろう。そしてモンクの薫陶が、その後のコルトレーンに与えた音楽的影響の大きさもジャズ史では周知のことである。マイルス・デイヴィスが自叙伝でも述べているモンクとの歴史的(?)口論は何度か出てくる。人柄はまったく正反対だが(もちろんモンクは優しい人間だ)、結局二人ともお山の大将同士だったのだろう。それに、片や裕福に育ち、田舎から出て来て一旗上げようという野心を持ったマイルスと、貧乏だが基本的にはニューヨークという都会育ちのモンク、という二人の経歴の違いも少なからず影響しているだろう。モンクの方が9歳年長だったが、どちらも生まれついてのリーダー的性格で、人物、音楽上の能力から見ても両雄相並び立たずということである。しかし音楽的コンセプトは違っていたかも知れないが、二人は間違いなく互いに敬意も抱いていただろう。特に天才肌のモンクの音楽性と創造力にはマイルスはかなわないと思っていただろうし、モンクはマイルスの知性と構想力、統率力には一目置いていただろう。コルトレーンとの共演と並び、1954年のクリスマス・イブ、プレスティッジの2枚のLPに残された二人の巨人の伝説の共演記録は人類の宝である。

Miles Davis and
the Modern Jazz Giants
1954 Prestige 
スティーヴ・レイシーとのやり取りをはじめとして、教師、指導者としてのモンクの有名な発言(名言)のいくつかも本書に出てくる。いずれもサイドマンや第三者にモンク流の音楽思想を伝えるものだが、どれもジャズの真理を突いた含蓄に富む言葉ばかりである。だがその指導法は、同じ時代にジャズ演奏教育のための学校を初めて作り、体系的、組織的に教えようとした白人のレニー・トリスターノの近代的手法とは対極にある超個人的手法だ。しかも譜面を見せずに、聞かせる音だけで自作曲のメロディを覚えさせるという徒弟制度並みの方法である。この場合、モンクが「ほとんど喋らない」というのもポイントだろう。教わる側はそれで否が応でも集中せざるを得ないからだ。それによって頭で理解するのではなく、フィーリングで体得することができる(するしかない)。リハーサルなしで、出たとこ勝負の即興演奏ができたのもそうした訓練があればこそだ。だがそもそもは、やはりこれがジャズ伝承の原点なのだと思う。

モンクの天才の一つが作曲の才だが、本書を読んでいてあらためて感じたのは、モンク作品のタイトルの素晴らしさだ。月並みなティン・パン・アレーや、無味乾燥のビバップの曲名とは違い、「ラウンド・ミドナイト」や「ルビー・マイ・ディア」のような有名曲はもちろんのこと、「エピストロフィー」、「ウェル・ユー・ニードント」、「ミステリオーソ」、「ストレート・ノー・チェイサー」、「ブリリアント・コーナーズ」、「アグリー・ビューティ」等々、どの曲名もジャズ・センスに溢れ、背後に意味と情景が感じられ、しかもメロディが即座に浮かんで来るほど曲のイメージと一体化している。モンクは音感とともに、実はこうした言語能力にも並々ならぬものを持っていたがゆえに、あの短いけれど本質を言い表した数々の名言を残してきたのだろう。