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2023/04/21

(続)「長谷川きよし」を聴いてみよう

2018年1月に『「長谷川きよし」を聴いてみよう』という記事を本ブログで書いてからもう5年が過ぎた。その後コロナ禍のために音楽ライヴもすっかりご無沙汰だったが、昨年10月末に「新宿ピット・イン」で長谷川きよしのライヴを久々に見て、ある意味、ミュージシャンとして、その「不変ぶり」に感動した。私は1969年のデビュー作「別れのサンバ」以来のファンなので、50年以上彼の音楽を聴いてきたことになるが、73歳にして、その美声も、声量も、歌唱も、ギターも、サウンドも、半世紀前とほとんど変わっていなかったからである。そして、その「異質ぶり」も、ほとんど変わっていないと言える。長谷川きよしの歌の世界は、1970年代の日本のポピュラー音楽界では異質で、90年代も異質だったし、そして今でも異質だ。そもそも、時流や世の中の嗜好に音楽を合わせるというようなアーティストではなく、基本的に時代はおろか国すら超越して、ひたすら自らが「愛する音楽」を唄い、演奏する、という自分だけの世界を持つ音楽家だからだ。日本のポピュラー音楽界では、実にユニークな存在なのである。

私は歌だけ聴いていたわけではなく、「別れのサンバ」をはじめ、長谷川きよしの初期アルバム2作のほとんどの曲のギターを学生時代に「耳コピ」して、自分でもギターを弾いて唄って楽しんでいた(当時はそういう人が結構いたことだろう)。したがって、彼の音楽の聴き方も、普通の長谷川きよしの歌のファンとは少し異なるかもしれない。当時からジャズを聴いていた私がいちばん興味を持ったのは、歌だけでなく、長谷川きよしが弾くガットギターのサウンドだ。非常に日本的なサウンドの歌がある一方で、ジャズの世界では当たりのmajor7やdimというコードを多用するガットギターの「響きのモダンさ、美しさ」を、初めて知ったのも長谷川きよしの演奏からだ(今もガットギターによるジャズが好きなのもその影響だ)。ただし当時の長谷川きよしは、ジャズっぽい曲もあったがジャズではなく、サウンド的には総じてシャンソン、サンバやボサノヴァ系の曲が多かった。だがギターの「奏法」はフラメンコ的でもあり、ギターの弦へのタッチと破擦音が強烈で、それがガットギターのサウンドとは思えないようなダイナミックさを生んでいるのが特色だった。いずれにしろ、あの当時日本で流行っていたフォークソングや、歌謡曲、ロック、グループサウンズなどからはおよそ聴けなかったモダンなギターコードの新鮮な響きに夢中になった。1970年頃、そんなコードやサウンドが聞ける歌を唄ったり、演奏しているポピュラー歌手は日本には一人もいなかったと思う。

Baden Powell
長谷川きよしのリズミカルで歯切れの良いギター、特にコード奏法の大元は、やはりバーデン・パウエルだろう。私も「別れのサンバ」から始めて、その後バーデン・パウエルやジョアン・ジルベルトなど、ブラジル音楽のサンバやボサノヴァ・ギターの演奏にチャレンジするようになった。当然だが、あの時代は今のようなデジタル録音機器はもちろんなく、アナログ録音機さえカセットはおろか、高価なオープンリールのテープレコーダーしかなかった。ましてギターのコピー譜など何もなく、ただレコードを何度も何度も繰り返し聴いて、音やコードを探し、耳コピで覚えた音を、自分流に勝手に演奏していた。バーデン・パウエルの「悲しみのサンバ (Samba Triste)」など、耳コピの音符を基にして自分で譜面まで書き起こしたほどだ(その後、故・佐藤正美氏の完コピ演奏を聴いて、その正確さに驚いた。この曲は今でもYouTube上で演奏している人が結構いる)。確か『長谷川きよしソングブック』という楽譜集がその後出版されて、「夕陽の中に」のようなジャズっぽい複雑なコードの曲は、その譜面で覚えた気もする。だが、そうやって苦労して覚えた音符や演奏も、半世紀後の今はほとんど忘れてしまい、もう指も動かない…(どころか、情ないことに、近頃はギターを持つだけで重たく感じるくらいだ…)。

1970年頃、銀座ヤマハの裏手にあったシャンソン喫茶「銀巴里」で、ナマの長谷川きよしの歌と演奏を「目の前で」見て、聴いて、その歌唱の本物ぶりと、ギターのフレット上を縦横無尽に動き回る指の長さと、その動きの速さに心底びっくりし、圧倒され、感動した。長谷川きよしのサウンドとリズムは、シャンソン、カンツォーネ、フラメンコ、サンバ、ボサノヴァ、ジャズ……が一体となった、まさに「ワールド・ミュージック」の先駆で、そんなジャンル横断的な音楽を演奏する歌い手も当時の日本には一人もいなかった。それから50年後の昨年末の「ピットイン」ライヴに行ってから、これまで聴いてきた彼の曲や演奏を、あらためて聴き直してみた。当時の他のポピュラー曲の多くが、半世紀を経て古臭い懐メロになってしまった今も、「別れのサンバ」を筆頭に、長谷川きよしの楽曲の多くは色褪せることもなく、一部の曲を除けば、ほとんどが依然として「モダン」なままだ。これもまた驚くべきことである。

一般的には「黒の舟歌」や加藤登紀子との「灰色の瞳」など、長谷川きよしにしては珍しい(?)ヒット曲が有名で、テレビ出演のときにもそういう歌ばかり唄ってきた。長谷川きよしのファンは、ほとんど「コアな」ファンばかりだとは思うが、そうしたヒット曲や分かりやすい曲のファンもいれば、彼の詩や訳詞の世界が好きだという人、シャンソンやラテン系のしぶい弾き語りが好きな人、また私のようにジャズやボサノヴァ系の歌が好きなファンまで様々だろう。しかし、「変わらない長谷川きよし」を何十年にわたって聴いてきた私が、真に「名曲」「名唱」だと思う歌は、やはりほとんどが初期の楽曲で、『ひとりぼっちの詩』、『透明なひとときを』というデビュー後2作のアルバムに収録されている。たいていのシンガーソングライターは、やはりデビューした当時の音楽がもっとも新鮮で、長谷川きよし自身もそうだが、聴き手としての自分もまた、まだ若く感受性が豊かだったことや、自分でギターコピーまでしていたこともあって、なおさらそうした曲の素晴らしさを理解し、また感じるという傾向もあるだろう。しかし、CD再発やダウンロードに加え、最近はストリーミング配信にも対応したということなので、長谷川きよしの「有名曲」や新しめの曲しか聞いたことのない人にも、それ以外の「隠れた名曲、名唱」の数々を、ぜひ一度聴いてもらいたいと思っている。もちろん好みの問題はあるだろうが、とにかくこれまで日本にはおよそいなかった、素晴らしい音楽性を持ったユニークな歌手である、ということが分かると思う。というわけで、以下はあくまで極私的推薦曲である。

ひとりぼっちの詩
(1969)
アルバム『ひとりぼっちの詩』(1969年) は、若き盲目のギタリスト&歌手という売り出しイメージもあって(ジャケットもいかにもそうだ)、どちらかと言えば暗くメランコリックなサウンドとトーンで、十代の少年/青年にしか書けない、孤独、純情、夢想が散りばめられたデビューアルバムだ。「別れのサンバ」(こんな複雑なギターを一人で弾きながら、自作曲を歌える20歳は、50年後の今もいない)、「歩き続けて」(1973年の井上陽水の「帰れない二人」と並ぶ、永遠の青春ラブソング。イントロのmaj7の響きが当時としては出色)という2曲は、いまだに色あせない名曲だ。クールなボッサギターで、深い夜の孤独をしみじみと唄う「冷たい夜に一人」、同じくボサノヴァの青春逃避行ラブソング「心のままに」、さらに、おしゃれな都会風ボサノヴァ「恋人のいる風景」など、どれも未だにモダンな曲ばかりだ。

透明なひとときを
(1970)
2作目のアルバム『Portrait of Kiyoshi Hasegawa(透明なひとときを)』(1970年)は、デビューアルバムとは趣をがらりと変えて、シャンソン、カンツォーネなどのポピュラー曲のカバーに、モダンなボサノヴァのタイトル曲をはじめとする自作曲を加えた、当時の長谷川きよしの歌の世界のレンジの広さと「全貌」を伝える傑作だ。中でも「夕陽の中に」は、このアルバムに収録された「光る河」と同じく津島玲作詞のオリジナル曲で、村井邦彦のジャジーな編曲と、とても20歳とは思えない大人びたアンニュイな歌唱が素晴らしい。「透明なひとときを」も、村井邦彦のアレンジによる、当時としては超モダンなボサノヴァ曲だ。越路吹雪の歌唱で有名だったシャンソンを、ピアノ中心のジャズ風にアレンジした「メランコリー」、60年代カンツォーネの名曲「アディオ・アディオ」「別離」、サンバ調の「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」等々、いずれも当時まだ20歳の若者が作ったり、唄ったりしたとは信じられないほど本格的な歌唱で、何度聴いても素晴らしい。

コンプリート・シングルス
(1999)
長谷川きよしは、まだ十代のときに、1960年代に隆盛だったシャンソン・コンクールで入賞したことがデビューのきっかけだったほどなので、上記アルバム収録曲のほか、エディット・ピアフの「愛の賛歌」、ジルベール・ベコーの「帰っておいで」「そして今は」「光の中に」など、一部フランス語の歌唱も含めてシャンソンは何を唄っても素晴らしい。いわゆるシャンソン風の語り歌と違って、正統的、本格的な歌唱で唄い上げるのが特徴だが、ギターと美声で原曲の良さが見事に描かれる。津島玲時代を除くと共作はそれほど多くないが、1970年代には、荒井由実時代のユーミンの曲「ひこうき雲」「旅立つ秋」のカバーの他に、「ダンサー」「愛は夜空へ」など、ユーミン作詞・長谷川きよし作曲のコラボ曲があって、これらはさすがに長谷川きよしに似合う曲ばかりだ。「卒業」(作詞・能 吉利人)「夜が更けても」(作詞・津島玲)も佳曲だ。私は上記2枚のアルバムLPとCD以外は、『コンプリート・シングルズ』『マイ・フエイバリット・ソングス』などのコンピレーションCDに収録されたこれらの曲を聴いている。'00年代には、長谷川きよしを「発見」した椎名林檎とも共演し、彼女が提供した「化粧直し」もカバーした(これは椎名林檎本人の歌が、実に長谷川きよし的でいい)。

アコンテッシ
 (1993)

私が最後に買った「LP」は1976年の『After Glow』で、その頃からどこか歌の世界が、変質してきたような気がしていた。だから、それ以降80年代の長谷川きよしの歌はほとんど聴いていない(本人も一時スランプになったらしく、隠遁生活をしていた)。そして、バブル崩壊後の1993年に突然復活し、ほぼ15年ぶりに聴いて驚愕したのが、NHK BSでテレビ放映されたフェビアン・レザ・パネ(p)、吉野弘史(b)、ヤヒロトモヒロ (perc)とのユニットであり、そのメンバーで録音したのが名作『アコンテッシ』である。自作定番曲の再カバーと、ピアソラ、カルトゥーラの名曲に自作の訳詩をつけ、それらを素晴らしいユニットの伴奏でカバーしたこのアルバムこそ、初期2作と並んで、歌手・長谷川きよしの歌手としての個性と実力をもっともよく捉えた傑作だ。初期からの「バイレロ」「ラプサン」「別れのサンバ」「透明なひとときを」という名曲に加えて、岩松了作詞の新作「別れの言葉ほど悲しくはない」、さらにピアソラの「忘却 (Oblivion)」、カルトゥーラの「アコンテッシ」という3曲がとにかく素晴らしい。長谷川きよしは、この90年代半ばの再ブレイクで、再びTVやライヴで脚光を浴びるようになり、何枚か新作CDもリリースしてきた。

ギター1本で唄う長谷川きよしもいいのだが、私はどちらかと言えば、ライヴでやっていたピアノ(林正樹)やパーカッション(仙道さおり)のような伴奏陣のリズムとメロディをバックに、リラックスして、歌に集中して唄うときの長谷川きよしの歌唱がいちばん素晴らしいと思う。だから昨年も、久々に「新宿ピットイン」のドス・オリエンタレスとの共演ライヴにも出かけたのだが、期待通りで、やはり行ってよかったとつくづく思う。今年はコロナからの復活ライヴが各地で行なわれるようになって、音楽シーンもミュージシャン自身もやっと活気が戻って来たが、長谷川きよしをはじめ、70歳を過ぎたベテラン・ミュージシャンたちにとっては、限りある人生に残されていた時間のうち、貴重な3年間をコロナで失ってしまい、引退時期を早めた人も多いようだ。残念ながら4/2の京都「RAG」でのソロライヴには行けなかったが、長谷川きよしは今は地元になった京都でもライヴ活動を続けるようだし、来月以降東京、大阪でのライヴ公演も決まっているらしいので、これまで彼を未聴だった人は、ぜひ一度ナマで聴いてもらいたいと思う。

2022/11/07

「PIT INN」で長谷川きよしを聴く

(2015年出版)
本人曰く、まる3年ぶりという「長谷川きよし」のライヴを見に、10月30日に新宿「PIT INN」へ出かけた。昔、紀伊国屋書店の裏にあった時代にはよく行ったものだが、1992年に今の場所(新宿3丁目)に移転してからも何度か行った記憶はある。だが、もう何年ぶりか忘れたくらいご無沙汰していて(ほとんど都心に出なくなったので)、新宿駅近辺もすっかり様変わりし、しかも昼間のライヴだったせいか景色が違って、最初は店の場所すら分からなくて戸惑った(浦島太郎状態である)。しかし、移転した当時は、あんなに飲み屋とかラーメン屋が周囲にある場所ではなかったような気がするが……確かに30年も経てば、こっちもそうだが街も様変わりするのだろう。「ブルーノート」や「コットンクラブ」など、バブル時代以降、東京のジャズクラブがすっかり高級な(軟弱な?)オシャレスポットに変貌してきた中、1965年から60年近くにわたってコアなジャズファンに支持されてきた「PIT INN」は、ライヴ・スケジュールを見ると、相変わらずハードなジャズ・プログラムと、昼間は若手ミュージシャンに演奏の場を提供していて、当初から続く我が道を行く姿勢を崩さない。こういうジャズクラブが1軒くらい、いつまでも都心に残っていて欲しいとつくづく思う。

予約はメールで事前に済んでいるが、当日、店で直接料金を支払い、代わりに受付番号を書いたカードをもらって、時間をつぶし、開演30分前から店の前(地下)に並んだ人を番号順で呼び出して着席させるという、超アナログな昭和的システムに驚いた。今どきのコンサート会場だと、ネット上で支払いも済ませ、座席も確定するのが普通だが、ライヴ開演前に行列して順番を待つ、という大昔の新宿2丁目時代の懐かしい記憶がよみがえった。確かに昔は、その待ち時間ですら、わくわくした気分でいたものだったが、残念ながら、自分も含めてみんな歳をとった今は、「早く座らせてくれ…」という気持ちの方が強いことが並んでいる観客の顔つきでも分かる。店の内部は、全席ステージを向いたきちんとした椅子と、小さいながらテーブルもあって、ワンドリンクをいただきながらライヴを楽しめるという、大昔に比べたらずっと快適な環境ではあった。

長谷川きよしが京都に引っ越してからは、東京近辺のライヴで出かけたのはコンサート・ホールばかりだったので、クラブでのライヴは本当に久々だ(江古田以来か?)。と言っても今回は単独ではなく、ヤヒロトモヒロ (perc) と、南米ウルグアイのピアニスト/ヴォーカリスト/アコーディオン奏者/電子楽器奏者/打楽器奏者…というマルチ・プレイヤーであるウーゴ・ファトルーソ(Hugo Fattoruso)のデュオ・バンド「ドス・オリエンタレス」(Dos Orientales)に、長谷川きよしが客演するという形のライヴである。ウーゴが1997年に来日した時に共演して以来25年ぶりの再演ということだ。当時の長谷川きよしは、ヤヒロトモヒロ (perc)、フェビアン・レザ・パネ(p)、吉野弘志(b)というトリオと4名で編成した素晴らしいグループで活動していて、音楽的にもっとも充実した時代だったのではないかと想像している。同メンバーで名盤『アコンテッシ』を録音したのもこの時期で、ヤヒロトモヒロともそれ以来の仲なのだろう。ライヴの冒頭でヤヒロも、共演したいと思う日本人ヴォーカリストは長谷川きよしだけだと賛辞を送っていた。

日曜日、午後2時開演というライヴは、前半がドス・オリエンタレスの二人と長谷川きよしの共演、後半がドス・オリエンタレスのみという2部構成だった。コロナ禍の3年間は、ライヴ情報どころか、まったく音沙汰がなかったので、「生きているのか?」とさえ(失礼)思っていた長谷川きよしだったが、やっと人前で演奏する気になったようだ(YouTubeでは発信していたらしい)。とにかく「コロナに感染したくない一心で」引きこもり生活を3年間続けていた、と本人が冒頭に語ったので、「声の状態や歌の方は大丈夫なのか?」と、一瞬心配になった。しかし演奏が始まるや否や、そんな杞憂はあっという間に吹き飛んで、むしろ久々のライブ演奏で張り切っているように見えた。ギターはもちろんのこと、声量もピッチもまったく衰えを感じさせない、相変わらず素晴らしい歌を聞かせてくれた。しかもヤヒロのパーカッションに加え、ウーゴ・ファトルーソのピアノやアコーディオンがバックに加わるので、サウンドに厚みも出て、リズムも躍動し、どの曲もラテン風味いっぱいの演奏となった。「別れのサンバ」、「灰色の瞳」というお馴染みの曲に加えて、ピアソラの「Oblivion」(忘却)を久々にナマで聴けたのは嬉しかった。他のラテン曲も、本場のウーゴとヤヒロトモヒロという名人がバックなので、当然ながらリズムの「ノリ」がまったく違って楽しい演奏になった。それにしても、1970年頃の「銀巴里」で、20歳のときにギター一本で堂々と唄う姿を見て以来、50年という歳月を経て、73歳にしていまだ現役、しかもまったく衰えを見せずに力強く唄っている長谷川きよしは本当にすごいアーティストだ。

ドス・オリエンタレス
…と思っていたら、ウーゴ・ファトルーソはなんと御年80歳(!)になるというから、上には上がいる。芸術家は年を取らないというのは本当だ。私は今回初めて聴いたのだが、ウーゴ・ファトルーソは90年代から来日しているが、特に2007年にヤヒロとドス・オリエンタレスを結成後は何度も来日していて、日本でも既にかなりファンがいるようだ。ピアノばかりでなく、80歳とは思えないようなヴォーカルや、アコーディオン、キーボード、さらにはコンガまで叩く全身これミュージシャンというすごい人だ。今回ヤヒロトモヒロとウーゴは、既に10月はじめから全国ツアーをしているが、11月にも京都での長谷川きよしとの再演の他、関西、名古屋、東京と、ライブ出演の予定で埋まっているようで、彼らの人気のほどがうかがえる。

それにしても、南米の「ラテンのリズム」は、どうしてあんなに素晴らしく変幻自在なのだろうか。やはり古来のアジア系インディオの音楽に、スペイン、ポルトガルというヨーロッパのラテン系の血、そこにアフリカのリズムが加わるという、まさに絵にかいたようなワールド・ミュージックというべき複雑な混淆の歴史から来るものなのだろう。私はジャズ好きだが、長谷川きよしの「別れのサンバ」がきっかけになって、ボサノヴァやサンバにも興味を持ち、バーデン・パウエルやジョアン・ジルベルトのギターの耳コピをしたり、アルゼンチンのエドワルド・ファルーやユパンキのギターもよく聴いた。ピアソラのタンゴも好きだ。ファトルーソのピアノはもちろんジャズ色が強いが、サウンドの魅力はやはりそのラテン独特のリズムにあり、ヤヒロトモヒロと二人で打ち出すリズムは一聴シンプルでいながら複雑で、深く、聴いていて非常に楽しめるので、ラテン好きな人にはたまらない魅力だろう。2部ステージの最後では、もう一人の女性パーカッショニストが加わって、3人で素晴らしいコンガ(?)トリオの演奏を披露した。

ただし今回の「PIT INN」は観客(約100人)の平均年齢が高く、また長谷川きよしのファン層は昔からそうだが、歌と演奏をじっくりと聴きたいという人が多いので、逆に言うと聴衆としてはおとなしくて「ノリ」が悪い。長谷川きよし単独のライヴ時はまだいいが、今回のような賑やかなラテン系のミュージシャンとの共演だと、演っている側は聴衆のノリが悪くてやりにくいだろうな、と思いながら聴いていた。たぶん、ドス・オリエンタレス単独のライヴでは、ラテン好きな人たちが集まるので、もっ聴衆のテンションも高く、奏者もラテンのノリで楽しく演奏できるのだろう。

アコンテッシ (1993)
ところで当日、長谷川きよしが最近YouTubeにアップしたという何曲かの「岩松 了・作詞」の曲を唄った(「涙を流そうとしたけれど」他)。岩松 了と言えば、私が知っているのは『時効警察』の熊本課長や『のだめカンタービレ』の、のだめの九州・大川の父親役などの独特のコント風の演技で、それ以外に脚本を書いたり、作家・演出家など、本格的演劇人であることも知っていたが、長谷川きよしのようなミュージシャンの曲の詞まで書いていることは知らなかった。90年代にいくつか書いたらしいその歌詞は、コント風どころかどれもシリアスかつ文学的なもので、名盤『アコンテッシ』に収録されている、私の好きな「別れの言葉ほど悲しくはない」の歌詞もそうだと知ってびっくりした(この曲をナマで聴いたのは、この日が初めてだったと思う)。私の場合、一度CDをPCにリッピングすると、ライナー類の史料はその後あまり読むことがないので、細かなデータを忘れていることが多く、てっきり長谷川きよしの作詞かと思い込んでいたのだ。当時、長谷川きよしと女優・吉行和子が組んで二人でやっていたステージの演出から、作詞・作曲という関係ができたようだ。いずれの詩も、岩松 了のテレビでの演技からは想像もできない(?)文学的内容に誰でも驚くだろう。

当日のステージで、長谷川きよしの楽曲が遅ればせながらストリーミングで配信されるようになった、という話が本人からあった。長谷川きよしの場合、廃盤になっていたレコードも多いし、『アコンテッシ』でさえ最近やっと普通に入手できるようになったくらいで(以前はコンサート会場で、長谷川きよしの私家増刷版CDの直接販売のみだった)、大衆的「流行り歌」の唄い手ではないこういうアーティストは、そもそも一般人がその歌を耳にする機会がないので、まず曲や歌唱の素晴らしさが知られていない。時おりテレビで唄う機会があっても、「別れのサンバ」や「黒の舟歌」といった有名曲ばかりで、他にも数多いオリジナルの名曲を一般人が耳にする機会はほとんどない。しかも昔のアルバムCDも既に廃盤になったものが多い。だからたとえアルバム単位ではなく、バラバラの曲単位でも、配信されて、これまでその存在と独自の歌の世界を知らなかった人たちが、彼の音楽を偶然、あるいは手軽に耳にする機会が増えるのはやはり良いことだろう。そこから「忘却」「アコンテッシ」のような名曲・名唱が改めて評価されることもきっとあるだろう。楽曲の配信は経済的な問題を考えると、音楽家によっては功罪相半ばするだろうが、長谷川きよしのようなアーティストにとっては、レコードやCDのようなメディアだけでなく、YouTubeも含めたネット配信はやはり追い風になるだろうし、少しでも今後の彼の音楽活動を支える一助になればいいと思う。次回は、京都でやる復活(?)ライヴの機会があれば、ぜひ行ってみたいと思う。

2018/01/16

「長谷川きよし」を聴いてみよう

年末の船村徹の追悼番組以来、美空ひばり、藤圭子、ちあきなおみ…と演歌系の歌手の歌ばかり聴いてきた(ちあきなおみが唄う「都の雨に」も、船村徹らしい中高年の心の琴線に触れる良い歌だ)。それに今はテレビでYouTubeを見ているので、放っておくと次から次へと勝手に再生し、忘れかけていた歌や、懐かしい歌などが出てきて、ついつい聴いてしまい、止まらなくなってしまうのだ。しかし、昔の演歌や歌謡曲は素晴らしい歌もあるが、基本的に曲の構造がシンプルなものが多いので、続けて聴いているとさすがに飽きてくる。たまに自分で唄っていると、いつの間にか別の曲になってしまうほど、コード進行やメロディが似通っている曲が多いからだ。そこで、正月明けには真逆のようなインスト・ジャズ聴きにいきなり戻る前に、その前段として少し複雑な曲や歌が聴きたくなる。ただし私が好きなのは、独自の世界を持っている「本物の」歌手なので、そうなると大抵聴きたくなるのが、古いジャズ・ヴォーカルと、日本人なら長谷川きよしだ。

ひとりぼっちの詩
(1969 Philips)
長谷川きよしが<別れのサンバ>でデビューしたのは1969年で、対極にあるような歌の世界の藤圭子が<新宿の女>でデビューしたのと同じ年だ。この時代は日本の転換期のみならず音楽史上も最大の変革期で、とにかく若者の数が多く、ロックも、フォークも、グループサウンズも、演歌も、歌謡曲も、初期のJ-POPも、歌なら何でもありの混沌の時代だった。長谷川きよしもデビュー曲で一躍脚光を浴びたが、最初からいっしょくたにされた他のフォーク系の歌の世界とはまったく異質の歌い手だった。だから、いわば初めからある意味で「浮いて」いた。今でも時々「懐かしのフォーク」とかいう類の番組に他の歌手と出演することがあるが、当然ながらやはり「浮いて」いる。最初から独自の歌の世界を持った人であり、そもそも音楽の質が違うからだ。60年代に人気のあったシャンソン・コンクールの圧倒的な歌唱で入賞したのがデビューのきっかけになったように、当時から、彼を支持していたのはシャンソンやジャズなどを好む「大人の」音楽好き、あるいはそうした世界を好むほんの一部の若者であって、同時代の大多数の若者ではなかった。だから長谷川きよしの歌を好む人の層は今でも基本的に限られていると思う。要するに本質的に「大衆」を聴き手とする歌手ではないのだ。<別れのサンバ>で使っているような当時としては複雑なコードを、これもサンバ的リズムに乗せて、ガットギターで弾いて唄う歌手などあの頃の日本には一人もいなかった。シャンソン<愛の讃歌>や<そして今は>を、ギター一本で、大人びた陰翳のある歌唱で、しかもフランス語で唄う若い歌手などもちろんいなかった。だから新鮮だったかもしれないが、正直よくわからないと思った人が当時は多かったと思う。盲目の青年という売り出しイメージが先行したために、暗い歌ばかりのように思われていたが、長谷川きよしの歌の世界は当時のフォークのような日本的なものではなく、シャンソン、カンツォーネ、フラメンコ、サンバ、ボサノヴァ、ジャズなど世界中の様々な音楽の要素が混在した、もっと乾いた無国籍的な音楽で、いわばワールドミュージックの先駆だったのだ。妙な政治的メッセージもなく、四畳半的な貧乏くささもなく、日本的な暗さもなく、熱い青春応援歌でもなく、純粋に曲と歌の美しさだけが伝わって来るような、都会的でお洒落な「非日常」の音楽だった。ある意味リアリティのない音楽とも言えるが、そこが良いという人もいるわけで、超絶のギターとともに、豊かな声量と正確なピッチ、クセのない美声による本格的歌唱が、無色透明の非日本的世界を唄うのに適していた。そういう歌手は、それまでの日本には存在していなかったのだ。70年代初めの銀座の「銀巴里」で、目の前で、ギター1本で「大人の」歌を堂々と唄う、同年齢の長谷川きよしを初めて聴いたときの衝撃は今でも忘れられない。

透明なひとときを
(1970 Philips)
デビュー・アルバム『ひとりぼっちの詩』(1969)は<別れのサンバ>の他に、<冷たい夜にひとり>、<心のままに>、<恋人のいる風景>などフレッシュでシンプルだが、当時の歌の中では断トツで斬新な自作曲が並ぶ。中ではシングル盤B面だった<歩き続けて>が、やはり永遠のラヴソングというべき名曲であり、当時の年齢でしか唄えない名唱だ。2作目のアルバム『透明なひとときを』(1970)は、70年代の作品中ではもっとも完成度の高い傑作だ。ジャケット写真が表すように、デビュー作の暗い、孤独なイメージから一転して、お洒落なボサノヴァの<透明なひとときを>、ジャジーな<夕陽の中に>、<光る河>などの優れた自作曲、さらにジャズ風アレンジのシャンソン<メランコリー>、イタリアンではミーナの<別離>や<アディオ・アディオ>、さらにサンバ風<フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン>のようなカバー曲など、バラエティーに富んだ選曲も良い。いずれにしろ、当時まだ20歳の若者が普通に唄うような曲ではなかったが、彼の本質と歌の世界がもっとも良く表現されたアルバムだった。この初期2枚のアルバムで聴ける曲は、若く瑞々しい歌声もあって、ほとんどが今聴いてもまったく古臭さを感じさせず、それどころか、いまだに新鮮な曲さえある(これらの歌は、たぶん現在はコンピレーションCDで聴くことができる)。その後<卒業>、<黒の舟歌>などのヒット曲も、『サンデー・サンバ・セッション』のような楽しいアルバムもあったが、レコード会社の販売戦略もあったのか、徐々にポピュラー曲寄りで、長谷川きよし本来の美質が生かされていないような歌曲や演奏が増えてゆく。優れた自作曲も減り、迷走しているな、と当時感じた私は、確か70年代の後半、九段会館で行なわれたエレキバンドが参加したコンサートを最後に、彼を聴くのをやめたように思う。もう自分の好きな長谷川きよしの世界ではなくなっていたからだ。

ACONTECE
(1993 Mercury)
その後80年代には、歌手としてもいろいろと苦労したようだ。そして長谷川きよしと久々に再会したのが、バブルが終わった90年代であり、既に(お互い)40代になっていた。当時フェビアン・レザ・パネ(p)、吉野弘史(b)、ヤヒロトモヒロ(perc)というトリオをバックにしたユニットで活動していたが、NHK BSのテレビ番組にこのユニットで出演したときの演奏は実に素晴らしかった。「あの長谷川きよしの歌」が帰って来たと思った。そしてその最高のユニットでレコーディングしたアルバムが『ACONTECE(アコンテッシ)』(1993)である。共演陣の素晴らしさもあって音楽的完成度が高く、歌に集中した長谷川きよしの歌手としての実力がもっとも発揮された最高傑作であり、日本ヴォーカル史に残るレコードだと思う。藤圭子の「みだれ髪」でも思ったが、歌い続けている優れた歌手というのは、若いときの瑞々しい歌ももちろん良いが、技術も声も衰えていない40代の大人として円熟してきた時代が、やはりいちばん歌の表現も味わいも深まる。<バイレロ>、<別れのサンバ>、<透明なひとときを>といった初期の名作に加え、新作<別れの言葉ほど悲しくはない>、さらにいずれも自作の詞を付けたジルベール・ベコーのシャンソン<ラプサン>、ピアソラの<忘却 (Oblivion)>、そして極め付きはカルトーラの<アコンテッシ(Acontece)>で、まさに長谷川きよしにしか歌えない、彼の歌の世界を代表する名唱ばかりである。このCDはその後ずっと再発されずに来たが、今は長谷川きよしのコンサート会場だけで、限定販売されているようだ。

人生という名の旅
(2012 EMI)
その後はライブハウスを中心にした活動を続けていたようだが、2000年代に入ってから、椎名林檎が、あるライブハウスで唄う長谷川きよしを「発見」したことによって、予想もしなかった二人のコラボが実現するなど、再び陽の当たる場所に顔を出すようになった。私もこの時代からまたコンサートやライブハウスに足を運ぶようになった。仙道さおり(perc.)や林正樹(p)をバックにした当時の演奏は非常に楽しめた記憶がある。一時期さすがに衰えを感じたこともあったが、還暦を過ぎた近年はむしろ声量、ピッチともに安定し、美しい声も未だに維持していて、昨年出かけたコンサートでは素晴らしい歌を聴かせてくれた。当然だろうが、年齢と共にあの無国籍性も多少薄れ、歌もギターもどこか日本的になってきたように感じるときもあるが、そうは言っても、やはり歌手としての出自とも言える仄暗いシャンソン風弾き語りが、長谷川きよしがいちばん輝く歌世界であることに変わりはない。歌のバックに伴奏を付けるなら、ピアノがいちばん彼の音楽と声質に合うと思う。ギターを弾く手を休めて、歌だけに集中したときの長谷川きよしの歌唱は本当にすごい。私が好きな近年のアルバムは『人生という名の旅』(2012)で、<Over the Rainbow>や2010年のヨーロッパでのライヴ演奏も収録されているが、特に40年以上前の<歩き続けて>のカップルが、歳月を重ねた後のような<夜はやさし>が、優しくしみじみとしてとても良い曲だ。この曲はライヴで聴いたときも素晴らしかった。

エンタメ全盛の今は、テレビ番組にもレギュラー出演していろいろな歌を唄ったり(唄わされたり)しているし、YouTubeでも、画面にアップになったギターテクニックを含めた長谷川きよしが見られるが、やはり彼の真価はライヴ会場で唄う歌とギターにこそあり、歌手としての本当の実力もよくわかる。コンサート(小規模会場が良い)やライブハウスで、生で、身近で、彼の素晴らしい歌とギターを聴くのがいちばん楽しめるので、未体験の人は、近くで機会があれば、ぜひ一度出かけてみることをお勧めしたい。藤圭子やちあきなおみの歌はいくら素晴らしくとも、もはや二度と生では聴けないが、長谷川きよしはまだ現役の、それも「本物の」歌手であり、あの美声とギターで今も元気に唄い続けているのだから。

2017/05/12

Bossa Nova #4:バーデン・パウエル

いわゆる穏やかなボサノヴァとは対極にあるのが、ギタリストのバーデン・パウエル Baden Powell (1937-2000) の音楽だ。ここに挙げた邦題「黒いオルフェーベスト・オブ・ボサノヴァ・ギター」というCDは、1960年代に演奏されたバーデンの代表曲を集めたベスト・アルバムで、昔から何度もタイトル名やジャケット・デザインを変えて再発されている。今や古典だが、彼が最も脂の乗った時期の演奏であり、どの曲も演奏も素晴らしいので、いつになっても再発されるのだろう。ここでは<悲しみのサンバ Samba Triste>などバーデンの代表曲の他に、<イパネマの娘>などボサノヴァの名曲もカバーしているが(タイトルもそうだが)、彼のギターの本質はいわゆるボサノヴァではない。アフロ・サンバと呼ばれる、アフリカ起源のサンバのリズムを基調としたより土着的なブラジル音楽がそのルーツであり、ボサノヴァのリズムと響きを最も感じさせるジョアン・ジルベルトが弾くギターのコードとシンコペーションと比べれば、その違いは明らかだ。だからサンバがジャズと直接結びついて生まれたボサノヴァと違い、バーデンの音楽からはあまりジャズの匂いはしない。このアルバムで聴けるように、彼のギターは力強く情熱的で、圧倒的な歯切れの良さとブラジル独特のサウダージ(哀感)のミックスがその身上だ。特にコードを超高速で刻む強烈なギター奏法は、40年以上前のガット・ギター音楽に前人未踏の独創的世界を切り開いた。もちろんバーデンもボサノヴァから影響を受け、またボサノヴァに影響を与えた。だからその後のブラジル音楽系のギタリストは、ジョアン・ジルベルトと並び、多かれ少なかれバーデン・パウエルの影響を受けている。

60年代全盛期のバーデン・パウエルは世界中で支持されたが、当時のその神がかったすごさは、1967年にドイツで開催された「Berlin Festival Guitar Workshop」(MPS) という、ブルース奏者(バディ・ガイ)やジャズ・ギター奏者(バーニー・ケッセル、ジム・ホール)等と共に参加したコンサート・ライヴ・アルバムで聞くことができる(このコンサートをプロデュースしたのはヨアヒム・ベーレントとジョージ・ウィーン)。ここでは <イパネマの娘> 、<悲しみのサンバ>、 <ビリンバウ> の3曲をリズム・セクションをバックに演奏しているが、いくらかスタティックな他のスタジオ録音盤とは大違いの、迫力とスピード、ドライブ感溢れる超高速の圧倒的演奏で会場を熱狂させている(CDではMCがカットされたりしていて、LPほどはこの熱狂が伝わってこないが)。この時代1960年代後半は、バーデンは特にヨーロッパで圧倒的な支持を得ていたが、ベトナム反戦、学生運動、公民権闘争など当時の激動の世界が、フリー・ジャズやバーデンのギターから聞こえる既成の枠を突き破ろうとする新しさと激しさに共感していたのだろう。バーデンはセロニアス・モンクやジョアン・ジルベルトと同様に、その奇行や変人ぶりでも有名だったが、こうした素晴らしい音楽を創造した天才たちというのは、いわば神からの贈り物であり、常人が作った人間世界の決まり事を尺度にあれこれ言っても仕方がない人たちであって、正直そんなことはどうでもいいのである。

バーデン・パウエルは、映画「男と女」(1966) にも出演したフランス人俳優、歌手、詩人、またフランス初のインディ・レーベル 「サラヴァ Saravah」主宰者としても知られる文字通りの自由人ピエール・バルー Pierre Barouh (1934-2016)との親交を通じて、フランスにブラジル音楽を広めた一人でもあった。バルーも、バーデンの協力を得ながら曲を作り、自らブラジル音楽をフランス語で歌い、フランスにボサノヴァを広めた。彼はまた日本人ミュージシャンたちとの親交でも有名な人だが、Saravah創設50周年を迎えた昨年12月末に82歳で急死した。そのバルー追悼として最近再発されたDVDサラヴァ- 時空を越えた散歩、または出会い」(ピエール・バルーとブラジル音楽1969~2003)は、1969年のブラジル訪問以降、バーデン・パウエル他のブラジル人ミュージシャンたちとの交流を通じて、バルーがどのようにブラジル音楽を理解していったのか、その旅路を自ら記録した映像作品だ。若きバルーやバーデンと、ピシンギーニャ他のブラジル人ミュージシャンたちが居酒屋に集まって即興で演奏する様子(ギターはもちろんすごいが、歌うバーデンの声の高さが意外だ)などを収めた貴重なドキュメンタリー・フィルムは、バルーのブラジル音楽への愛情と尊敬が込められた素晴らしい作品だ

バーデン・パウエルは1970年に初来日して、その驚異的なギターで日本の人々を感激させている(ジョージ・ウィーンがアレンジしたこの時のツアーには、セロニアス・モンクもカーメン・マクレー等と参加していた)。日本でそのバーデン・パウエルのギター奏法から大きな影響を受けたと思われるのが、歌手の長谷川きよし(1949-)やギタリストの佐藤正美(1952-2015)だ。長谷川きよしのデビューは1969年で、<別れのサンバ>に代表される初期の曲で聴けるサンバやボサノヴァ風ギターには、バーデンのギターの影響が濃厚だ。バーデンを敬愛していた佐藤正美はより明快に影響を受けていて、1990年のCD「テンポ・フェリス Tempo Feliz」(EMI)は、バーデンへのオマージュとして聞くことのできる優れたアルバムだが、ここでの演奏はボサノヴァ色をより強めたものだ。背景に海辺の波の音を入れた録音には賛否があったようだが、これはこれで非常にブラジル的なムードが出ていて、リラックスして聴けるので私は好きだ。昔、渡辺香津美との共演ライヴで聴いた佐藤正美のギターも実に素晴らしかった。その後、独自のコンセプトで様々な演奏と多くのアルバムを残した佐藤正美氏は、残念ながら2015年にバーデン・パウエルと同じ享年63歳で亡くなった。