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2023/08/13

「憂歌団」 Forever!

Rolling 70s (1994)
インストのジャズは通年、つまり1年中聴いているが、加えて私には「シーズンもの」というべき音楽ジャンルがある。すべてヴォーカルで、年末になると決まって聴きたくなるのが船村徹、藤圭子、ちあきなおみ…など日本情緒あふれる演歌。春から初夏にかけてはボサノヴァ、真夏はサザン、大瀧詠一、山下達郎などのJ-POP、秋から冬はジャズ・ヴォーカルに加え、井上陽水や長谷川きよしのしみじみ系……と年がら年中ヴォーカルも聴いているわけだが、夏の定番がもう一つあって、それが「ブルース」を唄うバンド「憂歌団」だ。と言っても、女のブルースとか、港町ブルースとかの日本の歌謡曲ではない、本物のブルースをやるバンドだ。こちらは夏向きのクール系音楽ではなく、むしろ逆にアクが強くて暑苦しい系の音楽なのだが、6月から7月くらいになると、私は無性に憂歌団が聴きたくなる。

真冬に聴く演歌もそうだが、ポピュラー音楽にはどれも、その出自から来る「いちばん似合う場 (situation)」というものがある。明るい南国行きの船の上ではなく、雪の舞う北国へ向かう暗い冬の船や列車の中だからこそ、演歌は一層しみじみと心に響く。同様に、ジャズをさわやかな高原で、真っ昼間に聴きたいとはあまり思わない。ジャズは基本的には「都会の」「夜の」音楽だからだ。ブルース(Blues:英語の発音では「ブルーズ」と濁る)も、秋とか冬の澄み切った青空の下で聴きたいとは思わない。アメリカ深南部 (Deep South) の、ミシシッピ・デルタあたりのジトーッと重い湿った空気の中で生まれたブルースも、底に流れる黒人音楽特有の哀しみや嘆きに加え、その出自の一部である「風土」が、サウンドの中に色濃く反映されている。日本の気候とはまったく違うだろうが、強いてあげれば、日本では6月から7月のじめじめした蒸し暑い季節が、いちばんブルースには似合うように思う。

熱心なファンを除けば、今やどれくらいの人が「憂歌団」のことを知っているのか分からないが、ジャズ、ロックに加えフォーク、ニューミュージック、演歌、歌謡曲…と、何でもありで、ほとんど「ビッグバン」状態だった日本の1970年代の音楽界で、ひときわ異彩を放っていたのが「憂歌団」(Blues Band=ブルース・バンド=憂歌・楽団=憂歌団)だ。あの時代ブルースをやっていたバンドは、憂歌団も影響を受け、曲提供も受けた名古屋の「尾関ブラザース」や、京都の「ウエスト・ロード・ブルース・バンド」など、結構あったようだが、もっともインパクトがあり、メジャーな存在になったのは、やはり当時の「アコースティック・ブルース・バンド」憂歌団だっただろう。内田勘太郎のギター、木村充揮(きむら・あつき)のヴォーカルを核にして、花岡献治(b)、島田和夫(ds-故人)を加えた4人の音楽は、「憂歌団」という素晴らしいネーミングと共に、私的にはとにかく衝撃的だった。

17/18 oz (1991)
ブルースの歴史に特に詳しいわけではないが、いくつかの系譜があるブルースの起源の一つは、言うまでもなくジャズのルーツでもあるアメリカ南部の黒人音楽を核にした「カントリー・ブルース」だと言われている。つまり本来が土くさい、汗くさい音楽で、NYやシカゴなど都市部に広まってジャズやR&Bのルーツにもなった、モダンな「シティ・ブルース」とはサウンドの肌合いが違う。だから一部のブラック・ミュージック好きな人たちを除けば、そもそも、あっさり好みが多い日本人の嗜好に合うような音楽ではなかっただろうと思う。憂歌団の音楽は、このアメリカ生まれの黒っぽく土くさいブルースに、きちんと「日本語で日本的オリジナリティ」を加えて、日本にブルースという音楽を「土着化」させた初めての音楽だった。ジャズで言えば、山下洋輔グループが同じく1970年代に生み出した「日本独自のフリージャズ」と、その性格と立ち位置がよく似ている。

ブルースの日本土着化を可能にした「要因」はいくつかあるだろうが、その一つは、間違いなく憂歌団の本拠地である「大阪」という土地柄、風土だ。東京でも京都でもなく、日本で大阪ほどブルースの似合う街はない。昔(50年前)に比べると、今は大阪もすっかりモダンに様変わりしたようにも見えるが、その根底に、気取らず、飾らず、泥臭く、人間味があって、「本音」で生きることにいちばんの価値を置く、という長い「文化」がある大阪こそ、日本にブルースが根付く土壌をもっとも豊かに備えている街だ。憂歌団のオリジナル・メンバーの出身地であり、彼らの音楽が持つサウンドと歌詞のメッセージに共感し、それを支持する「聴衆」が多いこともその条件の一つだろう。そして「日本語のブルース」を可能にしたのが、上記文化を象徴する言語である「大阪弁」の持つ独特の語感とリズムだ。そしてもちろん、その大阪弁をあやつる木村充揮の、「天使のだみ声」と呼ばれる超個性的なヴォイスと歌唱が決定的な要因だ。内田勘太郎のブルージーだが、同時に非常にモダンなブルース・ギターと木村の味のあるヴォーカルは、もうこれ以上の組み合わせはないというほど素晴らしかった。とりわけ木村充揮は、ブルースを唄うために生まれてきたのか…と思えるほどで、ブルースとは何かとか考える必要もなく、木村が唄えばそれがブルースであり、どんな楽曲も「ブルースになる」と言ってもいいほどだ。

私が持っている憂歌団のレコードは『17/18 oz』(1991)と、2枚組『憂歌団 Rolling 70s』(1994)というベスト盤CDだけだったが、彼らの名曲をほとんどカバーしているこの40曲ほどを、何度も繰り返し聴いてきた。今はこれらをまとめた新しいベスト盤も、DVDも何枚か出ているし、木村充揮のソロ・アルバムも何枚かリリースされている。それにYouTubeでも過去のライヴ演奏など、かなり昔の記録までアップされていて、映像では内田勘太郎の見事なギタープレイもたっぷりと楽しめる。憂歌団のレパートリーは、ブルース原曲や、アメリカのスタンダード曲に加え、オリジナル曲の「おそうじオバチャン」、「当たれ!宝くじ」、「パチンコ」、「嫌んなった」など、70年代憂歌団の超パワフルで、いかにも大阪的なパンチのきいた楽曲が最高だ。しかしシャウトする曲だけではなく、木村がブルージーかつ、しみじみと唄う「胸が痛い」「夜明けのララバイ」「けだるい二人」のようなバラード曲や、「夢」「サンセット理髪店」など、ほのぼの系の歌も絶品だ。ただし、バンドとしての憂歌団の素晴らしさをいちばん味わえるのは、何といってもライヴ演奏だろう。それも大阪でやったライヴが特に楽しめる(聴衆のノリが違う)。ライヴで唄う定番曲「恋のバカンス」や「君といつまでも」他の、日本のポップスの木村流カバーも非常に楽しめる(時々、森進一みたいに聞こえるときもあるが)。

「憂歌団」というバンド自体は1998年に活動休止したが、その後も内田勘太郎と木村充揮はソロ活動を続け、2014年には「憂歌兄弟」を結成したり、二人は今もソロや種々のコラボ企画で活動を続けている。現在YouTube上では、多彩なミュージシャンと木村充揮の共演記録が貴重な映像で見られる。もう70歳に近く、さすがに昔のようなワイルドさは減ったが、今や「枯淡の域」に達した感のある木村のソロ・ライヴ記録はどれも本当に面白い。最近ではコロナ前2018年に地元の大阪、昭和町(阿倍野区)のイベントでやった屋外ソロ・ライヴ(「どっぷり昭和町」)が傑作だ。お笑いと同じく、演者と観客が一体化して盛り上がる大阪ならではのライヴは、とにかく見ていて楽しい。木村を「アホー」呼ばわりし「はよ唄え」と、突っ込みながら歌をせがむ観客と、舞台上で悠然と酒を飲み、タバコをふかして、その観客に向かって「じゃかっしー、アホンダラ!」と丁々発止で渡り合い、適当に客をイジり、イジられながら、ギター1本で延々と語り、唄う木村充揮の芸は、まさにブルースなればこそ、大阪なればこそ、という最高のパフォーマンスだ。もうこうなると、もはや完全に名人芸「ブルース漫談」の芸域だ。

The Live (2019)
また憂歌団時代はつい内田勘太郎ばかりに目が行っていたギターだが、映像で見ると、ソロで唄うようになった木村のブルース・ギターが、半端なく上手いことがよくわかる。今はアンプをつないだエレキが多いが、カッティング、ヴォイシングともに、限られた音数のギター1本だけで、その独特のヴォーカルを伴奏しながら、深くブルージーなグルーヴを生み出すテクニックはすごいものだ(しかも酒を飲み、客と冗談を言い合いながら)。世界には「吟遊詩人」の時代から、ギター一本の伴奏と歌だけで「その音楽固有の世界」を瞬時に生み出してしまう名人アーティストがいるもので、「ボサノヴァ」ならジョアン・ジルベルト、「演歌」なら船村徹が思い浮かぶが、木村充揮は間違いなく世界に一人しかいない稀代の「日本語ブルース歌手」である。その木村は、コロナが収束に向かっていることもあり、今年は7月以降のライヴスケジュールもびっしりとつまっているし、9月初めには、何とあの東京のど真ん中「丸の内 Cotton Club」でライヴをやるらしい。いや、楽しみだが、大丈夫か(何が)?

団塊の若者が主導し、1960年代的「混沌」を半分引きずりながら、同時に高度経済成長に支えられた未来への「希望」が入り混じった1970年代のカオス的でパワフルなカルチャーには、商業的成功だけではない、サブカル的音楽の存在と価値を認め、それを楽しむ度量というものがあった。それに当時は老いも若きも、まだ国民の半分くらいは「自分は貧乏だ」という意識があって、それを別に恥じることもなく、かつ「権力には媚びない」という60年代的美意識がまだ残っていた。この70時代から80年代にかけてのポピュラー音楽からは、音楽的な洗練度とは別に、「生身の人間」が作っているというパワーと手作り感が強烈に感じられるのだ。ところが80年代に入って日本がバブルへと向かい、みんながそこそこ裕福になり、世の中も人間もオシャレになってくると、音楽も徐々に洗練されるのと同時に、80年代末頃からは、デジタル技術が音楽の作り方そのものを変え始める(生身の人間による音楽の「総本家」たる即興音楽ジャズさえも、80年代以降は明らかに変質してゆく)。聴き手側でも、「おそうじオバチャン」的世界を共感を持って面白がり、支持する層も徐々に減って行っただろう。憂歌団にはブルースという普遍的な音楽バックボーンがあり、決して流行り歌を唄うだけのバンドではなかったが、こうして社会と人間の音楽への嗜好が変わって行くと、バンドの立ち位置も微妙に変化せざるを得なかっただろう。

20世紀後半は日本に限らず、世界中でありとあらゆる種類のポピュラー音楽が爆発的に発展した時代だ。その時代に生まれた様々な、しかも個性豊かな音楽に囲まれて青春時代を送り、生きた我々の世代は本当に幸運だったと思う。その世代には、この世に音楽がなかったら、人生がどんなにつまらないものになるか、と本気で思っている人が大勢いることだろう。しかし、この20世紀後半のような幸福な時代――次々に新たな大衆音楽が生まれ、それを創造する才能が続々と登場し、それらを聴き楽しむ人が爆発的に増え、音楽と人が真剣に向き合い、感応し合い、楽しく共存した時代――は、もう二度とやって来ないだろう。あの半世紀は「特別な時代」だったのだ。この夏も、こうして70年代「憂歌団」の超個性的な演奏を聴きながら思うのは、そのことだ。

2018/01/10

藤圭子「みだれ髪」の謎

天才的な音楽アーティストというのは、常人には理解不能な面があるものだが、当然ながら本人に尋ねたところでそのわけが明らかになることはない。特に、普通に会話していると、まったく常人と変わらないごく普通の人なのに、いざ演奏なり、歌うことなり、その人が自分の「演技(performance)」を始めた途端に、神が降臨したとしか思えないような音楽が突然流れ出して唖然とするアーティストがいる。ジャズの世界にもそうした歌手や奏者がいるし、クラシックでも、昔、五嶋みどりのヴァイオリンを初めて生で聴いたときに、その種の驚きを感じたのを思い出す。音楽には人の心に直接的に働きかける不思議な力があるが、そうした特別な感動は、実はいわゆる「芸の力」とか「プロの技」というべき高度な技量によって生まれるものなのか、あるいは、それ以外の特別な「何か」が演奏中のアーティストを動かしているからなのか、素人には判然としない。最近いちばん驚いたのは、今から多分20年ほど前、1990年代半ばと思われる、あるテレビの歌番組に出演した藤圭子の唄う「みだれ髪」をネット動画で聴いたときのことだ。

藤圭子* 追悼:みだれ髪
YouTube 動画より
年末の船村徹の追悼番組で、東京ドームの『不死鳥コンサート』(1988年)で美空ひばりが唄う「みだれ髪」(星野哲郎・作詞、船村徹・作曲)を聴いて改めて感動したのだが、他の歌手も同曲をカバーしているのがわかったので、YouTubeであれこれ比べて聞いていたときに見つけた動画だった。『藤圭子 追悼:みだれ髪』と題されたこの動画がアップされたのは、藤圭子が自殺した1年後の2014年8月で、既に3年以上経ち、視聴回数は150万回を越えているので、私はずいぶん遅ればせながら見たわけだが、それだけ多くの人がこの動画を見ていることになる(おそらく、その素晴らしさから何度も繰り返し見ている人が多いと思う)。藤はこの曲をカバーとして正式に録音していないので、どのCDにも収録されておらず、聴けるのはテレビ番組をおそらくプライベート録画したこのネット動画だけである。調べたが、当時は宇多田ヒカルのプロデュース活動をしていた時期だったと思われ、90年代の後半は結構テレビに出演していたようだが、コンサートなどで藤自身が頻繁に唄っていた形跡もないようだ。同時期ではないかと思われるテレビ録画をアップした別のいくつかの動画では、他の曲を明るく唄ったり、屈託なく喋る普段の藤圭子の姿が映っているが、「みだれ髪」は唄っていない。したがって記録された藤圭子の唄う「みだれ髪」は、どなたかが投稿した、このときの貴重なテレビ録画映像だけなのだろう(確証はないが)。

番組の構成がそういう前提だったのかもしれないが、まず驚いたのは、この番組で藤が美空ひばりの曲を選んでいることだった。昔のカバー・バージョンが入った藤のCDを調べたが、美空ひばりの曲は見つからなかったので、それだけで珍しい。これも番組の設定なのだろうが、司会者など周囲に聴衆が座っている中、普段着のようなカジュアルな服装をして登場した多分40代半ばくらいの藤圭子は、カラオケのように右手でマイクを握り、イントロの最初の部分では特に変わったところはないが、中頃から、昔の藤ではたぶん見られなかっただろう、和装のときのような左手の「振り」を入れ始め、それが意外な印象を与える(この曲の世界に入ってゆくための儀式のようなものなのだろう)。そして「みだれ髪」の歌に入った途端、カジュアルな藤圭子はどこかに消え去り、あの懐かしい、哀愁を帯びた独特の声と節回しで、完全に「藤圭子のみだれ髪」を唄い出したのだ。聴いた瞬間に思わず引き込まれてしまうその歌唱は衝撃的だった。この曲は美空ひばりの歌のイメージしかなかったので、あまりの歌の世界の違いに唖然としたのである。

哀しい女の心情を切々と謳い上げる美空ひばりは、星野・船村コンビの世界をある意味忠実に、古風に、美しく表現しているのだと思う。それに対して、べたつかない乾いた抒情を感じさせながら、しかし心の底の寂寥と哀切を絞り出すように唄う藤圭子は、まったく別の、救いのないほど哀しい世界を瞬時に構築して、聴き手の心の真奥部を揺さぶるのである。同じ歌詞とメロディで、ここまで別の世界が描けるものかと驚くしかなかった。誰しもが言葉を失うほどのこの歌唱は、まさに「降臨」としか言いようのない、突き抜けた別の歌世界である。1番を唄い終えたとき、じっと静まり返っていたスタジオ中に一気に広がった何とも言えないどよめきと拍手が、いかにその歌が素晴らしかったのかを物語っている。そして、3番を唄い終えると(2番は飛ばしている)、藤圭子は何事もなかったかのように、いや、まるでカラオケで自分の唄う順番を終えた素人のように、にっこりして、照れたように飄々と自分の席に戻ってゆくのだ。私は彼女のこの一連の動作と、唄ったばかりの歌の世界とのギャップに呆然として、その謎を少しでも理解しようと、何度も何度も繰り返しこの動画を見ないわけにはいかなかった。「巫女」とか「憑依」とかいう言葉を、どうしても思い起こさざるを得なかった。

いったい藤圭子の「みだれ髪」にはどういう秘密があるのだろうか? なぜあれだけの歌が唄えるのだろうか? 私はジャズ好きで、美空ひばりや藤圭子の特別なファンというわけでもなかったので、えらそうなことは言えないが、ジャンルに関係なく、少なくともこの二人が歌い手として別格の存在であることはわかる。美空ひばりの没後、様々な歌手が同曲に挑戦しているのをネット動画で聴いた限り、当然のことだろうが美空ひばりに比肩するような歌はなかった。しかしこの当時、歌手活動は既にほとんど休業状態だったと思われる藤圭子がいきなりテレビに出演して、自分の持ち歌でもない、あの美空ひばりの名曲にして難曲に挑戦し、本人に勝るとも劣らない歌唱で平然と自分の歌のように唄ってしまうのである。美空ひばりのためにこの曲を書いたと言われている作曲者・船村徹が、もし藤のこの歌を聴いていたら、どんな感想を持ったのか知りたいと思って調べてみたが、この歌唱についての船村のコメントはネット上では見当たらなかった。そしてその船村徹も昨年亡くなってしまった。

流星ひとつ(文庫版)
沢木耕太郎
(2013/2016 新潮社)
あまりに不思議だったこともあって、沢木耕太郎が書いた『流星ひとつ』(新潮文庫)を、こちらも遅まきながら読んでみた。これは1979年、当時まだ31歳の沢木が、引退宣言後の藤圭子(28歳)とのインタビューを元に書き起こしたもので、諸事情から30年以上未発表だったが、彼女が自殺した直後の201310月に出版した本だ。私が翻訳した『リー・コニッツ』も含めて海外の音楽書籍ではよくある形式だが、日本では今でも珍しい、全編アーティストと著者による一対一の対話だけで構成されたこの本は、売ることだけを目的に書かれた芸能人の商業的なインタビュー本ではなく、一人のアーティストの内面と思想に真摯に迫る、当時としてはきわめて斬新なノンフィクションである。この形式の成否は、アーティスト本人の魅力以上に、聞き手側の人格と感性、さらに作家としての力量にかかっているが、若き沢木は見事に成功していると思う。そして、すべてとは言えないが、少なくとも私が抱いた彼女の歌の謎の一部はこの本で氷解した。

本の前半、少女時代から歌手になるまでの記憶のかなりの部分が、ある意味「飛んで」いて、その当時についていろいろ質問しても、藤は「覚えていない」を繰り返し、沢木を呆れさせている。歌についても「何も考えずに無心で歌っていた」と何度も言い、あの無表情なデビュー当時の藤圭子のままだ。ところが後半に入り、酒の勢いもあって徐々に打ち解けて来ると、「別に」、「記憶にない」とそっけない回答が多かった前半の藤の体温が上昇して行くかのように本音を語り始め、彼女の人生や人格に加え、歌手としての信条が次第に浮かび上がって来る。特に、歌の「心」について自らの信念を語る部分は圧巻だ。そして「面影平野」を例に、自分の「心」に響く(藤は「引っ掛かる」という言い方をしている)歌詞についてのこだわりもはっきり語っている。演歌に限らず、プロ歌手はみな歌の「心」を唄うとよく口にするが、実際に歌の表現としてそれを聴き手に伝えられるほど高度な技量を持つ人は一握りだろう。藤圭子はまさにその稀有な「表現者」の一人だったのだということを、これらの発言から改めて理解した。その生き方と同じく、曲そのもの(歌詞とメロディ)、歌手として唄うことに対するこだわりと純粋さ、ストイックさには感動を覚えるほどで、単に天才という一語ではくくれないものがあることもわかる(これはセロニアス・モンクをはじめ、どの分野の天才的音楽家にも共通の資質だろう)。

そして、インタビューの前半では言い渋っていた少女時代の家庭生活、特に父親に関する凄絶な体験と記憶、よく見る夢の話などを読んでいるうちに、逃げ出したいと思い続けていた過去、封印したいと思っていた原体験が、無表情で「何も覚えていない(=忘れたい)」藤圭子の表層を形成し、同時にあの底知れないような寂寥感を深層で生み出していたのだと思うに至った。少女時代の彼女は、よく言われる「151617と…」という、デビュー当時の月並みなイメージとは比べ物にならないほどの体験をしていたのだ。70年代前半の何曲かにみる圧倒的で、凄みのある歌唱は、いわば表現者として第一級の「プロの芸」と、人には言えない彼女の深層にある「原体験」が、「自分が共感する曲」の内部で接触し、化学反応を起こした瞬間に形となって現れるものだったのだろう。だから、どんな曲でもそれが起きたわけではないし、積み上げたプロの芸は維持できても、ショービジネスで生きるうちに、深層にあった原体験の記憶が時間と共に相対的に薄れ、与えられた曲の世界が変化してゆくにつれて、そうした反応が起こる確率も減って行ったと思う。79年の引退の引き金になったと藤自身が語る74年の喉の手術による声質の変化は、そのことを加速した要因の一つに過ぎないようにも思える。

それから約15年後にこの「みだれ髪」を唄ったときの藤圭子は、プロの芸にまだ衰えはなく、おそらく唯一崇拝していた歌手、亡き美空ひばりへのオマージュという特別な感情を心中に抱いていたのと同時に、星野・船村コンビによるこの曲そのものに、歌手として心の底から共感を覚えていたのだと思う。だから藤にとっては単なるカバー曲ではなく、純粋に「自分の歌」として唄った入魂の1曲だったのだと思う。ただし、少女時代からスターだった美空ひばりの唄う「哀しさ」と、藤圭子の唄う「哀しさ」は、やはり質が違うのである。若い時代、1970年代前半の藤圭子の歌も素晴らしいが、一時引退後の約15年間、別の人生(体験)を生きてきた40代の藤圭子が唄う、ただ一人、美空ひばりと拮抗するこの「みだれ髪」こそ、おそらく歌手としての彼女の最高傑作であり、たった数分間の画も音も粗いネット動画にしか残されていない、文字通り幻の名唱となるだろう。そして何より、この動画の中の藤圭子は、歌だけでなく仕草、表情ともに実に美しく、可憐ですらあり、その映像と歌が一体となったこの動画は、何度も繰り返し見たくなり、我々の記憶に残らざるを得ない「魔力」のようなものを放っている。150万回を越える視聴回数と数多くの賛辞は、それを物語っているのだと思う。 

この歌からまた15年以上が過ぎた後、藤圭子は自ら命を絶ってしまった。藤圭子とおそらく同等以上の才能を持ち、同じような人生を歩んでいるかに見える宇多田ヒカルの歌と声からは、母親と同種の哀切さがいつも懐かしく聞こえて来るので、今となってはその同時代の歌声だけが慰めだ。今年もまた年末、正月といつも通り時は過ぎて行ったが、そうして暮らしているうちに、天才歌手・藤圭子は遥か彼方へとさらに遠ざかって行くのだろう。

2017/12/22

時代を超える歌姫たち

年末になると、年寄り向けに昔の歌手や歌を特集したテレビ番組が増えるが、先日は今年亡くなった作曲家・船村徹(1932-2017) の特集をやっていたので、つい見てしまった。私は基本的にはジャズ中心に聴いているが、クラシックもJ-Popも、時には古い演歌や歌謡曲も聴く。我々の世代は、中学時代以降にプレスリーやビートルズによって洋楽の洗礼を受けた人がほとんどだと思うが(私はアストラッド・ジルベルトのボサノヴァも同時に聴いていたが)、それ以前は普通の家庭のラジオやテレビから流れていたのは大部分が演歌や歌謡曲だったので、幼少期に自然と脳に刷り込まれているそういう音楽には無意識のうちに反応してしまうのである。なので、ずいぶんとそのジャンルの曲も聴いてきたが、やはり作曲家・船村徹と作詞家・阿久悠は日本オリジンの歌謡曲史上でも別格の存在だと思う。船村徹は自作曲をギターを弾きながら自身でも歌っているが、哀感に満ちたその歌と歌唱は、どの曲も日本人中高年の心の琴線に触れる素晴らしさだ。(特に年末に聞く、高橋竹山を謳った「風雪ながれ旅」には痺れる。)

不死鳥 (DVD)
 美空ひばり
(1988 日本コロムビア)
その番組の最後の方で、星野哲郎・作詞、船村徹・作曲という黄金コンビによる「みだれ髪」を、1987年に闘病後復活した美空ひばり (1937-89) が レコーディングし、1988年の武道館コンサートで歌うまでの短いエピソードを紹介していたが、ひばりの歌にはあらためて感動した。実を言えば、若い時にはひばりにはまったく関心もなかったのだが、自分が年齢を重ねるにつれて徐々にその凄さがわかってきた。この映像もたぶん以前に見たり聞いたりしたことがあったのだろうが、なぜかこの時には、彼女の歌唱に思わず引き込まれてしまったのである。美空ひばりは戦後の復興昭和時代を象徴する歌手であり、数え切れないほどの名唱を残している人だが、絶唱とも言えるここでの歌唱には、ジャンルも時代も超えた圧倒的な存在感と心に深く響く美しさがあった(この曲は、後でYouTubeで聴いた藤圭子の歌も実に素晴らしかった。2大名唱と思う)。ひばり後、昭和後期の高度成長とバブル期の<表>を象徴する女性歌手・作曲家は松任谷由美であり、<裏>はたぶん中島みゆきだろう。そしてバブル後、混沌の平成の象徴は椎名林檎だろうと思う。これらの女性アーティストたちは、その音楽的スケール、独創性、作詩・作曲能力、性別・世代を超えたポピュラリティ、全ての点において傑出した才能を持っている。そして日本でその嚆矢となったのが、歌唱の世界のみだが、美空ひばりなのだ。彼女たちはそれぞれ幼少期に生きていた時代が違うので、体内に蓄積された音楽的要素の質・量が異なるだけで、持てる才能のレベルは同じだと思う。ひばり、ユーミン、中島みゆきの歌や曲はいまだに古びず、単なるナツメロではなく時代を超えて愛され続けている。だが椎名林檎は、音楽がモノと同じように日常の中で消費され、捨てられるようになった時代に現れたためにこの点で不利だ。歌におけるメロディの重要度が時代と共に薄れ、歌そのものが複雑になり、かつては人々の記憶にすぐに定着していたシンプルなメロディを持つ音楽が減ってきた時代背景もある。あらゆるものが断片化している現代では、音楽的成功の形も同じくマスから断片へと移行し続けるだろう。だから今後日本のポピュラー音楽の世界で、これらの女性たちと同等の音楽的スケールを持ち、かつ大きな成功を収める女性アーティストが現れるかどうかは疑問だ。

Lady in Satin
Billie Holiday
 (1958 Columbia)
さて、その美空ひばりの「みだれ髪」を聴いていて否応なく思い起こしたのがビリー・ホリデイ Billie Holiday (1915-59) である(私の訳書に出て来るが、セロニアス・モンクが、若い時に寝室の天井にホリデイの写真をテープで留めて貼っていた、という話は面白かった)。昔からホリデイを聴くとひばりを思い出し、逆もまたしかりだったが、この二人は本質的な部分で実によく似ているのである(二人は顔の骨格もよく似ているように思う。なので発声も声質も似ているように私には感じられる)。ひばりは若い時からジャズを歌っているし、影響を受けたかどうかはよくわからないが、当然ホリデイも好きだったという。しかし、ひばりの歌は洋楽も含めて、どんな曲を歌っても「借り物」という感じがせず、完全にその曲を自分のものとして消化し、自分の世界で歌ってしまうところが非凡なのだ。ビリー・ホリデイもまったく同じで、何を歌ってもホリデイのメロディ、リズムの世界にしてしまう。通常の、歌がうまいとか下手だとか、ピッチやディクションがどうだとかいうレベルの評価とはまったく無縁の存在なのだ。そして二人に共通しているもう一つの点は、万人の心に訴えかける「歌の力」だ。つまり、二人とも歌謡曲やジャズといった商業ジャンルなどは遥かに超えた、そしてその比類のない個性ゆえに時代さえも超えた大天才歌手なのである。とはいえ、個人的な好みを言えば、二人とも若い時の歌よりも、夕陽が沈みかけ、消えかかるときのような晩年の歌唱により惹かれるものがある。体力や技術、声の瑞々しさに頼って楽々と歌った若い時期よりも、それができなくなって、やむなく全身から絞り出すように、天才が魂を込めて歌うヴォーカルに感動するのだ。モンクやパウエルの晩年のピアノ演奏にも同じことを感じるので、これは自分が年を取ったという証かもしれないが、音楽にはそういう美の世界というものがあると思う。だから晩年のひばりの「みだれ髪」に感動したように、昔から私のいちばん好きなビリー・ホリデイのレコードは、絶頂期の若い時の録音ではなく、亡くなる前年19582月にストリングスをバックに録音した『Lady in Satin』Columbia)である。<I’m a Fool to Want You>を筆頭に、肉体の衰えが表現の一部となって昇華したかのような曲と歌が、どれも心に染みる素晴らしいアルバムだ。ホリデイの苦難の生涯のことは様々に語られて来たが、ここで聞けるのは、これまでの自分の人生をゆっくりと振り返りながら、同時に彼岸を見ているかのような、諦観と愛と静けさに満ちたホリデイの絶唱である。

The First Recording
Nina Simone
 (1958 Bethlehem)
音楽ジャンルも時代も超えて人の心に訴えかける歌姫は、クラシックでもシャンソンでも、民俗音楽の世界にもそれぞれいるが、ジャズ・ヴォーカルではホリデイと並んで、そうした魅力と能力を感じさせるもう一人の天才女性歌手がニーナ・シモン Nina Simone (1933-2003) だ。上記ホリデイのアルバムと同じ1958年に録音されたシモンのデビュー作『The First Recording (Little Girl Blue)』(Bethlehem)も、そうした普遍的価値を持つ傑作アルバムである。ここで聞けるシモンの歌は、まだ若い25歳くらいのときのものだが、どの歌唱も本当に素晴らしい。<Little Girl Blue>、<I Loves You Porgy>などの名曲の他、全てが名唱であり、クラシック・ピアノの訓練を積んだシモンの端正なピアノと、ゴスペルやブルースを身体深く浸みこませた彼女の歌が、絶妙にバランスした唯一無二の歌の世界を聞くことができる。シモンはそもそもジャズというジャンルにこだわった歌手ではなく、60年代以降はより広い音楽ジャンルと公民権運動に活動のベクトルが向かい、様々な問題を抱えた70年代以降、2003年にフランスで亡くなるまで厳しい人生を送ったようだ。しかし、ホリデイの<I'm a Fool to Want to You>と同じく、冒頭のスピリチュアルのごとき<Little Girl Blue>1曲が象徴するように、今から60年も前のモダン・ジャズ全盛期に吹き込まれた、このデビューアルバムから聞こえる魂の歌には永遠の価値がある。