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2020/10/15

あの頃のジャズを「読む」 #10 (完):されどジャズ

80年代バブル景気に沸く東京のジャズの中心は、70年代までのアングラ的新宿から、オシャレな六本木、青山方面へと移動し、難しい顔をして聞く前衛的音楽から、バブルを謳歌する小金持ちや、中堅の団塊世代が集まるジャズクラブで、ゆったりと酒を飲みながら聴く「大人の音楽」へと完全に変貌した。もう「反商業主義」などと面倒臭いことを唱える人も消えて、みんなで楽しく気楽に聴けるフュージョン全盛時代となり、大規模ジャズフェスなども盛況で、ミュージシャンの仕事の場も数多く提供されていた(たぶん音楽的進化や深化はほとんどなかっただろうが、ショウビズ的には大成功で、それはそれで大衆娯楽としての音楽の本来の役割を十分に果たしていた)。ライヴのみならず、日本伝統のオーディオとジャズも相変わらず元気で、高額なオーディオ機器が飛ぶよう売れていた時代だ。それから30年、今や日本中のどこでも(蕎麦屋でも、ラーメン屋でも、ショッピングモールのトイレでも、TVでも)何の違和感もなく普通にBGMとしてジャズが聞こえてくる時代となり、プロアマ問わずジャズを演奏する人の数も飛躍的に増えて、日本中で今や毎月のように開催されているジャズフェスに出演している(今年はコロナのせいで減ったが)。つまり相倉久人が1960年代に主張していた、日本における「ジャズの土着化」は、時間はかかったが(50年)、こうしてついに実現したと言えるのかもしれない(ある意味で)。

一方、ジャズの本場アメリカは常に日本より10年ほど先を進んでいて、1960年代にはベトナム反戦や公民権運動に呼応したフリー・ジャズが台頭したが、特に64年のビートルズの米国進出以降、若者音楽の中心は、完全にロック、フォーク、ポップスへと移行し、ジャズ市場は縮小する一方だった。そうした時代に反応したマイルスの電化ジャズが60年代末期に登場したものの、70年代はじめになると、そのコンセプトを分かりやすく商業化したファンクやフュージョン時代が既に到来していた。そして67年のコルトレーン、70年のアイラ―というフリー・ジャズのカリスマたちの死、続く74年の王様エリントンの死、75年の帝王マイルスの一時引退、76年の高僧モンクの引退…等々、20世紀ジャズ界の「巨人」たちが相次いでシーンから退場し、70年代半ばには戦後のビバップに始まる「モダン・ジャズ」は実質的にその30年の歴史を終える。その後も78年のトリスターノ、79年のミンガス、80年のビル・エヴァンス、82年のモンクの死と続き、日本のバブルとは対照的な不況の80年代を通過して世紀末の最後の10年に入ると、ジャズ・メッセンジャーズを率いて多くのスターを輩出してきたアート・ブレイキーが1990年に亡くなる。そして翌91年には、白人ジャズの巨匠スタン・ゲッツ、さらにマイルス・デイヴィスという残された最後の巨人たちもついにこの世を去って、1990年代初めには、「20世紀の音楽ジャズ」の主なアイコンはほぼ消滅する。こうして、いわゆるモダン・ジャズは文字通り「博物館」へと向かうべく、ウィントン・マルサリスによっておごそかに引導が渡されたのである。

コロナ禍で時間があったこともあって、予想外に長引いたこの連載も区切りの良い#10となるので、(まだまだ面白い内外のジャズ本はあるが)とりあえず今回で終わりにしたい。最後に、「20世紀のジャズ」を心から愛し、ジャズと共に生きた日米の代表的批評家が書いた2冊の本を紹介したい。

ジャズ・イズ
ナット・ヘントフ
1976/1982 白水社
昔は、飽きずに擦り切れるほど繰り返し聴いたジャズ・レコード(LP)が何枚かあったものだが、ナット・ヘントフ Nat Hentoff (1925 - 2017) の『ジャズ・イズ (Jazz Is)』(1976 / 1982 白水社 /志村正雄訳) は、そうしたレコードと同種の魅力を持ち、年齢を重ねて読むたびに新たな面白さを発見するという名著だ。11人のジャズの巨人たちの肖像をヘントフ独自の視点で描いたものだが、ジャズという音楽と、ジャズ・ミュージシャンという人種を、ここまで味わい深く描いたジャズ本はない。ナット・ヘントフはジャズ評論家として有名だったが、同時に小説家、歴史学者、政治評論家でもあった。だから社会やアーティストを見る視線の角度と、深さが、他の普通のジャズ批評家たちとは違う。大手新聞や「ダウンビート」誌等の主要雑誌のコラムニストの他に、ジャズ・レーベル創設(Candid)、ジャズ作品のプロデュース(セシル・テイラー)など、全盛期のジャズ界で多彩な活動を行なっていた。特に50年代のモダン・ジャズ黄金期を牽引した世代、マイルス、コルトレーン、マリガン、コニッツなど1920年代半ば生まれのジャズ・ミュージシャンとヘントフは同世代であり、故郷ボストンでの少年期から同時代の音楽としてジャズに触れ、ジャズを愛し、その発展、変化と共に生きてきた、いわば「モダン・ジャズ史の目撃者」である。それゆえ、本作を含めてジャズ現場における実体験に裏付けられたヘントフの本は、どれも陰翳と示唆に富み、ジャズの世界を内側から見るその分析と洞察は常に深く、また鋭い。

『Jazz is (ジャズとは)』の後に続く「…である、…のことだ、…ものだ」といった部分には、一言では語り尽くせないジャズを巡る様々な文言が入るだろう。この本では、スウィング時代のルイ・アームストロング、テディ・ウィルソン、デューク・エリントン、ビバップ時代のパーカー、ミンガス、マイルス、前衛からはコルトレーン、セシル・テイラー、女性ボーカルはビリー・ホリデイ、白人からはジェリー・マリガン、そして唯一の非アメリカ人ミュージシャンであるアルゼンチンのガトー・バルビエリというように、一読してジャズ史とジャズの持つ多様性を俯瞰できる人選になっている(ただしモンクがいないが)。また政治や社会に対して発言し続けたヘントフ独自の視点で、ジャズやジャズ・ミュージシャンと社会・経済との関わりについて随所で触れているのも、単なるアーティスト評伝や一般的なジャズ本にはあまり見られない部分だ。読むたびに、本書で描かれた11人のジャズの巨人たちの知られざる部分を発見するような新鮮な感覚を持つので、何度読み返しても飽きない。何というか、マクロレンズで近接撮影したかのように、彼らの人間としての内面が、著者の目を通して独自の角度から鋭く切り取られているので、文章は短いのに、彼らの存在がリアルに感じられるのである。ジャズ・エッセイと言うべき読み物だが、このような深さでジャズとジャズ・ミュージシャンを語った本は、やはりこれまで読んだことがない。

上述したように、原書が出版された1976年という時点で、本書で描かれた11人の巨人たちのうち6人が既に故人となり、一方でジャズのポップ化もますます進行し、その未来には疑問符が付けられていた。そうした時代に書かれたこの本は、ジャズの本質と魅力をあらためて探ると同時に、ヘントフが体験した最もジャズが幸福だった時代へのオマージュとも、彼のジャズへの別れの挨拶とも読める(ヘントフは、これ以降ジャズ関連の本は書いていない)。私が買った版の帯に書かれている本文中の記述「根本的な意味で、ジャズとは不屈の個性派たちの歴史である」という短く鋭いフレーズも、今となっては懐かしい。歴史を継ぐべき《不屈の個性派》は、その後のジャズ界に登場しただろうか。

されどスウィング
相倉久人 / 2015 青土社
ジャズの歴史と厚みにおいて、日米間には埋めがたい差があるので、ナット・ヘントフに匹敵するような経験と視点を持つ日本人ジャズ批評家が見当たらないのは仕方がないだろう。しかしただ一人、かなり近いスケールと眼力を持っていたと思える存在を挙げるなら、やはりそれは相倉久人だ。ヘントフがアメリカなら、同じように常に現場に関わってきた相倉は「戦後日本ジャズ史の目撃者」と言えるだろう。相倉久人の批評家としての素晴らしさと名著については#5で詳述したので繰り返さないが、ヘントフの本から40年後の2015年に出版し、著者の遺作となったのが『されどスウィング』(青土社)である。ジャズへの深い愛情と哀惜がにじむヘントフの『Jazz is』と、どこか似たニュアンスが感じられる『されどスウィング』という絶妙なタイトルが私は好きだ。著者最後の書き下ろしとなった本書中の短いエッセイ、《たかが0秒1、されど0秒1》(2015年)は、「スウィング(ゆらぎ)」という、ジャズの持つリズムの神髄について語ったもので、まさに相倉久人の遺言と呼ぶにふさわしい文章である。

『されどスウィング』は、一部を除き、1970年代初めにジャズ界を離れた後に発表してきた代表的な文章を、著者自身が選んだ「自選集」である。主に80年代以降にジャズを回顧し語った文章と、その後手掛けたポピュラー音楽に関する批評から成り、随所にジャンルを超えた著者の音楽哲学が垣間見え、全体として相倉の遺書というべき本だろう。細野晴臣、サディスティック・ミカ・バンド、はっぴーえんど、桑田佳祐、吉田拓郎、坂本龍一、町田康、上々颱風、菊地成孔等々…さらにはアイドルや浅川マキに至るまでの幅広いジャンルのアーティストを対象に、独自の視点で興味深い観察と批評を展開している。60年代の新宿時代からの知己で、2010年に亡くなった浅川マキについて、「変わらずにいること」の難しさと価値を語り、アーティストとしての浅川マキの姿勢に深い敬意を表している。相倉久人の思想と批評は一見クールだが、表面的な分析や印象論だけではなく、深い部分でアーティスト個人に対する人間観と敬意が常に感じられる。そこが音楽批評家として、ナット・ヘントフやラルフ・J・グリーソン、ホイットニー・バリエットのような優れた米国人批評家に通じる部分なのだ。

20世紀初めから、アメリカという特異な場所で異種混淆を繰り返しながら進化した「雑種」音楽であるジャズは、誕生後半世紀足らずの1950年代から60年代にかけて、芸術的にも商業的にもその頂点に達した。いろいろな見方があるが、1970年代以降、現在までの半世紀に及ぶジャズシーンの変化もその延長線上にあって、60年代まではジャズの強い音楽的影響下にあった他の大衆音楽であるR&B、ロック、ポップスなどとの混淆が更に多彩に、複雑に進行し、特に90年代以降「xxx ジャズ」と呼ばれる様々な形態を持つ音楽が世界中で登場し、それらが同時併行的に存在してきたと言える。それをジャズ側から見ると「ジャズが多彩になった」という言い方になるが、むしろ、総体としてのジャズが、アメーバのように境界線を越えて、様々な音楽ジャンルの中に「薄く広く拡散してきた」、あるいは「徐々に吸収されてきた」過程だったと言えるのではないかと(ド素人ながら)私は思う。つまりジャズと他のポピュラー音楽との主客が、1970年代を境に逆転した、あるいは各ジャンルがそれ以降横並びになって、互いに混淆を続け、20世紀半ばまでに出来上がっていたポピュラー音楽のヒエラルキーが、徐々に解体してゆく過程だったとも言える。

マクロで見れば、20世紀の前半に芸術として創造面での進化がほぼ止まった西洋クラシック音楽が、和声やモード他のコンセプトや理論を介して、発展する新世界アメリカで生まれたジャズという新たなポピュラー音楽の中に、半世紀にわたって溶け込み生き続けてきたように、次にはそのジャズ自身が、即興音楽としての急速で短期間の芸術的進化を20世紀半ばすぎには終え、その後世界の多様な音楽の中に徐々に拡散し、溶け込んできた過程が、1970年代に始まり現在までの半世紀に起きてきたことではないだろうか。それを加速した社会的背景は、言うまでもなく、同期間に急速に進展した資本主義経済のグローバル化と、それに伴う文化・芸術の大衆化(商業化)である。そこで新たに生まれた音楽の需要者、消費者としての「大衆」が、新たな感覚を持った「聴き手」として「21世紀のジャズ」の形と針路を決めてゆくことになるのだろう。

こうした見方からすると、1971年に「狭いジャズ界」に見切りをつけ、ロック、ポップス、フォーク、歌謡曲など、ジャズの外側に開かれ発展していた日本のポピュラー音楽全体へと目を向けた70年代以降の相倉久人の足取りは、まさにこの半世紀のジャズの歩みと変化をそのまま映し出しているようにも見える。40歳までの前半生を振り返って、「自分の生き方がジャズだった」と言ってジャズ界を去った男にまさにふさわしい後半生である。相倉久人は2015年、ナット・ヘントフは2017年と、ジャズを愛し、日米のジャズ史の目撃者だった二人の代表的批評家は、ほぼ同時期に亡くなったが、1970年代の前半に、この二人が見ていたジャズの未来のイメージは、おそらく同じものだったのだろう。
(完)

2020/09/04

あの頃のジャズを「読む」 #7:日本産フリー・ジャズ(山下洋輔)

ジャズ・ミュージシャン側が1970年代にどう考えていたのか、ということにも興味が湧くが、今と違って、当時はジャズを演奏する側が自分で書いたものを発表すること自体がほとんどなかった。つべこべ言わずに演奏家は音楽で勝負する、というのが暗黙のルールだったからなのだろう。その例外が山下洋輔と高柳昌行というフリー・ジャズの演奏家だ。しかし、アメリカではコルトレーンに続くアイラーの死(1970)でフリー・ジャズの時代がほぼ終わり、日米ともに商業音楽フュージョンがジャズ・マーケットの主流になり、ヒノテルやナベサダを除けばレコードを中心に1950/60年代のジャズがまだ人気だった当時の日本のジャズシーンで、「同時代のジャズ」と文字通り本気で格闘しながら、何か発信したいと思っていたのは、当時はジャズメディアからもほとんど無視されていた日本のフリー・ジャズ演奏家たちだけだったのかもしれない。

風雲ジャズ帖
山下洋輔
1975/1982 徳間文庫版
日本におけるフリー・ジャズの代表的演奏家の一人で、かつエッセイストが山下洋輔 (1942 -) だが、1960年代前半から、高柳昌行の「銀巴里」での実験的セッションに富樫雅彦たちと参加していた頃は、まだ主にバップ系の普通のジャズを演奏していた。60年代半ばにはフリー・ジャズ的演奏も始めるが、その後一時的に病気療養した後の1969年に、第1次山下トリオ(森山威男-ds、中村誠一-ts)を結成してフリー・ジャズ一本に転向し、演奏活動を続けながら、70年代半ば以降になって『風雲ジャズ帖』(1975 音楽之友社)、『ピアニストを笑え!』(1976 晶文社)他の本を矢継ぎ早に出版した。私はほぼ全部を読んでいたが、内容の面白さ、質の高さもさることながら、何よりその文才にびっくりした。本を書き、出版したジャズ・ミュージシャンは山下洋輔が初めてだと思うが、それまでのジャズ評論家と呼ばれる人たちが書いたものとはまったく違う、スピード感とジャズ的ビートに満ちた文章は読んでいて本当に面白かった。ジャズ・ミュージシャンとはエモーション一発で動く人たちばかりだと当時は思い込んでいたので(失礼)、ユーモアに満ちたエッセイと共に、知的で明晰な文章を書く山下洋輔を知って、まったくイメージが逆転したのを覚えている。海外のフリー・ジャズ・ミュージシャンたちを見てもそうだが、本物の知性と音楽的技量がないと、あの時代に本気でフリー・ジャズなどやれないのである。

初エッセイ集である『風雲ジャズ帖』は、1970年代はじめから山下が雑誌等に寄稿したエッセイや対談を編纂した本で、山下のエッセイの他に、グループのメンバーや、筒井康隆(作家)、菊地雅章(ジャズ・ピアニスト 1939-2015)などとの対談も収載されている。中でも文化人類学者の青木保 (1938-) との<表現>と題された長い対話(初出 1971年 社会思想社)では、あの時代のジャズが演奏者と聴き手にとってどういうものだったのかを語り、またジャズと祭事の文化的類似性について探るなど、非常に奥の深い議論を交わしている。昔から思っていることだが、ジャズ本でいちばん興味深く、読んで面白いのは、本音で自らの考えを語る知的なジャズ・ミュージシャンのインタビューである。またこの本には、当時進路に悩み、しかもピアノが弾けない病気療養中に山下が書いたという『ブルー・ノート研究』(初出 1969年 音楽芸術)という、ジャズにおける「ブルー・ノート」の真の意味を探る、彼の唯一の音楽研究論文も収載されている。これは、近代西洋音楽の音階と和声論だけで、ブルー・ノートを含むジャズという音楽を強引に析することには無理があり、ヨーロッパ的和声とアフリカ的音階・旋律の融和し得ないせめぎあい(アンビヴァレンス)にこそジャズの本質があるという、当時主流だったバークリーを筆頭とするコード(記号化)進行によるジャズの西洋的単純化(システム化)思想に一石を投じた本格的論文だ。そして退院後の1969年に、それまでのジャズ・ミュージシャンとしての悩みのあれこれを払拭すべく、山下は意を決して、ビバップから「ドシャメシャ」のフリー・ジャズの世界へと本気で向かうのである。

DANCING古事記
1969 at 早稲田大学
私は語れるほどフリー・ジャズを聴いたわけではないが(高度成長期の日本の普通のサラリーマンで、規則や秩序を無視、破壊するフリー・ジャズを好んで聴いていた人は少ないのではないかと思う)、個人的分類法だと、当時のフリー・ジャズには体験型の「体育会系」(タモさんは「スポーツ・ジャズ」と呼んでいた)と、観念型の「芸術系」と二通りあったように思う。ジャズは何といってもレコードよりもライヴが面白いのは事実だが、特に体育会系フリー・ジャズはそうだった。山下Gに代表される前者は音を「聴く」というよりも「体験する」、あれこれアタマで考えずに、音に身体を投げ出してその中で全身に音を浴びる、と形容した方が適切な音楽だった。まさに「祭り」に参加するのと同じなのだ。だからそのライヴはわけもなく盛り上がって楽しいときもあって、たまに聴くとスカッとして実に気分が良かった(ただし聴く気力、体力ともに必要だったが)。山下が発掘した若き日のタモリや坂田明が登場したライヴ・コンサートなどは、ハチャメチャでいながらジャズの神髄を感じさせ、本当に面白かった。山下Gの当時のフリー・ジャズの特徴は、フュージョンとは違った意味で、70年代的な「健全性」があり、音楽が明るいことだ。ある意味ロックに通じる高揚感と爽快感があったが、リズムとハーモニーの多彩さ、複雑さ、そして何が起こるか分からないという、パターン化とは無縁の演奏の自由さがジャズならではの魅力だった

ジャズとは「集団による行為」であり、プレイヤー同士が瞬間に反応し、応酬し合う運動競技と同じで、プレイの結果が美や芸術として昇華するならともかく、最初から「芸術」や「作品」を作ろうなどとするジャズはだめだと山下は繰り返し発言し、芸術指向のジャズを否定している。だから「現代音楽的」なジャズになることだけは避ける、というのが全員が音大出のフリー・ジャズ・トリオの約束事だったという。電気の力ではなくアコースティック楽器にこだわり、奏者が生身の行為を通じて楽器を鳴らし、出した音に対して相手も瞬時に即興の音で応じるという「フリー・ジャズ」を思想としてではなく、ジャズが原初的に持っていた肉体を用いた演奏技法(Proto-Jazz)として追求する、というのが山下トリオの基本コンセプトだった。TV番組(田原総一朗・演出)で早稲田全共闘の拠点で学生たちを前にして演奏したり(『Dancing古事記』1969)、防火服を着たまま燃え上がるピアノを演奏したり(『ピアノ炎上』粟津潔 1973) するなど、激しい時代の激しい(?)演奏体験を通して、3人が結果的に到達した表現が、それまでのジャズにはなかった「日本的祝祭空間」だった。そしてこれは、#6で述べたように、70年代のフュージョンの台頭で失われつつあったジャズ本来の始原的パワーの復権という意味もあった。

キアズマ Live in Germany
1975 MPS
第二次山下トリオ(中村→坂田明-as)が1970年代半ばからヨーロッパのジャズ祭に出演し、特にドイツで評価された理由は、(クラシック音楽の伝統という重い足かせから逃れようとしていた現代音楽に、限りなく近づきつつああった)頭でっかちで芸術指向のヨーロッパのフリー・ジャズとは異なる、自由と解放感に満ちた日本的祝祭」という表現上のシンプルさとパワーが、それまでになかった高揚感をドイツの聴衆に喚起し、同時に「日本人のジャズ」という音楽上のオリジナリティ、アイデンティティが、その演奏の中に紛れもなく存在していたからだろう。山下洋輔トリオによる「日本オリジン」のフリー・ジャズは、70年代を通じて、メンバーを変えながら異種格闘技やアメリカ乱入などの欧米訪問を含めて1983年まで14年間も続き、初めて「日本人のジャズ」を世界に認知させた。これは山下Gだけが成し得た功績である。山下トリオの音楽は、その演奏コンセプトからしても、基本的に現場で聴くライヴだからこそ価値があるものと言えるが、ドイツでの『キアズマ』など、当時のその「音」を捉えた記録としてのレコードも、2次的な体験になるがやはり一聴に値する。

ジャズの証言
山下洋輔 相倉久人
2017 新潮新書
その山下洋輔が「師匠」と呼ぶ相倉久人と何度か行なった未発表の対談記録を、2015年に相倉が亡くなった後、書き起こして発表したのが『ジャズの証言』(2017 新潮新書)だ。山下の音楽とその思想の背景を幼少期から辿りつつ、日本のジャズ黎明期から70年代の独自のフリー・フォーム形成に至った経緯を中心に、相倉の質問に山下が答える形式で構成した対談である。60年代の初期の活動に始まり、70年代から80年代初めにかけてのフリー、トリオ解散後のソロ活動、80年代末から現在まで続くニューヨーク・トリオ、その間のクラシック音楽との接近、さらには2007年の日本におけるセシル・テイラーとの共演に至る、山下洋輔のジャズ思想形成と実践の経緯が、様々な角度から述べられている。本書で山下は、1960年代初めからの相倉の言辞が、ジャズ・ミュージシャンとして進むべき道を決めるための刺激となり、指針にもなったと繰り返し語っている。この対談を読んで感じたのは、二人が知性、生き方、美意識、表現手法という点で、そもそも共通の資質、価値観というものを持っていたように思えることだ。だから二人の出会いは、双方の人生にとって幸運なものだったのだろう。

また当時、日本的な空間美を意識した「芸術系」フリー・ジャズの最重要ミュージシャンだったのが天才ドラマーの富樫雅彦(1940 -2007)だ。「銀巴里」セッションをはじめ、相倉久人と一緒に行動していた1960年代の富樫雅彦と山下洋輔の関係はあまり知らなかったのだが、本書には同じようにフリー・ジャズの世界を指向しながら、二人が結果的に別々の道を歩むことになった経緯も書かれている。富樫は佐藤允彦(p) と共演するなど絶頂期だった1970年に不幸な事故に会い、下半身不随という後遺症と向き合いながら、その後パーカッショニストとして復活して数多くの名演を残した。また70年代半ばからは間章 (あいだ・あきら)の仲介を経て、スティーヴ・レイシーなど多くの海外ミュージシャンとも共演してその音楽世界を拡大し、2007年に亡くなるまで演奏活動を続けた。いずれにしろ、相倉の目指した、アメリカのモノマネを越えて、(世界に通用する)日本独自のジャズを創造するというヴィジョンは、表現手法は異なっても、山下洋輔と富樫雅彦という二人の日本人ミュージシャンによって実現したと言えるだろう。近年「和ジャズ」がブームになっているが、日本ならではのオリジナリティを持ち、しかもメジャーな存在として世界に認知された「正真正銘の和ジャズ」と呼べる音楽を創造したのは、間違いなく50年前の山下洋輔と富樫雅彦であり、また当時二人と共演した日本人ミュージシャンたちだったと思う。

2020/07/31

あの頃のジャズを「読む」 #5:ジャズ批評家(相倉久人)

ジャズの歴史物語
2018 角川ソフィア文庫
1970年代になると、安価な国産アナログLPレコードが大量に流通するようになり、オーディオもレコードも買えるようになったジャズファン層向け市場が大きく成長していた。ジャズ雑誌には「ジャズ評論家」と呼ばれた人たちが書いた、毎月各社から大量に発売される新譜レコード(復刻盤含)、名盤の解説やレコード評が掲載されていた。当時は他に情報源がなかったので、普通のジャズファンは、まずそれらのレビューを参考にして、気に入りそうなレコードを選んで購入していたわけである。当然だが、市場拡大につれ、レコードを売りたいレコード会社と、その広告を主たる収入源としていたジャズメディアとの間に、商業主義が忍び込む構造が益々強まった。1960/70年代の有名なジャズ評論家としては、野口久光、植草甚一、いソノてルヲ、大橋巨泉、油井正一、相倉久人、久保田二郎、粟村正昭、岩波洋三、大和明、佐藤秀樹、岡崎正通のような人たちがいた。これら評論家の中には、単なるレコード評、ミュージシャン評にとどまらず、ジャズという音楽全体を俯瞰する視点で書いた本格的な論稿、書籍を発表する人たちもいた。当時の「本流」と言うべき代表的批評家が、モンクやパーカーと同世代であり、同時代の音楽としてジャズと向き合ってきた油井正一(1918 - 98)である。ジャズの基本知識を分かりやすく軽妙に解説している油井の代表作で、今や古典と言うべきジャズ入門書『ジャズの歴史物語』(1972 スイングジャーナル社)は、3代目となる角川文庫版が2018年に出版され、半世紀近く読み続けられている名著だ。

一方、大正生まれの油井より一世代ほど後、昭和一桁生まれの相倉久人(あいくら・ひさと 1931 - 2015)は、1960年代の「前衛」を代表する批評家であり、単なる批評家に留まらず、日本独自のジャズ創出に注力した「ジャズ思想家」と呼ぶべき人物でもあった。当時のジャズ評論家が、レコード・コレクター、元ミュージシャン、デザイナー、作家、ジャズ誌編集者などの前歴や本業を持っていたのに対し、戦争末期(1945)の中学時代に難関だった陸軍幼年学校を受験し、合格、入学するも、わずか4ヶ月後に終戦を迎え、その後東大文学部美学科に入学したが、ジャズに夢中になってジャズ喫茶に入り浸って大学を中退、その後雑誌編集の手伝いをしたのがジャズ人生の始まり……という変わり種だった。楽器を演奏せず、レコードもレコードプレーヤーも持たず、当時有楽町にあった「コンボ」というジャズ喫茶だけが主な情報源で、大橋巨泉やいソノてルヲ、銀座のクラブへ出演する途中に同店へ立ち寄っていた秋吉敏子や渡辺貞夫をはじめとするジャズ・ミュージシャンたちとも交流していた。やがて60年代になると、高柳昌行たちの実験的ジャズ演奏現場に直接関わるようになり、そうした体験を通じて自らの目と耳を鍛えることで、独自のジャズ観と思想を作り上げていった。

相倉久人ジャズ著作大全
上巻/2013 DU BOOKS
前に触れたように、私が1970年頃に初めて買った相倉久人のジャズ本『現代ジャズの視点』(1967)は、ジャズ初心者には難しすぎて面白くも何ともなかったが、今は多少は分かるようになった同書と、初の単行本『モダン・ジャズ鑑賞』(1963) に加え、1954年の初の記名論稿を<上巻>に、『ジャズからの挨拶』(1968) と『ジャズからの出発』(1973) という後期2作を<下巻>に収め、1954年から70年代初めにかけて発表した単行本4部作を完全収載し、相倉の最晩年になって出版したのが『相倉久人ジャズ著作大全』(上/下巻、2013 DU BOOKS)である。ジャズをより深く理解したいという人向けの本であり、歯ごたえのない「薄い、軽い、速い」という本ばやりの昨今だが、相倉が20年近くにわたって様々な媒体に寄稿した文章を編纂した、この「分厚く、濃い」<上/下2巻>をじっくりと読めば、ジャズとは何か、日本のジャズ史がどのようなものだったのか、そのほぼすべてが表層ではなく「より深いレベルで」理解できる。ジャズという音楽の歴史、ジャズをどう聴くか、なども通り一遍の解説ではないし、相倉がほぼリアルタイムで聴いていた60年代のコルトレーン、マイルス、ロリンズ、ミンガス、ドルフィー他に関する分析と批評も実に深く鋭い。さらに当時は誤った、あるいは曖昧な理解が多かったレニー・トリスターノ、セロニアス・モンク、セシル・テイラー等に関する論稿などは、あの時代の日本に、ここまで深く、的確に彼らの音楽の本質を理解していた批評家がいたのか、と驚くほど洞察力に富むものだ。

私がジャズに熱中した70年代には、相倉久人という名前をメディア上で聞くことはほとんどなくなっていた。理由は1971年に相倉が完全にジャズ界を去り、しかも60年代半ばに思想対立のために絶縁した「スイングジャーナル」誌が完全に相倉の存在を無視していたからだろう。しかし、1960年代という「政治とジャズの時代」に、もっとも熱くジャズと向き合い、独自の批評を展開していたのは相倉久人だった。ただし、その主対象は海外ミュージシャンのレコードや、50年代から既に表舞台にいた有名日本人ジャズマンというよりも、当時、日本独自のジャズを創造すべく地道に挑戦していた一群の若いジャズ・ミュージシャンと彼らの演奏活動にあった。自分でもジャズを演奏したかったが、楽器ができないので、やむなく「言葉」でジャズに関わった、と繰り返し述べているように、相倉にとってのジャズは娯楽ではなく、本ブログ#4までに書いたようなジャズレコードを集め、それを再生して楽しむ普通のジャズの聴き手の世界とは無縁だ。ジャズとは、レコードの音溝に記録された死んだ音楽ではなく、常に生きて動いている「行為」そのもののことであり、聴き手も鑑賞ではなく同時に参加する音楽だと捉えていた。60年代の著作を読めば分かるが、当時の相倉久人ほどストイックな深い視点で「ジャズとは何か?」という問いに対峙した「批評家」は、後にも先にも日本にはいないと思う。

相倉久人ジャズ著作大全
下巻/2013 DU BOOKS
1950年代から続く、アメリカのコピーが主流だった日本の商業的ジャズに飽き足らず、60年代初めにシャンソン喫茶「銀巴里」を拠点に、日本独自のジャズを生み出そうと模索し始めていた高柳昌行(g) や金井英人(b) 等の実験的ミュージシャンたちに加わった相倉が、やがて銀座「ジャズギャラリー8」や新宿「ピットイン」などのクラブで司会を務めつつ、山下洋輔、富樫雅彦といった当時新進のジャズ・ミュージシャンたちと交流し、彼らを理論的に導き、精神的に支えながら現場に関わり続けた経緯も本書に詳しい。「司会とは<言葉>によるジャズ演奏行為だ」というのが持論で、セロニアス・モンク(1963年)やジョン・コルトレーン(1966年)、さらにオーネット・コールマン(1967年)の初来日公演という、日本ジャズ史に残る記念すべき大イベントの司会進行も、30代の若さでいながら当意即妙の話術(インプロ)でこなした(全東京公演の司会をしたモンクを銀座に案内したが、予想通りほとんど会話はなく、その代りに一緒に来日していたネリー夫人、ニカ夫人と楽屋で会話したらしい)。加えて<下巻>には、相倉がジャズから離れていった70年代初めの、ロックやフォーク、演歌や歌謡曲というジャンルへの関心の高まりを示す初期の批評文も収められている。特に日本の歌謡曲の歌詞とメロディ、それを唄う青江三奈、北島三郎、藤圭子といった名歌手の「うた」とは何かに触れた文章は非常に興味深く、「日本のうた」の世界を、ジャズの理解と同じく原点から見直し、独自の視点で観察、分析する音楽評論はそれまでの日本にはなかっただろう。そこに洋の東西を問わない相倉の音楽思想の根幹が見えるようだ。そしてこれらが、70年代以降ジャズを離れた相倉のポピュラー音楽批評活動の出発点となった。

自らを「宇宙人」(!?) と称し、鋼鉄のようにクールで強靭な思想と理論で武装し、既成概念にとらわれず、権威に媚びず、徒党を組まず、60年代を通じてブレることなく独自のジャズ批評の世界を追求したのが相倉久人だった。血気盛んだった60年代半ばには、権威を振りかざす当時の「スイングジャーナル」編集部と喧嘩別れし、その後も武田和命や日本のフリー・ジャズに批判的な同誌の姿勢と対決するなど、権威や商業主義とは常に一線を画して批評活動を続けた。ジャズとは、あくまで「奏者と聴衆による共同行為」であると捉え、その「場」から生じる音楽エネルギーが相互にどう伝達され、そこに何が生じるのかという「力学」をチャート化し、物理学者のようにクールに分析する60年代の相倉久人のジャズ論は観念的かつ抽象的で難解だ。レコードや紙上の情報だけではなく、実際の演奏現場で鍛えた「プロの聴き手」相倉の思想を、ポピュラー音楽として、あるいはレコードで聴くジャズが一般的だった当時のメディアや普通のジャズファンがどこまで理解し、共感できたかは確かに疑問だ。当時ジャズ演奏の楽理やメソッドを真に理解していたのは、限られた数のプロ・ミュージシャンたちだけだった時代である。娯楽として「レコードを聴くだけ」の素人に至っては、素晴らしいジャズの即興演奏が、まるでマジックとしか思えないように聞こえた時代なのだ(私もその一人だった)。「音楽を語る」と言えば、ほとんどテクニカルな分析ばかりになった現代から見たら、信じ難いほどディープな議論を当時の相倉は提示していたわけである。

しかし「言葉による批評」をジャズ演奏行為と同一視する相倉の文章を今になって読むと、当時の時代背景や文脈なしには理解できないような言説を唱える人間が多かった中で、相倉の言葉には、それらを捨象しても何の問題もなく理解できる、時代を超えた普遍性があるのだ。現代の感覚からすると、政治の時代だった60年代的左翼フレーバーが濃厚に感じられることは否定できないし、一部論稿には「革命云々」といった過激な60年代的タームも多用されているが、当時の相倉に自ら政治活動に関与する意図はなく、ジャズという音楽がその出自のゆえに本質的に内包する属性(反体制的精神)が、ブラック・パワーやスチューデント・パワーが噴出していたあの時代の精神と激しく反応し共鳴している、ということを指摘しているだけだ。(そして、時代を先導し、時代の気分を象徴する音楽と言われていたジャズを、時代がついに追い越してしまったと相倉が感じたのが1970年前後だった。)ジャズという音楽の表層ではなく、歴史的視野を踏まえてその本質を捉えるという点で、相倉久人に並ぶ論客はいなかった。常に音楽社会学、音楽文化論的視点でジャズを見渡し、独自の美学と理論で貫かれた知的で骨のある文章を読み通すのは簡単ではないが、こうした論理的で硬質な文章を書くジャズ批評家は当時の日本には他に存在しなかったし、今もいない。相倉久人の60年代ジャズ思想を網羅した「ジャズ著作大全」は、油井正一の名著と並んで、日本のジャズ書アーカイブの筆頭に置かれるべき本だろう。

至高の日本ジャズ全史
2012 集英社新書
ジャズを離れた相倉久人は、晩年の2000年代になってから、何冊か回顧録的なジャズ本を出版している。ほとんどは上記「大全」からのダイジェスト的内容で、その一冊『至高の日本ジャズ全史』(2012 集英社新書)は、特に戦後から1960年代にかけての日本独自のジャズ形成史に焦点を当てて、批評家としての相倉の視点からあらためて振り返ったものだ。オビの文言は大仰だが、日本ならではの「国産ジャズ創出」への当時の熱気が伝わってくるような裏話がたくさん書かれている。有楽町「コンボ」と横浜「モカンボ」を結ぶ、ビバップ時代の守安祥太郎、秋吉敏子、ハンプトン・ホーズ他、もう名前も知らない人が大部分だと思われる実に多彩なジャズ・ミュージシャンたちの逸話と、その後60年代に日本産のジャズ創出を目指した前衛的ミュージシャンたちの活動など、その渦中にいた相倉ならではの観察と分析が興味深い。巻末には、山下洋輔を挟んで相倉の孫弟子のような存在でもある菊地成孔との、お喋りな自称・死神同士(?)による70年代以降のジャズを俯瞰する面白い対談も掲載されている。

ところで、元々はアメリカ生まれのジャズだが、「アメリカのモノマネではないジャズを」、「純国産かつ本物のジャズを」という、相倉久人や高柳昌行といった前衛指向の人たちが1960年代になって描いたという「ジャズの土着化」ヴィジョンが、当時のソニーやホンダのような日本企業が掲げていた目標と「同質」であるところが個人的には非常に興味深い。これもまた、60年代の進歩的、左翼的政治思想と共に、当時の日本全体を覆っていた「時代の空気」の一部だったのだろう。この本の中で、共同で演劇とジャズの融合を試みていた紅テントの唐十郎が、相倉久人のことを、先頭に立って組織を引っ張るタイプではなく、組織形成を促す「触媒のような人物」だと評した、という話が出て来る。相倉久人の本質は、自由を好み、あらゆる権威や支配/被支配を嫌うアナーキストであり、人を巻き込むオルガナイザーというよりも、新たな「こと」や「人」を生み出す環境を醸成し、そこに創造の喜びを見出すインキュベーターだったのだと思う。つまり人物そのものが「ジャズ的」だった。相倉を師匠と呼んだ山下洋輔が、その後の日本ジャズ界でどのような役割を演じてきたのかを見れば、アーティストを見極める相倉のインキュベーターとしての先見性がよく分かる。

60年代を通じてジャズ批評家として行動していた相倉だったが、もっとも期待をかけていた山下洋輔が1969年にフリー・ジャズのトリオを発足させ、目指していた日本オリジンのジャズを実現し、活動が軌道に乗りかけたと判断すると、「言葉」によって日本のジャズを孵化(incubate) させ、テイクオフさせるという自分の役目はもう終わった、と語って1971年にジャズ界からさっさと足を洗う(理由はもちろんそれだけではない)。その後は前衛映画制作に関わったり、ロック、ポップス、歌謡曲という異ジャンル音楽の批評家へと転身し、レコード大賞審査員やヤマハのコンテストの審査委員長を務める……など、あくまで「単独で」音楽ジャンルをクロスオーヴァーしてゆくこの軽快な足取りは、どう見てもアナーキストである。しかし相倉の盟友でもあった平岡正明のような政治的匂いがせず、しかし単なる批評家でもなく、常に「創作現場」の情況を見渡し、興味を持つと、そこに「行動する批評家」として自ら関わってゆくところが相倉久人なのである。

油井正一と相倉久人という私が好きな二人のジャズ批評家は、60年代から70年代初めにかけて「保守本流」と「前衛」という、いわば対照的な批評活動をしていたが、両者ともに魅力的な人物だった。単なるモノ書きではなく、油井はラジオ放送で、相倉は様々なイベント司会(MC)で、「言葉」を操って場を仕切ってゆくパフォーマーとしての優れた能力があった。しかも二人とも、本やラジオでの対談で分かるように、深い知識と教養がありながら偉ぶらず、飄々としていて会話が実に面白いのだ(これらも非常に大事なジャズ的要素だ)。ジャズに関する幅広く深い知識を有し、有力メディアを通じて分かりやすい語り口で大衆を啓蒙したモダニストが油井正一だとすれば、独自のジャズ美学を構築し、日本人のジャズ創作現場と常に密着しながら、彼らを鼓舞、扇動した一匹狼のアナーキストが相倉久人だった――とも言えようか。しかし、この二人の代表的批評家が「1970年頃までのジャズ」を語った本が、今も十分読むに値するという事実こそ、その後の半世紀、追記すべきほどの大きな歴史的進化がジャズにはなかった、ということの証左なのだろう。

2020/06/20

あの頃のジャズを「読む」 #2:1970年代

現代ジャズの視点
相倉久人 / 1967 東亜音楽社
私は1960年代の前半、田舎の中学生時代にビートルズ、レイ・チャールズ、ボサノヴァ等で洋楽の洗礼を受けた世代に属する。ジャズに興味を持つようになったのは高校に入ってからで、他のポピュラー音楽とは違う、そのサウンドのカッコよさに夢中になった。東大入試が中止になった1969年に大学に入った頃には、もう学生運動もピークを過ぎつつあったが、その後も学内は2年間バリケード封鎖されて授業もなかった。おかげで時間だけはたっぷりとあったので(金はなかったが…)、ジャズ好きな先輩から借りたり、自分で買ったわずかな枚数のLPレコードを毎晩繰り返し聴いたり、「ジャズ喫茶」に連れて行ってもらったりしていた。当時のジャズには、何より反体制、伝統破壊というアナーキーなイメージと、大人っぽい知的な音楽という魅力があり、学生運動に関わる一部の若者に特に人気がある音楽でもあった。左翼思想の強い先輩が多かったので、その影響を受けて、自分でも米国黒人史やジャズ関連の本を、わけもわからず何冊か読んだりしていた。たとえば生まれて初めて買ったジャズ本、相倉久人の『現代ジャズの視点』(1967 東亜音楽社)など、レベルが高すぎて当時は読んでも面白くも何ともなく、ちんぷんかんぷんだった(単に頭が悪かったせいかもしれないが、ジャズは、とにかくたくさん聴かないと分からない音楽だということを学んだ)。

この時代を振り返ってみて、また以降に挙げるような本を読んであらためて思うのは、ジャズを真に「同時代の音楽」だと感じていたのは1960年代半ばに青春時代を送っていた、私より少々年長の60年安保世代だということだ。だからジャズに強いノスタルジーを感じ、こだわりを持っているのは、やはりこの世代の人たちなのだろうと思う。私の世代は、「生き方」や「行動」と関連付けてジャスを捉えるようなことはもうなかったし、単にカッコいい大人の音楽、という見方でジャズと接していたように思う。とはいえ、自分の世代を含めたその後の聴衆もそうだが、いずれにしろジャズは、いつの時代も、ほんの一握りの人たちだけが熱中していたマイナーな音楽だったことに変わりはないだろう。

Return to Forever
Chick Corea / 1972 ECM
しばらくは全国どこの大学でも、まだ全共闘運動がくすぶるように続いていたが、それも70年安保と連合赤軍事件(1971-72)を境に一気に下火になった。ジャズ喫茶へ行くと、それまでの重いハードバップやフリー・ジャズに代って、カモメ(?)が飛ぶきれいな水色のジャケットに入った、穏やかで軽いチック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエヴァー』(1972 ECM) がしきりに流れていた。もう政治の時代ではなく、この間までヘルメットをかぶってデモに出かけていた学生も、就職活動に精を出していた。ファッションのように政治思想とジャズを結び付けて語っていた人たちも、大抵は何事もなかったかのようにジャズから離れて行った。だから、半世紀前のチック・コリアのこのアルバムは、ジャズファンにとっては公民権、ベトナム、沖縄、安保など学生運動で世界中が騒然としながらも基調は「暗く重い」シリアスな60年代から、平和な時代を求める「明るく軽い」ポップな70年代への転換点を象徴するレコードだった(当時はクロスオーヴァーと呼んでいた)。どことなく世の中に「緊張感が漂っていた」60年代から、いわば「戦い済んで気の抜けたような」70年代へと日本は移行して行った。そして戦後の繁栄を謳歌していた時代が終焉し、ベトナム戦争がボディブローとなって徐々に落ち目になったアメリカ経済とは対照的に、80年代後半のバブルがはじけるまで、その後の20年間、日本はほぼひたすら明るく軽い時代へと邁進する。ジャズを含めた音楽全体への嗜好も、当然こうした時代の風潮を反映したものだった。

今になって振り返ると、1970年代の日本はジャズの最盛期だったようにも見えるが、戦後の50年代に輸入ポピュラー音楽、ダンス音楽として大衆化し、続く60年代になると新しい前衛音楽芸術として認知され、思想や文化としても大いに盛り上がった 「モダン・ジャズ」が、徐々に芸術から芸能(商業音楽)へと再び変質してゆく過渡期(あるいは、いわゆるジャズが終わりつつあった時期)だったとも言えるだろう。私の世代は、60年代と違って若者音楽の中心は既にジャズではなく、ロックやフォーク、ポップスに移行しつつあった。つまりジャズが完全に「大人の音楽」として定着し、多様化し始めた微妙な時期に、遅れてジャズの洗礼を受けた世代なので、この「芸能か芸術か」という問題には妙に敏感なのだ。何もかもがエンタメ化し、カネにならない芸術、カネに換算できない芸術は無価値だとすら思われるようになった現代から見ると信じられないような話だが、あの時代は、「芸術」を食い物にしていると思われていた「商業主義 commercialism」への反発が強く、ジャズはもちろん、フォークやロックの一部ミュージシャンですら、商業主義、画一主義の象徴であるテレビには背を向けていたほどなのである。(昨今のWHOやIOCのような世界的機構の動きが露骨に示しているように、半世紀後の21世紀となった今は、分野にかかわらず、もはや設立時の20世紀的理念や使命は消え失せ、ひたすらカネ、カネ…で動く利権集団や国際興行主のような世界組織ばかりが支配する、究極の資本主義に到達した。)

1970年代の日本のジャズ界は、マイルスが先鞭をつけ、ウェザー・リポートやハービー・ハンコックが後を継いだエレクトリック楽器を使ったフュージョンやファンク、60年代の政治的余韻をまだ残していたフリー・ジャズ、50年代のモダン・ジャズ黄金期を回顧するビバップ・リヴァイヴァル、チック・コリアやキース・ジャレットのような新世代ミュージシャンの登場、日本人ジャズ・ミュージシャンの活躍……等々、情報源たるジャズ雑誌と、ジャズ喫茶という空間を核にして、あらゆるジャンルのジャズが溢れていた時代で、聴き手はそれらを自由に選んで聴いていた。とりわけ、70年代の大方の聴き手にとっては、ジャズがもっと熱かった60年代には限られた場所でしか聞けなかった1950/60年代の「本場アメリカ」のジャズを、立派なオーディオ装置のあるジャズ喫茶だけでなく、自宅のステレオで気軽に聞け、黄金時代のジャズとその時代を「追体験」できるということが単に楽しくて仕方がなかったのだ。やっと手に入れたLPレコードに針を降ろした瞬間、まるで缶詰を開けたときのように、その時代(主として50年代アメリカ)の空気が一気に部屋中に広がるあの快感は(前に書いたタイムスリップ感覚である)、ジャズファンなら誰しも覚えていることだろう。

ジャズ喫茶広告
1976年「スイングジャーナル」
私の場合、毎月そうしたLPレコードを何枚も買って自宅で聴いたり、ジャズ喫茶に通って聴くようになったのは、1973年に大学を卒業して就職してからだ。銀座や新宿を中心とした60年代に有名だった老舗ジャズ喫茶に加え、吉祥寺をはじめとする都内の各所や、地方の有名ジャズ喫茶の多くが開店したのも70年代前半である。それまで高価だった輸入盤に代る比較的安価な国産レコードの発売と、それを再生するオーディオ機器の隆盛が、ジャズ喫茶の増加と国産レコードの販売にはずみをつけた。この流れを「スイングジャーナル」のようなジャズ雑誌が作り、また煽った。ジャズ評論家とは別に、菅野沖彦、岩崎千明のようなオーディオ評論家がジャズ雑誌にも登場し、ジャズとオーディオの魅力を語り、音響ノウハウを伝え、読者を啓蒙した。また当時の有名ジャズ喫茶店主なども雑誌に登場して、自店のオーディオ装置を紹介したり、解説したりしていた。1950年代を源流とする、この「ジャズ(ソフト)とオーディオ(ハード)の組み合わせ」こそが、70年代以降のジャズの普及と大衆化を促進し、同時に日本独特のジャズ文化を創り上げた最大の要因であり、需要と供給両面でそれを後押ししたのが当時の日本の経済成長だった。

ジャズとオーディオは、録音再生技術の進化と呼応して、歴史的に海外でももちろんワンセットで発展してきた(クラシック音楽と同じく、1960年代までは、ジャズが主としてアコースティック楽器による音楽だったことが要因の一つである)。しかし、一般人の趣味としてのオーディオが、主として富裕層のものだった欧米に対し、日本では富裕層ばかりか、私のような普通のサラリーマンまで含めた「大衆的な趣味」になったところが大きな違いだろう。もちろんこれには、安価で高品質なオーディオ機器を製造する日本の電機メーカーの発展が寄与していたし、それを支えた購買力を生んだ日本の経済成長が背景にあった。その一方で、高額な海外の有名ブランド・オーディオ機器への強い憧れもあった。ジャズ喫茶がそのショールーム的役割も果たし、当時のジャズ&オーディオファンを啓蒙し刺激した。壁の薄い六畳一間のアパートに、JBLの大型マルチウェイSPやALTEC の劇場用大型PAシステムを持ち込んで、少音量でジャズを聴く……という、海外では想像もできないシュールな楽しみ方をするなど、まさしく日本的、ガラパゴス的趣味世界だろう(趣味なので、人に迷惑さえかけなければ、何だっていいと個人的には思う)。正直言って私の場合も、もしもオーディオにまったく興味を持たず、単に音楽としてのジャズを聴くだけだったら、たぶん80年代初めには完全にジャズから離れていたと思う。70年代後半からフュージョン全盛時代になって、つまらないと思いつつも、また音源がLPからCDへ、さらにデータへと移行し、ジャズの活力もさらに失われて行って、何度か聴くのをやめた期間があっても、聴き手としてジャズと関わり続けて今日に至っているのは、オーディオを介して「黄金期のジャズレコード」(音源)を再生し、その素晴らしさと奥深い世界を味わうことを趣味としてずっと楽しんできたからだ。そして、オーディオの世界もジャズに劣らず深く、「聴くー読むー考えるー(また聴く)」というループにはまりやすいので、ジャズとオーディオというコンビは、この点でも非常に相性が良いのである。

ジャズ喫茶論
マイク・モラスキー

2010 筑摩書房
マイク・モラスキーは『戦後日本のジャズ文化』(2005)の中で、アメリカのライヴ演奏重視のジャズの世界に対し、レコード再生を主とする日本独特の奇妙なジャズ喫茶文化を、意図して挑発的な視点で取り上げた。その後、関係者の話を直接聴取すべく、日本各地のジャズ喫茶を現地取材したり、当時を知る人たちにインタビューするといったフィールドワークを通して、更に議論を深めた『ジャズ喫茶論』(2010 筑摩書房)を発表した。そのモラスキー氏が初来日したのが1976年ということなので、彼はまさにこの時代に東京他のジャズ喫茶を巡って驚いていたわけである。この本はアメリカ人が書いているので、当然だが、よくある「ノスタルジー」としてのジャズ喫茶回顧という視点ではなく、レコード再生音楽を提供する当時のジャズ喫茶が、いかに日本独特の「非ライヴ・ジャズ空間」を創出し、ジャズの普及や理解を深める機能と役割を担っていたか、それが日本の特殊なジャズ文化の形成にどんな影響を与えたのか、その背景には何があったのか……等を分析、考察したユニークな文化論的エッセイである。ジャズ喫茶に通った経験のある我々さえ知らないような細かな情報を拾い集め、それを日本人には難しい客観的視点で分析しているので、興味深い指摘が多く、本書も非常に楽しめた。ただし、著者自身オーディオ音痴を自認しており、また話を複雑にするので、あえてオーディオ的な細部にはあまり触れようとしなかったようだが、日本独特の、このジャズとオーディオの関わりについての考察が文化論的に少々浅い、というのが私的印象だ(演奏する音楽家と、一般的な女性は、オーディオ的なものにあまり興味を示さないようである。これも実は、考察に値するテーマだと思っている)。それと、『ジャズ喫茶論』で指摘されている、ジャズレコードに対する日本人の強いフェティシズムの背景としては、「ジャズ」と「レコード」という要素以外に、歴史的に「欧米の異文化」や「繁栄の50年代アメリカ」に憧れていた当時の日本人の持つ本質的、潜在的性向も大きく影響していたと思う。

2017/03/03

ジャズを「読む」(1)

その昔、ジャズには「演(や)る」、「聴く」、「語る」、「読む」という4つの楽しみがあった。

「演る」は、当時はプロのミュージシャンや、ジャズ演奏家を志す限られた人たちだけの特権だったので、一般のジャズファンの楽しみはもっぱら残りの3つだった(当時の「聴く」はもちろんほとんどがLPレコードだ)。あれから半世紀、今やそうした世代が年をとり、ジャズファンの絶対数が減ってゆく中、昔ジャズ喫茶や、飲み屋や、書物という場で繰り広げられた「語る」という光景と楽しみは、もはやほとんど消え去ったようだ。

油井正一
ジャズの歴史物語
初版1972年(これは2009年復刻版)
アルテスパブリッシング
「読む」楽しみも、当時のジャズファンにとっては必須のものだった。あの時代はみなジャズを「勉強」していたので、見たこともない海外のミュージシャン(当時はレコードだけで、実物はもちろんのこと映像を見ることも稀だった)のレコード案内や新譜情報、ジャズの歴史や評論を、ジャズ喫茶の暗がりの中で雑誌や本で読んで知ることは知的、感覚的な興奮を得るために不可欠だった。「権威」の匂いがするクラシック音楽に対して、既成の体制への「反逆」の香りがするジャズは、1970年前後の日本の若者の心に響き、学生運動のBGMにもなった。ジャズの「複雑さ、難しさ」もその魅力の一つであり、よく分からないもの、深遠なものに対する知的憧れも、モダンなカッコ良さとともに一部の若者の心を掴んだ。昔は音楽に限らず美術でも文芸でも、この分からないこと、難しいものに魅力と畏敬を感じる人が多く、ジャズという音楽もその一つだった。その後1960年代の反動として、70年代は社会そのものの空気が「難しい、暗い」ものから「分かりやすい、明るい」ものへと転換し、80年代のバブル騒ぎを経て、90年代のITの出現によってその流れが決定的となった。

21世紀の現代は「分かりやすさ」と「断片(fragment)」の時代だ。あらゆるものが断片化して、全体がどうなっているのかさして思いを巡らせることもなく、クリックという指先のアクション一つであっという間に諸々の断片情報を入手し、ツイッターに代表されるこれも断片的な短い言葉による交信が、毎秒世界中を洪水のように行きかっている。音楽も断片化し、ポップスのみならず、ジャズと言えども1クリックだけでネットから1曲をダウンロードして消費され、ジャズファンの記憶にレコード名として当然のごとく定着していた、アルバム単位の「作品」という概念も、もはやとっくに消え失せたようだ。「分かりにくい」ものは敬遠され、モノも文化も、誰にとってもフレンドリーなものがもてはやされている。みんな物分かりが良くなって、人の言うことをよく聞き、難しいことを言う人は、ヘンな人だと敬遠される。

1954年の論稿から始まる
<相倉久人著作大全上巻>
DU BOOKS
だから現在進行形のジャズの苦境(?)は当然だろう。分かりやすいジャズは、そもそも「いわゆるジャズ」ではないと言う世代もいれば、分かりにくい音楽など音楽ではない、という立場もあるからだ。「ジャズ」というジャンルさえも、もはや無いと言えば無い。その一方で今や溢れる情報で、現代のジャズファンは昔の世代に比べたら圧倒的な量の音楽上の知識を持っている。身近になったジャズを「聴く」代わりに自ら「演る」人たちも増え、ジャズの演奏技術を解説するジャズ教則本が巷には溢れている。ラーメン屋でも牛丼屋でもジャズがBGMで流れている時代だ。そのBGMが聞こえた途端、誰が演奏している、どのレコードだと、瞬時に頭が反応するのがオールド・ジャズファンである。

1970年代でも、ジャズファンというのは数百人に1人くらいの感覚だったので、今となってはたぶん千人に1人くらいではなかろうか?(絶滅危惧種に近い)自分も含めて彼ら「聴く」ジャズファンというのは、「演る」ジャズ・ミュージシャンと思考も、嗜好も、価値観も近いところにいる人たちではないかと思う。金や地位といった普通の人が求めるものに拘泥せずに、自分が信じることに第一の価値を置く、という人間的にはある意味変わり者が多い。だいたい経験的に言って、真っ当な人(世間で言う)はジャズなど聞かない。そういう人は、もっと大衆的で、皆が好む無難なものを選ぶ。複雑そうなもの、よく分からないもの、おかしなもの、変なものに惹かれる人がジャズを好むのであり、存在そのものがどこかおかしな人もそうだ(タモリ氏の言う「ジャズな人」)。だから、そういう人が千人に1人というのは、何となく納得がいく話ではある。そしてジャズを「読む」人というのは、さらにそういう人たちの中の一部だろう。 (続く)