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2018/12/27

男のバラード

今年も間もなく暮れようとしていて、また一つ年を取る。人間、一般的に年を取ると、たまにはいいとしても、激しい演奏、速い演奏の音楽からは徐々に遠ざかるのが普通だ。そういう音楽は、聴くだけでも体力が必要とされるからだ(そうでない人、死ぬまで元気な?人も、中にはいるのだろうが)。そこで最近は、ジャズでもゆったりしたテンポのレコードを聴く機会がどうしても増える。血湧き肉は躍らないが、来し方や短い行く末に思いを馳せながら、じっくり感慨に浸ることもできるし、心静かに美しいサウンドそのものに感動することもできる。そうなるとバラード系になるが、一言でジャズのバラード演奏と言っても、メロウなものから非常にハードなものまで様々なものがある。これに楽器の種類が加わるので、演奏もレコードも数多く多彩だ。一般的にはジャズ・バラードというと、ソフトで叙情的な音楽を想像するが、中には「男のバラード」(昭和歌謡のタイトルみたいだが)とでも呼びたくなるような、全体に骨のある、ハードな雰囲気を持つバラード演奏やアルバムもある。単にやさしく、ソフトで、美しいだけではない、男性的な音楽表現が感じられる演奏である。こういうレコードを、たまに聴くと非常に気持ちが良い。背筋がピンとするような気がする。ピアノでもそういう奏者はいるし(たとえばモンク)、ギターでもいるが(たとえばパット・マルティーノ)、いずれも楽器の性格上そうはっきりとした表現は難しい。トランペットやアルトサックスは、繊細な、抒情的な、あるいはエネルギッシュな演奏はあっても、基本的にトーンが高いので、どうしても渋く、男性的な哀愁を感じさせるサウンドとは言い難い。そうなると、やはりテナーサックス系の奏者とアルバムになる。その代表格として私的に思い浮かぶのは、古くはコールマン・ホーキンズやベン・ウェブスター、ビバップ以降ではソニー・ロリンズやバルネ・ウィラン、バリトンサックスだがジェリー・マリガンなどだ。ただ、それ以外にもそうした奏者はいるし、ここに挙げたようなレコードもある。いずれのアルバムも、ジャケット写真からして男っぽさが溢れるようである。

The Message
J.R.Monterose
1959 Jaro
最初の1枚は、J.R.モンテローズ(J.R.Monterose 1927-93)の『The Message』(1959 Jaroだ。モンテローズはそう有名な奏者ではなく、生涯のリーダー作の数も限られているが、スタッカートを多用したその豪快さ、男性的な音色と表現で昔からコアなファンが多い。このアルバムは文字通りモンテローズの代表作で、トミー・フラナガン(p)、ジミー・ギャリソン(b)、ピート・ラ・ロッカ(ds) というワン・ホーン・カルテットによるモンテローズのオリジナル作のダイナミックな演奏と共に、<Violets for Your Furs (コートにすみれを)>と<I Remember Clifford>という2曲のジャズ・バラードの名曲が収録されている。コルトレーンの有名なVioletes…>はソフトな演奏だが、モンテローズのこのアルバムでの演奏は、もっと男性的な哀愁がたっぷりと感じられるもう一つの世界だ。そして<I Remember....>は、クリフォード・ブラウンの死を悼んだ名曲で、幾多の名演があるが、私は中でも、晩年のバド・パウエルの「Golden Circle」(1962 Steeple Chase) における超スローなピアノ演奏と並んで、モンテローズのこの演奏がいちばん好きだ。このタメとサックスのカスレ具合と、男っぽい情感のこもった演奏は、他の奏者では決して聞けないモンテローズならではのバラードで、まさしくジャズ・バラード史上に残る名演だろう。ただし、濃い演奏なので、たまに聴くのがよい。

Ballads
Dexter Gordon
Blue Note (comp)
デクスター・ゴードン (Dexter Gordon 1923-90) が、1960年代前半にBlue Noteに録音した8枚の有名アルバムから(ただし70年代の下記8.を除く)1曲ずつスタンダードのバラード演奏をピックアップしたコンピレーション・アルバム『Ballads』もそうした1枚だ。デクスターの男らしく悠然としたテナーによるスローナンバーが、まとめて聴ける。私が買ったのは1990年代だったように思うが、未だにカタログから消えず、継続販売されている。コンピレーションCDでこれだけ息の長いものは、ジャズでは珍しいことからも、このアルバムの人気ぶりが想像できる。演奏曲目(オリジナル・アルバム、リリース年)は以下。
1. Darn That Dream (One Flight Up 1964) / 2. Dont Explain (A Swingin' Affair 1962) / 3. Im a Fool to Want You (Clubhouse 1965) / 4. Ernies Tune (Dexter Calling 1961) / 5. Youve Changed (Doin’ Allright 1961) / 6. Willow Weep for Me (Our Man in Paris 1963) / 7. Guess I'll Hang My Tears Out to Dry (Go 1962) / 8. Body and Soul (Nights at the Keystone Corner Vol.3 1978)

ドナルド・バードが(1)、フレディ・ハバードが (3),(5)で参加している他はデクスターのワンホーンである。また当然だが参加ピアニストも多彩で、ケニー・ドリュー(1, 4)、ソニー・クラーク(2, 7)、バリー・ハリス (3)、ホーレス・パーラン(5)、バド・パウエル(6)、ジョージ・ケイブルス(8)と、それぞれの奏者の伴奏の違いも楽しめる。(6) は映画『Round Midnight』(1988)でデクスターが演じたバド・パウエル本人との共演だ。

Beautiful!
Charles McPherson
1976 Xanadu
チャールズ・マクファーソン(Charles McPherson 1939-)は、チャーリー・パーカーを範として、60年代から活動してきたアルトサックス奏者で、モダン・ジャズの主役世代からは一世代以上遅れて登場した。『Beautiful!』(1976 Xanadu) は、そのマクファーソンがデューク・ジョーダン(p)、サム・ジョーンズ(b)、リロイ・ウィリアムズ(ds) とのカルテットで録音したワンホーン・アルバムだ。楽器はテナーではなくアルトなのだが、マクファーソンには60年代の Prestige時代から、アルト吹きとしてはどこか悠揚迫らざる男らしい風情があって、特に渋く味わいのあるワンホーン・アルバムとして私は昔からこのレコードが好きだ。理由の一部は、デューク・ジョーダンの滋味溢れるピアノも聞けるからだ。名演<But Beautiful> と <Body & Soul> というバラードに聞ける、ジョーダンのピアノの語り口と美しいメロディラインが、サム・ジョーンズのがっちりした太いベースに支えられたマクファーソンのワンホーン・アルトにぴったりなのである。バリー・ハリスなどもそうだが、70年代の4ビート・ジャズは今改めて聴くと、どの作品もジャズの豊かなエッセンスが感じられて実にいい。黄金の50年代、発展と変遷の60年代を経て、生き残って円熟した(半ば枯れた)ジャズメンが、肩肘の力を抜いて、フリーでもフュージョンでもない、自分の本当にやりたい音楽を素直に演奏したからだろう、皆とてもいい味を出している

Spirit Sensitive
Chico Freeman
1979 India Navigation
Spirit Sensitive』(1979 India Navigation) は、チコ・フリーマン(Chico Freeman 1949-)は前衛ジャズの人という、当時の大方の印象をくつがえした、70年代を代表する名バラード・アルバムで、シンプルかつ骨太の男らしいバラードが聞ける。このレコードは、最初日本ではPaddle Wheel(キング)のLPで出て、その後、米Analogue Productionから高音質CDとLPで再発された。Autumn in New York>から始まる全6曲がバラードで、ジョン・ヒックスのピアノが美しい<It Never Entered My Mind>が好きで一番聴いているが、実はアナログ・プロ盤のこのトラックは最初の日本盤とはテイクが違う。もともと録音のいいアルバムだが、音質もややソリッドなキング盤に比べると、アナログ・プロ盤はずっと音に厚みがある。特に全編大活躍するセシル・マクビーの骨太ベース、華麗なジョン・ヒックスのピアノの響き、ビリー・ハートのドラムスなども音の重量感が違う。当然フリーマンのテナーも太く豪快で、独特の男っぽいバラードの世界が一層楽しめる。(しかし評判が良かったこともあって、マクファーソンもこのフリーマンも、それぞれ続編と言うべきバラード・アルバムをその後出しているが、残念ながら2匹目のドジョウとはならなかったと思う。やはり、こういう作品を制作するには ”男としての旬” というものがあるのだろう。)

Gentle November
武田和命
1979 Frasco
 
最後に日本人プレイヤーをげると、やはり本ブログ別項でも紹介したテナーサックス奏者、武田和命(かずのり、1939-89)の最初にして最後のリーダー作『ジェントル・ノヴェンバー Gentle November』(1979 Frasco) だろう。山下洋輔(p)、国仲勝男(b)、森山威男(ds) とのワンホーン・カルテットで、<Soul Trane>他のコルトレーンにちなむ4曲と、武田の自作曲4曲からなるバラード集だ。これは上記アメリカ人ジャズマンの演奏とは何かが違う、まさに "草食系男子" のジャズ・バラードの世界である。つまり日本人の男にしか吹けない哀切さと抒情が、1枚のレコードいっぱいに満ち溢れている。哀しみや、やるせなさという感情は、当然ながらどの国の民族にもあるが、その表現の仕方はそれぞれの文化によって異なる。大げさな表現を好む民族もいれば、抑えた控えめな表現を好む民族もいて、日本人は後者の代表だ。その日本的悲哀の情を、ジャズというユニヴァーサルな音楽フォーマットの中で、これほど深く、繊細に表現した演奏は聴いたことがない。武田を支える山下トリオの、いつになく控えめで友情に満ちたバッキングもそうだ。60年代の、山下洋輔たちとのフリージャズ時代以降、早逝するまでの武田和命のジャズマン人生と、語り継がれる人柄を思いながら聴くと、一層このレコードの味わいが深まる。このレコードは日本男児のバラードを見事に表現した、文字通り日本ジャズ史に残る名盤である。

2017/05/18

菊地成孔、高内春彦の本を読む

菊地成孔と高内春彦は2人ともジャズ・ミュージシャンだが、片や山下洋輔のグループで実質的なプロ活動を始め、以来日本での活動が中心のサックス奏者兼文筆家、片やアメリカ生活の長いギタリスト兼作曲家というキャリアの違いがある。今回読んだ菊地氏の本は2015年の末に出版されているので既に大分時間が経っているが、最近(4月)、高内氏の書いたジャズ本が出たこともあって、2人のジャズ・ミュージシャンが書いた2冊の本を続けて読んでみた。これはまったくの個人的興味である。共通点はジャズ・ミュージシャンが書いた本ということだけだ。本のテーマもまるで違うし、文筆も主要な仕事の一つとしてマルチに活動している人と、ジャズ・ミュージシャン一筋の人という違いもあるので、本の出来云々を比較するつもりはなく、以下に書いたのはあくまで読後の個人的感想だということをお断りしておきたい。

高内氏はジャズ・ギター教則本は何冊か書いているようだが、これまで本格的な著作はなく、この本「VOICE OF BLUE -Real History of Jazz-舞台上で繰り広げられた真実のジャズ史をたどる旅」(長いタイトルだ…)が初めてのようだ。80年代初めの渡米以降アメリカ生活が長く、それに本人よりも女優の奥さんの方が有名人なので、いろいろ苦労もあったことだろう。しかし、なんというか、自然体というのか、のんびりしているというのか、構えない人柄や生き方(おそらく)が、この本全体から滲み出ているように感じた。私が知っていることもあれば、初めて知ったこともあり、特に1970年代以降のアメリカのジャズ現場の話は、これまであまり読んだことがなかったので参考になる部分も多かった。ただ英語表現(カタカナ)がどうしても多くなるのと、カジュアルな言い回しを折り混ぜた文体は、肩肘張らずに読める一方で、どこか散漫な印象も受ける。歴史、楽器、民族など博学な知識が本のあちこちで披露されていることもあって何となく集中できないとも言える。モードの解析や、ギタリストらしい曲やコード分析など収載楽譜類も多いが、これらはやはりジャズを学習している人や音楽知識のある人たちでないと理解するのが難しいだろう。一方、デューク・エリントンを本流とするアメリカのジャズ史分析や、ジャズの捉え方、NYのジャズシーンの実状、新旧ミュージシャン仲間との交流に関する逸話などは、著者ならではの体験と情報で、私のようなド素人にも面白く読めた。伝記類を別にすれば、こうしたアメリカでの個人的実体験と視点を基にしてジャズを語った日本人ミュージシャンの本というのはこれまでなかったように思う。ただし全体として構造的なもの、体系的な流れのようなものが希薄なので、あちこちで書いたエッセイを集めた本のような趣がある。また常に全体を冷静に見渡している、というジャズ・ギタリスト兼作曲家という職業特有の視点が濃厚で、技術や音楽に関する知識と分析は幅広く豊富だが、逆に言えば広く浅く、あっさりし過ぎていて、ジャズという音楽の持つ独特の深み、面白味があまり伝わって来ない。たぶん一般ジャズファン対象というよりも、ジャズ教則本には書ききれない音楽としてのジャズの歴史や背景をジャズ学習者にもっと知ってもらおう、という啓蒙書的性格の本として書かれたものなのだろう。ただしジャズへの愛情、構えずに自分の音楽を目指すことの大事さ、という著者の思想と姿勢は伝わってきた。

一方の「レクイエムの名手 菊地成孔追悼文集」は文筆家としての菊地成孔が書いたもので、ジャズそのものを語った本ではない。クールな高内氏と対照的に、こちらは独特のテンションを持った語り口の本だ。これまでに私が読んだ菊地氏の本は、10年ほど前の大谷能生氏との共著であるジャズ関連の一連の著作だけだが、これらは楽理だけではなく、ジャズ史と、人と、音楽芸術としてのジャズを包括的に捉え、それを従来のような聴き手や批評家ではなく、ミュージシャンの視点で描いた点で画期的な本だと思うし、読み物としてもユニークで面白かった。これらの本格的ジャズ本と、ネット上で菊地氏が書いたものをほんの一部読んできただけなので、この本「レクイエムの名手」は私にとっては予想外に新鮮だった(彼のファンからすれば何を今更だろうが)。個人的接点の有無は問わず、親族から友人、有名人まで、「この世から失われた人(やモノ)」を10年以上にわたって個別に追悼してきたそれぞれの文章は、各種メディアに掲載したりラジオで語ってきたものだ。それらをまとめた本のタイトルを、原案の(自称)「死神」あらため「追悼文集」にしたという不謹慎だが思わず笑ってしまうイントロで始まり、エンディングを、死なないはずだったのに本の完成間近に亡くなったもう一人の「死神」、尊敬する相倉久人氏との「死神」対談で締めくくっている。私のまったく知らない人物の話(テーマ)も出て来るのだが、読んでいるとそういう知識はあまり関係なく、彼の語り口(インプロヴィゼーション)を楽しめばいいのだと徐々に思えてくる。音楽を聞くのと一緒で、その虚実入り混じったような、饒舌で、だが哲学的でもあり、かつ情動的な語り口に感応し楽しむ人も、そうでない人もいるだろう。中には独特の修辞や文体に抵抗を感じる人もいるかもしれないが、現代的で、鋭敏な知性と感性を持った独創的な書き手だと私は思う。

年齢を重ねると、周囲の人間が徐々にこの世を去り、時には毎月のように訃報を聞くこともあるので、死に対する感受性も若い時とは違ってくる。自分に残された時間さえも少なくなってくると、亡くなった人に対する「追悼」も切実さが徐々に薄まり、自分のことも含めて客観的にその人の人生を振り返るというある種乾いた意識が強くなる。これは人間として当然のことだと思う(だが若くして逝ってしまった人への感情はそれとは別だ)。そういう年齢の人間がこの本から受ける読後感を一言で言えば、「泣き笑い」の世界だろうか。泣けるのにおかしい、泣けるけど明るいという、「生き死に」に常についてまわる、ある種相反する不可思議な人情の機微を著者独特の文体で語っている。文章全体がジャズマン的諧謔と美意識に満ちていて、しみじみした項もあれば笑える箇所もあるが、そこには常に「やさぐれもの」に特有の悲哀への感性と、対象への深い人間愛を感じる。独特の句読点の使い方は、文中に挿入すると流れを損なう「xxx」の代替のようでもあり、彼の演奏時のリズム(休止やフィル)、つまりは自身の身体のリズムに文章をシンクロさせたもののようにも思える。カッコの多用も、解説や、過剰とも言える表現意欲の表れという側面の他に、演奏中に主メロディの裏で挿入するカウンターメロディのようにも読める(文脈上も、リズム上も、表現者としてそこに挿入せずにはいられない類のもの)。文章の底を流れ続けるリズムのために、文全体が前へ前へと駆り立てるようなドライブ感を持っているので、先を読まずにいられなくなる。「追悼」をメインテーマに、菊地成孔がインプロヴァイズする様々なセッションを聴いている、というのがいちばん率直な印象だ。そしてどのセッションも楽しめた。

特に印象に残ったのは、氏の愛してやまないクレージー・キャッツの面々やザ・ピーナッツの伊藤エミ、浅川マキ、忌野清志郎、加藤和彦など、やはり自分と同時代を生きたよく知っているミュージシャンの項だ。私は早逝したサックス奏者・武田和命 (1939-1989) が、一時引退後に山下洋輔トリオ(国仲勝男-b、森山威男-ds)に加わって復帰し、カルテット吹き込んだバラード集「ジェントル・ノヴェンバー」(1979 新星堂)を、日本のジャズが生んだ最高のアルバムの1枚だと思っている。このアルバムから聞こえてくる譬えようのない「哀感」は、絶対に日本人プレイヤーにしか表現できない世界だ。どれも素晴らしい演奏だが、冒頭のタッド・ダメロンの名曲<ソウルトレーン SoulTrane>を、「Mating Call」(1956 Prestige) における50年代コルトレーンの名演と聞き比べると、それがよくわかる。哀しみや嘆きの感情はどの国の人間であろうと変わらないはずだが、その表わし方はやはり民族や文化によって異なる。山下洋輔の弾く優しく友情に満ちたピアノ(これも日本的美に溢れている)をバックに、日本人にしか表せない哀感を、ジャズというフォーマットの中で武田和命が見事に描いている。菊地氏のこの本から聞こえてくるのも、同じ種類の「哀感」のように私には思える。それを日本的「ブルース」と呼んでもいいのだろう。彼のジャズ界への実質的デビューが、1989年に亡くなった武田和命を追悼する山下洋輔とのデュオ・セッションだった、という話をこの本で初めて知って深く感じるものがあった。会ったことも生で聴いたこともないのだが、山下氏や明田川氏などが語る武田氏にまつわるエピソードを読んだりすると、武田和命こそまさに愛すべき「ジャズな人」だったのだろうと私は想像している。時代とタイプは違うが、本書を読む限り、おそらく菊地成孔もまた真正の日本的「ジャズな人」の一人なのだろう。その現代の「ジャズな人」が、昔日の「ジャズな人」を追悼する本書の一節は、それゆえ実に味わい深かった。 

2人のジャズ・ミュージシャンが書いた本は両書とも楽しく読めた。また2人とも心からジャズを愛し生きて来たことがよくわかる。だが高内氏の本はジャズを語った本なのだが、私にはそこからジャズがあまり聞こえてこない。一方菊地氏の本はジャズそのものを語った本ではないが、私にはどこからともなくずっとジャズが聞こえてくる。もちろん私個人のジャズ観や波長と関係していることだとは思うが、この違いはそもそも本のテーマが違うからなのか、文章や文体から来るものなのか、著者の生き方や音楽思想から来るものなのか、あるいは日本とアメリカという、ジャズを捉える環境や文化の違いが影響しているのか、判然としない。年齢は1954年生まれの高内氏が菊地氏より10歳近く年長だ。1970年代半ばの若き日に、フュージョン(氏の説明ではコンテンポラリー)全盛時代の本場アメリカで洗礼を受け、以来ほぼその国を中心に活動してきたギタリストと、バブル時代、実質的にジャズが瀕死の状態にあった80年代の日本で同じく20歳代を生きたサックス奏者…という、演奏する楽器や、プロ奏者としてのジャズ原体験の違いが影響しているのか、それとも単に個人の資質の問題なのか、そこのところは私にもよくわからない。