汎音楽論集 高柳昌行 / 2006 月曜社 |
1968 「スイングジャーナル」広告 『汎音楽論集』より |
Not Blues 1969 Jinya |
April is the Cruelest Month 1975 |
Lennie Tristano 1956 Atlantic |
「モダン・ジャズ」が、芸能 / 芸術、情動 / 理性、アフリカ的 / 西洋的、土着的 / 都会的……という「融和しえない2面性」を宿命的に内包し、だがそのアンビバレンスこそが魅力の音楽だと仮定するなら、それら両面を高度にバランスさせた音楽こそが真にすぐれたジャズだろうと私は考えているが、一方で、ひたすら芸能側に走る立場(商業主義)もあれば、その対極の芸術至上主義というもう一つの究極の立場も当然あるだろう。とはいえ70年代前半までのジャズと、当時は一見反体制的だったロックを含めた他のポピュラー音楽とのいちばんの違いは、「金の匂いがしない音楽」という、ある種ストイックなイメージをジャズが持っていた点にあったことも確かだ(フュージョン、バブル以降はそれも失う)。その実態がどうだったかはともかく、私がジャズという音楽を好ましく思ったのも、金にならない音楽に人生を捧げるジャズ・ミュージシャンたちをずっと尊敬してきたのも、それが理由の一つだ(反商業主義とは、いわば音楽への「ロマン」がまだ存在していた時代の産物である)。だが、いつの時代も、普通のジャズ音楽家はそれでは生きていけないので、この中間のどこかで現実と折り合いをつけて妥協するか、あるいは山下洋輔のように、意を決してそれを止揚すべく、ジャズ固有のコンテキストの中で「自分たちのジャズ」というアイデンティティをとことん追求するかなのだろうが、高柳が選んだ道は、最後まで自らの信じる「芸術としてのリアル・ジャズ」を極めることだったようだ。
1980年代初めに高柳は一度病に倒れ、ジャズそのものを取り巻く状況の変化もあって、インタビューでの発言なども多少ボルテージが下がり、当然だが70年代までのような過激さも薄まっている。その頃には、黒人、白人、日本人といったエスニシティを一切捨象し、ジャズというジャンルすら超えた純粋芸術としてのインプロヴィゼーションを追求するコンセプトがより濃厚となっていたようだ。そして晩年には、テーブル上に横に寝かせた数台のギターと音響機器を組み合わせて、ソロ演奏で電気的大音響(轟音)を発生させる「メタ・インプロヴィゼーション」、さらに「ヘヴィー・ノイジック・インプロヴィゼーション」という形態にまで到達する。こうして1991年に亡くなるまで、生涯をインプロヴィゼーションに捧げた高柳昌行は、日本の音楽界では終生アウトサイダーのままだったが、その死後、日本における真の「前衛アーティスト」として海外では高く評価され、高柳によるノイズ・ミュージックに対して「ジャパン・ノイズ」という呼称まで提唱されたということだ。
高柳昌行の音楽思想と人生は、ピアノとギターという違い、トリスターノが盲目だったという身体的違いを除けば、私にはトリスターノのそれとまさにダブって見える。モダン・ジャズは、音楽的緊張(テンション)と弛緩(リラクゼーション)の双方が感じられるのが魅力の音楽であり、聴衆側の嗜好もそのバランスに依るとも言えるが、トリスターノの音楽も高柳の音楽も、その多くが聴き手にもっぱら緊張を強いるという点で同質だろう。調律の狂ったピアノが置いてあり、高度な芸術を理解も評価もできない酒飲みの客だけが集まる享楽的なクラブでの演奏を嫌がり、ジャズ業界の商業主義や他のミュージシャンに対する厳しい批判を繰り返し、自らは高踏的な音楽を追求し続た結果、実人生では音楽家として生涯報われなかったトリスターノの人生のことも高柳はよく承知していた。トリスターノ自身やトリスターノ派のミュージシャンたちと同じように「私塾教師」という仕事を続けたのも、その「覚悟」があったからなのだろう。大友良英は、晩年の高柳と衝突して1986年に師の元を去ったということだが、これなども、まさにトリスターノとリー・コニッツという師弟訣別のエピソードを彷彿とさせるような逸話である。
夫唱婦随と言うべきか、高柳夫人による『汎音楽論集』巻末の「あとがき」は、まるで高柳昌行自身が語る言葉をそのまま代弁しているかのようである。夫を最後まで支え続けた数少ない盟友への謝辞中で、たとえば支持者だった内田修医師やフリー・ジャズ・ライターの副島輝人は分かるが、渡辺貞夫の名前も挙げられているのが(素人目には)意外だった。目指した音楽の方向は途中で分かれても、同世代であり、長い年月にわたり、互いに日本のジャズ界を背負ってきた同志ということなのであろう。