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2021/11/14

「モンク没後40年」を前に

今年は向田邦子の没後40年で、あちこちの書店やテレビで記念企画を見かけるが、セロニアス・モンクが亡くなったのが1982年2月17日なので、来年2022年はモンク没後40年にあたる。そのせいか最近ネットやSNSを眺めていると、モンクがらみの企画や、モンクに関する記事やコメントが妙に目につく。現在公開中の写真家W・ユージン・スミスWilliam Eugene Smith (1918-78) を描いた映画『ジャズ・ロフトJazz Loft』に出て来るモンクに加え、来年はクリント・イーストウッド制作の傑作映画『ストレート・ノー・チェイサー Straight, No Chaser』(1989)の大元になった2本のドキュメンタリー映画の公開、さらにモンクを描いた伝記映画まで制作される予定だという。世界中がモンクでこんなに盛り上がっている(?)のはモンクの死後初めてではないか。2017年に、私がロビン・ケリーの著書(2009年)の邦訳版『セロニアス・モンク : 独創のジャズ物語』を出版したのは、モンク生誕100年、ジャズ録音史100年にあたる年だったが、多少のイベントはあったにしても、それほど盛り上がった記憶もないし、あのときは、なにせモンクの伝記翻訳書を日本で出版するのさえ非常に苦労したのだ(売れない、長い、という理由で)。ちなみに、昨2020年はビル・エヴァンス没後40年、今年2021年はマイルス・デイヴィス没後30年でもあるのだが(もうそんなに経ったのか…という感慨もある)、それほどエヴァンスやマイルスで盛り上がっている気配もない。だから、モンクの没後40年の盛り上がりは、私的には非常に意外なのだ(とはいえ、エヴァンスとマイルスはある意味で、ずっと盛り上がっている数少ないジャズ界のスターなので、世界の違うモンクとの比較はそもそも無理があるのだろう)。

モンクはとにかく喋らないことで有名だったので(相手にも依ったらしいが)、音楽も、人間としてもとっつきにくくて謎が多く、普通のジャズ・ノンフィクションの骨格となるべき本人のインタビュー記録もほとんど残されていない。またバド・パウエルと同じく、特に晩年になると精神的に不安定なことが多くなったので、どこまでが事実なのか、本気なのか分からないといった情報の真偽に関わる問題もあって、分析したり、文章にするのが難しいという側面もあっただろう。そこが、豊富なレコードやライヴ演奏、映像記録に加え、自叙伝まで出版し、よく喋り、第三者による文献も含めて虚実入り乱れた情報がたっぷりと残されている大スター、マイルス・デイヴィスや、現代ジャズ・ピアノの原型ともいえるサウンドで、たぶんジャズ界の永遠のアイドル的存在、ビル・エヴァンスと違うところで、これまでモンク情報の絶対量が世界的に少なかったこともあって、今回没後40年を期に、その希少性からくる価値を売り込もうという商業的背景もあるのだろう(誰が仕掛けているかは知らないが)。いずれにしろ最近、YouTubeをはじめ、ヴィジュアル情報が比較的容易に公開、視聴できる時代になって、20世紀のジャズ・ミュージシャンたちの動く映像が数多く見られるようになったのは、ジャズファンとしては非常に嬉しいことだ。

虚々実々だったモンクの人生に初めてメスを入れ、息子のT.S.モンクが主催するモンク財団とモンク家、さらにパトロンだったニカ夫人の実家ロスチャイルド家を通じて、事実と思われる信頼すべきモンク情報を可能な限り収集、選別し、さらにモンクを知る親族、友人、ミュージシャン仲間から直接得た新規情報をそこに加え、14年にわたってモンクの人生の足跡を辿った上で発表したのが、UCLA教授だったロビン・ケリーが書いた長大な原書『Thelonious Monk: The Life and Times of an American Original』(2009年)だ。米国黒人史を背景にしつつ、ジャズ・ミュージシャンとしてのモンクの人生を詳細に辿った本で、モンクを描いた伝記類で(あるいは全ジャズ・ミュージシャンの伝記類を含めても)、これ以上正確で信頼すべき情報を基にした書籍はなく、モンクを語る際に、まずリファレンスとすべき本がロビン・ケリーの書いたこの伝記なのだ(ただし日本語版は原書の長さのために、全体の約85%の訳文量にせざるを得なかった)。そしてその正確さと情報量ゆえに、モンク個人のみならず、20世紀半ばを生きたジャズ・ミュージシャンたちの生きざまを描いたモダンジャズ物語として、新たな視点を加えた書籍でもある。

私はケリー書の翻訳だけでは飽き足らず、続いて、実際にモンクの身近にいて、モンクをもっともよく知る二人を描いた書籍も邦訳した。一つは、半生を捧げてモンクを支援し続けたニカ夫人の伝記『パノニカ:ジャズ男爵夫人の謎を追う』、そしてモンクから大きな音楽的影響を受け、モンクに私淑していたソプラノサックス奏者、スティーヴ・レイシーのインタビュー集『スティーヴ・レイシーとの対話』だ。私の中では、これら3冊を本人、パトロン、弟子という3者の視点から描いた「モンク3部作」と称している。そして翻訳書を含めて日本語ではこれまで限られた文献や書籍、第三者によるレビュー等しか読めず、依然として謎と伝説に満ちていたモンクというミュージシャンの真実が、これら3冊の訳書でかなり正確にイメージできるようになったと自負している。しかし、中でも2009年に発表されたロビン・ケリーの著書は、その正確で圧倒的な情報量からしても大きな歴史的価値があり、今話題になっている没後40年の各企画の元ネタになったのも、間違いなくケリーの本だろうと思う。

現在日本で公開されている映画『Jazz Loft』は、『MINAMATA』で有名な写真家W・ユージン・スミス他のアーティストたちが、ニューヨークの廃ビルをロフトとして使い、多くのジャズ・ミュージシャンが毎晩そこに集まってジャムセッションを繰り広げていた模様を、スミスが撮影した写真と、ジャズファンであり、オーディオマニアだったスミス自身が録音したテープで描いたドキュメンタリーで、2015年にイギリスで制作された映画だ。この映画の主役の一人がポスター写真にも使われているモンクであり、そのロフト住人の一人で、モンクの大ファンだったジュリアード音楽院の教授ホール・オヴァートンを、モンクが自作曲の編曲者に指名して、モンク作品初となるビッグバンドによる公演を1959年に「タウンホール」で行なうまでのいきさつを、ロフトでの二人の会話を収めた音声テープと写真で初めて描いたものだ。ケリーの著書に詳しく書かれているこの逸話は、私も同書で初めてその事実を知ったが、このやり取りは、二人の関係と、モンクの音楽思想と音楽作りに関わる巷間伝説のベールをはがす、実に貴重な記録なのだ。映画製作の6年前に発表されたロビン・ケリーの本では、デューク大学Jazz Loft Project 所蔵のオリジナル録音テープをケリーが書き起こし、映画のハイライトというべきモンクとオヴァートンの会話の内容を詳しく収載している。

来年2022年初めに「没後40年 セロニアス・モンクの世界」と称して公開予定の2本のドキュメンタリー映画、『モンク』と『モンク・イン・ヨーロッパ』は、クリント・イーストウッド製作、シャーロット・ズワーリン監督が編集した傑作ドキュメンタリー映画『ストレート・ノー・チェイサー』(1989)で使われている、2本のオリジナル・ドキュメンタリー・フィルムを映画化したものだ。ドイツのテレビ局の社員だったマイケル・ブラックウッドとクリスチャン・ブラックウッド兄弟が、モンクの許可を得て、1967年にニューヨークまで出かけてモンクの日常を撮影し(前者)、ジョニー・グリフィンやフィル・ウッズも加わったヨーロッパ公演の模様を追いかけた(後者)経緯についても、ロビン・ケリーの本に詳しく書かれている。映画『ストレート・ノー・チェイサー』は、その2本のオリジナル・フィルムと、他のモンクやニカ夫人等の記録映像を編集して制作したものだ。オリジナル・フィルムが撮影された1967年はモンクの晩年期にあたり、モンクの状態は精神面、音楽面ともに微妙だったとはいえ、画面から伝わってくるモンクの存在感は圧倒的で、素晴らしいジャズ・ドキュメンタリーにもなっているので、映画では未収録だった当時の「動くモンク」や、ネリー夫人、ニカ夫人をとらえた映像が他にどれだけあるのか(ないのか)、非常に楽しみではある。

もう一つの企画は、モンクの伝記映画『Thelonious』の制作発表だ。ヤシーン・ベイ Yasiin Bey (Mos Def)というラッパー兼俳優が主演し、2022年夏から撮影を開始するという予定らしい (amass 2021年7月情報)。しかし、息子のT.S.モンクが、モンク財団としてこの映画の制作には一切関与していないし、許可もしていない、脚本も嫌いだ…とか明言しているらしいので、どうなることか分からない? いずれにしても、モンクを巡るこうした動きはモンクファンとしては歓迎すべきことだが、21世紀の今頃になって突然脚光を浴びて、草葉の陰でモンクも苦笑いしているかもしれない。あるいはこれは、天才モンクの音楽が、やはり世の中より40年先を進んでいた――という証拠なのか?

2021/02/26

モンクの『パロ・アルト (Palo Alto) 』(1968) を巡る話

2月17日はセロニアス・モンクの命日なので、毎年この時期はモンクがらみの話を書いている。今年は、昨年秋に初めてリリースされたモンクの未発表音源『パロ・アルト(Palo Alto)』に関する話を書いてみたい。ジャズという音楽の面白いところは、巨人と言われるような大物ミュージシャンの昔の録音がレコード化されずに眠ったまま、ある日突然発掘されて陽の目を見るところだ。しかもそれが、今聴いてもやはり「これぞ本物だ」としか言えないような、なぜ発表されなかったのか不思議なくらいすごい演奏の場合が結構あるのだ。

モンクの未発表音源でいちばん有名なのは、2005年に米国議会図書館で半世紀ぶりに偶然発見された、ジョン・コルトレーンが参加したモンク・カルテットの「カーネギーホール」でのコンサート・ライブ録音だろう(1957年11月30日録音『Thelonious Monk Quartet with John Coltrane Live at Carnegie Hall』)。そしてもう一つは、4年前の2017年にフランスで発見された音源で、音楽プロデューサーだったマルセル・ロマーノが保管していた、1959年の仏映画『危険な関係』のサウンドトラックとして使ったスタジオ録音だ。映画の中でしか聴けなかったモンク・カルテットと、そこにバルネ・ウィランが加わったクインテットによる演奏を収めた『Les Liaisons Dangereuses 1960』は、スタジオ内でのやりとりを含めて、こちらも奇跡的に生々しいステレオ録音が聴ける(2作とも本ブログ2017年10月「モンクを聴く」ご参照)。しかし、実はモンクを中心にしたジャズ未発表音源の文字通りの宝庫は、ニカ夫人が私家録音した膨大な量のテープだろうが、それらは門外不出としてロスチャイルド家管理の下、今も封印されたままのようだ。

昨年秋に初めてリリースされたモンクの未発表音源『パロ・アルト (Palo Alto)』(Impulse!) は、上記のモンク全盛期の録音2作とは異なり、モンクが50歳を過ぎた1968年10月に録音されたモンク晩年のライヴ演奏だ。そして、クラブギグ、コンサートホール、スタジオといった普通のジャズ演奏の場ではなく、サンフランシスコから40kmほど南へ下ったパロ・アルトにある地方高校の講堂で、若者を中心にした地元の聴衆を前にした昼間のライヴ演奏であるところも珍しい。モンクはサンフランシスコでは、ソロ名盤『Alone in San Francisco』(1959)、ビリー・ヒギンズや西海岸プレイヤーと共演した『At the Blackhawk』(1960)、本盤と同メンバーで、モンクの没後1982年にリリースされた2枚組『At the Jazz Workshop』(1964) など3作品を残している。『Palo Alto』の録音は『Underground』(1968年2月 NYC) の後、コロムビア最後の録音となったオリヴァー・ネルソンとのビッグバンド『Monk's Blues』(1968年11月 LA) の直前に位置する。ちなみに、モンクの人生最後の単独ライヴ録音は、ほぼ1年後の1969年12月にパリの「サル・プレイエル」で行われた、ヨーロッパでも最後となったコンサートである。

ロビン・ケリー著『Thelonious Monk』によれば、60年代後半のモンクは、経済的、精神的、肉体的に様々な問題を抱えていて、決して万全な状態とは言えず、自宅で倒れて意識不明のまま入院したり、特に精神的に好不調の波が非常に激しかった。とりわけ66-67年にバド・パウエル、エルモ・ホープ、ジョン・コルトレーンという盟友3人を相次いで失ったことで、モンクの音楽家精神と創造意欲をはさらに衰えていた。したがって60年代前半までのモンクにあった創造性や活力はあまり感じられないものの、相棒のチャーリー・ラウズ(ts) に加え、ラリー・ゲイルズ(b)、ベン・ライリー(ds)という非常にシュアな2代目リズムセクションを得て、長い時間をかけてバンドをまとめたおかげで、最もバランスの取れた安定した演奏をしていた時期でもあり、このレコードでの演奏もそれを反映している。プログラムも、夜のジャズクラブに聴きに来るような客層ではなく、若者を中心にした地元聴衆を意識して有名曲(Ruby, My Dear/ Well, You Needn't/ Don't Blame Me/ Blue Monk/ Epistrophyを集めた分かりやすいもので、音源となった素直なアナログ・ステレオ録音もライヴ感があって上々だ。

このレコードのもう一つの価値は1968年という時代背景にある。公民権運動、ベトナム反戦と続く既存体制や価値観の変革を求める運動は60年代後半にはさらに強まり、米国社会が騒然としていた中、パロ・アルトでのコンサートの半年前の1968年4月にキング牧師が、6月にはロバート・ケネディ上院議員がロサンゼルスで暗殺された。現在も続く人種問題の根は深く、融和に向かおうとしていた白人街パロ・アルトと、黒人街イースト・パロ・アルトの分裂も深まった。マイルス・デイヴィスと同じくモンクも、表立った政治的発言は決してしないジャズ・ミュージシャンだった。しかしこのパロ・アルトにおけるコンサートは、人種問題に揺れる1960年代末の米国西海岸の小さな町で、ジャズを愛する一人の白人高校生の熱意で実現したギグを通じて、期せずして人種を超えた地元の人々の融和にモンクが一役買った貴重な実例であり、このレコードはその背景を知って聴くと、より大きな意味を持つというのがロビン・ケリー氏の見方だ。確かに演奏会場全体に流れている、どことなく温かな雰囲気からも、そうした背景が伝わってくるようだ。

ロビン・ケリー氏と著書
モンク生誕100年にあたる2017年に出版した私の訳書『セロニアス・モンク 独創のジャズ物語』は、日本語で上下2段組700ページもある大著だ。しかし、実はこれでも訳文全体の約15%をカットしている。ロビン・ケリー氏の原書『Thelonious Monk』(2009) は600ページもあり、本文の全訳文だけでWord原稿で約80万文字だった(原稿用紙2,000枚分)。UCLA教授のケリー氏は歴史学者であり、本文の他にモンク家の全面協力の下、14年もの歳月をかけて収集した史料の出典や、背景を記した膨大な巻末脚注も加わっていて、仮に完訳本を出すとなると、最低でも800-900ページを優に超える長さになる(正直言って、翻訳中も何度か途中で投げ出したくなるほどの長さだった)。だから上下2巻にする以外に、日本語による完訳版の出版は難しい。しかし当然ながら、出版不況下の今どき、ジャズ・ミュージシャンを主人公にした、そんな長尺な翻訳書を出版してくれる出版社などない。『リー・コニッツ』も『パノニカ』もそうだが、『セロニアス・モンク』も私が自分で企画した翻訳書であり、版権確認と日本語翻訳の可否を著者のケリー教授に直接打診して、なぜ翻訳したいのかという理由も説明した上で、ご本人から許可をいただいて翻訳したものだ。私は、ジャズ本流の外側にいる特異な音楽家、あるいは単なる変人(時に狂人)といった表現で常に語られ、長い間誰も核心に触れられずにきたモンクという人物、その実人生、その音楽の素晴らしさを初めて真摯に伝えるこの本を、何としても日本語で紹介したいと思っていた。しかし、本来なら最初に決めるべき出版社も、当然自分の責任として翻訳後に探すという約束である(このやり取りを通じて、ケリー氏が本当に良い人物だと知った)。

しかし1年以上かけて翻訳した『セロニアス・モンク』出版を10社近くの出版社に打診しても、どこも「やろう」とは言ってくれなかった。モンクは、日本ではマイルスやコルトレーンのような一般的な人気者ではないので、読者数も限られるという営業上の懸念があり、もちろんそれが尻込みする最大の理由だったろうが、とにかく書物として「長すぎる」というのがもう一つの理由だった(何でも短いSNS全盛の時代に完全に逆行しているので、当然だろう)。そこで、ケリー氏に事情を説明し、日本語での完訳本出版は難しそうであり、唯一の可能性は、原書の一部をカットして、全体を短縮して単行本として出版する以外にないことを伝えた。そして日本の想定読者層を考えると、ジャズを中心にした「音楽書」として出版し、音楽と直接的関わりの薄い部分、つまり同書の物語を編む縦糸というべき、人種差別を核にした米国黒人史や政治史に関する記述部分を主にカットせざるを得ないが、それでも翻訳を許可してもらえるかどうかと尋ねた。ケリー教授はアフリカ系アメリカ人歴史学者であり、この本が単なるジャズ・ミュージシャンの伝記ではなく、米国黒人史を背景にしてモンクという独創的音楽家を描く、もっと大きな物語であることを私も重々承知していたので、無理かもしれないと半ばあきらめていたのだ(それに、昔は甘かったらしいが、今は翻訳する側が原書の内容に勝手に手を加えることを契約上許可しない著者や版元も多い)。ところが、ケリー氏がその提案を了承してくれたのである。

しかしながら、2016年秋口に何とかして15%ほど訳文を減らした修正案を準備してもなお、出版してくれるところはなかなか見つからなかった。そして半年ほど経った最後の最後になって(2017年4月)、本当にあきらめかけたときに手をあげてくれたのが、月曜社とシンコーミュージックの2社だった。結果的にシンコーミュージックから10月に出版していただくことに決まったが、それでも700ページというジャズ本としては異例の大著になった(月曜社は、これが縁となり、その後パノニカとレイシーに関する本を出版していただいた)。

このカットした部分に、モンクがなぜパロ・アルト高校で演奏するに至ったか、その背景に関する逸話も含まれていた。原書では、米国史上有名な白人による黒人差別や暴力に関する歴史的事件のほとんどに触れているが、パロ・アルトの事例は、中で唯一悲惨さとは無縁のポジティヴな逸話だ。そしてある意味で、モンクという人物を象徴するような物語でもある。だから長さの制約さえなければそのまま訳文を掲載したかったが、他の歴史的背景のかなりの部分をカットした以上、パロ・アルトの逸話だけ入れてもその「意義」が伝わりにくいと考えた。こうした訳文削除の背景については訳書の「解説」でも触れているので、カットされたその黒人史に関する部分を読みたい、という読者の方からの問い合わせもいただいたが、版権の問題や上記理由で日本での書籍化は難しいとお答えしている。

モンクのこのレコード『Palo Alto』(CD、LP)には、ロビン・ケリー氏が自らこの逸話の政治的背景を書いた長文ライナーノーツが添付されており、国内盤にはその日本語訳もついている。そこに、この話の主人公で当時高校生だったダニー・シャーの後年のコメントも書かれているし、他に新聞広告やポスター、コンサートプログラムのコピー等の史料も添付されている。また息子のT.Sモンクとシャーのインタビュー映像もYouTubeで公開されている。とはいえ本来は、上述のような苦闘(?)を経てようやく出版した邦訳書の一部でもあるので、以下に私が「試訳」した未発表部分を、ご参考までに紹介したいと思う(ケリー氏のライナーノーツの解説が、当時の背景を非常に詳細に語ったものなので、私の原書訳文は、むしろそのダイジェスト版のようではあるが)。

***

《 この話はカリフォルニア州パロ・アルトという、スタンフォード大学近くの裕福な白人のカレッジタウンから始まる。パロ・アルトが起点のベイショア・フリーウェイをはさんで、イースト・パロ・アルトがあった――当時は貧しく、黒人住民が中心の ”郊外の貧困地域” だった。その極貧ぶりと失業率の高さゆえに、その街を別の国だと譬える人もいたほどだった。アフリカの独立や、台頭しつつあった黒人民族主義者の気運に触発されて、地元の活動家の中には、誇りを持ってその町を ”ナイロビ” というニックネームで呼ぶ人たちもいた。1966年にアフリカ中心の教育に特化した独立学校としてナイロビ・デイスクールが創設され、その2年後に、”ナイロビ” を町の公式名称にすることを問う住民投票を目指す運動が始まったのだ。その運動は反白人主義によるものではなかった。それどころか、名称変更の支持者たちは、そのコミュニティの中で地域への誇りを持つ気持が浸透すれば、学校や近隣地区を改善し、経済を強化でき、最終的には人種に関わらず、ナイロビをすべての家族にとって魅力的な場所にできると信じていたのである。4月3日、町議会は名称変更についての公聴会を開くことを可決したが、その翌日キング師が暗殺された。若者たちがあちこちの略奪行為や焼き打ちに加わるにつれて、期待されていた協力の可能性は怒りに取って代わられた。「ナイロビに賛成しよう」と駆り立てるポスター、チラシ、黒とオレンジ色のバンパーステッカーは戦闘的な雰囲気を漂わせるようになった。人種間の緊張が高まるにつれて、パロ・アルト自由主義のグループは黒人の中流層を引き寄せて、何とか白人の近隣住民と一体化しようと試みた。
 ここでダニー・シャーの紹介をすると、彼はパロ・アルトの上流中産階級の家庭で生まれ育った16歳のユダヤ系の少年だった。ジャズ狂で、人種間の緊張が高まっていた1968年に、パロ・アルト高校の2年生に進級するところだった。ダニーを知らぬものはいなかったが、それは1年前に独力でパロ・アルト高校初のジャズ・コンサートをプロデュースし、そこでなんとあのピアニスト、ヴィンス・ガラルディとヴォーカル・グループのランバート・ヘンドリックス・アンド・ロスを招聘したからだ。しかも毎週水曜日のランチタイムには、学校内でジャズのラジオ番組の司会も務めていた――ただし放送局の設備はマイク一本と、じっくり配置を考えた数本のスピーカー、それにターンテーブルだけだった。学校外では、ベイエリアのコンサート・プロモーターのもとで仕事をするようになり、そこでダーレンス・チャンと知り合ったが、彼女はカリフォルニア大学バークレー校で初めて一連のジャズ・コンサートをプロデュースし、批評家ラルフ・J・グリーソンの下で働いていた。シャーは回想する。「僕の夢は、セロニアス・モンクとデューク・エリントンをパロ・アルト高校に連れて来ることだった。第一候補はモンクだったので、ダーレンスにどうやって彼と接触したらいいか尋ねたら、彼女がジュールズ・コロンビー[訳注:モンクの元マネージャーだったハリー・コロンビーの兄]の電話帽号を教えてくれたんだ。僕はジュールズに電話して、モンクに高校で演奏して欲しいという話を伝えた。彼は500ドルくらいかかるよ、と言ったと思う。最終的にジュールズは契約書と、何枚かのモンクの写真、それに『アンダーグラウンド』のLPも何枚か送ってきた。あとは校長に頼んで契約書にサインしてもらうだけだった」
 モンクは、10月末にはサンフランシスコの「ボース・アンド・クラブ」に3週間出演することになっていたので、シャーは10月27日、日曜日の午後に学校の講堂を確保し、他の2つのバンドの出演も決めた――<ジミー・マークス・アフロアンサンブル>とケニー・ワシントンをフィーチャーした<スモーク>だった。主役はモンクのカルテットで、収益金はインターナショナル・クラブに寄贈されることになっていたので、チケットはあっという間に売り切れるだろうとシャーは踏んでいた。ところがそうは行かなかった。2ドルのチケットを売りさばくのに苦労したシャーは、購読していた新聞のコネを通じて、何軒かの新聞販売店にプログラムへの広告掲載を売りこみ、各店の窓にコンサートを宣伝するポスターを貼ってくれるよう頼み込んだ。それでもチケットの売れ行きが良くならないと、彼はコンサートをイースト・パロ・アルトにも売り込むことにした。「それで、ついにイースト・パロ・アルトにもポスターを貼り出すことにして、街中に貼るポスターの見出し文をこう書いた。『それで、本当にモンクが白人だらけのパロ・アルトにやって来るのだろうか? 信じれば、そうなるさ』。僕が会った黒人連中は疑っていたので、とにかく日曜日に学校の駐車場に来てくれ、そこでモンクを見たらチケットを買ってくれ、って言ったんだ」
 あとは、モンクとバンドが確実にギグに来られるようにすればよかった。コンサートの何日か前に、シャーはホテルにいたモンクに電話して、どこに来てもらいたいか念押しした。するとモンクは、「えー、私はその件は何も聞いてないよ」と答えた。分かったのは、モンクが契約書を一度も見ていないこと、しかもサンフランシスコからパロ・アルトへ行って、クラブの最初のセットに間に合うように戻ってくる移動手段がないということだった。しかし、モンクはその少年の厚かましさを面白いと思ったし、特にシャーが、自分の兄の車でバンドの行き帰りの送迎をさせると申し出たこともあって、その出演を承諾した。日曜日の午後、両パロ・アルトの町から黒人と白人の少年たちが駐車場に集まり、モンクが現れるのを見ようと待っていた。バンが駐車場に止り、中からモンク、チャーリー・ラウズ、ラリー・ゲイルズ、ベン・ライリーが現れると、そこにいたみんながチケットを買う列に並んだ。最終的に、モンクのカルテットは人種の入り混じった、ほぼ満員の聴衆に素晴らしいショーを披露した。彼らは1時間以上演奏した。嵐のような拍手に呼び戻されたモンクはアンコールも演奏した――ソロ・ピアノによる〈スウィートハート・オブ・オール・マイ・ドリームズ〉――それから、これ以上は演奏できないことを丁重に謝った。「今晩は街に戻って演奏しなければならないので、ご了承ください」。モンクはそれをコンサートの締めの言葉にし、ダニーは現金でモンクに謝礼を支払い、それから彼の兄が「ボース・アンド・クラブ」までバンドを送り届けたが、時間的には十分な余裕があった。数日後、ジュールズからダニーに電話があり、出演料を請求した。「私は彼に、それならモンクさんに支払いましたよと言った。『私のコミッションはどうなるの?』と言うので、『コロンビーさん、こちらにはサインした契約書はないんです。なのでコミッションをお望みなら、モンクさんに話した方がいいですよ』って答えた」。その後成長したシャーは、西海岸でもっとも成功をおさめた屈指のコンサート・プロモーターになった。
 モンクも16歳のダニー・シャーも、この地域の人種間の関係に、このコンサートがどういう意味をもたらしたのか完全に理解していたわけではなかった。つまり気持ちの良いある日の午後に、黒人と白人が、そしてパロ・アルトとイースト・パロ・アルトが、争いをやめて一緒に集まり、〈ブルー・モンク〉、〈ウェル・ユー・ニードント〉、〈ドント・ブレイム・ミー〉を聞いたということである。それから9日後の住民投票で、イースト・パロ・アルトをナイロビに改名する案は2対1以上の大差で完敗した 》