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2018/01/16

「長谷川きよし」を聴いてみよう

年末の船村徹の追悼番組以来、美空ひばり、藤圭子、ちあきなおみ…と演歌系の歌手の歌ばかり聴いてきた(ちあきなおみが唄う「都の雨に」も、船村徹らしい中高年の心の琴線に触れる良い歌だ)。それに今はテレビでYouTubeを見ているので、放っておくと次から次へと勝手に再生し、忘れかけていた歌や、懐かしい歌などが出てきて、ついつい聴いてしまい、止まらなくなってしまうのだ。しかし、昔の演歌や歌謡曲は素晴らしい歌もあるが、基本的に曲の構造がシンプルなものが多いので、続けて聴いているとさすがに飽きてくる。たまに自分で唄っていると、いつの間にか別の曲になってしまうほど、コード進行やメロディが似通っている曲が多いからだ。そこで、正月明けには真逆のようなインスト・ジャズ聴きにいきなり戻る前に、その前段として少し複雑な曲や歌が聴きたくなる。ただし私が好きなのは、独自の世界を持っている「本物の」歌手なので、そうなると大抵聴きたくなるのが、古いジャズ・ヴォーカルと、日本人なら長谷川きよしだ。

ひとりぼっちの詩
(1969 Philips)
長谷川きよしが<別れのサンバ>でデビューしたのは1969年で、対極にあるような歌の世界の藤圭子が<新宿の女>でデビューしたのと同じ年だ。この時代は日本の転換期のみならず音楽史上も最大の変革期で、とにかく若者の数が多く、ロックも、フォークも、グループサウンズも、演歌も、歌謡曲も、初期のJ-POPも、歌なら何でもありの混沌の時代だった。長谷川きよしもデビュー曲で一躍脚光を浴びたが、最初からいっしょくたにされた他のフォーク系の歌の世界とはまったく異質の歌い手だった。だから、いわば初めからある意味で「浮いて」いた。今でも時々「懐かしのフォーク」とかいう類の番組に他の歌手と出演することがあるが、当然ながらやはり「浮いて」いる。最初から独自の歌の世界を持った人であり、そもそも音楽の質が違うからだ。60年代に人気のあったシャンソン・コンクールの圧倒的な歌唱で入賞したのがデビューのきっかけになったように、当時から、彼を支持していたのはシャンソンやジャズなどを好む「大人の」音楽好き、あるいはそうした世界を好むほんの一部の若者であって、同時代の大多数の若者ではなかった。だから長谷川きよしの歌を好む人の層は今でも基本的に限られていると思う。要するに本質的に「大衆」を聴き手とする歌手ではないのだ。<別れのサンバ>で使っているような当時としては複雑なコードを、これもサンバ的リズムに乗せて、ガットギターで弾いて唄う歌手などあの頃の日本には一人もいなかった。シャンソン<愛の讃歌>や<そして今は>を、ギター一本で、大人びた陰翳のある歌唱で、しかもフランス語で唄う若い歌手などもちろんいなかった。だから新鮮だったかもしれないが、正直よくわからないと思った人が当時は多かったと思う。盲目の青年という売り出しイメージが先行したために、暗い歌ばかりのように思われていたが、長谷川きよしの歌の世界は当時のフォークのような日本的なものではなく、シャンソン、カンツォーネ、フラメンコ、サンバ、ボサノヴァ、ジャズなど世界中の様々な音楽の要素が混在した、もっと乾いた無国籍的な音楽で、いわばワールドミュージックの先駆だったのだ。妙な政治的メッセージもなく、四畳半的な貧乏くささもなく、日本的な暗さもなく、熱い青春応援歌でもなく、純粋に曲と歌の美しさだけが伝わって来るような、都会的でお洒落な「非日常」の音楽だった。ある意味リアリティのない音楽とも言えるが、そこが良いという人もいるわけで、超絶のギターとともに、豊かな声量と正確なピッチ、クセのない美声による本格的歌唱が、無色透明の非日本的世界を唄うのに適していた。そういう歌手は、それまでの日本には存在していなかったのだ。70年代初めの銀座の「銀巴里」で、目の前で、ギター1本で「大人の」歌を堂々と唄う、同年齢の長谷川きよしを初めて聴いたときの衝撃は今でも忘れられない。

透明なひとときを
(1970 Philips)
デビュー・アルバム『ひとりぼっちの詩』(1969)は<別れのサンバ>の他に、<冷たい夜にひとり>、<心のままに>、<恋人のいる風景>などフレッシュでシンプルだが、当時の歌の中では断トツで斬新な自作曲が並ぶ。中ではシングル盤B面だった<歩き続けて>が、やはり永遠のラヴソングというべき名曲であり、当時の年齢でしか唄えない名唱だ。2作目のアルバム『透明なひとときを』(1970)は、70年代の作品中ではもっとも完成度の高い傑作だ。ジャケット写真が表すように、デビュー作の暗い、孤独なイメージから一転して、お洒落なボサノヴァの<透明なひとときを>、ジャジーな<夕陽の中に>、<光る河>などの優れた自作曲、さらにジャズ風アレンジのシャンソン<メランコリー>、イタリアンではミーナの<別離>や<アディオ・アディオ>、さらにサンバ風<フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン>のようなカバー曲など、バラエティーに富んだ選曲も良い。いずれにしろ、当時まだ20歳の若者が普通に唄うような曲ではなかったが、彼の本質と歌の世界がもっとも良く表現されたアルバムだった。この初期2枚のアルバムで聴ける曲は、若く瑞々しい歌声もあって、ほとんどが今聴いてもまったく古臭さを感じさせず、それどころか、いまだに新鮮な曲さえある(これらの歌は、たぶん現在はコンピレーションCDで聴くことができる)。その後<卒業>、<黒の舟歌>などのヒット曲も、『サンデー・サンバ・セッション』のような楽しいアルバムもあったが、レコード会社の販売戦略もあったのか、徐々にポピュラー曲寄りで、長谷川きよし本来の美質が生かされていないような歌曲や演奏が増えてゆく。優れた自作曲も減り、迷走しているな、と当時感じた私は、確か70年代の後半、九段会館で行なわれたエレキバンドが参加したコンサートを最後に、彼を聴くのをやめたように思う。もう自分の好きな長谷川きよしの世界ではなくなっていたからだ。

ACONTECE
(1993 Mercury)
その後80年代には、歌手としてもいろいろと苦労したようだ。そして長谷川きよしと久々に再会したのが、バブルが終わった90年代であり、既に(お互い)40代になっていた。当時フェビアン・レザ・パネ(p)、吉野弘史(b)、ヤヒロトモヒロ(perc)というトリオをバックにしたユニットで活動していたが、NHK BSのテレビ番組にこのユニットで出演したときの演奏は実に素晴らしかった。「あの長谷川きよしの歌」が帰って来たと思った。そしてその最高のユニットでレコーディングしたアルバムが『ACONTECE(アコンテッシ)』(1993)である。共演陣の素晴らしさもあって音楽的完成度が高く、歌に集中した長谷川きよしの歌手としての実力がもっとも発揮された最高傑作であり、日本ヴォーカル史に残るレコードだと思う。藤圭子の「みだれ髪」でも思ったが、歌い続けている優れた歌手というのは、若いときの瑞々しい歌ももちろん良いが、技術も声も衰えていない40代の大人として円熟してきた時代が、やはりいちばん歌の表現も味わいも深まる。<バイレロ>、<別れのサンバ>、<透明なひとときを>といった初期の名作に加え、新作<別れの言葉ほど悲しくはない>、さらにいずれも自作の詞を付けたジルベール・ベコーのシャンソン<ラプサン>、ピアソラの<忘却 (Oblivion)>、そして極め付きはカルトーラの<アコンテッシ(Acontece)>で、まさに長谷川きよしにしか歌えない、彼の歌の世界を代表する名唱ばかりである。このCDはその後ずっと再発されずに来たが、今は長谷川きよしのコンサート会場だけで、限定販売されているようだ。

人生という名の旅
(2012 EMI)
その後はライブハウスを中心にした活動を続けていたようだが、2000年代に入ってから、椎名林檎が、あるライブハウスで唄う長谷川きよしを「発見」したことによって、予想もしなかった二人のコラボが実現するなど、再び陽の当たる場所に顔を出すようになった。私もこの時代からまたコンサートやライブハウスに足を運ぶようになった。仙道さおり(perc.)や林正樹(p)をバックにした当時の演奏は非常に楽しめた記憶がある。一時期さすがに衰えを感じたこともあったが、還暦を過ぎた近年はむしろ声量、ピッチともに安定し、美しい声も未だに維持していて、昨年出かけたコンサートでは素晴らしい歌を聴かせてくれた。当然だろうが、年齢と共にあの無国籍性も多少薄れ、歌もギターもどこか日本的になってきたように感じるときもあるが、そうは言っても、やはり歌手としての出自とも言える仄暗いシャンソン風弾き語りが、長谷川きよしがいちばん輝く歌世界であることに変わりはない。歌のバックに伴奏を付けるなら、ピアノがいちばん彼の音楽と声質に合うと思う。ギターを弾く手を休めて、歌だけに集中したときの長谷川きよしの歌唱は本当にすごい。私が好きな近年のアルバムは『人生という名の旅』(2012)で、<Over the Rainbow>や2010年のヨーロッパでのライヴ演奏も収録されているが、特に40年以上前の<歩き続けて>のカップルが、歳月を重ねた後のような<夜はやさし>が、優しくしみじみとしてとても良い曲だ。この曲はライヴで聴いたときも素晴らしかった。

エンタメ全盛の今は、テレビ番組にもレギュラー出演していろいろな歌を唄ったり(唄わされたり)しているし、YouTubeでも、画面にアップになったギターテクニックを含めた長谷川きよしが見られるが、やはり彼の真価はライヴ会場で唄う歌とギターにこそあり、歌手としての本当の実力もよくわかる。コンサート(小規模会場が良い)やライブハウスで、生で、身近で、彼の素晴らしい歌とギターを聴くのがいちばん楽しめるので、未体験の人は、近くで機会があれば、ぜひ一度出かけてみることをお勧めしたい。藤圭子やちあきなおみの歌はいくら素晴らしくとも、もはや二度と生では聴けないが、長谷川きよしはまだ現役の、それも「本物の」歌手であり、あの美声とギターで今も元気に唄い続けているのだから。