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2017/10/23

モンクを聴く #10:Les Liaisons Dangereuses (1958-59)

TILT
Barney Wilen
(1957 Swing/Vouge)
ジャズとパリとの関係は、50年代後半のフランス映画が象徴的で、ケニー・クラークやパド・パウエルをはじめとする多くのジャズメンも、パリに移住するなど、ジャズとミュージシャンたちを温かく迎え入れたこの街を愛した。ところがモンクは、1954年の初訪問だったパリ・ジャズ祭での評判が散々だったこともあって、その後1961年に初のヨーロッパ・ツアーで再訪するまで一度もパリを訪れていない。しかしモンクをパリに連れて行ったアンリ・ルノーのように、フランスには1940年代のブルーノート録音時代からモンクに注目していた現地のミュージシャンもいたのだ。フランス人テナー奏者バルネ・ウィラン (1937-96) も19歳のデビュー・アルバム 『ティルト TILT』19571月録音)で、早くもモンクの曲を6曲も取り上げ(LPで<Hackensack>、<Blue Monk>、<Misterioso>、<Think of One>の4曲、さらにCDで<We See>、<Let's Call This>の2曲追加)、モダンで滑らかなモンク作品のフランス流解釈を披露している。驚くのは、この録音がスティーヴ・レイシーの全7曲のモンク作品による『REFLECTIONS』(195810月録音)の19ヶ月も前だということだ。調べたことはないが、モンク本人との共演を除き、モンクの作品をこれだけ取り上げたホーン奏者はバルネ・ウィランが世界初だったのではなかろうか? ウィランはつまり、それ以前からモンク作品の研究をしていたということだろう。

Les Liaisons Dangereuses 1960
(1959 Rec/2017
Sam Records/Saga Jazz)
第19章 p371-
バルネ・ウィランとモンクとの関係については、本ブログの4/144/18の「危険な関係サウンドトラックの謎」、「バルネ・ウィラン」両記事で詳述している。ところが、ロビン・ケリーの本に詳しく書かれているフランス映画『危険な関係』サウンドトラックの逸話と、その後自分で調べた真相(?)に関するこの記事を書いた時点では知らなかったのだが、1959年にモンクとウィランが共演し、サウンドトラックとしては使われたが、レコード化されなかった未発表音源が今年2017年になって初めてリリースされていたのである。それが2枚組CD『Thelonious Monk - Les Liaisons Dangereuses 1960』 (Sam Records/Saga Jazz)で、ロビン・ケリーも含めた数人の解説者による60ページ近いブックレットを読むと、さらに細かいが面白い話が色々と書かれている。このブックレットには、録音内容を記録したメモや、ノラ・スタジオでの録音風景を撮影した写真もたくさん掲載されており、麦藁帽子(本書に逸話が書かれているように、これは中国製ではなく、アフリカの打楽器奏者ガイ・ウォーレンが送ってきた北部ガーナの農民の帽子だ)をかぶったモンクとレギュラー・メンバーの他、客演した当時22歳のバルネ・ウィラン、さらにネリー夫人、ニカ夫人の姿も写っている。これだけでも非常に貴重な史料だ。

この音源は、ロジェ・ヴァディムの『危険な関係』の音楽監督だったマルセル・ロマーノ(1928-2007)の死後、ジャズマニアの友人が保管していたロマーノのアーカイブの中から、2014年に55年ぶりに「発見」されたものだという。ロマーノはフランスのジャズ界では著名な人物で、1950年代にはバルネ・ウィランのマネージャーもしていて、ロビン・ケリー書の記述では1957年にNY「ファイブ・スポット」でモンクと会ったという話だが、実は1954年のモンクの初来訪時に既にパリで会っていたという(ウィランの上記アルバムでのモンク研究の痕跡を見れば、マネージャーだったロマーノがモンクと会っていてもおかしくない)。そのロマーノの残したテープの中に、ウィランの未発表音源がないかどうかFrancois Le Xuan Saga Jazzの創設者)と友人のFred ThomasSam Recordsの創設者)が探しているときに偶然そのテープを見つけたのだという。1958年夏に、ロジェ・ヴァディムとロマーノはモンクにサウンドトラック作曲の申し入れを行なったのだが、モンクはなかなか受け入れようとしなかった。1959年の夏、映画完成の直前になってようやく承諾したものの、サウンドトラック向け新曲は結局1曲も書けずに、既存の自作曲を録音することになったが、これはその時の演奏を録音したテープだったのだ。

実は、モンクは1958年10月デラウェア州でニカ夫人、チャーリー・ラウズと一緒に、麻薬所持を理由に警察による逮捕、暴行被害に合い、その後精神的に不安定になってしばらく入院していたが、その時またもや(3度目である)警察にキャバレーカードを無効にされ、ニューヨークのクラブで仕事ができなくなった。さらに翌1959年2月には、モンクが期待し、精魂込めて取り組んだ「タウンホール」のビッグバンドのコンサート後、批判的な論評に怖気づいたリバーサイドが、予定していた8都市のコンサート・ツアーをキャンセルしたために、モンクには唯一の収入の見込みがなくなってしまったのだ。精神的に落ち込んだモンクは、4月にはボストンのクラブ「ストリーヴィル」出演後行方不明になって、グラフトン州立精神病院に収容され、その後抗精神病薬の治療を受けるようになった。それやこれやで、この映画音楽の依頼を受けた当時、モンクはとても新しい曲を書けるような精神状態になかった、というのが本ブックレットでロビン・ケリーが述べている見方で、このいきさつは本書にも書かれている。

仏映画「危険な関係」
第19章 p371-
1959727日にNYノラ・スタジオで録音されたステレオ音源は、モンク、チャーリー・ラウズ(ts)、サム・ジョーンズ(b)、アート・テイラー(ds)という当時のレギュラーカルテットに、直前のニューポート・ジャズ祭でアメリカデビューを果たしたバルネ・ウィラン(ts) が客演した2テナーのクインテットによるものだ。お馴染みの曲が中心だが、リバーサイド時代のモンクには、このレギュラー・カルテットを中心にしたスタジオ録音は1作(『5 by Monk by 5』)しかないので、その意味でも貴重な録音だ。
2枚のCDの収録内容は以下の通り。
<CD1> Rhythm-a-Ning/ Crepuscule with Nellie/ Six in One (solo)/ Well, You Needn’t/ Pannonica (solo)/ Pannonica (solo)/ Pannonica (quartet)/ BaLue Boliver Ba-lues-Are/ Light Blue/ By and By (We'll Understand It Better) 
 <CD2> Rhythm-a-Ning(alt.)/ Crepuscule with Nellie (take 1)/ Pannonica (45 master)/ Light Blue (45 master)/ Well, You Needn’t (unedited)/ Light Blue (making of)

このテープは、翌728日、29日のアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズによる演奏(こちらは<No Problem> などのデューク・ジョーダン作品)を収録した録音テープと一緒に、ロマーノが映画の完成に間に合わせるために急いでパリに持ち帰ったものだ。映画冒頭のタイトルバック<クレパスキュール…>や<パノニカ>をはじめ、これらの演奏は映画中で何度も使われている。特筆すべきは、おそらくロマーノ所有のマスターテープの保存状態が良かったために、多分あまり加工していないこのステレオCDの音は非常にクリアで、音場も良く、モンクのピアノも、各メンバーの楽器もボディ感のある鮮明な音で再生できることだ(同時発売のアナログ盤はきっとさらに良いのだろう)。リバーサイド時代のモンク作品の録音は、どれもいまいちのように思うが、その中で比べても一番良い音だと思う。このセッションは、モンクにとってリバーサイド最後のスタジオ録音となった『5 by Monk by 5』 録音(19596月)の直後で、モンクの体調も回復し、チャーリー・ラウズがようやくモンクの音楽に馴染んだ頃でもあり、ラウズのプレイも非常にスムースだ。モンクとの最初にして最後の共演となった若きバルネ・ウィランは時々トチっている部分もあるが、4曲に参加して堂々とプレイしている。おそらくアンニュイな映画のイメージを意識したのだろう、ほとんどの曲がテーマ中心に比較的短く、かつゆったりとしたテンポで演奏されている。印象的な<Six in One>は、この時名付けられたモンクのソロによる即興のブルースで、同じ年10月のSFでのソロアルバムで、多少変形されて<Round Lights>として演奏された曲だ。CD2の<Light Blue>メーキングでは、アート・テイラーのドラムスのリズムを巡って、延々と続く(?)スタジオ内のモンクたちの会話も捉えられている。

1960年に公開された映画『危険な関係』がヨーロッパで大ヒットしたこともあり、翌1961年に7年ぶりにパリを再訪し「オリンピア」劇場で公演したモンクは54年の時とは打って変わって熱狂的な聴衆に迎えられた。当時アメリカでもようやく名声を高めていたモンクは、文字通り凱旋を果たしたのである。パリは、1954年のニカ男爵夫人との出会いがあり、愛弟子バド・パウエルが暮らしていた場所でもあり、その後のモンクの人生に大きな影響を与えた街だった。