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2017/09/24

「作曲家」セロニアス・モンク #2

Thelonious Himself
1957 Riverside
モンクは、自分が作った曲の解釈と演奏方法、とりわけ表現すべき「サウンド」に、作曲者として絶対的な確信を持っていたのだと思う昔から言われているように、一人で曲の全体像を表現できるピアノ・ソロがモンクの音楽にとって最善のフォーマットであり、一方バンドでモンクの曲を演奏するサイドマンたちへの要求が人一倍厳しかったのもそれが理由だろう。モンクの曲そのものが持つ難解さとは別に、異なる音楽思想を持ったマイルス・デイヴィスとの意見の衝突や、他のプレイヤーがモンクの曲を演奏するのがいかに難しかったかという多くの逸話も、自分の曲をきちんと演奏できる奏者がいないことをモンクがしばしば嘆いていたのも、そう考えるとよく理解できる。また本書に何度も出て来るように、モンクは自分が作った曲の楽譜を詳細に書き込んでいた。にもかかわらずエリントンやミンガスと同じく、ミュージシャンたちにその楽譜を見せずに、常に音だけ聞かせてメロディを習得させるという徒弟制度のような指導、共演方法を取っていた。その理由も、自分の曲は譜面を見てコード進行を覚えるように頭で理解するのではなく、まず曲のメロディをフィーリングで身体に浸み込ませて欲しい、でないとモンクが期待し、こうだとイメージしている「サウンド」が表現できないのだ、という強烈な自信と信念によるものだったのだろう。

ジャズの場合、既存の曲をモチーフにして曲を作ることも多いが、いずれにしろ「作曲」とはほとんどゼロから音楽を生み出すという創造行為である。ポピュラー曲のように、コード進行によって曲の基本的枠組みが決まっている既存の素材を、プレイヤーが独自に「料理」する伝統的なジャズ即興演奏とは違う想像力と創造力がそこでは必要とされる。メロディ、ハーモニー、リズムを周到に組み合わせて配置する作業(composition)から生まれた、曲のメロディとリズムへの強いこだわり、カウンターメロディの多用、音を間引いたオープン・ヴォイシング、半音階のコード進行、全音音階のランによる「不協和」な音の響き、ポリリズム的な多層リズムによるアクセントの「ずらし」の感覚、長い休符(間)による「無音の効果」の強調、ぎざぎざした極端な音程の跳躍によって生み出すアブストラクト感と意外性、一貫性のある構築的な印象を与える演奏、等々……本書にも書かれているモンクの「演奏」に特有のものだと思われている数々の特長も、「作曲家が、自分の理想のサウンドを探求する過程から生まれた演奏上のアイデアであり技術だ」と解釈すれば、すべて納得がゆく。そして演奏技術においては、天性の音感とリズム感に加え、ストライド・ピアノの先達たちの持っていた左手の使い方と、コード進行ではなく「メロディを基にした無限の変奏」という即興コンセプトを継承したことによって、独自のパーカシブな奏法とヴァリエーションの展開という個性を開発し、ピアノの持てる機能を最大限に使って自らの「サウンド」を表現しようとしていた。モンクは、こうして作曲と演奏の両面で独創的世界を築き上げたのだ。しかも、その音楽が意図的に奇を衒って作られたようなものではなく、聴き手の感性をも開放する、あのモンクの持つ「自由」を指向する精神から自然に生まれているところが素晴らしいのである。批評家ポール・ベーコンが言ったように、まさに「それは、モンクが全体として普段からどういう物の考え方をしているのかという結果であって、小節がここで、ブリッジがそこで、とかいう問題ではないのだ」。

The Transformer
 2002 Thelonious Records
ビバップ、クール、ハードバップ、モード等々、流行したどんな「スタイル」のジャズにもモンクが同調せず、どんな共演相手であろうと、どんなスタンダード曲の演奏であろうと、常に自分の音楽を演奏し続けたのも、モンクが何より「作曲」という、音楽上もっとも知的で創造的な行為の真の遂行者だったからに他ならない。リバーサイドの「セロニアス・ヒムセルフ」における<ラウンド・ミッドナイト>のソロ演奏を仕上げる過程や、スタンダード曲をモンク流に解釈し再構成した演奏も、そのアプローチは直観による即興というより常に作曲的であり、本書に出て来る<I’m Getting Sentimental Over You>のモンク的解釈とアレンジの過程もその具体例である。その時(1957年春)ネリー夫人が自宅で録音した80分以上に及ぶソロによる試行のテープと、その後モンクがコンボによるコンサートの場で行なった演奏までの「変容」の記録を、ロビン・ケリーとThelonious RecordsCD化した2枚組アルバム「The Transformer」(2002年、ルディ・ヴァン・ゲルダーによるリマスター) を聞けば、その過程が一層はっきりとわかる。またネリー夫人に捧げた<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>を、数ヶ月かけて作曲する過程の逸話も同じだ。つまり初期のハーモニー解析へのアプローチがそうだったように、曲作りも、アレンジも、モンクは常に長い時間をかけ、何度も実験を重ね、練りに練った音を譜面上に一つ一つ置きながら、独自の音楽を作品として「凍結」していたのである。ホイットニー・バリエットの言葉を借りれば、モンクのインプロヴィゼーションとは、まさにその「解凍」作業だったのだ。しかも、その解凍の手法は毎回異なっていた。だから残されたレコードでの演奏は、数多いモンクの解凍作業の一つを「缶詰」にしたものに過ぎないとも言える。モンクの本当の仕事場だったクラブでのライヴ演奏は、当然ながらずっと鮮度も高く、味わいも深かったことだろう。コルトレーン、ロリンズ、グリフィンたちとの「ファイブ・スポット」における毎夜の「解凍作業」がどれだけエキサイティングなものだったかは想像もつかない(おまけにそこでは、モンクのアクション・パフォーマンスまで見られたのだ!)。一方、モンクの「作品凍結」作業の現場は、おそらくロスチャイルド家が保有している未公開のニカ夫人の録音テープの中に、まだ数多く残されていることだろう。

この「独創を常に指向する作曲家」という資質をキーワードと考えれば、リー・コニッツがインタビューの中で述べている「チャーリー・パーカーは即興の名人というよりも、実はメロディ(フレーズ)を創り出す天才的作曲家だった」という趣旨の見解とも通じるものがある。そしてこれが、作曲家デューク・エリントン直系の系譜にモンクがいること、同じく作曲家だったチャールズ・ミンガスがモンクを崇拝していたこと、またセシル・テイラーやオーネット・コールマンのようなアヴァンギャルドの音楽家(彼らも作曲家=composerである)の始祖がモンクだとされる理由でもある。ということはつまり(今更だが)、モンクは時代ごとの演奏を記録したディスコグラフィーとその個々の評価以上に、生涯で70曲以上に及ぶ作品(曲)リストの方が、重要で意味がある音楽家だということである。そしてエリントン以降、モダン・ジャズの歴史上これほど多くの優れた、かつ独創的な作品、それもジャズ・スタンダード曲を作ってきた音楽家はいないのだ。モンクのレコード(「演奏」の記録である)に、マイルスやコルトレーンやエヴァンスのような「奏者」としての決定的とも言える名盤がないこと、その代わりどのレコードで、どんなフォーマットで、何を演奏しても、常にそれはモンクの音楽であり、かつモンク的水準を超えていて駄作や駄演がないことも、そう考えれば合点が行く。だから1960年代以降、新たな曲作りが徐々にできなくなったために、限りのある既存の自作曲の解釈がついにはマンネリ化し、批判されるようになったという理由もわかる。マイルス・デイヴィスのように、時代に合わせて演奏のスタイルを変化させながら音楽自体を大胆に変貌させてゆくことができなかったのも、頑固さや能力の問題ではなく、モンクが単なるアレンジャーでもインプロヴァイザーでもない、20世紀半ばを生きた自分自身の音楽を創造する作曲家だったからだ。

ジャズとは瞬間に生まれる「場と時間」の音楽であり、それゆえ素材である曲よりも、その場における奏者の解釈と即興演奏にこそ価値があるという暗黙の前提があるので、モンクに関するこれまでの一般的分析や評価も、残されたレコードによる演奏記録に偏ってきたという側面もある。しかしスティーヴ・レイシーに始まる一部のジャズ・ミュージシャンたちは、モンクをジャズのすべての要素を包含した大音楽家として捉え、モンク的世界をどう解釈し、いかにして自身の音楽として消化するか、という探求をこれまでも、そして現在でも行なっている。モンクとはそういう存在であり、またその音楽にはいかなる解釈をも許容する懐の深さと自由がある。モンクは単なるジャズ・ピアニストを遥かに超えたスケールを持つ音楽家だったのであり、米国におけるモンクの死後の評価も、当然ながらエリントンと並ぶ「ジャズ作曲家」としてのモンクである。

Monk's Music
1957 Riverside
1950年代に入っても<リトル・ルーティ・トゥーティ>、<ブルー・モンク>、<リフレクションズ>、<ブリリアント・コーナーズ>、<パノニカ>、<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>、<リズマニング>、<ジャッキーイング>などの名曲をモンクは数多く書いている。しかし本書で描かれているように、1960年代になると、年齢のみならず、ドラッグと精神や肉体の病のために創作エネルギーが徐々に衰え、数曲を除き、40年代から50年代にかけてのような独創的な作品をモンクは生み出すことができなかった。したがって60年代に入ってから急に高まった世の中の認証とは別に、作曲家モンクの絶頂期と言えるのは、1941年のケニー・クラークとの共作<エピストロフィー>に始まる約20年間だったと言えるだろう。また「作曲と即興」というモンク独自の音楽が最高度の次元に達していたのが言うまでもなく1950年代後半だった。そして創作のインスピレーションと意欲がさらに衰え、曲作りがほとんどできなくなった1960年代後半からの時期は、「やむなく」奏者としての活動を続け、そこでは依然モンク的水準の演奏を維持してはいたものの、「作曲」という音楽家としてのモンクを支えてきた真の基盤をほぼ失っていたとも言える。その後1970年代初めにウィーホーケンのニカ邸に引きこもり、76年に完全に引退して82年に亡くなるまで、モンクが自分の分身のごとく愛したピアノに一切触れようともしなくなったのは、時代や、精神や肉体の病のために奏者としての演奏意欲がなくなったということ以上に、もはや曲を創作できなくなった「作曲家」としての自分自身に絶望していたことが最大の理由ではなかったのか、というのが本書を読んだ私の想像である。なぜなら、音楽家モンクの創造力のすべてを注ぎ込む容器だったピアノに注ぐべきものが、永遠に失われてしまったからだ。

2017/09/15

「作曲家」 セロニアス・モンク #1

Brilliant Corners
1956 Riverside
「セロニアス・モンク 独創のジャズ物語」のロビン・ケリーの原書には、モンクのアルバム、映像作品の簡単なリストが参考資料として巻末についているだけで、詳細なレコード情報などはない。ただし、初録音情報などを記した自作曲のリストがある。既述のように、この本はモンクの音楽やレコードの分析を主題にしたものではなく、またその種の本は既にいくつも書かれているので、著者も敢えて付け加えるつもりはなかったのだろう。ただし本文中には、年代ごとにレコーディング・セッションと演奏曲に関するかなり詳細な記述がある。しかし、それらは文章の流れの中で触れており、またジャケット写真を含めてリリースされたレコードに関する情報がほとんどないので、読んでいてどのレコードなのか具体的に知りたいと思う読者もいることだろう。今はインターネットで調べればほとんどの情報は個別に辿ることができるが、それでは読者に不親切なので、コニッツの本と同じくジャケット写真付きの簡単なディスコグラフィーを作成して、巻末に参考用として添付しようかと思っていたが、既述の通り大部の本となってしまい、ページ数の制約もあるので、自作曲のリスト共々今回は難しいということになった。そういうわけで、モンクの代表的レコードについて、本書を参照しながら時系列で確認できるようなレコード・ガイドをこのブログ上で書こうかと考えていた。ところが、考えているうちに、それは何か違うのかなと思い始めた。モンクには「ブリリアント・コーナーズ」のような傑作とされる名盤も確かにあるのだが、それは、例えばマイルスの「カインド・オブ・ブルー」やコルトレーンの「至上の愛」、ビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビー」のような、誰もが思いつくジャズの決定的名盤とは、一般的人気度という見方は別にしても、どこか「性格」が違うでのではなかろうかという疑問である。

リー・コニッツの時と同じく、モンクの本を翻訳中ずっとモンクのレコードを聴きながら作業していたのだが、何度も繰り返して聴いているうちに改めてその感を深めたことがある。それは、モンクの演奏は1940年代のまだ若い時も、中年になった1960年代も、音楽の骨格そのものにはほとんど変化がないということだ。普通のジャズ・ミュージシャンは、年齢と経験を重ねてゆくうちに、時代と共にその演奏スタイルやサウンドも徐々に進化あるいは変化してゆくものだ。ディスコグラフィーに沿った年代別の聴き方をしていると、素人耳にもそれははっきりとわかるもので、聴き手としてはそこがまたジャズの面白い部分でもある。ところがモンクは、初のリーダー作である1947年のブルーノート録音の時から既にモンクそのもので、最後のスタジオ録音となった1971年のブラック・ライオンの「ロンドン・コレクション」に至るまで、音楽上の造形にはほとんど基本的に変わりがないように聞こえる。もちろん年代や、録音時のコンディションや、共演相手によって演奏には当然ある程度の変化はあるのだが、基本的には30歳代も50歳代の音楽も一緒なのだ。要するに、モンクは最初からずっと「素晴らしくモンク」なのである。本人も、またネリー夫人も語っていたように、何十年も前と何も変わったことはやっていないのに、1950年代の終わり頃になってから音楽家として急に脚光を浴び、世間の認証が得られたのは、「世の中のモンクの聴き方」の方が変化したからだ、ということなのだろう。ジャズ・ミュージシャンとしてこれは特異で驚くべきことに違いないし、ジャズ史にこのような人物は他にはいない。

プロのジャズ・ミュージシャンや批評家、真にコアなモンクファンを別にすれば、おそらく普通のジャズファンは、レコードを聴きながらジャズ・ピアニストとしてのモンクの演奏を楽しみ、聴いているのではないかと思うし、私もこの本を読むまでは長年そういう聴き方をしていた。もちろん作曲家であることも、<ラウンド・ミッドナイト>や<ルビー・マイ・ディア>のような名曲の作曲者であることも知識としては当然知ってはいたが、レコードを聴くときは普通のジャズ・ピアニストを聴くときのように聴いていたし、同じ曲を何度も取り上げていても、代表的レコードから聞こえてくるその個性的な演奏の魅力を単に楽しんでいた。モンクの音楽を分析的に聞いたところで(しかもド素人が)少しも面白くないし、モンクにしかないあの開放感と不思議なサウンド、リズム、メロディを素直に楽しむのがいちばんいいからだ。しかし上述の自分の観察から、またこの本を読んで改めて理解したのは、モンクという音楽家はピアニスト以前に、本質的にまず「作曲家=composer」なのだということだった。

モンクは、即興演奏だけの単なるジャズ・ピアニストではなく、コンポーザー(作曲家)、アレンジャー(編曲者)、インプロヴァイザー(即興演奏家)という3つの資質を併せ持った稀有なジャズ・ミュージシャンだと言われている。タッド・ダメロンのようなビバップの作曲家もいるが、演奏家としてはモンクのような存在感はなく、またジャズの巨人と呼ばれてきた人たち、例えばマイルス・デイヴィスは作曲より、むしろ常に曲と演奏の全体的構造を考えるアレンジャーとしての資質が強く、ジョン・コルトレーンやソニー・ロリンズはほぼ真正のインプロヴァイザーだったと言えるだろう。そしてビル・エヴァンスやキース・ジャレットのようなピアニストを含めて、大方のジャズ・ミュージシャンはこのインプロヴァイザー型である。しかしクラシック音楽の世界では、モーツァルトやベートーヴェンの時代までは、音楽家は一人でこの3つの技術を持っているのが当たり前だったが、その後の歴史でこれらは徐々に分化し、曲を作る人、演奏する人、さらには全体の指揮をする人というように、専業化が進んで今のようになったと言われている(ただしショパンのように、ピアニストの一部には自作曲を演奏した音楽家もいた)。ジャズも初期の段階では、これらの技術は未分化だったが、クラシック同様に徐々に作曲(ポピュラー曲)、編曲、演奏という分化した専門技術から成る音楽となって行ったようだ。ジャズの始祖とも言われるバディ・ボールデンの後、それらの技術を一人で「統合」し、多くの有名曲を作り、編曲し、ピアノを通じてビッグバンドという自らの「楽器」を指揮することで、黒人音楽の伝統の上に高度な水準の音楽を創造した史上初の「ジャズ音楽家」が、スウィング時代に現れたデューク・エリントンである。ジャズ史におけるエリントンの偉大さはそこにあり、そして曲を単なる素材にした即興演奏の価値が一層重視されるようになったビバップ以降のモダン・ジャズ時代に、この3つの要素を統合し、一人3役の能力を持った音楽家として登場したのがセロニアス・モンクなのである。エリントンがモンクの音楽を直ちに理解したこと、モンクとエリントンの互いへの敬意を示す本書中のいくつかの逸話は、したがって非常に説得力のあるものだ。

Genius of Modern Music
1947- 52 Blue Note
モンクは1930年代から既に作曲を始めていたようだが、驚くことに、モンクの作った有名曲の多くが、まだ若かった1940年代(20歳代)に既に作曲されている。本書で描かれているようにモンク初のリーダーセッションとなったのが、1947年モンク30歳の時に、これらの自作曲を引っ提げて臨んだブルーノートへのスタジオ録音である。ブルーノートのアルフレッド・ライオンたちは、194710月から11月にかけて、セクステット、トリオ、クインテットで計3回、19487月にミルト・ジャクソンを入れたカルテットで1回、その後しばらくして19517月に同じくクインテットで1回、最後の録音となった19525月のセクステットで1回、と都合6回の録音セッション(78回転SP盤)を行なっている。1947年の録音では、<ルビー・マイ・ディア>、<ウェル・ユー・ニードント>、<オフ・マイナー>、<イン・ウォークト・バド>、<ラウンド・ミッドナイト>などが、1948年録音では<エヴィデンス>、<ミステリオーソ>、<アイ・ミーン・ユー>、<エピストロフィー>などが、1951年録音には<フォア・イン・ワン>、<ストレート・ノー・チェイサー>、<クリス・クロス>、<アスク・ミー・ナウ>、1952年録音には<スキッピー>、<ホーニン・イン>、<レッツ・クール・ワン>などが収録されている。こうして録音リストを見ると、実は上記ブルーノートにおける録音の時点で、モンクは既に自身の「名曲」の大半を作曲していたことがわかる。したがってこれらブルーノートの初期セッションをLP時代にまとめたレコード「Genius of Modern Music Vol.1,2,3」(Vol.3はミルト・ジャクソン名義)こそ、まさに音楽家セロニアス・モンクの原点だと言える。聴いていると、これらの演奏が1940年代の大部分の聴衆の耳には、あまりに先進的かつ個性的に聞こえ、理解できなかったという話もよくわかる。そして、上記セッションで気づくもう一点は、モンクが、ソロ以外のすべての演奏フォーマット(トリオ、カルテット、クインテット、セクステット)で録音していることだ。ブルーノートはメンバーの構成、人選を当初モンクに一任していたので、ビバップとは異なるコンセプトで自作してきた曲が、それぞれのフォーマットでどのような「サウンド」になるのか、モンクはひょっとして初期の録音の場で周到に実験していたのではないだろうか(あくまで想像です)。

At Town Hall (Live)
1959 Riverside
こうした1940年代のキャリアから見ても、モンクをモンクたらしめているのは何よりも作曲家 (composer) の資質だと言えるだろう(ただし本書に書かれているように、ピアノ奏者としてなかなか認められなかった当時の状況が、結果的にモンクの創造エネルギーをより作曲に向かわせたという一面はあるかもしれない)。そしてエリントンが自らのオーケストラで追求したように、モンクはソロの他に、トリオ、コンボ、さらには後年の「タウンホール」のビッグバンドなど、様々なアンサンブル・フォーマットで、これらの自作曲を「再解釈」しながら、新たな「サウンド」を探求し続けていたのだろう。つまり何よりも「作曲」こそが、モンクという音楽家の真のアイデンティティであり、音楽上の基盤だった。本書に書かれている1959年の「タウンホール」コンサートの準備段階で、モンクと編曲者ホール・オヴァートンの会話を録音したテープは貴重な記録だ。そこでモンクの曲を習得していたオヴァートンに対して、「聴くのは曲じゃない、サウンドだ」と語ったように、自身が作った「曲の構造とメロディ」から生み出し得る様々な「サウンドの可能性」を探求するために、モンクは生涯にわたって自作曲を数限りないヴァリエーションで解釈(アレンジ)し、演奏(インプロヴァイズ)し続けていたのだということが、ド素人の私にも「ようやく」分かったのである。

モンクの音楽は様々に語られてきたが、その全体像を短い言葉で的確に説明するのは不可能だろう。しかし唯一、1982年のモンクの死の直後、ジャズ批評家ホイットニー・バリエットが述べた、「モンクのインプロヴィゼーションは彼の作品が融解したものであり、モンクの作品は彼のインプロヴィゼーションを凍結したものだ」という比喩はまさに至言だと思う。「作曲と即興」が可逆的に一体化したものこそがモンクの音楽の本質だという見方である。普通の耳には摩訶不思議に響くのも、誰にもまねができないのも、思考するジャズ・ミュージシャンをいつまでも触発し続けるのも、そのような音楽は他に類例のない存在だからだ。そしてそこが、与えられた曲を単なる素材にして、自身のアレンジや即興演奏で様々に解釈する「普通の」ジャズ・ミュージシャンとモンクが根本的に違う部分なのだ。

2017/09/07

東京ジャズでリー・コニッツを「見る」

93日(日)の「第16回東京ジャズ」昼の部に出かけた。東京ジャズは2014年以来で、その年はオーネット・コールマンが出演するというので、最後の姿だろうと思って丸の内の東京国際フォーラムまで行ったのだが、何と大ホールに入場してから突然アナウンスがあり、病気のためにコールマンが来日できなくなったという。急遽プログラムを変更して、コールマンの出番は小曽根真がMCで仕切った参加ミュージシャンたちによる即席の大ジャムセッションとなった。これはこれでハプニングが付き物のジャズらしくて非常に楽しく、その時のステージを堪能したことを覚えているが、残念ながらそのコールマンは翌年6月に亡くなってしまった。今はネット映像で何でも見られる時代だが、マイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンス、キース・ジャレットのような人たちをライヴで見た経験から言うと、ジャズファンにとって、生きている(本物の)ジャズの巨人を実際に目にする機会はやはり貴重で、一生記憶に残るものだ。ライヴで聞いた音の記憶はすぐに薄れるが、目で見たことはいつまでも覚えているものなのだ。

東京ジャズは今回から場所を渋谷に移し、Hall/ Street/ Clubという3会場がNHKホール代々木公園ケヤキ並木/ WWW(X)の3箇所になった。ところが当日の代々木公園では「渋谷区総合防災訓練」というイベントが同時に行なわれていて、NHKホール横のケヤキ並木と広場周辺では、緊急時の防災グッズを並べた白いテントが林立し、自衛隊による炊き出し(カレー)に長い行列ができ、お祭りの露店なども出ていて、あたりは人で一杯だった。ジャズ祭というのは、いわば「楽しい非日常」の世界だと思うが、防災訓練はあまり楽しくない非日常を想定した催しだ。どちらも非日常だが、これが同時に同じ場所で開催されるとミスマッチの極みで、まさに会場はchaosだった。私の印象ではストリート会場の雰囲気は、いろんな人が入り乱れていて、どう見てもジャズ祭には見えなかった。ステージの奏者もやりにくかったのではないかと思う。避難民の横で呑気にジャズなんか演奏したり聞いている場合か…というような思いがどうしても浮かんで来るのだ。したがって、きれいな丸の内のおしゃれな大人のジャズ祭というイメージだったのが、すっかり庶民的(?)な貧乏くさいムードになってしまい、しかもどう見ても主催者の言う若者の町で…という雰囲気でもない。非常に残念なことで、この日程はどうにかならなかったのだろうか。 

とはいえ、一歩NHKホールの中に入れば、もちろんそうしたchaosとは無縁のジャズの世界ではある。昼の部の最初のセットは ”Celebration” と題して、ジャズ100年(これはジャズが初めて「録音」されてから、という意味らしい)を振り返る企画で、狭間美帆指揮のデンマークラジオ・ビッグバンドと、フィーチャーされたアーティストが時代を代表するジャズを演奏するという趣向だ。ニューオリンズから始まり、スウィング、ビバップ、クール、(ハードバップやモードは多分時間の都合で飛ばして、いきなり)フリー、フュージョン、そして現代という区分けで、ビバップは日野皓正(tp)、クールはリー・コニッツ(as)、フリーは山下洋輔(p)、フュージョンはリー・リトナー(g)、現代はコーリー・ヘンリー(key)という人たちがフィーチャーされた。ニューオリンズのトレメ・ブラスバンドの賑やかなオープニングでコンサートが始まり、アモーレ&ルルが華麗なスウィング・ダンスを披露し、話題の(?)日野皓正は、うっぷんを吹き飛ばすかのように<チュニジアの夜>を圧倒的なエネルギーで豪快に吹き切り、リー・コニッツが登場し(後述)、ピアノに火を付けて燃やしながら演奏した、あの70年安保の時代の映像を写したスクリーンをバックに、山下洋輔が相変わらずパワフルなピアノを聞かせ、リトナーも懐かしいあのギター・テクニックを見せてくれ、ヘンリーは実に今風のサウンドをキーボードで美しく響かせた。これらのセッションはいずれも聞きごたえのある演奏で楽しめたが、特にビッグバンドを自在に操りながら、フィーチャーされた各ミュージシャンを引き立てる狭間美帆の「堂々たる」指揮(バンマス)ぶりには感心した。山下洋輔の教え子で作曲家兼アレンジャーらしいが、まだ若いのにアメリカでも高い評価を受けているようだし、優れた才能を感じさせる人だ。山中千尋もそうだが、今の日本の女性は音楽でも世界に飛び出して活躍していて本当に頼もしい。狭間美帆の音楽は、7月に大西順子とコラボしたモンクの音楽を取り上げたライヴを聞き逃したが、次に機会があればぜひまた聴いてみたい。斬新なアレンジによる現代のビッグバンド・ジャズは、サウンドがパワフルかつ新鮮で、聞いていて非常に楽しくて気持ちがいい。優れた作曲家やアレンジャーが手掛ければ、まだまだジャズを魅力的に掘り下げ、発展させる可能性を大いに秘めているフォーマットだと思った。
2番目のセットはシャイ・マエストロ・トリオ Shai Maestro Trioというイスラエルのピアノ・トリオで、私はこれまで聞いたことがなかった。全体に静謐、クールかつメロディアスなサウンドは、キース・ジャレットのようでもあり、昔聞いたノルウェーのヘルゲ・リエン・トリオを何となく思い出しながら聞いていたが、トリオが生み出す独特のメロディ、リズム、音階にはやはりユダヤ的サウンド特有の世界を感じた。カミラ・メザ Camila Mezaというチリ出身の女性ヴォーカリスト兼ギタリストが途中で加わったが、この人の歌とギターは素朴で、エキゾチックでいながら現代的でもあり、非常に素晴らしかった。このトリオとヴォーカルの生み出すサウンドとグルーヴには独特の響きと美しさがあり、初めて聴いたにもかかわらず、思わず引き込まれてしまうような魅力があった。イスラエル、南米という地理的な広がりだけでなく、ジャズという音楽が持つ懐の深さと裾野の広さ、同時にモダンなビッグバンドと同じく、ジャズの未来の可能性を感じさせる音楽だと思った。続く最後のセットは、チック・コリアとゴンサロ・ルバルカバのピアノ・デュオで、名人2人のインプロヴィゼーションは美しく見事だったが、私はそもそもピアノ・デュオというフォーマットそのものが昔から苦手なので、この演奏は普通に楽しんだだけだ。ピアノは他の楽器に比べるとそれ自体でほぼ完成されていて、1台だけであらゆるサウンドが出せる万能感のある楽器だ。だからソロなら奏者独自の聞かせどころと全体的な完結感があって聞いていてまだ面白いのだが、2台でやると音数が多過ぎて、2者の対話というより饒舌なお喋りを延々と聞かされているような気がして、ひと言で言うと「うるさい」のである。それが好きな人も勿論いると思うので、まあ、これは個人的な音楽の好みの問題です。ちなみに今回のコンサートの模様は、10月下旬にNHK BSでTV放送されるということだ。 

実は私が今回の東京ジャズに出かけた一番の目的は、最後の来日になるかもしれないリー・コニッツを「見る」ことだった。2013年の東京ジャズ出演を見逃したので、コールマンの例もあることだし、今回はぜひ見たかったからだ。来月90歳(!)になるコニッツが、上記 ”Celebration” の「クール・ジャズ」のパートになって、おぼつかない足取りで、エスコートの係員に手を引かれて舞台の袖から出て来た瞬間の姿を見ただけで、私の胸は一杯になった。昨年訳書「リー・コニッツ」の原著者アンディ・ハミルトンから、最近は物忘れが激しくなったようだ、という話をメールで聞いていたので、まさか90歳を迎える今年来日するとは夢にも思っていなかったのだ。そこで知人を通じて、東京ジャズの合間にどこかで個人的に会えないかアレンジを依頼していたのだが(自分の訳書にサインでもしてもらって宝物にしたかった)、ご本人が高齢であり、音楽に集中したいので、という理由で残念ながら直接会うことは叶わなかった。だが、とにかく最後になると思われる舞台上のコニッツの姿を見ることができただけで満足だ。コニッツはピアノとのデュオで<Darn That Dream>を吹き、しかも途中で突然スキャット(だったように思う)で歌い出したのだ! コニッツは歌うのが好きで、そのインプロヴィゼーションが歌うことから生まれるという話は訳書にも書いてある。聴衆は突然のことにきょとんとしたような反応だったが、彼をよく知るヨーロッパの聴衆ならおそらく拍手喝采の場面なのだろう。前日に、ある人から教えてもらった2011年のダン・テプファー(p)とのデュオによるヨーロッパ・ツアーの模様を捉えたドキュメンタリー動画(All The Things You Are, MEZZO)をインターネットで見たばかりだったので(コニッツの素顔を捉えたこの映像は貴重で素晴らしい)、今回のコニッツの外見や所作に6年の歳月をつくづく感じた。しかし、揺らめくように「歌う」独特のフレーズと、何とも言えない微妙なテクスチュアを持ったあの音色は健在だった。90年間ジャズに生きた巨匠が紡ぎ出すアルトサックスの響きには、いかなる批評も感想も超越した美しさと深味があった。続いて狭間美帆指揮のビッグバンドともう1曲演奏したコニッツは、最後もよろよろしながら舞台の袖に消えて行った。オペラグラスのレンズを通して見たその姿を、私は決して忘れることはないだろう。