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2017/05/24

ジャズ・レコードから聞こえてくるもの

アンディ・ハミルトンの「Lee Konitz」を翻訳しながら、レニー・トリスターノやリー・コニッツ、ウォーン・マーシュ他のトリスターノ派のミュージシャンたちのレコードをずっと聴いていた(私の場合、手持ちのCD音源を取り込んだPCオーディオなので、好きな部分だけを何回でも繰り返し聴ける)。文章の意味がはっきりしない部分は著者にメールで問い合わせて確認していたが、本文中で録音記録に触れる部分があると、その音楽的背景を知るにはネット情報などの説明だけでなく、実際にそれらの音源を自分の耳で聴いたり、可能ならネット動画で確かめるのがいちばん確実で、それによって翻訳表現もより正確なものになるからだ。半分趣味とはいえ、ジャズ伝記類の翻訳は報われることの少ない仕事だと思うが、一ジャズファンという立場からすると、ジャズという音楽やミュージシャンの人生に関して知らなかったことを新たに発見してゆく楽しみだけでなく、これまで聴いたこともなかったような音源を聴く楽しみも与えてくれるので、苦労も相殺されるように感じている。今現在のジャズを聴く楽しみももちろん捨てがたいのだが、何せ、死ぬまでかかっても聴ききれないほどの膨大な音源が、モダン・ジャズにはまだまだ残されているのだ。それらの中には自分にとって決してカビのはえた骨董などでない、未知の宝物が眠っている可能性もある。その宝の山を掘り返す楽しみは何物にも代えがたいもので、歳を重ね、先が短くなるほど尚更そう感じるようになる。私にとってはジャズに古いも新しいもなく、良いものは良い、ということだけだ。

翻訳中には、こうして聴いていたレコードの情報を確認するために、
信頼性の高い海外のジャズ音楽家別ディスコグラフィー(discography) をいくつかネットで探して参照し、それらのデータを手持ちのLPCDの記載情報や、ネット上のレコード情報と照合する作業も並行して行なっていた。今はネットで個別レコード情報はかなり手に入るが、ミュージシャン別にまとまったものが意外に少ないし、そうした情報には結構いい加減なものも多い。結果として、何となく自分でトリスターノ派ミュージシャンのディスコグラフィー(英語版)を作ることになり、現在入手可能な150件近いトリスターノやコニッツ他の音源情報(LPCD)を表にまとめてみた(下表)。<録音年/アルバム・カバー/タイトル/録音日時・場所/演奏メンバー/演奏曲名/レーベル>をExcelを使って一覧表にしただけのものだが、これはたぶん日本初の試みだろう(今どき、そういうモノ好きな人がいるとも思えないので)。ジャズに興味のない人から見たら、いったい何をやっているのかと思うだろうが、これは、レコードや音源をたくさん所有していた昔のジャズマニアやレコードコレクターなら、たぶん一度は自分で作ってみたり、購入したりしたことがある類のレコード・リストである。私はそこまでのマニアでもコレクターでもないのでやったことはないが、昔なら大変な時間と労力を必要とする作業だっただろう。しかし今の時代は、インターネットとコンピュータを駆使すればあっという間に…とまでは言えないまでも、それほどの時間をかけずとも、そこそこのものを作成することが可能だ。ただし、それはネット上に公開された英語の原データとテキストを使い、そのほとんどを英語のままコピペ、再配列して作成したからで、これを日本語化(カタカナ表記)しようと思ったらさらにどれだけの労力が必要になるか想像したくもない。(これは趣味の世界なので別にどうということもないのだが、こうしたことからも、分野を問わず、ネット上に膨大な言語情報アーカイブを持つ英語圏の国々や人々が、どれだけ情報量も、情報処理速度上も、優位に立っているかよくわかる。つまり、誰でもいつでも参照可能な知的蓄積が他言語とは比較にならないほど膨大だということで、残念ながらこの点で日本語は圧倒的に不利なのだ。)やる以上は、ということで当初は完全ディスコグラフィーを訳書に掲載することを目指していたのだが、最終的には完成本のページ数制約のために、アルバム数を相当削り、また字数の多い演奏曲名部分を割愛せざるを得なかったので、イメージは原リストとは大分違うものになった。

トリスターノ派の音楽や人物に関しては、日本国内の公開情報はもちろんのこと、翻訳を開始した2013年頃にはネット上で公開されていた英語情報さえ非常に限られていた(今は格段に情報量が増えているが)。マイルスやコルトレーンなどの情報は、微に入り細にわたってそれこそ腐るほどあるのに、他にもたくさんいたジャズの天才や素晴らしいミュージシャンたちの音楽や人生の話は、日本ではほとんど表面的で断片的な紹介か、神話や伝説の次元に留まったままなのだ。今のように誰もがネットで情報を入手したり自分から発信できる時代と違い、昔は出版メディアが力を持っており、特に80年代バブル以降は、商業性を優先したメディアが限られた情報だけをあたかもジャズの全てであるかのよう伝えてきたこともあって、70年代までコアなジャズファンが楽しんできたマイナーなジャズやミュージシャンの情報は徐々に忘れ去られていった。パーカーとマイルスだけ聴いていればあとはどうでもいい、というような乱暴なことを言う人たちがいたせいもあるだろう。義憤というほどではないが、「リー・コニッツ」の翻訳を思い立ち、出版にこぎつけたモチベーションの一つは、本の内容の面白さもさることながら、そうした日本のジャズ文化に挑戦しようと思ったことだ。上述した自前のトリスターノ派ディスコグラフィーも、これまで日本では見たこともないものだが、もちろん日本のファンの中には数多くの彼らのレコードを所有し、場合によっては自分でディスコグラフィーを作成したりしている人もいることだろう。しかし訳書「リー・コニッツ」では、何としても、簡略版でもいいから、彼らの音楽の足跡をひと目で辿れるようなわかりやすいディスコグラフィーを併載し、それによって、一人でも多くの人に彼らの音楽にもっと興味を持ってもらいたかった(原著にこの資料はなく、また著者のハミルトン氏は哲学の人なので、コニッツの音楽思想への関心はあっても、そういういかにも日本的なアプローチに興味はないようだったが、提案は快諾してくれた)。信頼性にも問題がある断片ネット情報を読者が個別に見に行くのではなく、ミュージシャンの物語と、信頼できる音楽情報が一体となった「本」というパッケージで読めば、彼らの世界が一目瞭然で、読者としては単純に便利であり、しかもその方が楽しめるからだ。そこに実際の演奏記録(レコード)を聴く機会が加われば、さらに楽しみが深まると思う。

1970年代以降のジャズは、「ビッチェズ・ブリュー Bitches Brew(1970 CBS) に象徴されるマイルス・デイヴィスのコンセプトの支配的影響もあって、演奏家個人の技術や魅力よりも、一言で言えば全体としてコントロールされた集団即興に音楽の重心がシフトした。個性の出しにくいエレクトリック楽器の普及と、演奏後の録音編集という新技術がそこに加わったために、結果として、演奏現場で独自のサウンドで瞬間に感応する即興演奏で生きていた個々のジャズ演奏家の存在感が相対的に薄まって行くことになった。ロックやポップスの台頭、社会と聴衆の変化などが背景にあるのはもちろんだが、その後のジャズにカリスマ的ミュージシャンが現れにくくなったのも、個人から制御された集団へのシフトというジャズの基本的フォーマットの変化が主因の一つだろう。本来モダン・ジャズは、強力な個人が互いに個性と創造性をぶつけ合いながら作り上げた自由な音楽というところに最大の魅力があった。だからジャズ全盛期の真に創造的なミュージシャンの音楽からは、何物にも制約されない個人の強烈な創造エネルギーが今でも感じられるのだ。それはパーカーも、トリスターノも、コニッツも、モンクも同じである。そういう音楽家には人間としてもユニークな個性と魅力があり、彼らが送った人生にもまた不思議な引力がある。「出て来た音がすべてだ」という考え方も一方にあるが、私が個人的に興味を引かれるのは、単なるジャズ史的な位置づけや残された音源の音楽的評価ではなく、彼らの音楽と、それを生み出した人間との関係だ。ジャズ演奏家としての音楽哲学と思想を存命の本人が語った「リー・コニッツ」は、その意味で私にとっては実に刺激的な本だった。

翻訳中に自分で作ったディスコグラフィーを眺めながらレコードを聴いていると、彼らが送った時代や人生が何となく見えてくる。本に書かれた時代背景や人生だけでなく、彼らの音楽的個性や、音楽的に目指していたものが何だったのかということが、ド素人のジャズファンと言えどもおぼろげながら見えてくるのである。いつの時代も、優れた音楽家は一つの場所にじっとしているわけではない。常に進化しようとしているし、自らの目標に向かって努力し、変化してゆくものだ。また音楽的に一直線に上昇してゆくわけでもなく、調子の良い時も、悪い時期もあるし、場合によっては最初に録音したレコードを超えられずに一生を終える人もいる。出会った師や仲間に大きな影響を受け、音楽が次々と変遷する人もいる。生きている人間ならみな当然のことであり、私にはそこが面白いのだ。そうして作られたレコードから聞こえてくるのは抽象的な音に過ぎないのだが、そこに至るまでのジャズ音楽家の思想や、生き方や、苦悩を知ると、1枚のレコードがまったく違うものに聞こえてくる。今や手に負えないほど拡散しているジャズという音楽のフラグメントを追うのではなく、ミュージシャン個人や、時間軸というテーマで切り取る聴き方は、音源が昔とは比較にならないほど豊富で入手しやすい現代においては、ジャズを楽しむ良い方法の一つだと思う。それはまた日本人ならではの、レコードによる緻密で、繊細で、感覚的なジャズ鑑賞術をさらに掘り下げたジャズの楽しみ方にもなると思う。ジャズは何よりも自由な音楽なのであり、だからその聴き方もまた自由であるべきだ。様々なミュージシャンの名前やレコード名、楽理、ジャズ演奏技術の詳細を知らなくても、ジャズを楽しむ方法はいくらでもあるのだ。

基本的素材がほぼ出尽くしたと思われる20世紀に続く今は、現代の感覚でそれらをいかに変化させ、組み合わせ、あるいは新技術を駆使して、新しいフォーマットを創造するかがジャズに限らずあらゆるアーティストの宿命と言えるだろう。それが現代のアーティストにとって最大の命題であり、決して簡単なことではないだろうが、いずれそこから真に新しいアートが創造されることを期待もしている。だが一方で、今や過去の素材の一つにすぎないモダン・ジャズ黄金期の優れたミュージシャンの音源を聴くと、現代の音楽には望むべくもない、未来を信じ、ゼロから何かを生み出した行為にしか存在しないような強烈なエネルギーと創造性を感じることも事実だ。当時録音されたジャズ・レコードからは、我々を触発するそうした時代の空気と音楽家の精神が伝わってくる。私がレコードを聴くのは単なる<ド>ジャズ回顧ではなく、当時のレコードの音から今でもそれが聞こえてくるからだ。レコードという記録媒体に残されたモダン・ジャズは、20世紀半ばという時代と、アメリカという特殊な国を象徴する音楽だが、間違いなく現代世界の音楽の底流を作ったグローバルな音楽でもあり、今や時代を超えた価値を持つ古典だ。いまさら必要以上に持ち上げたり、貶めるようなことを言う対象でもなく、個々人が自由に聴いて、自由に想像し、自由に楽しむべき音楽遺産なのである。

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「リー・コニッツ ジャズ・インプロヴァイザーの軌跡」を翻訳しながら、備忘録のように書き留めてきたトリスターノやコニッツのレコードに関するメモを基に、彼らの主要レコードを次回から紹介したいと思います。これらの音源が、本書に書かれたトリスターノやコニッツの音楽と思想を理解する手助けとなること、それによって本書を読む楽しみが一層深まることを願っています1枚の有名レコードを聴いただけではわからない、ミュージシャン像や音楽が見えてくるようなものにしたいと思いますが、何度も言うようですが、基本的にド素人の感想文なので、できれば細部への突っ込みはご遠慮いただくようお願いします。私が知る限り、コニッツをはじめとするトリスターノ派の音楽思想や演奏技術の分析は、本書を高く評価していただいている名古屋の鈴木学氏(「鈴木サキソフォンスクール」主宰)が長年研究されてきたので、そうした分野に関心のある方は、鈴木先生のホームページにアクセスしていただければ、参考になる情報がきっと得られると思います。