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2017/03/05

ジャズを「読む」(2)

ジャズは「演る」か「聴く」もので、「読む」もんじゃない…としたり顔で言う人も昔いたが、そこはどうなんだろうか?

今や誰でも普通に音楽を聞いて楽しんでいるが、一般的に言えば、そこで普通に聞いて(hear)楽しんで終わる人(大多数)と、「なぜこう楽しいのか?」と、じっと聴いて(listen)ある種の疑問を持つ人(少数)に分かれるように思う。疑問を持った人は、その疑問、すなわち音楽の中身や、演奏する人間に普通は興味を持つ。そこから音楽の分析に走る人もいれば(楽器を「演る」人になる可能性が高い)、背景を知ろうと、演奏する人物やグループを詳しく知ろうと調べたがる人もいる(もっぱら「聴く」人になる)。そして「語る」人もそこから出てくる。音楽について書かれたものを「読む」という行為はおそらくこの両者に共通で、彼らにとってはその過程も音楽の「楽」しみの一部なのだ。

何せ、ジャズを含めて楽器演奏による「音楽」という抽象芸術そのものには本来意味がないのだから、感覚的な快楽に加えて、その意味を自由に(勝手に)想像したり、探ることに楽しみを覚える「聴く」人も当然いる。だからその対象が複雑であれば複雑なほど、分からなければ分からないほど、興味を深め(燃え)、それについて語りたがる人も中には当然いる。ジャズを「演る」人たちも、実は大抵はお喋りで「語る」人たちだということを知ったのは、ジャズを聴き出してかなり経ってからのことだった。マイルス、モンク、コルトレーンなどモダン・ジャズの大物のイメージからすると、ジャズメンはみな寡黙な人たちだと思い込んでいたのだ(この3人は実際に寡黙だったようだ)。よくは分からないが、彼らがよく喋り、「語る」のは、やはり自分の演奏だけでは言い足りないものをどこかで補いたいという潜在的欲求を、表現者として常々感じているからではないか、という気がする。ただ、饒舌な人のジャズはやはり一般に饒舌で、そこはジャズという音楽の本質が良く表れていると思う。

文芸春秋・文庫
(初版2005年)
ところで「歌」というのは、音楽の要素「メロディ」や「リズム」という抽象的なものを「言語」と組み合わせることによって、具体的世界を提示するものだ(人類史的には逆で、たぶん歌が先だったのだろうが)。だがその瞬間、抽象的な音の羅列だったものが、明瞭な「意味」を持つ言語によってある世界を形成し、聞く人はその世界が持つ意味の内部に捉われ、外部へと向かう自由な想像は閉ざされる。しかし、それは何よりも分かりやすいので、音響的快感とともに容易に人の心をつかむことができる。抽象的な音を具体的世界の提示に変換しているからである。宗教音楽から始まり、民俗音楽、ブルース、ロック、ポップス、日本の演歌、歌謡曲、フォーク…歌詞を持つ音楽はすべて同じだ。

ビバップに始まるモダン・ジャズという音楽は、ある意味でこの道筋を逆行したものだと言える。つまり祭りや儀式、教会、ダンス場や、飲み屋など、人が集まるような場所で歌われ、演奏され、共有されていた具体的でわかりやすい歌やメロディを、楽器だけの演奏によってどんどん抽象化し、元々のメロディの背後にハーモニーを加え、それを規則性を持ったコード進行で構造化し、それをさらに代理和音で複雑化し、速度を上げ、全体を即興による「分かりにくい」音符だけの世界に変換し、さらに行き着くところまで抽象化を進めた結果袋小路に陥り、ついには構造を解体してしまった。この過程は一言で言えば、既成のものからの「開放の希求」と「想像する精神」が生んだものと言えるだろう。だが考えてみれば何百年ものクラシック音楽の歴史の道筋も要は同じであり、20世紀にその西洋音楽を片親として生まれたジャズは、たった数十年の間に、この道筋を目まぐるしい時代の変化と共に「高速で」極限まで歩んだということだろう。ジャズがクラシック音楽と大きく異なり、音楽上の重要なアイデンティティの一つと言えるのは、抽象的な即興演奏と言えども、演奏者個人の人格や、個性や、思想が強烈に現れることだ。ラーメン屋で流れるジャズを聞いて、これは誰が、いつ、誰と演奏したレコードだ、とブラインドフォールド・テストのようにオールド・ジャズファンが瞬時に反応してしまうのもそれが理由だ。だから顔の見えない(voiceの聞こえてこない)ジャズ、誰が演奏しているのかわからないジャズは、ジャズ風ではあってもジャズではない。「やさしい、分かりやすいジャズ」であっても、顔がよく見える(voiceがよく聞こえてくる)ジャズはジャズである……という具合に、ジャズを「語る」人もめっきりいなくなってしまった。

新潮社 2014年
粟村政明、植草甚一、油井正一、相倉久人、平岡正明、中上健次のような批評家や文人たちが大いにジャズを語った後、ジャズ喫茶店主の皆さんが語った本が続き、山下洋輔氏のような「演る」人も語り、中山康樹氏のようなライターがマイルスを語り……一時は随分多くのジャズ本が出版されて私もほとんど読んでいたと思う。今は初心者向けジャズ入門書やレコード紹介本、楽理分析を主体としたジャズ教則本とジャズ演奏技法、そしてお馴染みのマイルス本ばかりになった。最近、唯一目立つのは、時代状況を反映して、過去を振り返り日本ジャズ史を「語る」作業だ。もはや古典となったモダン・ジャズの歴史と原点を射程に入れつつ「語った」骨のある近年のジャズ書は、私が知る限り菊地成孔、大谷能生両氏が(二人とも「演る」人だ)書いた一連の著作だけだが、それすらもう10年以上の年月が過ぎてしまった。そしてもう一人は、従来からコンスタントに翻訳によってジャズの世界を伝え、近年もジェフ・ダイヤーの短編小説集「バット・ビューティフル」(2011年)、モンクについてのエッセイや論稿からなる翻訳アンソロジー(2014年)など、相変わらずジャズへの愛情を持ち続けている村上春樹氏である。「読む」人にとっては寂しい限りだが、音楽があまりに身近になってモノと同じく消費され(リスペクトされなくなり)、昔のように音楽書が売れない、ジャズ書などさらに売れない、ジャズを「読む」人も減った(それどころか普通の本も読まなくなった)、だから出版社も青息吐息、という状態では書籍上で語りたくとも語れない、という人も実際は多いのだろう。 (続く)