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2017/03/25

映画「ラ・ラ・ランド」にモンクが・・・

<Straight No Chaser>
1966/67 CBS
映画は最近ほとんど見ていないし、そもそもミュージカルもあまり興味はないのだが、観に行った妻の「モンクが出てたわよ・・・」という一言で、久々に重い腰を上げて評判の映画「ラ・ラ・ランド La La Land」を観に映画館まで出かけた。正確にはモンクが出ていたわけではなく、映画の冒頭でジャズ・ピアニストを目指す主人公(ライアン・ゴズリング)が、レコード(LP)に合わせてピアノを練習しているシーンが出て来るのだが、その曲というのがセロニアス・モンクが弾く〈荒城の月〉だったのだ。1966年のモンク2度目の日本ツアーで、日本人の誰かが教えた滝廉太郎のこの曲(*)の持つマイナーな曲想をモンクが気に入り、日本公演で披露したところ大受けし、帰国後のニューポート・ジャズ・フェスティバルで初演し、そこでも喝采を浴びたので、その後モンク・カルテットのレパートリーに加えたという話がロビン・ケリーの「Thelonious Monk」に出て来る。(当時のモンクは曲作りに苦労するようになっていて、新曲がなかなか書けなかったことも背景にある。)

(*追記4/7: 先日Webを見ていたら、ANAの広報ページ<Sky Web 2007年>のインタビューで、1966年のモンク来日時に写真を撮っていた「新宿DUG」のオーナー中平穂積氏が、お礼としてモンクにあげたオルゴールの曲が「荒城の月」だったと語っている。この演奏アイデアの源は中平氏のオルゴールだったようだ。ニューポートで初演したときに中平氏は現地にいて感激して泣いた、という話もしている。)

その後、この曲はモンクのアルバム「ストレート・ノー・チェイサーStraight No Chaser」(CBS 1966/67)に〈Japanese Folk Song〉という(大雑把な)曲名で収録されているので、主人公が聞いていたのはたぶんこのレコードだろう。妻がなぜモンクの演奏だと気づいたかというと、家で私がずっとかけていたモンクの音源の中にこの〈荒城の月〉があり、妻もそれを何度も耳にしていて覚えてしまったからだ。このアルバムは、モンクの有名なブルースであるアルバム・タイトル曲や、冒頭のいかにもモンク的な〈ロコモーティヴ〉、デューク・エリントンのバラードをチャーリー・ラウズ(ts)が美しく演奏した〈I Didn’t Know About You〉、モンクのピアノ・ソロによる賛美歌など、全体として非常にリラックスした演奏が楽しめるレコードだ。監督のデミアン・チャゼルが、なぜその場面で「モンクの荒城の月」をあえて選んだのか、その意味や意図は不明だ(日本の観客に受けると思ったのだろうか?)。

<A Celebration of
Hoagy Carmichael>
1982 Concord 
同じく映画の最初のところで、主人公のアパートを訪ねた姉が椅子に座っていると、帰宅した主人公が「その椅子は(ホーギー)カーマイケルが座った貴重な椅子なんだから・・・」と言って、姉から椅子を取り上げるシーンがある。たぶんカーマイケルが何者なのか知らない人がほとんどだと思うが、Hoagy Carmichael1899年生まれの白人のジャズ・ピアニスト、歌手で(デューク・エリントンと同じ生年)、ビックス・バイダーベック(白人でクール・ジャズの始祖と言われている)、ルイ・アームストロングなど共演したが、何より作曲家として有名な人だ。〈Stardust〉、〈Georgia On My Mind〉、〈Slylark〉など、どことなく哀愁のある数々の名曲を作曲しており、これらはジャズ・スタンダードとして、白人、黒人を問わず多くのミュージシャンに取り上げられている。私は彼のレコードそのものは持っていないのだが、その名曲をデイヴ・マッケンナDave Mckennaという白人ピアニスト(ソロピアノの名人)が、ピアノソロでライヴ録音したレコードは持っている。それがConcordレーベルの「Celebration of Hoagy Chamichael」(1982)というレコードである。

このレコードは私の愛聴盤でもあり、マッケンナがとにかくゆったりと、次々に奏でるカーマイケルの名曲は、目の前で演奏されているような臨場感のある録音の生々しさもあって、1人でじっくり聴いていると本当にリラックスして聴き入ってしまう素晴らしいレコードだ。その中でも特に好きな曲は、1938年作曲の〈ザ・ニアネス・オブ・ユーThe Nearness Of You〉で、ネド・ワシントンによる歌詞を含めて原曲はいかにもアメリカを感じさせる甘いバラードだが、枯れた風情のマッケンナのピアノが実にしみじみとして味わい深いのだ。マイケル・ブレッカーの文字通りの「ニアネス・オブ・ユー」(2001 Verve)というアルバムで、ジェイムズ・テイラーがこれも味のある歌を聞かせるヴォーカル・バージョンもあり、他にもノラ・ジョーンズやダイアナ・クラールもカバーしている。映画「ラ・ラ・ランド」中のオリジナル曲は、冒頭の〈Another Day of Sun〉 や、主演女優エマ・ストーンがシャンソン風に歌う〈Audition(夢追い人)〉など、全体として優れた楽曲が多いとは思うが、主役の2人を結ぶロマンスの鍵となる肝心のソロ・ピアノ〈Mia & Sebastian’s Themeという曲らしい〉が、ジャズでもなければクラシックでもないような中途半端な曲で、これだけは「何だかなあ・・・」と思った。私なら、ここにマッケンナがソロで演奏する〈ザ・ニアネス・オブ・ユー〉をかぶせるのになあ、とつくづく思った。こちらは正真正銘のジャズ・ピアノであり、しかもアメリカ的ロマンチシズムに溢れる美曲だからだ。(映画を見た人は、騙されたと思って、ぜひこのレコードのこの曲を一度聴いて比較してみてください。)

映画<La La Land>
Soundtrack
ハリウッドで作り、しかもロサンジェルスを舞台にしたミュージカル映画なので、「ジャズ」がモチーフになってはいても、その扱いが浅く、全体として「白人が作りました感」は否めない。しかし私には、(そんなもんだと思っているので)そこは別に気にならない。「ラウンド・ミドナイト」も「バード」も見たが、何せ映画でジャズをテーマにして描くのは難しいのだ。ジャズの演奏をうまく使った古いフランス映画(「死刑台のエレベーター」とか「危険な関係」)もあるが、最高の「ジャズ映画」と言えばやはり「真夏の夜のジャズ」(1958)と、セロニアス・モンクの「ストレート・ノー・チェイサー」(1988)という2つのドキュメンタリー映画だろう。とはいえ、私はミュージカルについてはたいした知識もなく、過去の作品へのオマージュやパロディと思われる部分の面白さ等が理解できたわけではないが、主役は男女ともに良かったし、踊りも楽曲も良く(上記ソロピアノを除き)、映画としては十分に楽しめた。

この映画の主題を簡単に言うと、「常に進化しなければ」という脅迫観念に捉われているアメリカ人が、絶え間ない進化の陰で捨ててきた「古き良きもの」(映画では、ジャズはその象徴として描かれているにすぎない)に対してどことなく感じているある種の罪悪感と、「頑張れば夢はいつか叶うものだ」という、楽天的な古来のアメリカン・ドリームの2つを組み合わせたごく月並みなものだと思う。アメリカ人が無意識のうちに共有しているこの2つの要素を、これもアメリカ伝統のロマンスを軸にしたミュージカル映画というパッケージにくるんだ見事な3点セットになっているからこそ、多くの「アメリカ人」の心の琴線に触れ、支持されたのだろう。グローバリゼーション(アメリカ化)によって、今やその2つとも世界共通の普遍的なモチーフなので世界中で受け入れられているのだろうが、この映画を称賛する他の国の人たちが、アメリカ人ほど「切実に」そこに共感しているのかどうか、それはわからない。

2017/03/21

アメリカ人はジャズを聴かない

Bill Evans
<Waltz for Debby>
1961 Riverside
・・・と言うと身も蓋もないように聞こえるが、勤めていた合弁企業の親会社がアメリカ北部の田舎町にある企業だったので、これは私の非常に狭い体験から出てきた結論である。1980年代までは、親会社には黒人や南米系の従業員やマネジャーもいたのだが、90代以降になってからは、数百人はいた本社事務所はほぼ米国系、ヨーロッパ系(駐在)の白人ばかりになった。その間付き合ったアメリカ人でジャズを聴いていた人は知る限り1人だけで、あとはヨーロッパ系の人間が2人だけいた。一般にヨーロッパ系の人間の方が、ジャズ好きが多いように思う。そのうちの1人(ベルギー人)の家に行って、彼のステレオでジャズのCDを一緒に聴いたりした。田舎町で隣家を気にする必要がまったくないので、イギリス製ステレオ装置のボリュームをいくら上げても構わないというのが実に爽快だったことを覚えている。それと、ビル・エヴァンスのライヴ盤「Waltz for Debby」も聴いたのだが、自分の家で聴くのとまったく違う音楽に聞こえるという不思議な体験をした。「ヴィレッジ・ヴァンガード」で、グラス同士がカチカチとぶつかり合うあの音も妙にリアルだった。たぶん再生装置だけでなく、周囲の静寂(SN比)と、家の広いスペースがそう感じさせたのだろう。

彼らは何を聴いているのか、というと大抵はポピュラー音楽か、カントリー音楽だった。若い人たちは当然ロックを聴いていたのだろう。田舎町ということもあって、ジャズクラブなど無論ないし、ジャズのコンサートなどもほとんどなかったようだ(知る限り)。小さなライヴ・ハウスのようなものもあったが、そこでは主にカントリーが演奏されていたようだ。その町にカラオケが登場したのもずいぶん後になってからで、日本で一緒に出掛けた経験からすると、音感も含めて大抵の人の歌は下手くそだった。日本人の足元にも及ばない。だがこれをもって、アメリカ人は歌が下手だ・・・とは一概に言えないだろう。子供の頃からしょっちゅう歌っている日本人と違って、そういう場と訓練がないのだから仕方がない。ひょっとして生バンドが伴奏したら、アメリカ人の方が乗りもよく、上手いということだってあるだろう(ないか?)。日本のジャズファンが千人に1人だとすると、アメリカ(あくまでこの地方)では、5千人から1万人に1人くらいの感覚だろうか(まったく根拠はないが)。ニューヨークやシカゴのような都会に行けば、人種構成も多彩になるし音楽環境もあるので、もっと数は多いのだろうが、それでも人口比はあまり変わらないのかもしれない。若い人がジャズを聴かないのは日本と同じだろう。毎日、世界で起きていることが瞬時にわかるような、世の中全体が蛍光灯で隅々まで明るく照らし出されたような時代にあっては(これはアメリカナイズと同義だ)、「陰翳」(もはや死語か)というものを感じ取る感性がまず退化するだろうし、クラシックであれジャズであれ、それを魅力の一つにしてきた音楽への関心も薄れるのは当然か。

Lennie Tristano
<Tristano>
1955 Atlantic
アメリカにおけるモダン・ジャズの物語を読んだり、見たりしても、主役の黒人ミュージシャンたちを除くと、登場するのはほぼユダヤ系かイタリア系の白人だけだ。レニー・トリスターノのような天才やジョージ・ウォーリントンのようなイタリア系の有名ピアニストも何人かいるが、イタリア系はたとえばジャズクラブ「ファイブ・スポット」のオーナーだったテルミニ兄弟とか、やはりビジネス業界側が中心のようだ(「ゴッドファーザー」の世界)。一方ユダヤ系の白人はリー・コニッツやスタン・ゲッツのような有名ミュージシャン、ブルーノートのアルフレッド・ライオンのようなプロデューサー、レナード・フェザーのような批評家、その他ショー・ビジネスの関係者など各分野にいる。とりわけ映画も含めて、アメリカの芸術、音楽、ショー・ビジネス全般におけるユダヤ系の人たちの影響力は、我々の想像をはるかに超える範囲に及んでいる。一方のアメリカの中枢、いわゆるWASP系は、そういう世界では影が薄いようだ。ちなみに親会社があった北部の町は、調べた限り、現在その地域の住民の95%は白人であり、そのおよそ半分はドイツ系、イギリス系の祖先を持つ。しかしモンクのパトロンだったニカ男爵夫人が、イギリス生まれのユダヤ系(ロスチャイルド家)の人物であり、マネージャーだったハリー・コロンビーがドイツ系のユダヤ人移民だったことを考えると、こうした統計の意味も単純ではない。今更だが、「日本人は・・・」と言うように、一言で「アメリカ人は・・・」とは言えない複雑な背景がアメリカという国にはある。ジャズはそういう国で生まれ育った音楽なのである。にしても、大統領がトランプとは・・・。

2017/03/17

「ジャズはかつてジャズであった」

1970年代のことを調べているうちに、本棚から出てきた懐かしい本と再会した。今から40年前に出版された、中野宏昭という人が書いた「ジャズはかつてジャズであった」という本だ(1977年 音楽之友社)。中野氏は1968年に大学を卒業後スイング・ジャーナル社編集部に入社した人で、数年後に体調を崩して同社を辞めた後も評論活動を続けていたが、1976年に病気のためにわずか31歳で夭折している(まったくの偶然だが、今日317日は彼の命日である)。この本は1970年からの短い6年間に、中野氏が雑誌などに寄稿した評論と、当時のLPレコードのライナーノーツとして書いた文章を、野口久光、鍵谷幸信、悠雅彦氏らが故人を偲んでまとめた遺稿集である。この本のタイトルは、「ユリイカ」の19761月号で発表された記事の表題からとったものだ。チャーリー・パーカー以来のジャズの伝統を受け継いできたキャノンボール・アダレイの死(1975年)が象徴するものと、マイルス・デイヴィスが当時模索していた新たな方向が示唆するものを対比しつつ、かつてプレイヤーが自らの身を削って生み出した、その場限りの瞬間の肉体的行為であったジャズが、エレクトリックの導入や、レコーディングという「作品」を指向する創作の場が主体となったことによって、かつて持っていた始原的創造行為という特性をもはや失った、という70年代の混沌としたジャズの情況を表現したものだ。とはいえ、ここで彼はジャズが終わったと言っているわけではなく、ジャズの持つ強靭さを信じ、新たな道筋を歩み出すジャズの未来をマイルスの当時の活動の中に見出そうとしている。

読んでいると、こうして駄文を書き連ねているのが恥ずかしくなるような、ジャズに対する深い愛情と真摯な態度に満ちた珠玉の言葉の連続だ。時代状況を反映して、企図された集団表現に舵を切ったマイルス・デイヴィスのエレクトリック・ジャズと、ジョン・コルトレーンの死後もなお伝統的な個人のインプロヴィゼーションを追求する継承者たちの対比に関する論稿なども書かれているが、今読んでも、透徹した視点と深い洞察で貫かれた素晴らしい文章である。おそらく死と向き合っていたこと、また自ら詩もたしなんでいたこともあるのだろう、言葉の隅々にまで繊細さと抒情が浸みわたる研ぎ澄まされた文章と固有の美学は、これまでの日本のジャズ批評がついに到達し得なかった最高度の領域に達していると思う。しかも過去のジャズに拘ることに価値を認めず、70年代の新進のミュージシャンについても、幅広い音楽的視点から未来への期待を込めて取り上げている。日本のジャズ史上稀な、このような優れたジャズ批評家が生きていたら、以降の日本のジャズシーンもひょっとしたら違ったものになっていたかもしれないと思わせるほどだ。しかしながら、その後に続く80年代のアメリカの経済的停滞と、日本のバブル騒ぎという商業主義の時代に巻き込まれたジャズの変遷を振り返ってみると、こうした知性と豊かな感性を備えた批評家がジャズの世界で生きてゆくのは結局難しかったのかもしれないとも思う。 

ビル・エヴァンスの「エクスプロレーションズ Explorations」(1961 Riverside)は、70年代にLPを入手して以来、CDを含めておそらく私がもっとも数多く聴いたジャズ・レコードだ。エヴァンスの他のRiverside作品に比べると一聴地味なスタジオ録音だが、当時のエヴァンス・トリオ(スコット・ラファロ-b、ポール・モチアン-ds)の究極のインタープレイがアルバム全体を通して収められた、芸術の域にまで達した稀有なジャズ・レコードの1枚だと個人的には思っている。<イスラエル>から始まり、<魅せられし心>、<エルザ>、<ナーディス>…等流れるように名演が続き、何より他のアルバムにはない深い陰翳とアルバム全体から醸し出される芸術的香気が素晴らしい。そして、そのLPのライナーノーツを書いていたのが中野宏昭氏だった。 

60年代までは、当時貴重だったレコードに関する史料的情報と、有名ライターのジャズ審美眼ゆえに読む価値があったライナーノーツは、LPが大量に発売され比較的簡単に入手できるようになった70年代に入ってからは、それほど重要でも、価値のあるものでもなくなっていた。しかし、このエヴァンス盤のライナーノーツだけは違っていた。中野宏昭という名前を初めて知ったのもこのライナーノーツを通じてであり、ビル・エヴァンスの真髄を捉えた知と情のバランスが見事なその解説は、エヴァンスの傑作ピアノ・トリオにまさにふさわしいもので、以来このLPと共にずっと私の記憶から離れずにきた。ジャズとは奏者にとっても聴き手にとっても、基本的に「個」の音楽であり…レコードにも誰もが認める名盤というものはなく、あるのは一人ひとりに固有の名盤だけだ…という本書中の中野氏の言葉に深く同意する。エヴァンスのこのレコードは、私にとって真の名盤なのである。

2017/03/15

吉祥寺でジャズを聴いた頃

<Monk in Tokyo>
1963 CBS
ロビン・ケリーの「セロニアス・モンク」の中に、1963年のモンク・カルテット初来日時のことが書かれている。日本のミュージシャンとの交流の他に、京都のジャズ喫茶(さすがに店名までは書かれてはいないが「しあんくれーる」)の店主だった星野玲子さんが、ツアー中のモンクやネリー夫人一行に付き添って、色々案内した話が出て来る(モンクと星野さんが、店の前で一緒に並んで撮った写真も掲載されている)。その後星野さんはモンク来日のたびに同行し、夫妻にとって日本でいちばん親しい知人となったということだ。この63年の初来日時、コロムビア時代はいわばジャズ・ミュージシャンとしてのモンクの全盛期でもあり、この東京公演でのモンク・カルテットを録音したCBS盤は、お馴染みの曲を非常に安定して演奏していて、初めて動くモンクを見た日本の聴衆の反応も含めて、モンクのコンサート・ライヴ録音の中でも最良の1枚だと思う。またこの時の全東京公演の司会を務めたのが相倉久人氏だったことも、氏の著作全集を読んで知った。

京都「しあんくれーる」広告
1975 Swing Journal誌
「しあんくれーる」がその後どうなったのか興味があったので、調べてみようと、手元に残しておいた今はなきスイング・ジャーナル誌の「モダン・ジャズ読本’76」(197511月発行)を久しぶりに開いてみた。当時売り出し中のキース・ジャレットの顔の画が表紙の号だ。SJ誌は毎月買って読んでいたが、年1回発行の主な特集号を残して、あとはみな処分してしまった。70年代、つまりバブル前までのSJ誌は、ジャズへの愛情とリスペクトが感じられる、きちんとした楽しいジャズ誌だったと思う。その号の中を読むと、ジャズとオーディオの熱気が溢れている。全体の3割くらいはオーディオ関連の記事と広告である。まだ前歯のあるチェット・ベイカーや、犬と一緒になごむリー・コニッツの写真他で飾られ、巻頭にはビル・エヴァンス、ロン・カーター、ポール・ブレイによるエレクトリック・ジャズを巡る三者対談があり、「SJ選定ゴールド・ディスク100枚」の紹介があり、75年発売のレコード・ガイド、それに4人のジャズ喫茶店主の座談会も掲載されている。4人とは野口伊織(吉祥寺ファンキー他)、大西米寛(吉祥寺A&F)、高野勝亘(門前仲町タカノ)、菅原昭二(一関ベイシー)各氏である。全員がたぶん30代から40代だったと思われるので、見た目も若い。驚くのは、当時のオーディオ・ブームを反映して、この号には全国(札幌から西宮まで)の主要ジャズ喫茶で使用されている再生装置(アナログ・プレイヤー、カートリッジ、アンプ、スピーカー)を記載した一覧表が掲載されていることだ。しかも使用スピーカーは、ウーハーやツィーターなどユニット別に記載されている。40年以上前のこうした記事を読むと、日本ではジャズとオーディオが切っても切れない関係だったこと、また現在の一関「ベイシー」の音が一朝一夕にできたわけではないことがよくわかる。その一覧表の中に京都「しあんくれーる」の名前もあった。そして広告も掲載されていた。当時はまだ健在だったのだ。

ジャズ喫茶広告
1975 Swing Journal誌
その表を見ても、吉祥寺には特にジャズ喫茶が集中していることがわかる。私は長年JR中央線沿線に住んでいたので、当時よく行ったジャズ喫茶はやはり吉祥寺界隈だった。「Funky」,「Outback」,「A&F」,「Meg」などに通ったが、荻窪の「グッドマン」、中野の「ビアズレー」あたりにもたまに行った。だがいちばん通ったのは吉祥寺の「A&F」で、JBLとALTECという2組の大型システムが交互に聴けて、会話室と視聴室が分かれていて、音も店も全体として明るく開放的なところが気に入っていたからだ。こうした店の雰囲気は店主の性格が反映しているのだろう(大西氏はよく喋るという評判だった)。今の吉祥寺パルコのところにあった「Funky」には、JBLのパラゴンが置いてあり、コアなジャズファンが通う店といったどこかヘビーな印象がある(実業家肌の野口氏は若くして亡くなった)。「Meg」は寺島靖国氏の店で今も健在だが、当時の寺島店主は神経質でどこか近寄りづらい雰囲気があった。だがその後80年代終わり頃から相次いで出版した氏のジャズとオーディオ本は、個性的でどれも楽しく読んだ。文壇デビュー前の村上春樹氏が、JR国分寺駅近くに「ピーター・キャット」というジャズ・バーを開いていたのもこの時期だったようだ(197477年)。

70年代中頃というのはヨーロッパではフリーが、アメリカではフュージョンが主役の時代になりつつあり、日本ではフュージョンも台頭していたが、まだまだ伝統的モダン・ジャズが盛り上がりを見せていて、SJ誌の紙面でもわかるがLPレコードの発売も非常に盛んだった。一方でバップ・リバイバルという流れもあって、アメリカでフュージョンやエレクトリック・ジャズに押されて食い詰めた大物ミュージシャンも続々来日したし、高度成長で豊かになった日本のジャズファンがコンサートに出かけたり、まだ高価だったLPレコードやオーディオ装置に金をつぎ込めるようになったという経済的背景も大きいだろう。しかしマイルス・デイヴィスが1975年の来日公演の翌年、体調不良のために約6年間の一時的引退生活に入り(1981年復帰)、1973年以降同じく体調不良で半ば引退同然だったセロニアス・モンクも、19766月のカーネギーホール公演の後は、ウィーホーケンのニカ夫人邸に引きこもってそのまま隠遁生活に入ってしまった。ナット・ヘントフが、モダン・ジャズ黄金時代へのオマージュのような名著「ジャズ・イズ…」を書いたのも1976年である。ビル・エヴァンスはその後1980年に、そしてモンクも1982年に亡くなっている。アメリカにおけるモダン・ジャズの歴史が、当時一つの終わりを迎えつつあったことに間違いはあるまい。それから40年、当時あれだけあった日本全国のジャズ喫茶も、一部の店を除き今はほとんどなくなってしまった。

2017/03/13

ジャズを見る

コンサートやクラブでのジャズ・ライヴ演奏の機会は、昔に比べると今はずっと増えて身近になった。各地で行われているストリート・ジャズ祭なども盛んだ。私が昔行ったジャズの大物コンサート公演は、1970年代半ばのビル・エヴァンス(よく覚えていないが、新宿厚生年金でやった76年の来日だった気がする)、それに一時引退から復帰直後のマイルス・デイヴィスが、寒風吹きすさぶ新宿西口の空地(都庁予定地)でやった81年の野外ライヴだけだ(他にも行った気がするが、もう忘れてしまった)。60年代や、70年代前半の来日ラッシュ時代を過ごした一世代上の人たちは、もっと多くの大物ジャズ・ミュージシャンの来日公演を見たことだろうと思う。私がジャズに夢中になった70年代中頃には、ジャズの現場ではもうフュージョン時代へ入っていたのだ。
Bill Evans
<The Tokyo Concert>
1973 Fantasy
初来日時の録音
こうしたコンサート公演は、今もそうだが「聴く」より「見る」場と言った方が適切だろう。ロックやポップスの人気アーティストのコンサートに出かける若い人たちと、気分もテンションも基本的には変わらない。特に当時はめったにない機会だったこともあり、実物を「とにかく、ひと目見たい」というミーハー気分で出かけたので、演奏そのものはあまりよく覚えていない。記憶に残っているのは、ビル・エヴァンスが首を真下に向けたままピアノを弾く姿だったり(そもそもこれもイメージで、本当にそうだったかどうか自信はない)、寒い中ずいぶん待たされたあげく、病み上がりで想像以上に小さくか細いマイルス・デイヴィスがようやくステージに現れて、こちらも同じく下に向けて「ほんの短い時間」だけトランペットを吹いていた姿(これは確か)などだ。バブル時代や90年代に入ると、ライヴの機会も増えたので感激は昔より減ったものの、よく出かけていたが、それでもキース・ジャレットが呻き声を出しながら弾く体の動きや、「ブルーノート」でのロイ・ハーグローヴのしなやかな体や、やんちゃな目つきなど、記憶に残っているのはやはり視覚情報だ。

夏の野外ライヴ・コンサートは、PA音が拡散して集中できないのと、遠くてミュージシャンがよく見えないこと、何より暑いのが苦手で行かなかった。バブル当時盛り上がった「マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル」は毎年夜のTV番組で見ていた。TVで見ると音がよく聞こえるし、奏者の顔やちょっとした表情などもよくわかる。ジョシュア・レッドマンが初登場したときの演奏は心底すごいと思った。隣にいた日野皓正が、驚いたような表情でじっと彼を見つめていた画面をよく覚えている。ブルーノートのアルフレッド・ライオンがステージに登場して、満員の聴衆に拍手で迎えられたときの感激した表情も印象に残っている。東京に住んでいちばん良かったと思うのは、新宿や六本木などにジャズクラブが数多くあり、外人、日本人を問わず、一流ミュージシャンの演奏が間近で楽しめることだった。だがミュージシャンの「格」とは関係なしに、どんなプレイヤーであれ、そこではよく聞こえるPAなしの生音だけでなく、各奏者の表情も、体の動きも、反応も、息遣いもよくわかって、やっぱりジャズを「聴く」のにいちばんいいのは、大会場でやるコンサートよりは小さなクラブ・ライヴだと毎回思っていた。

昨年の末、その大会場(新宿文化センター)で2日間にわたり「新宿ピットイン」の50周年記念コンサートがあり、私は初日に出かけた。相倉久人氏が同年夏に亡くなったため、菊地成孔氏が代役としてMCを務めるということだった。当日はドリーム・セッションということで混成グループによるフュージョン系から、メインストリーム系、さらに大友良英、近藤等則、鈴木勲や山下洋輔リユニオン・グループのフリー・ジャズまで、延々6時間以上に及ぶ多彩なプログラムを堪能した(が疲れた)。しかし現場で覚えているのは会場を埋めた大半の中高年の客とその熱気、ステージ上の特に年配(?)ミュージシャンたちの、ぶっ飛んだ衣装とかこちらを圧倒するようなエネルギーだ。相対的に若い菊地氏のグループがいちばんクールに普通の(?)ジャズをやっていたので、佐藤允彦のピアノソロと共に音もよく記憶しているが、他の年寄りたち(中でも鈴木勲は当時82歳だ)は見た目と全体のインパクトが強烈で、余りの迫力に音楽そのものをよく覚えていない。

先日TV録画を整理していたら、東京MXが放映したそのコンサート録画が出てきたので改めて見てみた。2日間にわたる12時間のコンサートを約2時間に編集しているので、各演奏もダイジェストに近いが、2日目は渡辺貞夫や日野皓正などが出演し、オーソドックスなジャズが中心だったようだ。じっくり見直すと、確かに音はよく聞こえるが、一方初日のあのすごい熱気はさすがに伝わって来ない。まあ、これはお祭りということなので、レギュラー・メンバーではないグループが多く、現場でひたすら見て聞いて盛り上がればいいのだろう。というか、フリー系のジャズは聞くと面白いとは思うが、演奏を聴いてその「音」を記憶している人はいるのだろうか? 「聴く」というより、「体験する」もので、全身で受け止めた音の塊のエネルギーの記憶というのが正しい表現のような気がする。しかしジャズの聴衆というのは、コンサートでもクラブでも、掛け声はあってもロックやポップスのように観客総立ちで一緒に踊るようなことは普通はない。基本ジャズのスウィングは横揺れで、縦ノリではないからだという理由もあるが、歳のせいもあるだろう。それ以上に、ジャズはやはり一人で聴く音楽であり、大勢でわいわいと聞くものではないからだろう。行儀よく「見るともなしに聴く」、というのが正しい大人のジャズの聴き方か。

2017/03/10

神戸でジャズを聴く

関西に出かける機会があると必ず立ち寄るのが、神戸のJR元町駅から大丸方向に数分歩いたところにあるジャズ喫茶 「jamjam」 だ。今回は約1年ぶりの訪問である。

いかにもジャズ酒場の入り口といった感じの、地下に向かう薄暗い階段を降りてゆくと、比較的広いスペースの右手に店の白いドアが見える。ドアを開けて中に入ると、左手側には長いカウンターとその前にいくつかテーブル席があり(ここは会話可)、右手側は正面に置かれた大型スピーカー(確かUREI)と正対するように、真ん中に椅子とテーブルが並んでいて、そこは往年のジャズ喫茶伝統の会話禁止の「聴く」専門のスペースである。左手には壁に沿って、こちらは横向きにクラシックな椅子とテーブルが置かれている。ほとんどが一人客で、じっと音に聴き入るか、本を読んでいる(昔のジャズ喫茶の風景そのままだ)。

初めて jamjam の音を聞いたときに本当に驚いたのはその "爆音" だ。オーディオに興味のない人が聞いたら腰を抜かすほどの音量でジャズが鳴っている。田舎の一軒家ならともかく、住宅事情で大きな音で聴けない欲求不満のジャズファンの多くが、ある種のカタルシスを得るために昔ジャズ喫茶に通ったのもこうした音量の魅力があったからだ。だが昔のこの手のジャズ喫茶といちばん違うのは、店の空間のボリュ-ムである。昔の店は、たいていは音量だけ大きくても店の空間が小さいので、音がこもったり、再生帯域のピークが出たりして伸び伸びとした音で鳴らすのは至難の業だったのだ。だがjamjamではちょっとしたスタジオ並みの広い床面積と、何より高い天井高もあって(5mはある?)、空間いっぱいに "爆音" が響きわたって、ひとことで言えば豪快かつ爽快なのである。そしてスピーカーに対峙して置かれた椅子もゆったりとして大きく、昔のようなちまちました椅子ではないところも素晴らしい。ここで一人ゆったりと座って、コーヒーを飲みながら、全身に浴びるようにひたすらジャズを聴く時間は、往年のジャズファンにとってはまさに天国だ。

アナログLPを音源にしてスピーカーから再生される音なので、ヴァーチャル・リアリティの音空間には違いないのだが、各楽器の質感、演奏の場の空気感、奏者の息使いのようなものが実にリアルに再生されている。特にベースやドラムスの音は、これ以上望めないほどの音量と歯切れ良さで腹に響き、しかもヘッドフォン並みの音の輪郭で、シンバルの微妙な打音や音色まで再現している。この全身で感じるオーディオ的快感は、ヘッドフォンや小型スピーカーでは絶対に味わえないだろう。

学生時代を神戸で過ごしたが、1970年前後には、(京都にはあったが)神戸には学生が行けるような、こうした本格的ジャズ喫茶は私が知る限りなかったように思う。よく行ったのは「さりげなく」という小さな店だったが、そこは場所を変えて今でも営業しているらしい。しかし地方ではなく、神戸のような都会の真ん中に、これだけのスペースと音響を提供するジャズ喫茶が今でも存在するというのはほとんど奇跡に近い。有名人の常連も多いと聞くが、それも当然だろう。ただしリクエストは受け付けない。様々なジャズを選り好みしないで聞いて欲しいというマスターの哲学があるからだ。5月以降は禁煙になる予定とのこと。オーディオ、コーヒー、紫煙はジャズ喫茶の3点セットだったが、時代の流れには逆らえないということだろう。jamjamは、いつまでも存続してもらいたいと心から願う店だ。

夜はJR三ノ宮駅から山側へ歩いて10分ほどの中山手通りを越えたところ、北野にある老舗ジャズクラブ「ソネ」に行った。震災から20年以上が経って、三ノ宮駅から山側にかけてのこのあたりもすっかり様変わりして、昔はほの暗い通りだったところが今は明るいネオンの店がひしめいている。「ソネ」は1969年に開店したらしいので(私が入学した年だが、当時の学生には高級過ぎただろう)、もう半世紀近い歴史がある。近くにあったもう一軒の老舗ジャズクラブ「サテンドール」(1974年開店)は残念ながら昨年閉店したらしい。jamjamのハードなジャズとは打って変わって、ピアノ・トリオと女性ヴォーカルという小粋なライヴ演奏をアルコールと料理付きで楽しんだ。客層はだいぶ違うが、この店も広々として、せせこましくなく、味、雰囲気、サービスともに良く、しかもリーズナブルな料金という素晴らしい大人のジャズクラブだ。この店もいつまでも残って欲しいものだと思う。

神戸では町をあげてのジャズ・イベントも毎年開催されているようで、今やジャズの町だ。震災で深い傷を負ってしまったが、今は、半世紀前のどこまでもカラッと明るかった神戸の街が戻って来たようで嬉しい。おしゃれで都会的なのに、北側にすぐそびえる六甲山が四季を感じさせ、高台からはいつも海が見え、街はコンパクトで、中心地から歩いて行けるところにこうしたジャズを楽しめる店をはじめ、何でもある。よそ者を受け入れる開放的な文化がある一方で、関西らしい人情もまだ残されている。神戸は本当に良い街だと思う。神戸に住む人たちは幸せだ。

2017/03/06

ジャズを「読む」# 3

「演る」人は増え、「聴く」人は徐々に減り、「語る」人が大幅に減ったために、「読む」人も減った、というのが現在のジャズの楽しみを巡る構造と言えるのだろう。

私の洋書と翻訳書への興味は、ジャズには本当にもうこれ以上「語る」べきことはないのだろうか?という単純な疑問から始まった。日本で、日本人が、日本人のために語ってきたこと――それはそれで勿論価値のあることだが――それとは別の、これまで知られていない、もっと面白い世界が、ジャズという音楽にはまだあるのではなかろうか?という疑問である。

ナット・ヘントフ
<ジャズ・イズ…>
白水社 1982/1991/2009年
(原著初版1976年)
それまでにナット・ヘントフ(今年1月に91歳で亡くなった)が書いた何冊かの優れたジャズ・エッセイや村上春樹氏の翻訳書などを読んではいたが、海外で出版されたジャズ・ミュージシャンの伝記類はマイルスの自叙伝を除き、あまり熱心に読むことはなかった。しかしアンディ・ハミルトンの「リー・コニッツ」に出会って、これこそまさに自分が読みたいと思っていた本なのだと思った。そして大作の伝記ではあるが、次に読んだロビン・D・G・ケリーの「セロニアス・モンク」もそうだった。二人とも際立つ個性を持つ独創的音楽家だが、日本では一部のコアなファンはいても、いわゆる「人気のある」ジャズ・ミュージシャンではなく、これまであまり深く紹介されたこともない人たちである。自分が長年二人のファンだったこともあって、この2冊の本をじっくり読んでみたが、何よりジャズという音楽とそれに挑戦する人間をリアルに描いていて、まず読み物として実に面白かった。同時にそこで、輸入音楽として主に「レコード」という記録媒体を通して、抽象的に音だけを「聴く」文化が築かれてきた日本のジャズの世界からは見えないもの、知られていないこと、語れないことも、まだまだあるのだということを実感した。

古典としてのモダン・ジャズの楽しみ方は様々だが、音楽的印象や分析以外に、その時代にジャズマン個人がどう生きていたのか、という演奏の背後にある人生や人間模様を知るとジャズをより深く楽しめる。Prestigeでのマイルスとモンクの有名なケンカに関する伝説もそうだが、ジャズという音楽には「音や演奏が全てだ」とは簡単に言い切れない何かがある。音楽的構造や技術面ではすっかり解体、分析されて、基本的な演奏技術について言えばジャズは今や誰でも習得可能な音楽になったかのようにさえ見える。学習したAIが、人間を凌ぐようなそれらしいジャズを演奏をする時代も間もなくやって来るだろう。しかしジャズとは詰まるところ自由な「個人」の音楽であり、ジャズの本当の面白さは、一定の約束事の範囲ではあるが、予定調和ではなく、次に何が起こるかわからない(何をしでかすかわからない)という人間の持つ予測不能性と、そこに生じる緊張感にこそあるのだと思う。多数のサンプルの平均値だけでは導き出せない、演奏者個々人の瞬時の判断の組み合わせと、時間軸に沿ったその積み重ねによって創られる音楽だから面白いのである。時間と空間を奏者と聴き手が濃密に共有するジャズ・ライヴ、特にジャズクラブでの演奏に尽きない変化と面白さがあるのはそのためだ。だがどんな名人でもその演奏は人生と同じで、いい時もあれば悪い時もあり、特に一発勝負のライヴは、メンバー間の相性、場所、楽器、その日の体調や気分などの「可変要素」が多くまたその影響も強い。だから有名プレイヤーが集まればいつも立派な演奏ができるとは限らない。名演もあれば駄演もある。しかしだからこそジャズは面白いのだ。現代のジャズもそこは同じだが、モダン・ジャズ全盛期のプレイヤーたちの背後にあった、創造を指向する強烈なエネルギーと濃密な空気はもはや望めないだろう。

<マイルス・デイヴィス自伝>
クインシー・トループ共著

シンコーミュージック
(原著初版1990年)
20世紀半ばに、新たな音楽を創造することに挑戦した偉大なジャズ音楽家たちの演奏の背後にあるものも、日本にいてレコードを聴いているだけではわからないことがたくさんある。アメリカに数年住めばわかるというようなものでもないし、逸話や伝説など、間接情報を事細かに並べただけで描けるものでもない。それらを知った上で、自ら洞察し、言語化できる優れたライター(「語る」人)が必要なのである。古い作品も含めて、海外のジャズ批評家や作家の書いた優れた著作――「本物のジャズの現場」を知っている人たちの多様な思想や声を、日本の真のジャズファンや音楽ファンに伝えることには、21世紀の現在でもまだ意味があると思っているそして、当時そこから生まれ、今や古典となった本物のモダン・ジャズは、単に終わった古い音楽ではない。今聴いても、現在の音楽よりはるかにモダンで新鮮なものはたくさんある。そしてジャズのDNAも、我々が気づかないうちに姿形を変えて、現代の地球上のあらゆる音楽の中に脈々と受け継がれているのである。その源をあらためて辿り、新たな魅力を発見することは個人的に大いに楽しいことでもある

私は自分で「語る」ほどのジャズ体験も知識もないド素人なのだが、せめて海外で書かれた優れた書籍を紹介し、少なくなったとは言え、自分も含めてジャズを「読む」日本の人たち(特に英語嫌いな人たち)に多少の楽しみを提供するくらいのことはできるかもしれないと思って翻訳を始めた。村上春樹氏のような大作家は、自ら創作するためのエネルギーを内部に蓄積するために、敢えて翻訳という制約のある「枠内」作業に定期的に取り組んでいる、という話をどこかで読んだことがある。しかし特殊で、難儀で、時間はやたらとかかるが、金にならないジャズの翻訳書を世に送り出そうとする一般人がこの時代そうはいるはずもなく、その手の仕事は誰かヒマで、モノ好きな人間がやるしかないだろう。そういう「ジャズな人」の楽しみと喜びは、自ら手つかずの分野を探り当て、そこを掘り起こして新たな視点を見つけ、まだいるはずの「ジャズを読む」人と、その楽しみを分かち合うことである。

2017/03/05

ジャズを「読む」# 2

ジャズは「演る」か「聴く」もので、「読む」もんじゃない…としたり顔で言う人も昔いたが、そこはどうなんだろうか?

今や誰でも普通に音楽を聞いて楽しんでいるが、一般的に言えば、そこで普通に聞いて(hear)楽しんで終わる人(大多数)と、「なぜこう楽しいのか?」と、じっと聴いて(listen)ある種の疑問を持つ人(少数)に分かれるように思う。疑問を持った人は、その疑問、すなわち音楽の中身や、演奏する人間に普通は興味を持つ。そこから音楽の分析に走る人もいれば(楽器を「演る」人になる可能性が高い)、背景を知ろうと、演奏する人物やグループを詳しく知ろうと調べたがる人もいる(もっぱら「聴く」人になる)。そして「語る」人もそこから出てくる。音楽について書かれたものを「読む」という行為はおそらくこの両者に共通で、彼らにとってはその過程も音楽の「楽」しみの一部なのだ。

何せ、ジャズを含めて楽器演奏による「音楽」という抽象芸術そのものには本来意味がないのだから、感覚的な快楽に加えて、その意味を自由に(勝手に)想像したり、探ることに楽しみを覚える「聴く」人も当然いる。だからその対象が複雑であれば複雑なほど、分からなければ分からないほど、興味を深め(燃え)、それについて語りたがる人も中には当然いる。ジャズを「演る」人たちも、実は大抵はお喋りで「語る」人たちだということを知ったのは、ジャズを聴き出してかなり経ってからのことだった。マイルス、モンク、コルトレーンなどモダン・ジャズの大物のイメージからすると、ジャズメンはみな寡黙な人たちだと思い込んでいたのだ(この3人は実際に寡黙だったようだ)。よくは分からないが、彼らがよく喋り、「語る」のは、やはり自分の演奏だけでは言い足りないものをどこかで補いたいという潜在的欲求を、表現者として常々感じているからではないか、という気がする。ただ、饒舌な人のジャズはやはり一般に饒舌で、そこはジャズという音楽の本質が良く表れていると思う。

文芸春秋・文庫
(初版2005年)
ところで「歌」というのは、音楽の要素「メロディ」や「リズム」という抽象的なものを「言語」と組み合わせることによって、具体的世界を提示するものだ(人類史的には逆で、たぶん歌が先だったのだろうが)。だがその瞬間、抽象的な音の羅列だったものが、明瞭な「意味」を持つ言語によってある世界を形成し、聞く人はその世界が持つ意味の内部に捉われ、外部へと向かう自由な想像は閉ざされる。しかし、それは何よりも分かりやすいので、音響的快感とともに容易に人の心をつかむことができる。抽象的な音を具体的世界の提示に変換しているからである。宗教音楽から始まり、民俗音楽、ブルース、ロック、ポップス、日本の演歌、歌謡曲、フォーク…歌詞を持つ音楽はすべて同じだ。

ビバップに始まるモダン・ジャズという音楽は、ある意味でこの道筋を逆行したものだと言える。つまり祭りや儀式、教会、ダンス場や、飲み屋など、人が集まるような場所で歌われ、演奏され、共有されていた具体的でわかりやすい歌やメロディを、楽器だけの演奏によってどんどん抽象化し、元々のメロディの背後にハーモニーを加え、それを規則性を持ったコード進行で構造化し、それをさらに代理和音で複雑化し、速度を上げ、全体を即興による「分かりにくい」音符だけの世界に変換し、さらに行き着くところまで抽象化を進めた結果袋小路に陥り、ついには構造を解体してしまった。この過程は一言で言えば、既成のものからの「開放の希求」と「想像する精神」が生んだものと言えるだろう。だが考えてみれば何百年ものクラシック音楽の歴史の道筋も要は同じであり、20世紀にその西洋音楽を片親として生まれたジャズは、たった数十年の間に、この道筋を目まぐるしい時代の変化と共に「高速で」極限まで歩んだということだろう。ジャズがクラシック音楽と大きく異なり、音楽上の重要なアイデンティティの一つと言えるのは、抽象的な即興演奏と言えども、演奏者個人の人格や、個性や、思想が強烈に現れることだ。ラーメン屋で流れるジャズを聞いて、これは誰が、いつ、誰と演奏したレコードだ、とブラインドフォールド・テストのようにオールド・ジャズファンが瞬時に反応してしまうのもそれが理由だ。だから顔の見えない(voiceの聞こえてこない)ジャズ、誰が演奏しているのかわからないジャズは、ジャズ風ではあってもジャズではない。「やさしい、分かりやすいジャズ」であっても、顔がよく見える(voiceがよく聞こえてくる)ジャズはジャズである……という具合に、ジャズを「語る」人もめっきりいなくなってしまった。

新潮社 2014年
粟村政明、植草甚一、油井正一、相倉久人、平岡正明、中上健次のような批評家や文人たちが大いにジャズを語った後、ジャズ喫茶店主の皆さんが語った本が続き、山下洋輔氏のような「演る」人も語り、中山康樹氏のようなライターがマイルスを語り……一時は随分多くのジャズ本が出版されて私もほとんど読んでいたと思う。今は初心者向けジャズ入門書やレコード紹介本、楽理分析を主体としたジャズ教則本とジャズ演奏技法、そしてお馴染みのマイルス本ばかりになった。最近、唯一目立つのは、時代状況を反映して、過去を振り返り日本ジャズ史を「語る」作業だ。もはや古典となったモダン・ジャズの歴史と原点を射程に入れつつ「語った」骨のある近年のジャズ書は、私が知る限り菊地成孔、大谷能生両氏が(二人とも「演る」人だ)書いた一連の著作だけだが、それすらもう10年以上の年月が過ぎてしまった。そしてもう一人は、従来からコンスタントに翻訳によってジャズの世界を伝え、近年もジェフ・ダイヤーの短編小説集「バット・ビューティフル」(2011年)、モンクについてのエッセイや論稿からなる翻訳アンソロジー(2014年)など、相変わらずジャズへの愛情を持ち続けている村上春樹氏である。「読む」人にとっては寂しい限りだが、音楽があまりに身近になってモノと同じく消費され(リスペクトされなくなり)、昔のように音楽書が売れない、ジャズ書などさらに売れない、ジャズを「読む」人も減った(それどころか普通の本も読まなくなった)、だから出版社も青息吐息、という状態では書籍上で語りたくとも語れない、という人も実際は多いのだろう。 (続く)

2017/03/03

ジャズを「読む」# 1

その昔、ジャズには「演(や)る」、「聴く」、「語る」、「読む」という4つの楽しみがあった。

「演る」は、当時はプロのミュージシャンや、ジャズ演奏家を志す限られた人たちだけの特権だったので、一般のジャズファンの楽しみはもっぱら残りの3つだった(当時の「聴く」はもちろんほとんどがLPレコードだ)。あれから半世紀、今やそうした世代が年をとり、ジャズファンの絶対数が減ってゆく中、昔ジャズ喫茶や、飲み屋や、書物という場で繰り広げられた「語る」という光景と楽しみは、もはやほとんど消え去ったようだ。
油井正一 
<ジャズの歴史物語>
初版1972年(これは2009年復刻版)
アルテスパブリッシング
「読む」楽しみも、当時のジャズファンにとっては必須のものだった。あの時代はみなジャズを「勉強」していたので、見たこともない海外のミュージシャン(当時はレコードだけで、実物はもちろんのこと映像を見ることも稀だった)のレコード案内や新譜情報、ジャズの歴史や評論を、ジャズ喫茶の暗がりの中で雑誌や本で読んで知ることは知的、感覚的な興奮を得るために不可欠だった。「権威」の匂いがするクラシック音楽に対して、既成の体制への「反逆」の香りがするジャズは、1970年前後の日本の若者の心に響き、学生運動のBGMにもなった。ジャズの「複雑さ、難しさ」もその魅力の一つであり、よく分からないもの、深遠なものに対する知的憧れも、モダンなカッコ良さとともに一部の若者の心を掴んだ。昔は音楽に限らず美術でも文芸でも、この分からないこと、難しいものに魅力と畏敬を感じる人が多く、ジャズという音楽もその一つだった。その後1960年代の反動として、70年代は社会そのものの空気が「難しい、暗い」ものから「分かりやすい、明るい」ものへと転換し、80年代のバブル騒ぎを経て、90年代のITの出現によってその流れが決定的となった。

21世紀の現代は「分かりやすさ」と「断片(fragment)」の時代だ。あらゆるものが断片化して、全体がどうなっているのかさして思いを巡らせることもなく、クリックという指先のアクション一つであっという間に諸々の断片情報を入手し、ツイッターに代表されるこれも断片的な短い言葉による交信が、毎秒世界中を洪水のように行きかっている。音楽も断片化し、ポップスのみならず、ジャズと言えども1クリックだけでネットから1曲をダウンロードして消費され、ジャズファンの記憶にレコード名として当然のごとく定着していた、アルバム単位の「作品」という概念も、もはやとっくに消え失せたようだ。「分かりにくい」ものは敬遠され、モノも文化も、誰にとってもフレンドリーなものがもてはやされている。みんな物分かりが良くなって、人の言うことをよく聞き、難しいことを言う人は、ヘンな人だと敬遠される。

1954年の論稿から始まる
<相倉久人著作大全上巻>
DU BOOKS
だから現在進行形のジャズの苦境(?)は当然だろう。分かりやすいジャズは、そもそも「いわゆるジャズ」ではないと言う世代もいれば、分かりにくい音楽など音楽ではない、という立場もあるからだ。「ジャズ」というジャンルさえも、もはや無いと言えば無い。その一方で今や溢れる情報で、現代のジャズファンは昔の世代に比べたら圧倒的な量の音楽上の知識を持っている。身近になったジャズを「聴く」代わりに自ら「演る」人たちも増え、ジャズの演奏技術を解説するジャズ教則本が巷には溢れている。ラーメン屋でも牛丼屋でもジャズがBGMで流れている時代だ。そのBGMが聞こえた途端、誰が演奏している、どのレコードだと、瞬時に頭が反応するのがオールド・ジャズファンである。

1970年代でも、ジャズファンというのは数百人に1人くらいの感覚だったので、今となってはたぶん千人に1人くらいではなかろうか?(絶滅危惧種に近い)自分も含めて彼ら「聴く」ジャズファンというのは、「演る」ジャズ・ミュージシャンと思考も、嗜好も、価値観も近いところにいる人たちではないかと思う。金や地位といった普通の人が求めるものに拘泥せずに、自分が信じることに第一の価値を置く、という人間的にはある意味変わり者が多い。だいたい経験的に言って、真っ当な人(世間で言う)はジャズなど聞かない。そういう人は、もっと大衆的で、皆が好む無難なものを選ぶ。複雑そうなもの、よく分からないもの、おかしなもの、変なものに惹かれる人がジャズを好むのであり、存在そのものがどこかおかしな人もそうだ(タモリ氏の言う「ジャズな人」)。だから、そういう人が千人に1人というのは、何となく納得がいく話ではある。そしてジャズを「読む」人というのは、さらにそういう人たちの中の一部だろう。 (続く)