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2024/03/10

『不適切にもほどがある!』考

宮藤官九郎脚本のTBS金曜ドラマ「不適切にもほどがある!」を毎週楽しく見ている。世代や感性によって感想は様々だろうが、私は「タイムトラベルもの」が昔から好きなので(2020/05/15ブログ記事ご参照)、タイムスリップというクドカンらしいヒネリを入れたこの作品は、懐かしくて、しかも笑えて、たぶん(これから)泣ける傑作ドラマになると予想している。同じTBSの傑作タイムスリップ医療ドラマ『仁』は江戸時代へのタイムスリップで(崖落ち)、百年単位の移動だったが、『不適切…』は、昭和の1986年から令和の2024年へと、40年たらずの近未来(近過去)タイムスリップという設定だ。いわばつい最近のことなのだが、この数十年の世の中の変化の度合いは、20世紀までの百年単位の変化に匹敵する、という見方もできる。しかも、その両時代を複数の登場人物が、タイムマシン(乗り合いバス)で行ったり来たりする、という設定も面白い。毎回ミュージカル仕立ての場面も登場して、昭和と令和の対比で社会の変化と風潮を、辛辣さを加減して上手に皮肉っている。小ネタ、小ギャグが散りばめられているので、年寄りは一回見ただけではよく分からないのが問題だが(私は2回見ている)、とにかく見ていて面白い。笑えるそうした風刺的側面につい目が向きがちだが、よく見ていると、その底に流れている、歴史は変えられない、親子・親族のつながりは絶対に変えようがない(歴史のパラドックス)、現在は歴史の累積の「結果」として存在しているというクールな歴史認識と思想的設定がある。きっとそれが今後、物語に徐々に深い意味を与えてゆくのだろう。

ドラマ中、タバコをどこでも平気で吸いまくる阿部サダヲが典型だが、「ついこの間までは」、ああしてみんな普通に吸っていたのだ(電車でも、バスでも、会社でも、道でも…)。この間の大きな文化的断層は言うまでもなく「バブルの終焉」にある。日本と日本人は、昭和の終わった1990年頃を境に完全に変わった。敗戦の教訓として、国が小さく資源がないのだから、真面目に勉強して知識を高め、勤勉に働くことだけが、日本という国が未来に生き残って行くための唯一の方法なのだ、と戦後生まれの我々は子供時代にイヤというほど刷り込まれた。そのおかげもあって、80年代まではみんな真面目に働いていたので国も順調に行っていたが、バブルに突入したあたりからみんながカネに目がくらみ、日本人が持っていた「真面目で勤勉」という最高の民族的モラルであり資質が失われて行き、90年代以降のデジタル時代に乗り遅れてからは、同時に自信も完全に失ってしまった。「あれから30年…」である。

振り返ると、この30年間、やっと一つ新しいデジタルスキルを覚えると、すぐさま次の情報やスキルが登場して、また次の課題を学習し覚えなければならない。一方で、やれコンプラだ、パワハラだ、モラハラだ、セクハラだ、カスハラだ、LGBTだ……と、何千年、何百年もの間、ほとんど「ローカル・ルール」一本でやってきた狭い島国暮らしの民族には簡単には馴染めない、西洋の新概念と社会的規制が次から次へと登場して世の中を作り変えてゆく。それをまた、たいして咀嚼も吟味もしないで、次から次へと鵜呑みにしていく日本人(外圧に弱いのも日本の伝統だ)。大方の高齢者などデジタル経験も教育も限られているので、すぐに頭を切り換えて理解も吸収もできるものではない。ぐずぐずもたもたしていると、そんなことも知らないのか…とあちこちから怒られる。やっとスマホの使い方を覚えると、一方で、それを悪用する詐欺師が手ぐすね引いて年寄りのカモを狙い撃ちしてくる。結果としてなんだかいつも焦って、徒労感ばかりが募り、いつまで経っても達成感が得られない――という目に見えないストレスが現代の日本全体を覆っているように思う。特に人生の終盤をゆったりと過ごしたいと思っている人たちにとって、この「変化の強要」は暴力的だとすら感じる。最近やたらと「キレる老人」が多いのは、この絶え間ない、目に見えない圧迫感によるストレスが原因の一つだと私は思っている。

なぜそんなに「ことを急ぐ」のか、なぜ我々はそんなに急いで変化して行かなければならないのか――よく考えると、これは実に不思議なことなのだ。もっとゆったりと、のんびりと生きたらいいではないか。「こんなに小忙しい世界に誰がした?」という問への答えは、言うまでもなく「アメリカ」だ。デジタル革命を牽引してきたアメリカは、今から約30年前にコンピュータとインターネットというITを先導して世界にデジタル時代を到来させ、次にはそれをグローバルに展開して同じ土俵に世界中の国々を否応なく巻き込み、のんびりしていた無知で、準備の遅れた、無防備な他国民(我々を含む)をその競争世界に晒し、先行者利潤を得ながら世界を席巻し、自分たちの規範、ルールを徐々に世界に浸透させつつ、そのまま30年後の今も世界中を振り回している(日本はもちろんその競争の敗者側だ)。そして今度は、ChatGPTに代表される生成AIである。便利な面も当然あるだろうし、ビジネスチャンスとばかりに歓迎している人たちももちろんいるだろうが、これで、またぞろ経験したことのない新たな世界が現れ、それに直面して、否応なく学習し、解決しなければばならない事案(犯罪を含む)も増え、社会的ストレスもさらに高まることだろう。

しかし、だからと言って、私はアメリカやアメリカ人に対して何の恨みも偏見も持っていない。「競争と変化(=他者との差別化)」こそが、多民族国家アメリカが国家として成立した時から内包してきた本質であり、それが「欲望」を刺激する現代資本主義発展の原動力でもあるからだ。20世紀後半に相対的に力が落ちたアメリカが、デジタル技術によって21世紀になって世界の経済的主導権を再び握ることで、米国的世界観をグローバル規模で展開している(押し付けている)わけで、我々はもうドラマのように、過去に引き返したり、元の世界には戻れないのだ。それについて行かないと……という強迫観念が世界中を覆っているのが現実である。私の好きなジャズという素晴らしい音楽を20世紀に生んだのもアメリカだし、21世紀の、この追い立てられるような落ち着きのない世界を生んだのもアメリカだ。しかし19世紀の帝国主義、専制政治体制へと逆行し、それをさらに強化しつつあるかのように見える独裁国家群に比べたら、アメリカはまだ相対的にずっとましな政治体制を持った国家なのだ。だからアメリカを思う私の心境はいつでも複雑だ。

それにしても、現代の「ものごと」の移ろいのスピードは、高齢者(年寄り)にはもうついて行けないレベルに入っているように思える。「昔からそういうものだ」と言えばそうなのだが、21世紀になってから加速度的に変化を早め、めまぐるしく、膨大な情報が溢れ返るこのデジタル世界は、もう過去の世界で学び、生きて来た人間の学習能力と情報吸収能力の限界を完全に超えつつある。今や映像も、音楽も、文字も、個人にとって「時間あたりの情報量」が多すぎて、きちんと消化できない――つまり吸収もできない。最近はコスパのみならず、「タイパ(=time performance? もちろん和製英語) がいい」とか言って喜んでいる連中もいるが、なんでも早けりゃいい、効率が良ければいいというものでもないだろう。「質」の問題もそうで、たとえばの話、鳥の目を持たない人間に4Kや8Kの画像が本当に必要なのか? アナログ音声情報で十分以上に事足りてきた人間に、わざわざデジタル化したハイレゾ音源が必要なのか? 聴きたくもない(実際に聴けない)何万曲もの楽曲を「配信でいつでも聴ける」ことが、そんなに有難いか? 誰もが四六時中、誰かとつながっていることにそんなに意味があるのか? 世界中を駆け巡るネットやSNS上の膨大な情報が、普通に生きている市井の人間に必要なのか?――じっくりと時間をかけて、一つのものやことを吟味したり、鑑賞するという行為はもはや無きに等しい。まるでゲームのように、ただひたすら目の前を通り過ぎて行く膨大な量の情報に反射的に反応し、それらを消費し、逐一「イイネ」と言うか、気の利いた短い言葉を刹那的にひねり出して、多数の「イイネ」でいかに「承認」してもらうかにみんながやっきとなり、それだけか自己存在証明であるかのようだ。しかも、そうしてやり取りする情報や言葉の「賞味期限(ライフ)」は限りなく短い――それが現代人の鑑賞とコミュニケーションなのか…と、次から次へと文句が出て来る。『不適切』は、こうして我々が日々漠然と感じている不満や問題を、様々な視点で、面白可笑しく例示しているところが視聴者に受けているいちばんの理由だろう。

ところでドラマ『仁』もそうだったが、『不適切』のようなタイムスリップの物語には、SF的な面白さがあるだけでなく、今は目の前に存在していても、まもなくすると確実に相手は消えて二度と会えなくなる、という「限られた時間」ゆえの切なさが常に背後に流れている。それがなんともいえないやるせなさを生み出す。相手が愛する人間であればあるほど、そうした思いは深まる。それはつまり、相手が目の前にいる「今その時」こそを大事にしろ、という時空を超えた普遍的なメッセージなのだ。タイムスリップ作品とは違うが、山田太一原作、大林宜彦監督の映画『異人たちとの夏』(1988)では、子供時代に交通事故で死んだ両親が、幽霊となって現代の浅草に現れ、両親を亡くしてさびしい幼年時代を過ごした息子と、短くも、懐かしく温かい再会の時を過ごす――という切ないプロットが話の中心だった。『不適切』では、小川市郎(阿部サダヲ)と娘の純子(河合優実)、純子の娘・犬嶋渚(仲里依紗)=市郎の孫、とつながる親族の深い愛情と絆が、一見乱暴な言葉やドライな笑いの陰でずっと見え隠れしている。近未来では阪神淡路大震災で亡くなるとわかった運命の市郎・純子の親子の関係が、今後どう展開してゆくのか……。思い切り泣かされるのか、どんでん返しの笑いで決着させるのか、クドカンの腕の見せ所だろう。このドラマは、阿部サダヲの時空を疾走する演技はもちろんだが、河合優実、仲里依紗、吉田羊という新旧3人の女優陣の、父親、祖父、子供、ボーイフレンドなど、男性陣に対する「永遠の日本的母性」を感じさせる優しい演技が胸に沁みる。それが単なる欧米流の男女平等の視点からの批判に終わらず、ドラマ全体にどこか温かみと、深みを与えている大きな要因だろう。これはクドカンの理想の日本女性像を投影しているのかもしれない。

昭和を代表する「岩手の」政治家、オザワイチロウを思い起させる主人公・小川市郎、スケバン・ミハラジュンコを彷彿とさせる純子や、マッチならぬムッチ先輩、たぶん向坂逸郎(懐かしのマル経学者)がモチーフ(?)の女性社会学者向坂(サキサカ)サカエなど、笑える凝ったキャラ設定が多すぎて、年寄りには覚えきれないくらいだ。「あまちゃん」の岩手の海、阪神淡路で亡くなる設定の小川市郎父娘など、クドカンの震災への思いと追悼の心情は強い。だが、それにしても、このドラマはせっかく日本女性の素晴らしさや、そうした岩手ネタでも温かく盛り上がれるところだったのに、よりによってその岩手選挙区の某女性議員の、歌舞伎町から国会への不倫ベンツ通勤の騒ぎは、あまりと言えばあまりのタイミングの良さ(悪さ?)で、「不適切にもほどがある!」。